北米で最大のフカヒレ消費州のカリフォルニアでは、すでに法的に禁止されたフカヒレだが、カナダでも各都市でフカヒレ禁止の動きが加速している。
オンタリオ州では、今までにブラントフォード、オークビルでは7月に、ミシサガでも市議会での決議を経てフカヒレの販売が禁止され、昨日(10月13日)はトロント市議会のコミッティで投票があり、結果的に満場一致でフカヒレ禁止が採択されたことから、今後、市議会での議論を経て、市の条例としてフカヒレ禁止へと動いていく模様。
問題点のひとつは、こうして各都市での禁止が継ぎ接ぎ的(パッチワーク的?)措置になり、たとえば、トロントで禁止されているが、隣のマーカム市へ行けばフカヒレが売られているという状況になっている点。そのため、食品販売会社やレストランにとっては、非常に不利であるとされ、国単位でのフカヒレ禁止を求める声も一部にある。
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Saturday, October 15, 2011
Tuesday, October 11, 2011
'He changed the way each of us sees world'
10月6日、早朝のラジオで聞いたスティーブ・ジョブズの訃報に触れ、テクノロジーの進歩についていろいろな思いが過ぎっている。
さまざまな人たちがAppleの創始者スティーブ・ジョブズに対する思いを述べているが、なかでもオバマ大統領のコメントは最もジョブズの功績を簡潔に表現していると思われる。
He transformed our lives, redefined entire industries and achieved one of the rarest feats in human history: He changed the way each of us sees world.
スティーブ・ジョブズはわれわれの生き方を、産業界全体を根本的に変えた。人類史で最もまれな功績のひとつ、世界の見方を根本的に変えるという功績を成し遂げた。
今、これを図書館で書いている私の隣では、学生らしき人がコンピュータで課題を仕上げている。ときに席を立ってストレッチをするのだが、彼の前にいた年配の女性がその姿を見て、「コンピュータは疲れるのね。私はコンピュータのことなんて、何も分からないし、そんなものに振り回されるのはごめんだわ」と言ったのに対し、男性は「別にコンピュータを使わなくったって何も困ることはないよ」と言った。彼は、年配の女性に気を遣ってそう言ったに違いないが、実際のところ、それほど誤ったコメントはない。
戦後、最も大きな発明といえば、コンピュータの発明に違いない。ジョブズは厳密にいえばコンピュータの発明者ではないが、私たちひとりひとりがコンピュータを所有できるようになったのは彼の功績という意味から、「パーソナル・コンピュータの生みの親」と言われている。その功績によって、オバマ大統領が言うように、私たちの生活は、そして世界観は限りなく、大きく変わった。
思えば、私が大学を終えてライターの仕事を始めた時、ワープロで原稿を書いていた。それだけでも画期的だと思われたが、メールがなかった時代だから終わった原稿はフロッピー・ディスク(死語?)に入れて、自転車かタクシーで編集部まで届けるというのんびりさであった。
1999年、私が初めて買ったコンピュータはIBMのコンピュータだった。それを開くと、インドを旅行中のボーイフレンドと連絡を取りあうことができた。仕上がった原稿もこれで写真をつけて送ることができた。マイクロソフト・ワードの便利さに驚いた。
同じ年、トロントに移住してからというもの、私の海外生活はコンピュータなしではありえなかった、と言っていいほど、私の生活はコンピュータに支えられてきた。翻訳の仕事も、出版も、ディプレッションも、広辞苑をどうしようか、きょうの料理をどうしようか、そういう問題も、コンピュータが、インターネットがすべて解決してくれた。
それから12年後には、AppleのiPadを買った。その使いやすさ、美しさと機能性はほとんど信じがたい。iPadに比べたらMicrosoftが原始的で野暮にさえ思われる。iPodでメディテーションをし、子どもが幼稚園にいる間にはiPadで本を読む。私たちの生活にはテレビもCDもラジオも新聞すら必要ない。iPadがすべて満たしてくれている。
毎日送られてくるEメールにうんざりすることもあるし、次々に新しくなっていくコンピュータ・テクノロジーにようやくついていくのも楽じゃない。コンピュータ・スキルをもたない人たちが社会的に(精神的に)離脱しているという問題もある。
しかし、一方で、基本的にペシミスティックな私も、インターネット上でのコネクションがもたらす可能性に関してだけは非常に楽観している。今まで声をもたなかった人たちが声をあげ、そのメッセージが世界中の人たちに届く可能性には大きな期待が持てると思う。
“And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of life. It is life’s change agent”.
スティーブ・ジョブズのような天才がいつもいうのはI found what I love to do。好きなことをして、上のように死を受け入れる準備ができていた彼の態度を見習いたいと思う。
Sent from my iPad
さまざまな人たちがAppleの創始者スティーブ・ジョブズに対する思いを述べているが、なかでもオバマ大統領のコメントは最もジョブズの功績を簡潔に表現していると思われる。
He transformed our lives, redefined entire industries and achieved one of the rarest feats in human history: He changed the way each of us sees world.
スティーブ・ジョブズはわれわれの生き方を、産業界全体を根本的に変えた。人類史で最もまれな功績のひとつ、世界の見方を根本的に変えるという功績を成し遂げた。
今、これを図書館で書いている私の隣では、学生らしき人がコンピュータで課題を仕上げている。ときに席を立ってストレッチをするのだが、彼の前にいた年配の女性がその姿を見て、「コンピュータは疲れるのね。私はコンピュータのことなんて、何も分からないし、そんなものに振り回されるのはごめんだわ」と言ったのに対し、男性は「別にコンピュータを使わなくったって何も困ることはないよ」と言った。彼は、年配の女性に気を遣ってそう言ったに違いないが、実際のところ、それほど誤ったコメントはない。
戦後、最も大きな発明といえば、コンピュータの発明に違いない。ジョブズは厳密にいえばコンピュータの発明者ではないが、私たちひとりひとりがコンピュータを所有できるようになったのは彼の功績という意味から、「パーソナル・コンピュータの生みの親」と言われている。その功績によって、オバマ大統領が言うように、私たちの生活は、そして世界観は限りなく、大きく変わった。
思えば、私が大学を終えてライターの仕事を始めた時、ワープロで原稿を書いていた。それだけでも画期的だと思われたが、メールがなかった時代だから終わった原稿はフロッピー・ディスク(死語?)に入れて、自転車かタクシーで編集部まで届けるというのんびりさであった。
1999年、私が初めて買ったコンピュータはIBMのコンピュータだった。それを開くと、インドを旅行中のボーイフレンドと連絡を取りあうことができた。仕上がった原稿もこれで写真をつけて送ることができた。マイクロソフト・ワードの便利さに驚いた。
同じ年、トロントに移住してからというもの、私の海外生活はコンピュータなしではありえなかった、と言っていいほど、私の生活はコンピュータに支えられてきた。翻訳の仕事も、出版も、ディプレッションも、広辞苑をどうしようか、きょうの料理をどうしようか、そういう問題も、コンピュータが、インターネットがすべて解決してくれた。
それから12年後には、AppleのiPadを買った。その使いやすさ、美しさと機能性はほとんど信じがたい。iPadに比べたらMicrosoftが原始的で野暮にさえ思われる。iPodでメディテーションをし、子どもが幼稚園にいる間にはiPadで本を読む。私たちの生活にはテレビもCDもラジオも新聞すら必要ない。iPadがすべて満たしてくれている。
毎日送られてくるEメールにうんざりすることもあるし、次々に新しくなっていくコンピュータ・テクノロジーにようやくついていくのも楽じゃない。コンピュータ・スキルをもたない人たちが社会的に(精神的に)離脱しているという問題もある。
しかし、一方で、基本的にペシミスティックな私も、インターネット上でのコネクションがもたらす可能性に関してだけは非常に楽観している。今まで声をもたなかった人たちが声をあげ、そのメッセージが世界中の人たちに届く可能性には大きな期待が持てると思う。
“And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of life. It is life’s change agent”.
スティーブ・ジョブズのような天才がいつもいうのはI found what I love to do。好きなことをして、上のように死を受け入れる準備ができていた彼の態度を見習いたいと思う。
Sent from my iPad
Tuesday, October 4, 2011
ウォール街の占拠
Occupy Wall Streetのウェブサイトより。彼らのミッションのようなもの。
「Occupy Wall Streetはリーダーを持たないレジスタンス運動で、人種や性別、政治的信条の多様な参加者で構成されています。ひとつ共通点があるとすれば、この運動に参加している我々は、わずか1%にあたる一握りの人たちの強欲さや腐敗をこれ以上許容しない99%の国民である、ということです。我々は「アラブの春」の革命的戦略を用い、すべての参加者の安全性を最大限に考えながら、暴力を用いることなく我々の目標を達成しようとしています」
http://occupywallst.org/
「Occupy Wall Streetはリーダーを持たないレジスタンス運動で、人種や性別、政治的信条の多様な参加者で構成されています。ひとつ共通点があるとすれば、この運動に参加している我々は、わずか1%にあたる一握りの人たちの強欲さや腐敗をこれ以上許容しない99%の国民である、ということです。我々は「アラブの春」の革命的戦略を用い、すべての参加者の安全性を最大限に考えながら、暴力を用いることなく我々の目標を達成しようとしています」
http://occupywallst.org/
Monday, October 3, 2011
世界に広がるOccupy Wall Streetデモンストレーション
先月末、10人以下のカレッジ学生がウォールストリート付近のZuccotti Parkで始めたOccupy Wall Street(ウォール街の占拠)というデモンストレーションが日を追って拡大している。10月1日の土曜日には700名もの逮捕者も出たが、この逮捕により今後、参加者は増加するだろうと見られている。
これが単独のものなら特別に興味を惹かれはしないが、この動きがマンハッタンを起点として世界の各都市に飛び火する可能性があることから、私も様子を見守っている。
写真を見る限り、参加者は若者たちが大半のようだが、Globe紙によれば、日を追うに従って、年齢や職業に多様性が見られるようになっているという。
このデモンストレーションはウォールストリートに代表される金融界、さらには金融界を優遇してきた政治に対する苛立ちが発端となっている。アメリカでは失業率が10 %を超え、今後もこの状況が悪化をたどるだろうと専門家が見ているなかで、一方では政府は多額の税金を使った財政援助には多くの市民が反対している。
トロントのオーガナイザーによれば10月15日にはベイ・ストリート(トロントでウォール街に相当する金融街)で同様のデモが予定されているという。また、カルガリー、ビクトリア、オタワ、モントリオールなどの都市でもデモが企画され、トロントでは800人、バンクーバーでは1000人ほどの参加者が見込まれる予定。また、メキシコ、オーストラリア、ヨーロッパの都市、東京など、世界の都市に今後、飛び火するだろうと見られている。
新聞を読む限り、このデモンストレーションには、はっきりした政治的メッセージがなく、従来の政治的デモとは異なる部分が多い。また、多くの参加者がソーシャル・メディアを駆使している点も、最近のデモのトレンドを踏襲している(彼らは独自にジャーナルまで発行して、ことの成り行きをインターネットを通して発信し続けている)。
「ウォール街の占拠」がアメリカで始まったことは意味が深い。いくらアメリカが多額の負債をかかえていようと、どんなに貧困率が高かろうと、やはりアメリカの富に比することのできる国はない。Forbesを見ても、世界の富豪のうち、アメリカ人の割合は圧倒的に高い。
かくして、アメリカでは一握りの人たちが多額の富を手にしていることにある。つまり、ウォール街は世界金融界の中枢、即ち、世界経済の中枢なのである。
2010年につくられたドキュメンタリー映画Inside Jobには、金融界が一握りのエリートが巨額の富を手にできるような構造になっていること、内部がいかに倫理的に腐敗しているかを暴露していく映画だが、それを見ると政治家もこの金融界とグルになって利権を得て来た歴史がはっきりと見て取れる。
金融界のGreed(欲)によって導かれたリーマンショック以降、北米では金融界に対する不信感(さらにその失敗の受け皿を引き受けてきた政治に対する不信感)が強くなっていると私も感じる。
こうした金融界の状況を知ると、この業界の根底に「不正義」の存在を認めざるを得ない。経済的に社会の下層にいる人たちは、少しは生活の質が向上するとはいえ、この経済的構造ではほとんど不可能に近い。私の感じでは、世界経済の構造のなかにすでに「不正義」が存在している。今回のデモは金融界に対するそうした基盤的な批判になりえるのだろうか。
一方では、市民の間に広がる不満がある。失業し、生活保護に頼っている人たち、仕事をしたいのに見つけられないという苛立ち、借金をして手に入れた家を失って財産を失った人たち。そんな人たちが、金融界に多額の税金をつぎ込んで、彼らの失敗の尻拭いをしているのを見ると、Frustrationを感じるのは当たり前だ。そして、この感情に自分の人生に対するDesperationを感じると人は何でもやりかねない。
政治家は、国民の間に広がるDesperationを軽くみてはいけない。ここで再び、Arab Springがひとりのを感じた若者の自殺から始まったことを想い起こす必要がある。
この動きはどこにいくのか。これによって何が変わるのか。世界経済の構造を変えるほどの動きになるのか。今後の行方を注意深く見守っていきたい。
Related Articles/関連記事:
http://torontostew.blogspot.com/2011/10/corporate-greed.html
これが単独のものなら特別に興味を惹かれはしないが、この動きがマンハッタンを起点として世界の各都市に飛び火する可能性があることから、私も様子を見守っている。
写真を見る限り、参加者は若者たちが大半のようだが、Globe紙によれば、日を追うに従って、年齢や職業に多様性が見られるようになっているという。
このデモンストレーションはウォールストリートに代表される金融界、さらには金融界を優遇してきた政治に対する苛立ちが発端となっている。アメリカでは失業率が10 %を超え、今後もこの状況が悪化をたどるだろうと専門家が見ているなかで、一方では政府は多額の税金を使った財政援助には多くの市民が反対している。
トロントのオーガナイザーによれば10月15日にはベイ・ストリート(トロントでウォール街に相当する金融街)で同様のデモが予定されているという。また、カルガリー、ビクトリア、オタワ、モントリオールなどの都市でもデモが企画され、トロントでは800人、バンクーバーでは1000人ほどの参加者が見込まれる予定。また、メキシコ、オーストラリア、ヨーロッパの都市、東京など、世界の都市に今後、飛び火するだろうと見られている。
新聞を読む限り、このデモンストレーションには、はっきりした政治的メッセージがなく、従来の政治的デモとは異なる部分が多い。また、多くの参加者がソーシャル・メディアを駆使している点も、最近のデモのトレンドを踏襲している(彼らは独自にジャーナルまで発行して、ことの成り行きをインターネットを通して発信し続けている)。
「ウォール街の占拠」がアメリカで始まったことは意味が深い。いくらアメリカが多額の負債をかかえていようと、どんなに貧困率が高かろうと、やはりアメリカの富に比することのできる国はない。Forbesを見ても、世界の富豪のうち、アメリカ人の割合は圧倒的に高い。
かくして、アメリカでは一握りの人たちが多額の富を手にしていることにある。つまり、ウォール街は世界金融界の中枢、即ち、世界経済の中枢なのである。
2010年につくられたドキュメンタリー映画Inside Jobには、金融界が一握りのエリートが巨額の富を手にできるような構造になっていること、内部がいかに倫理的に腐敗しているかを暴露していく映画だが、それを見ると政治家もこの金融界とグルになって利権を得て来た歴史がはっきりと見て取れる。
金融界のGreed(欲)によって導かれたリーマンショック以降、北米では金融界に対する不信感(さらにその失敗の受け皿を引き受けてきた政治に対する不信感)が強くなっていると私も感じる。
こうした金融界の状況を知ると、この業界の根底に「不正義」の存在を認めざるを得ない。経済的に社会の下層にいる人たちは、少しは生活の質が向上するとはいえ、この経済的構造ではほとんど不可能に近い。私の感じでは、世界経済の構造のなかにすでに「不正義」が存在している。今回のデモは金融界に対するそうした基盤的な批判になりえるのだろうか。
