Tuesday, March 8, 2011

International Women’s Day

今日3月9日は国際女性デー。
1911年、ドイツの政治家クララ・ゼトキンの提唱により国際女性デーが設定されて今年は100周年目にあたる。Globe紙の女性コラムニスト、ステファニー・ノレンとマーガレット・ウェンテの記事を読んで、この100年の間に女性の地位が向上したかどうかに対する答えは、私たちがどこに住んでいるかで大きく変わってくることを改めて考えた。

ウェンテの主張するように、西洋社会に暮らす女性にとって「女性のための権利の闘い」は勝利に終わっている。大学で学ぶ学生のうち、女性は半数を超え、弁護士や医師の学位をとる女性もほぼ同数である(成績という観点からいっても女性の方が優秀)。これまで女性の社会的地位向上に尽力してきたおもに女性のおかげで、ここカナダでは明らさまな制度的差別はなくなった。一方、ノレンの記事にあるように、発展途上国の多くの女性はいまだにレイプやセクシュアル・ハラスメントといった性的差別の恐怖に今もさらされている。

この2本の記事を読んで思うのは、制度的差別とは別の形で女性に対する差別が世界中どの地域に住んでいようと(比較的、先進国はその程度は低いが)いまも存在すること。
女性の権利向上を目指すクララ・ゼトキンには、3つの目的があった。1. 女性に政治的決定権を与えること(選挙権など)、2. 女性の経済的平等(同じ仕事に対して同じ賃金を払うなど)、3.自分のことを自分で決める自由(職業や結婚相手の選択など)。こうした女性の権利は制度を変えることで獲得できるものだが、程度の差こそあれ、世界中の女性が日々直面しているのは別の種類の差別だと思う。
たとえば、カナダでは女性の4人に1人がレイプあるいは性的暴行の被害にあっているといわれる。この数字は子どもがいる家庭ではとりわけ重くとらえられるべきだ。男の子の親ならば、子どもを加害者にしないような、女の子の親ならば子どもを被害者にしないような教育をしなくてはならない。さらに、戦争が起こると決まって女性がレイプの危機にさらされることは、歴史を学べば明らかだ(南京戦における日本軍による中国女性に対するレイプは歴史上、最も残虐な例のひとつ)。もっと身近な例でいえば、女性の権利に関しては世界で最も進んだ国のひとつであるカナダでも、子どもの養育という意味では女性の負担が明らかに大きい。
歴史のなかで連綿と引き継がれてきた女性に対する構造的な差別があるような気がしてならない。

一方、私の母国を考えてみると、性差別に限らず、さまざまな差別が制度的にいまだに現存している。性差別に限っていうと、最もひどい差別のひとつは、女性が結婚と同時に夫の名前に改名しなくてはならない制度に違いない。数週間前、Globe紙の片隅でこの名前に対する差別に反対する数名が裁判を起こしたという記事を読んだが、「えっ、まだこの制度が温存されてたの?」と驚いた。外から見ると「何とひどい差別!」と見えるが、日本国内で女性たちの大半がこの制度に疑問を感じていないなら、「なんで名前を変えるのが差別なの?」という状況では、それは差別という問題には発展せず、もちろん状況は変わらない。

もうひとつついでに言うと、日本の痴漢問題に極端にあらわれるような女性に対する差別問題は日本人として恥ずかしい。電車に痴漢がうようよいたり、変態が変態的なことを普通にしていたり、下着泥棒がいたりする日本の状況は、10年間カナダで暮らすとひどいとしか言いようがない。また、本屋で誰の目にもオープンになっているポルノ雑誌の類やつり革のポルノ写真にも、日本の女性たちがなぜ目をつむっているのか、私には非常に疑問である。ああして女性が軽視・蔑視されるような映像に日常的に接していることと、電車に痴漢がいることが、彼女たちには関連づけて捉えられないのだろうか。

女性に対する差別撤廃は、女性が構造的・制度的差別に気付くことからしか始まらない。女性が状況に甘んじている日本の状況では、変化はまだまだ先のことだと思われてならない。

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