昨今、グローバル経済危機の展開するのを見ながら、「このいちばん必要とされるとき、経済学者はどこで何をしているのだ」との思っている私。景気が悪くなると、政府に「支出をふやせ」といって経済刺激策を取らせてきたのは、経済学者ではなかったか。その結果、ギリシア政府は、お財布の底がついてしまっている。ユーロを守ろうとドイツをはじめとするEU諸国がまたまたお金をつぎ込んでも、同じことが起こるのではないか。最近の状況を見ながら、私は経済学に対して非常に懐疑的になっているが、それは私だけではないんじゃないか。
つい最近のGlobe紙に興味深い特集記事が掲載されていた。経済についての記事だったが、世間では「ノーベル経済学賞」として知られる国際的な賞は、正式名は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」といい、アルフレッド・ノーベルが設置した賞と違い、1968年にスウェーデン国立銀行によって後になって設置されている。選考はスウェーデン王立科学アカデミー、認定はノーベル財団によってなされるが、ノーベル財団のなかには経済学賞の設置自体を疑問視する声もあるという。
以下はウィキからの引用
「ノーベル経済学賞の設置自体が間違いであったと考える者も多い。1997年にはノーベル文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが経済学賞の廃止を要請した。ノーベル家の一部の人達はこの賞をノーベル賞として認めていないだけではなく、ノーベルの名の使用にも抗議している。2001年にはノーベルの兄弟の曾孫にあたるスウェーデン人の弁護士ら4人が地元紙ダーグブラデットに寄稿し、経済学賞は「全人類に多大な貢献をした人物の顕彰」というノーベルの遺言の趣旨にそぐわないと批判した」。
以下のエピソードはウィキピディアの英語版から取ったものだが、ハイエクの言葉はまさに的を得ていると思う(Taken from Wikipedia website)。
In his speech at the 1974 Nobel Banquet Friedrich Hayek stated that if he had been consulted whether to establish a Nobel Prize in economics he would "have decidedly advised against it" primarily because "the Nobel Prize confers on an individual an authority which in economics no man ought to possess... This does not matter in the natural sciences. Here the influence exercised by an individual is chiefly an influence on his fellow experts; and they will soon cut him down to size if he exceeds his competence. But the influence of the economist that mainly matters is an influence over laymen: politicians, journalists, civil servants and the public generally."
経済学者は今まで「経済にはサイクルがある」とか「自由主義資本経済はマネージできる」とか主張して、まるで自分たちが経済をコントロールできるかのようなことを言ってこなかったか。私の記憶では、リーマンショック以前、確かに何度か「このままの状況が続けば経済は大打撃を受ける」というようなコメントを新聞で読んだが、それらは大半が経済学の分野の専門家ではなかった。株価についてもそうで、あがるだの下がるだの、分かっているようなことを言っているインベスターやコンサルタントはいるが、実際、株価の大暴落が起きると実はこういう輩は黙りこんで(あるいは証券取引所で呆然とした姿をさらして)、結局のところNo one saw it coming! というようなことになるのが落ちではないか。
素人なのはわかっているが、はっきり言わせてもらえば、経済学者や経済コンサルタントは素人の私たちと同じくらい経済の先行きなど見えていないのだと思う。だいたい、経済という分野は結局人間の活動がもとになっているわけであって、最近の心理学分野のリサーチが繰り返し示しているように、人間の活動の8割はIrrationalに、非合理的な判断に基づいていることを考えれば、さらに、フリードリッヒ・ハイエクの言うように、経済は政治家や国民やジャーナリズムなど他分野の要素に左右されることが多い、と考えれば、そこが自然学とは絶対的に違うところで、そんな人間の行動からどれだけの法則性が導き出されるのか、何とも疑問である。
先のGlobe紙の記事では、西洋でEconomicsという学問が生まれてしばらくの間は、そこに哲学の一部であるMoralityがしっかりと入っていたという。それが自由主義経済の発展とともに、いつの間にか取り払われて、経済学は数量を主な対象にするようになってきた。その弊害はいかほどか。素人意見で何とも失礼だが、もし経済学者が世界に貢献しようと思うなら、この利潤だけを唯一の目的とする巨大なグローバル経済システムにかわる新しいシステムとして、倫理、環境や次世代に対する配慮し、グローバル市民としての責任感を取れるような構造を確立してもらいたいものである。
Monday, November 14, 2011
Thursday, November 10, 2011
ゲイのペンギンカップル、引き離される
http://www.thestar.com/news/article/1083793--tale-of-same-sex-penguin-pair-goes-viral
スター紙の記事
ビデオもあり。最初にCanadian Wheat Boardの広告が載っていてちょっと面倒だけど・・・。
5日ほど前、トロント・スター紙がトロント市立動物園のペンギンのうち、ゲイ(同性愛)のペンギンがいる、という記事を載せたのを見て、「あー、またスターがどうでもいい記事を載せてるわ!」と呆れていたのだが、この「ペドロとバディー」、最近はアメリカのトークショーをはじめ、イギリスのガーディアン紙もこの話を掲載し、世界中で話題になっている。
スター紙によると、ことのきっかけは動物園の飼育係りがペドロとバディー(どちらも性別はM)が片時も離れないのに気付いたこと。どっちか忘れたが、片方には以前、メート(性別F)がいたというが、ふたりが同じ動物園で暮らすようになってからというもの、Fにはまったく興味を示さず、お互い、いつも一緒でinseparableなのですって。(夫に話したら、ある知人(性別M)が同じ状況にあった、と言っていた。以前は奥さんがいたのだけれど、ある男性と出会って自分がゲイだということに気付いた、という話・・・。たしかに、この手の話はたまに聞く。
しかし、このアフリカ・ペンギンは野生では絶滅の危機ある動物ということで、動物園ではこのカップルを引き離し、それぞれをメーティング・パートナーとくっつけて、次世代ペンギンを産んでもらおうという計画で、今朝はペドロとバディーが引き離されたストーリーがインターネットに載っていた。
単純に「かわいそう・・・」という声もある一方、昨日のCBCラジオでは専門家が「野生では絶滅の危機があるが、動物園ではそういうわけではないので、引き離しは不必要」と言っていた。
グローバル問題としての若者の失業率の高さ
ヨーロッパの経済危機が抱える問題は複雑だが、そのなかのひとつ、若者の失業率の高さ、というのを取り出して考えてみたい。
というのも、若者の失業率の高さは、さまざまな社会問題の根源的原因となっているからである。ここ最近見られる世界を揺るがした事件、たとえばアラブ・スプリングも、Occupy Wall Streetの動きも、さらには今年8月にロンドンを驚愕させた暴動も、中央ヨーロッパ各国やロシアでネオナチが台頭しているのも、直接、あるいは間接的に「若者の失業」問題と関連がある。
昨今では、ILO (International Labour Organization) までグローバル規模で広がっている若者の失業率の高さを懸念する声明を発表した。ILO報告によれば、世界中で失業中の若者は約75 millionにものぼるという。ILOは、若者の失業が長期間続けば、社会基盤を根底から揺るがし、社会の不安定要因になりえる、と警告している。(ちなみに、失業中、というのは仕事を積極的に探している人にあてはまり、仕事探しを諦めた人口は含まれていない)
カナダでは失業率は現在7.3%だが、最近、過去10ヶ月のうち、54,000件もの仕事が失われたというレポートが発表された。失業中の人口をグループわけをしてみると、若者が最も高く、続いて移民という順番となっている。先日、カナダの移民政策における変化について書いたが、仕事探しが行き詰まっているのはなにも移民だけではなく、もっと大変なのは若者というのが事実である。そのため、「海外から移民を受け入れる前に、カナダで職を得られない若者人口を何とかすべき」という意見も最近、ぼつぼつ見受けられるようになっている。
ところで、世界中で、グローバル規模で若者の失業率が増えているのは何故なのか。私がかき集めた情報によると、グローバル経済そのものが低迷し、全般的に仕事そのものが減っている状況のなかで、学校を卒業したばかりの、経験のない若者が不利益を被っている、という図が浮かび上がってくる。一方では、「定年年齢」を法的に解除した先進国では、ブーマー世代が引き続き仕事を続けている、というか仕事を続けざるを得ない現状もある。ブーマー世代は多額の借金を抱えていることが多く、おまけに子どもたちは大学を出ても就職できないので実家に同居するというケースも増えていて、そのサポート役をしている人たちも多い(これはカナダの状況だけなのかもしれないが)。