一方では、市民の間に広がる不満がある。失業し、生活保護に頼っている人たち、仕事をしたいのに見つけられないという苛立ち、借金をして手に入れた家を失って財産を失った人たち。そんな人たちが、金融界に多額の税金をつぎ込んで、彼らの失敗の尻拭いをしているのを見ると、Frustrationを感じるのは当たり前だ。そして、この感情に自分の人生に対するDesperationを感じると人は何でもやりかねない。
政治家は、国民の間に広がるDesperationを軽くみてはいけない。ここで再び、Arab Springがひとりのを感じた若者の自殺から始まったことを想い起こす必要がある。
この動きはどこにいくのか。これによって何が変わるのか。世界経済の構造を変えるほどの動きになるのか。今後の行方を注意深く見守っていきたい。
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Wednesday, August 31, 2011
グローバライゼーションとニート人口
以前、「カナダの大学教育と就職事情」で触れたが、今、カナダでは若者の失業が社会問題化している。若者の失業が増えると、今後、社会はどうなっていくのか、との議論がなされているが、私の見る限り、現在、カナダではベイビー・ブーマーの退職が増える2018年ごろから、さまざまな分野で人材不足が見られるようになるだろうとの推測から、それまで待てば何とか問題は収まる、という感覚が一般的なのではなかろうか(ちなみに、オンタリオ州では、これまでの65歳定年がなくなって-年齢差別だとの判断から-、今は退職する年齢は法的には定められていない)。しかし、今回、イギリスで起こった暴動を見ていて、本当にこのままベイビー・ブーマーの退職を待っているだけでいいのだろうか、と疑問に感じた。
黒人の若者が警察官に射殺されるという事件が発端になり、トッテンハムの町で暴動が起こったのが8月8日。最初、これを聞いたとき、私は人種暴動ではないか、と思ったが、報道は初期の段階から、人種的な暴動であることを否定していた。さらには、(アラブの春とは違って)何らかの政治的声明もスローガンも出ていないことから、政治的な暴動であるとの疑問も否定していた。また、ランダムなフーリガンでもない。では、一体、何が問題なのか。
新聞・ラジオ報道によれば、暴動参加者のほとんどが、20歳以下であるとのこと。肌の色でくくられないということ。彼らはいわゆるLost Generationと言われる世代(1990年代生まれ)に属する高校中退者である。イギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国では若者の失業が大きな社会問題になっていて、NEETS(Not in Employment, Education, Training、ニート=仕事もなく、学校にも通っていない人)人口は増えるばかり。なかでもイギリスは若者の17%がNEET人口、25歳以下の60万人がこれまで仕事についたことがなく、他のヨーロッパ諸国に比べても非常に問題は深刻化している。ロンドンに住む義妹の話を聞いても、この問題がChronic Problem in Britainであって、誰もがお手上げ状態なのだと知れた。
高校を中退し、仕事もなく、将来も見えない若者が抱えた不満が、警察によるひとりの若者の射殺事件をカタリストとして爆発したのが今回の暴動であったというのが、多くの専門家の見方のようである。
カナダでも若者の失業は深刻である。ただ、イギリスと違うのは、カナダの若者の多くは大学卒業後に仕事がないことである。部分的には、カナダ人口の70%がトロントという1都市に集中しており、トロントでは少なくとも高校中退は一部の問題であると捉えられていることがあげられる。
イギリスで失業中の高校中退者の若者は、1980年代以前なら製造業の分野で何らかの仕事を得ることができたものと思われる。しかし、製造業の衰退、および製造業の海外へのアウトソーシングとともに、時代はKnowledge Economyへと突入し、学歴のない、専門教育を受けない若者が彼らの学歴にみあった仕事を国内で見つけられない状況が生み出された。今回の暴動はこうした長いグローバライゼーションの歴史と関連する事件だったと思われる。
グローバライゼーションとともに、先進国からは高校卒業程度のエントリー・レベルの仕事が失われつつある。一方では、発展途上国でエリート教育を受けた人たちは先進国へと移住するという傾向も生まれている。現在のアンバランスで不平等な経済システムは、あちこちの社会で亀裂を生みだしているが、これだけ肥大したシステムを軌道修正する術は今のところどこにもない。
失業者の人口が増えれば社会は内側から崩壊し始める。ニート人口をどうするかは、現在、先進国が直面する社会問題のうち、優先して取り組まなければならない問題であると思われる。
黒人の若者が警察官に射殺されるという事件が発端になり、トッテンハムの町で暴動が起こったのが8月8日。最初、これを聞いたとき、私は人種暴動ではないか、と思ったが、報道は初期の段階から、人種的な暴動であることを否定していた。さらには、(アラブの春とは違って)何らかの政治的声明もスローガンも出ていないことから、政治的な暴動であるとの疑問も否定していた。また、ランダムなフーリガンでもない。では、一体、何が問題なのか。
新聞・ラジオ報道によれば、暴動参加者のほとんどが、20歳以下であるとのこと。肌の色でくくられないということ。彼らはいわゆるLost Generationと言われる世代(1990年代生まれ)に属する高校中退者である。イギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国では若者の失業が大きな社会問題になっていて、NEETS(Not in Employment, Education, Training、ニート=仕事もなく、学校にも通っていない人)人口は増えるばかり。なかでもイギリスは若者の17%がNEET人口、25歳以下の60万人がこれまで仕事についたことがなく、他のヨーロッパ諸国に比べても非常に問題は深刻化している。ロンドンに住む義妹の話を聞いても、この問題がChronic Problem in Britainであって、誰もがお手上げ状態なのだと知れた。
高校を中退し、仕事もなく、将来も見えない若者が抱えた不満が、警察によるひとりの若者の射殺事件をカタリストとして爆発したのが今回の暴動であったというのが、多くの専門家の見方のようである。
カナダでも若者の失業は深刻である。ただ、イギリスと違うのは、カナダの若者の多くは大学卒業後に仕事がないことである。部分的には、カナダ人口の70%がトロントという1都市に集中しており、トロントでは少なくとも高校中退は一部の問題であると捉えられていることがあげられる。
イギリスで失業中の高校中退者の若者は、1980年代以前なら製造業の分野で何らかの仕事を得ることができたものと思われる。しかし、製造業の衰退、および製造業の海外へのアウトソーシングとともに、時代はKnowledge Economyへと突入し、学歴のない、専門教育を受けない若者が彼らの学歴にみあった仕事を国内で見つけられない状況が生み出された。今回の暴動はこうした長いグローバライゼーションの歴史と関連する事件だったと思われる。
グローバライゼーションとともに、先進国からは高校卒業程度のエントリー・レベルの仕事が失われつつある。一方では、発展途上国でエリート教育を受けた人たちは先進国へと移住するという傾向も生まれている。現在のアンバランスで不平等な経済システムは、あちこちの社会で亀裂を生みだしているが、これだけ肥大したシステムを軌道修正する術は今のところどこにもない。
失業者の人口が増えれば社会は内側から崩壊し始める。ニート人口をどうするかは、現在、先進国が直面する社会問題のうち、優先して取り組まなければならない問題であると思われる。
Tuesday, August 23, 2011
国民の尊敬を勝ち得た政治家ジャック・レイトン死去 + (補足)日本政治を考える:日本政治におけるリーダーシップの不在
補習校で公民を教えていたとき、中学3年生に「政治家というのはどんな人ですか」という質問をしたことがある。その答えには笑いを超えて強い危機感を感じたものだ。
「悪い人」「あくどい人」「やくざ」「えらそーな人」「親のコネでしか何もできない人」「人をだましてお金をぶんどっている人」「頭を下げて、あやまっている人」「失言する人」「失言してあやまっている人」…。
大半が日本で育った彼らにとって、政治家とはネガティブな存在でしかなく、日本人の政治不信がこれほど深刻なのだと実感した。
それに比べると、カナダ人が政治家に対して持っているイメージは格段上だという気がする。ただ、それは、カナダの政治家がみんな国のため、国民のために動いているからではなく、ひろく国民の尊敬を集めるような生き方をしている政治家が、少数ではあるが実際に存在することが理由だと思われる。
NDP(新民主党)の党首ジャック・レイトン/Jack Laytonは明らかにそんな政治家のひとりだった。22日朝に飛び込んできたジャック・レイトン死去のニュースは、カナダ国民を深い悲しみに包んでいる。とくにNDPのサポーターでもない私も夫も(たぶん多くのカナダ人のように)、他のことが手につかないくらいに落ち込んでいる。
カナダ連邦政治で最も左派に属するNDP党が最も誇りする政治的貢献は、Universal Health careであろう。すべての国民が基本的な医療サービスを受けられるこのシステムは、NDPのトミー・ダグラスによって実現され(1966)、この功績によりトミー・ダグラスはCBC放送による国民投票の結果、「最も偉大なカナダ人」に選ばれている。今年7月、ガン治療を理由に一時的に政治から退いていたジャック・レイトンは、社会正義、社会保障、マイノリティの権利などを積極的にかかげてきたNDPの顔だった。今年の総選挙では、政党の歴史上初めてハーパー保守党政府に対する公式野党となり、伝統的に地元政党が強いケベック州で驚くほど票を伸ばし、カナダ政治において決定的な革命的瞬間をもたらした。
英語圏で人を褒めるときに使われることばにIntegrityという言葉がある。ジャック・レイトンはまさにこのIntegrityという言葉がぴったりの生き方をした政治家であったと思う。ジャック・レイトンが死の直前に書いたとされる手紙には、彼の揺ぎない政治的信念が反映されている。社会正義に基づいた社会、公平で平等な社会、社会的弱者にやさしい社会、 誰一人遅れをとることがないような社会、より寛容で開かれた社会の実現。それがジャック・レイトンのビジョンだったし、私はこれまでも、そして今回も彼のビジョンを読み、カナダという国に対して誇りと将来への希望を感じてきた。彼の演説や主張は、私たち、社会正義を求める国民、マイノリティのカナダ国民を奮い立たせてくれるパワーを持っていたが、それは彼のゆるぎない確信、ビジョンに裏付けられていたからだと思う。
言っていることと行動がぴったりと合致し、首相であろうと社会的弱者であろうと決して態度を変えることなく会話ができ、その限りないエネルギーとIntegrity、カリスマ、そしてカナダがどこへ行くべきか、についての明確なビジョンを抱いていたジャック・レイトンは、政治信念の違う政治家、あるいは意見のまったく合わない国民からも尊敬されていた。ハーパー首相が提案した国葬は、彼に対する国民の尊敬を考えるとまったくもってふさわしい形のお別れになるだろうと思う。
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/jack-laytons-legacy-wont-end-here/article2138288/
(補足)日本政治を考える:日本政治におけるリーダーシップの不在
ジャック・レイトンのような政治家を見ていると、日本の政治家のなかに彼のような政治家がひとりでもいないものかと思ってしまう。毎年のように首相がかわる日本は、何よりも国際政治の舞台で外交的ダメージを被っていると思う。各紙にあらわれたジャック・レイトン追悼記事を読みながら、政治家が必ず持っていなくてはならないリーダーの条件を考えてみた。
日本では、次期首相候補として某政治家が名乗りを上げているが、彼は以下のクライテリアを満たせるだろうか。何より、今の日本にこれらのクオリフィケーション、リーダーシップを持った政治家はいるのだろうか?
1)確固とした政治ビジョンを持っている
どんな国にしたいのか。国としての特徴(長所や短所)を見極める分析力を持ち、足りないものは何なのかを特定し、それを補うための計画が立てられるのか。そのビジョンは明確に国民に伝わっているのか。そして、そのビジョンに国民は同意できるのか。
2)尊敬=信頼に値するクオリティを持っている
人として尊敬できるか。言っていることと行動が一致しているか。自分でもなく、一部の人でもない、国民のために働く意思があるのか。情熱はあるのか。自分の持っている信念を貫くような生き方をしているか。
3)効率的コミュニケーションができる
論理的にものごとが考えられ、論理的に意見が言えるか。反対意見に対して、論理的に反論できるか。感情的な議論には組しないか。どのレベルの人ともコミュニケーションができるか。言っていることに国民が共鳴できるような話し方ができるか。
結局、リーダーシップ・スキルを持たない政治家は、偶然にも運良く首相(政治家)になれたとしても長期的には続かない。それに、そういう輩が国政に携わっていると国民にとって迷惑極まりない。すべての職業にその職業に必要なスキルが要求されるように、政治家にもかならずスキルのチェックを行うべきだと強く思う。
「悪い人」「あくどい人」「やくざ」「えらそーな人」「親のコネでしか何もできない人」「人をだましてお金をぶんどっている人」「頭を下げて、あやまっている人」「失言する人」「失言してあやまっている人」…。
大半が日本で育った彼らにとって、政治家とはネガティブな存在でしかなく、日本人の政治不信がこれほど深刻なのだと実感した。
それに比べると、カナダ人が政治家に対して持っているイメージは格段上だという気がする。ただ、それは、カナダの政治家がみんな国のため、国民のために動いているからではなく、ひろく国民の尊敬を集めるような生き方をしている政治家が、少数ではあるが実際に存在することが理由だと思われる。
NDP(新民主党)の党首ジャック・レイトン/Jack Laytonは明らかにそんな政治家のひとりだった。22日朝に飛び込んできたジャック・レイトン死去のニュースは、カナダ国民を深い悲しみに包んでいる。とくにNDPのサポーターでもない私も夫も(たぶん多くのカナダ人のように)、他のことが手につかないくらいに落ち込んでいる。
カナダ連邦政治で最も左派に属するNDP党が最も誇りする政治的貢献は、Universal Health careであろう。すべての国民が基本的な医療サービスを受けられるこのシステムは、NDPのトミー・ダグラスによって実現され(1966)、この功績によりトミー・ダグラスはCBC放送による国民投票の結果、「最も偉大なカナダ人」に選ばれている。今年7月、ガン治療を理由に一時的に政治から退いていたジャック・レイトンは、社会正義、社会保障、マイノリティの権利などを積極的にかかげてきたNDPの顔だった。今年の総選挙では、政党の歴史上初めてハーパー保守党政府に対する公式野党となり、伝統的に地元政党が強いケベック州で驚くほど票を伸ばし、カナダ政治において決定的な革命的瞬間をもたらした。
英語圏で人を褒めるときに使われることばにIntegrityという言葉がある。ジャック・レイトンはまさにこのIntegrityという言葉がぴったりの生き方をした政治家であったと思う。ジャック・レイトンが死の直前に書いたとされる手紙には、彼の揺ぎない政治的信念が反映されている。社会正義に基づいた社会、公平で平等な社会、社会的弱者にやさしい社会、 誰一人遅れをとることがないような社会、より寛容で開かれた社会の実現。それがジャック・レイトンのビジョンだったし、私はこれまでも、そして今回も彼のビジョンを読み、カナダという国に対して誇りと将来への希望を感じてきた。彼の演説や主張は、私たち、社会正義を求める国民、マイノリティのカナダ国民を奮い立たせてくれるパワーを持っていたが、それは彼のゆるぎない確信、ビジョンに裏付けられていたからだと思う。
言っていることと行動がぴったりと合致し、首相であろうと社会的弱者であろうと決して態度を変えることなく会話ができ、その限りないエネルギーとIntegrity、カリスマ、そしてカナダがどこへ行くべきか、についての明確なビジョンを抱いていたジャック・レイトンは、政治信念の違う政治家、あるいは意見のまったく合わない国民からも尊敬されていた。ハーパー首相が提案した国葬は、彼に対する国民の尊敬を考えるとまったくもってふさわしい形のお別れになるだろうと思う。
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/jack-laytons-legacy-wont-end-here/article2138288/
(補足)日本政治を考える:日本政治におけるリーダーシップの不在
ジャック・レイトンのような政治家を見ていると、日本の政治家のなかに彼のような政治家がひとりでもいないものかと思ってしまう。毎年のように首相がかわる日本は、何よりも国際政治の舞台で外交的ダメージを被っていると思う。各紙にあらわれたジャック・レイトン追悼記事を読みながら、政治家が必ず持っていなくてはならないリーダーの条件を考えてみた。
日本では、次期首相候補として某政治家が名乗りを上げているが、彼は以下のクライテリアを満たせるだろうか。何より、今の日本にこれらのクオリフィケーション、リーダーシップを持った政治家はいるのだろうか?
