Monday, August 9, 2010

アイデンティティと言語

夫は「カナダ人」であって、カナダで生まれている。
父親は20歳少し前にセルビアからカナダへ移住してきた。母親は、ケベック州モントリオール生まれのアイリッシュ系カナダ人。もっと詳しく言えば、義父の血筋はセルビア系のみならず、クロアチア系、スラブ系も混ざり、義母の場合は、イギリス系、アイリッシュ系、フランス系の血が混ざっている。

なので、夫の継承文化を厳密に言えば、「セルビア・クロアチア・スラブ・イギリス・アイリッシュ・フランス系カナダ人」ということになるが、これではあまりにも面倒なので「カナダ人」ということになる。「セルビア系カナダ人」は、夫には100%しっくりこないらしい。

カナダは、実に複数の文化的背景を持つ人たちにとっては非常に都合のよい国である。だいたい、血筋が複数である、ということがカナダ人の本質のようなところもあるので、誰も細かいところは気にしない。

個人のアイデンティティとは、複数の「自分はこれ」というファクターから選び取られるものだが、「生まれた国」とか「民族の血(血統)」はなかでも非常に重要なファクターになると考えられている。しかし、本当にそうだろうか。その言葉は、生まれた国と民族の血とアイデンティティが同一である場合にしか当たらないのではないか。

もし義父が夫に小さいころ、セルビア語を教えていて、夫がセルビア語を話せたとしたら、彼は自分を指して「セルビア系カナダ人」と言うこともできたと思う、と彼は言う。言語を操れるかどうか、言語をはじめとする文化的エッセンスを共有できるかどうか、は「生まれた国」や「血統」以上に大切なのではないか。言語は、私たちがものを考える土台となるものであるし、言語システムのなかには無条件で思考枠というものが組み込まれている。言語を知らずして、その国と自分を同一化できるとは到底思えない。

「カナダでは細かいことは誰も気にしない」と書いたが、もう少し詳しく言うと、カナダでは、出生地、肌の色、人種、母国語、宗教などではなく、この国の言葉を通して同じ文化的エッセンスを共有できるか、がマジョリティとマイノリティの差となってくるというのが私の実感である。

そう考えると、私がエリックに日本語を教えているのは、単に日本語という言語を習得してもらおうと思っているのではなく、言語を通して私の母国である日本とのつながりを維持してほしいと思っているからに違いない。単に「母親が日本人だから」という理由で、エリックが将来、日本人としてのアイデンティティを選び取るとは思えない。何が何でも彼に日本人のアイデンティティを感じてほしいとは思ってないが、選択肢は多い方がよい。母親としてできることなら、その選択肢を与えてあげたいと思っている。

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