Monday, October 17, 2011

言論の自由 対 マイノリティの保護: ヘイト・スピーチの行方

現在、カナダ最高裁判所では、ここ数十年のうちで最も重要とされる裁判が審議されている。この裁判は、最も重要であると同時に、最も複雑な裁判であり、出された判決は今後のカナダ社会における言論の自由に多大な影響を与えると見られる。

裁判の発端は、サスカッチュワン州のウィリアム・ワットコットが配布していたパンフレット。パンフレットは、同性愛を教えることを義務づけた同州の教育方針を批判し、同性愛者の生活のスタイルをSodomite(肛門性交をする人、男色者の意味)と呼ぶなど、同性愛や同性愛者に対する批判が盛られていた。この後、パンフレットを読んだ一部の市民からSHRC(サスカッチュワン州人権評議会)へ苦情が寄せられ、その結果、2005年、裁判所はワットコット氏に「Hate crime/ヘイトクライム(憎悪をあおる表現をした罪)」の罪で有罪とし、17,500ドルの罰金を課した。ワットコット氏はこれを「自らのFreedom of Speech/表現の自由が侵害されている」として控訴、最終判断は最高裁判所に委ねられることになった。

カナダには、日本には存在しないHate speech lawという法律がある。この法律は、マイノリティの権利を守ることを目的とした法律で、ヘイトクライムは、聞いた人たちが不快に思ったり、それにより社会全体にステレオタイプを広げるような表現を広めたことに対する罪となっている。

一方、北米社会で最も尊重されてきた法律のひとつがFreedom Of speech(表現の自由)。自分の考えや思想を誰もが自由に表現する権利を認めている。

連邦政府と同じように、サスカッチュワン州の人権に関する法律には、表現の自由は、それが憎悪を煽ることを目的としている場合には表現の自由は限られる、とされている(ちなみに、州にかなりの権力と権利を認めているカナダでは各州にそれぞれ人権に関する法律が存在する)。

一言で言えば、今回の裁判の争点は、表現の自由とヘイト・スピーチの対立ということになり、表現の自由はヘイトスピーチによって縮小されるべきではないと主張する側と、表現の自由以上にマイノリティの権利を守ることの方が社会全般には利が大きいとする側との対立、ということになる。しかし、この裁判をより複雑にしているのは、「どこまでがヘイト・スピーチにあたるか」という判断であり、宗教的信念などを表現すれば誰かが気分を害するのが現実で、この線引きを任せられた法廷にとっては、非常に複雑な決定となる。

私が見る限り、これまでのカナダにおける判決をみるとどちらかというとヘイト・スピーチにより重点が置かれ、表現の自由が制限され続けてきた、という気がする。ただ、今回、新聞の報道を読む限り、この傾向が多少変化する可能性があるように思われる。

さきに、これまでカナダはどちらかというと表現の自由を制限する傾向にあった、と述べたが、それには最高裁判所判事のRosalie Abellaロザリー・アベラの法曹界における影響力を考える必要があると思う。ロザリー・アベラは第二次世界大戦後、ドイツのDPキャンプ(難民キャンプ)で生まれ、カナダ最高裁判所初のユダヤ系女性判事となった。彼女はマイノリティの権利を守ることに法的生命をかけてきた女性である。ヨーロッパでユダヤ系が被ってきたこれまでの差別的待遇、それにより600万人のユダヤ系が命を奪われてきた歴史、それを考えると、表現の自由とヘイト・スピーチを秤にかけたとき、表現の自由が制限されるのは理に適っている。

表現の自由とヘイトクライム今までにもたびたび法廷で対立しあってきた。ただし、そのたびに、「では、どこまでがヘイト・スピーチにあたるのか」という問いに対して、カナダ国民が納得するような結論を出してくることができなかった。

個人的には、宗教が絡むとこの問題はますます複雑になるという気がする。誰かが言ってたように「もし、アンチ・ゲイ的発言がすべてヘイト・スピーチなら、最初に罰せられるべきは聖書」というのもうなづけるし、ルーテル教会の信者ワットコット氏は心の底からゲイは罪であると信じているわけであるし、それと「共産主義者は世界を破壊している」という政治的信念の表現と何が違うのか、という意見もうなづける。

