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Thursday, September 29, 2011

原発を通して見えるもの

福島原発の事故後、私も多くの日本人と同じように原発に関する情報を集めてきた。その過程で、ひとつ私の目に鮮明に見えてきたことがある。それは、原子力を推進しようという動きの背後には、少数者の利益追求という隠された意図があるということである。
 
科学者は私たちの意見に抗してこう言う。
福島第一原発事故はあと2週間で40年を迎える、古い型の原子炉で起こった。最近の原子力発電所の安全基準は、40年前に比べるとはるかに高く設定されており、事故の起きる可能性はきわめて低い。つまり、今後は今以上に安全基準を上げることで、原発事故は防げるという。そして、我々のテクノロジー、科学の力をもってすればそれは可能であるという。
 
あるいは、スリーマイルでは0人、チェルノブイリでは56人が死亡しただけであり、石炭や石油採掘、あるいは精製にかかわる過程で発生する犠牲者数に比べるとはるかに低い。また、石炭に比べると温室効果ガス(carbon dioxicide)排出量のほとんど出ないクリーンなエネルギーである。つまり、原発は完璧なエネルギー源とはいえないものの、他のエネルギー源に比べると人間の生命や生活にとって害の少ない、Lesser evilなエネルギー源であるということである。
 
上のような議論が理性的にまかり通ると思っているのだろうか。

考えてみれば、日本のエンジニアや科学者たちは、これまで折につけ「日本のテクノロジー技術のレベルは世界のトップクラスである」と言ってきたし、自分たちもそれを盲信してきた。福島第一原発事故後、カナダのコメンテーターですら「日本の技術と高い安全基準をもってしても、こうした事故が起きてしまうのであれば、他の国の原発は相当危険である」と似通ったコメントをしていた。ただし、こうした考えは、すぐに「日本の原子力産業の安全基準のずさんさ」を指摘する海外メディア、あるいはIAEAによってまで打ち消された。
 
原発推進派の言う安全性なんて、この程度のものなのだ。中身のないものを頑迷に信じ込んでいるだけなのだ。科学技術が万全であると思っている人は、それを無批判に信仰しているに過ぎず、その科学万能主義は理性による批判を拒否する宗教と同じである。
 
また、健康被害に関して言えば、チェルノブイリの死亡者56人のなかには放射能を空気や食物によって長期間体内に取り込んだことによる二次的な死亡者の数は含まれていない。生まれなかった胎児や、ガンを発病して今も苦しんでいる当時子どもだった人たちなどの数も含まれていない。チェルノブイリの被害が出終わったかのような言い方は、彼らの計り知れない不安や苦しみに対する侮辱としか取れない。
 
また、リニューアブル・エナジーに関して否定的で、原発が最もコストの低いエネルギー源であると言う人たち(これは専門家ではなく、一般の人に多い)もいる。彼らは、リニューアブル・エナジーによる電力の供給は不安定であり、こうした資源に依存するには経済的にみあわない、と説明する。
 
しかし、コストのことを言うのなら、事故が起こった際の損害に対する補償(世代を超えて)を考えあわせなくてはならない。この損害とは、健康被害に対する補償のみならず、避難や移住にかかわる補償、さらには農作物や魚介類を扱う農家や漁業者に対する補償、次世代およびさらなる世代に継続してあらわれる健康被害に対する補償、観光業や海外投資の不振に対する補償といった、広範囲のリスクを想定しなくてはならない。事故が起こらないという想定で「原子力は安い」というのは、まったく話にもならない。
 
私には不思議なのだ。どうして、このような完璧に理性を欠いたような議論がまかり通るのか。そして、いろいろな情報を集めるうちにわかってきたことは、原子力をエネルギー源として推進しようという意図は、理性的な試算やデータに基づいているのではなく、一握りの人たちが巨大な利益を手にしようと意図的に原子力を推進しようとしており、そのために下手な説明をしたり、事実を隠蔽しようとしているのだと結論づけるに至った。それ以外に説明のしようがないのだ。

