Thursday, June 13, 2013

日本は世界一の人権先進国 by上田人権大使


このビデオには笑わされた。

Japan is one of the most advaned countries ・・・あの英語力なのであとは何を言っているかよくわからない。
もっとも司法制度に関して進んだ国、とでも言っているんだろう。
日本に暮らすマイノリティにはそうは思われない、そのへんが外交官のあなたにはわからないんだろう。



Tuesday, May 14, 2013

赤ちゃんは男の子! サーカムシジョン(割礼)はどうする?

この記事は以下のウェブサイトに寄稿しています。気鋭ライターたちによる興味深い記事がたくさん掲載されていますのでぜひご一読ください!
http://thegroupofeight.com/

妊娠中の定期検診で、産科医から「ところで、サーカムシジョンはどうしますか?」と訊かれたときには、「ここは日本じゃないのね!」と実感した。夫が「必要ありません」と答えると、医師は「もちろんですよね」と言い、この話はさらりと流れた。



日本人の私にとって、サーカムシジョンという習慣は何かとても不可解で奇妙なものである。ただ、カナダで妊娠すると避けては通れない話だし、妊婦向け雑誌などでこの習慣について読んだり、妊婦同士で話をしたが、いまもって不可解な気持ちが残っているので、少しここに書いておきたい。



1970年代にモントリオールで生まれた夫は、生後間もなくサーカムシジョン(circumcision、日本では「割礼」と呼ばれる。儀式的、宗教的理由から男子の陰茎包皮を切除する手術。女子に対するサーカムシジョンもあるが、ここでは男子に限って議論する)を受けている。当時のモントリオールでは、特定の宗教を信仰していなくても(注1)男の子の赤ちゃんはこの手術を受けるのが当然という風潮があったようで、親が特別に要求しなければ男の子はサーカムシジョンを受けさせられていたと言われる。なので、少し大きくなった男の子の間では、サーカムシジョンを受けていないと自分がヘンなんじゃないかと思ったようである。
(注1)世界では男性人口の1/3がサーカムシジョンを受けている。大半がイスラム教圏、イスラエル、アメリカ、東南アジア、アフリカで、うち70%がイスラム教徒。

夫はこの手術を受けさせられたことに対し、今もってある種のわだかまりがあるようで、私が妊娠中にサーカムシジョンに触れたときには「医学的に利益があるとは言えないし、不必要に尋常でない痛みを伴なう手術を生まれたばかりの赤ちゃんにさせるべきではない」と、とても強い意見だった。こうして自分の体を、生まれたままの形から変えられたことに対して違和感を覚えている人もいるようで、彼らが親になって子どもに「受けさせない」選択をする、というのもよく聞いた話である。

北米でサーカムシジョン花盛りの当時(1970年代)、多くの親は宗教的理由ではなく、HIVをはじめとする性病や細菌感染に予防効果がある、といった理由で生後まもなくの赤ちゃんに受けさせていた。ただし、ここ最近では、HIVが蔓延している地域を除いては「医学的利益はわずか」という見方が大勢で(ちなみにWHOはHIV感染率の高いアフリカの地域ではサーカムシジョンが感染防止に役立つとして促進の立場を取っている)、それゆえにカナダではこの手術はもはや保険でカバーされていない。先進国のなかでは最もサーカムシジョン率の高かったアメリカやカナダではここ最近減少傾向にあり、約30%と推定されている。2012年には、アメリカ小児科学会(AAP, American Academy of Pediatrics)もサーカムシジョンはリスクを上回る利益はあるに違いないが、その利益はわずかなので概して推奨はしないという方向で声明を出している(www.aap.org/en-us/about-the-aap/aap-press-room/pages/Newborn-Male-Circumcision.aspx?nfstatus=401&nftoken=00000000-0000-0000-0000-000000000000&nfstatusdescription=ERROR%3a+No+local+token)。



一方、倫理面での問題もある。医療上切迫しているわけでもないのに、本人の同意を得ずになされる手術に対して批判的な見方もあり、こうした立場をとる人たちはサーカムシジョンをmutilation(切断、損傷)と呼ぶ。トロントで息子と同じくらいの子どもを持つ親にこの話題を振ったときには「そんなこと子どもにするなんてどうかしてる!」と憤る人が多くいた一方、「それはプライベートな選択」と議論を好まなかった親も結構いた。いずれにせよ、カナダでは医学的利益がほとんどないとされた以上、以前はほとんど考えもしないで行われていたサーカムシジョンに対し、すべきかどうか決めかねている親が相当数いる、というのが現実だろう。