とはいっても、やはりヘイト・スピーチを切り崩すことには余りにも懸念が大きい。国で最大の法的権限を与えられた最高裁判所が、社会的に弱い立場にいるマイノリティの権利を守る姿勢を見せることは象徴的意味のあることだと思う。

Saturday, October 15, 2011

広がるフカヒレ禁止の動き

北米で最大のフカヒレ消費州のカリフォルニアでは、すでに法的に禁止されたフカヒレだが、カナダでも各都市でフカヒレ禁止の動きが加速している。

オンタリオ州では、今までにブラントフォード、オークビルでは7月に、ミシサガでも市議会での決議を経てフカヒレの販売が禁止され、昨日(10月13日)はトロント市議会のコミッティで投票があり、結果的に満場一致でフカヒレ禁止が採択されたことから、今後、市議会での議論を経て、市の条例としてフカヒレ禁止へと動いていく模様。

問題点のひとつは、こうして各都市での禁止が継ぎ接ぎ的(パッチワーク的?)措置になり、たとえば、トロントで禁止されているが、隣のマーカム市へ行けばフカヒレが売られているという状況になっている点。そのため、食品販売会社やレストランにとっては、非常に不利であるとされ、国単位でのフカヒレ禁止を求める声も一部にある。

Friday, October 14, 2011

ウォールストリート占拠:corporate greedと不正義としての世界経済システム

Occupy Wall Streetの動きは、10月1日に700人が逮捕された後、教職員組合などの労働組合のみならず、オバマ大統領をはじめとする政治家、資本家、またセレブなどもサポート、あるいは少なくとも理解を示し、大手メディアがこぞってリポートし続けている。また、アメリカ全土、世界中からこの動きをサポートしようと、寄付、食糧や水、毛布や衣服などが次々と届いている。


はっきりした目的がないこと、指導者がいないことなどから、組織的な弱さも指摘されているが、この運動は、今まで社会運動や政治運動のターゲットとされるることのなかった大企業と彼らが牛耳っている経済システムの変革、少なくともこうした経済的Practiceに異を唱えているという点で、世界を変える可能性を秘めていると思う。ジャック・レイトンが唱えていた「一握りの富豪が富をほしいままにするのではなく、その富をより平等に分配できる経済システム」を確立することは可能なのだろうか。


カナダから見ているとアメリカの現実がいかに切迫しているかがよく把握できないが、トロントでアクティビストとして活動している友人によれば、状況は今までのアメリカでは見られなかったほど悪化していると言う。家を失ったり、仕事を失ったり、それに伴って家族関係が悪化したり。


統計によれば、アメリカでは19歳から25歳人口の失業率は40パーセントにまで達しているという。将来に希望が持てず、教育費は増加の一方をたどり、借金してまで大学を出ても仕事は見つからない。こうした状況にあって、市民のcorporate greedに対する不信感、怒りは今や許容できないほどになっている。


ほんの数週間前に始まったウォールストリートの占拠だが、振り返って見ると、この運動が内包するエネルギーは時間をかけて醸成されてきたように思う。


ここ10年ほどの間に、北米のライター、ジャーナリストの作品のうち(メインストリームメディアも含めて)、大企業の内実を暴いた著作、一方で搾取され続ける人たちのストーリー、ドキュメンタリー作品、「99%」の国民の声を代弁するような読み物が続々と生み出されてきた。


今、思いつくだけでも、マイケル・ムーアのCapitalism: A Love Storyや、食品業界の大企業による搾取や残虐性を暴いたEric Schlosser(エリック・シュロッサー)の著作Fast Food Nation(映画にもなった)、同じころの作品としてMorgan SpurlockSupersize Meというのもあった。さらに、カナダ人でUBCの教授Joel BakanThe Corporation(コーポレーション)はドキュメンタリーになり、世界で大きな反響を呼んだ。同じ系列のジャーナリズム作品のうち最も新しい作品としては、ウォール・ストリート(金融業界)の内情を暴いたInside Job(2010年)がある。


