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Friday, January 13, 2012

カナダで成立した同性結婚の海外での有効性

先日からカナダをにぎわせているニュースといえばこれ。2005年にトロントで同性結婚(same-sex marriage)したレズビアン・カップル(どちらも非カナダ人、それぞれフロリダとイギリス在住)が、離婚しようと思ったら、カナダ政府から「もともとの結婚が合法ではないから離婚もできない」と言われたということで、当事者をはじめ、2004年以降、カナダで同性結婚した非カナダ人カップルのあいだに混乱を招いている。


2004年にカナダ政府が同性結婚を合法化して以降、世界各国から同性結婚を望むカップルがカナダで(とりわけトロントで)結婚式を挙げるケースは少なくない。事実上、カナダで成立した15000件の同性結婚のうちの5000件は非カナダ人によるものであるという統計もある。


カナダ連邦政府法務省の言い分は、カップルがどちらもカナダ在住のカナダ人ではないのだから、彼らの国(あるいは州)が同性結婚を合法化していない限り、結婚は合法的とはいえない、よって離婚も成立しえない、というもの。カナダで合法的に離婚するには、カナダに最低1年は居住する必要がある。また、結婚した当事者の居住地で合法とされている限り、カナダで成立した結婚は合法とされる、という立場を取っている。


カナダで結婚式をあげた非カナダ人の同性カップルにしてみれば、突然、自分たちの結婚の合法性が覆されたのだから、意表をつかれた、というか仰天したことだろうと思う。しかし、同性結婚合法化から7年経った今になるまで、居住地、さらには結婚成立地の結婚に関する法律の違いによる問題は浮上していなかったのかというと、今年になって今回で2件しか浮上していないとのこと(これも驚きだわ!)。報道によれば、法律専門家や法務省は、居住地と自国の法律の間に生まれた、この奇妙なギャップに必死に取り組んでいるようである。


カナダの同性結婚は、自由党(Liberal Party)によって導入されたが、現在、政権を握っている保守党(Conservative Party)は従来、同性結婚に反対の立場であることから、ハーパー政府がこれを機に同性結婚の合法化を覆そうと試みるのではないか、との懸念も出ている。しかし、ハーパー首相は直ちにこれを否定し、現政府がこの問題を蒸し返す意図のないことを強調した。
参考)グローブ紙の記事はこちら:
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/justice-minister-vows-to-clarify-laws-on-same-sex-marriages/article2300179/

アップデート:
政府発表「カナダで成立した同性結婚は海外でも有効」


カナダ政府は先日、「カナダで成立した同性結婚(Same-sex marriage)は同性結婚を認めていない国の住民のものでも有効」という発表を出した。

多くの人がこれで胸をなでおろしたことだろう。

Tuesday, January 3, 2012

グローバル食糧危機と昆虫食

アメリカの元大統領ビル・クリントンがヴェーガンになったというニュース・アイテムを読んで、確かに近年クリントンはグローバル政治で倫理面に関する取り組みに積極的に係わってきたことを思うと、まあ、ヴェーガンも納得できるわね、と思っていた(議会で嘘ついたのは彼だったけどね)。しかし、もっと先進的で倫理的なダイエットといえば、それは昆虫食に違いない。


先日、CBCラジオ番組Qで昆虫食(entomophagy)について話していたのだが、それにしても、昆虫食を勧めるダニエラ・マーティン(Daniella Martin)のなんと情熱的だったこと!