その結果、私は主に海外のソースをもとに情報集めをしているうちに、「原子力を意図的に推進する勢力」の存在に行き当たり、原子力産業という巨大産業、それと政治(産業を規制する側)との関係について学ぶ必要があると実感するようになった。

(そうして調べている矢先に、Global Fission: The Battle Over Nuclear Powerの著者であるJim Falkのことばに出会った。彼は、反原発の立場に立つのは、まずは核廃棄物や放射能被害にともなう健康被害という問題点から出発しているのだが、こうした問題点をより深く理解していくにしたがって、これらの問題がほとんど不可避的に"concern over the political relations of the nuclear industry"(原子力産業の政治的関係をめぐる懸念)に結びつくと言う。)
 
原子力産業は、ひとたびインフラを設置してしまえば、あとはかなり自動的に巨大な利益が入ってくる「おいしい」産業である。また、(表向きは)国民の安全を保証する立場にある政治家は、産業を「規制」する力をもっているうえ、産業を保護する強大な政治力をもっている。彼らの結びつきの原因が、国民の健康と安全を守るためであれば、規制もしっかりと行われていたはずであるし、事故が起こってからも政府や産業界の対応はもっと違っていたはずなのである。

しかし、実際はどうだったか。安全点検をずさんに行い、巨大な地震や津波の可能性も想定せず、事故が起こってからは完全に対処手段を持たず、対応は後手後手、リスク管理能力が完全に欠如していたことを見ても、国民の安全性を保証しようという意図などはまったくないことは、原発事故後の官僚や東電の幹部の姿にあきらかに現れていたのではないか。

ここで長々とその例をあげることはやめるが、ひとつだけ例にとってみると、たとえば、原子力の安全性を確実にするために設置された、IAEA(国際原子力機関)や原子力安全委員会NSC、原子力安全・保安院NISA(いずれも政府機関、後者は経済産業省の一機関)なども、事故後に欧米メディアで批判されていたように、本来が原子力推進の後押しをしている機関であるため、本来求められる批判機能が働いていない。ちなみに、IAEAが事故から少し時間がたってから日本の原子力産業の安全基準のずさんさを指摘した背景には、世界の原子力産業と事故を起こした日本のそれとを区別して考えようとすることで、世界各国の原子力産業が被るダメージを抑える狙いがあったのは確実である。
 
こうして見えてくるのは、資本家と政治家が国民の健康と安全を砦にしながら巨大な利益を貪ってきた構図である。「原子力は安全です」「絶対に事故は起こりません」と言い続け、プロパガンダを垂れ流してきた原子力産業と政府の責任は重い。反原発を主張するならば、このあたりを最終的には厳しく見ていく必要があるのではないか。

また、自戒を込めて言うと、今までの小規模の原発事故事故が起こってきたことに声をあげてこなかった私たち市民の責任も重い。これからは、しかし、こうした不正義に対してはしっかりと声をあげていこうと思う。

Monday, September 19, 2011

風力発電:カナダが注目するエネルギー源

エネルギー問題に関して言うと、世界各国は温室効果ガスを排出する石炭にかわるエネルギー源を探ることで独自の取り組みをしている。


世界でも有数の資源国カナダでも、石炭にかわるエネルギー源を探っているが、とりわけ政府が進めているのは風力発電である。統計によると、2000年には風力発電は137メガワットの電力を供給していたが、2011年には4,611メガワットと実に約34倍にも伸びている。なかでもオンタリオ州は、風力発電に関してはカナダで最も積極的に取り組んでおり、総発電量のうち3分の1を供給している。

風力発電の長所として、コストが比較的安いこと(9.7セント/キロワットアワー)、クリーンなエナジーであることがあげられる。
一方、問題点としては風がないときに供給がとまるため、代替エネルギー源をバックアップ用に設置しなくてはならないことがおもに挙げられる。また、興味深い動きとしては、オンタリオ州の町で風力発電のタービンを設置している周辺住民が、健康被害を被っているとして裁判を起こしており、この行方に注目が集まっている。
Reference: Can coal come clean or is wind the future? (The Globe and Mail, Sept. 13, 2011)