これらの作品が描き出したのは、まさにCorporate Greed(企業の強欲さ)のすざまじさと、それを支えるような政治家によるサポートであった。それは、私たちのように税金をきちんと納めている小市民にとっては、信じ難いほど強烈な強欲さである。さらには、これに輪をかけて市民の怒りに油をそそいだのは、こうした一部の大企業や資産家が搾取しやすいように行政や法整備を取り仕切ってきた政府の態度である。政治と金という大きな権力が結びついている国では、お金持ちはどんどんお金持ちになり、下層部は這い上がれる望みすらもてない。ルパート・マードックの厚かましさや、「税金なんて、小さな人間が支払うもので、本当のお金持ちは税金なんて払わない」と言い放った富豪(名前は忘れてしまった)などを笑っている時代は過ぎた。そして、今、北米人独特のシニシズムを超えて、不信感および怒りの感情は、Occupy Wall Streetという従来では考えられなかった社会的行動として現出したというべきだろう。


個人的には、Occupy Wall Street運動に共鳴するひとりだが、一方、この「99%」という表現にアイロニーを感じざるを得ない。彼らはアメリカ社会では「99%」であるが、グローバル社会でみれば、ピラミッドの上部に位置している。よく知られている「もし世界が100人の村だったら」には、「6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍 」、「80人は標準以下の居住環境に住み 70人は文字が読めません」、「50人は栄養失調に苦しみ」、「1人は大学教育を受け」「そしてたった1人だけがコンピュータを所有しています」とある。


こう見てみると、アメリカの「99%」は何というPrivilegesだという思いが湧きあがってくる(かくいう私もそのひとり)。


最近、核兵器や原発の問題、女性問題を調べていて、いつも最終的にぶち当たる壁に気付いた。それは、Occupy Wall Streetの参加者たちが気付いたのと同じく、「現在の経済システムはごく一握りの人だけが巨額の富を手にできるシステムなのだ」という気付きである。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、このシステムだけが唯一の経済システムとして機能している。しかし、このシステムはポスト・コロニアリズムに根ざした「不均衡」や「搾取」といった不正義の要素を色濃く包括した問題のあるシステムである。このシステムが続く限り、いくらビル・ゲイツがチャリティに精を出したとしても、根本的解決には至らないだろう。


それで思ったのだが、こういうことは可能だろうか。この不正義の世界経済システムにある99%の人たちが、このシステムの改善(打倒)を求めて運動を起こす、というのは? 

今回マンハッタンで始まったOccupy Wall Streetは、そうしたグローバル規模の(経済システム打倒)運動へと発展する可能性を秘めてはいないだろうか? 目下、ヨーロッパで展開している経済危機を見ても明らかだが、今日の経済システムは1国だけが取り組めるような問題ではない。グローバル経済システムの現実を見るなら、Occupy Wall Street運動もグローバル・レベルの「99%」を代表する声として聞かれるまで拡大していく必要があると思う。

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Wednesday, October 12, 2011

外国人1万人に航空券を無料提供:日本政府に対する信用ガタ落ちの今、「安全です」と言われても・・・

夫が友人(ともにPh.D 学生)から聞いたニュースは、日本の観光庁が外国人1万人に無料で航空券を提供し、日本の観光回復を目指す、というもの。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111009-OYT1T00814.htm


正直言って、呆れたね。日本のお役所ってのは、外国向けマーケティングというとこの方法しか知らないのだ。つまり、「外国人に宣伝させる」というやつである。JET制度なんてその最たるもので、名目上は外国人に来てもらって英語を教えてもらうということだが、本当は彼らが3年の任期を終え、世界に散らばってからは日本の広告塔となってくれることを期待しているのだ。今回も、「外国人に宣伝させるのがいちばん」という思いが見え見えである。