(ちなみに、先進国で失業率を比較的低く保っているのはドイツで、ドイツ政府は学校を出たばかりの若者に対して徒弟制度やインターン制度などを提供しており、それが功を奏していると見られている)
若者の失業が、社会に対する憤懣として具現化したのが、アラブ・スプリングであり、世界中に広がっているOccupyの動きである。こうして社会構造の変革を訴える政治的な動きであればまだいいが、一方では憤懣をかかえた人口が暴動化したり、移民や外国人というマイノリティに標的を定めて排斥運動をするような形も見られる。こうした傾向は、最近、ヨーロッパで噴出している移民排斥、マイノリティ弾圧と大きな関係がある。今年7月末、ノルウェー(オスロ)のテロ事件を起こしたブレイビク容疑者の反移民思想を一部の狂信者の妄想と無視するには、部分的に関連する事件がヨーロッパで多数起き過ぎている。
1994年、ジェノサイドが繰り広げられるルワンダに国連平和維持軍司令官として派遣されたロメオ・ダレアが言ったように、将来に希望を持てない人たちはどんな残虐なことにでも手を貸すようになる。失業率を放置する危険性は強調されてしかるべきである。
思うに、戦後続いてきたグローバル経済システムは、破綻の兆候を随所で見せているのではないか。若者の失業率の高さは、その兆候のひとつではないか。Occupyの動きは、金融業界と政治をターゲットにしているが、それよりもっともっと深いところに、実は問題は横たわっていると思う。大量に無駄なものを作っては破壊し、環境を破壊しながら、「消費こそが経済を助ける」という土台に基づいたこのシステムにかわる、新しい経済システムをつくりだす必要があるのではないか。
というのも、若者の失業率の高さは、さまざまな社会問題の根源的原因となっているからである。ここ最近見られる世界を揺るがした事件、たとえばアラブ・スプリングも、Occupy Wall Streetの動きも、さらには今年8月にロンドンを驚愕させた暴動も、中央ヨーロッパ各国やロシアでネオナチが台頭しているのも、直接、あるいは間接的に「若者の失業」問題と関連がある。
昨今では、ILO (International Labour Organization) までグローバル規模で広がっている若者の失業率の高さを懸念する声明を発表した。ILO報告によれば、世界中で失業中の若者は約75 millionにものぼるという。ILOは、若者の失業が長期間続けば、社会基盤を根底から揺るがし、社会の不安定要因になりえる、と警告している。(ちなみに、失業中、というのは仕事を積極的に探している人にあてはまり、仕事探しを諦めた人口は含まれていない)
カナダでは失業率は現在7.3%だが、最近、過去10ヶ月のうち、54,000件もの仕事が失われたというレポートが発表された。失業中の人口をグループわけをしてみると、若者が最も高く、続いて移民という順番となっている。先日、カナダの移民政策における変化について書いたが、仕事探しが行き詰まっているのはなにも移民だけではなく、もっと大変なのは若者というのが事実である。そのため、「海外から移民を受け入れる前に、カナダで職を得られない若者人口を何とかすべき」という意見も最近、ぼつぼつ見受けられるようになっている。
ところで、世界中で、グローバル規模で若者の失業率が増えているのは何故なのか。私がかき集めた情報によると、グローバル経済そのものが低迷し、全般的に仕事そのものが減っている状況のなかで、学校を卒業したばかりの、経験のない若者が不利益を被っている、という図が浮かび上がってくる。一方では、「定年年齢」を法的に解除した先進国では、ブーマー世代が引き続き仕事を続けている、というか仕事を続けざるを得ない現状もある。ブーマー世代は多額の借金を抱えていることが多く、おまけに子どもたちは大学を出ても就職できないので実家に同居するというケースも増えていて、そのサポート役をしている人たちも多い(これはカナダの状況だけなのかもしれないが)。
(ちなみに、先進国で失業率を比較的低く保っているのはドイツで、ドイツ政府は学校を出たばかりの若者に対して徒弟制度やインターン制度などを提供しており、それが功を奏していると見られている)
若者の失業が、社会に対する憤懣として具現化したのが、アラブ・スプリングであり、世界中に広がっているOccupyの動きである。こうして社会構造の変革を訴える政治的な動きであればまだいいが、一方では憤懣をかかえた人口が暴動化したり、移民や外国人というマイノリティに標的を定めて排斥運動をするような形も見られる。こうした傾向は、最近、ヨーロッパで噴出している移民排斥、マイノリティ弾圧と大きな関係がある。今年7月末、ノルウェー(オスロ)のテロ事件を起こしたブレイビク容疑者の反移民思想を一部の狂信者の妄想と無視するには、部分的に関連する事件がヨーロッパで多数起き過ぎている。
1994年、ジェノサイドが繰り広げられるルワンダに国連平和維持軍司令官として派遣されたロメオ・ダレアが言ったように、将来に希望を持てない人たちはどんな残虐なことにでも手を貸すようになる。失業率を放置する危険性は強調されてしかるべきである。
思うに、戦後続いてきたグローバル経済システムは、破綻の兆候を随所で見せているのではないか。若者の失業率の高さは、その兆候のひとつではないか。Occupyの動きは、金融業界と政治をターゲットにしているが、それよりもっともっと深いところに、実は問題は横たわっていると思う。大量に無駄なものを作っては破壊し、環境を破壊しながら、「消費こそが経済を助ける」という土台に基づいたこのシステムにかわる、新しい経済システムをつくりだす必要があるのではないか。
Tuesday, November 8, 2011
ヨーロッパのロマ問題と市民権を得つつあるネオナチ
先週はホロコースト教育ウィークということで、近所のトロント市立図書館でロマ問題についてのレクチャーが開かれていた。
「ホロコースト」といえばユダヤ人虐殺に対してつけられたことばであるが、ナチスによって殺害されたグループのなかには、ほかにもロマや同性愛者、障害者、共産主義者などもいたことを忘れてはならない。
この講演で知ったことだが、ロマにとってナチによる民族虐殺は「ポライモス」と呼ばれ、正確にどれだけの人口が殺害されたかは分かっていないが、戦後、ヨーロッパのロマ人口は3分の1まで激減したという。
ロマとは、インド北西部が起源とされる移動型民族で、ヨーロッパを放浪しながら暮らし、長年、少数民族として差別の対象となってきた。「ジプシー」という名称は、誤解に基づいて外部からつけられた名称であり、この言葉自体が差別用語だとされている。
講演のなかで、ルーマニアからカナダに難民申請している女性の話が出たが、彼女によればルーマニアにおけるロマ迫害のすざまじさといったら想像を絶するものらしい。突然、路上で襲われ、まわりには見ている人もいたうえに、警察もいたというのに彼らは何もせず黙って見ていたという。
ここ十数年ほどのあいだにヨーロッパ全土でネオナチの動きが活発化しているが、少数民族であるロマも迫害の対象になっている。「働かず、盗みを働いている」と言われ嫌悪されているが、ロマであるということを理由に就職や教育をはじめとする経済活動から締め出している社会構造をみると、これはれっきとした迫害であると思われる。
ちなみに、私も最近、新聞記事で知ったことだが、ここ最近、中央ヨーロッパのロマがカナダに難民申請をし、難民として入ってくるケースが非常に増えているという。講演をした女性は、「昨日、ジェイソン・ケニー(移民大臣)と会って、ロマ難民受け入れを要請してきた」と言っていた。
ところで、ルーマニアやハンガリーなどでは、反移民、反ヨーロッパ系の思想をもつ自警団の動きが活発化している。それとともに、同じ思想で動いているネオナチの動きも活発で、ハンガリーでは「ロマを収容所に入れよ」といったようなことを平気で政治家などが発言している。反移民、反外国人というスタンスを示している市長や政治家も実際にいる。ロシアでも数十年にわたって、同じようなネオナチの動きが活発化していて、これはプーチンがパワー・バキュームの後、ナショナリズムを煽り立てた挙句の醜い結末という感じがする。こうした話をちらほらとメディアで読んだり聞いたりしてきたが、その現状はどんどん悪化し、ヨーロッパに暮らす移民、あるいはエスニック・マイノリティにとって大変なことになっている、との思いを講演を聴きながら新たにした。
そうした状況をカナダから見ていると、あまりにもヨーロッパとの違いが明白になってきて、カナダの平和さに感謝の気持ちが湧いてくる。ナショナリズムは国民のあいだに案外簡単に植えつけられるが、一方ではその結末は醜いものであることは、歴史を見ると明らかである。ナショナリズムほど危険で胡散臭いものはない。
「ホロコースト」といえばユダヤ人虐殺に対してつけられたことばであるが、ナチスによって殺害されたグループのなかには、ほかにもロマや同性愛者、障害者、共産主義者などもいたことを忘れてはならない。
この講演で知ったことだが、ロマにとってナチによる民族虐殺は「ポライモス」と呼ばれ、正確にどれだけの人口が殺害されたかは分かっていないが、戦後、ヨーロッパのロマ人口は3分の1まで激減したという。
ロマとは、インド北西部が起源とされる移動型民族で、ヨーロッパを放浪しながら暮らし、長年、少数民族として差別の対象となってきた。「ジプシー」という名称は、誤解に基づいて外部からつけられた名称であり、この言葉自体が差別用語だとされている。
講演のなかで、ルーマニアからカナダに難民申請している女性の話が出たが、彼女によればルーマニアにおけるロマ迫害のすざまじさといったら想像を絶するものらしい。突然、路上で襲われ、まわりには見ている人もいたうえに、警察もいたというのに彼らは何もせず黙って見ていたという。
ここ十数年ほどのあいだにヨーロッパ全土でネオナチの動きが活発化しているが、少数民族であるロマも迫害の対象になっている。「働かず、盗みを働いている」と言われ嫌悪されているが、ロマであるということを理由に就職や教育をはじめとする経済活動から締め出している社会構造をみると、これはれっきとした迫害であると思われる。
ちなみに、私も最近、新聞記事で知ったことだが、ここ最近、中央ヨーロッパのロマがカナダに難民申請をし、難民として入ってくるケースが非常に増えているという。講演をした女性は、「昨日、ジェイソン・ケニー(移民大臣)と会って、ロマ難民受け入れを要請してきた」と言っていた。