健康な皮膚の一部を切り取るわけだから、この手術は当然激痛を伴ない、赤ちゃんはあらん限りの声をあげて泣き叫ぶ。赤ちゃんだからといって痛みを感じないわけではない。そうしたビデオを見てすぐに悩みを振り切った知人もいる。



政治的に正しい物言いをすれば「親のプライベートな選択」ということになるだろうが、医学的利益がそれほどないとなれば、それでも手術をするのは宗教的理由か、単に「見た目」にかかわる理由だろう。前者に関しては何とも言えないが、「見た目」に関しては「子どもの権利」という観点からすると問題であると、個人的には思う。


参考)
http://www.circumcision.org/(サーカムシジョンには反対の立場。Circumcision Trauma 10 out of 10 Babiesというビデオも掲載)

Friday, February 8, 2013

児童公園で煙草を吸うなんて・・・


トロントに比べると、京都市内は遊戯具が備わっている公園(児童公園)の数がずいぶんと少ない(田舎に行けば行くほどもっと少なくなる)。 ブランコがひとつ、鉄棒がひとつ、子どもが走り回るスペースもない、というような小さな公園を含めても少ないと思う。



子どもたちは、そんな小さなスペースでも元気よく伸び伸びと遊んでいるのだが、私にはずっと気になっていることがある。それは、そうした公園に置かれているベンチで普通は誰かが煙草やパイプを吸っていること。



私が子どもとよく行くのは、京都府立図書館の前の岡崎公園なのだけれど、そこは(たぶん)図書館前とあって煙草を吸っている人が多い。喫煙のできる場所が限られている喫煙者にとっては、公園というスペースは煙草を吸うための場所なのかもしれないが、子どもを遊ばせている親にとっては迷惑はなはだしい。子どもは遊びに熱中しているので文句を言うようなことはないが、受動喫煙second hand smokeの害をカナダであれほど聞いてきた私としては気になって仕方ない。



以前に比べて禁煙スペースが増えてきたのは喜ばしいことだが、喫茶店やレストランなどは分煙していても、結局のところ煙が流れてくることもしょっちゅうある。先日、イノダで数時間いたら、禁煙席に座っていたにもかかわらず、最後には頭がクラクラしてきたし、コートにもしっかり煙草臭が染み付いてしまっていた。



ついでに言うと、電車で隣に座った人のプンプンするヤニ臭によって気分が悪くなることもある。煙草の匂いで気分が悪くなるのは、なにも私だけではない。私も実際、近くにそういう煙草アレルギーを持った人が何人もいる。煙草を吸っている人に対してまったく敵意はないが、煙草に対するアレルギーを持ち、子どもを持つ身としては煙草の煙ほどうっとうしいものはない。

Saturday, February 2, 2013

失望していた私を精神的に救ってくれた本『人権の政治思想』 鷲見誠一著

夫にも言ったのだが、昨年の秋くらいから、そして12月の総選挙以降、軽いディプレッションになっていたように思う。ディプレッション、というより「失望感」にかな・・・。


ちょうど1年前の今日、私たち家族は日本にやってきた。

日本で生まれ育ったとはいえ、12年間をカナダで過ごして帰ってきた私にとって日本への再帰文化適応は大変だった(し、今も大変)。年末にふと気付いたのだが、きっとこれも私のマイルドな日本に対する「失望感」が原因だったと思う。



その「失望感」を晴らしてくれたのが、表題の本だった。この本は「人権」という概念が西洋でどのようにして生まれ、どのように発展してきたのか(そして、それは当然、民主主義という政治体制の発展と大いに関係がある)、それを日本ではどう受け入れてきたのか、という政治思想史を扱った本であるのだが、私にとっては「そうなんだ、今の日本に失望する必要はないんだ」と気付かせてくれた大切な本でもある。



どうして日本の民主主義は薄っぺらいんだろう。どうして太平洋戦争中の日本兵のPoWに対する扱いはひどかったんだろう。どうして憲法の精神を蹂躙するようなことを政治家が平気でやれるのだろう。今までこうした疑問にぶちあたるたびに、それが「人権」と「民主主義」、「権力」という政治学では重要な概念と関連があるとは気付いてはいたが、こうした疑問は西洋の政治思想史を勉強すると理解しやすいのだ、ということに今更ながらに気付いた。というか、私もカナダに暮らしてカナダ政治を日々観察しているなかで感じていた漠としていた考えや、日本政治に対する考えなどがやっと理論的に結びついて、点が線になったという感じを覚えた。