私が違和感を感じる理由はいくつかある。そもそも、ここには「日本に来れば日本のよいところが見えるに違いない」という思い込みがある(これはアレックス・カーなどのジャパノファイルの功罪が大きいと思われるが、これは大きな問題なので稿を改めて書きたい)。また、自分の国を自ら発信しようというスキルがないし、アイデアもないし、その意欲がさらさらない。お金(航空券)だけ払って、あとは全部「外国人」にマーケティングを任せるという態度がどうも気に入らない(航空券を提供する見返りに、レポートを書いたり、今後の観光旅行プランを提案してもらうらしい)。


加えて、読売によればこの事業費予算として11億円を盛り込んだというが、震災後の後始末は始まったばかりなのに、そんなことに税金を使っている場合なのか。原発事故では、海外とまったく危機感が違っていた日本だったが、傍から見ているとこの事件は、海外における日本政府や企業およびジャーナリズムに対する不信感を煽っただけである。この政府が「安全です、来てください」と言ったところで誰が信用するものか、というのが海外にいる者の正直な感想ではないか。いまだ原発事故の危機が去らず、ジャパン・ブランドの価値も低迷し続けている今、なぜ観光なのか、さっぱり理解できない。

Tuesday, October 11, 2011

オンタリオ州選挙の結果:Liberal(自由)党のマイノリティ政府

2011年のオンタリオ州一般選挙は10月6日の投票日を経て、Liberal(自由党)によるマイノリティ政府が確定した。マギンティ政府は予想に反して3期目の続投となった。

各党の議席数は次のとおり。Liberal(53席、前回比-17)Conservative(37、+12) NDP(17、+7)。

Liberalはマジョリティ政府に1席足りなかったが、接戦といわれていた割には票を伸ばし、Conservative(保守党)と大きく差をあける結果となった。NDPがこれだけの議席数を獲得したのは政権をとった時代以降初めて。投票率は49.2%と史上最低。


・トロント、オタワ以外はほとんど青
政党ごとの色分け選挙結果を見ると興味深いのだが、トロント、オタワの赤(Liberal)以外は大半が青(Conservative)になっていて、大都市に対する地方との差が浮き彫りになっている。さらに、GTA(グレーター・トロント)で見ても、合併前にトロントだった中心部は赤とオレンジ(NDP、とくにセンターといわれるダウンタウン)で、それを囲むように青が広がっている。トロント市内ではConservativeはまったく議席を獲得できなかった。


理由のひとつには、昨年選出された右派のトロント市長フォードの支持率が下がっていることが影響していると見られている。というのも、フォードは市長就任以来、市の抱える負債に取り組むため、さまざまな社会福祉プログラムや市営サービスを削減しようとしており、これに対するトロント市民の反発がすさまじい。たとえば、図書館の閉鎖というフォード案に対しては、カナダどころか英語圏でも屈指の作家マーガレット・アトウッドが反対陣営を張って市民運動にまで発展し、結果、トロント市議会は図書館閉鎖をキャンセルするという結果に終わった。連邦政府と市政府がConservativeによって運営され、そのうえ州政府まで保守派になってはたまらない、という危機感がトロント市内には確かにある。


・リーダーの資質
今回の選挙戦で、Liberal党マギンティ党首は明らかによいイメージを売ることに成功したと思う。州首相という信頼できる品格をそなえ、いつだって自信に満ちた話し方をしていた。討論などで攻撃されても、いつも一定の距離と理性を保ち、情熱と冷静さをそなえた対応は見ている人に安心感を与えたと思う。

一方、Conservativeのフダック党首は、選挙戦のあいだに取り返しのつかない2つの失敗をしでかしている。ひとつは、Newcomer(移民)をForeign worker(外国人労働者)と呼んだこと、もうひとつはオンタリオ教育相のガイドラインを批判しようと、ホモフォビックな攻撃的広告をまわしたことである。前者に関しては、人権擁護団体などから謝罪を求める動きもあったにもかかわらず、最後まで自分の非を認めないという頑なな態度だった。この彼の態度、加えて2つの失敗から、とりわけ移民人口の多い選挙区、あるいはDiversityをよしとする大都市圏で、Conservativeに対する不安感が広がっていたという気がする。


