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Friday, September 14, 2012

長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁

The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。

タイトル「長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁」
以下のサイトでも読めます(こちらは写真もあります)。

http://thegroupofeight.com/?p=1741


日本にいたときは何とも思っていなかったのに、12年をカナダで過ごして帰ってくると違和感を感じる、そういう状況に日々遭遇する。違和感を感じるもののひとつ、paternalism(温情主義)と社会的役割分担に関して思うところを書いてみよう。



私が日々の通勤に使っているのは京阪電鉄だが、車内広告をみまわすと若くてフェミニンな女性が圧倒的に多いことに気付く。当の京阪も、大手デパートも、サラ金会社(サラ金って死語なんだろうか?)も、街角の質屋も、こぞってそうした女性がにっこり微笑んでいるイメージを選んでいる(それも顔だけが大きくクローズ・アップされていたりする)。私はそれらのイメージをじっと見てみる。いったい、広告主は何を訴えようとしているのか? 



しばらく考えているうちに、「安心感」ということばが浮かんできた。彼女たちは見る人を肯定もしなければ、否定もしない。別に何を訴えかけているわけでもない。広告を見る人はこうしたかわいい女性が微笑んでいる姿を見て、何よりもまず「安心する」んじゃないか。



Ladies and Gentlemen. Welcom to the Shinkansen. This is the Nozomi Super-Express bound for Hakata. We will be stopping at…

新幹線に乗ると聞こえてくる、この車内アナウンス。あの高いトーンの女性声が、今の私には何とも不快(で正直言って、うっとおしい)に感じられる。ただ、私には不快に感じられるあの声も、日本では意外や意外、「快適」とか「品がある」、おまけに「セクシー」と感じる人の方が多いらしい。



車内アナウンスといえば、雨の日にだけ流れる「傘のお忘れには十分注意してください」や、ケーブルカーの「お降りの際には、車内が揺れますので足元には十分・・・」アナウンスもうっとおしい。英語でpaternalismという言葉があるが、まるで親のように心配してくれる、そうしたアナウンスが私にはちょっぴり不愉快である。



「丁寧」といえばそうなのだが、それだけだろうか。こうして気遣いしてくれたり、安心感を与えてくれる過剰なサービスは、女性のイメージを使った広告やアナウンサーの高い声によってますます自然化される。日本社会では圧倒的にこうした役割は「女性のもの」とされており、女性がこういう役割を果たしているのを見ると、多くの人は極度に安心するのだろう。



また、一方で私の目には、日本では多くの女性がこの「役割」を無批判に(あるいは喜んで?)引き受けているようにも見える。たとえば、女性の服装には今もカルチャーショックを感じる。フリルやレース、柔らかい素材、ヒラヒラしたもの、フワフワしたもの、リボン・・・、いやあ、私の目にはこういうのが「おそろしくフェミニン」なんだけど・・・。本人が好きならいいじゃない、と言われそうだが、ファッションは「見る」「見られる」の微妙な関係性という要素からもなっているわけで、一方の嗜好に簡単に限られる話ではない。



「日本では女性がよくこんなのを許しているわね」というのもよく感じる。
本屋さんに行くと、誰の目にも見えるようなところにポルノ雑誌やポルノ・マンガが積まれている。あるいは、昔から言われていることだが、週刊雑誌の広告(吊革広告、大手新聞の紙面下に入る広告)の言葉のいくつかは明らかに男性が男性向けに書いていて、不快なほど卑猥で下品。男性がやめないのなら、一方で「ああいうの、やめなさい!」という批判の声が女性から上がらないのだろうか、と疑問に思うが、これも「役割」という観点から考えれば合点がいく。



日本は確かに表面的には民主主義社会だし、男女同権も機能しているように見える。女性だからといって表立って差別されることはない。だから、「日本社会における女性の地位の低さ」を語るより、「日本では女性も男性も自分の役割分担を無意識にわきまえている」点を語ることの方がきっと生産的だろう。私の目には、それぞれが自らの「役割分担」の範囲をわきまえ、その範囲でできることを、それはそれは驚くほど「プロフェッショナルに」やっている(このあたりはすごい!)、と映る。



個人の役割分担は、見えないガラスの壁でしっかりと区切られている。その中にいれば意識されることもないけれど(それにある意味で楽)、いったん外に出て戻った者には、実は自由に歩きまわるのが難しい社会である。

こういうことはどこかで読んでいたし、聞いてもいた。ただ、実際に自分が「アウトサイダーに見えないアウトサイダー(だって、外見は日本人だから)」になったとき、これがよく見え始めた。私には、こうした社会は、critical thinking/クリティカル・シンキングのスキルを訓練されていない国民によって無意識のうちに継続されているように思うが、ま、それはまた別の機会に書くことにしよう。

Tuesday, January 17, 2012

女児という理由で中絶:「最も極度な女性差別」“It is discrimination against women in its most extreme form” Dr. Rajendra Kale

1月16日以降、カナダで最も権威ある医学ジャーナルCanadian Medical Association Journal(CMAJ)に発表されたドクター・ラジェンドラ・ケールのエディトリアルをめぐって大きな議論が起きている。


ドクター・ケールによれば、「インドや中国でいちじるしい女児の中絶は、数は少ないがカナダでも起こっている。女児の中絶は”女性に対する差別のうちで極端にひどいもの(It is discrimination against women in its most extreme form)”であり、これを防ぐためには性別判定の結果を妊娠30週以前に伝えることを禁止すべきである」。


現在、カナダでは親が望めば妊娠18-19週で性別を知らせてくれる。妊娠30週以降の中絶はに困難が伴なうため医療関係者は推奨しない。


女児を望まない両親による女児の中絶は、インドや中国では数万件という単位で起こっているが、トロント周辺の南アジア系コミュニティでもかなり行われているとされる。The Toronto Star紙によれば、2006年の国勢調査のデータでは、カナダ全国の15歳以下人口で見ると南アジア系コミュニティでは男子1000人に対して女子932人と、一般人口での男子1000人に対する女子953人と幾分不均衡になっている。しかし、これをトロントのメトロポリタンエリア(だいたい市内にあたる)の南アジア系コミュニティで見ると、男子1000人に対し女子917人、トロント近郊のミシサガでは女子904人、さらにブランプトンでは864人と不均衡な度合いになっていることがわかる。