Tuesday, August 9, 2011

Hiroshima Day in Toronto(前回からの続き):科学技術原理主義に抗して

核兵器、原発はどうして存在しているのか。核兵器、原発をどうして破棄できないのか。あんなに人間にとって脅威なのに。Hiroshima Day CoalitionのFaith & Abolition: No Nuclear Weapons, No Nuclear Powerに参加している最中、私はそれをずっと考えていた。

1980年代には、核抑止理論というのが台頭し、核を持つことで平和が保たれると信じられていたが、現在、核抑止理論を云々する政治家は時代遅れと考えられている。共和党のオバマ大統領は、NPT推進を外交政策の要とすることを宣言したが、実際には核兵器は今は国家の枠を超えて、小規模なテロリスト、原理主義者といったグループによる所有も確認されつつあり、核を保有することで得られる力は政治的には実際問題として存在するものと思われる。

ここでは、政治的な理由は置いておいて、少し別の理由を見てみたいと思う。
私には、どうも科学技術が内包する問題に触れないことには、問題の根源が見えてこないように思われる。一般的には、科学の進歩はポジティブにとらえられている。私はよく日本から来てトロントに住んでいる人たちが「カナダに比べたら日本のテクノロジーは数段進歩している」というような言葉を口にするのも聞いている。このコメントは「日本のほうがすぐれている」という意味である。確かに、科学技術は私たちの生活を豊かにしている側面もあるだろう。たとえば、インターネットのある時代に海外移住した私などは、テクノロジーの恩恵を毎日のように感じつつ暮らしている。しかし、だからといって科学技術のネガティビティを帳消しにしているわけではないことは覚えておかねばならない。

世界初の原子爆弾開発には世界でも有数の、数多くの科学者がかかわっていた。別の言葉でいえば、原子力爆弾の開発は科学者の知識や技術なしでは不可能だった。私は科学をやっている人間ではないが、科学分野で研究をしている友人たちは、寝食を忘れて研究に没頭している。彼らの研究への情熱は、部分的には新しい発見、部分的にはそれが社会にもたらす恩恵に基づいている。新しいものを発見する情熱は否定できないし、それによって歴史上多くの発見は可能になったわけで、その恩恵の数々はここで指摘するまでもないだろう。

それゆえ、私はFaith & Abolitionの集会に参加していた一人が言うように、「科学技術そのものが悪い」とは考えていない。彼からもらったパンフレットには、「現代の問題の多くは、科学技術に起因している」と書かれていて、すべての科学技術を排して安全で平和な世界をつくろうと訴えていた。彼の言っていることには一理あるが、この主張が現実的であるとは到底思われない。

私たちが今、きちんと向き合わなくてはならない問題は、科学技術に対する熱狂的な信仰、Scientific-technological Fundamentalism、つまり科学技術原理主義であると思われる。これは、科学万能主義と同様、人間が遭遇する問題のすべてに解決を与えてくれるのは科学であるという考え方である(scientific expansionism=科学拡張主義も同じ)。理性による批判をまったく加えないままに、宗教を信じる原理主義者のように、科学技術の原理主義者もまた非常に強い信念(というより、実はドグマ)にのみ基づいて科学技術を崇拝し、それが「真実の道」であると信じている。そして、この考え方は思ったよりも広く社会に浸透していて、科学技術に関して全く無知であったり、科学と縁の無い生活を送っている人たちですら、水で薄められた科学万能主義的考え方に染まっていたりする。

2011年3月に起こった福島原発事故の後、市民の間ではそれまではほとんど表立って論議されることのなかった原発に対する賛否が大きく割れた。私が見る限り、原発に賛成していた多くが、科学技術を職業としている人、あるいはそれを勉強した人たち、また、そこから個人的に利益を受けてきた人たち、あるいは原子力産業のプロパガンダを盲目的に信じてきた批判能力(Critical thinking)をまったく持たない市民だったが、彼らの論理の根本にあったのは、「科学技術(=人間)の力をもってすれば、原子力はTameできる」という動かし難い信念だったように思う。「信念」というのはまさに言葉どおりで、これは理論や理性にもとづいたものではない。「東電に事故が起きたときはどうするのだ、と聞いたら、事故なんて起きないから安心しなさい、と言われた」という福島原発近隣住民の言葉、あるいは「原発は100%安全」という言葉にはその狂信ぶりがしっかりと表れていた。

