Sunday, May 29, 2011

'Butcher of Bosnia' ラトコ・ムラディッチ逮捕される

Butcher of Bosniaと呼ばれるラトコ・ムラディッチがボスニア=ヘルツェゴビナ紛争から16年経った2011年5月26日、ついにセルビア当局によって逮捕され、ICC(International Criminal Court)へ送られることになった。ムラディッチはボスニア=ヘルツェゴビナ紛争でボスニア=セルビア軍の指導者として、少なくとも7500人のボスニア系イスラム教徒の虐殺および女性に対するレイプを主導したとされる。

第二次世界大戦後、ヨーロッパを襲った最悪の虐殺はボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の際に起きた。とりわけスレブレニツァはイスラム系およびクロアチア系に対するエスニック・クレンジングの場所となった。

16年経ったムラディッチが今まで逮捕もされず、法のもとに裁かれることがなかった背景には、世界では戦争犯罪の責任を課せられ、人間性に対する罪を問われていたムラディッチが、旧ユーゴスラビアのセルビア系からはヒーローのようにあがめられていたことが背景にある。実際、ムラディッチの居場所や行動はセルビア当局にはちゃんと把握できていた。ムラディッチを目撃したという声も頻繁に聞かれ、ムラディッチがまったく普通の市民として生活していたことも知られていた。ただし、セルビア系のあいだにはムラディッチに対する支持は強く、たとえば、先月の調査によると51%のセルビア系市民がムラディッチのハーグ送還を支持しないと答えていた。

こうした背景もあり、セルビア当局は時期を選ぶかのように、こうして長い間、ムラディッチを自由に泳がせていたが、ヨーロッパ連合(EU)への加盟はセルビアの長年の念願であり、その条件としてムラディッチのハーグ送還は不可欠だった。

ムラディッチに直接会ったというジャーナリストの記事を読んだ限り、横暴で傲慢なプロフィールが描かれているが、昨日逮捕されたムラディッチの姿にはそうした様子はまったくなく、痛みに苦しむ弱々しい老人という変わり様だった。

数ヶ月前はチリでアレンデが逮捕されたという記事を読んだ。こうして時間はかかっても正義がなされることは大切だと思う。

アーナ・パリスの「歴史の影」を翻訳したとき、彼女の言っている「不処罰は人々の心を荒ませる」というのに強く共感したものだ。自分が暮らす社会で不処罰が堂々とまかり通っているのを見れば、人々はルールを守らないことを何とも思わなくなってしまうし、将来に対する希望が持てない。そして、人々の心は荒み、国家は内部で崩壊してしまう。正義がなされる社会でのみ、人々は明るい展望を持てるのであり、社会正義は健全な国家にとっては基盤のようなものだと思う。ムラディッチの逮捕およびハーグ送還により、セルビアは確かに過去に終止符を打つための一歩を踏み出したのであり、今後は和解に向けたプロセスを始めるきっかけになるであろう。

Saturday, May 28, 2011

OECDによるBetter Life Indexを見比べる

パリでサミットが行われている期間中、パリを拠点とし、各国の財政予測や経済政策のアドバイザーとして知られるOECDは、居住環境、保健、統治、仕事と生活のバランス、環境や満足度などの指標をもとに加盟34カ国Better Life Indexを発表した。これまで、GNPをはじめとする経済指標で先進国を測ってきたOECDもここにきて、経済以外の指標を使って各国の状況を把握しようとしているようだ。

以下は私がOECDデータをもとにまとめたカナダと日本の比較表。Referenceは
http://www.oecd.org/document/63/0,3746,en_2649_201185_47912639_1_1_1_1,00.html

              OECD平均     カナダ      日本
年間収入         22284 USD    27015 USD   23210 USD
雇用率          65%         72%       70%
年間就労時間      1739時間      1699時間   1714時間
就労している母親    66%         71%      66%
24~64歳:高校卒業率 73          87       87%
読解力(PISAプログラム) 493        524      520
平均寿命         79歳         80.7歳     82.7歳(最高)
大気汚染         22マイクログラム 15       27
セイフティ・ネット     91%        95%      90%
投票率           72%        60%      67%
「人生は上々だ」(満足度) 59%      78%      40%