ところで、ルーマニアやハンガリーなどでは、反移民、反ヨーロッパ系の思想をもつ自警団の動きが活発化している。それとともに、同じ思想で動いているネオナチの動きも活発で、ハンガリーでは「ロマを収容所に入れよ」といったようなことを平気で政治家などが発言している。反移民、反外国人というスタンスを示している市長や政治家も実際にいる。ロシアでも数十年にわたって、同じようなネオナチの動きが活発化していて、これはプーチンがパワー・バキュームの後、ナショナリズムを煽り立てた挙句の醜い結末という感じがする。こうした話をちらほらとメディアで読んだり聞いたりしてきたが、その現状はどんどん悪化し、ヨーロッパに暮らす移民、あるいはエスニック・マイノリティにとって大変なことになっている、との思いを講演を聴きながら新たにした。
そうした状況をカナダから見ていると、あまりにもヨーロッパとの違いが明白になってきて、カナダの平和さに感謝の気持ちが湧いてくる。ナショナリズムは国民のあいだに案外簡単に植えつけられるが、一方ではその結末は醜いものであることは、歴史を見ると明らかである。ナショナリズムほど危険で胡散臭いものはない。
Monday, November 7, 2011
カナダ移民政策の転換
カナダの移民政策に重要な変化が見られている。
先日、CBCラジオの Metro Morningで、Jason Kenny(保守党政府のImmigration Minister) が、来年度の移民政策についてインタビューを受けていた。ケニーによれば、カナダ政府は当面は移民の受け入れ数を現状維持としておきたいが、誰を受け入れるかに関しては政策に変化があるという。カナダはこれまで「技術移民Skilled worker」クラスの移民の呼び込みに最も積極的であったが、今後この傾向はさらに加速するという。一方、減少傾向にあるのは、スパウス(合法的結婚をしている、あるいは同棲パートナー、家族クラス)とその子どもたち、そしてlive-in caregiver(ナニー)プログラム(このプログラムについてはリンク参照:http://torontostew.blogspot.com/2010/11/blog-post_27.html)。また、ケニーによれば、2012年には240,000から265,000人を目標にしているという(カナダは毎年、全人口の1%にあたる移民をターゲットとして受け入れている)。
また、最も大きな変化のひとつは、両親、祖父母の呼び寄せプログラムで、このプログラムを2年間モラトリアムとすることとし、今後2年間は申請ができなくなること。そのかわりに、8週間ほどで申請許可がおりるスーパービザの発行が始まり、これによると親族は10年の間に最長2年間継続して滞在することができるようになるという。ただ、もちろんこれはビジタービザなので、滞在中の医療費は自分持ち、さらには$17K/yrの所持金が必要となる(つまり、カナダ政府の世話にならないのであれば、長期滞在は大歓迎、というスタンス)。
どの移民国でもそうだが、カナダが求めている移民は、カナダの経済に最もスムースに適合するカテゴリーの移民である。今回の政策変更を見る限り、カナダ政府が欲しい移民の像とは、独身で、英語かフランス語ができ、大学、または大学院レベルの高等教育を受けた専門職クラスの人、ということになる。数年前に設置された比較的新しいカテゴリー、the Canadian Experience Classでの申請は、移民申請から移民許可が下りるまでの時間が最も早急になされるという。このカテゴリーに相当するのは、カナダの高等教育を受け、英語フランス語のどちらかの言語に堪能な若い人たち。the Canadian Experience Classでの受け入れ移民数は2009年には2545人であったが、2012年には7000人に増加すると見込まれている。
インタビューで、ケニーは世界の先進国で移民競争が加速していることを強調し、カナダは現状の経済に見合った移民を受け入れる必要性を繰り返していた。さらに、カナダには、たとえばヨーロッパ諸国に比べると移民排斥を目指す政党はないし、一般のカナダ人も移民をあたたかく迎え入れているため、ヨーロッパで昨今見られる移民排斥の動きを心配する必要はない、と言っていた。
歴史的に見て、移民政策にどちらかというと消極的な保守党も、現状の経済水準を維持するためには移民数の維持が必要、という点では合意しているようだ。しかし、リベラル(自由)党政府との違いは、移民の選別に表れている。とりわけ問題の多い家族クラスや難民クラスをなるべく減らし、カナダ経済に寄与してくれそうな技術移民を積極的に受け入れることがその特徴である。家族クラスでは、最近、偽装結婚の問題が取り上げられており、難民クラスは難民申請をしてから後に国が生活費を提供しなくてはならないことから、どちらかというと問題が多いのである。また、保守党政権になって、移民に対する生活補助のSettlementプログラム予算は年々削減傾向にある。
カナダの移民問題の大きな課題のひとつは、受け入れた移民が自らのスキルをカナダ社会に還元できるような就職先を保障できる環境が作り出せるかどうか、である。カナダはニュージーランド同様、人口比でみると移民受け入れ数が最も高い国である。また、カナダの移民政策は、the best and brightestという言葉で知られる通り、世界でも最も優れた人材を集めることが基本である。そして、実際に移民でトロントに住んでいる人たちの大半が高学歴、技術職の人が多く見られる。就職エージェンシーでは、こうした元エンジニア、元IT技術者、元教師、元ビジネス・コンサルタントなどが多数、仕事を探している。私たちが実際に知っているのは、こうした移民たちが自分たちのスキルを活かせず、仕事が見つからず通常は賃金の安い仕事についているか(トロントのタクシー運転手の大半が博士号を持っている、というのはジョークにもならない事実)、失望して自国に帰国するか、あるいは最悪のケースは生活保護を受けている現実である。
この問題の鍵を握っているのは、いうまでもなく雇用者である。最近出されたある研究結果によると、アングロナイズされた名前の履歴書を送ると、非アングロサクソン系の名前より面接に呼ばれる可能性がはるかに高いということだ(10年ほど前にも同じ研究結果が出ている)。ことばや習慣の問題、会社の雰囲気にあっているかどうか、という点を雇用者は気にしているようだが、どこかに移民に対する偏見が見え隠れしているように思う。実際、移民といってもアメリカやイギリス、ヨーロッパからの英語の堪能な移民にとっては、就職は比較的難がない。
確かに連邦政府(あるいは州政府)の移民政策は、かなり公正であると思う。ただ、だからといってカナダでは移民差別がないというわけではなく、この国では制度上の差別はすでに撤廃されているが、実際問題としてみると、個々の心のなかにほんのわずかな偏見が残っている、というのが私の感じであり、これこそがカナダに移住した移民が数年後に気付くフラストレーションなのではないか。
先日、CBCラジオの Metro Morningで、Jason Kenny(保守党政府のImmigration Minister) が、来年度の移民政策についてインタビューを受けていた。ケニーによれば、カナダ政府は当面は移民の受け入れ数を現状維持としておきたいが、誰を受け入れるかに関しては政策に変化があるという。カナダはこれまで「技術移民Skilled worker」クラスの移民の呼び込みに最も積極的であったが、今後この傾向はさらに加速するという。一方、減少傾向にあるのは、スパウス(合法的結婚をしている、あるいは同棲パートナー、家族クラス)とその子どもたち、そしてlive-in caregiver(ナニー)プログラム(このプログラムについてはリンク参照:http://torontostew.blogspot.com/2010/11/blog-post_27.html)。また、ケニーによれば、2012年には240,000から265,000人を目標にしているという(カナダは毎年、全人口の1%にあたる移民をターゲットとして受け入れている)。
また、最も大きな変化のひとつは、両親、祖父母の呼び寄せプログラムで、このプログラムを2年間モラトリアムとすることとし、今後2年間は申請ができなくなること。そのかわりに、8週間ほどで申請許可がおりるスーパービザの発行が始まり、これによると親族は10年の間に最長2年間継続して滞在することができるようになるという。ただ、もちろんこれはビジタービザなので、滞在中の医療費は自分持ち、さらには$17K/yrの所持金が必要となる(つまり、カナダ政府の世話にならないのであれば、長期滞在は大歓迎、というスタンス)。
どの移民国でもそうだが、カナダが求めている移民は、カナダの経済に最もスムースに適合するカテゴリーの移民である。今回の政策変更を見る限り、カナダ政府が欲しい移民の像とは、独身で、英語かフランス語ができ、大学、または大学院レベルの高等教育を受けた専門職クラスの人、ということになる。数年前に設置された比較的新しいカテゴリー、the Canadian Experience Classでの申請は、移民申請から移民許可が下りるまでの時間が最も早急になされるという。このカテゴリーに相当するのは、カナダの高等教育を受け、英語フランス語のどちらかの言語に堪能な若い人たち。the Canadian Experience Classでの受け入れ移民数は2009年には2545人であったが、2012年には7000人に増加すると見込まれている。
インタビューで、ケニーは世界の先進国で移民競争が加速していることを強調し、カナダは現状の経済に見合った移民を受け入れる必要性を繰り返していた。さらに、カナダには、たとえばヨーロッパ諸国に比べると移民排斥を目指す政党はないし、一般のカナダ人も移民をあたたかく迎え入れているため、ヨーロッパで昨今見られる移民排斥の動きを心配する必要はない、と言っていた。