1)確固とした政治ビジョンを持っている
どんな国にしたいのか。国としての特徴(長所や短所)を見極める分析力を持ち、足りないものは何なのかを特定し、それを補うための計画が立てられるのか。そのビジョンは明確に国民に伝わっているのか。そして、そのビジョンに国民は同意できるのか。
2)尊敬=信頼に値するクオリティを持っている
人として尊敬できるか。言っていることと行動が一致しているか。自分でもなく、一部の人でもない、国民のために働く意思があるのか。情熱はあるのか。自分の持っている信念を貫くような生き方をしているか。
3)効率的コミュニケーションができる
論理的にものごとが考えられ、論理的に意見が言えるか。反対意見に対して、論理的に反論できるか。感情的な議論には組しないか。どのレベルの人ともコミュニケーションができるか。言っていることに国民が共鳴できるような話し方ができるか。
結局、リーダーシップ・スキルを持たない政治家は、偶然にも運良く首相(政治家)になれたとしても長期的には続かない。それに、そういう輩が国政に携わっていると国民にとって迷惑極まりない。すべての職業にその職業に必要なスキルが要求されるように、政治家にもかならずスキルのチェックを行うべきだと強く思う。
Tuesday, August 16, 2011
19歳の日本人女性、ナイアガラの滝に転落
今日、早朝のCBCラジオ・ニュースを聞いていると、19歳の日本人がナイアガラの滝に落ちたと報じていた。ナイアガラの滝を囲っているフェンスをつないでいる石柱の上にのぼって写真を撮っていたが、そこに立った瞬間、バランスを崩して25メートル下の滝に落下したという。警察は周辺の捜索活動を続けているが現時点では発見されておらず、死亡は確実と見られている。報道によると、この日本人女性はトロントの語学学校に通っていたというから、語学留学生だったに違いない。
Windsor Star紙が報じるところによると、ウィンザー在住のカップルが撮った写真の背景に偶然写った女性が、被害者ということである。
http://blogs.windsorstar.com/2011/08/16/city-desk/
8月17日付けトロント・スター紙は、日本人女性の名前を「トクマス・アヤノ」と報じ、Facebookからの写真をトロント・セクション1面に転載していた。
CBCのインタビューを受けて、City of Niagara Fallの市長は、「安全面に問題があったのでは」という疑念を全面的に否定し、何万人という観光客が訪れているナイアガラの滝でこうした事故が起こるのは非常に稀だとし、被害者の安全性に対する判断力の欠如を強調していた。また、その背景にあるのはFace bookなどのソーシャル・メディアやインターネットで、そうした媒体により目を引く写真を撮ろうとする傾向性についても指摘していた。要するに、自分の市政にはまったく過失はない、というインタビューだった。
Toronto Star紙は、被害者の女性が岩の上にのぼって写真を撮っているのを見て危機感を感じたが「英語が分からないようだったので何も言わなかった」という傍観者の発言を掲載していた(もちろん、この人を責めるつもりはないが、「英語が分からないようだったから」というExcuseは一体何なのだ? いくら言葉が通じなくても、危険だからやめなさい、というくらいは危機感があればするはずだと思う)。
先の市長をはじめ、この事故が単にIsolated Case(単独で起こった事故)であって、より大きな社会的問題(海外からのツーリストに対する配慮、安全面)をはらんでないという見方が今のところ大半を占めているようだが、本当にそうなのだろうか。もちろん、カナダのメディアはそれ以上は見ないだろう。ただ、トロントに暮らす日本人の私には、「日本人の危機意識の低さ」「周囲が目に入らない」傾向性についても、念のため、触れておく必要があるのではないかと思われる。
カナダ人にとって、トロントで英語を勉強している日本人の女性は非常にOff Guardに見える。地下鉄の駅でお財布から厚い紙幣の束を出して数えていたり、見知らぬ男性から話しかけられて単にニコニコ笑っていたり、あるいは図書館で大きな声で笑いながら話をしていたりする姿を見ると、私もかなり違和感を感じてしまう。危機感がない、というのはひとつだが、周囲がどうなっているのか全く気にしていない様子は、私の目には奇妙に映る。もう少し言えば、こうした「危機感のなさ」、あるいは「周囲が目に入らない」は、責任ある大人としての成熟度の欠如だという気がする。微笑を誘っているうちはよいが、それが盗難やレイプといった事件に発展する可能性は絶対に忘れてはならないと思う。
トロントに来ている日本人語学学生、ワーキングホリデーの人たちすべてがそうだとは言わない。邦人の安全性に助言を与えるべき領事館が、こうした問題に関してどう動いているのかは知らない。また、こうした問題がトロントの日系コミュニティで語られるべき優先問題であるとは、私には思われない。ただ、こういう傾向性とその結果についてはどこかで語られなくてはならないという気がしてならない。
Windsor Star紙が報じるところによると、ウィンザー在住のカップルが撮った写真の背景に偶然写った女性が、被害者ということである。
http://blogs.windsorstar.com/2011/08/16/city-desk/
8月17日付けトロント・スター紙は、日本人女性の名前を「トクマス・アヤノ」と報じ、Facebookからの写真をトロント・セクション1面に転載していた。
CBCのインタビューを受けて、City of Niagara Fallの市長は、「安全面に問題があったのでは」という疑念を全面的に否定し、何万人という観光客が訪れているナイアガラの滝でこうした事故が起こるのは非常に稀だとし、被害者の安全性に対する判断力の欠如を強調していた。また、その背景にあるのはFace bookなどのソーシャル・メディアやインターネットで、そうした媒体により目を引く写真を撮ろうとする傾向性についても指摘していた。要するに、自分の市政にはまったく過失はない、というインタビューだった。
Toronto Star紙は、被害者の女性が岩の上にのぼって写真を撮っているのを見て危機感を感じたが「英語が分からないようだったので何も言わなかった」という傍観者の発言を掲載していた(もちろん、この人を責めるつもりはないが、「英語が分からないようだったから」というExcuseは一体何なのだ? いくら言葉が通じなくても、危険だからやめなさい、というくらいは危機感があればするはずだと思う)。
先の市長をはじめ、この事故が単にIsolated Case(単独で起こった事故)であって、より大きな社会的問題(海外からのツーリストに対する配慮、安全面)をはらんでないという見方が今のところ大半を占めているようだが、本当にそうなのだろうか。もちろん、カナダのメディアはそれ以上は見ないだろう。ただ、トロントに暮らす日本人の私には、「日本人の危機意識の低さ」「周囲が目に入らない」傾向性についても、念のため、触れておく必要があるのではないかと思われる。
カナダ人にとって、トロントで英語を勉強している日本人の女性は非常にOff Guardに見える。地下鉄の駅でお財布から厚い紙幣の束を出して数えていたり、見知らぬ男性から話しかけられて単にニコニコ笑っていたり、あるいは図書館で大きな声で笑いながら話をしていたりする姿を見ると、私もかなり違和感を感じてしまう。危機感がない、というのはひとつだが、周囲がどうなっているのか全く気にしていない様子は、私の目には奇妙に映る。もう少し言えば、こうした「危機感のなさ」、あるいは「周囲が目に入らない」は、責任ある大人としての成熟度の欠如だという気がする。微笑を誘っているうちはよいが、それが盗難やレイプといった事件に発展する可能性は絶対に忘れてはならないと思う。
トロントに来ている日本人語学学生、ワーキングホリデーの人たちすべてがそうだとは言わない。邦人の安全性に助言を与えるべき領事館が、こうした問題に関してどう動いているのかは知らない。また、こうした問題がトロントの日系コミュニティで語られるべき優先問題であるとは、私には思われない。ただ、こういう傾向性とその結果についてはどこかで語られなくてはならないという気がしてならない。
Wednesday, July 20, 2011
ホットドッグに想う-トロントの物価上昇と世界食料危機
今に始まったことではないが、今日、ふと信号で止まったときにホットドッグ・スタンド(これって、本当に嫌な英語の名前なのよね…)の看板を見て「そうなのね、物価があがっているのね」と改めて思った。ホットドッグが2.99ドル(せせこましいじゃない、これって。3ドルでいいものを…)。5年ほど前には2ドルではなかったっけ?