日本の政治に「人権」や「尊厳」、「権力の正当性」という概念が根付くまでにはこれから長い年月がかかるのだろう。その一方で「価値の多様化」や「グローバライゼーション」はどんどん進んでいき、その流れのなかで日本政治の歴史は当然ながら日本独自の展開をしていくことになる。その展開に大きな鍵をにぎるのはとりもなおさず市民である、と私も強く感じるが、ひとつ大きな問題だと思うのは、日本の知識層、ジャーナリストたちのクオリティである。



はっきり言って、私たち一般市民は日々、仕事として歴史研究や政治分析をしているわけではないので、厳密な意味ではこうした分野のことは「まったくの主観的意見」としてしか語り得ない。たとえば、領土問題に対して怒っているその辺のおじちゃんに歴史的経緯に裏付けられた説明を問いただしてみても、そんなことはたいてい答えられない。いったい、こうしたおじちゃんやおばちゃんの意見がどこから来ているかというと、新聞やテレビ、雑誌に書かれたことや、そこで言われたことをそれぞれがそれぞれの感情やこれまでの経験に基づいて判断した意見なのである。ということは、専門書籍からバラエティ番組まで、さまざまなメディアで流される情報のクオリティが非常に大切だということだ。



反論もあるかもしれないが、私には日本のメディアに比べればカナダの大手メディアは少なくともある問題に対する両極端の意見をもつ専門家の書いたものを載せようとしているように見受けられる。こうした多様な意見を市民は吟味したうえで自らの感情や経験に照らし合わせて、最も自分で納得がいく、という意見を選び取る。このプロセスにおける知識人、ジャーナリストの役割が日本に比べてはるかに大きいと思う。日本で市民が自らの権利を行使し、自らの義務を果たし、本当の意味での「市民」として成長するには、知識人やジャーナリストたちにもっとしっかり働いてもらわなければならない。



こういう本が著者が言うように「通勤電車のなかで読まれる」ような状況になればいいのに、と心より思う。

Saturday, January 19, 2013

「原発事故が起こりうる」という想定

先日の京都新聞は、舞鶴市のある中学校で地震と原発事故が同時に起こったら、という仮定で避難訓練が行われたことを報じていた。
京都新聞より以下、記事の一部を引用

「舞鶴市大波下の若浦中では、地震と原発事故の複合災害を想定した訓練を初めて実施。生徒は内部被ばくを防ぐマスクを着け、コンクリートの校舎などに屋内避難した。

 高浜原発(福井県)の30キロ圏内にほぼ全域が含まれる同市は本年度、原発事故訓練を小中学校に義務づけた。

 舞鶴湾沿いの同中では大地震発生を受け、津波から逃れるために約160人の生徒が標高約40メートルの校舎3階に避難した。原発事故の情報が入ると、教員が医療用マスクを配り、バスでの避難を想定して体育館に移動。入口では放射性物質を取り除くため、手で服を払うように呼び掛けた。」
記事全文は以下のリンクで
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20130118000056

福島原発事故後、「原発事故が起こりうる」という意識がしっかり根付いてきた、ということは朗報であるが、それを承知のうえで「原発を稼働する」というあたりがやはり私には感覚的に解せない。
子どもたちは一体どういう気持ちでこの訓練を受けたのだろうか。
こうした訓練が学校で行われている地区では、親はどういう気持ちで毎日、子どもを学校に送りだしているのだろう。
市民として大切な子どもたちに不必要な不安を与える社会を許容していいとは到底思われない。

Saturday, January 12, 2013

ゴキブリ出現と今の私の心情

大半の人がそうだと思うが、私の人生でもゴキブリに好意を抱いたことなんか今までなかった。
それが、おとといは違ったのだ。
学校のトイレ掃除をしていたときのこと。
生徒が「キャ~!!」っと言うので行って見たら、ゴキブリがタイルの上をヨロヨロと歩いている。
そのゴキブリの姿を見たとき、まるで自分のようだ、と思った。
時ならぬ時に、奇妙な場所に出現し、周りに「キャ~!!」っと叫ばれる。
それって今の私の心情に似てはいないか?

思わず涙してしまった。

Friday, January 11, 2013

日本のカワイイは海外でもカワイイのか?