科学技術が「理性」や「批判的能力」や「倫理」から独立して一人歩きすることの危険性は、歴史が証明している。マンハッタン・プロジェクトにはそのプロジェクトの過程を鳥瞰的に批判できる倫理部門が欠落していた。原子力爆弾を一般市民の頭上に投下し、一般市民がその瞬間から世代を超えて被る被害に関する残虐性、その倫理的正当性についての議論はなされなかった。悪名高き日本の731部隊は、科学進歩のためという目的のもと、数々の残虐きわまる実験を繰り返した気鋭の科学者による殺人集団であった。

オッペンハイマーは自分のかかわったマンハッタン・プロジェクトの最終結果を実際に自分の目で見て初めて、その破壊力を思い知り、死ぬまでプロジェクト関与を後悔し続けたという。私は、あれだけの科学的知識と知性を備えたオッペンハイマーが、自ら開発にかかわった新技術が自分と同じ人間に想像を絶する苦しみを与えるであろうことが、なぜ想像できなかったのかと理解に苦しむ。ただ、科学者や政治家は目の前にターゲットを置くと、それを獲得することばかりに終始する傾向があり、モラリティという面では到底あてにはできない。となると、批判的能力を見に付け、バランスのとれたモラリティを確保しておくべきは私たち市民に他ならない。モラリティを欠く科学者や政治家、そこに連なって金利をむさぼっている資本家に、私はもはや何の期待も持っていない。

ノース・ヨークの区役所で展示された原爆写真展のパネルには、「もはや核のあり方を政治家だけに任せておくことはできない。私たち市民がしっかりと政府を監視する必要がある」とあったが、「核」という言葉は「原子力発電」にも置き換えられるはずだ。私はこのことばの意味の深さを、とりわけ福島原発事故後に実感している。

Sunday, August 7, 2011

Hiroshima Day (ヒロシマ・デー) in Toronto


8月。広島生まれの私は、やっぱりこの時期になると戦争について考えることが多い。
今年は、North York Civic Centre(ノースヨーク区役所)で行われたHiroshima, Nagasaki Poster & Survivor’s Artwork Exhibitでボランティアをし、8月6日はFaith & Abolition: No Nuclear Weapons, No Nuclear Powerの集会に参加した。どちらもToronto’s Hiroshima Day Coalition主催で、私たちのTA9(Toronto Article 9)もCoalitionに名前を連ねている。

Exhibitionは、原子力爆弾の開発と背景などの説明、原爆や被爆者の写真をパネル展示していて、その展示を見た数人からコメントを聞く機会があった。ひとりの人は「本当にばかげたことだ! 人間というのはなんてばかなのだ」と非常に憤慨していた。また、別の人は「原子力は平和的利用に限るべきだ」とコメントを残していった。子どもにあまりにも生々しい写真を見せないようにしていた母親もいた。そして、「私は1945年、広島にいた」という女性は、彼女の息子を指して「彼は1945年4月に広島で生まれたの」と日本語で言った。詳しく聞いてみると、彼女は日本人ではなくて、韓国(当時は日本に併合されていた)から出稼ぎに広島の工場に来ていたという。その後、広島から離れたので被爆はまぬがれたらしい。しかし、「もう少し長く広島にいたら、どんなことになっていたか…」と視線を落とした。帰り際、彼女が「カナダはいいね」としんみり言っていたのが印象的だった。

そのあと、ボランティアに来た日系2世のPaulは、「バンクーバーで生まれたが、原爆が落とされたときに広島にいた」と流暢な日本語で話してくれた。1945年8月6日、東広島市に滞在していたPaulは、頭上にB29が飛ぶのを見て、しばらくして大きな爆発音のあと、煙がもくもくと広島市上空に上がるのを見たという。当時は何が起こったのかまったく分からなかったが、翌日、近所の人が広島市の駅員として市まで働きに行って帰ってきたが、その翌日に、突然元気だったその人が死んだことから、町の人たちは「なにかとてつもなくおそろしいことが起こっているから、広島市にはぜったいに行くな」と話し合ったという。
広島、長崎での原爆投下を実際に経験した人がいまも健在だという事実が、非常に重く感じられた。

