tag:blogger.com,1999:blog-24121823040434044172024-02-21T06:24:21.336-08:00Toronto Stew -- トロントに暮らす、考えるすでに発表した記事を集めたもの。政治的なこと、食べ物のこと、歴史について・・・篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.comBlogger179125tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-48010689559219684982013-06-13T19:51:00.002-07:002013-06-13T19:55:28.784-07:00日本は世界一の人権先進国 by上田人権大使<div>
<br /></div>
このビデオには笑わされた。<br />
<div>
<span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.296875); font-family: Helvetica; font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;"><a href="http://m.youtube.com/#/watch?v=oKTLY702Pyw&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DoKTLY702Pyw">http://m.youtube.com/#/watch?v=oKTLY702Pyw&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DoKTLY702Pyw</a></span></div>
<div>
<span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.296875); font-family: Helvetica; font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;"><br /></span></div>
<div>
<span style="font-family: Helvetica;"><span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;">Japan is one of the most advaned countries ・・・あの英語力なのであとは何を言っているかよくわからない。</span></span></div>
<div>
<span style="font-family: Helvetica;"><span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;">もっとも司法制度に関して進んだ国、とでも言っているんだろう。</span></span></div>
<div>
<span style="font-family: Helvetica;"><span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;">日本に暮らすマイノリティにはそうは思われない、そのへんが外交官のあなたにはわからないんだろう。</span></span></div>
<div>
<span style="font-family: Helvetica;"><span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;"><br /></span></span></div>
<div>
<span style="font-family: Helvetica;"><span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;"><br /></span></span></div>
<div>
<span style="-webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.296875); font-family: Helvetica; font-size: 15px; line-height: 19px; white-space: nowrap;"><br /></span></div>
篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-75334222377132453862013-05-14T18:09:00.000-07:002013-05-14T18:09:10.179-07:00赤ちゃんは男の子! サーカムシジョン(割礼)はどうする?<span style="color: #38761d;">この記事は以下のウェブサイトに寄稿しています。気鋭ライターたちによる興味深い記事がたくさん掲載されていますのでぜひご一読ください!</span><br />
<a href="http://thegroupofeight.com/">http://thegroupofeight.com/</a><br />
<br />
妊娠中の定期検診で、産科医から「ところで、サーカムシジョンはどうしますか?」と訊かれたときには、「ここは日本じゃないのね!」と実感した。夫が「必要ありません」と答えると、医師は「もちろんですよね」と言い、この話はさらりと流れた。<br />
<br />
<br />
<br />
日本人の私にとって、サーカムシジョンという習慣は何かとても不可解で奇妙なものである。ただ、カナダで妊娠すると避けては通れない話だし、妊婦向け雑誌などでこの習慣について読んだり、妊婦同士で話をしたが、いまもって不可解な気持ちが残っているので、少しここに書いておきたい。<br />
<br />
<br />
<br />
1970年代にモントリオールで生まれた夫は、生後間もなくサーカムシジョン(circumcision、日本では「割礼」と呼ばれる。儀式的、宗教的理由から男子の陰茎包皮を切除する手術。女子に対するサーカムシジョンもあるが、ここでは男子に限って議論する)を受けている。当時のモントリオールでは、特定の宗教を信仰していなくても(注1)男の子の赤ちゃんはこの手術を受けるのが当然という風潮があったようで、親が特別に要求しなければ男の子はサーカムシジョンを受けさせられていたと言われる。なので、少し大きくなった男の子の間では、サーカムシジョンを受けていないと自分がヘンなんじゃないかと思ったようである。<br />
<span style="color: #38761d; font-size: x-small;">(注1)世界では男性人口の1/3がサーカムシジョンを受けている。大半がイスラム教圏、イスラエル、アメリカ、東南アジア、アフリカで、うち70%がイスラム教徒。</span><br />
<br />
夫はこの手術を受けさせられたことに対し、今もってある種のわだかまりがあるようで、私が妊娠中にサーカムシジョンに触れたときには「医学的に利益があるとは言えないし、不必要に尋常でない痛みを伴なう手術を生まれたばかりの赤ちゃんにさせるべきではない」と、とても強い意見だった。こうして自分の体を、生まれたままの形から変えられたことに対して違和感を覚えている人もいるようで、彼らが親になって子どもに「受けさせない」選択をする、というのもよく聞いた話である。<br />
<br />
北米でサーカムシジョン花盛りの当時(1970年代)、多くの親は宗教的理由ではなく、HIVをはじめとする性病や細菌感染に予防効果がある、といった理由で生後まもなくの赤ちゃんに受けさせていた。ただし、ここ最近では、HIVが蔓延している地域を除いては「医学的利益はわずか」という見方が大勢で(ちなみにWHOはHIV感染率の高いアフリカの地域ではサーカムシジョンが感染防止に役立つとして促進の立場を取っている)、それゆえにカナダではこの手術はもはや保険でカバーされていない。先進国のなかでは最もサーカムシジョン率の高かったアメリカやカナダではここ最近減少傾向にあり、約30%と推定されている。2012年には、アメリカ小児科学会(AAP, American Academy of Pediatrics)もサーカムシジョンはリスクを上回る利益はあるに違いないが、その利益はわずかなので概して推奨はしないという方向で声明を出している(<a href="http://www.aap.org/en-us/about-the-aap/aap-press-room/pages/Newborn-Male-Circumcision.aspx?nfstatus=401&nftoken=00000000-0000-0000-0000-000000000000&nfstatusdescription=ERROR%3a+No+local+token">www.aap.org/en-us/about-the-aap/aap-press-room/pages/Newborn-Male-Circumcision.aspx?nfstatus=401&nftoken=00000000-0000-0000-0000-000000000000&nfstatusdescription=ERROR%3a+No+local+token</a>)。<br />
<br />
<br /><br />
一方、倫理面での問題もある。医療上切迫しているわけでもないのに、本人の同意を得ずになされる手術に対して批判的な見方もあり、こうした立場をとる人たちはサーカムシジョンをmutilation(切断、損傷)と呼ぶ。トロントで息子と同じくらいの子どもを持つ親にこの話題を振ったときには「そんなこと子どもにするなんてどうかしてる!」と憤る人が多くいた一方、「それはプライベートな選択」と議論を好まなかった親も結構いた。いずれにせよ、カナダでは医学的利益がほとんどないとされた以上、以前はほとんど考えもしないで行われていたサーカムシジョンに対し、すべきかどうか決めかねている親が相当数いる、というのが現実だろう。<br />
<br />
<br /><br />
健康な皮膚の一部を切り取るわけだから、この手術は当然激痛を伴ない、赤ちゃんはあらん限りの声をあげて泣き叫ぶ。赤ちゃんだからといって痛みを感じないわけではない。そうしたビデオを見てすぐに悩みを振り切った知人もいる。<br />
<br /><br />
<br />
政治的に正しい物言いをすれば「親のプライベートな選択」ということになるだろうが、医学的利益がそれほどないとなれば、それでも手術をするのは宗教的理由か、単に「見た目」にかかわる理由だろう。前者に関しては何とも言えないが、「見た目」に関しては「子どもの権利」という観点からすると問題であると、個人的には思う。<br />
<br />
<br />
参考)<br />
<a href="http://www.circumcision.org/">http://www.circumcision.org/</a>(サーカムシジョンには反対の立場。Circumcision Trauma 10 out of 10 Babiesというビデオも掲載)篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-66376447958926990112013-02-08T15:34:00.001-08:002013-02-08T15:34:26.351-08:00児童公園で煙草を吸うなんて・・・<br />
トロントに比べると、京都市内は遊戯具が備わっている公園(児童公園)の数がずいぶんと少ない(田舎に行けば行くほどもっと少なくなる)。 ブランコがひとつ、鉄棒がひとつ、子どもが走り回るスペースもない、というような小さな公園を含めても少ないと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
子どもたちは、そんな小さなスペースでも元気よく伸び伸びと遊んでいるのだが、私にはずっと気になっていることがある。それは、そうした公園に置かれているベンチで普通は誰かが煙草やパイプを吸っていること。<br />
<br />
<br />
<br />
私が子どもとよく行くのは、京都府立図書館の前の岡崎公園なのだけれど、そこは(たぶん)図書館前とあって煙草を吸っている人が多い。喫煙のできる場所が限られている喫煙者にとっては、公園というスペースは煙草を吸うための場所なのかもしれないが、子どもを遊ばせている親にとっては迷惑はなはだしい。子どもは遊びに熱中しているので文句を言うようなことはないが、受動喫煙second hand smokeの害をカナダであれほど聞いてきた私としては気になって仕方ない。<br />
<br />
<br />
<br />
以前に比べて禁煙スペースが増えてきたのは喜ばしいことだが、喫茶店やレストランなどは分煙していても、結局のところ煙が流れてくることもしょっちゅうある。先日、イノダで数時間いたら、禁煙席に座っていたにもかかわらず、最後には頭がクラクラしてきたし、コートにもしっかり煙草臭が染み付いてしまっていた。<br />
<br />
<br />
<br />
ついでに言うと、電車で隣に座った人のプンプンするヤニ臭によって気分が悪くなることもある。煙草の匂いで気分が悪くなるのは、なにも私だけではない。私も実際、近くにそういう煙草アレルギーを持った人が何人もいる。煙草を吸っている人に対してまったく敵意はないが、煙草に対するアレルギーを持ち、子どもを持つ身としては煙草の煙ほどうっとうしいものはない。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-76886041286133661842013-02-02T16:04:00.000-08:002013-02-02T16:04:11.590-08:00失望していた私を精神的に救ってくれた本『人権の政治思想』 鷲見誠一著夫にも言ったのだが、昨年の秋くらいから、そして12月の総選挙以降、軽いディプレッションになっていたように思う。ディプレッション、というより「失望感」にかな・・・。<br />
<br /><br />
ちょうど1年前の今日、私たち家族は日本にやってきた。<br />
<br />
日本で生まれ育ったとはいえ、12年間をカナダで過ごして帰ってきた私にとって日本への再帰文化適応は大変だった(し、今も大変)。年末にふと気付いたのだが、きっとこれも私のマイルドな日本に対する「失望感」が原因だったと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
その「失望感」を晴らしてくれたのが、表題の本だった。この本は「人権」という概念が西洋でどのようにして生まれ、どのように発展してきたのか(そして、それは当然、民主主義という政治体制の発展と大いに関係がある)、それを日本ではどう受け入れてきたのか、という政治思想史を扱った本であるのだが、私にとっては「そうなんだ、今の日本に失望する必要はないんだ」と気付かせてくれた大切な本でもある。<br />
<br />
<br />
<br />
どうして日本の民主主義は薄っぺらいんだろう。どうして太平洋戦争中の日本兵のPoWに対する扱いはひどかったんだろう。どうして憲法の精神を蹂躙するようなことを政治家が平気でやれるのだろう。今までこうした疑問にぶちあたるたびに、それが「人権」と「民主主義」、「権力」という政治学では重要な概念と関連があるとは気付いてはいたが、こうした疑問は西洋の政治思想史を勉強すると理解しやすいのだ、ということに今更ながらに気付いた。というか、私もカナダに暮らしてカナダ政治を日々観察しているなかで感じていた漠としていた考えや、日本政治に対する考えなどがやっと理論的に結びついて、点が線になったという感じを覚えた。<br />
<br />
<br />
<br />