以下の文章は私もメンバーになっているトロント・ベースのthe group of eightのウェブサイトに寄稿したものです。トロント在住の気鋭日本人ライターによる興味深い文章がたくさん掲載されていますので、ぜひご一読ください!
http://thegroupofeight.com/

まず断っておくが、私はこの文章も、これまで書いた文章もすべて「日本人として」書いてはいないし、物心ついたときから自分が日本に住む思想的マイノリティであることを承知のうえで書いてきた。この文章もマイノリティ的立場から書かれた文章であるということを最初に断っておきたい。


 

 

















先日、ある国語の先生から「たとえば、カナダなんかでも日本のカワイイはやはりカワイイって思われるんでしょうかね」と聞かれた。そのときの教材が日本のカワイイ文化についてのものだということで、国語教育に熱心なこの先生は(ちょっとズレた感覚の)私のところに話をしに来たのだった。それを発端にいろいろと話をしておもしろかったのだが、ひとつ驚いたことは、概して日本人が「日本のカワイイ文化は海外でも十分、通用する」「日本のカワイイ文化は今や世界を圧巻している」と思っていること。


「え~っ!!」というのが私の反応で、その理由のひとつはトロントで日本のカワイイ文化がよく知られていたとか(ジャパン・ファウンデーションの中や、一部のオタク系、コスプレ系サークルは別として)、好感を持たれていたと感じたことはないし、もうひとつは私自身がカワイイ文化を「カワイイ」と思っていないからである。はっきり言って、日本のカワイイを「カワイイ」と思うのは精神年齢の低い人なんじゃないだろうか、というのが私個人の感覚である。



日々利用しているある私鉄が、夏ごろから電車の外側を女子高生が主役のアニメでペイントし、車内の広告もほとんどすべてをその特定のアニメとの「コラボ」を始めたときには驚いた。子どもなら喜ぶかもしれないが、大人の自分が通勤で、おしりが出るかどうかのスレスレ・ミニスカートをはき、金髪でパッチリお目々の女子高生たちの描かれた電車に乗らされる、ということが私には不快である。一方では、普通のおじさんがその電車の写真を撮っている風景などは何度も見たし、こんなことでグランピーになる私はごくごく少数派なんだということも承知している。でも、こういうことは日本でだから可能なんだという気もする。たとえば、トロントの地下鉄でこんなセクシストでロリコン趣味なアニメ電車など走らせようものなら、市民のすざまじい反対に遭うんではないか。



この現象は、日本の社会のある価値観を反映していると思われる。たとえば、よく知られているように、欧米式の育児では、赤ちゃんは赤ちゃんのときから自分の部屋で寝かされる。また、食事のときなどには子どもは大人の会話を邪魔しないように教えられる。あるいは、いつも子どもと一緒にどこへでも行くわけでなく、ときには子どもはベビーシッターに預けられ、カップルだけでディナーやコンサートに行くこともある。こう聞くと、多くの日本人は「大人中心で子どもがかわいそう」なんて思ってしまうが、欧米では「大人の領域=社会/ society」と「子どもの領域」は違うという前提ですべて納得されている。



西欧の論理では、子どもというのは「不完全なもの」で、子ども時代は「完全」である大人になるためのトレーニング期間であり、その間、大人の仕事は子どもが「完全」になるよう指導やサポートを与えることである。なので、子どもができないこと、許されないことがあっても当然だし、「大人の世界」と「子どもの世界」にはかなりはっきりとした線引きがなされている。こうした考え方は、ひとつにはユダヤ・キリスト教的な西欧社会の二元論的思想に基づいていると私は思っている。



一方、日本社会ではこの線引きが曖昧なので「子どもの世界」の領域のものが「大人の世界」に入ってくることがよくあるし、そういう社会で小さいころから育てば、大人になってマンガを読んだり、主婦がキャラクター・グッズを集めたりしていても、あるいはそういう人が周りにいても、案外普通に受け入れられるのだろう。



話を「かわいい」に戻そう。先の「欧米では日本人がカワイイと思うものをカワイイと思うか」という問いだが、さて、答えとしては「個人的な差があるので何ともいえない」ということになる。欧米にも日本のアニメ・ファンもいるし、グローバライゼーションと消費主義の影響で子どもたちもこれらを日常的に目にしている。公害が国境を越えるのと同様、カワイイ文化も世界中に波及しているのは事実である。



しかし、だからといって、どの国でも日本のように「子ども領域のカワイイ」が「大人の世界」である「社会/society」にも入ってきている、と考えるのは間違いではないか。このふたつの世界には日本以上に強固な壁が存在する、と私には感じられる。そう考えると、どうして女子高生アニメ電車が日本では可能で(可能どころか、喜ばれている)、たとえば欧米ではありえないか、ということが理解できるだろうと思う。