実際、ドクター・ケールの論評は、ブリティッシュ・コロンビア大学の経済学教授ケビン・ミリガンの研究結果に基づくもので、インド系のうちヒンドゥー教徒、無信仰者の中国系のあいだで女児の中絶が故意に行われており、こうしたコミュニティ内の男女比のバランスがいちじるしく欠けているとされる。


当然、この議論に対する批判として出てくるのがright to information(知る権利)である。とりわけ過去20年ほどの間で医療分野では患者の「知る権利」の重要性がますます強調されている。しかし、こうした議論に対し、ドクター・ケールは「胎児の性別判断は医療関連の情報ではないため、この議論は無効である」としている。また、南アジア系コミュニティだけをシングルアウトするのは差別であるとし、すべての妊婦に対して30週を課すことを求めている。


カナダの産科医と婦人科医で構成されるThe Society of Obstetricians and Gynaecologist of Canadaは、ドクター・ケールの示唆は文化的配慮が足りないと批判的な立場をとっているほか、南アジアコミュニティの中にもステレオタイプを煽るとの懸念も出されている。


この議論は、脳死や死ぬ権利をはじめとする医療技術の発展に伴なって出てきた新しい議論であると同時に、マルチカルチャー社会における移民の文化的価値と受け入れ国家の価値(この場合は女性の権利に関する価値)のあいだで起こっている問題という二面性を持っている。同じように、カナダにおける男子乳児の割礼や女性器切除(FGM)の問題もしばしば取り沙汰される興味深い問題である。


参考)
The Globe and Mail:
http://m.theglobeandmail.com/life/health/new-health/health-news/bid-to-curb-female-feticide-pushes-hot-buttons-of-abortion-and-culture/article2304046/?service=mobile#

http://www.theglobeandmail.com/news/national/withholding-sex-of-fetus-could-stop-female-feticide-doctor-says/article2304046/print/

The Toronto Star:
http://www.thestar.com/news/article/1116291--canadian-doctor-s-suggestion-to-delay-revealing-baby-s-sex-ignites-controversy-over-feticide

Friday, January 6, 2012

国際離婚と”親による子どもの拉致”(parental abduction:ペアレンタル・アブダクション)

1ヶ月ほど前に、CBCラジオ番組のCurrentでparental abductionについて話していた。聞いていると、元妻(日本人)が2004年に子どもを日本に連れ去ったまま子どもと離れ離れになっている、というモリー・ウッドという人がインタビューを受けていた。彼の話によれば、カナダの裁判所からは彼が親権を与えられていたにもかかわらず、2004年、元妻が日本に子どもを連れたまま帰ってしまったとのことである。現在、子どもたちは17、15歳になっており、日本に帰ってから、母親は子どもたちからカナディアン・アイデンティティを奪い、カナダの家族と連絡を取らせないようにしているとのことである。モリー・ウッドは、「親による子どもの拉致」が子どもにもたらす心理的虐待について幾度となく強調していた。


彼の話だけ聞いていると、リスナーはみんな、子どもを取り上げられた父親の悲しみを感じて、「何という母親だろう!」と思ったことだろう。このプログラムのアンカーも彼に同情的だったし、この父親側の話だけ聞くと、ハーグ条約加盟は当然!という意見を抱くのは自然な成り行きだろう。


しかし、実際には国際離婚にともなう「親による子どもの拉致」の実態はもっともっと複雑である。そして、長年、日本政府が欧米から批准を迫られていたHague Convention on the Civil Aspects of International Child Abduction(国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約)を考えるとき、この複雑性が日本政府の批准に足踏みさせていたのだろうかと思えば、ちょっぴり日本政府にも希望が持てるように思ったものだ。だから、2011年5月に日本政府が批准に前向きな姿勢を示したときは、あれっと思った。時事通信 (5月19日付)の”同条約に関する副大臣会議座長を務めた福山哲郎官房副長官は記者団に「子どもの福祉を第一に考え、加盟してもいいのではないかという結論に至った」と語った”を読んときには、「子どもの福祉を第一に考える、なんてそんなの当たり前じゃない! それが結論なら、なんでこんなに長い時間がかかったのよ?」と思ったものだ。


たとえば、このシチュエーションを自分の状況に照らし合わせてみたとき、カナダという外国に住む私(母親)の状況は明らかに不利である。たとえば、裁判になれば、外国人であり、フルタイムで働いていない私に親権が100%下りる可能性はきわめて低い。親権がいくらか下りたとしても、あるいは下りなくても、定期的に夫は面会の権利を求めてくるだろうから(それにそれは裁判所の指示であって断れないから)、日本に帰ることもできない。そうなると、異国の地でシングル・マザーとして生きていく決断をしなくてはならないが、その決断が簡単に下せるわけがない。


しかし、だからといってモリー・ウッドの元妻のように二国間の司法のギャップを考慮もせず子どもを連れて帰るのを推奨することは到底できない。ウッドが主張するように、子どもたちは友達や家族(親類)と突然連絡を閉ざされるのだから、母親の行動に起因する孤立と重荷は計り知れない。


個人的には、日本にはハーグ条約に加盟してほしいと思う。しかし、批准する、批准しないとは別に、国際離婚に伴なう子どもの拉致に関して、欧米諸国と日本政府との間で、先に記したような現実を照らし合わせた相互理解をより深める必要があると思われる。それなくしては、批准しても、批准しなくても、この問題は私たちのような国際結婚カップルに突然襲い掛かってきて、二国間の理解の違いという大きなクレバスのなかに陥って身動きが取れなくなるのは目に見えている。具体的には、二国間の間の法律や文化の違いを理解する専門家やカウンセラーの設置、さらには国際離婚を考えている人たちに対するサポートやメンタル面での援助などを提供する機関の設置が求められる。