日本の政治に「人権」や「尊厳」、「権力の正当性」という概念が根付くまでにはこれから長い年月がかかるのだろう。その一方で「価値の多様化」や「グローバライゼーション」はどんどん進んでいき、その流れのなかで日本政治の歴史は当然ながら日本独自の展開をしていくことになる。その展開に大きな鍵をにぎるのはとりもなおさず市民である、と私も強く感じるが、ひとつ大きな問題だと思うのは、日本の知識層、ジャーナリストたちのクオリティである。<br />
<br />
<br />
<br />
はっきり言って、私たち一般市民は日々、仕事として歴史研究や政治分析をしているわけではないので、厳密な意味ではこうした分野のことは「まったくの主観的意見」としてしか語り得ない。たとえば、領土問題に対して怒っているその辺のおじちゃんに歴史的経緯に裏付けられた説明を問いただしてみても、そんなことはたいてい答えられない。いったい、こうしたおじちゃんやおばちゃんの意見がどこから来ているかというと、新聞やテレビ、雑誌に書かれたことや、そこで言われたことをそれぞれがそれぞれの感情やこれまでの経験に基づいて判断した意見なのである。ということは、専門書籍からバラエティ番組まで、さまざまなメディアで流される情報のクオリティが非常に大切だということだ。<br />
<br />
<br />
<br />
反論もあるかもしれないが、私には日本のメディアに比べればカナダの大手メディアは少なくともある問題に対する両極端の意見をもつ専門家の書いたものを載せようとしているように見受けられる。こうした多様な意見を市民は吟味したうえで自らの感情や経験に照らし合わせて、最も自分で納得がいく、という意見を選び取る。このプロセスにおける知識人、ジャーナリストの役割が日本に比べてはるかに大きいと思う。日本で市民が自らの権利を行使し、自らの義務を果たし、本当の意味での「市民」として成長するには、知識人やジャーナリストたちにもっとしっかり働いてもらわなければならない。<br />
<br />
<br />
<br />
こういう本が著者が言うように「通勤電車のなかで読まれる」ような状況になればいいのに、と心より思う。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-74494059772475735572013-01-19T15:34:00.003-08:002013-01-19T15:34:38.710-08:00「原発事故が起こりうる」という想定先日の京都新聞は、舞鶴市のある中学校で地震と原発事故が同時に起こったら、という仮定で避難訓練が行われたことを報じていた。<br />
京都新聞より以下、記事の一部を引用<br />
<br />
<blockquote class="tr_bq">
「舞鶴市大波下の若浦中では、地震と原発事故の複合災害を想定した訓練を初めて実施。生徒は内部被ばくを防ぐマスクを着け、コンクリートの校舎などに屋内避難した。<br />
<br />
高浜原発(福井県)の30キロ圏内にほぼ全域が含まれる同市は本年度、原発事故訓練を小中学校に義務づけた。<br />
<br />
舞鶴湾沿いの同中では大地震発生を受け、津波から逃れるために約160人の生徒が標高約40メートルの校舎3階に避難した。原発事故の情報が入ると、教員が医療用マスクを配り、バスでの避難を想定して体育館に移動。入口では放射性物質を取り除くため、手で服を払うように呼び掛けた。」</blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
記事全文は以下のリンクで<br /><a href="http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20130118000056">http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20130118000056</a></blockquote>
<br />福島原発事故後、「原発事故が起こりうる」という意識がしっかり根付いてきた、ということは朗報であるが、それを承知のうえで「原発を稼働する」というあたりがやはり私には感覚的に解せない。<br />
子どもたちは一体どういう気持ちでこの訓練を受けたのだろうか。<br />
こうした訓練が学校で行われている地区では、親はどういう気持ちで毎日、子どもを学校に送りだしているのだろう。<br />
市民として大切な子どもたちに不必要な不安を与える社会を許容していいとは到底思われない。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-34144875567250305372013-01-12T14:41:00.000-08:002013-01-12T14:41:06.316-08:00ゴキブリ出現と今の私の心情大半の人がそうだと思うが、私の人生でもゴキブリに好意を抱いたことなんか今までなかった。<br />
それが、おとといは違ったのだ。<br />
学校のトイレ掃除をしていたときのこと。<br />
生徒が「キャ~!!」っと言うので行って見たら、ゴキブリがタイルの上をヨロヨロと歩いている。<br />
そのゴキブリの姿を見たとき、まるで自分のようだ、と思った。<br />
時ならぬ時に、奇妙な場所に出現し、周りに「キャ~!!」っと叫ばれる。<br />
それって今の私の心情に似てはいないか?<br />
<br />
思わず涙してしまった。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-43819422665583483822013-01-11T14:40:00.000-08:002013-01-12T14:26:59.129-08:00日本のカワイイは海外でもカワイイのか?<span style="color: #38761d;">以下の文章は私もメンバーになっているトロント・ベースのthe group of eightのウェブサイトに寄稿したものです。トロント在住の気鋭日本人ライターによる興味深い文章がたくさん掲載されていますので、ぜひご一読ください!</span><br />
<a href="http://thegroupofeight.com/">http://thegroupofeight.com/</a><br />
<br />
まず断っておくが、私はこの文章も、これまで書いた文章もすべて「日本人として」書いてはいないし、物心ついたときから自分が日本に住む思想的マイノリティであることを承知のうえで書いてきた。この文章もマイノリティ的立場から書かれた文章であるということを最初に断っておきたい。<br />
<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="clear: left; cssfloat: left; float: left; margin-bottom: 1em; text-align: left;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgohi_i14DS3qx5I4cLILvXM2kPI8Syq8By_LBWh__LhDxhDTQNnH0T25TVCulccxznXFn-kR38ADMg1j7SRL8NmV-5PU08uR3swAUyVY_ZeW6qEqprgOosp30v-KNCp1S4pxCpyLl5qvBv/s1600/130111_173927.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; cssfloat: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgohi_i14DS3qx5I4cLILvXM2kPI8Syq8By_LBWh__LhDxhDTQNnH0T25TVCulccxznXFn-kR38ADMg1j7SRL8NmV-5PU08uR3swAUyVY_ZeW6qEqprgOosp30v-KNCp1S4pxCpyLl5qvBv/s320/130111_173927.jpg" width="240" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;"></td></tr>
</tbody></table>
<br />
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhn7WcJ7N9d48QSVZ4UaqS0HlrrwaejYnWGZWtKelfLui7pZ9HDoYsgRX9kl8WoIgILq5ow5fEKF_YHJ9MhgJD87RRfJBHDmG4NA9gzGgNpfK0RuAQpC5MSyS6vx_f78ZoPH5RDx7ItJRUb/s1600/130111_173939.jpg" imageanchor="1" style="clear: right; cssfloat: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhn7WcJ7N9d48QSVZ4UaqS0HlrrwaejYnWGZWtKelfLui7pZ9HDoYsgRX9kl8WoIgILq5ow5fEKF_YHJ9MhgJD87RRfJBHDmG4NA9gzGgNpfK0RuAQpC5MSyS6vx_f78ZoPH5RDx7ItJRUb/s320/130111_173939.jpg" width="240" /></a> <br />
<div style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-right: medium none; border-top: medium none;">
<br /></div>
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
先日、ある国語の先生から「たとえば、カナダなんかでも日本のカワイイはやはりカワイイって思われるんでしょうかね」と聞かれた。そのときの教材が日本のカワイイ文化についてのものだということで、国語教育に熱心なこの先生は(ちょっとズレた感覚の)私のところに話をしに来たのだった。それを発端にいろいろと話をしておもしろかったのだが、ひとつ驚いたことは、概して日本人が「日本のカワイイ文化は海外でも十分、通用する」「日本のカワイイ文化は今や世界を圧巻している」と思っていること。<br />
<br />
<br />
「え~っ!!」というのが私の反応で、その理由のひとつはトロントで日本のカワイイ文化がよく知られていたとか(ジャパン・ファウンデーションの中や、一部のオタク系、コスプレ系サークルは別として)、好感を持たれていたと感じたことはないし、もうひとつは私自身がカワイイ文化を「カワイイ」と思っていないからである。はっきり言って、日本のカワイイを「カワイイ」と思うのは精神年齢の低い人なんじゃないだろうか、というのが私個人の感覚である。<br />
<br />
<br />
<br />
日々利用しているある私鉄が、夏ごろから電車の外側を女子高生が主役のアニメでペイントし、車内の広告もほとんどすべてをその特定のアニメとの「コラボ」を始めたときには驚いた。子どもなら喜ぶかもしれないが、大人の自分が通勤で、おしりが出るかどうかのスレスレ・ミニスカートをはき、金髪でパッチリお目々の女子高生たちの描かれた電車に乗らされる、ということが私には不快である。一方では、普通のおじさんがその電車の写真を撮っている風景などは何度も見たし、こんなことでグランピーになる私はごくごく少数派なんだということも承知している。でも、こういうことは日本でだから可能なんだという気もする。たとえば、トロントの地下鉄でこんなセクシストでロリコン趣味なアニメ電車など走らせようものなら、市民のすざまじい反対に遭うんではないか。<br />
<br />
<br />
<br />
この現象は、日本の社会のある価値観を反映していると思われる。たとえば、よく知られているように、欧米式の育児では、赤ちゃんは赤ちゃんのときから自分の部屋で寝かされる。また、食事のときなどには子どもは大人の会話を邪魔しないように教えられる。あるいは、いつも子どもと一緒にどこへでも行くわけでなく、ときには子どもはベビーシッターに預けられ、カップルだけでディナーやコンサートに行くこともある。こう聞くと、多くの日本人は「大人中心で子どもがかわいそう」なんて思ってしまうが、欧米では「大人の領域=社会/ society」と「子どもの領域」は違うという前提ですべて納得されている。<br />
<br />
<br />
<br />
西欧の論理では、子どもというのは「不完全なもの」で、子ども時代は「完全」である大人になるためのトレーニング期間であり、その間、大人の仕事は子どもが「完全」になるよう指導やサポートを与えることである。なので、子どもができないこと、許されないことがあっても当然だし、「大人の世界」と「子どもの世界」にはかなりはっきりとした線引きがなされている。こうした考え方は、ひとつにはユダヤ・キリスト教的な西欧社会の二元論的思想に基づいていると私は思っている。<br />
<br />
<br />
<br />
一方、日本社会ではこの線引きが曖昧なので「子どもの世界」の領域のものが「大人の世界」に入ってくることがよくあるし、そういう社会で小さいころから育てば、大人になってマンガを読んだり、主婦がキャラクター・グッズを集めたりしていても、あるいはそういう人が周りにいても、案外普通に受け入れられるのだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
話を「かわいい」に戻そう。先の「欧米では日本人がカワイイと思うものをカワイイと思うか」という問いだが、さて、答えとしては「個人的な差があるので何ともいえない」ということになる。欧米にも日本のアニメ・ファンもいるし、グローバライゼーションと消費主義の影響で子どもたちもこれらを日常的に目にしている。公害が国境を越えるのと同様、カワイイ文化も世界中に波及しているのは事実である。<br />
<br />
<br />
<br />
しかし、だからといって、どの国でも日本のように「子ども領域のカワイイ」が「大人の世界」である「社会/society」にも入ってきている、と考えるのは間違いではないか。このふたつの世界には日本以上に強固な壁が存在する、と私には感じられる。そう考えると、どうして女子高生アニメ電車が日本では可能で(可能どころか、喜ばれている)、たとえば欧米ではありえないか、ということが理解できるだろうと思う。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-11402670824090161672012-10-13T16:42:00.000-07:002012-10-13T16:42:28.859-07:00日本語の会話が窮屈に感じるとき日本語と英語とどちらが楽にしゃべれるかと聞かれたら、もちろん日本語に決まっている。私にとっては日本語は母国語だから、細部にわたる説明、微妙な言い回しなども日本語の方が断然難なくできる。<br />
<br />
<br />
<br />
それは明らかであるのに、日本語より英語をしゃべっているときの方が楽だなと感じることがあることに気付いて自分でもどういうわけなのか分からない、ということが帰国当時はよくあった。海外に長く住んでいたため、敬語の使い方も帰国当初はかなり忘れていたと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
最近、これについてはこう思うようになった。日本語だと常に話している相手との関係性が言葉のなかに現れる。「現れる」というか、日本語ではそれが常に「明確にされなければならない」。たとえば、仕事上、目上の人に対して為口で話すことはありえないし、年上の人に対してもある程度はそう言うことができる。丁寧語や敬語といった形で繰り返し、繰り返し、こうして現れる「関係性」はそのうち無意識のなかに入ってきて、自分と相手の「ステイタス」、その差のようなものは動かせない事実として絶対的になる。それが私には窮屈に感じられる。<br />