・経済的な先行き不安
しかし、各紙の報道を見ている限り、さらに私の実感としても、結局のところ、オンタリオ州民の脳裏にあったのは今後の、先のみえない経済的不安だったと思う。失業率は増え、アメリカ経済およびヨーロッパ経済の大混乱から、グローバル経済への波及と経済的不安要因は拡大し続けている。マギンティ政府の政治政策を見ていると、大きな予算削減はしないし、大きな抜本的経済改革もしない。しかし、現状維持をうまくやってきたという感じがある。そうした安心感も今回のLiberalの勝利に大きく影響したと思われる。

'He changed the way each of us sees world'

10月6日、早朝のラジオで聞いたスティーブ・ジョブズの訃報に触れ、テクノロジーの進歩についていろいろな思いが過ぎっている。


さまざまな人たちがAppleの創始者スティーブ・ジョブズに対する思いを述べているが、なかでもオバマ大統領のコメントは最もジョブズの功績を簡潔に表現していると思われる。


He transformed our lives, redefined entire industries and achieved one of the rarest feats in human history: He changed the way each of us sees world.


スティーブ・ジョブズはわれわれの生き方を、産業界全体を根本的に変えた。人類史で最もまれな功績のひとつ、世界の見方を根本的に変えるという功績を成し遂げた。


今、これを図書館で書いている私の隣では、学生らしき人がコンピュータで課題を仕上げている。ときに席を立ってストレッチをするのだが、彼の前にいた年配の女性がその姿を見て、「コンピュータは疲れるのね。私はコンピュータのことなんて、何も分からないし、そんなものに振り回されるのはごめんだわ」と言ったのに対し、男性は「別にコンピュータを使わなくったって何も困ることはないよ」と言った。彼は、年配の女性に気を遣ってそう言ったに違いないが、実際のところ、それほど誤ったコメントはない。


戦後、最も大きな発明といえば、コンピュータの発明に違いない。ジョブズは厳密にいえばコンピュータの発明者ではないが、私たちひとりひとりがコンピュータを所有できるようになったのは彼の功績という意味から、「パーソナル・コンピュータの生みの親」と言われている。その功績によって、オバマ大統領が言うように、私たちの生活は、そして世界観は限りなく、大きく変わった。


思えば、私が大学を終えてライターの仕事を始めた時、ワープロで原稿を書いていた。それだけでも画期的だと思われたが、メールがなかった時代だから終わった原稿はフロッピー・ディスク(死語?)に入れて、自転車かタクシーで編集部まで届けるというのんびりさであった。


1999年、私が初めて買ったコンピュータはIBMのコンピュータだった。それを開くと、インドを旅行中のボーイフレンドと連絡を取りあうことができた。仕上がった原稿もこれで写真をつけて送ることができた。マイクロソフト・ワードの便利さに驚いた。


同じ年、トロントに移住してからというもの、私の海外生活はコンピュータなしではありえなかった、と言っていいほど、私の生活はコンピュータに支えられてきた。翻訳の仕事も、出版も、ディプレッションも、広辞苑をどうしようか、きょうの料理をどうしようか、そういう問題も、コンピュータが、インターネットがすべて解決してくれた。


それから12年後には、AppleのiPadを買った。その使いやすさ、美しさと機能性はほとんど信じがたい。iPadに比べたらMicrosoftが原始的で野暮にさえ思われる。iPodでメディテーションをし、子どもが幼稚園にいる間にはiPadで本を読む。私たちの生活にはテレビもCDもラジオも新聞すら必要ない。iPadがすべて満たしてくれている。


毎日送られてくるEメールにうんざりすることもあるし、次々に新しくなっていくコンピュータ・テクノロジーにようやくついていくのも楽じゃない。コンピュータ・スキルをもたない人たちが社会的に(精神的に)離脱しているという問題もある。


しかし、一方で、基本的にペシミスティックな私も、インターネット上でのコネクションがもたらす可能性に関してだけは非常に楽観している。今まで声をもたなかった人たちが声をあげ、そのメッセージが世界中の人たちに届く可能性には大きな期待が持てると思う。


“And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of life. It is life’s change agent”.