昨年ごろから、世界中で食糧の価格があがっているが、トロントに住む私もそれを肌で感じる。日本からきた12年前には、カナダって安い! と思ったものだが、最近は昨今の食糧危機とインフレーションの影響で、とりわけ食糧・食品の値段が上がっている。とりわけ感じるのは、パンやミルク、ジュースで、なかでもパンの値段は10年ほど前に比べると20%ほど上がっているのではないか。小麦粉の値段があがっているからなのだろう。
一方で、いつまでも安いものといえば加工食品。冷凍食品やクラフト・ディナー関連、ジャンキーな食品は相変わらず安い。原材料に小麦粉を使っているようなものも、加工食品なら安いので、このあたりが疑問なのだけれど。
話は変わるが、私、いつも思うのよね。低所得者層はファーストフードやクラフト・ディナーを大量に消費する傾向があるため、肥満やそれにともなう病気・疾患に結びつきやすい、と言われるが、食費を抑えようと思えば、何を置いても野菜や豆類を食べればいいのではないか。野菜や豆類、穀類は値段があがっているとはいえ、カナダではまだまだ安い(日本に比べると。日本ではたしか、りんご1個100円だったものね)。こうした食品を摂っていれば、ジャンキーなフード以上に安上がりだし、健康によいことは間違いない。
今、ソマリア、エチオピア、ケニアといった国の一部で、深刻な飢餓問題が懸念されている。確か昨日、国連が緊急にソマリアの一部に飢餓宣言を出したのだった。旱魃により植物も育たず、次に雨が降るのは早くて今年10月であるという。今日のGlobe紙は、10人に1人の子どもが飢餓により死亡する可能性がある、と伝えていた。飢餓問題の原因はひとつではないにしろ、一要因とされるのは食糧価格の上昇である。2010年、チュニジアで始まったArab Spring(アラブ諸国の市民が民主化を求める一連の動き)も、そもそもの原因のひとつは食糧価格の高騰であった。
去年から「食料の値段は今後ますます上がっていく」と言われてきたカナダ市民だが、上がったといっても大半の市民は何とかやり繰りしながら相変わらず豊かな食生活を送っている。食料価格の高騰の影響は、まずは経済的・政情的に不安定な国々を襲うことになるだろうが、先進国に住む私たちが何もできないわけがない。カナダのInternational Co-Operation Minister であるBev Odaは今日はケニアを訪れ、飢餓問題に直面する人たちを視察し、援助金を提供することを明らかにした。1980年代のエチオピア飢餓のときとは違って、西洋諸国は昨今の世界規模の災害続きでDonor Fatigueに陥っているとも言われており、先進国の対応は思いのほか遅い。
昨年ごろから、世界中で食糧の価格があがっているが、トロントに住む私もそれを肌で感じる。日本からきた12年前には、カナダって安い! と思ったものだが、最近は昨今の食糧危機とインフレーションの影響で、とりわけ食糧・食品の値段が上がっている。とりわけ感じるのは、パンやミルク、ジュースで、なかでもパンの値段は10年ほど前に比べると20%ほど上がっているのではないか。小麦粉の値段があがっているからなのだろう。
一方で、いつまでも安いものといえば加工食品。冷凍食品やクラフト・ディナー関連、ジャンキーな食品は相変わらず安い。原材料に小麦粉を使っているようなものも、加工食品なら安いので、このあたりが疑問なのだけれど。
話は変わるが、私、いつも思うのよね。低所得者層はファーストフードやクラフト・ディナーを大量に消費する傾向があるため、肥満やそれにともなう病気・疾患に結びつきやすい、と言われるが、食費を抑えようと思えば、何を置いても野菜や豆類を食べればいいのではないか。野菜や豆類、穀類は値段があがっているとはいえ、カナダではまだまだ安い(日本に比べると。日本ではたしか、りんご1個100円だったものね)。こうした食品を摂っていれば、ジャンキーなフード以上に安上がりだし、健康によいことは間違いない。
今、ソマリア、エチオピア、ケニアといった国の一部で、深刻な飢餓問題が懸念されている。確か昨日、国連が緊急にソマリアの一部に飢餓宣言を出したのだった。旱魃により植物も育たず、次に雨が降るのは早くて今年10月であるという。今日のGlobe紙は、10人に1人の子どもが飢餓により死亡する可能性がある、と伝えていた。飢餓問題の原因はひとつではないにしろ、一要因とされるのは食糧価格の上昇である。2010年、チュニジアで始まったArab Spring(アラブ諸国の市民が民主化を求める一連の動き)も、そもそもの原因のひとつは食糧価格の高騰であった。
去年から「食料の値段は今後ますます上がっていく」と言われてきたカナダ市民だが、上がったといっても大半の市民は何とかやり繰りしながら相変わらず豊かな食生活を送っている。食料価格の高騰の影響は、まずは経済的・政情的に不安定な国々を襲うことになるだろうが、先進国に住む私たちが何もできないわけがない。カナダのInternational Co-Operation Minister であるBev Odaは今日はケニアを訪れ、飢餓問題に直面する人たちを視察し、援助金を提供することを明らかにした。1980年代のエチオピア飢餓のときとは違って、西洋諸国は昨今の世界規模の災害続きでDonor Fatigueに陥っているとも言われており、先進国の対応は思いのほか遅い。
Tuesday, July 19, 2011
カナダの大学教育と就職事情
最近、カナダで仕事探しに苦戦しているグループといえば、移民と新卒である。移民が仕事探しに苦戦をしているのは何も新しく始まったことではないが、「新卒」はかなり新しい傾向である。
たとえば、私も大学を卒業したばかりの人たちの就職サポートをしたことがあるが、University of TorontoでUrban Planningを専攻し、半年間ほど仕事を探しているが面接にさえ至らないという女性がいた(そして、私の前でボロボロと涙を流した)。同じクラスメイトも似たり寄ったりの状況らしい。彼女といっしょにUrban Planning(約10年ほど前には、トロントでは成長分野の仕事だと言われていた)関連の情報を集めたが、ポスティング(求人情報)を見ると、すべて「3年以上の経験」を要求していて、彼女のように新卒・エントリー・レベルでの仕事はまったく見当たらない。
そこで、今、トレンドなのは、大学を卒業してからカレッジや職業専門学校に行き直すか、Graduate School(大学院)に行くこと。カレッジや職業専門学校は、大学とは違って就職を目的とした学校で、1年から3年ほどで資格や専門トレーニングが受けられる。つまり、仕事に直結している。ちなみに、以前は「カレッジ」といえば、高校を卒業した人がすでに設定している仕事を得るために行く学校だったが、最近はめっきり年齢があがっている。移民のなかにもカレッジで特定の職業訓練を受ける人が多いうえ、最近の経済不況でキャリア・チェインジャー(転職者)が増えていることもある。ここ数年の不況の波にのまれず、非常な利益をあげているのがカレッジなのだ。
大学院に行くというのもひとつの方法だ。ただし、もし経済的余裕があれば、の話だが。カナダの大学生は大半が自分で学費をまかなっていて、最近の学費値上げの影響で多くの学生が返還義務のある奨学金を政府から受けている。そのため、「大学院に行く」というのは経済的に恵まれた人のためのオプションであるといえる。
カナダはここ数年間、経済的にはマイルドな不況にある。製造業やITは最も大きな打撃を受けた分野である。ただし、案外と知られていないのが、今、こうした状況でも「仕事がある」分野が存在することだ。それは、プラマーやカーペンター、電気工事といった熟練工の仕事で、こうした分野では実は人手が足りず困っている。こうした仕事は高校卒業後、見習い工として実際に経験のある職人に習いながら仕事をするわけで、カレッジや職業学校に行く必要はない。かといって、こうした熟練工の仕事がすべての人にあっているかというともちろんそんなことはない。なかなか難しいところだ。
大学を出て仕事が見つからない傾向が社会問題化しているカナダでは、大学のあり方を問いただす動きも出てきている。仕事に結びつかない勉強を教えて意味があるのか、大学を2年にすべきだ、との声も出ている。各大学もそれを考慮しながら、カリキュラムを組み直す可能性もある。私はもちろんこうした意見には反対であって、そのことはまた項を改めて書きたいと思う。
たとえば、私も大学を卒業したばかりの人たちの就職サポートをしたことがあるが、University of TorontoでUrban Planningを専攻し、半年間ほど仕事を探しているが面接にさえ至らないという女性がいた(そして、私の前でボロボロと涙を流した)。同じクラスメイトも似たり寄ったりの状況らしい。彼女といっしょにUrban Planning(約10年ほど前には、トロントでは成長分野の仕事だと言われていた)関連の情報を集めたが、ポスティング(求人情報)を見ると、すべて「3年以上の経験」を要求していて、彼女のように新卒・エントリー・レベルでの仕事はまったく見当たらない。
そこで、今、トレンドなのは、大学を卒業してからカレッジや職業専門学校に行き直すか、Graduate School(大学院)に行くこと。カレッジや職業専門学校は、大学とは違って就職を目的とした学校で、1年から3年ほどで資格や専門トレーニングが受けられる。つまり、仕事に直結している。ちなみに、以前は「カレッジ」といえば、高校を卒業した人がすでに設定している仕事を得るために行く学校だったが、最近はめっきり年齢があがっている。移民のなかにもカレッジで特定の職業訓練を受ける人が多いうえ、最近の経済不況でキャリア・チェインジャー(転職者)が増えていることもある。ここ数年の不況の波にのまれず、非常な利益をあげているのがカレッジなのだ。
大学院に行くというのもひとつの方法だ。ただし、もし経済的余裕があれば、の話だが。カナダの大学生は大半が自分で学費をまかなっていて、最近の学費値上げの影響で多くの学生が返還義務のある奨学金を政府から受けている。そのため、「大学院に行く」というのは経済的に恵まれた人のためのオプションであるといえる。
カナダはここ数年間、経済的にはマイルドな不況にある。製造業やITは最も大きな打撃を受けた分野である。ただし、案外と知られていないのが、今、こうした状況でも「仕事がある」分野が存在することだ。それは、プラマーやカーペンター、電気工事といった熟練工の仕事で、こうした分野では実は人手が足りず困っている。こうした仕事は高校卒業後、見習い工として実際に経験のある職人に習いながら仕事をするわけで、カレッジや職業学校に行く必要はない。かといって、こうした熟練工の仕事がすべての人にあっているかというともちろんそんなことはない。なかなか難しいところだ。
大学を出て仕事が見つからない傾向が社会問題化しているカナダでは、大学のあり方を問いただす動きも出てきている。仕事に結びつかない勉強を教えて意味があるのか、大学を2年にすべきだ、との声も出ている。各大学もそれを考慮しながら、カリキュラムを組み直す可能性もある。私はもちろんこうした意見には反対であって、そのことはまた項を改めて書きたいと思う。
Monday, July 18, 2011
「フカヒレ」禁止の動き
トロント市では、市議会議員のクリスティン・ウォン- タムが中心となり、今年秋の市議会でフカヒレの売買、所有、消費の禁止に向けて動いている。
昨今、フカヒレを禁止しようとする動きは国際的に広がっており、ハワイとグアム、マリアナ諸島ではすでに禁止されているほか、カリフォルニアやオレゴンでもフカヒレ禁止に向けた動きが活発化している。カナダでは今年5月にブラントフォード市(オンタリオ州)が北アメリカ初のフカヒレ禁止を打ち出した(なぜブラントフォードなのか、私にはとっても疑問)。
フカヒレは中国料理では最高級の食材とされており、結婚式ではフカヒレのスープはお祝いの目玉である。親は子どもの結婚式に高価なフカヒレのスープ(10人分で8万円から10万円)を出すことで、いかに深く子どもを愛しているかを表現するという。トロントのチャイナタウンでは、現在、乾燥したフカヒレが簡単に手に入る。しかし、フカヒレを獲る獲り方があまりにも残虐であるとして、国際的に批判を浴びてきた。
漁師たちは、フカヒレを獲るために、漁獲したサメのヒレ部分だけを切り落とし、あとは海に戻す。ヒレを失ったサメは泳ぐことができず、死んでしまう。統計によれば1年間に7300万頭が漁獲されるという。2007年のSharkwaterというドキュメンタリー以降、動物愛護団体から、倫理的食材を求める団体などが強くフカヒレ禁止を声に出すようになってきた。
クリスティン・ウォン- タムは中国系でトロントでは中国系カナダ人協会の元会長をしていた人。中国系市民の間でも、フカヒレ禁止をサポートする人たちも増えてきていて、この動きを私は非常に興味深く見守っている。
この件で思い出すのは、クジラ漁に対する日本と世界の対立。最近もニュース・アイテムにあったが、日本は今も非常に頑なに捕鯨にこだわっているThe Coveという和歌山のイルカ漁を批判したドキュメンタリーもあった。日本人のなかには「クジラ漁を批判するのは日本文化を批判するのと同じ」と言う人もいるが、私はそうは思わない。文化は流動的なものだし、いろいろな社会の変化によって変わるものだ。もし、多くの日本人の意識が変われば食文化にしたって変わるもの。国際政治の舞台でほとんど何も言わない日本が、クジラのことになるとあれだけ頑なになるのは、見ていて奇妙に感じる、というか「何か裏があるんだろうね」と思ってしまう。それは一体何なのかしらね?
昨今、フカヒレを禁止しようとする動きは国際的に広がっており、ハワイとグアム、マリアナ諸島ではすでに禁止されているほか、カリフォルニアやオレゴンでもフカヒレ禁止に向けた動きが活発化している。カナダでは今年5月にブラントフォード市(オンタリオ州)が北アメリカ初のフカヒレ禁止を打ち出した(なぜブラントフォードなのか、私にはとっても疑問)。
フカヒレは中国料理では最高級の食材とされており、結婚式ではフカヒレのスープはお祝いの目玉である。親は子どもの結婚式に高価なフカヒレのスープ(10人分で8万円から10万円)を出すことで、いかに深く子どもを愛しているかを表現するという。トロントのチャイナタウンでは、現在、乾燥したフカヒレが簡単に手に入る。しかし、フカヒレを獲る獲り方があまりにも残虐であるとして、国際的に批判を浴びてきた。
漁師たちは、フカヒレを獲るために、漁獲したサメのヒレ部分だけを切り落とし、あとは海に戻す。ヒレを失ったサメは泳ぐことができず、死んでしまう。統計によれば1年間に7300万頭が漁獲されるという。2007年のSharkwaterというドキュメンタリー以降、動物愛護団体から、倫理的食材を求める団体などが強くフカヒレ禁止を声に出すようになってきた。
クリスティン・ウォン- タムは中国系でトロントでは中国系カナダ人協会の元会長をしていた人。中国系市民の間でも、フカヒレ禁止をサポートする人たちも増えてきていて、この動きを私は非常に興味深く見守っている。
この件で思い出すのは、クジラ漁に対する日本と世界の対立。最近もニュース・アイテムにあったが、日本は今も非常に頑なに捕鯨にこだわっているThe Coveという和歌山のイルカ漁を批判したドキュメンタリーもあった。日本人のなかには「クジラ漁を批判するのは日本文化を批判するのと同じ」と言う人もいるが、私はそうは思わない。文化は流動的なものだし、いろいろな社会の変化によって変わるものだ。もし、多くの日本人の意識が変われば食文化にしたって変わるもの。国際政治の舞台でほとんど何も言わない日本が、クジラのことになるとあれだけ頑なになるのは、見ていて奇妙に感じる、というか「何か裏があるんだろうね」と思ってしまう。それは一体何なのかしらね?