私の知っている日本とカナダのデータを比べてみると、私の実感とはかなりずれている部分があるように思う。たとえば、年間就労時間をみると、日本はOECDのうちでも平均以下となっているが、私の実感では残業などを考えると、とても平均以下であるとは思われない。さらに、「就労している母親」指標で、日本はOECD平均の66%、カナダは71%だが、私の実感では、同じように「就労している母親」のカテゴリーに含まれればそうなのだが、カナダではフルタイムで働く母親が多いものの、日本ではパートタイムが圧倒的に多いように思う。

しかし、最後の「人生に対する満足度」の日本の低さはちょっと悲しい。経済的なことをいえば、日本は明らかに平均を上回っているのに比べ、この数字は何だが非常に意味深だと思う。バングラデッシュ出身の友人が私に、「世界で最も不幸せだと思っている国民は日本人」と言っていたのを思い出す。彼は、自分の国は経済的には非常に問題があるけれど、人々はそれぞれの人生を幸福だと感じていると言っていた。私はこういう十羽一絡げ的なコメントは避けたいが、40%というのはちょっと信じ難い。

私の思う「日本に足りないもの」を書き出してみる。
• 政治や社会に対する信頼感
• 人々が将来に希望をもつための公正で開かれた社会
• Diversity/多様性 (社会的多様性というのだろうか。人口だけでなく、意見の多様性や、選択の多様性など。そのためには社会がオープンでなくてはならない)
• 個人と社会をつなぐネットワークの確率

カナダと日本に暮らした私の実感では、以上のようなものが日本にあれば、日本はもっとすばらしい国になると思うし、そうなってほしいと願っている。

Saturday, May 14, 2011

世界の都市へと広がるSlut Walk

2011年1月24日、ヨーク大学法学部の女子学生に向け、女性の安全性に関する講演が行われた。そのなかで、スピーカーのひとりであったトロント市警察の警察官が言ったとされる言葉"women should avoid dressing like sluts in order not to be victimized."(性的犯罪に巻き込まれないためには、slutのような服装はしないこと)をめぐっては大きな展開があった。

Slutというのは、売春婦とか尻軽女とかいう意味で、軽蔑の意味が含まれている。新聞やラジオでは「時代遅れもはなはだしい」として、被害者である女性を性犯罪の理由であるかのように仕立て上げる考え方を批判し、この警察官に対して「過去50年間、この警察官はどこで何をしていたのだ」と、いまだ社会の変化に気付いていない彼のような市民に厳しい批判の矛先を向けると同時に、警察をはじめ企業などに隠れて存在している女性に対する蔑視感にも言及した。私の知る限りでは、この件に関しては警察官の言葉を擁護するような意見はメディアではまったく見られなかったし、この問題を「一人の警察官の問題」としてではなく、広く社会全体に未だ隠されている問題として取り上げ、多くの市民の声を吸い上げることが可能になったのは、カナダのジャーナリストたちの力量の現れだと思う。

こうした反応を受けて、トロント市警察、当の警察官はただちにヨーク大学に対して謝罪の手紙を送ったが、女性に対する性的暴力、ターゲットにされる女性に性犯罪の責任を転嫁するこうした考え方に対して非常に強い関心と批判はおさまらず、4月上旬、トロント市内でSlut Walkというデモが組織され、slutを思わせる服装の女性たち、男性たちも参加して大規模のデモ行進が市内でなされた。蔑視の意味を持つ言葉を自らのものとして使うやり方は、その言葉に対する強烈な批判となりえることは、黒人が過去、証明している。

さらに興味深いのは、その後、このSlut Walkは5月7日のボストンをはじめ、世界60都市に飛び火したことだ。Face bookやTwitterなどのソーシャル・メディアを使って、女性の権利をうたう組織が、世界中で連携する動きを見せた。今後数週間のうちに(5月中)アムステルダム、ロンドン、シドニー、オースティンなどの都市でも同じ目的のSlut Walkが予定されている。日本ではどうなのだろうか?