昆虫食。ここ最近、この言葉をときどき聞くようになった。トロントでも昆虫を出すレストランがあるとか、一流シェフが昆虫を料理しているとか、グルメの延長としての昆虫食に関心が集まっている。一方では、将来、グローバル規模で食糧難の時代がやってくるという危機感から、たんぱく質やビタミン豊富な栄養食である昆虫食が脚光を浴びている。


ダニエラ・マーティンによれば、古代マヤ文明やアステカ文明では昆虫が食べられていたそうで、昆虫食に対して嫌悪感を示すのは文化的なものだという。「北米では20年ほど前には刺身や貝類を食べることはタブーとされていたが、今ではスシはポピュラーで、貝類をはじめとする魚介類は最も高価な食材のひとつとなっているではないか。昆虫が気持ち悪いというのは慣れていないだけ」。


そして、彼女が言うにはその固定概念に支配されているだけで、「みんな気付かないけれど、毎日、昆虫や虫を食べている」らしい。「マッシュルームには小さな虫がついているし、穀類や豆類にも目に見えない虫がついている」。(聞いてた私は飛び上がりそうになったわよ・・・)

ベジタリアンに対しては、「パンに豆腐バーガーをはさんで食べているあなただって、パンの原料である小麦粉を作るためにはたくさんの虫が殺されている」と応酬する。また、「都会の虫はお勧めできない」とも。いろんな菌がついている可能性もあるし、衛生上の問題がある。なので、「ファームで育てられた飼育昆虫がお勧め」らしい。


このインタビュー、かなり興味深かったのだが、聞いたあとは何だか気持ち悪くなっていた。もちろん、環境にもやさしいし、グローバル食糧難に抗する有効な手段であることも納得しているのだが、どうもやっぱり私には食べられそうにない・・・。食糧難になったらそのときに考えたい(ごめんね、ダニエラ・・・)。


そういえば、ふと思い出したが、1年ほど前、母が日本から送ってきてくれた「イカナゴのくぎ煮」を見て、「キャー!」と思ったことがある。同時に小さなエビの佃煮もちょっと気持ち悪く感じた。その反応に自分でも驚いた。日本にいるときはまったく違和感を感じなかったのだから、恐らく北米でこうしたものを食べないで12年間暮らした結果なのだろう。文化というのは私たちの身体や感覚に深く染み付いていて、私には犬を食べたり、ウサギを食べたりすることに対する嫌悪はあるが、ユダヤ系の友人が嫌悪するタコやイカ、甘エビなどは大丈夫というのだから、「何を食べて是とするか」に関しては線引きが曖昧な判断なのである。


ダニエラ・マーティンは小さいとき東京で育ったと言っていた。その経験が、「自分の文化や特定の文化が絶対ではない」ことを教えてくれたという。たしかに、自分の文化がチャレンジされるような、そうした経験こそグローバライズ世代の子どもたちにぜひさせておかなくてはならないものだと思う。

Friday, December 2, 2011

白いソックスの問題(今日は駄文です)

Globe紙には、週に一回、読者がデイビッド・エディというライターに相談をするという「ダメージ・コントロール」という実に笑えるコラムがあって、私はかなり好きなのだが、昨日の相談は実にこの「白いソックス」問題であった。


相談の内容は、「私の会社に最近新しく入ってきた社員がいて、彼は仕事もでき、人柄も問題ないのだけれど、ひとつだけ、白色のソックスをはく、という問題があって、それは社内では噂になっている。彼は最近カナダに移民をしてきた人で、できれば彼の気持ちを傷つけないように、この問題を指摘したいのだが、どういうふうにアプローチすべきだろうか」というもの。


白いソックスに対する理解。そこには文化的差異が読み取れる、と私は常々思ってきた。 デイビッド・エディが言うように、ソックスの色は「パンツの色と靴の色の中間色」というのが基本。黒い靴をはくのなら、白いソックスはまずありえない。白いソックスは基本的にテニスをするときだけ。だいたい、デパートなんかでも男性用の白いソックスは簡単には見当たらない。 白いソックスをはいて出社しているその人が「移民」というのが興味深い。


たまに日本に帰ってびっくりすることのひとつは、この白いソックス。電車などでたまに黒い靴(あるいは茶色の靴)に白いソックスをはいているビジネスマンを見ると、ムムム、と思ってしまう。(もうひとつびっくりすることは、ビジネスマンがマンガを読んでいること! )