Sunday, May 29, 2011
'Butcher of Bosnia' ラトコ・ムラディッチ逮捕される
Butcher of Bosniaと呼ばれるラトコ・ムラディッチがボスニア=ヘルツェゴビナ紛争から16年経った2011年5月26日、ついにセルビア当局によって逮捕され、ICC(International Criminal Court)へ送られることになった。ムラディッチはボスニア=ヘルツェゴビナ紛争でボスニア=セルビア軍の指導者として、少なくとも7500人のボスニア系イスラム教徒の虐殺および女性に対するレイプを主導したとされる。
第二次世界大戦後、ヨーロッパを襲った最悪の虐殺はボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の際に起きた。とりわけスレブレニツァはイスラム系およびクロアチア系に対するエスニック・クレンジングの場所となった。
16年経ったムラディッチが今まで逮捕もされず、法のもとに裁かれることがなかった背景には、世界では戦争犯罪の責任を課せられ、人間性に対する罪を問われていたムラディッチが、旧ユーゴスラビアのセルビア系からはヒーローのようにあがめられていたことが背景にある。実際、ムラディッチの居場所や行動はセルビア当局にはちゃんと把握できていた。ムラディッチを目撃したという声も頻繁に聞かれ、ムラディッチがまったく普通の市民として生活していたことも知られていた。ただし、セルビア系のあいだにはムラディッチに対する支持は強く、たとえば、先月の調査によると51%のセルビア系市民がムラディッチのハーグ送還を支持しないと答えていた。
こうした背景もあり、セルビア当局は時期を選ぶかのように、こうして長い間、ムラディッチを自由に泳がせていたが、ヨーロッパ連合(EU)への加盟はセルビアの長年の念願であり、その条件としてムラディッチのハーグ送還は不可欠だった。
ムラディッチに直接会ったというジャーナリストの記事を読んだ限り、横暴で傲慢なプロフィールが描かれているが、昨日逮捕されたムラディッチの姿にはそうした様子はまったくなく、痛みに苦しむ弱々しい老人という変わり様だった。
数ヶ月前はチリでアレンデが逮捕されたという記事を読んだ。こうして時間はかかっても正義がなされることは大切だと思う。
アーナ・パリスの「歴史の影」を翻訳したとき、彼女の言っている「不処罰は人々の心を荒ませる」というのに強く共感したものだ。自分が暮らす社会で不処罰が堂々とまかり通っているのを見れば、人々はルールを守らないことを何とも思わなくなってしまうし、将来に対する希望が持てない。そして、人々の心は荒み、国家は内部で崩壊してしまう。正義がなされる社会でのみ、人々は明るい展望を持てるのであり、社会正義は健全な国家にとっては基盤のようなものだと思う。ムラディッチの逮捕およびハーグ送還により、セルビアは確かに過去に終止符を打つための一歩を踏み出したのであり、今後は和解に向けたプロセスを始めるきっかけになるであろう。
第二次世界大戦後、ヨーロッパを襲った最悪の虐殺はボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の際に起きた。とりわけスレブレニツァはイスラム系およびクロアチア系に対するエスニック・クレンジングの場所となった。
16年経ったムラディッチが今まで逮捕もされず、法のもとに裁かれることがなかった背景には、世界では戦争犯罪の責任を課せられ、人間性に対する罪を問われていたムラディッチが、旧ユーゴスラビアのセルビア系からはヒーローのようにあがめられていたことが背景にある。実際、ムラディッチの居場所や行動はセルビア当局にはちゃんと把握できていた。ムラディッチを目撃したという声も頻繁に聞かれ、ムラディッチがまったく普通の市民として生活していたことも知られていた。ただし、セルビア系のあいだにはムラディッチに対する支持は強く、たとえば、先月の調査によると51%のセルビア系市民がムラディッチのハーグ送還を支持しないと答えていた。
こうした背景もあり、セルビア当局は時期を選ぶかのように、こうして長い間、ムラディッチを自由に泳がせていたが、ヨーロッパ連合(EU)への加盟はセルビアの長年の念願であり、その条件としてムラディッチのハーグ送還は不可欠だった。
ムラディッチに直接会ったというジャーナリストの記事を読んだ限り、横暴で傲慢なプロフィールが描かれているが、昨日逮捕されたムラディッチの姿にはそうした様子はまったくなく、痛みに苦しむ弱々しい老人という変わり様だった。
数ヶ月前はチリでアレンデが逮捕されたという記事を読んだ。こうして時間はかかっても正義がなされることは大切だと思う。
アーナ・パリスの「歴史の影」を翻訳したとき、彼女の言っている「不処罰は人々の心を荒ませる」というのに強く共感したものだ。自分が暮らす社会で不処罰が堂々とまかり通っているのを見れば、人々はルールを守らないことを何とも思わなくなってしまうし、将来に対する希望が持てない。そして、人々の心は荒み、国家は内部で崩壊してしまう。正義がなされる社会でのみ、人々は明るい展望を持てるのであり、社会正義は健全な国家にとっては基盤のようなものだと思う。ムラディッチの逮捕およびハーグ送還により、セルビアは確かに過去に終止符を打つための一歩を踏み出したのであり、今後は和解に向けたプロセスを始めるきっかけになるであろう。
Saturday, May 28, 2011
OECDによるBetter Life Indexを見比べる
パリでサミットが行われている期間中、パリを拠点とし、各国の財政予測や経済政策のアドバイザーとして知られるOECDは、居住環境、保健、統治、仕事と生活のバランス、環境や満足度などの指標をもとに加盟34カ国Better Life Indexを発表した。これまで、GNPをはじめとする経済指標で先進国を測ってきたOECDもここにきて、経済以外の指標を使って各国の状況を把握しようとしているようだ。
以下は私がOECDデータをもとにまとめたカナダと日本の比較表。Referenceは
http://www.oecd.org/document/63/0,3746,en_2649_201185_47912639_1_1_1_1,00.html
OECD平均 カナダ 日本
年間収入 22284 USD 27015 USD 23210 USD
雇用率 65% 72% 70%
年間就労時間 1739時間 1699時間 1714時間
就労している母親 66% 71% 66%
24~64歳:高校卒業率 73 87 87%
読解力(PISAプログラム) 493 524 520
平均寿命 79歳 80.7歳 82.7歳(最高)
大気汚染 22マイクログラム 15 27
セイフティ・ネット 91% 95% 90%
投票率 72% 60% 67%
「人生は上々だ」(満足度) 59% 78% 40%
私の知っている日本とカナダのデータを比べてみると、私の実感とはかなりずれている部分があるように思う。たとえば、年間就労時間をみると、日本はOECDのうちでも平均以下となっているが、私の実感では残業などを考えると、とても平均以下であるとは思われない。さらに、「就労している母親」指標で、日本はOECD平均の66%、カナダは71%だが、私の実感では、同じように「就労している母親」のカテゴリーに含まれればそうなのだが、カナダではフルタイムで働く母親が多いものの、日本ではパートタイムが圧倒的に多いように思う。
しかし、最後の「人生に対する満足度」の日本の低さはちょっと悲しい。経済的なことをいえば、日本は明らかに平均を上回っているのに比べ、この数字は何だが非常に意味深だと思う。バングラデッシュ出身の友人が私に、「世界で最も不幸せだと思っている国民は日本人」と言っていたのを思い出す。彼は、自分の国は経済的には非常に問題があるけれど、人々はそれぞれの人生を幸福だと感じていると言っていた。私はこういう十羽一絡げ的なコメントは避けたいが、40%というのはちょっと信じ難い。
私の思う「日本に足りないもの」を書き出してみる。
• 政治や社会に対する信頼感
• 人々が将来に希望をもつための公正で開かれた社会
• Diversity/多様性 (社会的多様性というのだろうか。人口だけでなく、意見の多様性や、選択の多様性など。そのためには社会がオープンでなくてはならない)
• 個人と社会をつなぐネットワークの確率
カナダと日本に暮らした私の実感では、以上のようなものが日本にあれば、日本はもっとすばらしい国になると思うし、そうなってほしいと願っている。
以下は私がOECDデータをもとにまとめたカナダと日本の比較表。Referenceは
http://www.oecd.org/document/63/0,3746,en_2649_201185_47912639_1_1_1_1,00.html
OECD平均 カナダ 日本
年間収入 22284 USD 27015 USD 23210 USD
雇用率 65% 72% 70%
年間就労時間 1739時間 1699時間 1714時間
就労している母親 66% 71% 66%
24~64歳:高校卒業率 73 87 87%
読解力(PISAプログラム) 493 524 520
平均寿命 79歳 80.7歳 82.7歳(最高)
大気汚染 22マイクログラム 15 27
セイフティ・ネット 91% 95% 90%
投票率 72% 60% 67%
「人生は上々だ」(満足度) 59% 78% 40%
私の知っている日本とカナダのデータを比べてみると、私の実感とはかなりずれている部分があるように思う。たとえば、年間就労時間をみると、日本はOECDのうちでも平均以下となっているが、私の実感では残業などを考えると、とても平均以下であるとは思われない。さらに、「就労している母親」指標で、日本はOECD平均の66%、カナダは71%だが、私の実感では、同じように「就労している母親」のカテゴリーに含まれればそうなのだが、カナダではフルタイムで働く母親が多いものの、日本ではパートタイムが圧倒的に多いように思う。
しかし、最後の「人生に対する満足度」の日本の低さはちょっと悲しい。経済的なことをいえば、日本は明らかに平均を上回っているのに比べ、この数字は何だが非常に意味深だと思う。バングラデッシュ出身の友人が私に、「世界で最も不幸せだと思っている国民は日本人」と言っていたのを思い出す。彼は、自分の国は経済的には非常に問題があるけれど、人々はそれぞれの人生を幸福だと感じていると言っていた。私はこういう十羽一絡げ的なコメントは避けたいが、40%というのはちょっと信じ難い。
私の思う「日本に足りないもの」を書き出してみる。
• 政治や社会に対する信頼感
• 人々が将来に希望をもつための公正で開かれた社会
• Diversity/多様性 (社会的多様性というのだろうか。人口だけでなく、意見の多様性や、選択の多様性など。そのためには社会がオープンでなくてはならない)
• 個人と社会をつなぐネットワークの確率
カナダと日本に暮らした私の実感では、以上のようなものが日本にあれば、日本はもっとすばらしい国になると思うし、そうなってほしいと願っている。
Saturday, May 14, 2011
世界の都市へと広がるSlut Walk
2011年1月24日、ヨーク大学法学部の女子学生に向け、女性の安全性に関する講演が行われた。そのなかで、スピーカーのひとりであったトロント市警察の警察官が言ったとされる言葉"women should avoid dressing like sluts in order not to be victimized."(性的犯罪に巻き込まれないためには、slutのような服装はしないこと)をめぐっては大きな展開があった。
Slutというのは、売春婦とか尻軽女とかいう意味で、軽蔑の意味が含まれている。新聞やラジオでは「時代遅れもはなはだしい」として、被害者である女性を性犯罪の理由であるかのように仕立て上げる考え方を批判し、この警察官に対して「過去50年間、この警察官はどこで何をしていたのだ」と、いまだ社会の変化に気付いていない彼のような市民に厳しい批判の矛先を向けると同時に、警察をはじめ企業などに隠れて存在している女性に対する蔑視感にも言及した。私の知る限りでは、この件に関しては警察官の言葉を擁護するような意見はメディアではまったく見られなかったし、この問題を「一人の警察官の問題」としてではなく、広く社会全体に未だ隠されている問題として取り上げ、多くの市民の声を吸い上げることが可能になったのは、カナダのジャーナリストたちの力量の現れだと思う。
こうした反応を受けて、トロント市警察、当の警察官はただちにヨーク大学に対して謝罪の手紙を送ったが、女性に対する性的暴力、ターゲットにされる女性に性犯罪の責任を転嫁するこうした考え方に対して非常に強い関心と批判はおさまらず、4月上旬、トロント市内でSlut Walkというデモが組織され、slutを思わせる服装の女性たち、男性たちも参加して大規模のデモ行進が市内でなされた。蔑視の意味を持つ言葉を自らのものとして使うやり方は、その言葉に対する強烈な批判となりえることは、黒人が過去、証明している。
さらに興味深いのは、その後、このSlut Walkは5月7日のボストンをはじめ、世界60都市に飛び火したことだ。Face bookやTwitterなどのソーシャル・メディアを使って、女性の権利をうたう組織が、世界中で連携する動きを見せた。今後数週間のうちに(5月中)アムステルダム、ロンドン、シドニー、オースティンなどの都市でも同じ目的のSlut Walkが予定されている。日本ではどうなのだろうか?
Slut Walkをめぐる一連の動きに対して批判が出ているのは実は一部フェミニストからであるというのも面白い。批判のひとつは、こうしてSlutの格好で楽しそうに歩くのは性犯罪の被害に遭った女性たちに対して、レイプの持つ意味を軽く見せることになるというもの。また、一方では、好きな服装で歩く女性の権利は当然あるとしながらも、さらにはレイプの責任は完全に加害者側にあると認めながらも、わざと露出度の高い服装をしている女性に対して警戒感の低さと男性の欲望に沿うような役割を自ら果たしている点を指摘する批判もある。
この際、ついでに言うと、少なくとも北米社会がどんどんSexualizeされている傾向にある点も指摘されてしかるべきだと思う。昨日の新聞では、10歳以下の女の子の洋服が、ここ数年、よりセクシーになってきているという記事を読んだ。これも女性をセクシュアリティの対象として捉える動きを加速する一例だと思う。また、Lady GagaやAmy Winehouseなどのセレブリティも、一方では女性に対する一般概念を壊したクリエイティビティは評価されるべきだと思うが、同時にこうした資本主義システムに乗せられて、女性がそのアイデアを自ら買ってしまったことは大きな問題となっていると思う。そう書いてきて、今、私の頭のなかを占めているのは、ポルノの氾濫する異常ともいえる日本社会のことだが、そのことはまた項を改めて後日書きたいと思う。
Slutというのは、売春婦とか尻軽女とかいう意味で、軽蔑の意味が含まれている。新聞やラジオでは「時代遅れもはなはだしい」として、被害者である女性を性犯罪の理由であるかのように仕立て上げる考え方を批判し、この警察官に対して「過去50年間、この警察官はどこで何をしていたのだ」と、いまだ社会の変化に気付いていない彼のような市民に厳しい批判の矛先を向けると同時に、警察をはじめ企業などに隠れて存在している女性に対する蔑視感にも言及した。私の知る限りでは、この件に関しては警察官の言葉を擁護するような意見はメディアではまったく見られなかったし、この問題を「一人の警察官の問題」としてではなく、広く社会全体に未だ隠されている問題として取り上げ、多くの市民の声を吸い上げることが可能になったのは、カナダのジャーナリストたちの力量の現れだと思う。
こうした反応を受けて、トロント市警察、当の警察官はただちにヨーク大学に対して謝罪の手紙を送ったが、女性に対する性的暴力、ターゲットにされる女性に性犯罪の責任を転嫁するこうした考え方に対して非常に強い関心と批判はおさまらず、4月上旬、トロント市内でSlut Walkというデモが組織され、slutを思わせる服装の女性たち、男性たちも参加して大規模のデモ行進が市内でなされた。蔑視の意味を持つ言葉を自らのものとして使うやり方は、その言葉に対する強烈な批判となりえることは、黒人が過去、証明している。
さらに興味深いのは、その後、このSlut Walkは5月7日のボストンをはじめ、世界60都市に飛び火したことだ。Face bookやTwitterなどのソーシャル・メディアを使って、女性の権利をうたう組織が、世界中で連携する動きを見せた。今後数週間のうちに(5月中)アムステルダム、ロンドン、シドニー、オースティンなどの都市でも同じ目的のSlut Walkが予定されている。日本ではどうなのだろうか?