Slut Walkをめぐる一連の動きに対して批判が出ているのは実は一部フェミニストからであるというのも面白い。批判のひとつは、こうしてSlutの格好で楽しそうに歩くのは性犯罪の被害に遭った女性たちに対して、レイプの持つ意味を軽く見せることになるというもの。また、一方では、好きな服装で歩く女性の権利は当然あるとしながらも、さらにはレイプの責任は完全に加害者側にあると認めながらも、わざと露出度の高い服装をしている女性に対して警戒感の低さと男性の欲望に沿うような役割を自ら果たしている点を指摘する批判もある。

この際、ついでに言うと、少なくとも北米社会がどんどんSexualizeされている傾向にある点も指摘されてしかるべきだと思う。昨日の新聞では、10歳以下の女の子の洋服が、ここ数年、よりセクシーになってきているという記事を読んだ。これも女性をセクシュアリティの対象として捉える動きを加速する一例だと思う。また、Lady GagaやAmy Winehouseなどのセレブリティも、一方では女性に対する一般概念を壊したクリエイティビティは評価されるべきだと思うが、同時にこうした資本主義システムに乗せられて、女性がそのアイデアを自ら買ってしまったことは大きな問題となっていると思う。そう書いてきて、今、私の頭のなかを占めているのは、ポルノの氾濫する異常ともいえる日本社会のことだが、そのことはまた項を改めて後日書きたいと思う。

Monday, May 2, 2011

カナダ総選挙(2011)とカナダ政治の傾向

http://www.theglobeandmail.com/news/politics/new-political-era-begins-as-tories-win-majority-ndp-seizes-opposition/article2006635/

まだ開票作業は続いているが、どうやらConservative(保守党)が3期目の政権をとり、さらにはMajority Governmentになる見通しが高くなっている。NDP (新民主党)は第2党に躍進、公式に野党第一党となった。惨敗を被っているのはLiberal(自由党)とBQ(Block Quebecoise)。

Conservativeはキャンペーン中に「過半数はないだろう」と自ら宣伝し、国民の票が保守的な経済政策を求める国民の票がNDPに流れるのを防いだように見える。なかなか小ざかしいやり方だ。

ハーバード大学の職を辞して自由党に加わり、党首として今回の選挙に臨んだマイケル・イグナティエフは、自らの議席すら確保できるかどうかわからない接戦を強いられている。イグナティエフの退陣は確実だろう。自由党ナンバー2のボブ・レエは私の選挙区(ローズデール)でまあ楽勝しているが、きっと彼が自由党を率いていくことになるに違いない。

ケベック州の独立をうたうBQ(ブロック・ケベコワ)の党首ジル・デュセッペも自らの議席をNDP候補に譲り、彼の今後も退陣しかないだろう。

ジャック・レイトン率いるNDPの躍進には目を見張るものがあった。今のところ手に入る情報をもとにすれば、NDPはケベックで票を伸ばし、これまでBQに流れていた票を確保したように見える。NDPは興味深いことに、ケベックの(カナダからの独立)を前向きに受け止める声明を発表したこと、また、ケベコワ(ケベック人)の歴史的に保守系政策に対する嫌悪感をから、「何としても保守党だけは避けたい」という意思表示と見える。

そうなると、今後、注目したいのは、自由党Liberalと国民民主党NDPとの連立政権の可能性だ。次期党首となるだろうボブ・レエはもともと国民民主党のオンタリオ州議会議員で、NDPが州政権をとったときには党首として、オンタリオ政府の州知事として画期的な政策を敷き、いくつかは成功したが、社会福祉にお金をつぎ込んで州政府を多大なDeficitの状態に追い込んだ。そのことから、オンタリオ州ではFiscally conservativeな市民の間では不人気だが、彼とNDPの間で連立の動きを探ることは可能だろう。

ヨーロッパでもそうだが、カナダでは人々がFiscal conservatismになっている傾向があるように見受けられる。これは私がカナダに来た12年前と比べて、カナダ人の政治意識における最も大きな変化だと思う。Fiscal Conservatismの日本語が何なのか思い出せないが、これは、小さな政府(国営企業の私有化)、税金は抑える、社会福祉には消極的、ビジネスに甘い・・・などの特徴を有し、そのため、資本主義の恩恵を被っている人、とりわけビジネス分野の人たちから支援される傾向にある。この傾向が進むにつれ、教育や社会福祉、移民向けサービスなどに力を入れてきた自由党Liberalは票を失ってきた。

しかし、アメリカとの違いとして、財政政策では保守化しているカナダ人も、やはり社会的な保守化(Social conservatism)はしていない点は重要なポイントだと思う。たとえば、「中絶反対」とか「キリスト教」とか「犯罪は徹底的に処罰する」という政策は大多数のカナダ人には受け入れ難い。やはり社会的には自由主義なのだ(Social liberalism)。