<br />
<br />
<br />
これが英語ならそういうことはない。職場においてもある程度は敬語らしき「丁寧語」はあるし、書き言葉ではきちんとした言葉遣いもある(多分、いわゆるBusiness Englishというのが、英語の敬語にあたるのだと思う)。でも、こうした言葉遣いによって相手とのランクやその差異を意識させられることは滅多にない。言葉上は対等なのだ。だから、英語で仕事をしていると、そんなところに気を遣う必要がないので、言いたいことが案外と簡単に言えて、とても楽なのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
多分、そういう意味で私は職場でも外国人と話をする方が楽だと感じているのに違いない。私にとってはいつまでたっても母国語のように自由自在には操れない英語が、とりわけ仕事上は話していると楽だというのは何とも滑稽な話ではあるが、実際にそう感じるのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
言語は文化に根ざしたものなのとつくづく感じる。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-81555332155355558122012-09-14T15:18:00.001-07:002012-09-14T15:28:06.059-07:00長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁<span style="color: #b45f06;">The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。</span><br />
<span style="color: #b45f06;"><br /></span>
<span style="color: #b45f06;">タイトル「長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁」<br />以下のサイトでも読めます(こちらは写真もあります)。</span><br />
<a href="http://thegroupofeight.com/?p=1741"><span style="color: #b45f06;">http://thegroupofeight.com/?p=1741</span></a><br />
<br />
<br />
日本にいたときは何とも思っていなかったのに、12年をカナダで過ごして帰ってくると違和感を感じる、そういう状況に日々遭遇する。違和感を感じるもののひとつ、paternalism(温情主義)と社会的役割分担に関して思うところを書いてみよう。<br />
<br />
<br />
<br />
私が日々の通勤に使っているのは京阪電鉄だが、車内広告をみまわすと若くてフェミニンな女性が圧倒的に多いことに気付く。当の京阪も、大手デパートも、サラ金会社(サラ金って死語なんだろうか?)も、街角の質屋も、こぞってそうした女性がにっこり微笑んでいるイメージを選んでいる(それも顔だけが大きくクローズ・アップされていたりする)。私はそれらのイメージをじっと見てみる。いったい、広告主は何を訴えようとしているのか? <br />
<div style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-right: medium none; border-top: medium none;">
<br /></div>
<br />
<br />
<div style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-right: medium none; border-top: medium none;">
しばらく考えているうちに、「安心感」ということばが浮かんできた。彼女たちは見る人を肯定もしなければ、否定もしない。別に何を訴えかけているわけでもない。広告を見る人はこうしたかわいい女性が微笑んでいる姿を見て、何よりもまず「安心する」んじゃないか。</div>
<div style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-right: medium none; border-top: medium none;">
<br /></div>
<br />
<br />
<div style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-right: medium none; border-top: medium none;">
Ladies and Gentlemen. Welcom to the Shinkansen. This is the Nozomi Super-Express bound for Hakata. We will be stopping at…</div>
<br />
新幹線に乗ると聞こえてくる、この車内アナウンス。あの高いトーンの女性声が、今の私には何とも不快(で正直言って、うっとおしい)に感じられる。ただ、私には不快に感じられるあの声も、日本では意外や意外、「快適」とか「品がある」、おまけに「セクシー」と感じる人の方が多いらしい。<br />
<br />
<br />
<br />
車内アナウンスといえば、雨の日にだけ流れる「傘のお忘れには十分注意してください」や、ケーブルカーの「お降りの際には、車内が揺れますので足元には十分・・・」アナウンスもうっとおしい。英語でpaternalismという言葉があるが、まるで親のように心配してくれる、そうしたアナウンスが私にはちょっぴり不愉快である。<br />
<br />
<br />
<br />
「丁寧」といえばそうなのだが、それだけだろうか。こうして気遣いしてくれたり、安心感を与えてくれる過剰なサービスは、女性のイメージを使った広告やアナウンサーの高い声によってますます自然化される。日本社会では圧倒的にこうした役割は「女性のもの」とされており、女性がこういう役割を果たしているのを見ると、多くの人は極度に安心するのだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
また、一方で私の目には、日本では多くの女性がこの「役割」を無批判に(あるいは喜んで?)引き受けているようにも見える。たとえば、女性の服装には今もカルチャーショックを感じる。フリルやレース、柔らかい素材、ヒラヒラしたもの、フワフワしたもの、リボン・・・、いやあ、私の目にはこういうのが「おそろしくフェミニン」なんだけど・・・。本人が好きならいいじゃない、と言われそうだが、ファッションは「見る」「見られる」の微妙な関係性という要素からもなっているわけで、一方の嗜好に簡単に限られる話ではない。<br />
<br />
<br />
<br />
「日本では女性がよくこんなのを許しているわね」というのもよく感じる。<br />
本屋さんに行くと、誰の目にも見えるようなところにポルノ雑誌やポルノ・マンガが積まれている。あるいは、昔から言われていることだが、週刊雑誌の広告(吊革広告、大手新聞の紙面下に入る広告)の言葉のいくつかは明らかに男性が男性向けに書いていて、不快なほど卑猥で下品。男性がやめないのなら、一方で「ああいうの、やめなさい!」という批判の声が女性から上がらないのだろうか、と疑問に思うが、これも「役割」という観点から考えれば合点がいく。<br />
<br />
<br />
<br />
日本は確かに表面的には民主主義社会だし、男女同権も機能しているように見える。女性だからといって表立って差別されることはない。だから、「日本社会における女性の地位の低さ」を語るより、「日本では女性も男性も自分の役割分担を無意識にわきまえている」点を語ることの方がきっと生産的だろう。私の目には、それぞれが自らの「役割分担」の範囲をわきまえ、その範囲でできることを、それはそれは驚くほど「プロフェッショナルに」やっている(このあたりはすごい!)、と映る。<br />
<br />
<br />
<br />
個人の役割分担は、見えないガラスの壁でしっかりと区切られている。その中にいれば意識されることもないけれど(それにある意味で楽)、いったん外に出て戻った者には、実は自由に歩きまわるのが難しい社会である。<br />
<br />
こういうことはどこかで読んでいたし、聞いてもいた。ただ、実際に自分が「アウトサイダーに見えないアウトサイダー(だって、外見は日本人だから)」になったとき、これがよく見え始めた。私には、こうした社会は、critical thinking/クリティカル・シンキングのスキルを訓練されていない国民によって無意識のうちに継続されているように思うが、ま、それはまた別の機会に書くことにしよう。<br />
<div class="separator" style="border-bottom: medium none; border-left: medium none; border-right: medium none; border-top: medium none; clear: both; text-align: center;">
</div>
篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-47730859348738662782012-08-21T15:36:00.000-07:002012-08-21T15:49:40.754-07:00日本の教育では育てない(とても重要な)スキル-世界的に活躍しようと思っている若い日本人へのメッセージカナダ(北米といってもいいと思う)の教育にあって、日本の教育で育てられないスキルがあるとすると、それらはcritical thinking-クリティカル・シンキング, problem solving-問題解決能力, team working-ティーム・ワーキング、だと私は思う。この3つのスキルを、北米では子どもたちは学校教育の終わりとともに習得できるしくみになっているが、日本ではそうはなっていない。<br />
<br />
私が見る限り、カナダでは小さいころからこうしたスキルを身につけられるよう意図的に教育がなされており、教師が評価するのは知識というより、そうしたスキルである。このあたりが日本とカナダの教育に対する考え方の根本的な違いである。<br />
<br />
まず、critical thinkingとは、知識や情報をうのみにするのではなく、それを自ら吟味できる能力のことである。与えられた知識や情報、方法論を吟味するためには、情報収集のスキル、分析するスキル、総合的に判断するスキル、相手を納得させるように説明できるスキル、などが必要になってくる。<br />
<br />
<br />
<br />
真実とされていることを「疑う」ことは、科学的思考にはなくてはならないと言われる。そして、それが常識を覆すような発見につながることはよく知られている。これは経済の分野でいえば、イノベーションのカギであって、Apple社の創立者Steve Jobsの話を読むと彼がいかに熟練したcritical thinkerであったかがうかがえる。彼のような才能は、暗記のちからだけが問われる教育のなかではつぶされるだけだろう。<br />
<br />
<br />
problem solvingとは、問題にあたったときに自力でそれを解決しようとする問題解決能力のことである。まずは、問題を把握しなくてはならない。これもcritical thinkingと同じように、何が問題になっているのかを理解し、問題の本質を知ることから、どういう方法を適用して解決に結びつけるか、という実践力、判断力に至るまでのはばひろい能力が問われる。<br />
<br />
<br />
このスキルは、単に学校で必要になるスキルであるとは限らない。将来、子どもたちが実社会に出れば、さまざまな問題に直面しないはずはなく、そのときに問題を投げ出さず、他人任せにせず、自分で解決する能力を養っておくことは人生を乗り切るために非常に重要だと思われる。<br />
<br />
<br />
team workingは、以上のふたつのスキルを学ぶ途上で同時に身につけられるスキルである。カナダの学校では、グループで完成させるプロジェクト・ベースの課題が頻繁に与えられている(大学でさえ)。グループのなかには、アイデアが自由に出せる生徒、計画的に実行する生徒、客観的にプロジェクト内容を把握し、問題を指摘できる生徒、などさまざまな資質を持った生徒がでてくる。グループ・ワークではまずそれぞれのメンバーの資質を把握し、それを活かせるような仕事の進め方をしていくのが効率的であることを生徒は自然と学ぶことができる。<br />
<br />
<br />
また、カナダ社会では就職の際にこのteam workingのスキルがあるかどうかが問われることが多い。たしかに、職場という場所は、team workingなくしては成り立たないわけで、そうなると、将来、子どもたちがどのような進路に進むにしても必要になってくるのが、このスキルなのである。また、私が感じたのは、北米では、知識人も学者も知識があるだけでは認められない、ということ。そうした知識や情報を他者に伝えることができるコミュニケーション能力までを求められる。<br />
<br />
<br />
こう見てくると、これらのスキルは学校にいるときだけ必要になるわけではなく、子どもたちに一生涯を通じてより上手に生きる力を与えるための、実践的なスキルだということがわかる。<br />
<br />
<br />
カナダと日本で暮らし、これらのスキルが小さいころからの訓練によってのみ身に付くということに気付いた。長らく、日本人の発想や応用力の乏しさが指摘されてはきたものの、教育にこうしたスキルを身につけるための訓練がなされてきていないのは、意図的としか思われない。実際、日本ではこうしたスキルを身につけると、反対に「協調性のない人、面倒な人だ」と言われかねない。<br />
<br />
<br />
なので、以上のことは、将来は世界的に活躍しようと思っている優れた能力のある若い人、あるいは日本の外で働きたい、暮らしたいと思っている人に向け、とくに伝えておきたいメッセージである。北米では、幼稚園からこうした3つのスキルが学校教育のなかで繰り返し、繰り返し訓練される。一方、日本では義務教育を終えても、(大学教育を終えても)こうしたスキルは身に付かない。この点をしかと認識し、世界に出ていく前に、まずはこれらのスキルをいかに自分のものにするか、を考えておくことがカギになってくる。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-41273649309341014062012-08-04T16:03:00.000-07:002012-08-04T16:23:17.183-07:00社会参加と実存失ったものを嘆いて今、目の前にあるものの良さを忘れてしまうのは、これまで私が人生のなかで繰り返してきたこと。そしてその度に、愁嘆を追い払おうと努力してきた。<br />
<br />
「可能的現実」という言葉はありえないだろうが、「ああしておけば、こうなっていただろう」あるいは「ああしていなかったら、こうはなっていなかっただろう」という想像にばかり足を入れていると、本当によくないことは経験済み。<br />
<br />
<br />
カナダのことを思うと本当に辛くなることがある。まだホームシックを感じている。<br />
<br />
<br />
そう言うと、Your home is here, in Japan!と言われるのだが、日本で生まれ育ち、人生の大半を日本で過ごしてきたという事実はあるものの、やっぱり私にとってはカナダの方が快適な部分もかなりある。<br />