スティーブ・ジョブズのような天才がいつもいうのはI found what I love to do。好きなことをして、上のように死を受け入れる準備ができていた彼の態度を見習いたいと思う。


Sent from my iPad

Tuesday, October 4, 2011

ウォール街の占拠

Occupy Wall Streetのウェブサイトより。彼らのミッションのようなもの。

「Occupy Wall Streetはリーダーを持たないレジスタンス運動で、人種や性別、政治的信条の多様な参加者で構成されています。ひとつ共通点があるとすれば、この運動に参加している我々は、わずか1%にあたる一握りの人たちの強欲さや腐敗をこれ以上許容しない99%の国民である、ということです。我々は「アラブの春」の革命的戦略を用い、すべての参加者の安全性を最大限に考えながら、暴力を用いることなく我々の目標を達成しようとしています」

http://occupywallst.org/

州選挙の行方:オンタリオとアルバータ

先日のStar紙の報道では、Liberal (自由党、党首はマギンティ現州首相)とConservative(保守党、党首フダック)がともに35%、NDP(新民主党、党首ホーワス)が26%の支持率で、近年まれにみる接戦となっている。しかし、NDPのAndrea Horwathはすごい。政治家というにはあまりに地に足がついているといった雰囲気、シャープで切れのいいものの言い方、暖かい人間性など、彼女を知れば知るほどNDPの政策はどうあれ、彼女にチャンスをあげたい、と思ってしまう。


実際のところ、専門家は選挙キャンペーンに入ってからLiberalとConservativeの支持率はほとんど変わっていないというが、NDPだけは選挙戦が始まってから徐々に追い上げているという。1990年代以降、NDPがこれだけ支持率を伸ばすのは初めてという。


ところで、昨日のGlobe紙で人権問題を専門とする弁護士で前アルバータ州法務大臣のアリソン・レッドフォード/Alison Redford(保守党)が次期アルバータ州首相の指名を受けたと読んでびっくりした。彼女はConservativeと言ってもRed Toryでイデオロギー的にはかなりLiberalに近い。アルバータはRed Neck(日焼けした首、という意味で、保守的な田舎の人を指す)で知られる保守色の強い州だが、近年、アルバータもかなり政治イデオロギー的、というか社会的に変化しているのだという感じがする。

というのも、去年の秋、カルガリーはリベラルで文化や福祉などを大事にする政策を主張するNaheed Nenshiを市長に選んだし(カナダの大都市の市長としては初めてのイスラム系、彼の両親はタンザニア出身)、今回も保守党がレッドフォードを選んだという事実は、アルバータ州が大きな社会的変化の渦中にあることを裏付けている。


オンタリオ州に話を移すと、どちらが多数派になろうと、どうやらマイノリティ政府になりそうな予感。個人的には、いくらConservative政府になったとしても、LiberalとNDPがかなりの票を獲得し、バランスの取れた政策を打ち出せるマイノリティ政府となるのであれば、幾分安心できる。


しかし、夫を見ると分かるが、Anything but Conservative(保守党でなければ何でもいい)という人たちが、LiberalとNDPの票を割っているのは事実(特にセントラル・トロントでは)。なので、彼のような人たちは自分の信じる政党に票を入れるというよりは、刻々と変わる状況を読みながら戦略的に投票している。連邦政治にもいえることだが、LiberalとNDPは統合してConservativeに対抗するのも手ではないか。実際、10年ほど前だったか、右派ではProgressive ConservativeとReform Party(のちにCanadian Alliance)という2派が統合した結果、その後は右派の票はそちらに確実に流れるようになった。


NDPのよいところとLiberalのよいところを組み合わせた政党が出来てほしいものだ。NDPの社会福祉や労働者の権利を守る姿勢、弱者を守り、社会正義を追求しようとする姿勢、Liberalのグリーン・エナジー政策、経済政策と教育政策、移民政策は価値ある政治的資産だと思う。