数年前、外務省は領事館を通して国際結婚している日本人に「ハーグ条約に関しての意見書」みたいなのを配って、アンケート調査をしていたことがある。実際に当事者となるであろう国際結婚カップルの意見や、その集計はどういう形で、今回の判断(批准するという)につながったのであろうか。せっかく取った調査の結果をきちんと活かすことが必要だろう。


しかし、私にはひとつ腹が立つことがある。それは、こうして国際結婚カップルの問題になると、国際結婚した日本人女性が「非国民」だの「パンパン」だのと野次られることである。そんな低俗な野次に私も応える必要はないと思いながら、そういう輩はKaren KelskyのWomen on the Vergeを読んで自らも一生懸命けなしている当のスキームに巻き込まれている事実を認識することをお勧めしたい。

Sunday, December 25, 2011

Feminization of Education : 女の子の方が成績がよい理由

The Group of 8, The Japanese and Canadian Writers' Networkへの寄稿記事を転載
リンク:The group of 8 - The Japanese and Canadian Writers' Network

11月中旬に入ってきたニュース・アイテムのひとつは、女の子の方が学力的に優れている、というもの。男女間の学力格差は、北米やヨーロッパの先進諸国で問題化して久しいし、私も教える側から実際に見てきたのでちょっと書いてみたい。


カナダ政府の教育関連機関Education Quality and Accountability Office (EQAO) および Council of Ministers of Education, Canada (CMEC)によれば、グレード8(8年生)の生徒の学力を計った2010年のThe Pan Canada Assessment Program (PCAP)テストの結果、読解(reading)、数学(math)、科学(science)の3項目で、数学は男女ともに同点、読解と科学では平均的に女の子の方が得点が高かったという。これまでは男の子の方が得点が高かった科学に関しても、今回は女の子が高得点を得るという結果となった。


カナダの教育界では、これまでも男女の学力格差が何度となく取り上げられてきているが、その傾向をさらに裏付ける形になった。


学力格差の理由として学者や教育関係者が挙げるのは、ビデオゲームの影響や成長発達的差異、さらに「教育セクターにおける女性化」など。ビデオゲームの影響(男の子の方が何故かのめりこみやすい)、成長発達的な差異(女の子の方がことばを発するのが早い、とか、女の子の方が文章が上手、とか・・・)以上に私にはこの「教育セクターにおける女性化」というのが興味深い。


一例をあげると女性教師が圧倒的に多いこと。その結果として女性教師の好みで読書リストなどが作られ(たとえば「赤毛のアン」や「若草物語」。男の子は大嫌い!)、男の子の読書離れに結びつく点などが指摘されている。


また、北米では1960年代頃から従来の男性中心、白人中心の教科書やカリキュラムが大きな問題とされ始め、改良・変更が加えられてきた事実がある。たとえば、それまで教科書をはじめとする教育関連書籍の写真は、白人男性医師、白人男性科学者などの写真が圧倒的であったが、現在ではいわゆる「マイノリティ(女性、非白人)」の写真が大半を占め、反対に白人男性(白人男子)の写真は稀という。この結果、男の子は未来の自分の姿を、こうしたロールモデルに投影することができない。


この報告が発表される少し前に、トロント教育委員会(TDSB)はアフリセントリック学校設立を許可したが、これと同時に決められたのは男子、あるいは女子校の設置許可だった。実は、男子校設置許可の理由も、男女間の学力差であった。男子校設置により、男の子が興味をもつ主題や読み物を与えたり、行動ベースのプログラムを組み込むことができ、結果として男の子の学力の伸びにつながるものと期待されている。


高校中途退学率で見ると、カナダ全国で男子(10.3%)、女子(6.6%)と男の子の方が圧倒的に高い。また、カレッジ、大学、修士レベルの在籍数を見ても、女子が男子を上回っている(これはカナダだけでなく、OECD諸国の国際学力調査(PISA)でも結果は同じ)。10年以上も前の話で恐縮だが、日本の公立高校で教えていた私の経験からも、確かに女子の方が平均的に成績がよかった。とりわけ語学(英語、国語)にはその差が歴然と表れていた。よく見ていると、女子生徒は真面目にがんばって勉強する子が、男子に比べると多い。ただ、たまに学力というか、もともとのIQが高いんじゃないか、というような子はいつも男の子だったが・・・。


それで、ふと思うのだが、女子の方が学力的に優れているのなら、どうしてノーベル賞(科学に関する賞)受賞者には男性が多いのだろうか。大学の教授や学者、知識人には比較的男性が多いのだろうか。教育レベルでは制度的問題が改善されたが、社会的にみると制度的問題が未だ女性の進出を妨げている、ということなのだろうか。いや、単に女性のほうが能力的に優れているけれど、その能力を眠らせている、ということなのだろうか。このあたりも気になるところだ。

Friday, December 16, 2011

イスラモフォビアの一種? 女性蔑視に対する反応?

先日、 カナダ連邦政府のCitizenship and Immigration Ministry(市民および移民局)のジェイソン・ケニー大臣が、市民権授与式での宣誓の際はヴェールをかぶったイスラム教徒女性は、そのヴェールを取らなければならない、という声明を出して、メディアで議論が起こっている。Canadian value、Freedom Of expressionとか、multiculturalism、torelance、という言葉が踊っている紙上は賛否両論わかれている。。


ヴェールというのはニカブといわれるもので、目の部分だけがオープンになっている。トロントに住んでいれば、誰もが必ずそれをかぶっている女性を見たことがあると思う。


今までは、イスラム教徒の女性にはヘッドドレスをかぶったまま投票したり、市民権の宣誓をしたり、裁判所で証言したりすることができたが、折りも折、ちょうど最高裁判所では裁判所での証言の際にヴェールをとるかどうか、が審議されていたり、ヴェールに対する状況は大きな転換を強いられることになりそうである。