歴史的に見て、移民政策にどちらかというと消極的な保守党も、現状の経済水準を維持するためには移民数の維持が必要、という点では合意しているようだ。しかし、リベラル(自由)党政府との違いは、移民の選別に表れている。とりわけ問題の多い家族クラスや難民クラスをなるべく減らし、カナダ経済に寄与してくれそうな技術移民を積極的に受け入れることがその特徴である。家族クラスでは、最近、偽装結婚の問題が取り上げられており、難民クラスは難民申請をしてから後に国が生活費を提供しなくてはならないことから、どちらかというと問題が多いのである。また、保守党政権になって、移民に対する生活補助のSettlementプログラム予算は年々削減傾向にある。
カナダの移民問題の大きな課題のひとつは、受け入れた移民が自らのスキルをカナダ社会に還元できるような就職先を保障できる環境が作り出せるかどうか、である。カナダはニュージーランド同様、人口比でみると移民受け入れ数が最も高い国である。また、カナダの移民政策は、the best and brightestという言葉で知られる通り、世界でも最も優れた人材を集めることが基本である。そして、実際に移民でトロントに住んでいる人たちの大半が高学歴、技術職の人が多く見られる。就職エージェンシーでは、こうした元エンジニア、元IT技術者、元教師、元ビジネス・コンサルタントなどが多数、仕事を探している。私たちが実際に知っているのは、こうした移民たちが自分たちのスキルを活かせず、仕事が見つからず通常は賃金の安い仕事についているか(トロントのタクシー運転手の大半が博士号を持っている、というのはジョークにもならない事実)、失望して自国に帰国するか、あるいは最悪のケースは生活保護を受けている現実である。
この問題の鍵を握っているのは、いうまでもなく雇用者である。最近出されたある研究結果によると、アングロナイズされた名前の履歴書を送ると、非アングロサクソン系の名前より面接に呼ばれる可能性がはるかに高いということだ(10年ほど前にも同じ研究結果が出ている)。ことばや習慣の問題、会社の雰囲気にあっているかどうか、という点を雇用者は気にしているようだが、どこかに移民に対する偏見が見え隠れしているように思う。実際、移民といってもアメリカやイギリス、ヨーロッパからの英語の堪能な移民にとっては、就職は比較的難がない。
確かに連邦政府(あるいは州政府)の移民政策は、かなり公正であると思う。ただ、だからといってカナダでは移民差別がないというわけではなく、この国では制度上の差別はすでに撤廃されているが、実際問題としてみると、個々の心のなかにほんのわずかな偏見が残っている、というのが私の感じであり、これこそがカナダに移住した移民が数年後に気付くフラストレーションなのではないか。
Tuesday, November 1, 2011
フカヒレ禁止は中国文化に対する差別的待遇か、という問い
10月下旬、トロント市議会はシャークフィン(フカヒレ)の販売、所有を禁止する法を可決し、来年の9月1日には法施行することが決められた。このブログでも数回にわたってトロント市の動きをアップデートしてきたが、今日はこのフカヒレ禁止が中国文化に対する差別かどうか、に焦点を絞って書いてみたい。
もちろん、差別に違いない、という声は中国系コミュニティを中心に出ている。市議会での決議がなされる当日、中国系の商工会は地方紙に全面広告を掲載した。その広告は「シャーク・ステーキを料理して出すことに問題はなくて、フカヒレのスープを出せば多額の罰金が課される」ことに対する矛盾をついていた。私も部分的にそう思っていた。
そもそも、フカヒレに反対する勢力は、フカヒレ漁の仕方が残酷であるといってフカヒレ消費を反対している。フカヒレ漁とは、ヒレだけ切り取って残りを海に戻すやり方だが、サメはそのうち大量の出血が原因で死んでしまう。
一方、世界中でシャーク(サメ)が消費されているのは事実であり、トロントでもスーパーにいけば「シャーク・ステーキ」の切り身は簡単に見つかる。ということならば、フカヒレを禁止するよりも、フカヒレ漁のやり方を変えればいいんじゃないか、と私は思うのだけれど、どうなのだろう。だいたい、サンフランシスコやトロントでフカヒレをメニューに出すこと、フカヒレを売ることを禁止するというのでは、フカヒレ反対勢力が否定しているフカヒレ漁のやりかたを抜本的に変え、苦しみのなかで死ぬシャークを劇的に助けることにはならない。
グローバライゼーション。食品の出所は海外であるという事実。この事実もあわせて考える必要がある。北米で消費されるシャークはアジアで捕獲されたものが大半で、トロント市としては海外の漁業の仕方を変える力はない。せいぜい、私が食肉産業に対してやっているのと同じような、消費者によるボイコットくらいしかできないのだ。
そう考えると、恐らく、フカヒレ禁止の動きは動物愛護の動きに対する、「トロント」のイメージを上げるためのトークニズムではないか、と思えてくる。
ついでに言うと、特別な日のアイテムとして珍重されているフカヒレ・スープが中国文化の象徴であることを考え合わせると、フカヒレだけをターゲットにするのなら、中国文化に対する差別的待遇ではないか、と問いただしたくなる気持ちもうなづける。
フォアグラはどうなのか。エスカルゴはどうなのか。馬の肉はどうなのか。くじらはどうなのか。
同時に、北米のスローターハウスで日々残酷なやり方で殺されている牛や、卵を産まされ続けている鶏などの扱いも、フカヒレ漁に比べると「人間的」と言えるのか。
文化という壁を突き抜けて見るとき、さまざまな食べものを食べる「正当性」の基準が揺らいでくる。何を食べて是とするか、は、文化によって、あるいは時代によっても異なる。つまり、食べ物の正当性の基準は絶対ではない。だからこそ、食べ物そのもの、ではなくて、「狩猟の仕方」や「屠殺の仕方」あるいは「飼育の仕方」に焦点を絞ることの方がずっと的を得ているという気がする。トロントで「フカヒレ」は禁止されたけれど、同じような議論が他の食べ物に対して出てくるのは時間の問題だと思われる。
もちろん、差別に違いない、という声は中国系コミュニティを中心に出ている。市議会での決議がなされる当日、中国系の商工会は地方紙に全面広告を掲載した。その広告は「シャーク・ステーキを料理して出すことに問題はなくて、フカヒレのスープを出せば多額の罰金が課される」ことに対する矛盾をついていた。私も部分的にそう思っていた。
そもそも、フカヒレに反対する勢力は、フカヒレ漁の仕方が残酷であるといってフカヒレ消費を反対している。フカヒレ漁とは、ヒレだけ切り取って残りを海に戻すやり方だが、サメはそのうち大量の出血が原因で死んでしまう。
一方、世界中でシャーク(サメ)が消費されているのは事実であり、トロントでもスーパーにいけば「シャーク・ステーキ」の切り身は簡単に見つかる。ということならば、フカヒレを禁止するよりも、フカヒレ漁のやり方を変えればいいんじゃないか、と私は思うのだけれど、どうなのだろう。だいたい、サンフランシスコやトロントでフカヒレをメニューに出すこと、フカヒレを売ることを禁止するというのでは、フカヒレ反対勢力が否定しているフカヒレ漁のやりかたを抜本的に変え、苦しみのなかで死ぬシャークを劇的に助けることにはならない。
グローバライゼーション。食品の出所は海外であるという事実。この事実もあわせて考える必要がある。北米で消費されるシャークはアジアで捕獲されたものが大半で、トロント市としては海外の漁業の仕方を変える力はない。せいぜい、私が食肉産業に対してやっているのと同じような、消費者によるボイコットくらいしかできないのだ。
そう考えると、恐らく、フカヒレ禁止の動きは動物愛護の動きに対する、「トロント」のイメージを上げるためのトークニズムではないか、と思えてくる。
ついでに言うと、特別な日のアイテムとして珍重されているフカヒレ・スープが中国文化の象徴であることを考え合わせると、フカヒレだけをターゲットにするのなら、中国文化に対する差別的待遇ではないか、と問いただしたくなる気持ちもうなづける。
フォアグラはどうなのか。エスカルゴはどうなのか。馬の肉はどうなのか。くじらはどうなのか。
同時に、北米のスローターハウスで日々残酷なやり方で殺されている牛や、卵を産まされ続けている鶏などの扱いも、フカヒレ漁に比べると「人間的」と言えるのか。
文化という壁を突き抜けて見るとき、さまざまな食べものを食べる「正当性」の基準が揺らいでくる。何を食べて是とするか、は、文化によって、あるいは時代によっても異なる。つまり、食べ物の正当性の基準は絶対ではない。だからこそ、食べ物そのもの、ではなくて、「狩猟の仕方」や「屠殺の仕方」あるいは「飼育の仕方」に焦点を絞ることの方がずっと的を得ているという気がする。トロントで「フカヒレ」は禁止されたけれど、同じような議論が他の食べ物に対して出てくるのは時間の問題だと思われる。
Monday, October 17, 2011
言論の自由 対 マイノリティの保護: ヘイト・スピーチの行方
現在、カナダ最高裁判所では、ここ数十年のうちで最も重要とされる裁判が審議されている。この裁判は、最も重要であると同時に、最も複雑な裁判であり、出された判決は今後のカナダ社会における言論の自由に多大な影響を与えると見られる。
裁判の発端は、サスカッチュワン州のウィリアム・ワットコットが配布していたパンフレット。パンフレットは、同性愛を教えることを義務づけた同州の教育方針を批判し、同性愛者の生活のスタイルをSodomite(肛門性交をする人、男色者の意味)と呼ぶなど、同性愛や同性愛者に対する批判が盛られていた。この後、パンフレットを読んだ一部の市民からSHRC(サスカッチュワン州人権評議会)へ苦情が寄せられ、その結果、2005年、裁判所はワットコット氏に「Hate crime/ヘイトクライム(憎悪をあおる表現をした罪)」の罪で有罪とし、17,500ドルの罰金を課した。ワットコット氏はこれを「自らのFreedom of Speech/表現の自由が侵害されている」として控訴、最終判断は最高裁判所に委ねられることになった。
カナダには、日本には存在しないHate speech lawという法律がある。この法律は、マイノリティの権利を守ることを目的とした法律で、ヘイトクライムは、聞いた人たちが不快に思ったり、それにより社会全体にステレオタイプを広げるような表現を広めたことに対する罪となっている。
一方、北米社会で最も尊重されてきた法律のひとつがFreedom Of speech(表現の自由)。自分の考えや思想を誰もが自由に表現する権利を認めている。