<br />
<br />
私が何よりも「カナダをHomeとして選んだ」理由のひとつは、イデオロギー的にあっているということがある。私の政治思想や物事の考え方そのものは、カナダ社会のマジョリティとかなり一致する部分が多い。だから、カナダにいると政治的・社会的に「腹が立つ」ことが少ない。日本にいると私は苛立ってばかりなので、(あんな馬鹿馬鹿しい番組ばかりやってる)テレビは最初から持っていないが、日本の新聞も読まないことにした。<br />
<br />
<br />
私にとっては社会正義や人権の尊重は何より大切なものだから、そういう意味で日本社会は疑問に思わざるを得ない点が多くて、正直言って日本人として辛い。<br />
<br />
<br />
その一方で、やはり日本も快適だと思う。何より言葉が簡単に通じる。カナダではとくにカスタマー・サービスや政府関係に電話したりするのが何とも億劫だったが、それがまったくない(もとからの電話ギライというのはあるにしても)。<br />
<br />
<br />
それに、日本ではカスタマー・サービスをはじめとするサービス関係の分野で働いている人たちの対応がとにかくすばらしく「プロフェッショナル」だ。夫とも話すのだが、カナダだったら、たとえばIt’s not my businessという言葉やYou have to go to …という言葉で、ひとつの情報を求めようとすると、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはいけないのだが、日本ではその煩雑さ、手間がない。それで思い出すのは、トロントでTTCのストリートカーの運転手が、路線を走っている最中だというのに、途中でストリートカーをとめて、コーヒーを買いに行き、悠々と帰ってきたこと。私はそれを見て唖然としたものだが、他の乗客は別に何事もなかったようにしているし(今から考えると、これは都会の人の被っている仮面なのかもしれない)、同じような経験があるという知人も何人かいた。日本では、たぶん、ひとりひとりがその仕事に関してプロフェッショナルなんだと思うが、この違いは一体何なんだ、と思ってしまう。<br />
<br />
話は戻るが、「可能的現実」に関していえば、カナダにずっと暮らしていれば快適なこともあったが、不便なこともあっただろう。日本でもそれは同じだということにも気付く。完璧な社会というのはありえないのだから、世界中のどこにいても不便はある。<br />
<br />
ただ、社会にコミットせずにその社会に生きる、というのは私には非常に辛い。最近、サルトルのいうアンガジュマンのことをやたらと考えている。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-34318753761313610262012-06-15T15:47:00.001-07:002012-06-15T15:47:36.503-07:00まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。<br />
今日はダラダラ書きます・・・。<br />
まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。<br />
<br />
りんごが高い! ひとつ250円するのだ、日本のりんごは。りんごなんて、トロントにいたころは毎日ひとつは食べてたのに、今となっては高嶺の花。果物が全般的に高い! 種類もあまりないし・・・。フルーツ大好きの私にはイタイ。<br />
Wi fiが普及してない? StarbucksでWi fiが使えないのはびっくりした。「どこでWi fi使えますか?」の問いに返ってきたこたえが「マクドナルド」。え~!うそでしょ? あんなローレベルのファーストフード・チェーンが? 仕方なく行ってみたけれど、スマートフォンか何かのインターネット・プラン(Yahoo?)に入ってないので使えなかった。これまでカフェやStarbucksを仕事場に使ってきた夫は本当に困っている。図書館でもコンピュータがまずないし、インターネットもないし、Wi fiもない。いや~、これって困るでしょ?<br />
食品の大きさが小さい。かぼちゃも四分の一の大きさ、じゃがいもも4つパックに入っているだけ(それで300円ほどする)・・・。(トロントではじゃがいもは大きなバッグ、たぶん10キロ? に入って2ドルくらいだった)なので、何度も買い物に行く必要がある。スーパーが近くてよかった・・・。<br />
パンが甘い。とにかく甘い。こんなのを毎日食べていると大変じゃない? しかし、町中どこにでもあるパン屋さん。その数の多さに驚く。こんなにたくさんのパン屋さんがやっていってるってことは、日本人ってかなりたくさんパンを食べているのだろうか。<br />
ピザが高い。一枚2500円! ピザってスナックの感覚だと思ってたのに、日本では高級なのね! Mama'sのピッツァが恋しい・・・。<br />
<br />
オーブンがなくて本当に困っている。<br />
オーブン・トースターのことじゃなくて、ケーキやパンが焼けるオーブンのこと。これが4万、5万と非常に高いので、短期間の予定で日本に来ている私たちは泣く泣くガマンしている。日本ではオーブンがない家庭が多いらしい。<br />
<br />
オーブンがないと、できないことが多い。パンが焼けない。ケーキが焼けない。ピザも焼けない。ローストやグリルなどの大皿オーブン料理ができない。お料理の幅が狭まっている。私は何を料理していいかわからず、時々途方に暮れている。<br />
<br />
なかでもパンが焼けないのはガッカリで、日本の甘いフワフワのパンが口にあわない私たち家族は、ホームベーカリーを買ってそれでパンを焼いている。<br />
<br />
<日本の服装に戸惑う><br />カナダから持ってきた服がローカットだということに気付いた。<br />
北米のものに比べると、日本の服は胸元はどーんと開いていないものが多いので、ちょっと首のあたりが窮屈にさえ感じる。スカートがあまりに短かったり、凝ったフリルやリボンがあったり、ゴテゴテしたハイヒール、北米では奇妙に映るコスプレっぽいもの(北米では水商売系の人だと思われそうなもの)が普通に見られる。時々、髪の毛を金髪にして、全身バービーになっている若い女性もいて仰天させられる。女性の服装が全般的に幼い。<br />
<br />
概してあまり肌を見せないのが日本のようで、夏でも紫外線対策で完全防備している人たちが結構いる。つばの大きな帽子(夫は日本人帽子と呼ぶ)、腕に着用する特別のもの(名前は不明)、長ソックス・・・など、夫の目にもこうした姿は異様に映るらしい。私も夏の服というとノースリーブが多いのだが、ノースリーブはあまりポピュラーではないように思う。<br />
それにストッキング! <br />
北米では冷房のきいたオフィスで働くワーキングウーマンでなければ、夏にストッキングなんて考えられないのだが、日本では夏でもストッキングは普通みたい。それも黒だったりするからビックリした。カナダでは素足で平気に働いていたが、日本ではどうもおかしいようなので、私もイヤだなあと思いつつ、暑いのにストッキング着用で学校に行っている。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-50357846259039208462012-05-12T15:47:00.001-07:002012-05-12T15:48:31.680-07:00share the painという考え方先日、エリックの行く保育園で保護者会があり、そのときにお母さんのひとりが「保育園で出される食事の安全性を確保すること」について話し合いの糸口を提示した。対応した保育士は、「それは放射能のことですか」と言って、「それは難しいですねえ。産地を特定することで、被災地の人たちが困っているという状況もありますし、被災地支援にはならないと思いますし」とコメントした(このコメントだけ読むとわかりにくいけれども、保育士の口調からはお母さんの不安を一蹴しているわけではないと私には感じられた。ただ、「子どもの安全」に対して「被災地支援」という言葉で応えた感覚に、私はむしろ驚いた)。<br />
<br />
<br />
そのときのやりとりで考えさせられたのは、share the pain(痛みを分かち合う)という考え方。日本に来てから、日本人が震災と原発事故、その後の「被災地支援」や「復興」を語るときに、よく出てくるナラティブのひとつが、これであることに徐々に気付き始めていた。<br />
<br />
<br />
私が見る限り、share the painという考え方は何も日本文化に独特のものではないが、ことさら日本人の心の琴線に響くような気がする。そして、私にはこの考え方を推進しようとする力がどこかで働いているようにも思う。つまり、この考え方を推進しようという人が、あるいは団体がどこかにいるように思う。「がんばろう日本」のなかにも、「がれき問題」にもこれは明らかに見える。<br />
<br />
<br />
日本に来てみると、原発問題は「がれき受け入れ問題」に集中していて驚いた。そして、以前読んだ新聞の投書欄には「日本全国の市町村ががれきを受け入れるのは当然。日本人として痛みを分かち合うのは当然」という意見が多数出てきたが、これは「share the pain」の典型的なものだ。一方では、がれき受け入れに反対している人たちに対して「身勝手だ」とかいう意見が出てくる。放射能に汚染された震災がれきは被災地では焼却能力を上回っていることから、全国の都道府県が「復興」という横断幕のもと、瓦礫の受け入れに積極的になってほしいと、政府は都道府県に伝えている。<br />
<br />
<br />
この状況を目の当たりにして、思い出すのは戦争があった時代のこと。そのときも「お国のため」に国民の自由が制限された。「戦地で苦しい思いをしながらお国のために戦っている兵士のことを思えば、これくらいのことは我慢できると思ってがんばった」と言った祖母の言葉のなかには、share the painの考え方にどっぷりと浸かっていたのだということが伺える。<br />
<br />
<br />
share the painは確かに美しい考えであるし、コミュニティが強く結束して何かを成し遂げるための秘密であると思う。しかし、問題は、そうすることで問題の根本的原因をうやむやにしてしまう可能性があることだ。「がれきに反対するなんて、君は非国民か!」といった論だけに感情的に集中してしまうと、この汚染されたがれきがどういういきさつで出てきたのかが追いやられる。実際、日本に来て以来、私には放射能汚染に対する受け止め方に関する意見の違いの方がやたら取り沙汰されていて(意見の感情的二分化)、この汚染を引き起こした東電やこれまでの政府の原子力推進政策に対する批判がほとんど出てこない現実に唖然としている(これがカナダだったら絶対にありえない)。<br />
<br />
<br />
もうひとつ言わせてもらえば、「share the pain」に子どもを含めた市民の健康や将来をねじりこむのはやめてもらいたい。議論がここまで行くならば、この国は市民の権利が剥奪された戦時中や独裁体制にあると言われるべきであろう。民主主義の柱のひとつは国が国民の権利を蹂躙しないことである。こうした暴論に民主主義を踏みにじらせてはならない、と強く思う。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-11640793687838214272012-05-11T16:07:00.002-07:002012-09-14T15:19:39.045-07:00子どもに甘い?日本の子育て<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi3vXjmlwhfyQ4BrEGEW8QLLH_co9LkBlrqVJH2xP32eBV9KTymxfOxTqOlfGyFL61ttvrF8n7n2Q9164Q1jJGDE2b4a2z-Jgoaqyijuc9x3TAOvHnpS5_5Sp2yR0kW7ZFdIECpOZQqzfWq/s1600/120506_131850.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" dba="true" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi3vXjmlwhfyQ4BrEGEW8QLLH_co9LkBlrqVJH2xP32eBV9KTymxfOxTqOlfGyFL61ttvrF8n7n2Q9164Q1jJGDE2b4a2z-Jgoaqyijuc9x3TAOvHnpS5_5Sp2yR0kW7ZFdIECpOZQqzfWq/s320/120506_131850.jpg" width="240" /></a></div>
<span style="color: #38761d;">The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。</span><br />
<span style="color: #38761d;">タイトル「(12年日本から離れていた私の)日本の子育ての印象」</span><br />
<a href="http://thegroupofeight.com/?p=1456"><span style="color: #38761d;">http://thegroupofeight.com/?p=1456</span></a><br />
<br />
日本に戻って暮らし初めて3ヶ月。自分の生まれた国なのに、いろんな場面でカルチャーショックを感じている今日この頃。子育てに関してもカナダ(広い意味で北米)と日本の違いに直面して、大きな戸惑いを感じているのだが、これは私だけでなく、夫もそうであるらしい。もちろん、日本と北米の子育てを白黒はっきりカテゴライズできるわけではないが、私たちの戸惑いの最も大きなものは「子どもに対するdiscipline」の違いといえる。<br />
<br />
<br />
子どもが集まる場所に行くたびに、「日本では、親が子どもに対して甘い」という印象を私たちは受ける。よく言えば、子どもは子ども本来の姿でのびのび育っている、とも言える。けんかがあっても、おもちゃの取りあいがあっても、友達をたたいても、ひどい言葉を使っても、子どもなんだから当然、放っておきなさい、そのうち子ども同士で自然に解決されるという、言ってみれば非常におおらかな態度。<br />
<br />
<br />
先日、こんなことがあった。市のこども向け福祉施設に行ったときのこと。施設内にある遊び場には、とても感じのいい、滑り台やいくつもの階段がいっしょになった大きなジムみたいなものがあって、たくさんの子どもたちが遊んでいた。私は、ぶらさがって渡る鉄棒みたいなもの(渡り棒?)で遊んでいるエリック(4歳の息子)を見ていたのだが、あるとき突然、上から小さめの卵型の木のボールがバラバラバラッと降ってきた。ちょっと前にも2,3個落ちてきたのを見ていたので、すぐに合点がいった。上を見上げると、バケツを持った男の子がそれを見て喜んでいる。「おもちゃを上に持ってあがらないで」という張り紙があるのに、バケツに木のボールを山盛り入れて上がり、それを上からばらまいているのだ。<br />
<br />
<br />
私はとっさに大声で「それはダメ! 下の人に当たると危ないでしょ!」と叫んで、近くにいた施設のスタッフにも「あれは危険です!」と言った。言われたスタッフはそれを聞いて男の子に何か言いにいったのだが、その伝え方が優しく、危機感がまったく感じられないのに正直言って驚いた。それに、あんなにたくさんの親がいたなかで、それも私の周りには落ちてきた木のボールが子どもに当たった親もいたなかで、声をあげたのは私ひとりだったという事実にも唖然とした。それより、そのおもちゃをばらまいた子どもの親は一体どこにいたんだろう?<br />
<br />
<br />
