Tuesday, March 27, 2012

幼児期にマルチカルチャー環境で育った子ども

先日、ある保育園に行ったときのこと。

門を入ってきた夫に向かって、あるひとりの園児が「あんた、だれ?」と言って私はかなりカンカンになったのだが、まわりの子どもたちの反応を見ていても、あきらかに「ガイジン」が来たことに興味を示し、興奮している。子どもだから、その反応はどこまでもストレート。

それに親子3人で町を歩いているとジロジロと見られることも多い。おばちゃん、子どもは特にそうだが、なかでも年配の人のなかには、まず私の方を見て、夫を見て、それからエリックをジイーッと見て、またまた私を見て、エリックを・・・、という念の入れ方でこちらを見てくるので、私もつい「ちょっと、そこまでしないでよね・・・」と眉をしかめてみせる。ちょっとこういうのはトロントではなかったので、面倒に思う。

それで思うのがトロントの幼児教育環境。エリックのデイケアでは、多様なethnic backgroundをもつECE(幼児教育の先生)がいて、子どもたちの民族構成も同じように多彩だった。この多様性は決して「人種」や「肌の色」「目の色」として語られることはなく、あくまでもそれは言葉や習慣を含む「文化」としてとらえられていた。ECEも、キンダーガーデンの先生も、外見で判断したり、外見をとやかく言ったりすることは絶対になかったし、これはあれだけのマルチカルチャー都市トロント社会では常識である(ほとんどすべてのinstitutionでinclusivenessの重要性は文書化されて配布される)。

こんなトロントで育ってきたエリックは、今まで一度だって「人種」や「肌の色」に関する発言をしたことがなかったが、昨日、初めてそれらしきを聞いた。小さな路地を歩いていると、後ろから白人の男性(明らかに日本ではマイノリティ)がやってきた。エリックはその人に気付いて「カナダ人みたいな人だね」と言ったのだった。年齢のせいなのか、はじめて日本に来て外見の違いに気付いたのかわからないが、私はこの発言にいろいろと考えさせられた。

 Colour blind(カラー・ブラインド)という言葉がある。多文化環境で育ったりしたときに、肌の色や外見の違いに気付くことさえない、という状況のことで、一時はポジティブな意味合いで使われていた。マルチカルチャーで育った子どもたちは、外見の違いで区別することなく、その違いを当然と受け止めるだろうから、人種差別をなくすにはマルチカルチャー環境で育てるのが有効、という主張もあった。
しかし、今はこういう主張はほとんど聞かれない。エリックのように、幼少のうちは周囲の大人が発言に気をつけていればカラー・ブラインドになる。でも、子どもの知的発達の第一歩は「違いに気付く」ことで、それを否定することはできない。これまで多文化社会で生活してきて思うのは、差別発言をなくすためには、各人の恒常的で意識的な努力がなくてはならない、ということ。当然、それ以前に「なぜ差別がわるいのか」に対する各人の気付きがなくてはならない。私には、差別のない社会とは、このあたりを繰り返し繰り返し問いただされる、ある意味で厳しい環境でなくてはならないと思われる。カナダに暮らして常に感じたのは、多文化社会はそういう意味でも差別に対するガードが常にはられている状況だということ。日本の環境を見ると、差別的行動や差別的発言に「甘い」と思う。差別的発言があった場合、それを糾弾する力が非常に弱い。
エリックを見て「ハーフ?」という質問を受けることがあるが、それもほんとうはやめてもらいたい。外見だけに焦点をあてた言葉遣いをずっとしていると、子どもは外見のほうにフォーカスをあてていくだろう。

幼児期に多文化環境で育った子どもたちを見てきた私は、日本の子どもたちが「ガイジン」を見たときの反応に驚いているわけだが、それは子どもたちというより、日本の大人たちの意識を反映しているのだろう。
「子どもは大人の鑑」、言い得て妙、というべきか・・・。

No comments:

Post a Comment

コメント大歓迎です!