Tuesday, January 11, 2011

One of the greatest novels I have ever read--Life of Pi (Yann Martel)

この記事は、日本語訳が出ているヤン・マーテルの「パイの物語」を英語版で読んで書いた感想です。

書評となるとかなり辛口の私だけれど、この小説はどう考えても今まで読んだ数多くの小説のうち最も完璧な小説のひとつに違いない。

2001年に発表されたこの小説は、カナダ人作家 (!) Yann Martelの2作目。10年たった今頃読み終えて、どうしてもっと早く読まなかったのだろうと悔やまれる私だけれど、当時、この小説がメディアで「最後にどんでん返しを食らう」という部分がひっかかっていたのだと思う。しかし、ひるがえって考えると、なぜこの小説がこの点に限って強調されたのかが今更ながらに理解できる。たしかに最後には大どんでん返しが待っている。とはいえ、その点だけが強調されるならば、この小説をヤン・マーテル(Yann Martel)が書いたポイントはまったく外れてしまうだろう。Yann Martelの関心は、「物語」「サバイバル」「信仰/宗教/神」にあって、この小説を読む読者はそのすべてを余すところなく考えさせられる。この小説は、どんでん返しなんかよりずっとずっと奥深い形而学的な小説なのである。

カナダ人作家がポンディチェリ(南インドの都市)のカフェで隣に座った老人と会話をする。その老人は、彼が作家だと知ると、”I have a story that will make you believe in God”.(神がいることを信じさせてくれる話がある)と言って、彼の知人のストーリーを話し始める。

小説の大部分はその話の内容、Piというポンディチェリの少年が家族とともにカナダに船で移住する途中で、太平洋上で遭難し、動物とともに小さな船の上で226日を過ごした話になっている。その前の章では、Piと宗教の関係を軸として、Piの過去(ポンディチェリでの生活)と現在(カナダで家族とともに暮らしている)が交錯して語られる。最後の章は、貨物船沈没の真相を探る日本人2人(船はOika汽船という日本の船が所有)がPiを尋問する様子とその内容が描かれる。そして、この部分で、日本人2人が前章(小説の大部分)で語られたベンガル・トラと漂流したPiの話をまったく信じないことから、Piによって最終的に「もうひとつの物語」が語られることになる(”You want a story without animals… Here’s another story”-動物が出てこない話を聞きたいわけですね。・・・では、もうひとつの物語を話しましょう…)。

1.小説、物語、ストーリーテリング(語り)とは
小説の冒頭、Author’s Noteとして、「書き手」がなぜこの小説を書くに至ったかを語る部分がある。この部分の終わりで、この小説を執筆するうえで援助を提供してくれた人たちに謝辞を述べるのだが、最終部分はCanada Council for the Arts(カナダ芸術評議会)の助成金がなければこの小説が世に出ることはなかったと述べる。最終行の文章を引用する。
“If we, citizens, do not support our artists, then we sacrifice our imagination on the altar of crude reality and we end up believing in nothing and having worthless dreams.” (われわれ市民が芸術家を援助しなければ、我々は荒々しい現実の前に想像力を犠牲にし、結局のところ何ひとつ信じられなくなって、無価値な夢だけを抱くはめになる。)

長らく無名の作家として暮らしてきたヤン・マーテル自身のことばとして、これを取ることもできるが、この文章にはこの小説の真髄ともいえる奥深いテーマがひそんでいる。

いったい、どうして私たちには小説(物語・語り)が必要なのか。
それこそがそのテーマである。これはまた、ひるがえって、どうして小説家はフィクションを創り出すのか。そして、社会はなぜフィクションを作り出す芸術家(小説家を含む)を援助する必要があるのか、という疑問をも同時に投げかける。

ちなみに、「社会はなぜフィクションを作り出す芸術家を援助する必要があるのか」は、ギリシア哲学者のプラトンが「ものがたり」として語ったテーマでもあり、哲学を勉強した作家ならではの切り口といえる。

2.サバイバル
太平洋上を226日間漂流し、Pi は生き残った。しかし、そこで人生は終わるわけではない。
1章では、ポンディチェリでのPiの生活の様子とともに、漂流の後トロントに移住し、彼がトロント大学で動物学と宗教学を専攻し、薬剤師の妻との間に子どもが2人いることが簡単に描かれる。その章の最終の文章は“This story has a happy ending.”となっている。Piがかいくぐった、このおぞましい物語がHappy Endingになるためには、生き延びるためのスキルとして想像力が必要だったのだ。私には、ヤン・マーテルは芸術家として想像力こそが私たちの人生・社会に付き物の悲劇をなぐさめ、乗り切るための道具として不可欠なのだと言っているようにも思える。

再度繰り返すが、いったい、どうして私たちには小説(物語・語り)が必要なのか。

Piが語る「最初の物語」は、それに対する答えである。Piが実際に経験した「もうひとつの物語」は、吐き気を催すようなカニバリズムの記録(Crude reality/荒々しい現実)である。「もうひとつの物語」を生き延びねばならなかったPiにとって、「最初の物語」は死が彼の人生を終わらせるまで必要不可欠な物語、Crude realityを克服できる唯一の手段だと言える。Piは想像力によってのみ、おぞましい現実を乗り越え、Happy endingを自分のものにすることができたのだと私は読み取った。