そのあと、エリックが同じ木製のボールをそれが転がって最後にケースのなかに入る、というすべり台に転がしていたとき、小さな子どもがその木のおもちゃがたくさん落ちてくるケースのなかに入ってきた。お父さんは何も言わなかったが、エリックは右から、左からも他の男の子が木のおもちゃを転がしているのだから、その子に当たってしまう可能性は大きい。私が「そこにいると、ボールが当たって痛いわよ」と男の子に言ったら、お父さんは「大丈夫です・・・」と応えて、男の子を動かそうとする気配もない。まあ、木のおもちゃだから当たって死ぬようなことはないけれど・・・。でも、そこはボールが落ちてくるところで子どもが入るための場所ではないし(遊戯道具の使い方が間違っている)、ボールといえども木製なんだから何か間違いがあって頭にでも当たったらどうするんだろう(安全性)。仕方ないので、エリックに転がすときには気を付けるように言ったが、なんだかヘンだなあと感じた。<br />
<br />
<br />
カナダで子どもを産んで、子育てをしてきた私は、親が子どもがしていることを常に見ていること、それが他の子どもに危害を加えたり、周囲の安全性を損なうような場合は必ず言ってきかせる(「やめなさい!」だけでなく、理由も伝える)、子どもが小さいころから責任をとらせる、ということが当然だと思っている。こうしたことは、誰に教えられたのでもないし、子育て関係の本に書かれていることでもない。ドロップイン・センターやプレイグラウンドなど、子どもがいる環境などで他の親やスタッフを見ながら私が習得したこと、そして、これが広い意味での「文化」なんだと思う。<br />
<br />
<br />
「Respect my body」というのはエリックが行っていたデイケアの保育士ドナがよく言っていた言葉。子どもたちがドナの足に絡みついたり、お友達を叩いたり、蹴ったりしたとき、ドナはそう言って「他人」と「自分」の境界線を繰り返し子どもたちに知らせ、「他人」の領域にあるものには決して踏み込めないのだと教えていた。私たちは当然と思っていたこのルールが、今になって「北米的」であることに初めて気が付いた次第である。<br />
<br />
<br />
一方、日本では、子どもたちには大きな自由が与えられている。よほどのことがない限りは、あまり細かいことは言わない。「子どもだから」と大目に見られて、特別の扱いをされて、「言いたいことを言って、したいことをしている」、そして、それが許されている、という感じを受ける。<br />
<br />
<br />
私の母は、朝起きたら顔を洗う、おふろに毎日入る、食事のあとは濡れタオルで顔をふく、ということを徹底していない私の子育てを見て、「しつけができていない」とコメントした。確かに、私はそのあたりはあまり子どもに厳しく言ってこなかった。しかし、一方では子どもが集団において、あるいは他人に対して「してよいこととわるいこと」「言っていいことと悪いこと」があることはきちんと教えてきたし、それこそが子どもを社会に送り出す私たち親の大きな役目のひとつであると認識してきた。それが「しつけ(discipline)」の定義であると思ってきた。子どもがひとりの人間として社会(学校)に出ることができるように、社会のルールを繰り返し教えることが親の役目だと思ってきた。そして、それは0歳から始まっていた。<br />
<br />
<br />
日本で暮らして数ヶ月経った今、私の受けた印象は、そうしたdisciplineが始まるのが遅い、ということである。こうして子どもたちが「言いたいことをいい、やりたいことをやっている」状況は、学校に入るとがらりと変わる。学校教育のなかに一歩足を踏み入れれば、今度、彼らを待っているのは極度に自由が限定される世界である。制服や学校での細部にわたる規則、そしてそれが破られたときに与えられる罰則。でも、そのときには子どもたちの生活の大半は「学校」という集団のなかにあるわけで、そういう環境では親以上に教師や集団の影響力が大きくなるのは当然である。だから、教師は恐らく子どもたちの「しつけ」という、(私にとっては当然、親の役目である)大きな仕事を担わされることになる。<br />
<br />
<br />
個人的には小学校でしつけがされるような状況は、もう時期的に遅い、という気がする。子どもたちの気持ちは親ではなく、集団のほうに移っていく時期だし、自己意識という点でも体力的にもすごい勢いで成長している。その時期にdisciplineが始まるというのは、私にはちょっと信じがたい。<br />
<br />
<br />
12年をカナダで暮らして帰ってきた私は、別の印象として、小学校高学年、中学校、高校でギュッと内に入ってしまう(外部を閉ざしてしまう)子どもが多いようにも感じている。また、日本人は他人を「見る」ことがなくなっている、というふうにも感じる。電車に乗ると乗客の7割がスマートフォンを一生懸命操作していて、顔を上げない。高校生のコミュニケーション能力も明らかに劣っている。相手の目を見て話ができない、自分の言いたいことを効率的に伝えられない。「子どもに対するしつけ」とこれらの社会問題との関連性を漠然と思うけれど、サンプルをとって調べたわけではないので何ともいえない。しかし、こうした「部外者の印象」はどこか問題の核心をとらえている、という気もする。<br />
<br />
<br />
結局のところ、文化という潮流は目に見えないだけに対抗するに手ごわいものだ(放射能も同じだと思う)。ふたつの国で子育てをして感じる違いに戸惑いながら、夫と私は日々、私たちの子育てはどうすべきなのか、の話し合いを繰り返している。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-73834373087504817772012-05-04T15:57:00.000-07:002012-05-04T15:57:14.319-07:00電車のなかでマンガを読む人毎日、電車に乗って通勤しているのだが、昨日、スーツを着たサラリーマン風情の男性が向かいに座り、すぐさまマンガ本を読み始めたのを見て、「おお、10年前に比べると電車のなかでマンガを読んでいる人の数が圧倒的に少なくなったわね」と感じた。以前は、こうした「大の大人」がマンガを読んでいる風景は何も珍しいことではなかったのだが、今回、日本に来てみるとあまり見ない(路線によって違うのだろうか?)<br />
<br />
しかし、同時に文庫本や単行本を読んでいる人が少なくなってもいる、というのも観察済み。<br />
<br />
<br />
では、大部分は何をしているか。スマートフォン(日本ではスマホと呼ばれる)に見入っているのだ。たくさんの人が静かにそれぞれのスマートフォンに見入っている光景、私はあれに最初はちょっと驚いたが、今はかなり慣れた。とにかく電車のなかで携帯電話をする人がいないのはいいことだと思う(日本に帰国してすぐのころ、夫も私も電車のなかで携帯を使っていたのだが、すぐに係員が飛んできて注意された)。<br />
<br />
公共の場で他人に迷惑になることをしない、という原則に則っているので、これが「公共マナー」として根付く日本の文化というのは案外とすんなり理解できるのだけれど、一方では週末の早朝に聞こえる古紙回収車の大きな音楽とAnnoyingな放送が許されている事実にはどうも首をかしげてしまうなあ・・・。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-35005623293452526762012-04-14T16:22:00.000-07:002012-04-14T16:22:18.945-07:00日本人の知的レベルカナダから帰国してしばらくのあいだ、両親の家に2ヶ月滞在していたが、その間、テレビがつけっぱなしになっていることがあった。私たちはテレビを持っていないから、夫と子どもと3人で珍しそうに最初は見ていたが、すぐに飽きてしまったと同時に、その内容の単一さには驚いてしまった。<br />
<br />
こうしてテレビを見る限り、日本人の興味・関心については、こう簡単に言えると思う。<br />
1. 食べ物<br />
2. 旅行<br />
3. 自然<br />
<br />
あとは、これに歴史や日本賛美がからんでくるものがあったりもするが、あるいはスポーツがあったりするが、だいたいこんなところだ。<br />
<br />
頭の悪いタレントなどが出てコメントするものから、知識提供型の洗練されたものまで、いろいろな形式をとってはいるけれど、テレビ番組の主題としてはこの3つが圧倒的に多い。これら3つに個別のフォーカスがあたっているもの、あるいは全部一緒にひとつの番組にしたものなどがあって、それぐらいが違うだけで中身は本当にどれも似たり寄ったり。私なんて、こんなのはすぐに飽きてしまうのだけれど、日本ではこのパターンで年がら年中回っているらしい。<br />
<br />
はっきり言って、タレントが観光地を訪れてお店をまわっておいしい料理を食べて・・・というような番組は退屈このうえない。食べ物も同じようなものばっかりだし、ここに限界があると思うのは私だけなのだろうか。それに、こうした番組が観光地やお店の一方的プロパガンダになっていることを思うと、そのあたりに目を光らせないでいいのか、と思ってしまう。<br />
<br />
もうひとつ言わせてもらえば、芸能人やらタレントやらが海外に行く番組があるが、時折さらけ出される、この人たちのエスノセントリックな発言や行動には、もう唖然となるしかない。そうした無知をさらけだして嬉々として世界を回るような番組が、日本にいる日本人にだけ見られていることを祈るばかりである。<br />
<br />
一方、日本のテレビ番組で圧倒的に少ないと感じるのは、「政治的」「経済的」な問題を扱う番組である。これは国内政治・経済のみならず、国際政治・経済に関しても同じである。シリアで大規模な政府による弾圧がおこっていようと、それに関しては1分のニュースが流れるだけで背景説明もコメントもまったくない。当然といえば当然だが、東アジア関連のニュースは少しはフォーカスが定まって報道されるが、やはり全体的にみると量的にはかなり少ない。<br />
<br />
これはよく考えると、日本の主要新聞に関しても同じことがいえるし、当然、テレビ番組の主流は視聴者の興味が反映されたものだから、きっと日本人がこうした問題にあまり興味がないのだと思われるが、ちょっとこのレベル、低すぎるんじゃない?「本当にこんなんで日本人このまま大丈夫?」と本気で心配している私・・・。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-55082781412353809592012-04-14T15:43:00.000-07:002012-04-14T15:43:25.621-07:00外国人配偶者「問題」外国人の配偶者をもつと、お役所関係の書類上で思わぬ問題に遭遇する、ということがよーくわかった。まず、夫と私は同一の生計を営んでいるにもかかわらず、夫が日本人ではないということだけで、住民票では日本人であるという理由だけで私が世帯主となり、夫の名前は通常、記載されない(夫の名前を住民票に記載するためにはもう一段階の申請が必要になる)。なので、夫と私が「同一の生計を営んでいる」という記載を公式に探すためには、「外国人登録記載事項証明書の省略のないもの」をもらう必要がある、ということにまわりまわってやっと行き着いた。<br />
<br />
<br />
そもそも「戸籍」は日本人にだけあてられるものなので、外国人配偶者がいる場合は戸籍や住民票だけ見ると、子どもの名前が出ているだけで、シングルマザーのようになっている。日本人同士なら簡単に「家族」として出てくるものが、外国人配偶者がいる場合には「家族」であることが証明できる書類がすんなりとは出てこない。わざわざ外国人と結婚したんだから当然、というような馬鹿げた論はやめていただきたい。<br />
<br />
<br />
こうした「問題」に直面すると、私や夫としては心情的に「不快感」を感じざるを得ない。日本政府は、どうやら私たちが結婚している、という状態を素直に認めたくない、あるいは好意的には思っていないのね、と思わざるを得ない。私にはどうもひっかかる。<br />
<br />
<br />
同じようなことが現代のカナダで起これば、こういう措置は「差別的」だという声がすぐに上がるに違いない。ジャーナリストが書くか、人権擁護団体が声をあげるか、個人が声をあげるか、エスニック・コミュニティのリーダーが声をあげるか、何らかの方法で、社会的問題として取り上げられるに違いない。<br />
<br />
<br />
私は長らく日本のメインストリームとして生活してきた経験から、こうして日本に住んでいる外国人やその他の非メインストリームの人たちが、どれほど制度的不自由を課せられてきているか、に思い至ることはなかった。今回、外国人配偶者と日本に住むことになって、さまざまな手続きを経るうちに、メインストリームの人が見えない「制度上の差別」があるのだと気付いた。恐らく、日本も時代の流れとして、いずれはこうした制度を変えていくだろうと思う。しかし、今、気付いた人が声をあげることで、その変革が早まる可能性があるだろうから、私は市政に対してこの点でコメントを出していこうと思っている。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-85696940524890341482012-03-28T15:27:00.000-07:002012-03-28T15:27:32.166-07:00書評:Karen Kelsky “Women on the Verge- Japanese Women, Western Dreams” 2001<img alt="Women on the Verge: Japanese Women, Western Dreams" class="image img book product-expand-view" data-bntrack="ProductImageMain" height="320" itemprop="image" src="http://img2.imagesbn.com/images/102580000/102588203.jpg" style="position: relative; right: auto; top: 2px;" width="226" /><br />
<br />
<br />
<span style="color: #134f5c;">NOTE: 数ヶ月前に書いたレビューですが、今朝、コンピュータに残っていたのを見つけるまで、すっかり忘却の果てに追いやられていました。かなり時間かけて書いたのに・・・。書評だから今更ですが、アップします。</span><br />
<br />
海外在住もかれこれ12年になる私は、カレン・ケルスキーのいうInternationalist というカテゴリーに属するひとりに多少なりともあたるのだろうか。著者が探求する西洋への「憧れ」というキーワードは若い私の脳裏にあったとは思うが、私のその後の人生を変えるほど大きなものだったのだろうか。私の人生の選択は、ひょっとするとより大きな流れのなかでなされてきたのだろうか、という疑問を抱きながら、本著を読み進めた感想を書いてみたい。<br />
<br />
著者カレン・ケルスキーはイリノイ大学の文化人類学および東アジア学の助教授。<br />
<br />
まず、本著の構成。序章では研究対象がどういった思想的枠組みのなかで捉えられるかが提示される。日本人女性の西洋に対する「あこがれ」を通して現代の日本人女性の西洋および日本に対する意識を検証することが研究対象であることが示され、かなり専門的な内容だが、方法論が語られる重要な部分である。著者がインタビューする女性は「大半が高学歴で、都市居住者、ほとんどが独身のキャリアウーマン、年齢は20歳から45歳」。すべての日本人女性が対象ではない。<br />
<br />