Slut Walkをめぐる一連の動きに対して批判が出ているのは実は一部フェミニストからであるというのも面白い。批判のひとつは、こうしてSlutの格好で楽しそうに歩くのは性犯罪の被害に遭った女性たちに対して、レイプの持つ意味を軽く見せることになるというもの。また、一方では、好きな服装で歩く女性の権利は当然あるとしながらも、さらにはレイプの責任は完全に加害者側にあると認めながらも、わざと露出度の高い服装をしている女性に対して警戒感の低さと男性の欲望に沿うような役割を自ら果たしている点を指摘する批判もある。
この際、ついでに言うと、少なくとも北米社会がどんどんSexualizeされている傾向にある点も指摘されてしかるべきだと思う。昨日の新聞では、10歳以下の女の子の洋服が、ここ数年、よりセクシーになってきているという記事を読んだ。これも女性をセクシュアリティの対象として捉える動きを加速する一例だと思う。また、Lady GagaやAmy Winehouseなどのセレブリティも、一方では女性に対する一般概念を壊したクリエイティビティは評価されるべきだと思うが、同時にこうした資本主義システムに乗せられて、女性がそのアイデアを自ら買ってしまったことは大きな問題となっていると思う。そう書いてきて、今、私の頭のなかを占めているのは、ポルノの氾濫する異常ともいえる日本社会のことだが、そのことはまた項を改めて後日書きたいと思う。
Monday, May 2, 2011
カナダ総選挙(2011)とカナダ政治の傾向
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/new-political-era-begins-as-tories-win-majority-ndp-seizes-opposition/article2006635/
まだ開票作業は続いているが、どうやらConservative(保守党)が3期目の政権をとり、さらにはMajority Governmentになる見通しが高くなっている。NDP (新民主党)は第2党に躍進、公式に野党第一党となった。惨敗を被っているのはLiberal(自由党)とBQ(Block Quebecoise)。
Conservativeはキャンペーン中に「過半数はないだろう」と自ら宣伝し、国民の票が保守的な経済政策を求める国民の票がNDPに流れるのを防いだように見える。なかなか小ざかしいやり方だ。
ハーバード大学の職を辞して自由党に加わり、党首として今回の選挙に臨んだマイケル・イグナティエフは、自らの議席すら確保できるかどうかわからない接戦を強いられている。イグナティエフの退陣は確実だろう。自由党ナンバー2のボブ・レエは私の選挙区(ローズデール)でまあ楽勝しているが、きっと彼が自由党を率いていくことになるに違いない。
ケベック州の独立をうたうBQ(ブロック・ケベコワ)の党首ジル・デュセッペも自らの議席をNDP候補に譲り、彼の今後も退陣しかないだろう。
ジャック・レイトン率いるNDPの躍進には目を見張るものがあった。今のところ手に入る情報をもとにすれば、NDPはケベックで票を伸ばし、これまでBQに流れていた票を確保したように見える。NDPは興味深いことに、ケベックの(カナダからの独立)を前向きに受け止める声明を発表したこと、また、ケベコワ(ケベック人)の歴史的に保守系政策に対する嫌悪感をから、「何としても保守党だけは避けたい」という意思表示と見える。
そうなると、今後、注目したいのは、自由党Liberalと国民民主党NDPとの連立政権の可能性だ。次期党首となるだろうボブ・レエはもともと国民民主党のオンタリオ州議会議員で、NDPが州政権をとったときには党首として、オンタリオ政府の州知事として画期的な政策を敷き、いくつかは成功したが、社会福祉にお金をつぎ込んで州政府を多大なDeficitの状態に追い込んだ。そのことから、オンタリオ州ではFiscally conservativeな市民の間では不人気だが、彼とNDPの間で連立の動きを探ることは可能だろう。
ヨーロッパでもそうだが、カナダでは人々がFiscal conservatismになっている傾向があるように見受けられる。これは私がカナダに来た12年前と比べて、カナダ人の政治意識における最も大きな変化だと思う。Fiscal Conservatismの日本語が何なのか思い出せないが、これは、小さな政府(国営企業の私有化)、税金は抑える、社会福祉には消極的、ビジネスに甘い・・・などの特徴を有し、そのため、資本主義の恩恵を被っている人、とりわけビジネス分野の人たちから支援される傾向にある。この傾向が進むにつれ、教育や社会福祉、移民向けサービスなどに力を入れてきた自由党Liberalは票を失ってきた。
しかし、アメリカとの違いとして、財政政策では保守化しているカナダ人も、やはり社会的な保守化(Social conservatism)はしていない点は重要なポイントだと思う。たとえば、「中絶反対」とか「キリスト教」とか「犯罪は徹底的に処罰する」という政策は大多数のカナダ人には受け入れ難い。やはり社会的には自由主義なのだ(Social liberalism)。
話が広がってしまったが、しかし、しかし、本当にこれは大変なことになった。今後、過半数を確保した保守党政府は今まで以上に経費削減や社会福祉の予算をカットするだろう。夫の大学も影響を受けないわけがないし、とりわけ人文系は予算を削られるだろう(彼らはマネジメントやビジネス、サイエンスには喜んでお金を出すんだが・・・)。移民向けサービスなどの予算も今まで以上に削られるだろう。ここはひとつ、野党第一党となったNDP、好感度ナンバーワンのジャック・レイトンにがんばってもらいたい。
まだ開票作業は続いているが、どうやらConservative(保守党)が3期目の政権をとり、さらにはMajority Governmentになる見通しが高くなっている。NDP (新民主党)は第2党に躍進、公式に野党第一党となった。惨敗を被っているのはLiberal(自由党)とBQ(Block Quebecoise)。
Conservativeはキャンペーン中に「過半数はないだろう」と自ら宣伝し、国民の票が保守的な経済政策を求める国民の票がNDPに流れるのを防いだように見える。なかなか小ざかしいやり方だ。
ハーバード大学の職を辞して自由党に加わり、党首として今回の選挙に臨んだマイケル・イグナティエフは、自らの議席すら確保できるかどうかわからない接戦を強いられている。イグナティエフの退陣は確実だろう。自由党ナンバー2のボブ・レエは私の選挙区(ローズデール)でまあ楽勝しているが、きっと彼が自由党を率いていくことになるに違いない。
ケベック州の独立をうたうBQ(ブロック・ケベコワ)の党首ジル・デュセッペも自らの議席をNDP候補に譲り、彼の今後も退陣しかないだろう。
ジャック・レイトン率いるNDPの躍進には目を見張るものがあった。今のところ手に入る情報をもとにすれば、NDPはケベックで票を伸ばし、これまでBQに流れていた票を確保したように見える。NDPは興味深いことに、ケベックの(カナダからの独立)を前向きに受け止める声明を発表したこと、また、ケベコワ(ケベック人)の歴史的に保守系政策に対する嫌悪感をから、「何としても保守党だけは避けたい」という意思表示と見える。
そうなると、今後、注目したいのは、自由党Liberalと国民民主党NDPとの連立政権の可能性だ。次期党首となるだろうボブ・レエはもともと国民民主党のオンタリオ州議会議員で、NDPが州政権をとったときには党首として、オンタリオ政府の州知事として画期的な政策を敷き、いくつかは成功したが、社会福祉にお金をつぎ込んで州政府を多大なDeficitの状態に追い込んだ。そのことから、オンタリオ州ではFiscally conservativeな市民の間では不人気だが、彼とNDPの間で連立の動きを探ることは可能だろう。
ヨーロッパでもそうだが、カナダでは人々がFiscal conservatismになっている傾向があるように見受けられる。これは私がカナダに来た12年前と比べて、カナダ人の政治意識における最も大きな変化だと思う。Fiscal Conservatismの日本語が何なのか思い出せないが、これは、小さな政府(国営企業の私有化)、税金は抑える、社会福祉には消極的、ビジネスに甘い・・・などの特徴を有し、そのため、資本主義の恩恵を被っている人、とりわけビジネス分野の人たちから支援される傾向にある。この傾向が進むにつれ、教育や社会福祉、移民向けサービスなどに力を入れてきた自由党Liberalは票を失ってきた。
しかし、アメリカとの違いとして、財政政策では保守化しているカナダ人も、やはり社会的な保守化(Social conservatism)はしていない点は重要なポイントだと思う。たとえば、「中絶反対」とか「キリスト教」とか「犯罪は徹底的に処罰する」という政策は大多数のカナダ人には受け入れ難い。やはり社会的には自由主義なのだ(Social liberalism)。
話が広がってしまったが、しかし、しかし、本当にこれは大変なことになった。今後、過半数を確保した保守党政府は今まで以上に経費削減や社会福祉の予算をカットするだろう。夫の大学も影響を受けないわけがないし、とりわけ人文系は予算を削られるだろう(彼らはマネジメントやビジネス、サイエンスには喜んでお金を出すんだが・・・)。移民向けサービスなどの予算も今まで以上に削られるだろう。ここはひとつ、野党第一党となったNDP、好感度ナンバーワンのジャック・レイトンにがんばってもらいたい。
殺人を犯す国家・殺人を喜ぶ国民
カナダでは総選挙投票日の今日、Star紙、Globe紙のヘッドラインはOsama Bin Laden Dead。ホワイトハウスの前ではビン・ラディンの死を祝福する国民の姿があり、イギリスやカナダの政治指導者たちも歓迎する声明を発表した。唯一、ロシアの大統領だけがアメリカの報復に疑問を呈した声明を出している。
Globe紙の別の記事は、NATOの爆撃でガダフィの6番目の息子が死亡したと伝えている。ガダフィは助かったとしているが、明らかに彼を標的にした空爆である。今後も空爆が続き、標的が的中すればガダフィの命もないだろう。
このふたつの記事を読んで、何とも気味が悪くなった。私はビン・ラディンやガダフィの息子に同情しているのではない。国家による個人の殺人がこんなにも簡単になされてしまう現実を前に驚愕の念を隠せないのだ。
どちらの記事も、最も容易な表現を使えば「国家が他国の個人を殺害した」ということであり、そう考えるとこの意味は非常に深長である。たとえビン・ラディンが大量殺人を首謀したとするならば、民主国家としてまずは司法のもとに犯罪を裁くのが当然の過程となるだろうが、このケースは最初から(9・11の前から)アメリカ政府により「テロリストによるアメリカへのテロリズム」であると繰り返し繰り返し戦略的に叩き込まれてきたため、こうしてひとりの人間が殺されたところで、私たちの誰も悲しみはしないし、それどころか祝福などしているのだ。アメリカ政府は、長い間、自分たちの戦争をJust War(正義の戦争)と位置づけており、自分たちの正しさを疑うことはなかった。自分たちが正しければ、それに反対する勢力はすべて「悪」となるのだ。その構図を叩き込まれた国民にとっては、「悪」の権化とされた一人の人間の死など何ほどでもないわけである。冷戦時代のアメリカは実は同じことをしていた。
一方で、今朝、CBCのラジオで9・11の当日、WTCで働いていたビジネスマンの父を失ったカナダ人女性が「Bin Ladenの死をどう受け止めるか」とのインタビューに答えて、「これ(ラディンの死)で気持ちが楽になったということはない。私にとっては、父が死んだことで誰かを憎むようになることは、テロリストの思う壷だし、自らが苦しむことになる。だから、そういう捉え方はしない。今日のことがどういう意味を持つかと言われれば、今は分からない」と答えていた。
ビン・ラディンの死で世界が安全になったなどとはいえないし、むしろ今後、イスラム教原理主義者による更なる報復も考えられる。そして、アメリカの敵のリストは永久に続いていく。ビン・ラディンの殺害は、アメリカにとっては何にもまして「正義がなされた」という象徴的意味を世界に見せ付けることであったに違いない。
国家がこのように個人の殺害を主導する世界に、平和という言葉は何の意味もなさないような気分になる。ただし、自分の機軸をもとに考えれば、こうした状況を気味の悪い現実として声を挙げるべきだと思うし、民主主義社会に住む私たち国民ひとりひとりが国家によるプロパガンダを跳ね返すだけの批判能力を有する努力を常にすべきだと思う。
Globe紙の別の記事は、NATOの爆撃でガダフィの6番目の息子が死亡したと伝えている。ガダフィは助かったとしているが、明らかに彼を標的にした空爆である。今後も空爆が続き、標的が的中すればガダフィの命もないだろう。
このふたつの記事を読んで、何とも気味が悪くなった。私はビン・ラディンやガダフィの息子に同情しているのではない。国家による個人の殺人がこんなにも簡単になされてしまう現実を前に驚愕の念を隠せないのだ。
どちらの記事も、最も容易な表現を使えば「国家が他国の個人を殺害した」ということであり、そう考えるとこの意味は非常に深長である。たとえビン・ラディンが大量殺人を首謀したとするならば、民主国家としてまずは司法のもとに犯罪を裁くのが当然の過程となるだろうが、このケースは最初から(9・11の前から)アメリカ政府により「テロリストによるアメリカへのテロリズム」であると繰り返し繰り返し戦略的に叩き込まれてきたため、こうしてひとりの人間が殺されたところで、私たちの誰も悲しみはしないし、それどころか祝福などしているのだ。アメリカ政府は、長い間、自分たちの戦争をJust War(正義の戦争)と位置づけており、自分たちの正しさを疑うことはなかった。自分たちが正しければ、それに反対する勢力はすべて「悪」となるのだ。その構図を叩き込まれた国民にとっては、「悪」の権化とされた一人の人間の死など何ほどでもないわけである。冷戦時代のアメリカは実は同じことをしていた。
一方で、今朝、CBCのラジオで9・11の当日、WTCで働いていたビジネスマンの父を失ったカナダ人女性が「Bin Ladenの死をどう受け止めるか」とのインタビューに答えて、「これ(ラディンの死)で気持ちが楽になったということはない。私にとっては、父が死んだことで誰かを憎むようになることは、テロリストの思う壷だし、自らが苦しむことになる。だから、そういう捉え方はしない。今日のことがどういう意味を持つかと言われれば、今は分からない」と答えていた。
ビン・ラディンの死で世界が安全になったなどとはいえないし、むしろ今後、イスラム教原理主義者による更なる報復も考えられる。そして、アメリカの敵のリストは永久に続いていく。ビン・ラディンの殺害は、アメリカにとっては何にもまして「正義がなされた」という象徴的意味を世界に見せ付けることであったに違いない。
国家がこのように個人の殺害を主導する世界に、平和という言葉は何の意味もなさないような気分になる。ただし、自分の機軸をもとに考えれば、こうした状況を気味の悪い現実として声を挙げるべきだと思うし、民主主義社会に住む私たち国民ひとりひとりが国家によるプロパガンダを跳ね返すだけの批判能力を有する努力を常にすべきだと思う。
Wednesday, March 16, 2011
真実を知っているのは誰か
原発事故、放射能被害に関して、どの情報を信じていいかわからないというのが、非常に大きな不安の源になっている。私が見る限り、概してNHKや政府、東電から流される情報より、海外メディアを読んでいる方が危機感が高くなる気がする。たとえば、昨日のGlobe紙では、プリンストン大学物理学者のHippel教授のコメント-事態はすでにスリーマイル島原発事故をはるかに超えている-と報じていたが、NHKに出ていた大阪大学の教授は「スリーマイルには至っていない」という言い方をしていた。
「一体、誰を信じればいいの?」とNHK番組で誰かが言っていたが、この時点では、誰一人として「真実」を知ってはいないだろう。記者会見している東電の役員だって、官房長官だってこの状況を断片的に知っているだけだ。昨日、CBCラジオでカナダ人専門家が言っていたように「今回の福島第一原発事故・被害の全貌が明らかになるまでには1年、いやそれ以上の年数がかかるだろう」。
現在、私たちにできるのは1つのメディア・ソースだけでなく、できるだけ複数のソースにあたることだと思う。その情報に基づいて、各自が状況の判断をする以外にはない。
「一体、誰を信じればいいの?」とNHK番組で誰かが言っていたが、この時点では、誰一人として「真実」を知ってはいないだろう。記者会見している東電の役員だって、官房長官だってこの状況を断片的に知っているだけだ。昨日、CBCラジオでカナダ人専門家が言っていたように「今回の福島第一原発事故・被害の全貌が明らかになるまでには1年、いやそれ以上の年数がかかるだろう」。
現在、私たちにできるのは1つのメディア・ソースだけでなく、できるだけ複数のソースにあたることだと思う。その情報に基づいて、各自が状況の判断をする以外にはない。
Friday, January 14, 2011
フォアグラとアニマル・ライツ
毎年2月、カナダの首都オタワの冬を彩る「Winterlude」というフェスティバルが開催される。このフェスティバルの一環として、著名シェフが創作する一流料理を堪能できるディナーのチケットが販売され、結構なお値段にもかかわらず数時間でチケット完売というポピュラリティを誇っている。今年はフォアグラ料理ではカナダ料理界で右に出るものはいないといわれるシェフ、マーティン・ピカードが参加することになっていた。