連邦政府と同じように、サスカッチュワン州の人権に関する法律には、表現の自由は、それが憎悪を煽ることを目的としている場合には表現の自由は限られる、とされている(ちなみに、州にかなりの権力と権利を認めているカナダでは各州にそれぞれ人権に関する法律が存在する)。
一言で言えば、今回の裁判の争点は、表現の自由とヘイト・スピーチの対立ということになり、表現の自由はヘイトスピーチによって縮小されるべきではないと主張する側と、表現の自由以上にマイノリティの権利を守ることの方が社会全般には利が大きいとする側との対立、ということになる。しかし、この裁判をより複雑にしているのは、「どこまでがヘイト・スピーチにあたるか」という判断であり、宗教的信念などを表現すれば誰かが気分を害するのが現実で、この線引きを任せられた法廷にとっては、非常に複雑な決定となる。
私が見る限り、これまでのカナダにおける判決をみるとどちらかというとヘイト・スピーチにより重点が置かれ、表現の自由が制限され続けてきた、という気がする。ただ、今回、新聞の報道を読む限り、この傾向が多少変化する可能性があるように思われる。
さきに、これまでカナダはどちらかというと表現の自由を制限する傾向にあった、と述べたが、それには最高裁判所判事のRosalie Abellaロザリー・アベラの法曹界における影響力を考える必要があると思う。ロザリー・アベラは第二次世界大戦後、ドイツのDPキャンプ(難民キャンプ)で生まれ、カナダ最高裁判所初のユダヤ系女性判事となった。彼女はマイノリティの権利を守ることに法的生命をかけてきた女性である。ヨーロッパでユダヤ系が被ってきたこれまでの差別的待遇、それにより600万人のユダヤ系が命を奪われてきた歴史、それを考えると、表現の自由とヘイト・スピーチを秤にかけたとき、表現の自由が制限されるのは理に適っている。
表現の自由とヘイトクライム今までにもたびたび法廷で対立しあってきた。ただし、そのたびに、「では、どこまでがヘイト・スピーチにあたるのか」という問いに対して、カナダ国民が納得するような結論を出してくることができなかった。
個人的には、宗教が絡むとこの問題はますます複雑になるという気がする。誰かが言ってたように「もし、アンチ・ゲイ的発言がすべてヘイト・スピーチなら、最初に罰せられるべきは聖書」というのもうなづけるし、ルーテル教会の信者ワットコット氏は心の底からゲイは罪であると信じているわけであるし、それと「共産主義者は世界を破壊している」という政治的信念の表現と何が違うのか、という意見もうなづける。
とはいっても、やはりヘイト・スピーチを切り崩すことには余りにも懸念が大きい。国で最大の法的権限を与えられた最高裁判所が、社会的に弱い立場にいるマイノリティの権利を守る姿勢を見せることは象徴的意味のあることだと思う。
裁判の発端は、サスカッチュワン州のウィリアム・ワットコットが配布していたパンフレット。パンフレットは、同性愛を教えることを義務づけた同州の教育方針を批判し、同性愛者の生活のスタイルをSodomite(肛門性交をする人、男色者の意味)と呼ぶなど、同性愛や同性愛者に対する批判が盛られていた。この後、パンフレットを読んだ一部の市民からSHRC(サスカッチュワン州人権評議会)へ苦情が寄せられ、その結果、2005年、裁判所はワットコット氏に「Hate crime/ヘイトクライム(憎悪をあおる表現をした罪)」の罪で有罪とし、17,500ドルの罰金を課した。ワットコット氏はこれを「自らのFreedom of Speech/表現の自由が侵害されている」として控訴、最終判断は最高裁判所に委ねられることになった。
カナダには、日本には存在しないHate speech lawという法律がある。この法律は、マイノリティの権利を守ることを目的とした法律で、ヘイトクライムは、聞いた人たちが不快に思ったり、それにより社会全体にステレオタイプを広げるような表現を広めたことに対する罪となっている。
一方、北米社会で最も尊重されてきた法律のひとつがFreedom Of speech(表現の自由)。自分の考えや思想を誰もが自由に表現する権利を認めている。
連邦政府と同じように、サスカッチュワン州の人権に関する法律には、表現の自由は、それが憎悪を煽ることを目的としている場合には表現の自由は限られる、とされている(ちなみに、州にかなりの権力と権利を認めているカナダでは各州にそれぞれ人権に関する法律が存在する)。
一言で言えば、今回の裁判の争点は、表現の自由とヘイト・スピーチの対立ということになり、表現の自由はヘイトスピーチによって縮小されるべきではないと主張する側と、表現の自由以上にマイノリティの権利を守ることの方が社会全般には利が大きいとする側との対立、ということになる。しかし、この裁判をより複雑にしているのは、「どこまでがヘイト・スピーチにあたるか」という判断であり、宗教的信念などを表現すれば誰かが気分を害するのが現実で、この線引きを任せられた法廷にとっては、非常に複雑な決定となる。
私が見る限り、これまでのカナダにおける判決をみるとどちらかというとヘイト・スピーチにより重点が置かれ、表現の自由が制限され続けてきた、という気がする。ただ、今回、新聞の報道を読む限り、この傾向が多少変化する可能性があるように思われる。
さきに、これまでカナダはどちらかというと表現の自由を制限する傾向にあった、と述べたが、それには最高裁判所判事のRosalie Abellaロザリー・アベラの法曹界における影響力を考える必要があると思う。ロザリー・アベラは第二次世界大戦後、ドイツのDPキャンプ(難民キャンプ)で生まれ、カナダ最高裁判所初のユダヤ系女性判事となった。彼女はマイノリティの権利を守ることに法的生命をかけてきた女性である。ヨーロッパでユダヤ系が被ってきたこれまでの差別的待遇、それにより600万人のユダヤ系が命を奪われてきた歴史、それを考えると、表現の自由とヘイト・スピーチを秤にかけたとき、表現の自由が制限されるのは理に適っている。
表現の自由とヘイトクライム今までにもたびたび法廷で対立しあってきた。ただし、そのたびに、「では、どこまでがヘイト・スピーチにあたるのか」という問いに対して、カナダ国民が納得するような結論を出してくることができなかった。
個人的には、宗教が絡むとこの問題はますます複雑になるという気がする。誰かが言ってたように「もし、アンチ・ゲイ的発言がすべてヘイト・スピーチなら、最初に罰せられるべきは聖書」というのもうなづけるし、ルーテル教会の信者ワットコット氏は心の底からゲイは罪であると信じているわけであるし、それと「共産主義者は世界を破壊している」という政治的信念の表現と何が違うのか、という意見もうなづける。
とはいっても、やはりヘイト・スピーチを切り崩すことには余りにも懸念が大きい。国で最大の法的権限を与えられた最高裁判所が、社会的に弱い立場にいるマイノリティの権利を守る姿勢を見せることは象徴的意味のあることだと思う。
Saturday, October 15, 2011
広がるフカヒレ禁止の動き
北米で最大のフカヒレ消費州のカリフォルニアでは、すでに法的に禁止されたフカヒレだが、カナダでも各都市でフカヒレ禁止の動きが加速している。
オンタリオ州では、今までにブラントフォード、オークビルでは7月に、ミシサガでも市議会での決議を経てフカヒレの販売が禁止され、昨日(10月13日)はトロント市議会のコミッティで投票があり、結果的に満場一致でフカヒレ禁止が採択されたことから、今後、市議会での議論を経て、市の条例としてフカヒレ禁止へと動いていく模様。
問題点のひとつは、こうして各都市での禁止が継ぎ接ぎ的(パッチワーク的?)措置になり、たとえば、トロントで禁止されているが、隣のマーカム市へ行けばフカヒレが売られているという状況になっている点。そのため、食品販売会社やレストランにとっては、非常に不利であるとされ、国単位でのフカヒレ禁止を求める声も一部にある。
オンタリオ州では、今までにブラントフォード、オークビルでは7月に、ミシサガでも市議会での決議を経てフカヒレの販売が禁止され、昨日(10月13日)はトロント市議会のコミッティで投票があり、結果的に満場一致でフカヒレ禁止が採択されたことから、今後、市議会での議論を経て、市の条例としてフカヒレ禁止へと動いていく模様。
問題点のひとつは、こうして各都市での禁止が継ぎ接ぎ的(パッチワーク的?)措置になり、たとえば、トロントで禁止されているが、隣のマーカム市へ行けばフカヒレが売られているという状況になっている点。そのため、食品販売会社やレストランにとっては、非常に不利であるとされ、国単位でのフカヒレ禁止を求める声も一部にある。
Friday, October 14, 2011
ウォールストリート占拠:corporate greedと不正義としての世界経済システム
Occupy Wall Streetの動きは、10月1日に700人が逮捕された後、教職員組合などの労働組合のみならず、オバマ大統領をはじめとする政治家、資本家、またセレブなどもサポート、あるいは少なくとも理解を示し、大手メディアがこぞってリポートし続けている。また、アメリカ全土、世界中からこの動きをサポートしようと、寄付、食糧や水、毛布や衣服などが次々と届いている。
はっきりした目的がないこと、指導者がいないことなどから、組織的な弱さも指摘されているが、この運動は、今まで社会運動や政治運動のターゲットとされるることのなかった大企業と彼らが牛耳っている経済システムの変革、少なくともこうした経済的Practiceに異を唱えているという点で、世界を変える可能性を秘めていると思う。ジャック・レイトンが唱えていた「一握りの富豪が富をほしいままにするのではなく、その富をより平等に分配できる経済システム」を確立することは可能なのだろうか。
カナダから見ているとアメリカの現実がいかに切迫しているかがよく把握できないが、トロントでアクティビストとして活動している友人によれば、状況は今までのアメリカでは見られなかったほど悪化していると言う。家を失ったり、仕事を失ったり、それに伴って家族関係が悪化したり。
統計によれば、アメリカでは19歳から25歳人口の失業率は40パーセントにまで達しているという。将来に希望が持てず、教育費は増加の一方をたどり、借金してまで大学を出ても仕事は見つからない。こうした状況にあって、市民のcorporate greedに対する不信感、怒りは今や許容できないほどになっている。
