Saturday, October 13, 2012

日本語の会話が窮屈に感じるとき

日本語と英語とどちらが楽にしゃべれるかと聞かれたら、もちろん日本語に決まっている。私にとっては日本語は母国語だから、細部にわたる説明、微妙な言い回しなども日本語の方が断然難なくできる。



それは明らかであるのに、日本語より英語をしゃべっているときの方が楽だなと感じることがあることに気付いて自分でもどういうわけなのか分からない、ということが帰国当時はよくあった。海外に長く住んでいたため、敬語の使い方も帰国当初はかなり忘れていたと思う。



最近、これについてはこう思うようになった。日本語だと常に話している相手との関係性が言葉のなかに現れる。「現れる」というか、日本語ではそれが常に「明確にされなければならない」。たとえば、仕事上、目上の人に対して為口で話すことはありえないし、年上の人に対してもある程度はそう言うことができる。丁寧語や敬語といった形で繰り返し、繰り返し、こうして現れる「関係性」はそのうち無意識のなかに入ってきて、自分と相手の「ステイタス」、その差のようなものは動かせない事実として絶対的になる。それが私には窮屈に感じられる。



これが英語ならそういうことはない。職場においてもある程度は敬語らしき「丁寧語」はあるし、書き言葉ではきちんとした言葉遣いもある(多分、いわゆるBusiness Englishというのが、英語の敬語にあたるのだと思う)。でも、こうした言葉遣いによって相手とのランクやその差異を意識させられることは滅多にない。言葉上は対等なのだ。だから、英語で仕事をしていると、そんなところに気を遣う必要がないので、言いたいことが案外と簡単に言えて、とても楽なのだ。



多分、そういう意味で私は職場でも外国人と話をする方が楽だと感じているのに違いない。私にとってはいつまでたっても母国語のように自由自在には操れない英語が、とりわけ仕事上は話していると楽だというのは何とも滑稽な話ではあるが、実際にそう感じるのだ。



言語は文化に根ざしたものなのとつくづく感じる。

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