なぜ、イスラム教徒女性のヴェールが政治的問題になるのか。今まで問題の起こっていないヴェールが、今ここで突然に問題となるのはなぜなのか。一部の人が言うように、イスラモフォビアもあると思う。ただ、この問題は複雑な問題であって、それだけが理由だとは到底言えない。


まず、マルチカルチャリズムを選び、それを最もすばらしい自国のアイデンティティだと思っているカナダ人は、一般的にいえば他文化に対する寛容性を備えている。しかし、ヴェールというのは、どうしてもカナダ人が同じように大切にしている「価値」(Canadian value)にそぐわないのである。その価値とは、男女平等の原則であり、男性と女性は同等に扱われなくてはならない、というカナダ人にとっては空気みたいに当然の原則である。


ヴェールが象徴するのは、それとは真っ向から反対する価値であり、男性が女性によって魅惑されないように女性は自分の魅力を隠す責任がある、というイスラム諸国の慣習のひとつである(コーランがそう記しているわけではなく、部族的な慣習であるといわれる)。女性は車を運転しできないとか、女性はひとりで通りを歩いてはいけないとか、そういった決まりも一部のイスラム圏では女性に対して課されている。


1960年代に権利の革命によって社会の変革を経験した団塊の世代(ブーマー世代)にとって、男女平等の原則に反するこの考え方はどうしてもなじまない。また、あんなおしゃれのできないユニフォームをどうして女性が好んで着ようと思うのか、と感じる。強制されているように思うにわけである。ヴェールは、つまるところ、カナダ人にとっては何よりも「女性に対する抑圧」として映る。


一方では、カナダで生まれた女性でイスラム教を信仰する女性のなかには、自らヴェールをかぶることを選んだ人もいる。それでも、一般に浸透しているイスラム教における女性の立場を考えると、つい「抑圧」という言葉が脳裏をよぎるのだ。


カナダのマルチカルチュラリズムにおいて、カナダ人が得意とする「寛容性」に受け入れられない女性蔑視の価値観は、今後もいろいろな形で議論を巻き起こすだろうと思われる。

Tuesday, November 29, 2011

シャリア法では殺人にならない名誉殺人とカナダの多文化主義

2009年6月30日、ナイアガラ旅行の帰途の家族の乗った車が、キングストンで川に転落し、4人の女性が命を落とした。死亡した4人のうち、3人はモントリオール在住のモハマド・シャフィアの娘で、上から19、17、13歳、残るひとりはシャフィアの第一の妻で、家族のなかでは「叔母」とされていた女性であった。


警察は直ちに別の車で移動していたモハマド・シャフィアと彼の妻、息子の関与を疑い、調査に乗り出した。現在、この裁判が進行するにつれて、この事件の全容が明らかになっている。Honour killing(名誉殺人)、子ども虐待、移民家庭における文化的軋轢という、マルチカルチャー社会に特有の興味深い問題を浮かび上がらせる。


検察側の見方はこうである。アフガニスタン生まれのビジネスマン、モハマド・シャフィアは、伝統的なイスラム教に基づく価値観を娘に押し付けており、娘はそれに抵抗、家庭は崩壊していたという。死亡した娘3人はカナダ生まれのティーンエイジャーとして、西洋スタイルの生活を望み、イスラム教徒のヘッドギアであるヒジャブ着用を拒否(あるいは、家を出るとすぐに取る)、禁じられているボーイフレンドをつくり、メイクアップをしていたことから、父親の怒りを買っていたという。

最も反抗的な長女ザイナブは、パキスタン系のボーイフレンド(父親は同じトライブの結婚相手以外は認めないという立場)をつくり、家族の目を盗んでデートを繰り返していた。家出の結果、女性用シェルターにも入ったこともあるという。また、2番目のサハーは学校のカウンセラーに家庭での父親との問題を理由に自殺をほのめかしており、福祉サービスを提供する組織が介入したが、父親の怒りを恐れて、証言を撤回した結果、福祉関係者もそれ以上の介入はしなかったという。


報道によれば、父親モハマドは息子に娘の監視をさせたり、ボーイフレンドと接触させないように学校を辞めさせようとまでしていた。また、何度となく娘たちがイスラム教的価値観に基づいた生活スタイルを破棄していることを批判し、家族の名誉を汚したこと、死をもってつぐなう以外に道はない、というコメントをしていたという。こうした経緯から、事故による溺死と見せかけ、妻と息子と共謀して娘3人を計画的に殺害した(子どものできなかった最初の妻は運悪く道連れになった・・・)、というのが検察側の主張である。


妻のヤヤは、夫には絶対服従で自分の考えで行動するということはなかったようだ。公判中、自分の娘たちの死の映像を見ることを拒否し、すすり泣きをしていることが多いと報道されている。また、「叔母」とされている女性がシャフィアの第一の妻であったことから、ポリガミー(多妻制度)という問題も浮かび上がらせている。


どこの家庭でも世代間のギャップによる誤解や衝突はあるものだが、移民家庭ではこれに文化的な違いからくる軋轢という要因が加わることがあり、私もこうした話はときどき耳にする。とくに親が強い宗教観や価値観をもっている場合には、子どもたちが「西洋的」と見え、毎日の生活のなかで「文化の衝突」の縮図が展開される。これが悪化した最悪のケースがHonour killingで、トロント周辺では年に1度はこうしたケースが表面化しているのが現状である。


もちろん、警察や検察は「honour killing(名誉殺人)」という言葉は使わない。カナダ刑法にはこの言葉はないため、彼らは注意深くこの言葉を避けている。しかし、事件に至った経緯が明るみになるにつれ、この事件を最もよく表現する言葉は「名誉殺人」であることは誰の目にも明らかである。


イスラム圏では、シャリア法のもとで家族の名誉を汚した女性メンバーの殺害は「殺人」とはみなされない。たとえば、結婚前に性的関係を持った娘や不倫関係にある妻、あるいは被害者としてレイプを受けた女性メンバーなどの存在は家族の恥とされ、これを償う唯一の方法としてhonour killing(名誉殺人)が許されている。


