2011年1月24日、ヨーク大学法学部の女子学生に向け、女性の安全性に関する講演が行われた。そのなかで、スピーカーのひとりであったトロント市警察の警察官が言ったとされる言葉"women should avoid dressing like sluts in order not to be victimized."(性的犯罪に巻き込まれないためには、slutのような服装はしないこと)をめぐっては大きな展開があった。
Slutというのは、売春婦とか尻軽女とかいう意味で、軽蔑の意味が含まれている。新聞やラジオでは「時代遅れもはなはだしい」として、被害者である女性を性犯罪の理由であるかのように仕立て上げる考え方を批判し、この警察官に対して「過去50年間、この警察官はどこで何をしていたのだ」と、いまだ社会の変化に気付いていない彼のような市民に厳しい批判の矛先を向けると同時に、警察をはじめ企業などに隠れて存在している女性に対する蔑視感にも言及した。私の知る限りでは、この件に関しては警察官の言葉を擁護するような意見はメディアではまったく見られなかったし、この問題を「一人の警察官の問題」としてではなく、広く社会全体に未だ隠されている問題として取り上げ、多くの市民の声を吸い上げることが可能になったのは、カナダのジャーナリストたちの力量の現れだと思う。
こうした反応を受けて、トロント市警察、当の警察官はただちにヨーク大学に対して謝罪の手紙を送ったが、女性に対する性的暴力、ターゲットにされる女性に性犯罪の責任を転嫁するこうした考え方に対して非常に強い関心と批判はおさまらず、4月上旬、トロント市内でSlut Walkというデモが組織され、slutを思わせる服装の女性たち、男性たちも参加して大規模のデモ行進が市内でなされた。蔑視の意味を持つ言葉を自らのものとして使うやり方は、その言葉に対する強烈な批判となりえることは、黒人が過去、証明している。
さらに興味深いのは、その後、このSlut Walkは5月7日のボストンをはじめ、世界60都市に飛び火したことだ。Face bookやTwitterなどのソーシャル・メディアを使って、女性の権利をうたう組織が、世界中で連携する動きを見せた。今後数週間のうちに(5月中)アムステルダム、ロンドン、シドニー、オースティンなどの都市でも同じ目的のSlut Walkが予定されている。日本ではどうなのだろうか?
Slut Walkをめぐる一連の動きに対して批判が出ているのは実は一部フェミニストからであるというのも面白い。批判のひとつは、こうしてSlutの格好で楽しそうに歩くのは性犯罪の被害に遭った女性たちに対して、レイプの持つ意味を軽く見せることになるというもの。また、一方では、好きな服装で歩く女性の権利は当然あるとしながらも、さらにはレイプの責任は完全に加害者側にあると認めながらも、わざと露出度の高い服装をしている女性に対して警戒感の低さと男性の欲望に沿うような役割を自ら果たしている点を指摘する批判もある。
この際、ついでに言うと、少なくとも北米社会がどんどんSexualizeされている傾向にある点も指摘されてしかるべきだと思う。昨日の新聞では、10歳以下の女の子の洋服が、ここ数年、よりセクシーになってきているという記事を読んだ。これも女性をセクシュアリティの対象として捉える動きを加速する一例だと思う。また、Lady GagaやAmy Winehouseなどのセレブリティも、一方では女性に対する一般概念を壊したクリエイティビティは評価されるべきだと思うが、同時にこうした資本主義システムに乗せられて、女性がそのアイデアを自ら買ってしまったことは大きな問題となっていると思う。そう書いてきて、今、私の頭のなかを占めているのは、ポルノの氾濫する異常ともいえる日本社会のことだが、そのことはまた項を改めて後日書きたいと思う。
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