ほんの数週間前に始まったウォールストリートの占拠だが、振り返って見ると、この運動が内包するエネルギーは時間をかけて醸成されてきたように思う。
ここ10年ほどの間に、北米のライター、ジャーナリストの作品のうち(メインストリームメディアも含めて)、大企業の内実を暴いた著作、一方で搾取され続ける人たちのストーリー、ドキュメンタリー作品、「99%」の国民の声を代弁するような読み物が続々と生み出されてきた。
今、思いつくだけでも、マイケル・ムーアのCapitalism: A Love Storyや、食品業界の大企業による搾取や残虐性を暴いたEric Schlosser(エリック・シュロッサー)の著作Fast Food Nation(映画にもなった)、同じころの作品としてMorgan SpurlockのSupersize Meというのもあった。さらに、カナダ人でUBCの教授Joel BakanのThe Corporation(コーポレーション)はドキュメンタリーになり、世界で大きな反響を呼んだ。同じ系列のジャーナリズム作品のうち最も新しい作品としては、ウォール・ストリート(金融業界)の内情を暴いたInside Job(2010年)がある。
これらの作品が描き出したのは、まさにCorporate Greed(企業の強欲さ)のすざまじさと、それを支えるような政治家によるサポートであった。それは、私たちのように税金をきちんと納めている小市民にとっては、信じ難いほど強烈な強欲さである。さらには、これに輪をかけて市民の怒りに油をそそいだのは、こうした一部の大企業や資産家が搾取しやすいように行政や法整備を取り仕切ってきた政府の態度である。政治と金という大きな権力が結びついている国では、お金持ちはどんどんお金持ちになり、下層部は這い上がれる望みすらもてない。ルパート・マードックの厚かましさや、「税金なんて、小さな人間が支払うもので、本当のお金持ちは税金なんて払わない」と言い放った富豪(名前は忘れてしまった)などを笑っている時代は過ぎた。そして、今、北米人独特のシニシズムを超えて、不信感および怒りの感情は、Occupy Wall Streetという従来では考えられなかった社会的行動として現出したというべきだろう。
個人的には、Occupy Wall Street運動に共鳴するひとりだが、一方、この「99%」という表現にアイロニーを感じざるを得ない。彼らはアメリカ社会では「99%」であるが、グローバル社会でみれば、ピラミッドの上部に位置している。よく知られている「もし世界が100人の村だったら」には、「6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍 」、「80人は標準以下の居住環境に住み 70人は文字が読めません」、「50人は栄養失調に苦しみ」、「1人は大学教育を受け」「そしてたった1人だけがコンピュータを所有しています」とある。
こう見てみると、アメリカの「99%」は何というPrivilegesだという思いが湧きあがってくる(かくいう私もそのひとり)。
最近、核兵器や原発の問題、女性問題を調べていて、いつも最終的にぶち当たる壁に気付いた。それは、Occupy Wall Streetの参加者たちが気付いたのと同じく、「現在の経済システムはごく一握りの人だけが巨額の富を手にできるシステムなのだ」という気付きである。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、このシステムだけが唯一の経済システムとして機能している。しかし、このシステムはポスト・コロニアリズムに根ざした「不均衡」や「搾取」といった不正義の要素を色濃く包括した問題のあるシステムである。このシステムが続く限り、いくらビル・ゲイツがチャリティに精を出したとしても、根本的解決には至らないだろう。
それで思ったのだが、こういうことは可能だろうか。この不正義の世界経済システムにある99%の人たちが、このシステムの改善(打倒)を求めて運動を起こす、というのは?
今回マンハッタンで始まったOccupy Wall Streetは、そうしたグローバル規模の(経済システム打倒)運動へと発展する可能性を秘めてはいないだろうか? 目下、ヨーロッパで展開している経済危機を見ても明らかだが、今日の経済システムは1国だけが取り組めるような問題ではない。グローバル経済システムの現実を見るなら、Occupy Wall Street運動もグローバル・レベルの「99%」を代表する声として聞かれるまで拡大していく必要があると思う。
Read the related article on this blog 関連記事:
http://torontostew.blogspot.com/2011/10/blog-post_04.html
http://torontostew.blogspot.com/2011/10/occupy-wall-street.html
はっきりした目的がないこと、指導者がいないことなどから、組織的な弱さも指摘されているが、この運動は、今まで社会運動や政治運動のターゲットとされるることのなかった大企業と彼らが牛耳っている経済システムの変革、少なくともこうした経済的Practiceに異を唱えているという点で、世界を変える可能性を秘めていると思う。ジャック・レイトンが唱えていた「一握りの富豪が富をほしいままにするのではなく、その富をより平等に分配できる経済システム」を確立することは可能なのだろうか。
カナダから見ているとアメリカの現実がいかに切迫しているかがよく把握できないが、トロントでアクティビストとして活動している友人によれば、状況は今までのアメリカでは見られなかったほど悪化していると言う。家を失ったり、仕事を失ったり、それに伴って家族関係が悪化したり。
統計によれば、アメリカでは19歳から25歳人口の失業率は40パーセントにまで達しているという。将来に希望が持てず、教育費は増加の一方をたどり、借金してまで大学を出ても仕事は見つからない。こうした状況にあって、市民のcorporate greedに対する不信感、怒りは今や許容できないほどになっている。
ほんの数週間前に始まったウォールストリートの占拠だが、振り返って見ると、この運動が内包するエネルギーは時間をかけて醸成されてきたように思う。
ここ10年ほどの間に、北米のライター、ジャーナリストの作品のうち(メインストリームメディアも含めて)、大企業の内実を暴いた著作、一方で搾取され続ける人たちのストーリー、ドキュメンタリー作品、「99%」の国民の声を代弁するような読み物が続々と生み出されてきた。
今、思いつくだけでも、マイケル・ムーアのCapitalism: A Love Storyや、食品業界の大企業による搾取や残虐性を暴いたEric Schlosser(エリック・シュロッサー)の著作Fast Food Nation(映画にもなった)、同じころの作品としてMorgan SpurlockのSupersize Meというのもあった。さらに、カナダ人でUBCの教授Joel BakanのThe Corporation(コーポレーション)はドキュメンタリーになり、世界で大きな反響を呼んだ。同じ系列のジャーナリズム作品のうち最も新しい作品としては、ウォール・ストリート(金融業界)の内情を暴いたInside Job(2010年)がある。
これらの作品が描き出したのは、まさにCorporate Greed(企業の強欲さ)のすざまじさと、それを支えるような政治家によるサポートであった。それは、私たちのように税金をきちんと納めている小市民にとっては、信じ難いほど強烈な強欲さである。さらには、これに輪をかけて市民の怒りに油をそそいだのは、こうした一部の大企業や資産家が搾取しやすいように行政や法整備を取り仕切ってきた政府の態度である。政治と金という大きな権力が結びついている国では、お金持ちはどんどんお金持ちになり、下層部は這い上がれる望みすらもてない。ルパート・マードックの厚かましさや、「税金なんて、小さな人間が支払うもので、本当のお金持ちは税金なんて払わない」と言い放った富豪(名前は忘れてしまった)などを笑っている時代は過ぎた。そして、今、北米人独特のシニシズムを超えて、不信感および怒りの感情は、Occupy Wall Streetという従来では考えられなかった社会的行動として現出したというべきだろう。
個人的には、Occupy Wall Street運動に共鳴するひとりだが、一方、この「99%」という表現にアイロニーを感じざるを得ない。彼らはアメリカ社会では「99%」であるが、グローバル社会でみれば、ピラミッドの上部に位置している。よく知られている「もし世界が100人の村だったら」には、「6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍 」、「80人は標準以下の居住環境に住み 70人は文字が読めません」、「50人は栄養失調に苦しみ」、「1人は大学教育を受け」「そしてたった1人だけがコンピュータを所有しています」とある。
こう見てみると、アメリカの「99%」は何というPrivilegesだという思いが湧きあがってくる(かくいう私もそのひとり)。
最近、核兵器や原発の問題、女性問題を調べていて、いつも最終的にぶち当たる壁に気付いた。それは、Occupy Wall Streetの参加者たちが気付いたのと同じく、「現在の経済システムはごく一握りの人だけが巨額の富を手にできるシステムなのだ」という気付きである。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、このシステムだけが唯一の経済システムとして機能している。しかし、このシステムはポスト・コロニアリズムに根ざした「不均衡」や「搾取」といった不正義の要素を色濃く包括した問題のあるシステムである。このシステムが続く限り、いくらビル・ゲイツがチャリティに精を出したとしても、根本的解決には至らないだろう。
それで思ったのだが、こういうことは可能だろうか。この不正義の世界経済システムにある99%の人たちが、このシステムの改善(打倒)を求めて運動を起こす、というのは?