8月6日、The Church of the Holy Trinityで行われた集会は、日本人の私が知っている「追悼集会」という色合いはまったくなく、「反核、反原発」というGoalを目指す毛色の違う団体がそれぞれに主張をそれぞれのやり方で繰り返し、「ヒロシマ・ナガサキ」は彼らにとっては反核のシンボルなのだと強く実感した。

従来は8月6日のHiroshima Day Coalitionの集会は、トロント市庁舎前のNathan Philip Squareで行われ、政治的には左派の市長はMayers for Peaceにも名を連ね、「非核都市」を宣言したトロント市は全面的にバックアップしていた。今年はSquareの改修工事を理由に、集会は通りを挟んだThe Church of the Holy Trinityで、灯篭流しはいつものようにNathan Philip Squareのプールで行われた。また、従来は「反核」の集会であったが、今年は3月の福島原発事故を受けて、マンデートに「反原発」を盛り込むことになったのは新しい動きである。

個人的には「憎悪は暴力ではなく、愛で包むべき」といった宗教的なことばや、プレーヤーにはちょっとついていけなかったというのも事実だが、こうして政治的信念を同じくする人たちの情熱というかポジティブな態度にはいつもながら勇気付けられた。彼らのPositivityは、部分的にオバマ大統領の核兵器に対する態度から来ている。オバマ大統領は、各国に呼びかけて核を減らそうと積極的に動いており、NPT(Nuclear Non-Proliferation Treaty)を外交政策の要としている。

いろんな団体の代表のスピーチは興味深くはあったが、ときに退屈で、ときに私は自分の思いに浸っていた。退職したトロント大学社会学部の教授が、世界にはこれだけの核兵器があって、これだけの威力があって…、と話をし、Clearn Airの代表が、原子力発電に欠かせないウラニウムは、核兵器に簡単に変えられる…というのを聞きながら、私が考えていたのは、「核兵器、原発の脅威は人間の想像力を超えているのに、どうして核兵器、原発は存在しているのか」ということだった。(続く…)

Sunday, June 5, 2011

ドイツの決断・日本の問題

5月30日、ドイツが原子力発電を中止するという発表をした。現在、ドイツは23%のエネルギーを原子力に頼っているが、それを2022年までにゼロにするというのだ。そのニュースをラジオで聞きながら、私は泣きたくなった。

ドイツといえば、福島原発事故が起こってすぐの3月15日、メルケル首相が国内にある17基あるうちの7つの原子炉を一時的に止めること、同時に今後の原子力発電の方向を再検討すると発表して、世界を驚かせたのだった。

その「再検討」の結果が先日の決定で、わずか2ヶ月間でこうした重要な対応を可能にしたメルケル首相のリーダーシップ・スキルには世界が脱帽したのではなかろうか。

このニュースを聞いた私の反応は、「日本にそれをしてもらいたかった」というもの。どうして日本でなく、ドイツだったのか。

今回の福島原発事故で、日本が世界に与えた「ショック」は計り知れない。英語圏のメディアを読む限り、そのショックの大部分は、原子力発電所設備の「ずさんさ」であった。原子力発電所の設備には老朽化と不備、素人の私だって、事故のあとで公開された制御室のなかの写真には驚いた。スタートレックかと思わせるような巨大パネルに巨大ボタンはあきらかに1970年代のものだった。事故を防ぐうえでは、原発では精巧さが何よりも重要であることは誰の目にも明らかであるのに、こうした原子力発電所の設備は世間の目から隠されたところにあるため(テロリズムを防ぐためにも)、誰もこんなに「お粗末な」ものが原発の正体であるとは思ってもみなかった、というのが実際のところではないか。

地球環境汚染問題、エネルギー資源の枯渇問題に直面し、世界は数十年前から原子力発電に希望をかけてきた。原子力発電は「クリーン」で、比較的小さな原料(ウラン)で巨大なエネルギーが生産できる、まさに夢のエネルギー開発法だと、原発にかかわるエンジニアをはじめ、たくさんの人たちが信じてきた。

