友人から借りた中津燎子の『母国考』という本を読んで、文化とことばについて深く考えさせられた。1925年生まれ、3歳で旧ソ連のウラジオストックにわたり、12歳までそこで暮らしている。ウラジオストックの家庭では厳格な父親から日本語を学ぶことを強要され、外ではロシア語圏という環境で暮らし、日本へ帰国後は日本語で苦労したという著者のこの本は、かなり時代の違いを感じさせる部分はあるにしろ、2文化で育ってきた著者の独特の視点による指摘は非常に興味深いものだった。
著者のクレイムのうちでも、私が最も興味深いと思った箇所を書き出してみる。
クレイム1:2言語で育てられた子どもたちのなかには、たとえ言葉は完璧でも、言語のなかに凝縮された文化的エッセンスを理解できていないため、どこかピントがずれていることがある。
クレイム2:現代の日本文化は、アンパン文化である。
クレイム3:日本語の構造のなかに、ものごとを考えなくてもいいという要素があり、それは日本におけるコミュニケーションの一部となっている。
まず、最初のクレイムについては、子どもを2言語で育てているという状況があるので、非常に興味深く読んだ。というのも、たしかに子どもには「秋祭り」やら「稲荷山」やらといった言葉を教えているけれど、それが本当にどういうものか、というのは子どもが自ら体験したり、少なくともそのエッセンスを感じられる体験がなければ、子どもにとってはピンとこないだろう、と思っていたからだ。私も小さいとき、ロシア小説のなかに「サモワール」という言葉やらが出てきて、注に「お茶をわかすケトル」とか何とかあったとしても、実感としてはやはりそれが文化的な文脈のなかで存在しているのを見るまではピンとこなかった。海外で日本語を教えている私としては、子どもの日本語教育係りとしてことばを教えるときには、「わかっていて当然」というスタンスではなく、できるだけ文化的な文脈をたくさんのことばを交えて教える必要性を痛感した。
さて、「アンパン文化」とは、日本古来の文化を「あんこ」に、西欧風の文化を外側の「パン」にたとえたもので、言いえて妙だと思った。彼女の説明によれば、現代の日本人はごく幼少のころは日本的なところで育てられたにもかかわらず、西欧風の教育を詰め込まれて、外からみればパンみたいになっている。でも、よくよく見ると、あんこの部分は消えたわけじゃなくて、単に見えなくなっていて、何らかのきっかけでしばしばぽろっと顔を出すことがあるという。この2重に重なった日本人のアイデンティティというのは実におもしろい。実は、私も、海外に長年暮らしている日本人が「でも、老後は日本に帰って暮らしたい」と言うのを聞いたり、たとえば夏目漱石などの西欧かぶれ(失礼!)が、いずれ年を取って「日本回帰」していく状況を非常に興味深いと思っていて、同じように長年海外で暮らし、海外で老いていくであろう私も、いずれ「日本回帰」するのかと、興味深く思ったりしている(そうすると、国際結婚である私たち夫婦の関係はいったいどうなるのだろうか、とも・・・)。
ただ、こういう考え方はよく昔あった「西洋」対「日本」といった構図を作りやすく、個人的には非常に警戒心を覚えるのだが、だいたい、私たち日本人が単に西洋と日本文化の混合物であるとはとても言えない。とりわけ、最近のようにグローバライゼーションの世界にあっては、もっと他の要素も(個人的なレベルの要素を含めて)含めなくては本当に私たちの「文化」を語ることにはならないだろう。「西洋」対「日本」という構図の出し方に、かび臭さを感じてしまった。
最後の「日本語のコミュニケーションには考えないという要素がある」だが、これは夫に言わせれば、「あまりに単純に日本文化を割り切りすぎている」。実際、日本語を使っていてもものを考える人もいるし、それを表現しようと思えば表現できる。しかし、日本の風土のなかには、確かに直截にものを言うことをうとんじる傾向はあり、それは英語(外国語?)を学ぶとよく見えてくる側面に違いない。
話はちょっと違うけれど、夫とこの件で話をしていると、ふとあることに思い当たった。私の友人で韓国出身の人がいるのだけれど、英語は完璧にできる。なのに、たまに彼女のいわんとしていることが何なのか、首をかしげることがある。言葉そのものが不明なのでなく、言いたいことをオブラードで包んで出してくるような感じなのだ。それを夫に以前言ったら、それは彼も彼女と話していると感じることがある(韓国文化と日本文化に、ある種の近似性があるということだろうか? あるいは異なる文化で育ってきても、個人差ゆえに日本文化に近い人もいるということだろうか? おもしろい・・・)、さらに、ある種の日本人と英語で話しているときにも同じように感じることがある、と言う。「でも、最初に会ったときから君と話をするときはそう感じたことはない。君はストレートなものの言い方を英語でも日本語でもしてるんじゃないか」と言い、「だから、これは文化と言えないわけでもないが、個人差も考慮しなければ、安易なステレオタイプに陥るのではないか」と懸念していた。私も同感。
正直言って、私は「日本人はどうのこうの」とか「日本文化はどうのこうの」とかいう「日本人論」が大嫌いで、いつもこういうのを近くでやられると居心地が悪くなってしまう(たぶん、自分の異質性を感じているから?)。カナダに来てカナダ人が「カナダ人はどうの」とか「カナダ文化はどうの」とやっている場面というのに遭遇したことは数えるほどしかない。そう考えると、「日本精神文化論」みたいなのがご立派に通用する日本ってのは、特異というか、ほほえましい、というか、一方では恐ろしい、というか・・・。
とにもかくにも、「母国考」は2文化環境で生活した経験がある人、2文化環境で子どもを育てている人にとってはことばや文化について考えるヒントをくれる興味深い本だと思う。
私、島田裕之はボイストレーニングを中心に英会話指導を40年にわたって指導して参りました。30年前に著書「英会話革命」出版の折、中津先生の著書「なんで英語やるの」を参照した時、私よりも先に英語の音をここまで分析していたかと思ったものです。私も英語と格闘してまりましたが、中津先生も異文化間の狭間で格闘されておられたと思います。中津先生は発音と呼吸で終わりましたが、私島田は、現在時制を解明し、発話の問題と、英語真音の発見によるヒアリングの問題まで解明しております。先人達の遺産の上に、しっかりと研鑽を積み頑張っていきたいと思います。
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