しかし、一部のアニマル・ライツのアクティビストの助言がもとになり、素材としてフォアグラを使わずに料理をすることを求められ、結果的にシェフが辞退するという顛末となった。オタワやモントリオール市内の有名レストランでは、このシェフの取った態度(一部の狂信者=アニマル・ライツに屈しなかったという態度)をサポートする動きとして、フォアグラをメニューに取り上げるお店が出ているという。(Duck-liver flap ruffles feathers of Ottawa chefs, The Globe and Mail, January 12, 2011)
フォアグラ(foie gras)とは、必要以上に大量の餌を強制的に与えたガチョウや鴨の肥大化した胃で、世界3大珍味のひとつとして知られる。世界で生産されるフォアグラの大半がフランスで生産されている。この不自然な飼育方法を「動物虐待」としてAnimal rights(アニマル・ライツ)アクティビスト(動物の権利を守ることを目的として活動)たちの間では、フォアグラ全廃がひとつのターゲットとなっている。
アニマル・ライツのグループとして最もよく知られているのはPETA (People for the Ethical Treatment of Animals)というグループだろう。ハリウッドのセレブなど著名人も名を連ねているこのグループは、動物を食べること自体に反対していて、ヴェーガン(卵や乳製品も食べないベジタリアン)主義を唱えている。もちろん、毛皮製品をはじめ、動物の皮を使ったハンドバッグ、薬品・コスメティック企業による動物実験、狩猟、さらには動物に乗り物をひかせることなど、動物を人間の利便のために利用することに反対している(いやはや、ここまでくるとちょっと行き過ぎのような気がするね。西欧社会で何不自由なく生きている人たちの考えそうなことである・・・)。
動物を食べることは「動物虐待」に値するのだろうか。
大部分の人にとっては間接的にはそう言うこともできるだろう。自分では殺してはいないが、殺された動物の肉を食べている、というだけの理由ではない。残酷きわまりない殺され方をサポートするかのようにスーパーの肉を繰り返し買っていることが原因である。数年前にベストセラーとなったFirst Food Nationという本には、大手ファーストフードチェーンと牛肉産業の関係、どんなに残酷なやり方で牛が屠殺され、ブロイラチキンが育てられているかが克明に描かれていた。また、時期を同じくして巨大な食品産業の内情を告発するようなドキュメンタリーもいくつか発表され、物議をかもした。私たちの多くは、晩ごはんに調理するお肉がどのような経路でスーパーマーケットに届いているかを知らない。屠殺場でどのように残酷な殺され方をしているのかを漠然とは知っていても実際には見たくはない。でも、残酷な殺され方をしたお肉を買うことは、そうしたやり方をサポートすることになり、間接的に動物虐待に加担しているということができるだろう。
私と夫は95%ベジタリアンだが、お肉を買うときにはオーガニック、ハラル(Halal、イスラム教の戒律に従って供される食べ物。下記Halalの引用参照)やコーシャー(Kosher、ユダヤ教の戒律に従って供される食べ物)の承認を受けたものを買うようにしている。宗教的な理由ではなく、動物にできるだけ痛みを感じさせないやりかたで屠殺するこうした方法の方を選びたいからだ。アニマル・ライツほど強い信条をもってはいないが、個人的には不必要な痛みを他者に与えたくはない。これだけ食料が豊富に手に入る私たちの社会において、肉を食べる意味はその味以外には皆無だとも思う。肉の味? 私には調理次第では豆のコロッケであるファラフェルの方がチキン・ディバーンよりもずっとずっとおいしいと感じられる(年のせいかもしれないが)。
多くの人の場合、ひとたび牛や豚がスローターハウスでどのように屠殺されているかを、あるいはフォアグラがどうやって作られているかを映像で見れば(U tubeにそうした映像はたくさんある)、お肉やフォアグラを食べたいという気持ちは激減するだろう。スーパーのお肉がどこからきたのかに思いを巡らせば、私たちの「食べる」意味をもういちど考え直す必要があるだろう。「食べる」ということがいかに残酷なことであるのかを、現代に生きる私たちは都合よく忘れているように思う。
今回のフォアグラ騒動で、多くの人たちがU Tubeで不必要に大量の餌を強制され、最後には立てなくなったり、内臓が破裂したりする鴨を見ることだろう。その人たちは、それでもまだフォアグラを食べようとするのだろうか。
Halal(Wikipedia)
This method of slaughtering animals consists of a swift, deep transverse incision with a sharp knife across the neck, cutting through the windpipe, the food pipe, the vagus nerve, jugular veins, and carotid arteries of both sides, but leaving the spinal cord intact. This method of slaughter opens the circulatory system, which is at high pressure, to the air, causing pressure to equalize and the blood pressure in the brain to fall to zero
しかし、一部のアニマル・ライツのアクティビストの助言がもとになり、素材としてフォアグラを使わずに料理をすることを求められ、結果的にシェフが辞退するという顛末となった。オタワやモントリオール市内の有名レストランでは、このシェフの取った態度(一部の狂信者=アニマル・ライツに屈しなかったという態度)をサポートする動きとして、フォアグラをメニューに取り上げるお店が出ているという。(Duck-liver flap ruffles feathers of Ottawa chefs, The Globe and Mail, January 12, 2011)
フォアグラ(foie gras)とは、必要以上に大量の餌を強制的に与えたガチョウや鴨の肥大化した胃で、世界3大珍味のひとつとして知られる。世界で生産されるフォアグラの大半がフランスで生産されている。この不自然な飼育方法を「動物虐待」としてAnimal rights(アニマル・ライツ)アクティビスト(動物の権利を守ることを目的として活動)たちの間では、フォアグラ全廃がひとつのターゲットとなっている。
アニマル・ライツのグループとして最もよく知られているのはPETA (People for the Ethical Treatment of Animals)というグループだろう。ハリウッドのセレブなど著名人も名を連ねているこのグループは、動物を食べること自体に反対していて、ヴェーガン(卵や乳製品も食べないベジタリアン)主義を唱えている。もちろん、毛皮製品をはじめ、動物の皮を使ったハンドバッグ、薬品・コスメティック企業による動物実験、狩猟、さらには動物に乗り物をひかせることなど、動物を人間の利便のために利用することに反対している(いやはや、ここまでくるとちょっと行き過ぎのような気がするね。西欧社会で何不自由なく生きている人たちの考えそうなことである・・・)。
動物を食べることは「動物虐待」に値するのだろうか。
大部分の人にとっては間接的にはそう言うこともできるだろう。自分では殺してはいないが、殺された動物の肉を食べている、というだけの理由ではない。残酷きわまりない殺され方をサポートするかのようにスーパーの肉を繰り返し買っていることが原因である。数年前にベストセラーとなったFirst Food Nationという本には、大手ファーストフードチェーンと牛肉産業の関係、どんなに残酷なやり方で牛が屠殺され、ブロイラチキンが育てられているかが克明に描かれていた。また、時期を同じくして巨大な食品産業の内情を告発するようなドキュメンタリーもいくつか発表され、物議をかもした。私たちの多くは、晩ごはんに調理するお肉がどのような経路でスーパーマーケットに届いているかを知らない。屠殺場でどのように残酷な殺され方をしているのかを漠然とは知っていても実際には見たくはない。でも、残酷な殺され方をしたお肉を買うことは、そうしたやり方をサポートすることになり、間接的に動物虐待に加担しているということができるだろう。
私と夫は95%ベジタリアンだが、お肉を買うときにはオーガニック、ハラル(Halal、イスラム教の戒律に従って供される食べ物。下記Halalの引用参照)やコーシャー(Kosher、ユダヤ教の戒律に従って供される食べ物)の承認を受けたものを買うようにしている。宗教的な理由ではなく、動物にできるだけ痛みを感じさせないやりかたで屠殺するこうした方法の方を選びたいからだ。アニマル・ライツほど強い信条をもってはいないが、個人的には不必要な痛みを他者に与えたくはない。これだけ食料が豊富に手に入る私たちの社会において、肉を食べる意味はその味以外には皆無だとも思う。肉の味? 私には調理次第では豆のコロッケであるファラフェルの方がチキン・ディバーンよりもずっとずっとおいしいと感じられる(年のせいかもしれないが)。
多くの人の場合、ひとたび牛や豚がスローターハウスでどのように屠殺されているかを、あるいはフォアグラがどうやって作られているかを映像で見れば(U tubeにそうした映像はたくさんある)、お肉やフォアグラを食べたいという気持ちは激減するだろう。スーパーのお肉がどこからきたのかに思いを巡らせば、私たちの「食べる」意味をもういちど考え直す必要があるだろう。「食べる」ということがいかに残酷なことであるのかを、現代に生きる私たちは都合よく忘れているように思う。
今回のフォアグラ騒動で、多くの人たちがU Tubeで不必要に大量の餌を強制され、最後には立てなくなったり、内臓が破裂したりする鴨を見ることだろう。その人たちは、それでもまだフォアグラを食べようとするのだろうか。
Halal(Wikipedia)
This method of slaughtering animals consists of a swift, deep transverse incision with a sharp knife across the neck, cutting through the windpipe, the food pipe, the vagus nerve, jugular veins, and carotid arteries of both sides, but leaving the spinal cord intact. This method of slaughter opens the circulatory system, which is at high pressure, to the air, causing pressure to equalize and the blood pressure in the brain to fall to zero
Thursday, January 13, 2011
カナダ人と読書
カナダ人は読書が好きな国民らしい。
1日に読書をする時間に関する各国の比較では、カナダは40分と、フィンランドの46分に続き世界2位になっている。本を読まないと答えたのはわずか13%で、アメリカの43%に比べると比較にならない。
私の感じでは、カナダ人が本を読んでいるかどうかはわからないが、カナダの社会では「読書」がメインストリームのメディアで大きく取り上げられる機会は日本に比べはるかに多いと思う。
たとえば、英語圏の文学賞(マン・ブッカー・プライズなど)のリストが発表されると、新聞や雑誌はそのニュースでにぎわうし、カナダ総督の名を冠した文学賞(カナダ政府がスポンサー、部門はフィクション、ノンフィクション、英語、フランス語)のリスト発表時には、CBCラジオがCanada Readsという名で、それぞれの候補作を押す著名なカナダ人作家たちが討論しあうという興味深いプログラムを受賞が決まるまで何週間にもわたって放送している。さらに、この討論は、リスナーからのフィードバックも加わり、受賞の日までかなり高度な議論がなされる。
また、カナダでは「ブック・クラブ」というサークルがあちこちにあって、そこでは同じ本を読んでいる人たちが集まり、その内容を話し合っている。たとえば、トロント市立図書館でも同じような主旨である本を取り上げて、定期的に集まるプログラムを組んでいる(移民だけに特化したブック・クラブもある!)。一方、ブックストアでも、文学賞の時期にともなって候補にあがっている作家を招いたり、その他の時期にも定期的にさまざまな作家を招いて講演会を催し(誰でも無料で参加できる)ているし、たいていそうした講演会は満員ということが多い。
トロント市立図書館やカナダの大学では、Writer in residenceというタイトルで特定の作家を大学のレジデンスに招き、1年間、図書館を含む大学の施設を無料で利用できるようにしたりというプログラムもよく知られている。
もうひとつ、毎年秋になると、トロントのハーバーフロントでは世界各国から作家を集めてInternational Festival of Authorsという大きな催しが開催される。招かれた作家たちは、自分の作品を一部読み聞かせ、文学に関する講演を行ったり、参加者と議論をしたりする。これもまた毎年大成功で、著名な作家の講演チケットを購入するのはなかなか簡単にはいかない。
日本では、ベストセラーといえばHow toものか、ビジネス書、マンガ、安っぽい大衆文学あたりだが、カナダでは日本と比較にならないほど「知的」な本がベストセラーになるのは当たり前。たとえば、私が翻訳したLong Shadows(翻訳は「歴史の影」社会評論社)は、歴史と記憶をテーマにしたかなり手ごわい本だが、この本はカナダ最高のノンフィクション本に与えられる賞を獲得し、長い間ベストセラーとして多くのカナダ人のあいだで読まれてきた。
カナダ国民の教養が高いということなのだろうか。恐らく、社会全体にLiteratureを大切にしようとする土壌が育っているのだと思う。Literatureのスポンサーとなるのは政府をはじめ、出版界、NPOなどの芸術機関などで、こうした動きを見ていると、カナダでは芸術や芸術家を文化の一部として守り、援助しようという姿勢がひろく社会の隅々にまで行き渡っている感がある。先日、ヤン・マーテルの書評でもちらっと触れたように、社会が芸術を守ろうという姿勢を崩せば、長い目でみるとそれは国家の魂を奪うような悲惨な結果に結びつく。
“われわれ市民が芸術家を援助しなければ、我々は荒々しい現実のために想像力を犠牲にし、結局のところ何ひとつ信じられなくなって、無価値な夢だけを抱くはめになる。”Yann Martel
1日に読書をする時間に関する各国の比較では、カナダは40分と、フィンランドの46分に続き世界2位になっている。本を読まないと答えたのはわずか13%で、アメリカの43%に比べると比較にならない。
私の感じでは、カナダ人が本を読んでいるかどうかはわからないが、カナダの社会では「読書」がメインストリームのメディアで大きく取り上げられる機会は日本に比べはるかに多いと思う。
たとえば、英語圏の文学賞(マン・ブッカー・プライズなど)のリストが発表されると、新聞や雑誌はそのニュースでにぎわうし、カナダ総督の名を冠した文学賞(カナダ政府がスポンサー、部門はフィクション、ノンフィクション、英語、フランス語)のリスト発表時には、CBCラジオがCanada Readsという名で、それぞれの候補作を押す著名なカナダ人作家たちが討論しあうという興味深いプログラムを受賞が決まるまで何週間にもわたって放送している。さらに、この討論は、リスナーからのフィードバックも加わり、受賞の日までかなり高度な議論がなされる。
また、カナダでは「ブック・クラブ」というサークルがあちこちにあって、そこでは同じ本を読んでいる人たちが集まり、その内容を話し合っている。たとえば、トロント市立図書館でも同じような主旨である本を取り上げて、定期的に集まるプログラムを組んでいる(移民だけに特化したブック・クラブもある!)。一方、ブックストアでも、文学賞の時期にともなって候補にあがっている作家を招いたり、その他の時期にも定期的にさまざまな作家を招いて講演会を催し(誰でも無料で参加できる)ているし、たいていそうした講演会は満員ということが多い。
トロント市立図書館やカナダの大学では、Writer in residenceというタイトルで特定の作家を大学のレジデンスに招き、1年間、図書館を含む大学の施設を無料で利用できるようにしたりというプログラムもよく知られている。
もうひとつ、毎年秋になると、トロントのハーバーフロントでは世界各国から作家を集めてInternational Festival of Authorsという大きな催しが開催される。招かれた作家たちは、自分の作品を一部読み聞かせ、文学に関する講演を行ったり、参加者と議論をしたりする。これもまた毎年大成功で、著名な作家の講演チケットを購入するのはなかなか簡単にはいかない。
日本では、ベストセラーといえばHow toものか、ビジネス書、マンガ、安っぽい大衆文学あたりだが、カナダでは日本と比較にならないほど「知的」な本がベストセラーになるのは当たり前。たとえば、私が翻訳したLong Shadows(翻訳は「歴史の影」社会評論社)は、歴史と記憶をテーマにしたかなり手ごわい本だが、この本はカナダ最高のノンフィクション本に与えられる賞を獲得し、長い間ベストセラーとして多くのカナダ人のあいだで読まれてきた。