しかし、その代償はひとつ事故が起これば放射能により長期的に環境を破壊するだけでなく、私たちが消費する食糧や水を汚染し、その汚染は国境を越え、地球規模で広がるという危険性であることが、スリーマイル、チェルノブイリといった過去の事故によって明らかになった。そして、今回のフクシマはたくさんの人が言うようにWake-up callだと思う。今までのやり方を再検討し、新しく目覚めるためのチャンスなのだ。私たちがそのWake-up callに直面して気付いたのは、エネルギー資源として原子力に頼るにはあまりに危険が大きすぎる、という事実ではないのか。これまで過去50年ほどの間、世界が信じようとしてきた原子力安全神話は今、ここに来て完全に破綻を見た。では、新しいエネルギー資源の開発に力を注ごうとするのが人間の理性というものではないのか。

“Germany is going to be ahead of the game on that and it is going to make a lot of money, so the message to Germany's industrial competitors is that you can base your energy policy not on nuclear, not on coal, but on renewables." 

これは、グリーンピース・インターナショナルの原子力アドバイザーシャウン・バーニーの言葉である。今後、世界は徐々に脱原発の方向を探りながら、同時にリニューアブル・エネルギーの開発に力を注いでいくことになるだろう。そうはいっても、世界では未だに「原発=唯一の依存可能なエネルギー源」と信じる人たちの数は多い。そうした現実を前に、世界に先駆けてリニューアブル・エネルギー開発を進めると宣言したドイツの果敢さと先見の明には目を見張るものがある。

どうしてそれが日本ではなく、ドイツだったのか。私はそれを今もずっと考え続けている。福島原発事故が起こって後、日本政府が脱原発宣言を出していたなら、世界は日本を再評価しただろうに。

どうしてそれが日本ではなく、ドイツだったのか。いろんな理由が考えられるが、その理由こそ日本をいろんな意味でダメにしている根本的原因だと私には思われる。

Saturday, April 30, 2011

「がんばれ、日本、がんばれ東北」をやっている場合なのか

最近、「がんばれ日本」でチャリティーをやっているのを見ると違和感を覚える。トロントでもまだまだ震災復興に向けたチャリティーをやっているが、私はその「がんばれ」に共感できない。どうしてなのか、私もはっきりとは言えない。

何となく感じるのは、今回、本当に日本人が考えなくてはならない、日本人の眼前に突きつけられた問題を考えるところまで、彼らの思考が深く達していないからなのだということ。震災からの復興は比較的短期になされるだろうが、今後何十年にもわたって問題になるのは、原発事故関連の環境問題、はっきり言えば食品汚染、大気・海洋汚染に因を発する日本人の健康への被害だと私は思っている。福島県内の年間被曝限度量は、国民の健康より政権継続か「当面の事なかれ主義」を選んだ政府によって引き上げられたと聞く。Globe紙の記事では、今後、日本での発ガン率は増えるだろうとあったし、とりわけ子どもの発病率の増加は世界中の研究者がモニターし続けることだろう。

また、今後、同じ規模の地震が起こらないと言えない状況で、原子力発電に関する議論がほとんど起きていないことも私には信じがたい。

今まで私がかき集めてきた状況を元に判断すると、今回の地震の被害は最低限だったということだ。地震対策には万全を期してきたと日本政府は言うが、それは信じてよいと思う。ほとんどの人が津波被害で命を落としている。津波に関しては、堤防を築くということをしていたようだが、それで防げるような規模の津波ではなかった。警報が鳴って津波が来るまで40分あったというが、その間に市民が逃げられる緊急体制を整えておく必要がある。これは、インフラだけでなく市民の教育がカギになると思う。どういう経路で逃げるのか。病人や老人たちはどう避難するのか、そういう具体的な計画を、沿岸地域の市町村は、市民に今後、示していく必要がある。最後に、最も長期的被害を与えるであろう原発事故に関しては、最も有効な安全対策は、あきらかに「原発を持たない」という選択をすることだ。もちろん、すべての原子炉を同時にシャットダウンするのは現実的ではないが、日本政府はこれから真剣に、原発に依存しないエネルギー資源の確保を段階的に実行していく必要がある。