話が広がってしまったが、しかし、しかし、本当にこれは大変なことになった。今後、過半数を確保した保守党政府は今まで以上に経費削減や社会福祉の予算をカットするだろう。夫の大学も影響を受けないわけがないし、とりわけ人文系は予算を削られるだろう(彼らはマネジメントやビジネス、サイエンスには喜んでお金を出すんだが・・・)。移民向けサービスなどの予算も今まで以上に削られるだろう。ここはひとつ、野党第一党となったNDP、好感度ナンバーワンのジャック・レイトンにがんばってもらいたい。

殺人を犯す国家・殺人を喜ぶ国民

カナダでは総選挙投票日の今日、Star紙、Globe紙のヘッドラインはOsama Bin Laden Dead。ホワイトハウスの前ではビン・ラディンの死を祝福する国民の姿があり、イギリスやカナダの政治指導者たちも歓迎する声明を発表した。唯一、ロシアの大統領だけがアメリカの報復に疑問を呈した声明を出している。

Globe紙の別の記事は、NATOの爆撃でガダフィの6番目の息子が死亡したと伝えている。ガダフィは助かったとしているが、明らかに彼を標的にした空爆である。今後も空爆が続き、標的が的中すればガダフィの命もないだろう。

このふたつの記事を読んで、何とも気味が悪くなった。私はビン・ラディンやガダフィの息子に同情しているのではない。国家による個人の殺人がこんなにも簡単になされてしまう現実を前に驚愕の念を隠せないのだ。

どちらの記事も、最も容易な表現を使えば「国家が他国の個人を殺害した」ということであり、そう考えるとこの意味は非常に深長である。たとえビン・ラディンが大量殺人を首謀したとするならば、民主国家としてまずは司法のもとに犯罪を裁くのが当然の過程となるだろうが、このケースは最初から(9・11の前から)アメリカ政府により「テロリストによるアメリカへのテロリズム」であると繰り返し繰り返し戦略的に叩き込まれてきたため、こうしてひとりの人間が殺されたところで、私たちの誰も悲しみはしないし、それどころか祝福などしているのだ。アメリカ政府は、長い間、自分たちの戦争をJust War(正義の戦争)と位置づけており、自分たちの正しさを疑うことはなかった。自分たちが正しければ、それに反対する勢力はすべて「悪」となるのだ。その構図を叩き込まれた国民にとっては、「悪」の権化とされた一人の人間の死など何ほどでもないわけである。冷戦時代のアメリカは実は同じことをしていた。

一方で、今朝、CBCのラジオで9・11の当日、WTCで働いていたビジネスマンの父を失ったカナダ人女性が「Bin Ladenの死をどう受け止めるか」とのインタビューに答えて、「これ(ラディンの死)で気持ちが楽になったということはない。私にとっては、父が死んだことで誰かを憎むようになることは、テロリストの思う壷だし、自らが苦しむことになる。だから、そういう捉え方はしない。今日のことがどういう意味を持つかと言われれば、今は分からない」と答えていた。

ビン・ラディンの死で世界が安全になったなどとはいえないし、むしろ今後、イスラム教原理主義者による更なる報復も考えられる。そして、アメリカの敵のリストは永久に続いていく。ビン・ラディンの殺害は、アメリカにとっては何にもまして「正義がなされた」という象徴的意味を世界に見せ付けることであったに違いない。

国家がこのように個人の殺害を主導する世界に、平和という言葉は何の意味もなさないような気分になる。ただし、自分の機軸をもとに考えれば、こうした状況を気味の悪い現実として声を挙げるべきだと思うし、民主主義社会に住む私たち国民ひとりひとりが国家によるプロパガンダを跳ね返すだけの批判能力を有する努力を常にすべきだと思う。

Saturday, April 30, 2011

「がんばれ、日本、がんばれ東北」をやっている場合なのか

最近、「がんばれ日本」でチャリティーをやっているのを見ると違和感を覚える。トロントでもまだまだ震災復興に向けたチャリティーをやっているが、私はその「がんばれ」に共感できない。どうしてなのか、私もはっきりとは言えない。

何となく感じるのは、今回、本当に日本人が考えなくてはならない、日本人の眼前に突きつけられた問題を考えるところまで、彼らの思考が深く達していないからなのだということ。震災からの復興は比較的短期になされるだろうが、今後何十年にもわたって問題になるのは、原発事故関連の環境問題、はっきり言えば食品汚染、大気・海洋汚染に因を発する日本人の健康への被害だと私は思っている。福島県内の年間被曝限度量は、国民の健康より政権継続か「当面の事なかれ主義」を選んだ政府によって引き上げられたと聞く。Globe紙の記事では、今後、日本での発ガン率は増えるだろうとあったし、とりわけ子どもの発病率の増加は世界中の研究者がモニターし続けることだろう。

