失ったものを嘆いて今、目の前にあるものの良さを忘れてしまうのは、これまで私が人生のなかで繰り返してきたこと。そしてその度に、愁嘆を追い払おうと努力してきた。
「可能的現実」という言葉はありえないだろうが、「ああしておけば、こうなっていただろう」あるいは「ああしていなかったら、こうはなっていなかっただろう」という想像にばかり足を入れていると、本当によくないことは経験済み。
カナダのことを思うと本当に辛くなることがある。まだホームシックを感じている。
そう言うと、Your home is here, in Japan!と言われるのだが、日本で生まれ育ち、人生の大半を日本で過ごしてきたという事実はあるものの、やっぱり私にとってはカナダの方が快適な部分もかなりある。
私が何よりも「カナダをHomeとして選んだ」理由のひとつは、イデオロギー的にあっているということがある。私の政治思想や物事の考え方そのものは、カナダ社会のマジョリティとかなり一致する部分が多い。だから、カナダにいると政治的・社会的に「腹が立つ」ことが少ない。日本にいると私は苛立ってばかりなので、(あんな馬鹿馬鹿しい番組ばかりやってる)テレビは最初から持っていないが、日本の新聞も読まないことにした。
私にとっては社会正義や人権の尊重は何より大切なものだから、そういう意味で日本社会は疑問に思わざるを得ない点が多くて、正直言って日本人として辛い。
その一方で、やはり日本も快適だと思う。何より言葉が簡単に通じる。カナダではとくにカスタマー・サービスや政府関係に電話したりするのが何とも億劫だったが、それがまったくない(もとからの電話ギライというのはあるにしても)。
それに、日本ではカスタマー・サービスをはじめとするサービス関係の分野で働いている人たちの対応がとにかくすばらしく「プロフェッショナル」だ。夫とも話すのだが、カナダだったら、たとえばIt’s not my businessという言葉やYou have to go to …という言葉で、ひとつの情報を求めようとすると、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはいけないのだが、日本ではその煩雑さ、手間がない。それで思い出すのは、トロントでTTCのストリートカーの運転手が、路線を走っている最中だというのに、途中でストリートカーをとめて、コーヒーを買いに行き、悠々と帰ってきたこと。私はそれを見て唖然としたものだが、他の乗客は別に何事もなかったようにしているし(今から考えると、これは都会の人の被っている仮面なのかもしれない)、同じような経験があるという知人も何人かいた。日本では、たぶん、ひとりひとりがその仕事に関してプロフェッショナルなんだと思うが、この違いは一体何なんだ、と思ってしまう。
話は戻るが、「可能的現実」に関していえば、カナダにずっと暮らしていれば快適なこともあったが、不便なこともあっただろう。日本でもそれは同じだということにも気付く。完璧な社会というのはありえないのだから、世界中のどこにいても不便はある。
ただ、社会にコミットせずにその社会に生きる、というのは私には非常に辛い。最近、サルトルのいうアンガジュマンのことをやたらと考えている。
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