こうした議論を深めないまま、「がんばれ」ということに、私はイラッとしているのかもしれない。

一方では、被災者に「がんばれ」という言葉をかけることに違和感を覚えている。私だったら、「がんばれ」なんて言われたくない。では、何が有効なのかと言われればこれだ、とは言えないのだが、「がんばれ」だけは、どうも何か匂うのだ。どうも何かが胡散臭いのだ。

Sunday, April 24, 2011

国際交流基金の震災に関するパネル・ディスカッション:報告 


Nikkei Voice(2001年4月号)掲載

 東北大震災から12日を経た3月23日、国際交流基金(トロント)において「2011年東北・関東大震災:現状と復興への見通し」と題したパネル・ディスカッションが開催された(英語)。

鈴木所長の説明にもあったとおり、3月11日の震災を受け、国際交流基金ではオリジナルのタイトル(Japan as a “Normal Country?: A Nation in Search of Its Place in the World”)を東北・関東大震災と復興政策に関するディスカッションに急遽変更、会場には多数の参加者が詰め掛けた。

まず、デイビッド・ウェルチ教授(ウォータールー大学)が、「今回の震災では甚大な被害が出ているが、日本は驚くほど早い復興を果たすだろう」という楽観的コメントを出したが、同様の眺望は(今回の地震を実際に経験した)3学者にも共通していた。

田所教授(慶応義塾大学)は、阪神・淡路大震災(1995年)と東北大震災を比較し、死亡原因の多くが火災であった阪神大震災に比べ、今回は津波が大きな原因となったこと、東北沿岸では阪神・淡路大震災の教訓を活かし、護岸工事や建築基準の引き上げなどのインフラ整備がなされていたことを挙げ、それにもかかわらず今回の地震は予想以上の規模だったと説明。メディアではあまり取り上げられることはないが、建物の耐震基準、東北新幹線ほか鉄道システム、自衛隊の早期動員および救助活動、ボランティア活動など、うまく機能した点もあったことを強調した。一方で、うまくいかなかった点として、福島第一原発事故における人為ミス、緊急安全対策などの危機管理体制の問題、援助物資ルートの整備および市民による買占めなどを挙げた。

さらに、海外では原発事故に関する話題がことさら取り上げられたことから、日本在住の外国人のあいだでパニックが広がった例を挙げ、一方で日本の報道は原発のみに絞られることなく、それが日本人の冷静な態度につながったと説明した。また、今回は、関東大震災時の「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といったデマや流言は出てはいないことを付け加えた。

最後に、震災後、海外メディアでは日本人の地震への対応を「冷静・沈着」という言葉でくくり、これを「日本人的態度」(個の欠如、集団主義など)としていることをふまえ、それらがたとえポジティブなものであってもカリカチュアである点を指摘した。

添谷教授(慶応義塾大学)もまた、自身の経験をもとに、日本人の冷静な対応を強調しながら、国内メディアの報道に関して、テレビ局が被災地に出向き、実際に被災者のニーズを問い、彼らの声を伝えたこと、また、田所教授と同様、海外メディアや海外政府から情報集めをしていた関東地方の外国人の対応を例を挙げて説明したうえで、バランスのとれた国内報道によって、日本人の冷静な態度が保たれたと推測する。

また、震災時および後の管首相のリーダーシップの欠如、さらに日本政府の構造的欠陥は、大規模災害に直面してそれを乗り越えようとしている日本国民の前向きな態度とは対照的であるとコメントした。

さらに、今回の震災に対する諸外国の対応に、日本に対する距離を見ることができるのではないか、と提案。韓国および中国政府が率先して援助を申し出たこと、日本でも人気の韓国映画俳優たちも積極的に支援を呼びかけている例などを挙げた。一方、西洋メディアにおける報道は、日本政府に対する強い不信感の表れと見ている。