また、今後、同じ規模の地震が起こらないと言えない状況で、原子力発電に関する議論がほとんど起きていないことも私には信じがたい。

今まで私がかき集めてきた状況を元に判断すると、今回の地震の被害は最低限だったということだ。地震対策には万全を期してきたと日本政府は言うが、それは信じてよいと思う。ほとんどの人が津波被害で命を落としている。津波に関しては、堤防を築くということをしていたようだが、それで防げるような規模の津波ではなかった。警報が鳴って津波が来るまで40分あったというが、その間に市民が逃げられる緊急体制を整えておく必要がある。これは、インフラだけでなく市民の教育がカギになると思う。どういう経路で逃げるのか。病人や老人たちはどう避難するのか、そういう具体的な計画を、沿岸地域の市町村は、市民に今後、示していく必要がある。最後に、最も長期的被害を与えるであろう原発事故に関しては、最も有効な安全対策は、あきらかに「原発を持たない」という選択をすることだ。もちろん、すべての原子炉を同時にシャットダウンするのは現実的ではないが、日本政府はこれから真剣に、原発に依存しないエネルギー資源の確保を段階的に実行していく必要がある。

こうした議論を深めないまま、「がんばれ」ということに、私はイラッとしているのかもしれない。

一方では、被災者に「がんばれ」という言葉をかけることに違和感を覚えている。私だったら、「がんばれ」なんて言われたくない。では、何が有効なのかと言われればこれだ、とは言えないのだが、「がんばれ」だけは、どうも何か匂うのだ。どうも何かが胡散臭いのだ。

Sunday, April 24, 2011

国際交流基金の震災に関するパネル・ディスカッション:報告 


Nikkei Voice(2001年4月号)掲載

 東北大震災から12日を経た3月23日、国際交流基金(トロント)において「2011年東北・関東大震災:現状と復興への見通し」と題したパネル・ディスカッションが開催された(英語)。

鈴木所長の説明にもあったとおり、3月11日の震災を受け、国際交流基金ではオリジナルのタイトル(Japan as a “Normal Country?: A Nation in Search of Its Place in the World”)を東北・関東大震災と復興政策に関するディスカッションに急遽変更、会場には多数の参加者が詰め掛けた。

まず、デイビッド・ウェルチ教授(ウォータールー大学)が、「今回の震災では甚大な被害が出ているが、日本は驚くほど早い復興を果たすだろう」という楽観的コメントを出したが、同様の眺望は(今回の地震を実際に経験した)3学者にも共通していた。

田所教授(慶応義塾大学)は、阪神・淡路大震災(1995年)と東北大震災を比較し、死亡原因の多くが火災であった阪神大震災に比べ、今回は津波が大きな原因となったこと、東北沿岸では阪神・淡路大震災の教訓を活かし、護岸工事や建築基準の引き上げなどのインフラ整備がなされていたことを挙げ、それにもかかわらず今回の地震は予想以上の規模だったと説明。メディアではあまり取り上げられることはないが、建物の耐震基準、東北新幹線ほか鉄道システム、自衛隊の早期動員および救助活動、ボランティア活動など、うまく機能した点もあったことを強調した。一方で、うまくいかなかった点として、福島第一原発事故における人為ミス、緊急安全対策などの危機管理体制の問題、援助物資ルートの整備および市民による買占めなどを挙げた。

さらに、海外では原発事故に関する話題がことさら取り上げられたことから、日本在住の外国人のあいだでパニックが広がった例を挙げ、一方で日本の報道は原発のみに絞られることなく、それが日本人の冷静な態度につながったと説明した。また、今回は、関東大震災時の「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といったデマや流言は出てはいないことを付け加えた。

最後に、震災後、海外メディアでは日本人の地震への対応を「冷静・沈着」という言葉でくくり、これを「日本人的態度」(個の欠如、集団主義など)としていることをふまえ、それらがたとえポジティブなものであってもカリカチュアである点を指摘した。