Saturday, October 13, 2012

日本語の会話が窮屈に感じるとき

日本語と英語とどちらが楽にしゃべれるかと聞かれたら、もちろん日本語に決まっている。私にとっては日本語は母国語だから、細部にわたる説明、微妙な言い回しなども日本語の方が断然難なくできる。



それは明らかであるのに、日本語より英語をしゃべっているときの方が楽だなと感じることがあることに気付いて自分でもどういうわけなのか分からない、ということが帰国当時はよくあった。海外に長く住んでいたため、敬語の使い方も帰国当初はかなり忘れていたと思う。



最近、これについてはこう思うようになった。日本語だと常に話している相手との関係性が言葉のなかに現れる。「現れる」というか、日本語ではそれが常に「明確にされなければならない」。たとえば、仕事上、目上の人に対して為口で話すことはありえないし、年上の人に対してもある程度はそう言うことができる。丁寧語や敬語といった形で繰り返し、繰り返し、こうして現れる「関係性」はそのうち無意識のなかに入ってきて、自分と相手の「ステイタス」、その差のようなものは動かせない事実として絶対的になる。それが私には窮屈に感じられる。



これが英語ならそういうことはない。職場においてもある程度は敬語らしき「丁寧語」はあるし、書き言葉ではきちんとした言葉遣いもある(多分、いわゆるBusiness Englishというのが、英語の敬語にあたるのだと思う)。でも、こうした言葉遣いによって相手とのランクやその差異を意識させられることは滅多にない。言葉上は対等なのだ。だから、英語で仕事をしていると、そんなところに気を遣う必要がないので、言いたいことが案外と簡単に言えて、とても楽なのだ。



多分、そういう意味で私は職場でも外国人と話をする方が楽だと感じているのに違いない。私にとってはいつまでたっても母国語のように自由自在には操れない英語が、とりわけ仕事上は話していると楽だというのは何とも滑稽な話ではあるが、実際にそう感じるのだ。



言語は文化に根ざしたものなのとつくづく感じる。

Friday, September 14, 2012

長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁

The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。

タイトル「長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁」
以下のサイトでも読めます(こちらは写真もあります)。

http://thegroupofeight.com/?p=1741


日本にいたときは何とも思っていなかったのに、12年をカナダで過ごして帰ってくると違和感を感じる、そういう状況に日々遭遇する。違和感を感じるもののひとつ、paternalism(温情主義)と社会的役割分担に関して思うところを書いてみよう。



私が日々の通勤に使っているのは京阪電鉄だが、車内広告をみまわすと若くてフェミニンな女性が圧倒的に多いことに気付く。当の京阪も、大手デパートも、サラ金会社(サラ金って死語なんだろうか?)も、街角の質屋も、こぞってそうした女性がにっこり微笑んでいるイメージを選んでいる(それも顔だけが大きくクローズ・アップされていたりする)。私はそれらのイメージをじっと見てみる。いったい、広告主は何を訴えようとしているのか? 



しばらく考えているうちに、「安心感」ということばが浮かんできた。彼女たちは見る人を肯定もしなければ、否定もしない。別に何を訴えかけているわけでもない。広告を見る人はこうしたかわいい女性が微笑んでいる姿を見て、何よりもまず「安心する」んじゃないか。



Ladies and Gentlemen. Welcom to the Shinkansen. This is the Nozomi Super-Express bound for Hakata. We will be stopping at…

新幹線に乗ると聞こえてくる、この車内アナウンス。あの高いトーンの女性声が、今の私には何とも不快(で正直言って、うっとおしい)に感じられる。ただ、私には不快に感じられるあの声も、日本では意外や意外、「快適」とか「品がある」、おまけに「セクシー」と感じる人の方が多いらしい。



車内アナウンスといえば、雨の日にだけ流れる「傘のお忘れには十分注意してください」や、ケーブルカーの「お降りの際には、車内が揺れますので足元には十分・・・」アナウンスもうっとおしい。英語でpaternalismという言葉があるが、まるで親のように心配してくれる、そうしたアナウンスが私にはちょっぴり不愉快である。



「丁寧」といえばそうなのだが、それだけだろうか。こうして気遣いしてくれたり、安心感を与えてくれる過剰なサービスは、女性のイメージを使った広告やアナウンサーの高い声によってますます自然化される。日本社会では圧倒的にこうした役割は「女性のもの」とされており、女性がこういう役割を果たしているのを見ると、多くの人は極度に安心するのだろう。