名誉殺人としか見えない事件が起こるたびに、私はこの事件を犯した男性たちの意識がどうなっているのかと、怒り心頭、メラメラと頭にくる。正直いって、カナダ社会の一員として、こうした女性蔑視の考え方は国境をまたいだ時に捨ててほしい、と思うが、政治的に正しい言い方ではないのは分かっているので、言いはしない。カナダ人にとっては、男女平等という考えは至極当然で、とりわけ女性を男性の従属物とみなすような価値観は、感覚的になじまない。この事件だって、平均的カナダ人の感覚からするとまったく理解できないだろう。


しかし、カナダのメディアはこの問題を、社会全体が短絡的な移民バッシングへと導かれないよう、非常に注意深く扱っている、という気がする。新聞のコメント欄には、コミュニティ内部をよく知る関係者や専門家が事件について多角的なコメントが寄せられる。社説でもこうした関係者の意見をもとに、問題が深く掘り下げられる。私がカナダの多文化主義の懐の深さを感じるのは、こんなときだ。文化間の軋轢に起因する問題や事件が起これば、まずはコミュニティ内で問題に関する議論が起きる。そこを飛び越して社会全体でこの問題を議論すると、問題の根本的解決にならないどころか、コミュニティそのものを誤解、さらには移民バッシングへと発展する恐れもある。なので、メディアは非常に慎重になる。カナダの多文化主義のカギとなっているのは、このメディアの慎重さだと思う。そして、それを支えているのは、言うまでもなく国民の他の文化に対する寛容性に他ならない。

Tuesday, August 23, 2011

モラルなき資本主義の結果としてのover-sexualisation

フランスの下着販売会社Jours Apres Lunesが、ウェブサイトで6歳くらいのモデルの女の子にパールのアクセサリーをつけたり、ブリジッド・バルドー風のヘアスタイルをさせ、なまめかしいポーズをさせて商品をアピールしていることで、over-sexualisation(オーバー・セクシュアライゼーション:本来、性的でないものを性的に見せること、の意。日本語で何というのかしら?)との批判を集めている。この会社がターゲットにしているのは4~12歳の女の子で、批判の多くはモデルの子が単なる子どもではなく、「小さな女性」として扱われていることに集中している。「Exploitive(搾取主義)」、「Creepy(気持ち悪い)」、あるいは「ペドファイル(幼児を性愛の対象として見る人)のファンタジーをあおっている」として、とりわけ北米からの批判が多いという。

over-sexualisationといえば、最近、フランスの雑誌Vogueが10歳のThylane Loubry Blondeauを表紙に使ったことで批判の矢面に立たされたほか、アパレルのAmerican Eagleは、先週、ティーンネイジャーの女の子向けにプッシュアップ・ブラを発売し、大きな議論をかもしている。また、Miu Miuも14歳のHaille Stainfeldを起用するなど、ファッション界では10代の女の子をモデルとするなど、業界のモデルおよびターゲットにしている消費者の年齢が目に見えて低下している。

私もover-sexualisationの問題は非常に気になっている。根本にあるのは、どこまでも利益だけを追求する資本主義だと思うし、同時に企業の戦略に易々と乗ってしまう消費者が当たり前のように浸かっている消費主義だと思う。

数週間前のこと。Yorkdale Mallで父親と4、5歳くらいの女の子を見た。その女の子のファッションには驚いた。彼女は、超ミニスカートのすそからフリルをのぞかせ、黒いレースのトップに何重ものパールのネックレスをしていて、女の子というよりは明らかに「小さな女性」だった。父親はAbercrombie and Fitchの大きなロゴの入ったシャツを着ていて、手にはいくつものショッピング・バッグを持っていた。あとで、彼らが日本語を話しているのを聞いてショックだったが、確かに日本ではこういう場面にときに出くわすことがある。Consumerismの行き過ぎやブランド商品の過剰化は日本でよく見られるが、私には本当に気味の悪い現象に見える。本人はブランド商品を着て気持ちいいのかわからないが、結局、企業の側からすると、彼らは自ら歩く無料広告塔になってくれているわけで、こんなにありがたいことはないだろう。

いくら企業が何と弁明しようと、彼らの第一の存在理由は利益追求にある。そのためには企業は手段を選ばない。倫理性もモラリティも彼らには問題ではない。本来ならば、お金を持っている大人が消費者であるから、企業は彼らを対象として彼らの欲望を満たすサービスやグッズを提供してきたが、しばらくすると企業はもっとよい計画に気付いた。それは、将来、「消費者」となりえる子どもを小さいころから「消費者」に訓練することだった。ドキュメンタリーSupersize Meが指摘したように、子どものころに親しんだ味は一生消えない。マクドナルドはそれに目を付けて、Happy Mealや子どものお誕生日パーティーという商品を打ち出し、子どもが楽しめるようなプレイグラウンドを次々と作っていった。結果、マクドナルドはかつてない消費者のLoyalty(忠誠)を獲得することになった。

先に述べたフランスのアパレル企業がやっていることは、この変化球に過ぎない。こうした動きを批判する人たちは、企業が消費者の幅を押し広めるこうしたやり方が倫理的ではない、消費者の知らないうちに「消費者トレーニング」を課していると批判する。しかし、ほんとうにそうだろうか。企業に「倫理」を求めるより、親、つまり大人の消費者ひとりひとりがこうした策略に抗するだけの知識と批判的能力を身につける方が断然意味のあることではないかと思う。

私は資本主義がすべて悪だとは思わない。資本主義のよい面であるInnovation、あるいは技術開発などは、本来、人間がもつ自然の本性にあった側面であると思う。人間の、よりよいものを作りたいという欲求は、さまざまな開発をもたらしてきたし、それで多くの人たちの命は救われ、生活は便利になった。しかし、一方では利益追求を固執するあまり、倫理性や道徳性をおざなりにしてきたが、それは消費者が「知識や常識」あるいは「批判的精神」を持っている限り、許されることではない。消費者が企業の戦略を鵜呑みにしているような状況こそ、大きな問題だと思う。