第1章では、19世紀中頃から戦後のアメリカ軍による占領時代にかけての日本における女性の国際化の系譜が「憧れ」をめぐって検証される。津田梅子や彼女の教え子である三島すみえ(My Narrow Isle: The Story of a Modern Woman in Japan (1941))の著作や手紙を読み解きながら、渡米と渡米後の経験に即して、日本および西洋に対する意識を検証する。<br />
<br />
2章では、戦後、「国際派・国際主義者」の女性たちが書いてきた著作などをもとに、国際派ナラティブがどのように発展していったかを考察する。<br />
<br />
さらに、第3章は、現代の日本における白人男性のつくられたイメージを、広告やメディアを通して検証する。白人と日本人がお互いに抱いている、ステレオタイプ化されたエロチック・イメージと、その背後にあるさまざまな影響にも焦点をあてている。<br />
<br />
第4章はいわゆる「国際派」とされる女性たちが直面する困難、さらにはそうした困難とどのように折合いをつけているのかを女性たちへのインタビューから浮かび上がらせる。<br />
<br />
私にとってはエスノグラフィという分野は未知なので、本著を読んだ後はちょっと戸惑った。いろいろな側面を提示されたにもかかわらず、その現実に対する批判や問題解決がないことに対する戸惑いなのだけれど、多様な環境や歴史的事実、アクターの思いや経済的状況など、さまざまな局面が交差する現実というのは、実際に簡素化して語れるものではない。エスノグラフィは社会的現象の複雑性、相互性という深みに気づかせてくれるものでもある。読み手の関心により、それぞれの側面をより深く探ってみると興味深い考察へと結びつく可能性を秘めている。というわけなので、私が興味をひかれたいくつかのファクターに絞って考えをまとめてみたいと思う。<br />
<br />
<br />
<span style="color: #38761d;"><strong>・イメージと「あこがれ」</strong></span><br />
まず、internationalist narrativeというキーワードを理解しておく必要がある。これは、家父長制、男尊女卑の思想の強い日本で最初から構造的に組み入れられない、高学歴で野心をもった「国際主義者」の女性たちが使う「言い分」であり、その内容とは、日本で能力を認められない、発揮できないのなら、男女が平等に扱われる海外(西洋)に出て自由を謳歌しながら、海外の人たちと付き合ったり、海外企業に職を求めたり、留学を通して自分を磨くことが許される、というものである。こうして西洋との接触を通して磨かれ、探し当てた自らは「新しい自分」であり、封建的価値が残る「古い日本的伝統」のなかでは決して見出し得ない「真の自分の姿」である。つまり、西洋という鏡を通してはじめて、「国際主義者」を名乗る女性たちは自己を確立する、といえるのだが、厳密にいえばこの「西洋」というのは、「西洋というイメージ」であることが明らかにされる。<br />
<br />
ここで、「イメージ」という非常に重要なキーワードが出てくる。イメージとは、実際の姿ではなく、ある程度実際の姿に「自らが見たいと思うもの」=「あこがれ」を投影しながら作られる姿である。日本社会の「後進性」に幻滅した国際派の日本人女性は、「救世主」としての西洋および「西洋人男性」のイメージのもとに、日本を脱し、海外に出ていく。それは実に積極的なるdefect(「棄国」という言葉があるが)であり、後戻りはできないという覚悟とともに人生を大きく変える選択でもある。<br />
<br />
同時に、捨ててきたものに対するビターな感情は、日本の社会や日本の男性そのものへと向けられ、その反動として向かった西洋でこうした主張を買う西洋人男性やメディアを通し、イメージが広まる原因となる(「世界一魅力のない日本人男性」、「世界一魅力的な日本人女性」、あるいは「日本人男性は女性を喜ばせられない」、さらには「イエローキャブ」というレトリック)。<br />
<br />
このイメージは「国際主義者」の日本人女性の占有物ではない。著者は、国際派女性の、あるいは西洋人男性の日本人男性に対するイメージ(非常にネガティブなイメージ)、あるいはそれを煽ってきた日本や海外のメディアにも焦点を当てる。<br />
<br />
ここで気付くのは、「国際主義者」の日本人女性をはじめ、一部の西洋人男性、日本人の西洋に対するあこがれを煽り続けてきた日本のメディア(“seling of white men as commodity markers of upward mobility, 187)、旅行産業、外資系の会社や留学エージェンシーやサービスなど、さまざまなアクターがその西洋の「イメージ」と「リイマジンドされた西洋と西洋人」を自らの利益に都合のよいように利用してきた事実である。私としては、このうちで日本のメディア、旅行産業がとりわけ「PR」効果という側面を重視してることを考えると非常に問題を感じる。<br />
<br />
<br />
<span style="color: #38761d;"><strong>・日本人女性と西洋男性のあいだのロマンス、消費主義の行きつく先・・・</strong></span><br />
日本人女性と西洋男性のカップル、西洋人女性と日本人男性のカップルをみると、数からして明らかに前者が多い。この事実を不思議に思う人は多いし、どうしても単なる偶然であるとは思われない。かくいう私と夫も前者例にあたるのだが、巷に転がっている理由は、基本的にネガティブなものが多いこと(たとえば、日本人にはモテない日本人女性とルーザー外国人との結婚、など)、さらに結局は個人間の関係性は私たち固有のものである、という気付きから、どこかでこの問題は「取り扱うに足らず」と認識してきた、というのが妥当だという気がする。<br />
<br />
大学卒業したころの私はケルスキーの研究対象のような上昇志向をもった野心的な「国際主義者」の日本人女性では決してなかったし、今もそれは変わらない。私のなかにあったのは、海外への憧れ、というよりは、日本社会における居心地の悪さ、であったと言うのが最もしっくりくる。日本社会では私のもつあまりに個人主義的、自由主義的(あるいは社会主義的)な価値観はいずれ衝突を来たすであろうことを肌で感じていた。経済的には何の問題もなかったが、思想的な行き詰まりの予感は実にあった。そんなときにカナダ人の(今の)夫に出会った。なので、私はケルスキーの調査対象に当てはまらないと思われるが、トロントで国際結婚している日本人女性を見渡してみても、ケルスキーの調査対象に当てはまる人はほとんど見当たらない。そこで思うのだが、「彼女たち」は一体、誰なのか。<br />
<br />
本著を読む限り、この「国際主義者」の日本人女性は、ひとつの見方をすれば女性の伝統的役割を押し付ける日本社会に対する抗議者であるが、同時に極度な日本の消費主義の行き着く末としての、「カニバリズム的」消費者でもある。つまり、海外旅行やブランド品を追いかけた末に、最も手に入りにくい欲望の対象としての「外国人ボーイフレンド」は、彼女たちにとっては最後の砦なのである。<br />
<br />
この「国際主義者」として描写されるふたつの像が、私にはどうも腑に落ちない。日本社会に対する抗議者でありながら、日本の過度な消費主義を無批判に鵜呑みにする、という状況に、思想的な二律背反を感じるからである。具体的に言うと、日本社会の構造的差別には抗するが、際限なき消費欲を満たすために海外へ出て、自分の置かれた地位を利用し「搾取」に精を出しているのである。「外国へ目を向けることは、おそらく日本社会で女性の伝統的生き方への期待に抗する、最も重要な手段であるのではないか」(序章)とケルスキーは言うが、この「抗し方」がまるで徹底していない、と感じられてならない。<br />
<br />
<span style="color: #38761d;"><strong>・植民地主義と消費主義</strong></span><br />
ケルスキーが指摘するように、国際派の日本人女性が海外に出ていく現状は、彼女たちの経済的パワーに裏付けられている。いくら社会的制約は厳しいといってもOLはそれなりの給料をもらっているわけで、その経済力を海外で利用する(留学、遊学、語学研修、旅行)力を備えている。たとえば、女性の地位が非常に低いインド社会を例にとってみると、インド社会の女性たちは現状から脱出するための経済的手段を持たない。日本人女性が「息抜き」として海外に出ていける背景には、日本経済という大きなバックアップがあってこそなのだ。これは国際派の日本人女性もよく心得て利用している「力」である。この事実は、日本という国で「力」を奪われマージナライズされた女性が、海外では発揮できる「力」という意味で非常に興味深い。さらには、ポスト・コロニアリズムの影響、オリエンタリズム(サイード)の影響を無批判に受け入れ、日本およびアジアの女性に対するイメージを描いている西洋男性(the commodification of the Japanese women)を受け入れることとなる。<br />
<br />
同時に、日本が連合軍(なかでもアメリカ)に敗戦したという歴史的事実も、日本人の西洋へのあこがれに大きく関与している。津田梅子の時代から日本人女性を驚かせ、喜ばせてきた「レディ・ファースト」の西洋文化のイメージは、アメリカ進駐軍GIの存在を通して一般の女性たちの間にも浸透していくことになる。実際、アメリカ進駐軍が敗戦後の日本に来たという事実は、日本人に大きな心理的影響を与えたし、その影響は見えない形で未だに尾を引いている。<br />
<br />
<span style="color: #38761d;"><strong>・国際化という神話。日本社会の変革までは思いが至らないエゴイスティックな国際主義者</strong></span><br />
人類学者のケルスキーは、さまざまな側面を提示してくれるが、あからさまに彼らの関与を批判することはない。ただし、フェミニストを自称する彼女は、日本での低い立場に不服を申し立てる手段、レジスタンスとして海外に出た日本人女性が、日本で女性の地位向上を目指すための連帯した運動には結びついていない事実に対してだけは批判の矛先を向ける。<br />
<br />
時代をさかのぼって見れば、津田梅子や三島すみえ、加藤シヅエなどは日本帰国後、アメリカにおける男女平等社会を日本に取り入れようと尽力してきた。あの当時の様相を思い合わせると、周囲の酷い反対にあいながらも女性のための学校を作ったり女性の地位を向上させるための法案を通すために働いたりしてきた彼女たちの努力は並大抵ではなかっただろう。<br />
<br />
一方で、現代の「国際主義者」の女性たちはどうだろう。日本社会の構造を変えようという意図は少しもなく、日本社会から脱した自分と自分が入った文化を理想化することに終始している。極端な例はマークス寿子(「大人の国イギリスと子どもの国日本」)や斎藤澪奈子(「超一流主義」)で、日本に蔓延する一部ヨーロッパのイメージを誇張した挙句、レイシズムまで使って自分の主張を繰り返していて、私はベストセラーとなったらしいこの本の内容を知り、唖然としてしまった(”Japanese and Arabs are scavenging up the hotels of English girls finishing school… What kind of finishing school is it where you only hear Arabic and Japanese spoken?!” “There are no more real English girls... Instead… they are full of Arabs and Japanese. In such an atmosphere, can anyone learn true manners? To put it bluntly, can anyone even learn to speak proper English.P125)。このような人種差別的で偏見に満ちた本がベストセラーになる背景には、ジャーナリズムの質の低さや差別に対する研ぎ澄まされた感性の欠如があるだろうと思う。<br />
<br />
このような現実を見るとき、最後に疑問が出てくる。一体、彼女たちは本当に国際派と言えるのだろうか。日本は国際化したのだろうか、という疑問である。<br />
<br />
日本人にとっては「国際化」という言葉は、殺し文句にも等しい。当時から言われていたことだが、言葉の中身は空っぽで、誰も「国際化とは何なのか」という問いに満足に回答を出すことはできなかった。言語(英語)習得ではない。結局、ナショナリズムの影響を振り切ることができず、まず日本人として日本文化を知り、日本人としての教養と知識を身に着けることだ・・・とか何とかひねり出してきた最もらしい答えは、日本人の趣向にはあったようだ。<br />
<br />
過去、「国際化」の掛け声とともに、英語学習ブーム、海外旅行ブームが広がったり、西洋を日本人の文脈で読んだり、日本を特殊な外国人の文脈で読んだり(アレックス・カーなど)、同時にまったく逆に今度はねじれ切って日本文化を絶対視するナショナリズムなどが出てきたが、すべて何かおかしいような気がする。<br />
<br />
津田梅子や加藤シヅエには西洋文化の、具体的にどの部分が、どの社会的構造が、どの法律が日本には欠けていてそれを導入することによって日本人女性、ひいては日本社会がよりよい社会になるという確信があった。そういう意味で、彼女たちはフェミニストであったし、真に理想の日本像を捉えることのできたリーダー的人物だったと思うが、斎藤澪奈子やマークス寿子などはエゴセントリックなキャピタリストでしかない。こうした論客は少し突いてみれば、人種差別や排他主義、ナショナリズムの思想的断片がぞろりぞろりと姿を現すことだろう。現代に生きる私たちは、彼女たちが崇拝するような西洋的価値に根ざしたグローバライゼーションやグローバル経済という現実を無批判に受け入れるべきではない。<br />
<br />
日本を出て以降、ことあるごとに感じてきたのだが、日本が長年抱えている問題のひとつは、リーダーシップの不在に違いない。政治の世界でも産業界でも、教育界でも、どんな分野でも、将来、こういう形に導いていきたい、というイメージをもってそれを周囲の人たちに信じさせ、エンパワーしていく情熱とスキルを持った人が育っていない。「国際化」にしても、そのフワフワしたイメージだけを売り物にして(資本主義がそれを食い物にして)、中身を詰めてこなかった日本はInternationalizationに実質、乗り遅れてきた。<br />
<br />
あるいはこう言うこともできるだろう。多くの日本人は、日本には国際化は必要ない、あるいは国際化は「百害あって一利なし」と、実は無意識のうちに信じてきたようなところもある。でも、最もお金をもっている若い女性のために、日本の産業がよってたかって国際化をファッションとして売ってきたという一面もあると思う。つまり、80年代から言われてきた「国際化」は、日本が国運をかけて取り組んでいく必要のある問題ではなかったのだろう。<br />
<br />
<span style="color: #38761d;"><strong>・ 最後に、再びイメージについて</strong></span><br />
だからこそ、「イメージ」という概念がカギになる。ケルスキーが第3章Capital and the Fetish of the White Man で省察するように、日本のコマーシャルには白人男性が大活躍している。こうしたコマーシャルに乗って、若くて野心的な日本人女性が信じてきた西洋のイメージ、旅行会社やファッション業界が売り込みに懸命になっている西洋や西洋文化のイメージ、はたまた国際結婚エージェンシーが売り込む西洋男性のイメージ・・・、これらは実際には、私たちを中身のない幻想へと導く資本主義の道具に過ぎないということを見破る必要がある。<br />