でも、よく考えると、日本では小学生や中学生の制服からして、黒いパンツに白いソックス、なんだわね。だから、違和感はないのだろう。


ところで、先の北京オリンピックの際、中国政府は世界各国からたくさんの人が集まってくることから、北京市民にさまざまなルールを課したのだが、そのうちのいくつかはかなり笑えた。 ひとつは、路上でツバをはかないこと。もっとおかしいのは、「白いソックスをはかないこと」。きっと国際関係のコンサルタントなんかが、この白いソックス問題に気づいてこういうルールを課したのであろう、と思うとなんだかとってもおかしいのだ。

Saturday, May 28, 2011

OECDによるBetter Life Indexを見比べる

パリでサミットが行われている期間中、パリを拠点とし、各国の財政予測や経済政策のアドバイザーとして知られるOECDは、居住環境、保健、統治、仕事と生活のバランス、環境や満足度などの指標をもとに加盟34カ国Better Life Indexを発表した。これまで、GNPをはじめとする経済指標で先進国を測ってきたOECDもここにきて、経済以外の指標を使って各国の状況を把握しようとしているようだ。

以下は私がOECDデータをもとにまとめたカナダと日本の比較表。Referenceは
http://www.oecd.org/document/63/0,3746,en_2649_201185_47912639_1_1_1_1,00.html

              OECD平均     カナダ      日本
年間収入         22284 USD    27015 USD   23210 USD
雇用率          65%         72%       70%
年間就労時間      1739時間      1699時間   1714時間
就労している母親    66%         71%      66%
24~64歳:高校卒業率 73          87       87%
読解力(PISAプログラム) 493        524      520
平均寿命         79歳         80.7歳     82.7歳(最高)
大気汚染         22マイクログラム 15       27
セイフティ・ネット     91%        95%      90%
投票率           72%        60%      67%
「人生は上々だ」(満足度) 59%      78%      40%

私の知っている日本とカナダのデータを比べてみると、私の実感とはかなりずれている部分があるように思う。たとえば、年間就労時間をみると、日本はOECDのうちでも平均以下となっているが、私の実感では残業などを考えると、とても平均以下であるとは思われない。さらに、「就労している母親」指標で、日本はOECD平均の66%、カナダは71%だが、私の実感では、同じように「就労している母親」のカテゴリーに含まれればそうなのだが、カナダではフルタイムで働く母親が多いものの、日本ではパートタイムが圧倒的に多いように思う。

しかし、最後の「人生に対する満足度」の日本の低さはちょっと悲しい。経済的なことをいえば、日本は明らかに平均を上回っているのに比べ、この数字は何だが非常に意味深だと思う。バングラデッシュ出身の友人が私に、「世界で最も不幸せだと思っている国民は日本人」と言っていたのを思い出す。彼は、自分の国は経済的には非常に問題があるけれど、人々はそれぞれの人生を幸福だと感じていると言っていた。私はこういう十羽一絡げ的なコメントは避けたいが、40%というのはちょっと信じ難い。

私の思う「日本に足りないもの」を書き出してみる。
• 政治や社会に対する信頼感
• 人々が将来に希望をもつための公正で開かれた社会
• Diversity/多様性 (社会的多様性というのだろうか。人口だけでなく、意見の多様性や、選択の多様性など。そのためには社会がオープンでなくてはならない)
• 個人と社会をつなぐネットワークの確率

カナダと日本に暮らした私の実感では、以上のようなものが日本にあれば、日本はもっとすばらしい国になると思うし、そうなってほしいと願っている。

Thursday, February 24, 2011

最も住みよい都市:Toronto-Fourth Most Livable City in the World

Economist誌のAnnual ranking of global cities(世界で最も住みよい都市)ランキングで、トロントは世界第4位に輝いた。ワオ! トロントニアンとしてこれは手放しで喜びたい!
このランキングの決め手となるのは、安定性、保健制度、文化と環境、教育とインフラなど。1位から10位はというと・・・。