また、一方で私の目には、日本では多くの女性がこの「役割」を無批判に(あるいは喜んで?)引き受けているようにも見える。たとえば、女性の服装には今もカルチャーショックを感じる。フリルやレース、柔らかい素材、ヒラヒラしたもの、フワフワしたもの、リボン・・・、いやあ、私の目にはこういうのが「おそろしくフェミニン」なんだけど・・・。本人が好きならいいじゃない、と言われそうだが、ファッションは「見る」「見られる」の微妙な関係性という要素からもなっているわけで、一方の嗜好に簡単に限られる話ではない。



「日本では女性がよくこんなのを許しているわね」というのもよく感じる。
本屋さんに行くと、誰の目にも見えるようなところにポルノ雑誌やポルノ・マンガが積まれている。あるいは、昔から言われていることだが、週刊雑誌の広告(吊革広告、大手新聞の紙面下に入る広告)の言葉のいくつかは明らかに男性が男性向けに書いていて、不快なほど卑猥で下品。男性がやめないのなら、一方で「ああいうの、やめなさい!」という批判の声が女性から上がらないのだろうか、と疑問に思うが、これも「役割」という観点から考えれば合点がいく。



日本は確かに表面的には民主主義社会だし、男女同権も機能しているように見える。女性だからといって表立って差別されることはない。だから、「日本社会における女性の地位の低さ」を語るより、「日本では女性も男性も自分の役割分担を無意識にわきまえている」点を語ることの方がきっと生産的だろう。私の目には、それぞれが自らの「役割分担」の範囲をわきまえ、その範囲でできることを、それはそれは驚くほど「プロフェッショナルに」やっている(このあたりはすごい!)、と映る。



個人の役割分担は、見えないガラスの壁でしっかりと区切られている。その中にいれば意識されることもないけれど(それにある意味で楽)、いったん外に出て戻った者には、実は自由に歩きまわるのが難しい社会である。

こういうことはどこかで読んでいたし、聞いてもいた。ただ、実際に自分が「アウトサイダーに見えないアウトサイダー(だって、外見は日本人だから)」になったとき、これがよく見え始めた。私には、こうした社会は、critical thinking/クリティカル・シンキングのスキルを訓練されていない国民によって無意識のうちに継続されているように思うが、ま、それはまた別の機会に書くことにしよう。

Tuesday, August 21, 2012

日本の教育では育てない(とても重要な)スキル-世界的に活躍しようと思っている若い日本人へのメッセージ

カナダ(北米といってもいいと思う)の教育にあって、日本の教育で育てられないスキルがあるとすると、それらはcritical thinking-クリティカル・シンキング, problem solving-問題解決能力, team working-ティーム・ワーキング、だと私は思う。この3つのスキルを、北米では子どもたちは学校教育の終わりとともに習得できるしくみになっているが、日本ではそうはなっていない。

私が見る限り、カナダでは小さいころからこうしたスキルを身につけられるよう意図的に教育がなされており、教師が評価するのは知識というより、そうしたスキルである。このあたりが日本とカナダの教育に対する考え方の根本的な違いである。

まず、critical thinkingとは、知識や情報をうのみにするのではなく、それを自ら吟味できる能力のことである。与えられた知識や情報、方法論を吟味するためには、情報収集のスキル、分析するスキル、総合的に判断するスキル、相手を納得させるように説明できるスキル、などが必要になってくる。



真実とされていることを「疑う」ことは、科学的思考にはなくてはならないと言われる。そして、それが常識を覆すような発見につながることはよく知られている。これは経済の分野でいえば、イノベーションのカギであって、Apple社の創立者Steve Jobsの話を読むと彼がいかに熟練したcritical thinkerであったかがうかがえる。彼のような才能は、暗記のちからだけが問われる教育のなかではつぶされるだけだろう。


problem solvingとは、問題にあたったときに自力でそれを解決しようとする問題解決能力のことである。まずは、問題を把握しなくてはならない。これもcritical thinkingと同じように、何が問題になっているのかを理解し、問題の本質を知ることから、どういう方法を適用して解決に結びつけるか、という実践力、判断力に至るまでのはばひろい能力が問われる。


