(『日系の声/Nikkei Voice』2009年1月号掲載)
トロントの日本人学校で教えていたとき、生徒がクラスのなかで不意に発したり、書かせた作文に現われる同一のエピソードがあった。「現地校(カナダの学校)でクラスメイトから、過去にアジアでひどいことをした日本人は嫌いだから君とは口をきかない、と言われた」というものである。そう言う子どもたちは、困惑したような、悲しいような、怒ったような複雑な表情をしていた。
その話題が持ち上がるのが授業やホームルームであれば、同じような経験がある人はいるかと尋ねた。すると、半分ほどが手を挙げるのだが、その挙手の仕方がまるで自分が悪いことをしたかのような仕方で、じっと座っている生徒のなかにも同じような経験をしている生徒がいるのだろうと思わずにはいられなかった。その度に、まだ幼い表情の彼らが感じたであろう痛みを思い、胸が痛んだ。
カナダの学校に通う日本人の生徒(日本生まれ、カナダ生まれを問わず)のなかに、こうした苦い経験をする子どもたちが少なからずいることに、私たち大人は敏感である必要がある。そして、こうした経験に対し、どう反応したらよいのかを考えさせておくことは、彼らを守るべき立場にいる私たち大人の義務だとも思う。「日本人はキライ」コメントを耳にしたとき、子どもたちに教えておきたい点を三点に絞って挙げてみたい。
1.一般化の危険性
「日本人はキライ」コメントが現われると、私たちはいつも授業を中断して、話し合いをしたものだ。まず、そう言われたときにどんな気持ちだったかを聞いてみることから話し合いは始まった。彼らは口々にこう応える。
「いやな気持ち」「悲しい」「腹が立つ」
感情はパワフルだし、そのときに感じた感情は、今、こうして再びそのことを思い出すだけでもよみがえって来るようで、数人はそう言いながら本当に怒ったような、つっかかるような表情をしていた。次の「どうしてそんな気持ちになったんだと思う?」という質問には、手をあげた生徒のほとんどが「僕は何もしていないのに僕が悪いことをしたかのように言われたから」と答えを出す。
そのあたりをもう少し深く話し合ってみて、私たちが導き出した結論は「過去、日本が他国にひどいことをしたからといって、すべての日本人が凶悪な人間であると仮定するのは間違っている」で、これについては、ほぼ全員がすんなりと納得がいくようだった。次の「では、私たちも同じような一般化をして、友達や、まわりの人たちを判断してはいないだろうか」との問いには、「アジア人は数学が得意」「インド人は計算が得意」「黒人は運動能力が優れている」「ロシア人はよくお酒を飲む」といった答えが出されてくる。そして、ここで必ず数人が「ステレオタイプ」という言葉を教えてくれる。
ある個人をグループの一員として一般化して考える際には、個人の感情を傷つける危険性がある。私たちの社会では、まず何よりも個人が優先されるべきであって、グループ分けをするときには個人の感情を害していないかを慎重に考慮すべきである点を教える必要がある。子どもたちが肌で感じた納得のいかない気持ちは、言われた人の個人としての資質を無視して、グループの一員として一般化して個人の個性が矮小化、あるいは無視されたことである。それを、一人ひとりが自分の気持ちを反省しながら気付き、たどたどしくはあるが自分のことばで表現する姿を見ていると、この苦い経験も人権についての大きな教訓になるだろう、と感じずにはいられなかった。
2.「正しい歴史」の落とし穴
あるとき、他の教師たちに「日本人はキライ」コメントについて話しているとき、彼らも同じようなコメントを生徒から聞いたことがあると言った。その後の会話を聞いていると、「だからこそ、生徒が過去に何が起こったのかを堂々と相手に伝えることができるように、日本人として日本の正しい歴史を教える必要がある」という意見が大半のようだったが、私はこれには賛成しなかったし、今も賛成しかねる。
過去に何が起こったかをできるだけ正確に教えることは必要だ。しかし、それと同時に必要なのは、さまざまな立場の人たちがひとつの「事実」をめぐってさまざまな解釈をする可能性がある点を伝えることだと思う。そして、このことは、とりもなおさず歴史を教えるべき立場の私たちが必ず念頭に置いておかねばならないことでもある。子どもたちは、昨日の夜のお父さんとの口論をお父さんから聞くのと、A君から聞くのとではまったく話が違ってくる、という簡単なエピソードで、その点を納得していたものだ。
「カナダの太平洋戦争に関する歴史教育は偏っている」「中国や韓国の歴史観は偏っている」という言葉を子どもたちに伝えれば、彼らに保身の術を与えるどころか、彼らを孤立させてしまう可能性すらある。ジョージ・オーウェルの言葉「現在を支配するものが過去を支配し、過去を支配するものが未来を支配する」を脳裏に刻み、それぞれの立場の人が主張する「正しい歴史」の落とし穴を子どもたちに教えるようにしたいものだ。
3.歴史を自分の言葉で語る
時折、教室で不意に現われる「ブッシュは悪い」とか「日本の政治家は汚い」といったコメントと同様に、その中身を深く追求しようとすると口ごもって答えられない程度の曖昧なものではあるが、多くの生徒は「過去に日本は悪いことをした」という感覚を漠然と持っている。その結果は、「後ろめたい」「堂々とできない」といった言葉に表れるようなネガティブな態度として帰結する。
彼らが歴史を曖昧にしか知らないことは、「日本人はキライ」コメントに出会った彼らを苦しめる原因のひとつとなっている。漠とした曖昧性は、私たちの理性的判断を狂わせ、感情面においては不安を呼び寄せる。「悪いこと」とは何なのか、いつの時代に何が起こって、それはどういう結果を生んだのか。そうした点をしっかりした情報に裏付けられた知識とすることで、子どもたちは歴史のできごとを自分のものとし、それに対する自分の言葉を持てるようになる。彼らが友達のコメントにどう反応するかは、子どもたちの判断に任せればいい。ただし、子どもたちが日本人であることを恥ずかしがったり、その事実に対して怒りを表すのではなく、理性的に反応できるように日々の生活のなかで歴史を学ぶチャンスを与え、調べた結果や感想を話し合うプロセスを導いていくのは、私たち大人の役目である。
歴史は過去のことではあるが、同時に現在・未来を生きる私たちの頭上に長い影を落とす。それは、友達から「日本人はキライ」と言われた子どもたちには、はっきりとした事実として感じられることだろう。「そんなとき、どうしたらいいの?」という胸をえぐるような悲しい問いに、私たちはどう答えるのか。海外に暮らす子どもたちにとっては、私たち大人はすべて歴史の教師であることを、しっかりと覚えておきたい。
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