カナダ国民の教養が高いということなのだろうか。恐らく、社会全体にLiteratureを大切にしようとする土壌が育っているのだと思う。Literatureのスポンサーとなるのは政府をはじめ、出版界、NPOなどの芸術機関などで、こうした動きを見ていると、カナダでは芸術や芸術家を文化の一部として守り、援助しようという姿勢がひろく社会の隅々にまで行き渡っている感がある。先日、ヤン・マーテルの書評でもちらっと触れたように、社会が芸術を守ろうという姿勢を崩せば、長い目でみるとそれは国家の魂を奪うような悲惨な結果に結びつく。
“われわれ市民が芸術家を援助しなければ、我々は荒々しい現実のために想像力を犠牲にし、結局のところ何ひとつ信じられなくなって、無価値な夢だけを抱くはめになる。”Yann Martel
Sunday, December 26, 2010
Salty food, Public Health and Food Industry 誰が塩分を規制すべきか
外食をすると、あとでやたらめったら喉が渇いて仕方ないことがよくある。食事のときはほとんどSaltyだとは感じないのだけれど、こういうときレストランの食事にはどれほどの塩分が含まれているのかと、ちょっぴり恐ろしくなることがある。
統計によれば、平均的カナダ人の1日の塩分摂取量は3400ミリグラム。Public Healthが勧める大人1日の塩分摂取量は1500ミリグラムというから、カナダ人の多くが2倍以上の塩分を摂取していることになる。また、摂取される塩分の80%は加工食品、パッケージ食品から来ているといわれる。とりわけ缶スープ、シリアル、パンやドレッシングなどに大量に使われている。
この「塩分消費過多」の問題は、ここ数年、カナダの社会問題として取り上げられるようになってきた。食品産業に塩分規制を求める市民グループの活動なども、メディアで頻繁に取り上げられた結果、カナダ政府のなかにも今後は食品産業に規制を求めるための法整備を整えるべきだという意見も見られる。
塩分が社会問題化している背景には、いくつか要因がある。ひとつは、塩分摂取量が増えれば病気が増えるわけで、最終的にはPublic Healthの問題として戻ってくる点。さらにはカナダはUniversal Healthcare(国民の基本的医療費を国が全額負担する制度)制度を採用しているため、国民の病気が増えれば国の財政を圧迫する。それゆえに国民の健康管理に国が介入する必要があるという点が要因としてあげられる。
さらに付け加えると、企業に対する欧米人の見方も関係していると思う。オーストラリアの研究者Linda Cobiac(University of Queensland)が率いるグループが発表した研究結果には、”Food manufacturers have a responsibility to make money for their shareholders, but they also have a responsibility to society. If corporate responsibility fails, maybe there is an ethical justification for government to step in and legislate” (食品企業は株主に配当を与えるという責任があると同時に、社会全体に貢献しなくてはいけないという社会的責任も負っている。企業が社会的責任を負えない場合は、政府はこの問題に介入し、法整備を整える倫理的正当性があるだろう)というくだりがある。こうした考え方は日本人にはちょっとピンとこないかもしれないが、企業の社会への利益還元、社会的責任という問題はすでに欧米の市民のあいだではノームになっている。企業も社会の一員として責任ある行動を取るべき、という考えは、企業の価値を計る大切な指針となっている。
こうした理解に押されて、数年前から外食産業や食品産業では自主規制の動きが活発になってきた。マクドナルドやWendy’sなども塩分はもとより、脂肪分やカロリーも減らしているし、パッケージ食品にも減塩を謳い文句にした商品が増えている。
料理する側から言えば、お料理をおいしくしようと思ったら塩分を増やせばいい。私の作る野菜ポタージュスープやカリーだって、もっともっと塩分を増やせば、レストランで食べるようなおいしさになると思う。ただ、家族のことを考えるとそれを毎日はできない。子どもが生まれてからというもの、料理に塩を使うのをためらうようになった。最初は赤ちゃんのため、と思っていたけれど、それを3年も続けていると、そのうちに私たちの身体が「塩分控えめ」の食事に慣れてきた。ちょっとの塩分で満足できるように味覚が慣れてきたのだろう。その一方で、レストランの食事の塩分、スープ、パッケージ食品の塩分に敏感になってきた。
私たちの舌は慣れた味を「おいしい」と思う。トロントに来たころはカナダのチョコレートが「甘すぎてまずい」と思った私だが、今では日本のチョコレートの方が嘘っぽい味がするようで口にあわない。味覚は環境によって変化するし、時間をかけてコントロールできるのだということを、私は塩分抜きの食事を作る経験から学んだ。社会全体が「減塩」傾向になれば、長期的には個人の味覚も変えることができるだろう。
しかし、一方では市民のひとりひとりが塩分を取りすぎるとどういうことになるのかという理解をする必要もある。市民の健康を国が管理するということには、実は多くの問題がある。とくに、この影響のため、ここ数十年間のあいだ、自分たちの健康には自分が責任を持つ、という態度が国民のあいだから消えていってしまっているように思う。それは私たちが食生活を変えるとか、エクササイズをするとか、ものごとに対する態度を変えるとか、私たち自身が健康をコントロールするカギを握っているという理解がなくなっていったからではないか。健康が損なわれたら、薬や医師に頼ればいいという他人任せの態度になっているからではないか。
国民すべてが国によって基本的医療費をカバーされるUniversal Healthcareは、貧富の差なく同じ医療手当てを受けられるという社会福祉のアイデアとしてはすばらしいものだと思う。しかし、私にしてみれば食事の献立に気をつけたり、加工食品は買わないとか、そういう態度で生活している私たちの税金が、1週間に何度もマクドナルドのバリュー・セットを消費している人の医療費をカバーしなければならないのかと、腑に落ちない気分になることもある。
カナダの食品・外食産業は、2016年までにカナダ人の塩分消費を2300ミリグラムまでに減少させることを目標として打ち出したが、もちろんこれは法的規制を避けたいがための自主規制。どこまで本気で国民の健康を考えているかには疑問が残る。
ま、私は私でできることをやっておこう。
参考資料)The Globe and Mail, Nov. 2, 2010
統計によれば、平均的カナダ人の1日の塩分摂取量は3400ミリグラム。Public Healthが勧める大人1日の塩分摂取量は1500ミリグラムというから、カナダ人の多くが2倍以上の塩分を摂取していることになる。また、摂取される塩分の80%は加工食品、パッケージ食品から来ているといわれる。とりわけ缶スープ、シリアル、パンやドレッシングなどに大量に使われている。
この「塩分消費過多」の問題は、ここ数年、カナダの社会問題として取り上げられるようになってきた。食品産業に塩分規制を求める市民グループの活動なども、メディアで頻繁に取り上げられた結果、カナダ政府のなかにも今後は食品産業に規制を求めるための法整備を整えるべきだという意見も見られる。
塩分が社会問題化している背景には、いくつか要因がある。ひとつは、塩分摂取量が増えれば病気が増えるわけで、最終的にはPublic Healthの問題として戻ってくる点。さらにはカナダはUniversal Healthcare(国民の基本的医療費を国が全額負担する制度)制度を採用しているため、国民の病気が増えれば国の財政を圧迫する。それゆえに国民の健康管理に国が介入する必要があるという点が要因としてあげられる。
さらに付け加えると、企業に対する欧米人の見方も関係していると思う。オーストラリアの研究者Linda Cobiac(University of Queensland)が率いるグループが発表した研究結果には、”Food manufacturers have a responsibility to make money for their shareholders, but they also have a responsibility to society. If corporate responsibility fails, maybe there is an ethical justification for government to step in and legislate” (食品企業は株主に配当を与えるという責任があると同時に、社会全体に貢献しなくてはいけないという社会的責任も負っている。企業が社会的責任を負えない場合は、政府はこの問題に介入し、法整備を整える倫理的正当性があるだろう)というくだりがある。こうした考え方は日本人にはちょっとピンとこないかもしれないが、企業の社会への利益還元、社会的責任という問題はすでに欧米の市民のあいだではノームになっている。企業も社会の一員として責任ある行動を取るべき、という考えは、企業の価値を計る大切な指針となっている。
こうした理解に押されて、数年前から外食産業や食品産業では自主規制の動きが活発になってきた。マクドナルドやWendy’sなども塩分はもとより、脂肪分やカロリーも減らしているし、パッケージ食品にも減塩を謳い文句にした商品が増えている。
料理する側から言えば、お料理をおいしくしようと思ったら塩分を増やせばいい。私の作る野菜ポタージュスープやカリーだって、もっともっと塩分を増やせば、レストランで食べるようなおいしさになると思う。ただ、家族のことを考えるとそれを毎日はできない。子どもが生まれてからというもの、料理に塩を使うのをためらうようになった。最初は赤ちゃんのため、と思っていたけれど、それを3年も続けていると、そのうちに私たちの身体が「塩分控えめ」の食事に慣れてきた。ちょっとの塩分で満足できるように味覚が慣れてきたのだろう。その一方で、レストランの食事の塩分、スープ、パッケージ食品の塩分に敏感になってきた。
私たちの舌は慣れた味を「おいしい」と思う。トロントに来たころはカナダのチョコレートが「甘すぎてまずい」と思った私だが、今では日本のチョコレートの方が嘘っぽい味がするようで口にあわない。味覚は環境によって変化するし、時間をかけてコントロールできるのだということを、私は塩分抜きの食事を作る経験から学んだ。社会全体が「減塩」傾向になれば、長期的には個人の味覚も変えることができるだろう。
しかし、一方では市民のひとりひとりが塩分を取りすぎるとどういうことになるのかという理解をする必要もある。市民の健康を国が管理するということには、実は多くの問題がある。とくに、この影響のため、ここ数十年間のあいだ、自分たちの健康には自分が責任を持つ、という態度が国民のあいだから消えていってしまっているように思う。それは私たちが食生活を変えるとか、エクササイズをするとか、ものごとに対する態度を変えるとか、私たち自身が健康をコントロールするカギを握っているという理解がなくなっていったからではないか。健康が損なわれたら、薬や医師に頼ればいいという他人任せの態度になっているからではないか。
国民すべてが国によって基本的医療費をカバーされるUniversal Healthcareは、貧富の差なく同じ医療手当てを受けられるという社会福祉のアイデアとしてはすばらしいものだと思う。しかし、私にしてみれば食事の献立に気をつけたり、加工食品は買わないとか、そういう態度で生活している私たちの税金が、1週間に何度もマクドナルドのバリュー・セットを消費している人の医療費をカバーしなければならないのかと、腑に落ちない気分になることもある。
カナダの食品・外食産業は、2016年までにカナダ人の塩分消費を2300ミリグラムまでに減少させることを目標として打ち出したが、もちろんこれは法的規制を避けたいがための自主規制。どこまで本気で国民の健康を考えているかには疑問が残る。
ま、私は私でできることをやっておこう。
参考資料)The Globe and Mail, Nov. 2, 2010
Sunday, November 7, 2010
N.S.man convicted in cross-burning(Globe and Mail, Nov.6, 2010)
今年2月、東海岸に位置するノバ・スコシア州の小さな町で起こった事件が、カナダ全土を震撼させた。その事件とは、この町で唯一の黒人であるシェイン・ハウとパートナー(白人女性)の家の庭で十字架が焼かれた事件である。カップルは”die nigger die”という叫びで目を覚ましたという(niggerは差別用語)。その後、若い男が数人逮捕されたが、この記事によると裁判において彼らのhate crimeに対する有罪が確定したという。
記事中のコメントにあるように、何も裁判までしなくてもこの事件はhate crime(特定のグループに対する憎悪をかきたてる行為を行った罪、ちなみに日本の法にはhate crimeは定められていない)に決まっている。「十字架を焼く」といえばKKK(クー・クラックス・クラン)のお決まりであって、黒人排斥運動(というか黒人殺害)に強力なイニシアチブととっていたKKKを真似たこの卑劣な行為は許されるものではない。
今回と似たような事件は、いまだマルチカルチュラリズム(多文化共生)を誇りとするカナダにおいて時折起こっている。こうした事件が起こるたびに、トロントに住んでいてよかった、と思う。今回の裁判でも、コミュニティの一部はシェイン・ハウをサポートしているというが、大部分はサポートしていないらしく、家族は今後の報復の可能性を恐れている。アジア系としては、やっぱり小さな村や町には住みたくない。
この記事で私が最も感銘を受けたのは、他の民族グループからのサポートである。カナダのエスニックコミュニティではユダヤ系がその先端にあるが、またしてもCanadian Jewish Congress(CJC)のCEOであるBernie Farberがこの判決に対するサポートを表明していた。私はいつも、多文化主義が真に機能し、ポジティブな結果へと動いていくためには、エスニック・コミュニティの役割が欠かせないと思っているが、人種差別に対する闘いのフロントラインにCJCがいることを知るたびに非常な安心感を覚える(本当は、政府から過去に受けた人種差別的待遇に対するリドレスを勝ち取った日系コミュニティもこの役割を担うべきである)。
一方、私がムッときたのは、有罪判決を受けた若者の家族の「若いときにはばかなことをやるものだよ。こんなに大きな事件にせず、もう一度チャンスを与えてあげることが大切じゃないのか」というコメント。問題の本質がわかってない。自転車泥棒と違って、これは意図的にある人種のグループ全体を対象にし憎悪をかきたてている、大事件なのだ。若くてもこの罪は決して軽く扱われてはならないし、それが今回の裁判でカナダが国民全体に送った大切なメッセージなのである。
記事中のコメントにあるように、何も裁判までしなくてもこの事件はhate crime(特定のグループに対する憎悪をかきたてる行為を行った罪、ちなみに日本の法にはhate crimeは定められていない)に決まっている。「十字架を焼く」といえばKKK(クー・クラックス・クラン)のお決まりであって、黒人排斥運動(というか黒人殺害)に強力なイニシアチブととっていたKKKを真似たこの卑劣な行為は許されるものではない。
今回と似たような事件は、いまだマルチカルチュラリズム(多文化共生)を誇りとするカナダにおいて時折起こっている。こうした事件が起こるたびに、トロントに住んでいてよかった、と思う。今回の裁判でも、コミュニティの一部はシェイン・ハウをサポートしているというが、大部分はサポートしていないらしく、家族は今後の報復の可能性を恐れている。アジア系としては、やっぱり小さな村や町には住みたくない。
この記事で私が最も感銘を受けたのは、他の民族グループからのサポートである。カナダのエスニックコミュニティではユダヤ系がその先端にあるが、またしてもCanadian Jewish Congress(CJC)のCEOであるBernie Farberがこの判決に対するサポートを表明していた。私はいつも、多文化主義が真に機能し、ポジティブな結果へと動いていくためには、エスニック・コミュニティの役割が欠かせないと思っているが、人種差別に対する闘いのフロントラインにCJCがいることを知るたびに非常な安心感を覚える(本当は、政府から過去に受けた人種差別的待遇に対するリドレスを勝ち取った日系コミュニティもこの役割を担うべきである)。
一方、私がムッときたのは、有罪判決を受けた若者の家族の「若いときにはばかなことをやるものだよ。こんなに大きな事件にせず、もう一度チャンスを与えてあげることが大切じゃないのか」というコメント。問題の本質がわかってない。自転車泥棒と違って、これは意図的にある人種のグループ全体を対象にし憎悪をかきたてている、大事件なのだ。若くてもこの罪は決して軽く扱われてはならないし、それが今回の裁判でカナダが国民全体に送った大切なメッセージなのである。
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