Monday, August 23, 2010

Japan issues apology for colonial rule of Korea-The Globe and Mail, Aug.10,2010

管直人首相が首相談話のなかで、韓国の植民地支配に対する謝罪を発表したと記事で読んだ。
カナダをはじめとする西欧社会におけるメディアや世論は、日本はドイツに比すれば「過去に対する反省が見られない」という意見が一般的。

私の個人的な意見をいうと、日本には過去に対する反省をしている個人はたくさんいるけれど、虚勢をはったり、無知や狂信ゆえに失言を繰り返す政治家や、「日本は神の国」と未だ信ずる一部市民の行動によって、そうした反省はかき消されている、と思う。とりわけ、これまでの首相をはじめとする政治的指導者たちが、未だ西洋に対するInferiority complexの裏返しとしか言いようのない極めて危険なNationalismにしがみついているため、Rationalな言動が取れずにいる。

思うに、ドイツと日本の違いは、一般の国民の過去に対する反省の有無というより、指導者の力量の違いにある。日本の指導者には国の行く先が見えないのだ。アデナウアーやウィリー・ブラントは国民の大部分が謝罪を求めていたから謝罪したのではない。彼らは、謝罪と反省のうえに戦後ドイツの混乱したアイデンティティを負の方向から正の方向へ転換することに成功した。戦争に負けること、謝罪が「負け」であると考えるのは短絡的で、ドイツの謝罪と反省はむしろ敗戦国ドイツ・戦争犯罪国ドイツを国際的「勝ち組」にした。日本の政治家はといえば、未だ「南京虐殺がなかった」だのと「井の中の蛙」的な寝ぼけたことを繰り返し、そのたびに国際社会の顰蹙を買っている。靖国の博物館がどれだけ非日本人の笑いものになっているか、知っているのだろうか。こうしたことすべてが、国益(経済的・政治的・国際的評価)にとってどれだけマイナスになっているか、考えたことがあるのだろうか。未だに日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)の不平等条約のトラウマから逃れられず、何が何でも「海外の言いなりにはならない!(謝罪はしない)」と力み、「武力と精神力さえあれば何でもできる」と半世紀前に崩壊したColonialismの呪縛から逃れられない政治指導者って、本当に情けない。

国のためを本当に思うなら、戦後以来連綿と続き、日本のねじくれたアイデンティティを「和解」のもとに「道徳的リハビリテーション」のもとに、ここらできちんと立て直すことだ。ひねくれ、ねじれてゆるゆるになった土台のうえに、このまま日本の将来を積み重ねることは自殺行為に等しい。

「謝罪をすれば次はとめどない賠償金要求につながる」と恐れる声も聞かれるが、私なら、いくら賠償金を払っても、国際的信用と評価を取り戻し、日本人としてまったく新しい戦後アイデンティティを身につけ、国民が裸一貫からまた国を作り直していくことの方がよっぽど凛として、さっぱりしていてよい。謝罪と賠償を済ませない限りは、私たちはいつまでたっても国際的に「虐殺の反省もしない不道徳な国民」としていくらがんばってもそのがんばりが正当に評価されないだろう。

管首相の謝罪、プロセスとしてA評価をあげたい。

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