今回マンハッタンで始まったOccupy Wall Streetは、そうしたグローバル規模の(経済システム打倒)運動へと発展する可能性を秘めてはいないだろうか? 目下、ヨーロッパで展開している経済危機を見ても明らかだが、今日の経済システムは1国だけが取り組めるような問題ではない。グローバル経済システムの現実を見るなら、Occupy Wall Street運動もグローバル・レベルの「99%」を代表する声として聞かれるまで拡大していく必要があると思う。
Read the related article on this blog 関連記事:
http://torontostew.blogspot.com/2011/10/blog-post_04.html
http://torontostew.blogspot.com/2011/10/occupy-wall-street.html
Wednesday, October 12, 2011
外国人1万人に航空券を無料提供:日本政府に対する信用ガタ落ちの今、「安全です」と言われても・・・
夫が友人(ともにPh.D 学生)から聞いたニュースは、日本の観光庁が外国人1万人に無料で航空券を提供し、日本の観光回復を目指す、というもの。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111009-OYT1T00814.htm
正直言って、呆れたね。日本のお役所ってのは、外国向けマーケティングというとこの方法しか知らないのだ。つまり、「外国人に宣伝させる」というやつである。JET制度なんてその最たるもので、名目上は外国人に来てもらって英語を教えてもらうということだが、本当は彼らが3年の任期を終え、世界に散らばってからは日本の広告塔となってくれることを期待しているのだ。今回も、「外国人に宣伝させるのがいちばん」という思いが見え見えである。
私が違和感を感じる理由はいくつかある。そもそも、ここには「日本に来れば日本のよいところが見えるに違いない」という思い込みがある(これはアレックス・カーなどのジャパノファイルの功罪が大きいと思われるが、これは大きな問題なので稿を改めて書きたい)。また、自分の国を自ら発信しようというスキルがないし、アイデアもないし、その意欲がさらさらない。お金(航空券)だけ払って、あとは全部「外国人」にマーケティングを任せるという態度がどうも気に入らない(航空券を提供する見返りに、レポートを書いたり、今後の観光旅行プランを提案してもらうらしい)。
加えて、読売によればこの事業費予算として11億円を盛り込んだというが、震災後の後始末は始まったばかりなのに、そんなことに税金を使っている場合なのか。原発事故では、海外とまったく危機感が違っていた日本だったが、傍から見ているとこの事件は、海外における日本政府や企業およびジャーナリズムに対する不信感を煽っただけである。この政府が「安全です、来てください」と言ったところで誰が信用するものか、というのが海外にいる者の正直な感想ではないか。いまだ原発事故の危機が去らず、ジャパン・ブランドの価値も低迷し続けている今、なぜ観光なのか、さっぱり理解できない。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111009-OYT1T00814.htm
正直言って、呆れたね。日本のお役所ってのは、外国向けマーケティングというとこの方法しか知らないのだ。つまり、「外国人に宣伝させる」というやつである。JET制度なんてその最たるもので、名目上は外国人に来てもらって英語を教えてもらうということだが、本当は彼らが3年の任期を終え、世界に散らばってからは日本の広告塔となってくれることを期待しているのだ。今回も、「外国人に宣伝させるのがいちばん」という思いが見え見えである。
私が違和感を感じる理由はいくつかある。そもそも、ここには「日本に来れば日本のよいところが見えるに違いない」という思い込みがある(これはアレックス・カーなどのジャパノファイルの功罪が大きいと思われるが、これは大きな問題なので稿を改めて書きたい)。また、自分の国を自ら発信しようというスキルがないし、アイデアもないし、その意欲がさらさらない。お金(航空券)だけ払って、あとは全部「外国人」にマーケティングを任せるという態度がどうも気に入らない(航空券を提供する見返りに、レポートを書いたり、今後の観光旅行プランを提案してもらうらしい)。
加えて、読売によればこの事業費予算として11億円を盛り込んだというが、震災後の後始末は始まったばかりなのに、そんなことに税金を使っている場合なのか。原発事故では、海外とまったく危機感が違っていた日本だったが、傍から見ているとこの事件は、海外における日本政府や企業およびジャーナリズムに対する不信感を煽っただけである。この政府が「安全です、来てください」と言ったところで誰が信用するものか、というのが海外にいる者の正直な感想ではないか。いまだ原発事故の危機が去らず、ジャパン・ブランドの価値も低迷し続けている今、なぜ観光なのか、さっぱり理解できない。
Tuesday, October 11, 2011
オンタリオ州選挙の結果:Liberal(自由)党のマイノリティ政府
2011年のオンタリオ州一般選挙は10月6日の投票日を経て、Liberal(自由党)によるマイノリティ政府が確定した。マギンティ政府は予想に反して3期目の続投となった。
各党の議席数は次のとおり。Liberal(53席、前回比-17)Conservative(37、+12) NDP(17、+7)。
Liberalはマジョリティ政府に1席足りなかったが、接戦といわれていた割には票を伸ばし、Conservative(保守党)と大きく差をあける結果となった。NDPがこれだけの議席数を獲得したのは政権をとった時代以降初めて。投票率は49.2%と史上最低。
・トロント、オタワ以外はほとんど青
政党ごとの色分け選挙結果を見ると興味深いのだが、トロント、オタワの赤(Liberal)以外は大半が青(Conservative)になっていて、大都市に対する地方との差が浮き彫りになっている。さらに、GTA(グレーター・トロント)で見ても、合併前にトロントだった中心部は赤とオレンジ(NDP、とくにセンターといわれるダウンタウン)で、それを囲むように青が広がっている。トロント市内ではConservativeはまったく議席を獲得できなかった。
理由のひとつには、昨年選出された右派のトロント市長フォードの支持率が下がっていることが影響していると見られている。というのも、フォードは市長就任以来、市の抱える負債に取り組むため、さまざまな社会福祉プログラムや市営サービスを削減しようとしており、これに対するトロント市民の反発がすさまじい。たとえば、図書館の閉鎖というフォード案に対しては、カナダどころか英語圏でも屈指の作家マーガレット・アトウッドが反対陣営を張って市民運動にまで発展し、結果、トロント市議会は図書館閉鎖をキャンセルするという結果に終わった。連邦政府と市政府がConservativeによって運営され、そのうえ州政府まで保守派になってはたまらない、という危機感がトロント市内には確かにある。
・リーダーの資質
今回の選挙戦で、Liberal党マギンティ党首は明らかによいイメージを売ることに成功したと思う。州首相という信頼できる品格をそなえ、いつだって自信に満ちた話し方をしていた。討論などで攻撃されても、いつも一定の距離と理性を保ち、情熱と冷静さをそなえた対応は見ている人に安心感を与えたと思う。
一方、Conservativeのフダック党首は、選挙戦のあいだに取り返しのつかない2つの失敗をしでかしている。ひとつは、Newcomer(移民)をForeign worker(外国人労働者)と呼んだこと、もうひとつはオンタリオ教育相のガイドラインを批判しようと、ホモフォビックな攻撃的広告をまわしたことである。前者に関しては、人権擁護団体などから謝罪を求める動きもあったにもかかわらず、最後まで自分の非を認めないという頑なな態度だった。この彼の態度、加えて2つの失敗から、とりわけ移民人口の多い選挙区、あるいはDiversityをよしとする大都市圏で、Conservativeに対する不安感が広がっていたという気がする。
・経済的な先行き不安
しかし、各紙の報道を見ている限り、さらに私の実感としても、結局のところ、オンタリオ州民の脳裏にあったのは今後の、先のみえない経済的不安だったと思う。失業率は増え、アメリカ経済およびヨーロッパ経済の大混乱から、グローバル経済への波及と経済的不安要因は拡大し続けている。マギンティ政府の政治政策を見ていると、大きな予算削減はしないし、大きな抜本的経済改革もしない。しかし、現状維持をうまくやってきたという感じがある。そうした安心感も今回のLiberalの勝利に大きく影響したと思われる。
各党の議席数は次のとおり。Liberal(53席、前回比-17)Conservative(37、+12) NDP(17、+7)。
Liberalはマジョリティ政府に1席足りなかったが、接戦といわれていた割には票を伸ばし、Conservative(保守党)と大きく差をあける結果となった。NDPがこれだけの議席数を獲得したのは政権をとった時代以降初めて。投票率は49.2%と史上最低。
・トロント、オタワ以外はほとんど青
政党ごとの色分け選挙結果を見ると興味深いのだが、トロント、オタワの赤(Liberal)以外は大半が青(Conservative)になっていて、大都市に対する地方との差が浮き彫りになっている。さらに、GTA(グレーター・トロント)で見ても、合併前にトロントだった中心部は赤とオレンジ(NDP、とくにセンターといわれるダウンタウン)で、それを囲むように青が広がっている。トロント市内ではConservativeはまったく議席を獲得できなかった。
理由のひとつには、昨年選出された右派のトロント市長フォードの支持率が下がっていることが影響していると見られている。というのも、フォードは市長就任以来、市の抱える負債に取り組むため、さまざまな社会福祉プログラムや市営サービスを削減しようとしており、これに対するトロント市民の反発がすさまじい。たとえば、図書館の閉鎖というフォード案に対しては、カナダどころか英語圏でも屈指の作家マーガレット・アトウッドが反対陣営を張って市民運動にまで発展し、結果、トロント市議会は図書館閉鎖をキャンセルするという結果に終わった。連邦政府と市政府がConservativeによって運営され、そのうえ州政府まで保守派になってはたまらない、という危機感がトロント市内には確かにある。
・リーダーの資質
今回の選挙戦で、Liberal党マギンティ党首は明らかによいイメージを売ることに成功したと思う。州首相という信頼できる品格をそなえ、いつだって自信に満ちた話し方をしていた。討論などで攻撃されても、いつも一定の距離と理性を保ち、情熱と冷静さをそなえた対応は見ている人に安心感を与えたと思う。
一方、Conservativeのフダック党首は、選挙戦のあいだに取り返しのつかない2つの失敗をしでかしている。ひとつは、Newcomer(移民)をForeign worker(外国人労働者)と呼んだこと、もうひとつはオンタリオ教育相のガイドラインを批判しようと、ホモフォビックな攻撃的広告をまわしたことである。前者に関しては、人権擁護団体などから謝罪を求める動きもあったにもかかわらず、最後まで自分の非を認めないという頑なな態度だった。この彼の態度、加えて2つの失敗から、とりわけ移民人口の多い選挙区、あるいはDiversityをよしとする大都市圏で、Conservativeに対する不安感が広がっていたという気がする。
・経済的な先行き不安
しかし、各紙の報道を見ている限り、さらに私の実感としても、結局のところ、オンタリオ州民の脳裏にあったのは今後の、先のみえない経済的不安だったと思う。失業率は増え、アメリカ経済およびヨーロッパ経済の大混乱から、グローバル経済への波及と経済的不安要因は拡大し続けている。マギンティ政府の政治政策を見ていると、大きな予算削減はしないし、大きな抜本的経済改革もしない。しかし、現状維持をうまくやってきたという感じがある。そうした安心感も今回のLiberalの勝利に大きく影響したと思われる。
'He changed the way each of us sees world'
10月6日、早朝のラジオで聞いたスティーブ・ジョブズの訃報に触れ、テクノロジーの進歩についていろいろな思いが過ぎっている。
さまざまな人たちがAppleの創始者スティーブ・ジョブズに対する思いを述べているが、なかでもオバマ大統領のコメントは最もジョブズの功績を簡潔に表現していると思われる。
He transformed our lives, redefined entire industries and achieved one of the rarest feats in human history: He changed the way each of us sees world.