添谷教授(慶応義塾大学)もまた、自身の経験をもとに、日本人の冷静な対応を強調しながら、国内メディアの報道に関して、テレビ局が被災地に出向き、実際に被災者のニーズを問い、彼らの声を伝えたこと、また、田所教授と同様、海外メディアや海外政府から情報集めをしていた関東地方の外国人の対応を例を挙げて説明したうえで、バランスのとれた国内報道によって、日本人の冷静な態度が保たれたと推測する。

また、震災時および後の管首相のリーダーシップの欠如、さらに日本政府の構造的欠陥は、大規模災害に直面してそれを乗り越えようとしている日本国民の前向きな態度とは対照的であるとコメントした。

さらに、今回の震災に対する諸外国の対応に、日本に対する距離を見ることができるのではないか、と提案。韓国および中国政府が率先して援助を申し出たこと、日本でも人気の韓国映画俳優たちも積極的に支援を呼びかけている例などを挙げた。一方、西洋メディアにおける報道は、日本政府に対する強い不信感の表れと見ている。

木村教授(渋沢栄一記念財団研究部長)も同様に「国民の間にパニックはなかった」と主張し、自然災害に対する日本人の考え方として天譴論と運命論について説明した。前者は「天災は天が下した罰」とし、自然災害を将来を改良するためのチャンスであると見る一方、後者は「運命だから仕方がない」と、どちらも自然災害は防ぎようがないという自然に対する人間の無力さが根底にあると指摘した。

また、1775年のリスボン大震災が人間の考え方を大きく変えたこと、関東大震災(1923年)後にも、その後の政治の方向が定まった点、西洋からすぐれた技術を取り入れ、東京を設計し直す契機となったことなど、今回の震災によって日本社会および政治が改良される可能性を強調していた。

目下、海外メディアが最も注目を集めているのは福島第一原発事故。ウェルチ教授は、「メディアは原発被害を誇張しているが、日本が今回のことで原発を中止し、他の電力供給源に頼るようなことになれば、より大きな被害が出る」と指摘し、チェルノブイリ原発事故とは規模が違う点、被害者の数などもこの規模での地震では少ないことなどを他の災害と比較して説明した。

各パネリストの主張は、今回の災害は未曾有の大災害ではあったが、これを機に停滞していた日本経済や政治に風穴を開けるチャンスでもある、という点で一致し、復興への可能性と期待を示唆した。

実際に地震を経験したパネリスト三人の話は、日本社会の対応が具体的に知れて興味深く、また、短い準備時間にデータや統計を用意して分析したウェルチ氏の話にも説得力があったが、一方では、被害がすでに出終わったかのような楽観的主張には疑問を感じた。さらに「海外メディアは原発一点に的を絞った一方、日本メディアは国民の恐怖を煽らないようなバランスの取れた報道をした」という主張は、(もちろんそうだとうれしいが)福島原発の状況が刻々と深刻化する現時点では、まだ判断がつかないのではないか、との感想を否めなかった。

Saturday, April 16, 2011

オンライン版の読売新聞の記事

Online Yomiuriより引用。 太字は筆者。

東日本大震災後、日本を訪れる外国人観光客らが激減し、ツアーなどのキャンセルが相次いでいる。読売新聞のまとめでは、少なくとも約8万人の外国人が宿泊や訪問を取りやめ、海外からの飛行機運航も中止に。観光地からは「原発事故の風評被害だ」など、悲鳴にも似た声が上がっている。http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110416-OYT1T00912.htm

被災地だけでなく、西日本の観光地などでも外国人観光客のキャンセルが相次ぎ、国内の観光産業は大きな打撃を受けている。海外メディアなどが、原発事故を実態よりも大げさに伝えたのも、一因とみられる。政府が新成長戦略の柱の一つに据えた「観光立国」構想も、大幅な見直しが避けられない情勢だ。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110407-OYT1T00129.htm?from=nwla

こんなときに観光客が減るのが「風評被害」だという観光地のコメント・・・。最大級の地震、いまだ続いている余震、さらには放射能汚染水を海洋に流し、大気中の放射線レベルをはっきり示さない政府・・・と、こんな国に誰が観光などしようと思うだろうか。絶対に行かなくてはならない、というのでなければ、誰だって今日本になど行きたいとは思わないのは誰もが当然理解できることだろう。政情が安定しなかったり、内戦が起こっていたりする国に誰も行きたいと思わないように、放射能被害にあう危険性のある国、放射能汚染された食品を食べなくてはならない国は避けようとするのが当然ではないか。観光産業は結局のところ現地がどんなに努力してもうまくいかないときはうまくいかない、かなり依存的な産業なのだ。さらには、日本では「風評被害」という言葉ですべて片付けようとしているような傾向が見られるが、このあたり、少なくともジャーナリズムには、もっと深い洞察をお願いしたい。