このスキルは、単に学校で必要になるスキルであるとは限らない。将来、子どもたちが実社会に出れば、さまざまな問題に直面しないはずはなく、そのときに問題を投げ出さず、他人任せにせず、自分で解決する能力を養っておくことは人生を乗り切るために非常に重要だと思われる。


team workingは、以上のふたつのスキルを学ぶ途上で同時に身につけられるスキルである。カナダの学校では、グループで完成させるプロジェクト・ベースの課題が頻繁に与えられている(大学でさえ)。グループのなかには、アイデアが自由に出せる生徒、計画的に実行する生徒、客観的にプロジェクト内容を把握し、問題を指摘できる生徒、などさまざまな資質を持った生徒がでてくる。グループ・ワークではまずそれぞれのメンバーの資質を把握し、それを活かせるような仕事の進め方をしていくのが効率的であることを生徒は自然と学ぶことができる。


また、カナダ社会では就職の際にこのteam workingのスキルがあるかどうかが問われることが多い。たしかに、職場という場所は、team workingなくしては成り立たないわけで、そうなると、将来、子どもたちがどのような進路に進むにしても必要になってくるのが、このスキルなのである。また、私が感じたのは、北米では、知識人も学者も知識があるだけでは認められない、ということ。そうした知識や情報を他者に伝えることができるコミュニケーション能力までを求められる。


こう見てくると、これらのスキルは学校にいるときだけ必要になるわけではなく、子どもたちに一生涯を通じてより上手に生きる力を与えるための、実践的なスキルだということがわかる。


カナダと日本で暮らし、これらのスキルが小さいころからの訓練によってのみ身に付くということに気付いた。長らく、日本人の発想や応用力の乏しさが指摘されてはきたものの、教育にこうしたスキルを身につけるための訓練がなされてきていないのは、意図的としか思われない。実際、日本ではこうしたスキルを身につけると、反対に「協調性のない人、面倒な人だ」と言われかねない。


なので、以上のことは、将来は世界的に活躍しようと思っている優れた能力のある若い人、あるいは日本の外で働きたい、暮らしたいと思っている人に向け、とくに伝えておきたいメッセージである。北米では、幼稚園からこうした3つのスキルが学校教育のなかで繰り返し、繰り返し訓練される。一方、日本では義務教育を終えても、(大学教育を終えても)こうしたスキルは身に付かない。この点をしかと認識し、世界に出ていく前に、まずはこれらのスキルをいかに自分のものにするか、を考えておくことがカギになってくる。

Saturday, August 4, 2012

社会参加と実存

失ったものを嘆いて今、目の前にあるものの良さを忘れてしまうのは、これまで私が人生のなかで繰り返してきたこと。そしてその度に、愁嘆を追い払おうと努力してきた。

「可能的現実」という言葉はありえないだろうが、「ああしておけば、こうなっていただろう」あるいは「ああしていなかったら、こうはなっていなかっただろう」という想像にばかり足を入れていると、本当によくないことは経験済み。


カナダのことを思うと本当に辛くなることがある。まだホームシックを感じている。


そう言うと、Your home is here, in Japan!と言われるのだが、日本で生まれ育ち、人生の大半を日本で過ごしてきたという事実はあるものの、やっぱり私にとってはカナダの方が快適な部分もかなりある。


私が何よりも「カナダをHomeとして選んだ」理由のひとつは、イデオロギー的にあっているということがある。私の政治思想や物事の考え方そのものは、カナダ社会のマジョリティとかなり一致する部分が多い。だから、カナダにいると政治的・社会的に「腹が立つ」ことが少ない。日本にいると私は苛立ってばかりなので、(あんな馬鹿馬鹿しい番組ばかりやってる)テレビは最初から持っていないが、日本の新聞も読まないことにした。


私にとっては社会正義や人権の尊重は何より大切なものだから、そういう意味で日本社会は疑問に思わざるを得ない点が多くて、正直言って日本人として辛い。


その一方で、やはり日本も快適だと思う。何より言葉が簡単に通じる。カナダではとくにカスタマー・サービスや政府関係に電話したりするのが何とも億劫だったが、それがまったくない(もとからの電話ギライというのはあるにしても)。


それに、日本ではカスタマー・サービスをはじめとするサービス関係の分野で働いている人たちの対応がとにかくすばらしく「プロフェッショナル」だ。夫とも話すのだが、カナダだったら、たとえばIt’s not my businessという言葉やYou have to go to …という言葉で、ひとつの情報を求めようとすると、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはいけないのだが、日本ではその煩雑さ、手間がない。それで思い出すのは、トロントでTTCのストリートカーの運転手が、路線を走っている最中だというのに、途中でストリートカーをとめて、コーヒーを買いに行き、悠々と帰ってきたこと。私はそれを見て唖然としたものだが、他の乗客は別に何事もなかったようにしているし(今から考えると、これは都会の人の被っている仮面なのかもしれない)、同じような経験があるという知人も何人かいた。日本では、たぶん、ひとりひとりがその仕事に関してプロフェッショナルなんだと思うが、この違いは一体何なんだ、と思ってしまう。