スティーブ・ジョブズはわれわれの生き方を、産業界全体を根本的に変えた。人類史で最もまれな功績のひとつ、世界の見方を根本的に変えるという功績を成し遂げた。
今、これを図書館で書いている私の隣では、学生らしき人がコンピュータで課題を仕上げている。ときに席を立ってストレッチをするのだが、彼の前にいた年配の女性がその姿を見て、「コンピュータは疲れるのね。私はコンピュータのことなんて、何も分からないし、そんなものに振り回されるのはごめんだわ」と言ったのに対し、男性は「別にコンピュータを使わなくったって何も困ることはないよ」と言った。彼は、年配の女性に気を遣ってそう言ったに違いないが、実際のところ、それほど誤ったコメントはない。
戦後、最も大きな発明といえば、コンピュータの発明に違いない。ジョブズは厳密にいえばコンピュータの発明者ではないが、私たちひとりひとりがコンピュータを所有できるようになったのは彼の功績という意味から、「パーソナル・コンピュータの生みの親」と言われている。その功績によって、オバマ大統領が言うように、私たちの生活は、そして世界観は限りなく、大きく変わった。
思えば、私が大学を終えてライターの仕事を始めた時、ワープロで原稿を書いていた。それだけでも画期的だと思われたが、メールがなかった時代だから終わった原稿はフロッピー・ディスク(死語?)に入れて、自転車かタクシーで編集部まで届けるというのんびりさであった。
1999年、私が初めて買ったコンピュータはIBMのコンピュータだった。それを開くと、インドを旅行中のボーイフレンドと連絡を取りあうことができた。仕上がった原稿もこれで写真をつけて送ることができた。マイクロソフト・ワードの便利さに驚いた。
同じ年、トロントに移住してからというもの、私の海外生活はコンピュータなしではありえなかった、と言っていいほど、私の生活はコンピュータに支えられてきた。翻訳の仕事も、出版も、ディプレッションも、広辞苑をどうしようか、きょうの料理をどうしようか、そういう問題も、コンピュータが、インターネットがすべて解決してくれた。
それから12年後には、AppleのiPadを買った。その使いやすさ、美しさと機能性はほとんど信じがたい。iPadに比べたらMicrosoftが原始的で野暮にさえ思われる。iPodでメディテーションをし、子どもが幼稚園にいる間にはiPadで本を読む。私たちの生活にはテレビもCDもラジオも新聞すら必要ない。iPadがすべて満たしてくれている。
毎日送られてくるEメールにうんざりすることもあるし、次々に新しくなっていくコンピュータ・テクノロジーにようやくついていくのも楽じゃない。コンピュータ・スキルをもたない人たちが社会的に(精神的に)離脱しているという問題もある。
しかし、一方で、基本的にペシミスティックな私も、インターネット上でのコネクションがもたらす可能性に関してだけは非常に楽観している。今まで声をもたなかった人たちが声をあげ、そのメッセージが世界中の人たちに届く可能性には大きな期待が持てると思う。
“And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of life. It is life’s change agent”.
スティーブ・ジョブズのような天才がいつもいうのはI found what I love to do。好きなことをして、上のように死を受け入れる準備ができていた彼の態度を見習いたいと思う。
Sent from my iPad
さまざまな人たちがAppleの創始者スティーブ・ジョブズに対する思いを述べているが、なかでもオバマ大統領のコメントは最もジョブズの功績を簡潔に表現していると思われる。
He transformed our lives, redefined entire industries and achieved one of the rarest feats in human history: He changed the way each of us sees world.
スティーブ・ジョブズはわれわれの生き方を、産業界全体を根本的に変えた。人類史で最もまれな功績のひとつ、世界の見方を根本的に変えるという功績を成し遂げた。
今、これを図書館で書いている私の隣では、学生らしき人がコンピュータで課題を仕上げている。ときに席を立ってストレッチをするのだが、彼の前にいた年配の女性がその姿を見て、「コンピュータは疲れるのね。私はコンピュータのことなんて、何も分からないし、そんなものに振り回されるのはごめんだわ」と言ったのに対し、男性は「別にコンピュータを使わなくったって何も困ることはないよ」と言った。彼は、年配の女性に気を遣ってそう言ったに違いないが、実際のところ、それほど誤ったコメントはない。
戦後、最も大きな発明といえば、コンピュータの発明に違いない。ジョブズは厳密にいえばコンピュータの発明者ではないが、私たちひとりひとりがコンピュータを所有できるようになったのは彼の功績という意味から、「パーソナル・コンピュータの生みの親」と言われている。その功績によって、オバマ大統領が言うように、私たちの生活は、そして世界観は限りなく、大きく変わった。
思えば、私が大学を終えてライターの仕事を始めた時、ワープロで原稿を書いていた。それだけでも画期的だと思われたが、メールがなかった時代だから終わった原稿はフロッピー・ディスク(死語?)に入れて、自転車かタクシーで編集部まで届けるというのんびりさであった。
1999年、私が初めて買ったコンピュータはIBMのコンピュータだった。それを開くと、インドを旅行中のボーイフレンドと連絡を取りあうことができた。仕上がった原稿もこれで写真をつけて送ることができた。マイクロソフト・ワードの便利さに驚いた。
同じ年、トロントに移住してからというもの、私の海外生活はコンピュータなしではありえなかった、と言っていいほど、私の生活はコンピュータに支えられてきた。翻訳の仕事も、出版も、ディプレッションも、広辞苑をどうしようか、きょうの料理をどうしようか、そういう問題も、コンピュータが、インターネットがすべて解決してくれた。
それから12年後には、AppleのiPadを買った。その使いやすさ、美しさと機能性はほとんど信じがたい。iPadに比べたらMicrosoftが原始的で野暮にさえ思われる。iPodでメディテーションをし、子どもが幼稚園にいる間にはiPadで本を読む。私たちの生活にはテレビもCDもラジオも新聞すら必要ない。iPadがすべて満たしてくれている。
毎日送られてくるEメールにうんざりすることもあるし、次々に新しくなっていくコンピュータ・テクノロジーにようやくついていくのも楽じゃない。コンピュータ・スキルをもたない人たちが社会的に(精神的に)離脱しているという問題もある。
しかし、一方で、基本的にペシミスティックな私も、インターネット上でのコネクションがもたらす可能性に関してだけは非常に楽観している。今まで声をもたなかった人たちが声をあげ、そのメッセージが世界中の人たちに届く可能性には大きな期待が持てると思う。
“And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of life. It is life’s change agent”.
スティーブ・ジョブズのような天才がいつもいうのはI found what I love to do。好きなことをして、上のように死を受け入れる準備ができていた彼の態度を見習いたいと思う。
Sent from my iPad
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