とにかく。10月6日の投票日まであと3日。

Monday, October 3, 2011

世界に広がるOccupy Wall Streetデモンストレーション

先月末、10人以下のカレッジ学生がウォールストリート付近のZuccotti Parkで始めたOccupy Wall Street(ウォール街の占拠)というデモンストレーションが日を追って拡大している。10月1日の土曜日には700名もの逮捕者も出たが、この逮捕により今後、参加者は増加するだろうと見られている。

これが単独のものなら特別に興味を惹かれはしないが、この動きがマンハッタンを起点として世界の各都市に飛び火する可能性があることから、私も様子を見守っている。

写真を見る限り、参加者は若者たちが大半のようだが、Globe紙によれば、日を追うに従って、年齢や職業に多様性が見られるようになっているという。

このデモンストレーションはウォールストリートに代表される金融界、さらには金融界を優遇してきた政治に対する苛立ちが発端となっている。アメリカでは失業率が10 %を超え、今後もこの状況が悪化をたどるだろうと専門家が見ているなかで、一方では政府は多額の税金を使った財政援助には多くの市民が反対している。

トロントのオーガナイザーによれば10月15日にはベイ・ストリート(トロントでウォール街に相当する金融街)で同様のデモが予定されているという。また、カルガリー、ビクトリア、オタワ、モントリオールなどの都市でもデモが企画され、トロントでは800人、バンクーバーでは1000人ほどの参加者が見込まれる予定。また、メキシコ、オーストラリア、ヨーロッパの都市、東京など、世界の都市に今後、飛び火するだろうと見られている。

新聞を読む限り、このデモンストレーションには、はっきりした政治的メッセージがなく、従来の政治的デモとは異なる部分が多い。また、多くの参加者がソーシャル・メディアを駆使している点も、最近のデモのトレンドを踏襲している(彼らは独自にジャーナルまで発行して、ことの成り行きをインターネットを通して発信し続けている)。

「ウォール街の占拠」がアメリカで始まったことは意味が深い。いくらアメリカが多額の負債をかかえていようと、どんなに貧困率が高かろうと、やはりアメリカの富に比することのできる国はない。Forbesを見ても、世界の富豪のうち、アメリカ人の割合は圧倒的に高い。

かくして、アメリカでは一握りの人たちが多額の富を手にしていることにある。つまり、ウォール街は世界金融界の中枢、即ち、世界経済の中枢なのである。

2010年につくられたドキュメンタリー映画Inside Jobには、金融界が一握りのエリートが巨額の富を手にできるような構造になっていること、内部がいかに倫理的に腐敗しているかを暴露していく映画だが、それを見ると政治家もこの金融界とグルになって利権を得て来た歴史がはっきりと見て取れる。

金融界のGreed(欲)によって導かれたリーマンショック以降、北米では金融界に対する不信感(さらにその失敗の受け皿を引き受けてきた政治に対する不信感)が強くなっていると私も感じる。

こうした金融界の状況を知ると、この業界の根底に「不正義」の存在を認めざるを得ない。経済的に社会の下層にいる人たちは、少しは生活の質が向上するとはいえ、この経済的構造ではほとんど不可能に近い。私の感じでは、世界経済の構造のなかにすでに「不正義」が存在している。今回のデモは金融界に対するそうした基盤的な批判になりえるのだろうか。

一方では、市民の間に広がる不満がある。失業し、生活保護に頼っている人たち、仕事をしたいのに見つけられないという苛立ち、借金をして手に入れた家を失って財産を失った人たち。そんな人たちが、金融界に多額の税金をつぎ込んで、彼らの失敗の尻拭いをしているのを見ると、Frustrationを感じるのは当たり前だ。そして、この感情に自分の人生に対するDesperationを感じると人は何でもやりかねない。

政治家は、国民の間に広がるDesperationを軽くみてはいけない。ここで再び、Arab Springがひとりのを感じた若者の自殺から始まったことを想い起こす必要がある。

この動きはどこにいくのか。これによって何が変わるのか。世界経済の構造を変えるほどの動きになるのか。今後の行方を注意深く見守っていきたい。

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