1位 バンクーバー(カナダ)
2位 メルボルン (オーストラリア)
3位 ウィーン (オーストリア)
4位 トロント (カナダ)
5位 カルガリー(カナダ)
6位 ヘルシンキ (フィンランド)
7位 シドニー (オーストラリア)
8位 パース (オーストラリア)
9位 アデレード (オーストラリア)
10位 オークランド (ニュージーランド)


オーストラリアとカナダの都市が圧倒的に多い一方で、アメリカの都市は10位以内には入っていない。同誌によれば、「先進国の中規模都市、人口過密のない都市に住みよい都市が多い」らしい。トロントが4位というのは、私、うなづける。インフラの面では少しばかり問題があるにしろ、教育と環境という面では素晴らしいと思う。

ちなみに、最下位は、コロンボ(スリランカ・130位)、ダカール(セネガル・131位)、テヘラン(イラン・132)、ドゥアラ(カメルーン・133)、カラチ(パキスタン・134)、アルジェ(アルジェリア・135)、ラゴス(ナイジェリア・136)、ポート・モレスビー(パプア・ニューギニア・137)、ダッカ(バングラデッシュ・138)、ハラレ(ジンバブエ・140)。

Sunday, December 19, 2010

Giving Season

ハロウィーンが終わると、北米ではHoliday Seasonへの準備が始まる。デパートやショップの飾りつけもクリスマス一色となり、かの歌にあるようにThe most wonderful time of a yearをみんな心待ちにしている。
さて、12月という時期は、カナダでは最も寄付が増える時期にあたる(余談になるが、12月は自殺率が増える月でもある)。さまざまな社会福祉団体(Red CrossとかUnicefとかUnited WayとかSalvation Armyとか)のスタッフが街角で寄付を呼びかけていたり、新聞にもこうした団体が寄付を募る広告を載せたりする。そして、人々はこの時期をGiving Seasonと呼んで、お金を寄付する。

この背景にあるのは、もちろんキリスト教の影響。キリストが全人類のために犠牲を払ったとされる時期、自分たちも他のLess Fortunateな人たちに何か援助の手をさしのべようとするキリスト教徒の心理は、キリスト教徒でない私にも理解できる。

そして、もうひとつの背景としてあげられるのは、資本主義・消費主義、その裏にある深層心理なのではないか。一方では、家族や近しい人たちへのクリスマス・ショッピングをしながら、デパートにならぶ様々な富の象徴を目の当たりにする私たち。こうした環境にいて、自分たちがどれほど世界のわずかひとにぎりの富を手にしているかを再確認する。そして、一方ではメディアに流れる世界の貧しい子どもたちの映像を見ながら、わずかながらの罪悪感も感じている。そんなときに寄付という方法はその罪悪感を少しでも減らしてくれる最良の方法ともいえる。

北米では近年は経済低迷の影響もあって、個人の寄付は減っていると聞くが、それでも私の感じでは、日本人に比べるとカナダ人はよく寄付をする。お金を寄付するという形だけでなく、Fundraisingや、ボランティア(社会奉仕)という形でも一般市民がよく社会に貢献している。そんなところが私、かなり気にいっている。

Saturday, November 27, 2010

グローバル経済格差とナニーの実態

カナダ人の大半は、カナダは国際社会で積極的に人道的支援を行い、国際協調の仲介役、あるいは人権問題でも主導的立場に立っていると考えている。それゆえに、もし、カナダが発展途上国の人たちをExploitしていると聞けばにわか信じがたいだろう。

カナダ人の多くが見逃している人権問題のひとつは、外国人労働者に対するSystemic discrimination(構造的差別)である。Systemic discriminationというのは、社会構造や社会の規則(法律やルール)のなかに温存されている形でおこる差別で、極端な例をあげるとカースト制やアパルトヘイトなどがこれにあたる。カナダ国内で起こっている外国人労働者に対する差別は、グローバライゼーション、もっと細かく言うとグローバル経済格差、グローバル人身売買の問題とからんで複雑なのだが、これらの問題はカナダ政府が導入したLive-in Caregiver Program というプログラムによく反映されている。