次。「海外メディアなどが、原発事故を実態よりも大げさに伝えた」というのはどこに根拠があるのか。私に言わせれば、日本メディアが事実を伝えようとする姿勢すら持っておらず、政府やTEPCOの言葉を(ジャーナリズムの基盤であるべき)批判精神もなく鵜呑みにしている状況に、「海外メディア」に責任を着せるというのは、全くもってもってのほかだと思う。

Thursday, April 14, 2011

被害者から加害者へ-震災と原発事故

今回の震災後、私が日本人だと知っている友人・知人は、日本にいる私の家族の安否を心配して電話をくれたりメールを送ってくれたりしていた。すべてが「こんなに悲惨なことが起こってしまって日本に対して同情を感じる」というものだった。

それが、ここ数週間、微妙に変わっているような気がする。今日、エレベータで偶然会った女性は、私が日本人だと知ると、「日本で今起こっていることは信じがたい(unbelievable)。あんな原発事故は絶対にあってはならない」と言った。私を個人的に非難したわけではないことは口調からわかったが、私自身、これは身にこたえた。

実は、数日前もカフェに行って座っていた私の向こうで、男性同士が話をしていてそれが耳に聞こえてきたのだが、「日本は汚染を世界中に垂れ流している」という話をしながら「無責任な国だ」と日本政府か日本国民を批判していた。私はこれを聞きながら本当に日本人として申し訳ないという思いと、日本人としての悲しみに胸がえぐられるようだった。

震災後、トロントの日系コミュニティではそれぞれのグループがチャリティ・イベントを組織・開催して、カナダ人から莫大な寄付金を得て、それをカナダ赤十字などのチャリティ団体に寄付してきた。私も微力ながら、私の住んでいるトロント大学家族向けレジデンスでチャリティ・イベントを企画し、開催した。今でも、そういう寄付イベントを続けている団体があるようだが、私はここにきてすでにその気持ちを失っている。震災に関しては日本人は被害者であったが、原発事故に関しては放射能汚染を大気圏、海洋に撒き散らす加害者になり、立場が逆転している。被災者にとっては信じがたいだろうが、私の住むトロントをはじめ、海外に住む(海外の報道を日常的に目に、耳にしている)人たちには、日本は「同情に値する震災被害国」のイメージ以上に「放射能汚染国」とのイメージを強くしている。

先日、聞いた「無責任な国だ」という男性のコメントは私の心を暗くしている。それは、「無責任な国民だ」と言われているも同然だ。少なくとも政府は事実を隠蔽することなく正確に発表し、メディアも批判精神をもって報道にあたってほしいと切に思う。

オンタリオ州でも放射線量数値が上昇

Ontario radiation levels up but officials say there’s no danger (Toronto Star, April 13)

4月12日、オンタリオ州は日本での福島原発事故以来、オンタリオ州での放射線量レベルがわずかに上昇していることを発表した。市民の健康への影響はないという。オンタリオ州は大気、水道水、食品の放射線量は定期的に測定している。アメリカの州でも放射能量レベルが上昇、一部の州では放射線物質ヨウ素131が牛乳、水道水、雨水から検出されたことから、カナダでも州政府が警戒すべきだという意見も強い。

2010年の1日平均の放射線量は0.28マイクロシーベルト、2011年4月10日では0.30、4月9日では0.27マイクロシーベルトだった。オンタリオ州には、Pickering、Darlington、Bruce、Chalk Riverに原子力発電所があり、食物や水中、大気圏で放射線量を月単位で測定している。

Wednesday, April 13, 2011

「7」の真意は?