実は、私も異文化に暮らして思うのだが、この「イメージ」というのは私たちのコミュニケーションに計り知れない意味をもっている。例をあげると、私にも「インド人」のイメージや「ドイツ人」のイメージを持っているし、こうしたイメージはそのイメージから例外的なインド人を友達に持っていても未だに根強く残っているほどだ。一方では、西洋ではある「日本人女性」のステレオタイプ(イメージ)が蔓延している事実に気付かされる。このステレオタイプはマダム・バタフライからイエローキャブまでさまざまだが、自分ではまったく関係ないと思っていた自分がそうしたイメージに影響を被るというのは事実である。<br />
<br />
異文化に暮らす経験の真髄は、この私たちが知らずに持っている「イメージ」が繰り返し繰り返し破壊され、新しく作られては破壊され・・・、という経験の連続である。最近の私は、こうした経験を繰り返すなかでしか、自分以外の他人とお互いにより深い理解に近づくということはないのではないか、と思う。言い方を換えれば、自分の持っている「イメージ」に固執した他者とのかかわり方に創造的で発展的な意味はない、ということである。<br />
<br />
本著が出版されてすでに10年が過ぎているが、日本の状況はどう変わっているのだろうか。「国際化」の内情が実は「空洞化」であったなど、誰が信じるだろうか。しかし、私たちはよりものごとの表層に現われない部分を見る必要がある。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-8082327108242306632012-03-27T16:30:00.001-07:002012-03-28T15:06:39.858-07:00幼児期にマルチカルチャー環境で育った子ども先日、ある保育園に行ったときのこと。<br />
<br />
門を入ってきた夫に向かって、あるひとりの園児が「あんた、だれ?」と言って私はかなりカンカンになったのだが、まわりの子どもたちの反応を見ていても、あきらかに「ガイジン」が来たことに興味を示し、興奮している。子どもだから、その反応はどこまでもストレート。<br />
<br />
それに親子3人で町を歩いているとジロジロと見られることも多い。おばちゃん、子どもは特にそうだが、なかでも年配の人のなかには、まず私の方を見て、夫を見て、それからエリックをジイーッと見て、またまた私を見て、エリックを・・・、という念の入れ方でこちらを見てくるので、私もつい「ちょっと、そこまでしないでよね・・・」と眉をしかめてみせる。ちょっとこういうのはトロントではなかったので、面倒に思う。<br />
<br />
それで思うのがトロントの幼児教育環境。エリックのデイケアでは、多様なethnic backgroundをもつECE(幼児教育の先生)がいて、子どもたちの民族構成も同じように多彩だった。この多様性は決して「人種」や「肌の色」「目の色」として語られることはなく、あくまでもそれは言葉や習慣を含む「文化」としてとらえられていた。ECEも、キンダーガーデンの先生も、外見で判断したり、外見をとやかく言ったりすることは絶対になかったし、これはあれだけのマルチカルチャー都市トロント社会では常識である(ほとんどすべてのinstitutionでinclusivenessの重要性は文書化されて配布される)。<br />
<br />
こんなトロントで育ってきたエリックは、今まで一度だって「人種」や「肌の色」に関する発言をしたことがなかったが、昨日、初めてそれらしきを聞いた。小さな路地を歩いていると、後ろから白人の男性(明らかに日本ではマイノリティ)がやってきた。エリックはその人に気付いて「カナダ人みたいな人だね」と言ったのだった。年齢のせいなのか、はじめて日本に来て外見の違いに気付いたのかわからないが、私はこの発言にいろいろと考えさせられた。<br />
<br />
Colour blind(カラー・ブラインド)という言葉がある。多文化環境で育ったりしたときに、肌の色や外見の違いに気付くことさえない、という状況のことで、一時はポジティブな意味合いで使われていた。マルチカルチャーで育った子どもたちは、外見の違いで区別することなく、その違いを当然と受け止めるだろうから、人種差別をなくすにはマルチカルチャー環境で育てるのが有効、という主張もあった。<br />
しかし、今はこういう主張はほとんど聞かれない。エリックのように、幼少のうちは周囲の大人が発言に気をつけていればカラー・ブラインドになる。でも、子どもの知的発達の第一歩は「違いに気付く」ことで、それを否定することはできない。これまで多文化社会で生活してきて思うのは、差別発言をなくすためには、各人の恒常的で意識的な努力がなくてはならない、ということ。当然、それ以前に「なぜ差別がわるいのか」に対する各人の気付きがなくてはならない。私には、差別のない社会とは、このあたりを繰り返し繰り返し問いただされる、ある意味で厳しい環境でなくてはならないと思われる。カナダに暮らして常に感じたのは、多文化社会はそういう意味でも差別に対するガードが常にはられている状況だということ。日本の環境を見ると、差別的行動や差別的発言に「甘い」と思う。差別的発言があった場合、それを糾弾する力が非常に弱い。<br />
エリックを見て「ハーフ?」という質問を受けることがあるが、それもほんとうはやめてもらいたい。外見だけに焦点をあてた言葉遣いをずっとしていると、子どもは外見のほうにフォーカスをあてていくだろう。<br />
<br />
幼児期に多文化環境で育った子どもたちを見てきた私は、日本の子どもたちが「ガイジン」を見たときの反応に驚いているわけだが、それは子どもたちというより、日本の大人たちの意識を反映しているのだろう。<br />
「子どもは大人の鑑」、言い得て妙、というべきか・・・。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-22033883062635275122012-03-25T15:46:00.000-07:002012-03-25T15:46:25.021-07:00日本の幼児教育の印象帰国してすぐにやらなくてはならなかったことのひとつはエリックの保育園探し。アパートを探しに行ったその帰りにはすぐに近所の保育園を2,3軒まわってみた。<br />
<br />
<div> </div>ところで、そのころ日本の育児環境にまったく無知であった私には、「保育園」と「幼稚園」の差すらわからなかったのだが、アポイントもとらず市役所の保険福祉局子育て支援部にお邪魔してお話を聞いたり(お茶まで出していただいた)、保育園や幼稚園で的外れな質問をするうちに、いろいろとわかってきた。<br />
<br />
<div> </div><ul><li>「保育園」は、京都市の各区役所の福祉事務所が管轄。大半が民間経営であり、市営は数が少ない。一方で「幼稚園」は私立で、社団法人京都市私立幼稚園協会に加盟している</li>
<li> 「保育園」に入るには諸々の条件をクリアしていなくてはならず、市の福祉事務所に申請書を出し、審査にとおらなくてはならない</li>
<li>保育園も幼稚園もカソリック系のところが案外とあるのだが、別にカソリックでなくても入園はできる</li>
<li>保育費用は、親の前年度の所得によって決まる</li>
<li>時間は保育園の方が長く(最長で7時半から6時)、幼稚園は昼間約5時間とフルタイムで働く親には無理</li>
</ul>・・・というわけで、私がフルタイムで働くことになっているので、エリックは保育園に預けることになる。ただ、今の時点では、幼稚園と保育園でカリキュラムの内容などがどう違っているのかは不明(東京に住む妹によれば、「お勉強させようと思ったら幼稚園。保育園は遊ばせてくれるところ」らしいが、これは主観的な意見だろうね・・・)。<br />
<br />
<div> </div><br />
<div>さて、2,3軒、保育園をまわってみて、正直言って私、びっくりした。どこの保育園でも、子どもたちが非常にワイルドに走り回っているのだ。若い先生たちもいっしょになって(体を張って?)走り回っている。そう、その姿を見ながら、「ワイルド」という言葉が私の頭をグルグル駆け巡っていた。</div><br />
<div> </div><br />
<div>おまけに、夫に向かってある子どもが「あんた、だれ?」と言うのを(日本人ではないからだろう)、先生たちは笑って見ているだけ・・・。私、つい「そういう言い方はしないのよ!」と言ってしまった。そのあと、別の場面で男の先生が園児に向かって「おい、おまえ、さっき言ったやろ?」と笑いながら言っているのを見て、これまた驚いた。こんな言葉を先生が子どもに使うとは!</div><br />
<div> </div><br />
<div>トロントの幼稚園しか知らない私には、驚くべきカルチャーショーック!</div><br />
<div> </div><br />
<div>トロントのKindergartenでは、毎日、子どもたちはいろんなことを学んでいた。大きくわけると、図書館(読書、読み聞かせ)、音楽、運動、コンピュータなどが、それぞれ1日のメイン・スケジュールになっていた。私が見た感じでは、「お遊び」というより、しっかりとした「教育」がなされていた。悪い言葉遣いはその場で直されるし、必ず「Please」と言うように教えられる。混沌たる状況ではなく、先生がやはり高い立場にいてDisciplineがしっかりとなされていた。先生は子どもに対してはひとりの人間として扱い、頭ごなしに何かをしかりつける、というやり方はしてなかった。デイケアですらそれは同じだった。</div><br />
<div> </div><br />
<div>一方、日本の幼稚園は「先生の情熱」みたいなのが何より大切にされているような気がした。先生が「自分の見ている子どもが好き!」という態度を持っていれば、あとは何がどうあってもよい、というような・・・。細かいことは言わずに、愛情をもっておおらかに育てる、ということが非常に重要視されているというような・・・。違うかな? </div><br />
<div> </div><br />
<div>トロント市では、それぞれのkindergartenはトロント市教育委員会が管轄しているため、先生たちはしっかりと市教育委員会のカリキュラムに従って教育目的を設定したうえで子どもたちの活動を選んでいる。自らの政治遺産として教育改革を残したいと切望しているマギンティ(オンタリオ)州首相にとって、数年前から取り組んできたオールデイ・キンダーガーデン(小学校と同じ時間帯で)は肝心要の政策に違いなく、2013年にはすべての学校でオールデイ・キンダーガーデンが実施される見込みになっている。</div><br />
<div> </div><br />
<div>この背景には、従来、「親が子どもを預けるところ」とみなされてきた幼稚園を、「生涯続いていく教育の初歩的基盤」と見直す風潮がある。カナダでは幼児教育研究者や教育専門家、政府関係者などが、こぞって(明らかに世界では最先端)北欧モデルの教育システムを注視しており、最近の研究でも、早期幼児教育の重要性(学力や生活力への影響など)が次々と証明されている。なかでもLiberal党は、国民全体の教育水準を高めるための施策として、早期幼児教育に非常な期待を寄せている(ように私には見える)。</div><br />
<div> </div><br />
<div>先にも述べたが、トロントではエリックの幼稚園では、子どもたちはすでに4歳からコンピュータを触っている。簡単な数字ゲームをするような感じだが、それでもそこには教育におけるコンピュータ・リテラシーの重要性への気付きがある。そこには「どのような国を目指すのか」に対するカナダ政府のしっかりした答えがあり、「オールデイ・キンダーガーデン」は、それを達成するための施策であるのだ。</div><br />
<div> </div><br />
<div>「先生たちの情熱」、「愛情をもって育てる」、「体を張って子どもに向き合う」・・・、確かに結構である。でも、私にはこれだけあればすべて何とかなるような幼児教育環境で育ってきた子どもたちが、小学生のうちはまだいいが、中学・高校と進学して大人を含め他者とのあいだに大きな問題に直面する可能性があるのは明らかだ、という気がする。</div><br />
<div> </div><br />
<div>さて、話が長くなったが、いくつか保育園をまわってみて、こんなことをあれこれ考えながら、正直言って「日本の幼児教育は遅れている」という印象を受けた。それは政府が幼児教育の重要性を認識していない、子どもたちを将来、国を担っていく国民に育てるための責任を認識していない、そのため、組織的に対応ができていないことが根本にあると思うし、政府の無策が批判されもしない状況がちょっと理解できない。</div>篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com3tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-25798161914404773602012-03-24T22:49:00.000-07:002012-03-24T22:49:37.149-07:00カルチャーショック日本京都に引っ越してきた。13年ぶりの京都は見慣れている風景に、へんてこなものや奇妙なものがたくさん詰まった町に感じられる。最近思うところをいくつか書き出してみよう。<br />
<br />
<ul><li><span style="color: #38761d;">観光客が減った? </span></li>
</ul> 先日も近所の岡崎あたりを散策していて思ったのだが、「圧倒的に観光客が減っている」。私が学生だったころは、もっともっとたくさんの外国人観光客がいて、八坂神社や清水などに行くと英語やドイツ語があっちこっちから聞こえていたものだ。しかし、ところが、もう少し時間が経つと、観光客そのものが「圧倒的に」減ったのではなくて、観光客の内訳が変わっているのだということに気付いた。京都以外の日本の団体旅行客だと思っていたら、実は中国語をしゃべっていて、見かけは日本人と区別はつかないアジア(中国)からの観光客だった(これはカナダでも同じで、近年、中国からの観光客が世界中で増えている)。でも、確かにヨーロッパや北米からの白人観光客は減っている。これって原発事故の影響なんじゃないかしらね。<br />
<br />
<ul><li><span style="color: #38761d;">自転車の勢いのすごさ</span></li>
</ul> まあ、自転車勢のすごいことといったら! 京都は学生のまちだから自転車を使う人口が多いのかもしれないが、そのアグレッシブさは半端じゃない。学生はもちろん、おばちゃんたちやおじいちゃんだって負けちゃいない。後ろから、「キーッ!!」というブレーキの音とともにすごい勢いで迫ってくる。狭いところをここぞとばかりにやってくるし、車にも大接近するし、歩いている4歳児エリックも、私も、何度か轢かれそうになっている。友人によれば、自転車に轢かれて死んだ人もいるとか。気をつけなくっちゃ。<br />
<br />
<ul><li><span style="color: #38761d;">官公庁が古い。</span></li>
</ul> 京都府庁と京都市役所に行ったときに、その風貌の古さに度肝を抜かれた。カナダでの最新鋭の情報テクノロジーとピカピカのキュービクル・オフィス、オンライン化に慣れていた私にとっては、すべてが「古い=旧時代的」に映った。ミシミシと音を立てる木の床(フローリングといえるのか?)、コンピュータ以外は古めかしいオフィス機器、ねずみ色の事務用ロッカーや机、椅子・・・。職員の腕に巻かれた事務用腕カバー(というのかね?)に「キャー!」っと思い、向こうからやってきた職員が私の前に「ギギギー!」という椅子の音を立てて座り、「はい、何でしょうか?」と言ったときの、その人のタバコ臭までが、すべてカルチャー・ショックだった。<br />
<br />