人間を「消費者」としてしか見ない企業の言いなりにはならないこと。「消費者」である前に「市民」であること。「その手には乗らないわよ!」としっかり反論できること。そのために情報を集め、懐疑的になったり批判的になったりするのはまったく当然で、健康的なことであると信じている。

参照:French lingerie firm pretty babies prompt calls to let girls be girls (The Globe and Mail, August 19, 2001)

Thursday, August 18, 2011

Honour Killing(名誉の殺人)かDVか

以前、「女性蔑視とDV(ドメスティック・バイオレンス)」でも触れたが、今日はHonour Killingについて書いてみたい。この問題は、女性に対する暴力という問題のみならず、多文化主義においてホスト・コミュニティの価値観と対抗する伝統をどう受容するか、という非常に複雑で興味深い問題を内包している。

●事件
今年7月22日、21歳になるShaher Bano Shahdadyがトロントのスカーボロー地区で殺害されるという事件が起こった。警察は容疑者として夫のAbdul Malik Rustam (27)を逮捕したが、この事件がメディアの注目を集めたのは、honour killingの可能性が否定できないためだった。彼女は生まれて間もなく家族とともにパキスタンから移民してきており、13歳でパキスタンの学校に入り、18歳で従兄弟にあたるRustamと結婚。妊娠後、カナダに戻って心臓に障害のある子どもを出産したが、二人の関係は非常に悪化していた。

●honour killingかDVか
この事件をhonour killingと見るか、DV(ドメスティック・バイオレンス)と見るかによって、専門家の意見はわかれている。Tarek Fatah (Muslim Canadian Congress)によれば、Rustamは妻がブルカ(頭からすっぽり被るドレス)を着用しないこと、あるいはFacebookで他の男性と連絡をとっていたことなどに強く反対していたこと、彼女は離婚を願っていたことなどから、この殺人は明らかにHonour Killingであるという。一方、こうした殺害は部分的にはDVであるとする専門家もいる。トロントのバーブラ・シュリファー・コメモレティブ・クリニックのカウンセラーFarrah Khanは、DVは移民コミュニティ(とりわけ南アジア・コミュニティ)にだけ存在するのではないことを強調し、南アジア・コミュニティ内で起こる女性に対する殺害を簡単にhonour killingとすることを拒否している。

honour killing(名誉の殺人)とは、通常、家族の名誉に泥を塗ったという理由で、男性メンバーが家族や親族の女性メンバーを殺害することで、イスラム教圏では、これは例外的殺人にあたるため、殺人を犯した本人が罰せられることはほとんどない。家族の名誉を取り戻すために殺害を犯す必要があるという考えが背景にある。ただ、通常、家族や親類の女性に対して振るわれる暴力、いわゆるDV(ドメスティック・バイオレンス)との線引きは非常に難しく、HKが南アジア系コミュニティでしばしば見られることから、専門家やメディアはHKという名称を使うことでステレオタイプ、あるいは人種差別者というレッテルを貼られることを非常に気にしている。

カナダでは2002年以降、12件のhonour killingが報告(2010年時点)されており、移民人口の多いトロント周辺ではhonour killingらしき殺人が起こっている。たとえば、2008年、娘がブルカを着ないという理由で、父親と兄が協同して16歳のAqsa Parvezを殺した事件、あるいは、2009年にAmandeep Kaur Dhillonが義父によって殺される事件などが記憶に新しい。カナダの刑法であるCriminal Codeには、honour killingという言葉はなく、警察もこれらの事件をhonour killingであると特定することはない。

●ホスト文化の価値観と対立する文化を受容すべきか、という議論
honour killingは移民を多く受け入れている西洋諸国で見られる問題だが、こうした伝統は西洋的価値と矛盾することから、数々の議論が起こっている。一方では、7月22日にノルウェーで起こったアンネシュ・ブレイビクによるテロ事件にあらわれたように、移民の西洋的価値への絶対的適応を要請し、とりわけイスラム教的価値観を容認すべきではないとする見方がある。アメリカやフランスなどに比べると、今のところカナダでは何とかこうした異なる価値感を妥協しながら受け入れていこうとする動きが主流を占めていると思われる。ただし、どこまで受け入れるか、に関してはやはり議論が尽きないし、移民の文化がhonour killingといった犯罪に発展する場合は、より問題は複雑である。私が見たところ、カナダで政治家や知識人が最も恐れるのは、ステレオタイプや人種差別主義者とのレッテルを貼られることであるため、メディアや知識人のあいだでは移民の文化に関してはなるべく触れないでおこう、移民の文化に関してはそのコミュニティをよく知る専門家に意見を聞こうとする流れもある。

さて、honour killingに話を戻すと、南アジア系コミュニティをよく知るソーシャルワーカーのAruna Pappは、とりわけ南アジア圏から来る移民に対して、カナダに来た際にはカナダ社会においては女性の権利や女性の地位はどうとらえられているのか、といったことを学ぶプログラムを移民に提供すべきだと示唆している。興味深いのは、こうした提案に異議を唱えるのはたいていがリベラルな白人アカデミックであって、彼らは特定のコミュニティのレイシャル・プロファイリング(racial profiling、特定のコミュニティにステレオタイプのプロファイルを課すこと)の可能性に懸念を示している。確かに、特定のコミュニティに対してだけそうしたプログラムを提供すれば、他でもない、プロファイリングであるので、このあたりは非常に複雑な問題である。

ちょっと話は逸れるが、アメリカの保守的ニュース番組Fox Newsでは、キャスターやコメンテーター-すべて白人-がhonour killingを批判して、「こうした伝統はアメリカ社会では許容できない!」と感情むき出しになっていたりする。一方、南インド系コミュニティから専門家やイマームを呼んできてインタビューしているカナダのCBCとはまったく捉え方が違っていて唖然とする…。

実は、似たような問題として、宗教を学校に持ち込むこと、あるいはFGM(Female Genital Mutilation、赤ちゃんのときに女性器を切断する風習)なども同様に議論がなされているので、また項を改めて書きたいと思う。