今日のGlobe誌の記事を読んだ。
日本政府は、福島第一原発事故を国際的な原発事故の尺度で最悪の「7」に引き上げた。

報道によれば、福島事故の放射線物質の放出量は、現時点でチェルノブイリの10分の1であるらしいし、原子炉が稼動中に爆発して、大量の放射線物質を放出したチェルノブイリとは違い、福島では原子炉はシャットダウンしている。これまで福島原発からのヨウ素131の放出量は、370,000~630,000テラベクレルで、チェルノブイリの5.2millionテラベクレルと比べようもない。

では、どうして日本政府は7に引き上げたのだろうか。それがよくわからない。今後も放射線物質が放出される可能性は否めないし、チェルノブイリの原子炉は1基だったのに比べ、福島では問題の原子炉が4基もある。今後、状況が悪化する恐れを鑑みての7なのだろうか。

一方では、IAEAや原子力推進派はこの最悪の評価が「今後の原子力推進に歯止めをかける」と嫌悪感をあらわにしている。

個人的にはチェルノブイリと同等とは思わないし、まだ被害の全容が明らかになっていないこの時点で7というのは理解できないが、原子力推進に歯止めをかける目的であれば大いに歓迎したい。

Monday, April 11, 2011

なぜ過去を水に流そうとしないのか

「日系の声・Nikkei Voice」2005年10月号掲載
ウクライナ系カナダ人に対する戦後補償に寄せて

2005年8月24日は、リドレス(補償)問題に関心を寄せるカナダ市民にとって記念すべき日となった。この日、ポール・マーティン首相が第一次大戦中に強制収容所に送られ、公民権を剥奪されたウクライナ系カナダ人に対して公式謝罪を提供したのである。

今回の利ドレスが1988年の日系カナダ人の場合と違っている点は、犠牲になった現在の生存者が1人であること、最初から補償金や公式謝罪を求めていなかった彼女の意思を受け、ロビー活動をしてきたウクライナ系カナダ人コミュニティも補償や謝罪を求めてはいなかったことである。現在97歳になる彼女が唯一求めていたのは「カナダ人の記憶のなかにこの出来事が刻み込まれること」だった。

記憶を刻むこと。記憶を継承させること。これこそ、あらゆるリドレス運動が求めているものである。殺された人は2度と帰ってこないのだし、奪われた人生を取り戻すことは決してできない。その意味では、過去の非道に対する完全なる正義は究極的には有り得ない。唯一できることは、司法手続きによって加害者に法的責任を負わせること、そして、過去の不正を認めて記憶を後世に伝えていくという部分的正義の獲得に他ならない。

近年、リドレスを求める動きに追随して、過去を明らかにしようという運動が国際的に勢いを増しているように見える。旧ユーゴスラビア、およびルワンダのジェノサイドに対する国際戦犯法廷設置をはじめ、今年1月6日には、クー・クラックス・クラン(KKK)の元リーダーで、1964年に3人の公民権活動家を殺害したとされるエドガー・レイ・キルン(79歳)が逮捕された。また、チリ最高裁判所は少なくとも5000人の殺人・行方不明者の責任をもつとされる元独裁者アウグスト・ピノチェト(89歳)に対する免責を拒否し、裁判への道を開いた。

キルンおよびピノチェト裁判は、どちらのケースも事件からすでに30年以上の年月が経っているうえ、裁かれようとする人たちはいつ亡くなってもおかしくない年齢である。クランの元メンバーは「なぜ、今になって高齢者の過去を追及しようとするのか」とコメントしているし、ピノチェトは1998年『ニューヨーカー』誌のインタビューに答えて次のように述べている。「訴訟など終わりにしようではありませんか。最善の方法は黙って忘れることですよ。そして、忘れようとするなら、訴訟を争ったり、人々を刑務所に放り込んだりすべきではないのです。・・・重要なのは忘れることであり、双方が過去を忘れて今まで通り生活を続けることです」。

それは「なぜ、過去を水に流そうとしないのか」という、あらゆる記憶の継承に対する、リドレス運動に対する反論の核心にある問いである。キルン裁判前に繰り返しあらわれた、この同じ問いに対する答えとして、ジョージア州選出のジョン・ルイス連邦下院議員は次のように簡潔かつ的確に表現している。

「いくら時間がかかったとしても、不正をただし、正義をもたらすことには意味がある。そうすることで、われわれの社会では偏見や憎悪、不正や人権侵害は決して容認されないという協力なメッセージを、次世代を担うべき人々に送ることができるからだ」

過去を問題にするのは、現在、そして未来が問題であるからに他ならない。起こってしまったことは変えられないにしても、現在と未来は私たちの意識次第で変えられる。今回のウクライナ系カナダ人への公式謝罪は、記憶の継承への第一歩であるとともに、現在および将来のカナダ社会に正義という社会的インフラをもたらそうとする象徴的行為として、現在の私たちにも大きな意味を持っているはずである。