それに何もかもがまだ紙上でやられている。何とか届けや何とか交付書など、いちいちこちらが書面で「申込書」を書かなければならない(それに印鑑がいるし)。カナダだったら、こんなことはオンライン上で簡単にできる。それで思い出したが、トロント市の各オフィスでは「無駄を出さない(efficiency)」ことを非常に重要なことと考えていて、できるだけ不必要な紙を出さないことをインターンをしていた私も強く言われた。「オンラインで情報があるんだったら、わざわざ紙に印刷して配る必要はないでしょ」というのが、市の言い分だった。トロント大学の政治学者Janis Stainがずいぶん前に主張していたように、北米ではEfficiency(効率性)という価値がいろんな組織で幅をきかすようになっているが、オンライン化もその現れのひとつと見える。さて、一方、日本の市役所や府庁のオフィスを見ると、山のように紙の書類が詰まれていたり、ねずみ色のロッカーにファイルでまとめられていて、あれをどこかで一括的にデータ処理するのは無理なんだろうな、と余計なお世話的なことを思ったり・・・。<br />
<ul><li><span style="color: #38761d;">オンライン化が思ったほど進んでない</span></li>
</ul> それと関連して、日本ではオンライン化が思ったほど進んでいないこともある。たとえば、カナダでは銀行に預けたお金を他の口座に移したり、払ったりすることがオンライン上で簡単にできるオンライン・バンキングが普通だが、日本ではやっとこのサービスが始まったばかりのような印象を受けた。しかし、このオンライン・バンキングを利用するために、まず紙上で申込書を書いて郵送する必要があったのには笑ってしまった。<br />
<br />
このほかにも先ほど述べたように官公庁で書面という形式がいまだにひろく使われていることもそうだが、情報はおもに紙ベースだし、ほかにも公共図書館に自由に使えるコンピュータが置かれていない、WiFiが使える公共の場所が少ない、などインターネットが北米ほど普及していない印象を覚える。それはひょっとするとコンピュータ・リテラシーの低さと関係があるのかもしれない。<br />
<br />
<ul><li><span style="color: #38761d;">禁煙化がちょっぴり進んだ?</span></li>
</ul> 昨日、ふと近所を散歩していた途中、ふらっと「みやこメッセ」に立ち寄った。建物自体は非常に使いやすく、オープンスペースがたくさんあって好印象を覚えたが、小さな池のある中庭のようなスペースでスーツを着たたくさんの人がタバコを吸っていた。もちろん館内はすべて禁煙なのだが、こういう場所にも近くに喫煙スペースを設けていて、困ったことにその煙が館内にもくもくと流れてきている。日本は喫煙者の多い社会なのだと改めて実感。<br />
<br />
喫茶店に入っても案外と喫煙できる喫茶店も多い。お店の半分を喫煙にして、半分のスペースを禁煙にしているところもあるのだけれど、これってタバコ臭アレルギーの私にはどんな意味があるんだろうと思われる。<br />
<br />
でも、徐々にではあるけれど日本社会も禁煙化が進んでいるように思われる。新幹線のぞみに乗ったら、「全車禁煙ですので・・・」と車内放送が流れていて、禁煙車に乗ったものの扉が開く度に煙が流れてきていた2年前に比べればかなりましにはなっているんじゃないかしら。<br />
<ul><li><span style="color: #38761d;">連帯責任を強制される社会</span></li>
</ul> アパートを借りるのに、連帯保証人が必要、というのには困ってしまった。家族はいないわけではないけれど、40過ぎて親や妹家族にお願いして「家賃が払えなかった場合」を想定し、印鑑や印鑑証明を頼むというのが、どうしても腑に落ちない。ティーネイジャーや学生の身であれば「保証人」が必要になるのは理解できるが、それ以外の人に「連帯保証人」を立てさせるというのは、それって昔の「五人組」の考え方が根付いているからなのかと思ってしまう。五人組って、あの、連帯責任を課す制度で、1家族が年貢をおさめられなかったら、のこり4人の家族が何とかする、という「集団の論理」に根ざしたあくどい制度ではなかったっけ。こうして関係ない他人を個人の生活に巻き込む制度は、「個」が何より主体と考えるカナダでは考えられない、とこれもカルチャーショック。<br />
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
こんなことを毎日感じていると、ふと、私自身がもう日本からかなり遠ざかっているのだ、ということに改めて気付く。昨日もスーパーで、買い物客のおばちゃんが紙についている洗剤サンプルのにおいをかいでいるのをマジマジと見ながら、「ふーん、こうやってにおいのサンプルを嗅ぐのね」と心に留めたり・・・。つまり、海外から日本に来た人が感じるであろうことを、12年海外で暮らした私も感じているのだろう。半分日本人で、半分は非日本人の感じ。そして、今しか持てないこの絶妙な距離感を、自分でもとってもおもしろいと思う。いずれ私の感覚も日本人のそれと変わらなくなるだろうから、しばらくはこの距離感をしっかり味わっておこうっと。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-89256384220569276762012-03-24T22:39:00.000-07:002012-03-24T22:39:09.922-07:00日本で暮らし始めるブログのタイトルが「トロントに暮らす、考える」なのに、夫の都合で日本に短期的にやってきて「日本で暮らす、考える」をやっている私。日本人にとって当たり前のことに驚いたり、思ったよりassertiveになっている私自身に驚いたりしている今日このごろ。これからしばらくのあいだ、へんてこりんな日本人として、祖国日本滞在記を綴っていきます!篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-35369469617742948182012-02-15T21:38:00.000-08:002012-02-15T21:38:39.460-08:00ヘボン式って何だ?二重国籍者の子どものパスポート申請が何とも大変だった。<br />
<br />
まず、旅行代理店で航空券を買うのに、航空券の名前はパスポートの名前と同じでなくてはならないと言われる。ま、至って当然のことなのだが、そのとき、エリックはカナダのパスポートしか持っておらず、これから日本のパスポートを申請する、ということになっていた。<br />
<br />
<br />
さて、エリックの名前の表記に関しては母親の私もちょっぴり不安がある。日本の戸籍では、「篠原エリック空」となっている。カナダでは、「エリック・スクリバニック」で通っている(ミドルネームのソラは通常は書かない)。「それって、別人じゃーん!」と知人からも言われる。さて、航空券は、日本のパスポートと同じなのだから、篠原エリック空ということにすればいい。しかし、今度は今まで使っていたマイレージ・プログラムが使えないことが判明(今まではカナダのパスポートで旅行していたから)。残念だが、これはあきらめるとする。<br />
<br />
<br />
次なる難関はパスポート申請用紙の「ヘボン式」。パスポート申請書類には、ヘボン式でエリックの名前を記載しなくてはならない。ヘボン式というのは、日本の「仮名にローマ字を一対一で対応させたもの」(ウィキより)で、日本人の名前には難なく対応させられるが、エリックはERIKKUとなる。<br />
<br />
領事館に行く前には、夫の姓「スクリバニック」などをヘボン式で書かされたらどうしよう、と心配してしまった。「バ」か「ヴァ」も議論の残るところで、それも大切なパスポートなのだから失敗してはいけないだろうとの懸念から、私も深夜、突然起きて考えていたら眠れなくなってしまった(心配性・・・)。結局、その必要はなくてホッとしたのだけれど・・・。<br />
<br />
<br />
それで思ったのだが、こういう経験っていうのはエリックのような二重国籍者にとって典型的なんじゃないか。ふたつの国の基準は違っている。その関係性がうまくいかずチグハグなこともある。その狭間にあって、二重国籍者は1つの国籍しか持たない人に比べると、思わぬような問題に遭遇する可能性も高いんじゃないだろうか。日本という国は、「規格外」の人にとっては非常に住みにくい国なんじゃないか。そんな予感を覚えた。<br />
<br />
それにしても、私には意味のわからない、このヘボン式、そもそも何のためのものなのだろうか・・・。必要あるんだろうか・・・。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-72601162412407967542012-01-27T06:34:00.000-08:002012-01-27T06:34:02.360-08:00放射能から身を守る方法恐らく日本に住んでいるとピンとこないかもしれないが、海外で放射能被害を研究している専門家の一部では、「日本では放射能被害が広がっている」という事実はもう常識。この常識を前提として「では、どうすれば放射能被害を最小限に抑えられるのか」という議論がなされている。<br />
<br />
<br />
以前、このブログでもご紹介した放射能専門家のクリストファー・バルビー博士は、放射能を取り込まないための方策としてカルシウムとマグネシウムのサプリメントを摂取することを推奨していた。同じように、Mark Sircusという医師は「放射能被害からDNAを守るマグネシウムとカルシウム」というタイトルのブログを載せ、バルビー博士の主張をサポートしている。このサイトには先述したマグネシウムとカルシウム摂取を勧めるバルビー博士のYou Tubeビデオも転載されている。<br />
<a href="http://blog.imva.info/medicine/magnesium-calcium-protect-dna-radiation">http://blog.imva.info/medicine/magnesium-calcium-protect-dna-radiation</a><br />
<br />
<br />
また、アメリカのドクターであるキャロリン・ディーンのインタビューでは栄養素による放射能に対する処方が紹介されている。彼女の肩書きにはNutritional Magnesium Associationのディレクターとあるので、マグネシウム効能のプロパガンダと見えるかもしれないが、こうしたオルタナティブ療法も一応頭に入れておく必要があると思われる。<br />
<a href="http://www.nutritionalmagnesium.org/articles/nutrition/304-magnesium-supplements-a-radiation-remedies.html">http://www.nutritionalmagnesium.org/articles/nutrition/304-magnesium-supplements-a-radiation-remedies.html</a><br />
<br />
<br />
以下はCarolyn Dean(Medical Director,Nutritional Magnesium Association)のインタビューの抜粋。<br />
<span style="color: #0c343d;">ただちに現れる放射能被害の症状とは?</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">「放射能は免疫機能に大きな弊害をもたらし、体内の多くの栄養素を破壊します。甲状腺は放射能被害を受けやすい。甲状腺はホルモンを体内に送り、多くの体機能を司る一助となりますが、もしその機能がうまく働かなかったり疲弊していれば、エネルギーの低下、体重が徐々に減ったり、メタボリズムや排泄機能および思考過程の遅れ、さらには体温の低下や不妊といった症状として現れます」</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">放射能にさらされると、長期的にはどんな健康被害が見られますか?</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">「がんや遺伝子の突然変異が見られます。これらは、頭および脳の大きさが通常より小さかったり、目が完全に発達しない、成長がいちじるしく遅い、あるいは精神遅滞、知的障害として現れます」</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">放射能被害を最小限に抑えるにはどんな方法がありますか。</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">「1日に1回、150ミクログラムのイオダイン(ヨウ素)127を取ること。そのためには、1日に5~10グラムの海草をとることが有効です。日本語では「昆布」として知られている海草が最もヨウ素を多く含んでいます」</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">「また、ポタシウム・イオダイン(ヨウ素カリウム)の摂取も有効です。しかし、ポタシウム・イオダインは大量に摂取すると副作用が懸念されるため、核炉心メルトダウンが起きた15マイル以内の範囲にいる方々に対して緊急用として与えられます。ですから、医師や保健機関など専門家によって放射能が居住地域に到達したという明確な通知がない限り摂取すべきではありません。FDA(アメリカ政府食品管理局)は以下のポタシウム・イオダイン摂取量を安全と承認しています。1ヶ月以内の乳児:16mg、1ヶ月から3歳:32mg、3歳から18歳:65mg、成人:130mg」</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;"><br />
</span><br />
<span style="color: #0c343d;">「放射能を体外に排出する他の方法としては、ハーブの一種、タイムのお茶を摂取することです。1テーブルスプーンのタイムを沸騰したお湯に入れ、20分間蒸らします。これを冷まし、タイムを取り除いて1日2杯飲みます。このお茶は、クレンジングや血液のリンパ管、さらには甲状腺や胸腺にも有効です。昆布などの海草、味噌汁も放射能の害を減少させる役に立ちます」</span><br />
<br />
<br />
うーん、味噌汁に海草、昆布。海草が汚染されていなければ、の話だろうけれど。対放射能療法のマグネシウム+カルシウムのサプリメントについてはこれからもちょっと勉強して、またアップします。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2412182304043404417.post-48813007208283508702012-01-23T09:19:00.000-08:002012-01-23T09:19:08.538-08:00日本の大手メディアは民主主義の大敵The Economistの記事。<br />
<a href="http://www.economist.com/blogs/banyan/2012/01/japans-nuclear-crisis">http://www.economist.com/blogs/banyan/2012/01/japans-nuclear-crisis</a><br />
<br />
この記事を読むと、どれだけ日本の大手メディアが日本の民主主義を腐らせているかが明らかである。政府と記者クラブ(メディア)の癒着、メディアの自己センサーシップ・・・、日本人なら薄々知っているこうした情報を、日本のジャーナリズムではなく、西欧のジャーナリズムが指摘するという事実が何とも情けない。篠原ちえみ Chiemi Shinoharahttp://www.blogger.com/profile/16783266292766864148noreply@blogger.com0