話は戻るが、「可能的現実」に関していえば、カナダにずっと暮らしていれば快適なこともあったが、不便なこともあっただろう。日本でもそれは同じだということにも気付く。完璧な社会というのはありえないのだから、世界中のどこにいても不便はある。

ただ、社会にコミットせずにその社会に生きる、というのは私には非常に辛い。最近、サルトルのいうアンガジュマンのことをやたらと考えている。

Friday, June 15, 2012

まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。


今日はダラダラ書きます・・・。
まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。

りんごが高い! ひとつ250円するのだ、日本のりんごは。りんごなんて、トロントにいたころは毎日ひとつは食べてたのに、今となっては高嶺の花。果物が全般的に高い! 種類もあまりないし・・・。フルーツ大好きの私にはイタイ。
Wi fiが普及してない? StarbucksでWi fiが使えないのはびっくりした。「どこでWi fi使えますか?」の問いに返ってきたこたえが「マクドナルド」。え~!うそでしょ? あんなローレベルのファーストフード・チェーンが? 仕方なく行ってみたけれど、スマートフォンか何かのインターネット・プラン(Yahoo?)に入ってないので使えなかった。これまでカフェやStarbucksを仕事場に使ってきた夫は本当に困っている。図書館でもコンピュータがまずないし、インターネットもないし、Wi fiもない。いや~、これって困るでしょ?
食品の大きさが小さい。かぼちゃも四分の一の大きさ、じゃがいもも4つパックに入っているだけ(それで300円ほどする)・・・。(トロントではじゃがいもは大きなバッグ、たぶん10キロ? に入って2ドルくらいだった)なので、何度も買い物に行く必要がある。スーパーが近くてよかった・・・。
パンが甘い。とにかく甘い。こんなのを毎日食べていると大変じゃない? しかし、町中どこにでもあるパン屋さん。その数の多さに驚く。こんなにたくさんのパン屋さんがやっていってるってことは、日本人ってかなりたくさんパンを食べているのだろうか。
ピザが高い。一枚2500円! ピザってスナックの感覚だと思ってたのに、日本では高級なのね! Mama'sのピッツァが恋しい・・・。

オーブンがなくて本当に困っている。
オーブン・トースターのことじゃなくて、ケーキやパンが焼けるオーブンのこと。これが4万、5万と非常に高いので、短期間の予定で日本に来ている私たちは泣く泣くガマンしている。日本ではオーブンがない家庭が多いらしい。

オーブンがないと、できないことが多い。パンが焼けない。ケーキが焼けない。ピザも焼けない。ローストやグリルなどの大皿オーブン料理ができない。お料理の幅が狭まっている。私は何を料理していいかわからず、時々途方に暮れている。

なかでもパンが焼けないのはガッカリで、日本の甘いフワフワのパンが口にあわない私たち家族は、ホームベーカリーを買ってそれでパンを焼いている。

<日本の服装に戸惑う>
カナダから持ってきた服がローカットだということに気付いた。
北米のものに比べると、日本の服は胸元はどーんと開いていないものが多いので、ちょっと首のあたりが窮屈にさえ感じる。スカートがあまりに短かったり、凝ったフリルやリボンがあったり、ゴテゴテしたハイヒール、北米では奇妙に映るコスプレっぽいもの(北米では水商売系の人だと思われそうなもの)が普通に見られる。時々、髪の毛を金髪にして、全身バービーになっている若い女性もいて仰天させられる。女性の服装が全般的に幼い。

概してあまり肌を見せないのが日本のようで、夏でも紫外線対策で完全防備している人たちが結構いる。つばの大きな帽子(夫は日本人帽子と呼ぶ)、腕に着用する特別のもの(名前は不明)、長ソックス・・・など、夫の目にもこうした姿は異様に映るらしい。私も夏の服というとノースリーブが多いのだが、ノースリーブはあまりポピュラーではないように思う。
それにストッキング! 
北米では冷房のきいたオフィスで働くワーキングウーマンでなければ、夏にストッキングなんて考えられないのだが、日本では夏でもストッキングは普通みたい。それも黒だったりするからビックリした。カナダでは素足で平気に働いていたが、日本ではどうもおかしいようなので、私もイヤだなあと思いつつ、暑いのにストッキング着用で学校に行っている。