「最初の物語」では、メキシコの陸地に上陸する前にベンガル・トラのリチャード・パーカーはPiにさよならも言わず、船を去っていく。リチャード・パーカーがPiであると読めば、極限まで追い詰められた人間が殺人を犯して生き残った残酷性を、人間の社会へ入っていく前に捨て去る必要があったという意味が込められているのではないか。

最近ホロコーストに関する小説を読んでいて、そのなかで恐ろしい現実をなぐさめるために夜になると子どもたちはそれぞれ「おはなし」を語ったという文章に出会った。信じられないような惨事を乗り切るために、私たちは「物語」を利用する。あるいは、生きるために最も大切なメッセージを伝達するために古くから「物語・たとえばなし」が利用されてきた。聖書もプラトンの著述も仏典もフォークロアも昔話もみんな「ものがたり」として書かれているのは興味深い共通点である。

最終章のうち、非常に印象深い会話が描かれる。
“Isn't telling about something - using words, English or Japanese -- already something of an invention? Isn't just looking upon this world already something of an invention?” (英語にしろ日本語にしろ、言葉によって語れば、それは作り事(創造)となるのでは? 世界をただ見ているだけでもすでにそれは我々の作り事(創造)なのでは?) 
The world isn't just the way it is. It is how we understand it, no?”(世界がありのまま存在することはありえないのであって、それを我々がどう理解するかに拠るのでは?)

これは、一方では「現実」とは何なのか、を考えさせてくれる会話でもある。
Life of Piは、実に、現実と想像が幾重にも重なって織り成されている。

まず、この小説を書いた「語り手」が現れる。それはヤン・マーテルのようにも思えるが、実際には私たちには分からない。そして、ポンディチェリでPiの漂流の話をするインド人老人が現れる。漂流を経験したPi自身がいる。最後に、メキシコでPiを尋問するMr. OkamotoとMr. Chibaがいる。小説全体を通して、これらの人たちそれぞれがそれぞれにPiの漂流をテーマとした話をまったく違う角度から語っている。それに、忘れてならないのは、これを読む私たち読者がいること。

私は「もうひとつの物語」が実際に起こった物語だと捉えたけれど、読む人によってはそうはとらないかもしれない(最後にインタビューした日本人によって書かれた報告書によると、彼は最初の物語が実際の物語だと捉えている)。「現実」とは何を言うのか。私たちは見たいものだけを見ているということ、そして、想像力は私たちの生きる源であるということは確かだろう。

3.信仰/宗教/神
ヤン・マーテルは明らかに宗教に非常に関心を寄せている。どこだったか、インタビューに答えて彼はイスラム教の内容を知り、とても共鳴した、と述べていた。一方で、神を信じない人たち(Agnostic)、とりわけ薄っぺらい無神論者の論には手厳しい。

第1章では、ポンディチェリでのPiがキリスト教とイスラム教、ヒンズー教の3つを信仰しようとしている姿が描かれている。しかし、彼が本当に神に救いを求めたのは、同乗のコックを殺した後だったというのが興味深い。「物語」と同じように、神もまた、おぞましい現実を乗り越えるためのサバイバルに必要なのだと読めば、「物語」と「神」の同一性にも思いをめぐらせることができる。
私たち人間は、神をも「創造」したのだろうか。神をも創造する必要があるのだろうか。

最後に、Yann Martelの作家としてのスキルについて書いておきたい。英語圏で出版された本に与えられる文学の最高峰ともいわれるマン・ブッカー・プライズを獲得したとあって、彼の文学的スキルは疑う余地はない。私はこの本を読んだ後、ベストセラー小説を読み始めたが、ハーレクイン小説のような文章の薄っぺらさに驚いた。

マーテルは「ページ・ターナー(どんどん読みたくなる)」といわれるような本を書く作家ではない。彼は作家という職業の何たるかを自ら考え尽くし、読者を問いただそうとしている。彼の言葉を文字通り信じてはいけない。彼の言葉や文章の構成の裏には必ずドアが待っている。そのドアをあければ、私たち読者は必ず自分の存在の根源に向き合う必要に迫られる。

マーテルの語りは、実にあちこちで笑いをそそう。(私が最も好きなのは、モントリオールでピザを電話で注文しようとして、名前を聞かれたPiがどうせ自分の本名Pisine Molitor Patelを言っても理解してもらえないと、”I am who I am.”(在りて在るもの=聖書のなかでモーセが神に名前を聞いたときに、説明された言葉でもある)と言ったのが、”Ian Hoolihan”という宛名で来たというエピソード)。最終章の日本人インタビュアとPiの間の会話もまた、これが非常におかしいのだけれど、この悲惨極まりないカニバリズムの物語を背景に読みながら、笑っていいものやら、悪いのやら困惑してしまった。

また、この小説のPiという非常にスマートなキャラクター、インドを文化的背景にしたセッティングは、Yann Martelの語りにピッタリだと思う。果たして、この作家にそれ以外の人物が描かれるのだろうか、とすら思える。Yann Martelの生み出したPiは実に生き生きと描かれている。

ところで、ちらっとAmazonの日本語レビューを読んでみたが、どれひとつとしてこの小説の核心に迫るレビューはないようだった。これはいったいどうしたことなのだろう。メジャーの文学批評を読んでない私には知る由もないが、ちょっぴり気になる。

日本語訳は「パイの物語」として出版されている。Amazonのレビューは以下。
http://www.amazon.co.jp/gp/switch-language/product/4812415330/ref=dp_change_lang?ie=UTF8&language=ja_JP#_

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