Live-in Caregiver Programは、高齢化による社会変化に対応するために30年ほど前に導入された移民政策にかかわる制度で、簡単に言えば国内で需要があるにもかかわらず供給が不足している介護(Caregiver-介護や育児にあたる人材)分野に海外から安い労働力を導入することを目的に考案された制度である。

Live-in Caregiver Programの対象になるのは、介護者やPSW(Personal Support Worker)、ナニー(子どもの世話役)で、期間は2年間。2002年には93%がフィリピン出身者、とりわけ女性が大半を占めているという統計が示す通り、この制度のほとんどがフィリピン人労働者によって補われている(トロントでは「ナニー」といえば「フィリピン人」と連想されるほど、フィリピン人ナニーへの需要は高い)。カナダの移民制度はポイント・システムをとっているため、学歴や職歴などで高いポイントを取れるエリートたち(たいていは発展途上国で高学歴・高収入の男性)に有利に働く。そのため、たとえばフィリピンの農村出身の女性たちには、Live-in Caregiver Programはカナダでの労働を可能にする唯一のパスポートということができる。このプログラムをはじめ、外国人労働者を一時的に受け入れる移民制度は、ヘルスケア、建設業、農業といった国内の労働力不足の分野に労働力をもたらしたとして評価されているが、他方では外国人労働者の権利を確実に保護していない点、自国のリッチ層のために海外の安い労働力を使うという倫理性の問題、仲介エージェンシーによる人身売買の問題といった暗部も指摘されている。

一方で、フィリピンの現状に目を向けてみれば、1970年代以降、フィリピンは高い失業率や貧困といった国内問題を解決する手段として、外貨を稼ぐことを目的として安い労働力を海外に輸出するという政策を取ってきたことが分かる。とりわけ農村の女性たちが安い労働力として、欧米はもとより中東、香港などにも大量に出て、ナニーとして働いている(ごく最近、UAE発マニラ行きの飛行機のなかで子どもを産んだフィリピン人ナニーが、子どもを遺棄したとして逮捕された事件があった。彼女の妊娠は雇用主によるレイプとされ、外国人の一時的労働者の労働条件の過酷さや権利の欠如を浮き彫りにしている)。

これらを考えあわせると、カナダおよび外国人一時労働者を受け入れている国々とフィリピン政府にとっては、Win-win situationにあたるわけだけれど、この制度は非常に深刻な問題をはらんでいる。

私がナニーと接点を持ったのは、エリックが生まれてからで、その当時、私たちはトロントでも高級住宅街として知られるフォレストヒルにあるアパートに住んでいたため、公園で多くのフィリピン系ナニーと知り合いになった。

彼らの話には度肝を抜かれた。ほとんどの女性たちが、フィリピンに幼い子どもたちを残してきており、1年に1度、雇用者が許せば国に帰れるということだった。ほとんどが、長時間労働、コンディションに関して不満を持っていて、最初は子育てと簡単なハウスキーピングが仕事だったのに、徐々に掃除や洗濯、料理や、パーティーがあれば給仕の仕事などもさせられるようになったと言っていた。

マリアという若いフィリピン人ナニーの話には耳をうたがった。雇用主はあるドラッグストアのオーナーで、家にはプールが2つ、テニスコートがひとつあるという大きな邸宅に住んでいる。マリアに与えられた部屋は窓もない物置部屋みたいな部屋で、ベッドがひとつ、小さなテーブルと椅子があるだけで、テレビも電話もなかった。1歳と3歳の子どもの世話を6時から7時という約束にもかかわらず、朝6時から夜、子どもたちが寝るまで(たいてい10時ごろ)面倒をみているという。苦情を訴えると、「それなら、他のナニーを雇う」と一蹴されてしまったらしい。国では彼女の仕送りを待っている家族がいる。帰りたいけれど、帰れないという状況に、彼女は窒息しそうだと言っていた。