Wednesday, July 6, 2011

女性蔑視とDV(ドメスティック・バイオレンス)

6月25日付けToronto Star紙は、バングラデッシュ出身のUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)の院生が夫の暴力によって視力を失い、顔面に傷を負うという事件を報じていた。UBCに留学しているRumana Monzurは、夫と5歳になる娘に会うためにバングラデッシュに一時帰国したが、夫からのDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けて重態に陥っている。夫のHasan Sayeed Sumonは妻が他の男性と恋愛関係にあると疑っていたことから、ジェラシーによる暴力という説もあるが、詳細は明らかにされていない。この事件そのものはDVという世界に共通する問題だが、それと同時に南アジア特有の問題でもある、と指摘する声もある。

たとえば、バングラデッシュでは、60%にあたる女性が家庭で暴力を受けているという統計があり、これは他の南アジア地域でも同様である。トムソン・ロイターズ・ファウンデーションの研究結果によれば、世界で女性にとって最も危険な国としてあがったパキスタン3位、インド4位と、南アジア圏が入っている(ちなみに、最悪はアフガニスタン、2位コンゴ、ソマリア5位)。調査結果は、パキスタンでは10人に9人の女性がDVを受けていること、インドでは半数の女性が18歳未満で結婚していることをあげている。エドモントンに拠点を置くインド系カナダ人のグループIndo-Canadian Women’s Association(インド系カナダ人女性協会)の副会長は、インドをはじめとする南アジアの国が歴史的に男性優位の国である点を指摘する。

この記事を読んで思い出したのが、数週間前にインドのニューデリーでSlut Walk を開催しようとしている女性のインタビューだった。このインタビューで興味深かったのは、彼女が「最近のニューデリーでは、以前に増して男性が女性に対してあからさまなハラスメントをするようになった」「地下鉄に女性ひとりで乗ると、獣のような目で上から下までじろじろと眺める男性が多数いる」と言っていたことだ。こうした日常的なハラスメントは、女性が自由に移動し、自由に仕事をする権利などさまざまな権利を奪っている。そして、ニューデリーがインドのなかでもっとも女性に対するハラスメントが起こっている原因として、親族の誰かが政府に仕えている役人であることを挙げていた。

私の友人で、北インド出身の両親を持つシミも以前、大変な目にあっている。トロント郊外で生まれたシミは、両親の勧めでインドの男性といささか無理矢理に結婚させられた。しばらくは優しい夫だったが、次第に家庭で暴力をふるい始めた。外ではまったくそうしたそぶりを示さないため、両親に言っても信じてもらえない。暴力はどんどんエスカレートしていった。たまたまシミの母親が電話をしたとき、夫は母親の声をシミと間違って、ひどい剣幕で怒鳴り、ひどい罵声を浴びせ始めた。それでやっとシミの両親はことの重大さに気付き、離婚の手続きをとったという。シミは私に「私はカナダ生まれのカナダ人だから、インドの男性のひどい女性差別意識には我慢ならない」と言っていた。

honour killingsというのもカナダでは南アジア系の家庭にたまに見られる。これは、妻が不倫したとか、娘が結婚しないうちに妊娠したとかいう理由で、「家族に恥をかかせたのだから、死んでつぐなうべき」という論理によって女性が家族メンバーに殺されるという事件である。カナダではこうしたhonour killingは2002年以降12件、パキスタンでは年に1000件も起こっているという算定もある。

私個人もインドに滞在したことがあるが、女性蔑視、あからさまなハラスメントを幾度となく女性として経験した。インドの男性には女性は男性以下という考え方があるのを肌で感じた。先のインド系カナダ人女性協会の副会長は、「インド男性の女性に対する態度は、奴隷に対する奴隷主と同じ」であると指摘する。「暴力は恐怖を植えつけるためのもので、それによって奴隷(女性)を従属的地位に貶めさせるもの」、つまり女性に対する構造的、社会的枠組みのなかでなされているという。こうした構造的、社会的枠組みを切り倒すには革命的な動きが必要である。ニューデリーでのSlut Walkはヨーロッパやアメリカの都市で行われるもの以上に多くの意味を持つことだろう。

参考:Attack was brutal, but not unique by Oakland Ross, Toronto Star, June 25, 2011

Saturday, May 14, 2011

世界の都市へと広がるSlut Walk

2011年1月24日、ヨーク大学法学部の女子学生に向け、女性の安全性に関する講演が行われた。そのなかで、スピーカーのひとりであったトロント市警察の警察官が言ったとされる言葉"women should avoid dressing like sluts in order not to be victimized."(性的犯罪に巻き込まれないためには、slutのような服装はしないこと)をめぐっては大きな展開があった。

Slutというのは、売春婦とか尻軽女とかいう意味で、軽蔑の意味が含まれている。新聞やラジオでは「時代遅れもはなはだしい」として、被害者である女性を性犯罪の理由であるかのように仕立て上げる考え方を批判し、この警察官に対して「過去50年間、この警察官はどこで何をしていたのだ」と、いまだ社会の変化に気付いていない彼のような市民に厳しい批判の矛先を向けると同時に、警察をはじめ企業などに隠れて存在している女性に対する蔑視感にも言及した。私の知る限りでは、この件に関しては警察官の言葉を擁護するような意見はメディアではまったく見られなかったし、この問題を「一人の警察官の問題」としてではなく、広く社会全体に未だ隠されている問題として取り上げ、多くの市民の声を吸い上げることが可能になったのは、カナダのジャーナリストたちの力量の現れだと思う。

こうした反応を受けて、トロント市警察、当の警察官はただちにヨーク大学に対して謝罪の手紙を送ったが、女性に対する性的暴力、ターゲットにされる女性に性犯罪の責任を転嫁するこうした考え方に対して非常に強い関心と批判はおさまらず、4月上旬、トロント市内でSlut Walkというデモが組織され、slutを思わせる服装の女性たち、男性たちも参加して大規模のデモ行進が市内でなされた。蔑視の意味を持つ言葉を自らのものとして使うやり方は、その言葉に対する強烈な批判となりえることは、黒人が過去、証明している。

さらに興味深いのは、その後、このSlut Walkは5月7日のボストンをはじめ、世界60都市に飛び火したことだ。Face bookやTwitterなどのソーシャル・メディアを使って、女性の権利をうたう組織が、世界中で連携する動きを見せた。今後数週間のうちに(5月中)アムステルダム、ロンドン、シドニー、オースティンなどの都市でも同じ目的のSlut Walkが予定されている。日本ではどうなのだろうか?

