Saturday, June 20, 2009

 「歴史を見る目」を養うために

 (「日系の声/Nikkei Voice」2009年6月号掲載)
2009年1月号『日系の声』に書いた「日本の歴史と海外に暮らす子どもたち」に対しては読者からさまざまな反応が出された。以下はその後もう一度私の書いた記事の転載。


 歴史上のある事件に対してはさまざまな解釈が存在する。子どもたちに歴史を教える立場にある者は、この点を念頭に置いた上で子どもたちが自ら歴史を学べるよう導く責任がある。
 私の記事(「日本の現代史と海外に暮らす子どもたち」年末号)の要点はその1点に集約される。
年末号が出版された後、数人から私の文章に対するコメントを受けた。驚いたのは、彼らが、私の歴史観をそれぞれが受け取りたいように受け取ったことであった。たとえば、ある人は「最近、トロントの学校でも中国や韓国寄りの偏った現代史観が広がりつつある。(あなたが言うように)それに対して日本人の血を引く子どもたちにしっかりとした歴史を教えておくことは親の使命」と言い、またある人は「子どもたちが冷静に対応できるよう(あなたの言うように)南京大虐殺や従軍慰安婦問題などは何を置いても教えるべき」とコメントしたのである。
 本誌日本語編集長の田中氏が指摘するように、私の文章は「何を教えるべきか」について自分の「立場をはっきりと示していない」。先述の異なるコメントが出てきた理由はそこにある。子どもたちに、南京大虐殺は「まぼろし」、あるいは捏造であると教えるのか。千人斬りに参加した元兵士の証言、元従軍慰安婦の証言を教えるのか。しかし、私個人の歴史観を示し、それに反する立場の見方を「感受性に欠ける」と指摘するのは私の本意ではない。いや、それどころか、それこそがポイントなのだ。
 私たち大人は、とりわけ太平洋戦争関連の事件に対し、かなり確固とした「歴史観」を持っている。それは対峙する歴史観の前で簡単に揺らぐようなことはない。親であれ教師であれ、大人の私たちが歴史を語るとき、そこにあるのは私たちが取捨選択したナラティブである。「しかし、完全に中立な立場で歴史を教えることは不可能ではないか」。以前、同僚の歴史教師はそう言った。私の考えでは、いかなる歴史観であれ、それらを子どもに教えることに問題はない。問題なのは、そのひとつの歴史観のみを提示し、それだけが「正しい歴史」であるというメッセージを子どもたちに送ることである。
 私たちは自らの歴史観を認識しているだろうか。異なる立場の人が語れば、歴史は違った歴史になることを忘れず付け加えているだろうか。歴史が「悪用・誤用」される可能性を伝えているだろうか。その背後にはどんな理由があるのかに考えを至らせるような工夫をしているだろうか。原理主義者と同じ穴の狢にならないためにも、こうした問いは非常に重要である。
 さらに、子どもたちが、教える私たちとは違った歴史観を選びとる可能性を受け入れなくてはならない。歴史を学ぼうという意欲のある子どもは、いずれさまざまな立場の歴史観を学びながら、あちらこちらで「事実」を学び、自らの考えに修正を加えたうえで、最終的に「このあたりで落ち着ける」と思える歴史観を獲得していくものだ。それは、必ずしも最初に私たちが示した歴史観と同様とは限らない。しかし、そこから展開するのは、自由な意見を持つ者同士の議論である。歴史を見る目は、実にそうした一連のプロセスのなかで養われる。
 私の記事に対する投稿記事は、いずれも「日本人はキライ」コメントに直面した子どもに「何を教えるべきか」という問いに対するそれぞれの回答であると受け取った。私に関して言えば、「何を教えるべきか」以上に大切なのは、子どもたちの歴史を見る目を養うことである。具体的には、歴史的事件への複数の解釈を具体的に挙げながら、彼らが自らの手で歴史を調べ、自らの言葉でその結果を語るまでのプロセスを導く。こうしたプロセスを経ることで、子どもたちは異なる意見に対する寛容性を学び、「日本人はキライ」コメントに直面した際には自らの言葉で理性的に意見交換ができるものと信じている。

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