フィリピンに残してきた2歳の子どもの写真を見せてくれながら、マリアは涙をこぼしていた。
自分の子どもを国に残して、カナダの地で裕福なカナダ人の1、3歳の子どもの世話をしているこの小柄な20代の女性の置かれている状況に、グローバル経済格差、ポスト・コロニアリズム、南北問題などといった国際問題が複雑に絡んで見えた。

まず、グローバル経済格差が1国のうちに見られるようになっていること。従来、ある国で見られた社会的階層(労働者階級、中間階級、上流階級など)の差が、グローバライゼーションの影響により、国際社会における経済格差を反映するようになっていること。具体的にいえば、貧しい国から来た移民が社会の下層部に位置し、低賃金労働に従事するような現状がそれである。結局のところ、グローバル社会では個人は国境を自由に行き来することができるけれど、国際経済秩序の影響から逃れることはできないということなのだろうか。

ポスト・コロニアリズム。フィリピン人ナニーが好まれる理由のひとつは、彼らが英語を理解することにある。フィリピンがアメリカの元植民地だったことを考え合わせなくてはならない。

移民制度。私も以前はJanice Steinの言うように「今後は先進国は深刻な労働力不足という問題に直面する。そのとき海外から労働力を入れられるかどうかが、その国が経済的に成功するかどうかのカギになる」と考えていた。そのため、カナダのように積極的にスキルを持つ移民を獲得することを目的とした移民政策は必須だと考えていた。しかし、移民政策や労働力不足の問題を考えるなら、1国の経済的繁栄だけに絞って考えてもいいものかと、今は考えている。たとえば、カナダ国内の医師不足を理由に、カナダは海外で医師の移民に高いポイントを与えているが、それがエチオピアで不足している医師をエチオピア人から奪うことになるという側面があることにはあまり考慮をはさまない。そして、一方ではエチオピアに対する経済支援をしているという現状には何か問題がある。それに、貧しい国からエリートを奪う先進諸国の移民政策は、国際人道上、あるいは倫理的に正しいことだとも思われない。

国際経済支援の問題、および先進諸国に住む人たちの発展途上国に住む人たちに対する理解。さらに、多くのカナダ人は、外国人一時労働者を雇うことは、お互い(外国人労働者およびカナダ人)の利益になると考えている。ナニーの雇用者の多くは、良心的にフィリピン人ナニーを雇うことが、貧しいフィリピン人女性を助けることになると考えている。しかし、本当にそうだろうか。フィリピン経済が長期的に安定するような援助をすべきではないだろうか。

Thursday, September 2, 2010

「バイリンガルはユニリンガルよりも高給取り」

University of Guelphの研究結果によると、カナダではバイリンガルの人たちはユニリンガルの人に比べると、より高い給料を受け取っている可能性が高いらしい。(Globe Life Section, Aug.31, 2010, Research was conducted by Louis Christofides and Robert Swidinsky)

ただし、これは別に2言語を操れることが直接的な原因ではなくて、二言語を操れることに付随する特徴、たとえば教育の高さや文化的な配慮、洗練性などが評価されて給料が高いという結果に結びついているらしい。つまり、雇用主である企業や組織は、バイリンガルにバイリンガルで仕事をすることを求めているというよりは、他者や他文化に対する配慮や洗練性などを買って、より高い報酬を与えているということになる。

ただし、記事では触れていないけれど、これはあくまでもカナダでの、それも公式言語であるフランス語と英語でのバイリンガルという話。バイリンガルといっても日本語と英語ができるとか、ヒンドゥー語とフランス語ができるとかいうのは、給料には反映されないのだ。私のような移民の多くはバイリンガルだけれど、それはカナダでは今も社会的に評価されているとは感じられない。

ま、当然といえば当然だけれど、移民としてはこの記事、なんだかちょっぴりムッときたね。

Monday, August 9, 2010

アイデンティティと言語

夫は「カナダ人」であって、カナダで生まれている。
父親は20歳少し前にセルビアからカナダへ移住してきた。母親は、ケベック州モントリオール生まれのアイリッシュ系カナダ人。もっと詳しく言えば、義父の血筋はセルビア系のみならず、クロアチア系、スラブ系も混ざり、義母の場合は、イギリス系、アイリッシュ系、フランス系の血が混ざっている。