Slut Walkをめぐる一連の動きに対して批判が出ているのは実は一部フェミニストからであるというのも面白い。批判のひとつは、こうしてSlutの格好で楽しそうに歩くのは性犯罪の被害に遭った女性たちに対して、レイプの持つ意味を軽く見せることになるというもの。また、一方では、好きな服装で歩く女性の権利は当然あるとしながらも、さらにはレイプの責任は完全に加害者側にあると認めながらも、わざと露出度の高い服装をしている女性に対して警戒感の低さと男性の欲望に沿うような役割を自ら果たしている点を指摘する批判もある。

この際、ついでに言うと、少なくとも北米社会がどんどんSexualizeされている傾向にある点も指摘されてしかるべきだと思う。昨日の新聞では、10歳以下の女の子の洋服が、ここ数年、よりセクシーになってきているという記事を読んだ。これも女性をセクシュアリティの対象として捉える動きを加速する一例だと思う。また、Lady GagaやAmy Winehouseなどのセレブリティも、一方では女性に対する一般概念を壊したクリエイティビティは評価されるべきだと思うが、同時にこうした資本主義システムに乗せられて、女性がそのアイデアを自ら買ってしまったことは大きな問題となっていると思う。そう書いてきて、今、私の頭のなかを占めているのは、ポルノの氾濫する異常ともいえる日本社会のことだが、そのことはまた項を改めて後日書きたいと思う。

Tuesday, March 8, 2011

International Women’s Day

今日3月9日は国際女性デー。
1911年、ドイツの政治家クララ・ゼトキンの提唱により国際女性デーが設定されて今年は100周年目にあたる。Globe紙の女性コラムニスト、ステファニー・ノレンとマーガレット・ウェンテの記事を読んで、この100年の間に女性の地位が向上したかどうかに対する答えは、私たちがどこに住んでいるかで大きく変わってくることを改めて考えた。

ウェンテの主張するように、西洋社会に暮らす女性にとって「女性のための権利の闘い」は勝利に終わっている。大学で学ぶ学生のうち、女性は半数を超え、弁護士や医師の学位をとる女性もほぼ同数である(成績という観点からいっても女性の方が優秀)。これまで女性の社会的地位向上に尽力してきたおもに女性のおかげで、ここカナダでは明らさまな制度的差別はなくなった。一方、ノレンの記事にあるように、発展途上国の多くの女性はいまだにレイプやセクシュアル・ハラスメントといった性的差別の恐怖に今もさらされている。

この2本の記事を読んで思うのは、制度的差別とは別の形で女性に対する差別が世界中どの地域に住んでいようと(比較的、先進国はその程度は低いが)いまも存在すること。
女性の権利向上を目指すクララ・ゼトキンには、3つの目的があった。1. 女性に政治的決定権を与えること(選挙権など)、2. 女性の経済的平等(同じ仕事に対して同じ賃金を払うなど)、3.自分のことを自分で決める自由(職業や結婚相手の選択など)。こうした女性の権利は制度を変えることで獲得できるものだが、程度の差こそあれ、世界中の女性が日々直面しているのは別の種類の差別だと思う。
たとえば、カナダでは女性の4人に1人がレイプあるいは性的暴行の被害にあっているといわれる。この数字は子どもがいる家庭ではとりわけ重くとらえられるべきだ。男の子の親ならば、子どもを加害者にしないような、女の子の親ならば子どもを被害者にしないような教育をしなくてはならない。さらに、戦争が起こると決まって女性がレイプの危機にさらされることは、歴史を学べば明らかだ(南京戦における日本軍による中国女性に対するレイプは歴史上、最も残虐な例のひとつ)。もっと身近な例でいえば、女性の権利に関しては世界で最も進んだ国のひとつであるカナダでも、子どもの養育という意味では女性の負担が明らかに大きい。
歴史のなかで連綿と引き継がれてきた女性に対する構造的な差別があるような気がしてならない。

一方、私の母国を考えてみると、性差別に限らず、さまざまな差別が制度的にいまだに現存している。性差別に限っていうと、最もひどい差別のひとつは、女性が結婚と同時に夫の名前に改名しなくてはならない制度に違いない。数週間前、Globe紙の片隅でこの名前に対する差別に反対する数名が裁判を起こしたという記事を読んだが、「えっ、まだこの制度が温存されてたの?」と驚いた。外から見ると「何とひどい差別!」と見えるが、日本国内で女性たちの大半がこの制度に疑問を感じていないなら、「なんで名前を変えるのが差別なの?」という状況では、それは差別という問題には発展せず、もちろん状況は変わらない。

もうひとつついでに言うと、日本の痴漢問題に極端にあらわれるような女性に対する差別問題は日本人として恥ずかしい。電車に痴漢がうようよいたり、変態が変態的なことを普通にしていたり、下着泥棒がいたりする日本の状況は、10年間カナダで暮らすとひどいとしか言いようがない。また、本屋で誰の目にもオープンになっているポルノ雑誌の類やつり革のポルノ写真にも、日本の女性たちがなぜ目をつむっているのか、私には非常に疑問である。ああして女性が軽視・蔑視されるような映像に日常的に接していることと、電車に痴漢がいることが、彼女たちには関連づけて捉えられないのだろうか。

女性に対する差別撤廃は、女性が構造的・制度的差別に気付くことからしか始まらない。女性が状況に甘んじている日本の状況では、変化はまだまだ先のことだと思われてならない。