木村教授(渋沢栄一記念財団研究部長)も同様に「国民の間にパニックはなかった」と主張し、自然災害に対する日本人の考え方として天譴論と運命論について説明した。前者は「天災は天が下した罰」とし、自然災害を将来を改良するためのチャンスであると見る一方、後者は「運命だから仕方がない」と、どちらも自然災害は防ぎようがないという自然に対する人間の無力さが根底にあると指摘した。

また、1775年のリスボン大震災が人間の考え方を大きく変えたこと、関東大震災(1923年)後にも、その後の政治の方向が定まった点、西洋からすぐれた技術を取り入れ、東京を設計し直す契機となったことなど、今回の震災によって日本社会および政治が改良される可能性を強調していた。

目下、海外メディアが最も注目を集めているのは福島第一原発事故。ウェルチ教授は、「メディアは原発被害を誇張しているが、日本が今回のことで原発を中止し、他の電力供給源に頼るようなことになれば、より大きな被害が出る」と指摘し、チェルノブイリ原発事故とは規模が違う点、被害者の数などもこの規模での地震では少ないことなどを他の災害と比較して説明した。

各パネリストの主張は、今回の災害は未曾有の大災害ではあったが、これを機に停滞していた日本経済や政治に風穴を開けるチャンスでもある、という点で一致し、復興への可能性と期待を示唆した。

実際に地震を経験したパネリスト三人の話は、日本社会の対応が具体的に知れて興味深く、また、短い準備時間にデータや統計を用意して分析したウェルチ氏の話にも説得力があったが、一方では、被害がすでに出終わったかのような楽観的主張には疑問を感じた。さらに「海外メディアは原発一点に的を絞った一方、日本メディアは国民の恐怖を煽らないようなバランスの取れた報道をした」という主張は、(もちろんそうだとうれしいが)福島原発の状況が刻々と深刻化する現時点では、まだ判断がつかないのではないか、との感想を否めなかった。

Saturday, April 16, 2011

オンライン版の読売新聞の記事

Online Yomiuriより引用。 太字は筆者。

東日本大震災後、日本を訪れる外国人観光客らが激減し、ツアーなどのキャンセルが相次いでいる。読売新聞のまとめでは、少なくとも約8万人の外国人が宿泊や訪問を取りやめ、海外からの飛行機運航も中止に。観光地からは「原発事故の風評被害だ」など、悲鳴にも似た声が上がっている。http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110416-OYT1T00912.htm

被災地だけでなく、西日本の観光地などでも外国人観光客のキャンセルが相次ぎ、国内の観光産業は大きな打撃を受けている。海外メディアなどが、原発事故を実態よりも大げさに伝えたのも、一因とみられる。政府が新成長戦略の柱の一つに据えた「観光立国」構想も、大幅な見直しが避けられない情勢だ。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110407-OYT1T00129.htm?from=nwla

こんなときに観光客が減るのが「風評被害」だという観光地のコメント・・・。最大級の地震、いまだ続いている余震、さらには放射能汚染水を海洋に流し、大気中の放射線レベルをはっきり示さない政府・・・と、こんな国に誰が観光などしようと思うだろうか。絶対に行かなくてはならない、というのでなければ、誰だって今日本になど行きたいとは思わないのは誰もが当然理解できることだろう。政情が安定しなかったり、内戦が起こっていたりする国に誰も行きたいと思わないように、放射能被害にあう危険性のある国、放射能汚染された食品を食べなくてはならない国は避けようとするのが当然ではないか。観光産業は結局のところ現地がどんなに努力してもうまくいかないときはうまくいかない、かなり依存的な産業なのだ。さらには、日本では「風評被害」という言葉ですべて片付けようとしているような傾向が見られるが、このあたり、少なくともジャーナリズムには、もっと深い洞察をお願いしたい。

次。「海外メディアなどが、原発事故を実態よりも大げさに伝えた」というのはどこに根拠があるのか。私に言わせれば、日本メディアが事実を伝えようとする姿勢すら持っておらず、政府やTEPCOの言葉を(ジャーナリズムの基盤であるべき)批判精神もなく鵜呑みにしている状況に、「海外メディア」に責任を着せるというのは、全くもってもってのほかだと思う。