なので、夫の継承文化を厳密に言えば、「セルビア・クロアチア・スラブ・イギリス・アイリッシュ・フランス系カナダ人」ということになるが、これではあまりにも面倒なので「カナダ人」ということになる。「セルビア系カナダ人」は、夫には100%しっくりこないらしい。

カナダは、実に複数の文化的背景を持つ人たちにとっては非常に都合のよい国である。だいたい、血筋が複数である、ということがカナダ人の本質のようなところもあるので、誰も細かいところは気にしない。

個人のアイデンティティとは、複数の「自分はこれ」というファクターから選び取られるものだが、「生まれた国」とか「民族の血(血統)」はなかでも非常に重要なファクターになると考えられている。しかし、本当にそうだろうか。その言葉は、生まれた国と民族の血とアイデンティティが同一である場合にしか当たらないのではないか。

もし義父が夫に小さいころ、セルビア語を教えていて、夫がセルビア語を話せたとしたら、彼は自分を指して「セルビア系カナダ人」と言うこともできたと思う、と彼は言う。言語を操れるかどうか、言語をはじめとする文化的エッセンスを共有できるかどうか、は「生まれた国」や「血統」以上に大切なのではないか。言語は、私たちがものを考える土台となるものであるし、言語システムのなかには無条件で思考枠というものが組み込まれている。言語を知らずして、その国と自分を同一化できるとは到底思えない。

「カナダでは細かいことは誰も気にしない」と書いたが、もう少し詳しく言うと、カナダでは、出生地、肌の色、人種、母国語、宗教などではなく、この国の言葉を通して同じ文化的エッセンスを共有できるか、がマジョリティとマイノリティの差となってくるというのが私の実感である。

そう考えると、私がエリックに日本語を教えているのは、単に日本語という言語を習得してもらおうと思っているのではなく、言語を通して私の母国である日本とのつながりを維持してほしいと思っているからに違いない。単に「母親が日本人だから」という理由で、エリックが将来、日本人としてのアイデンティティを選び取るとは思えない。何が何でも彼に日本人のアイデンティティを感じてほしいとは思ってないが、選択肢は多い方がよい。母親としてできることなら、その選択肢を与えてあげたいと思っている。

Thursday, July 15, 2010

「女性の権利を求める」国際的連帯-グローバライゼーションの時代に

43歳のイラン人女性Sakineh Mohammadi Ashtianiが不倫を理由に投石による死刑宣告を撤回させようという動きが国際社会で起こっている。カナダでも、各界の著名人(とりわけ女性が多い)が活発にメディアに登場して、この国際的な動きに加わるよう促している。

機会があればイスラエルへのサポートを表明しているIndigo Books & MusicのCEOへザー・ライズマンの意見は、イスラエルに関しては私も賛成しかねないのだが、今回ばかりは彼女の意見に大いに共感した。

The Globe and Mail に寄稿した記事のなかで、ライズマンはイランでとりわけ女性の権利が蹂躙されている状況をイラン人女性が書いた数冊の本に重ねあわせ(さすがは巨大書籍チェーン店のCEO!)、最終的にはエリ・ヴィーゼルの”The opposite of love is not hate. … It is indifference.”(愛の反対にあるのは憎しみではなく、無関心である)を引用して、カナダのような民主主義社会にいる私たちこそ大きな声をあげようではないか、と提案している。

こうして、ある国で人権蹂躙がなされたとき、海外でそれを批判する声が上がるというのは、グローバライゼーションのプラスの側面に違いない。私の母国はイランほどではないにしろ、やはり数々の不正義がまかり通っている状況は今なお続いている。私たちのように海外に暮らす日本人も、日本の不正義を正す運動と連携して活動したいものである。