カナダのドキュメンタリー映画「What Remains of Us」Review
(ちょっと古くなりましたが、UPしておきます)
世界のなかで1つの国が消えようとしている。それに対する武力蜂起でもあれば新聞記事にもなろうが、チベットの人々は精神的指導者であるダライ・ラマの教え「非暴力」を実行しているため、その文化は文字通り音もなく消えようとしている。
カナダ人監督によるドキュメンタリー「What Remains of Us」は、チベット人亡命者の両親を持つカルサング・ドルマがダライ・ラマによる五分間のビデオ・メッセージを手にチベットの人たちを訪れ、その反応を描いている。消えつつあるチベット文化は、あとどのくらい残っているのか。すべてのシーンがその問いに対する答えを垣間見せてくれる。
この映画は大きな危険と背中合わせで撮られている。中国政府の支配下にあるチベットでは、ダライ・ラマ(インドへ亡命)の存在を示唆したり、彼の写真を所有することは禁じられており、発見されれば「人権」という言葉が意味をなさない収容所へと送られる。ラサ市内には至るところに中国人兵士が配置され、建物の上に設置されたカメラが人々のあらゆる行動を監視している。ふと思い出したが、1988年にチベットを旅したとき、中国の軍用車に詰め込まれて連行されるチベット僧を何人も見た、とこっそり教えてくれた旅行者がいた。プロの写真家の彼にはいつも中国人ガイドが動向していた。
こうした状況下で半世紀を過ごしてきたチベット人は、ナレーターが言うように「ごく身近な人以外には誰もが他人を信用しない」。そのチベットで、カルサング・ドルマは両親の知人や寺院、遊牧テントを訪れ、ダライ・ラマのメッセージを届ける。ポータブル・ビデオを前にして、人々は極度に神経質な表情を見せる。画面にあずき色のローブを着たダライ・ラマが現れると、多くの人たちが手を合わせる。それまで曇っていた表情に希望のかけらが見える。涙を浮かべる人たちもいる。メッセージが終わると、ビデオの前に進み出て、頭を下げて拝む。ドルマが彼らに感想を求めるが、多くが声にならない。相当の人々がダライ・ラマの帰還を求め、中国政府に対する不満や怒りをぶつける。なかにはダライ・ラマの「非暴力」に懐疑を挟む声も出される。
ダライ・ラマのビデオ・メッセージはこうだ。平和を愛する心と非暴力はチベットの文化であり、この文化は暴力にあふれた現代の世界に大きな示唆を与えてくれるはずだ。このチベット文化を守ってほしい。一方、ドルマはこう自問する。「多くのチベット人は国が失われつつあるのは彼らの祈りが足りないせいだと思っている。しかし、実のところ祈っているばかりだから国を失おうとしているのではないか」。
一九五〇年、中国政府はチベットを武力併合し、以降、多くの中国人を入植させてチベット文化の同化政策を進めてきた。その結果、現在、チベット人は自国のなかでマイノリティとなっている。チベット文化、とりわけその源泉である言語は旅行者ですら気付かざる得ないほど急速に消滅しつつある。中国語ができなければ就職できない。高等教育も受けられない。結果、親は子どもの幸せを願ってヘリテージ言語ではなく中国語を教える。家族のなかで、社会のなかで老人たち、チベット語を話す人たちが孤立していく。
国際社会の反応に限っていえば、ダライ・ラマはたびたび国連にチベットのメッセージを届け、国際的指導者たちもことあるごとに中国の人権問題を非難してきた。にもかかわらず、中国が経済的派遣を握りつつある今、チベット問題をわざわざ持ち出そうとする政府高官はほとんどいなくなり、これまでチベットが単なる外交カードに過ぎなかった事実が露顕されつつある。
このドキュメンタリーを見ながら私が思い出していたのは、かつて日本が行った朝鮮、台湾、中国などアジア各国の支配であり、イスラエルの入植者であり、オーストラリアのアボリジニであり、ルワンダのジェノサイドであった。夫はカナダやアメリカにおけるネイティブの人たちを思い出したという。そう、チベットの状況は特異ではないのだ。それは、プラトンが「国家」のなかで提示して見せたアンチテーゼ「正義とは強者の利益である」というむき出しの現実を思い出させる。そして、それを正当化するために用いられる人種差別のプロパガンダ。以前、ある中国人の友人は、鳥葬(死体を屋外に置いて鳥についばむのにまかせる)を例にとって「チベット文化は野蛮」であると何のためらいもなく言ってのけた。彼女が大学教授だったことがことのほかショックだった。一九九四年のルワンダに国連平和維持軍司令官として派遣されたロメオ・ダレア氏(現在はカナダ連邦上院議員)は、一生消せない記憶を刻印されたジェノサイドを目の当たりにし、以来、ことあるごとに国際社会の冷淡さを非難している。国連をはじめとする国際社会は、欧州の一端であるコソボには軍隊を送りながら、資源もなく黒人国家であるルワンダを見捨てた。あれから十年たった今、同じアフリカ大陸のスーダンで恐ろしく酷似した状況が繰り返されている。
このような不正義に対して、What Remains of Usのなかで命をかけて語ることを了承したチベット人たち、二人のカナダ人監督、カルサング・ドルマの勇気と覚悟が際立って見える。この映画を見ようとする人は、映画館入り口で異例ともいえるセキュリティ・チェックを受けなければならない。ビデオやカメラによる撮影で中国当局が登場人物を特定することを避けるためである。
映画上映後、カルサング・ドルマが会場からの質問に答えた。「映画に参加した人物の身の安全性を完全に確保できると思うか」。この問いに対して、彼女は確固たる口調でこう答えた。「私たちはある種の危険をおかしてこの映画を撮りました。そのことは私たち自身、そして登場してくれた人たちがちゃんと心得ています。チベットを取り巻く状況は映画に描かれていた通り、非常に暗澹としています。もはや危険をおかすことなく、私たちの文化を守ることは不可能だと思いませんか」。
巨人ゴリアテに挑む小さな羊飼いダビデのストーリーは、いつも私の心をかき乱す。非暴力を特徴とするがゆえ、チベット文化はいずれ世界から消えてしまうのか。私たちはそれを黙って許すのか。世界からチベットが失われることは、ひとつの正義が失われることではなかろうか。あるいは、私たちの世界における暴力や武力の勝利を意味するのではなかろうか。
なお、皮肉なことに中国のチベット抑圧は、チベット人ディアスポラを増加させ、結果としてチベット仏教は世界で最も急速に信者を増やしている宗教のひとつとなっている。
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