この記事は以下のウェブサイトに寄稿しています。気鋭ライターたちによる興味深い記事がたくさん掲載されていますのでぜひご一読ください!
http://thegroupofeight.com/
妊娠中の定期検診で、産科医から「ところで、サーカムシジョンはどうしますか?」と訊かれたときには、「ここは日本じゃないのね!」と実感した。夫が「必要ありません」と答えると、医師は「もちろんですよね」と言い、この話はさらりと流れた。
日本人の私にとって、サーカムシジョンという習慣は何かとても不可解で奇妙なものである。ただ、カナダで妊娠すると避けては通れない話だし、妊婦向け雑誌などでこの習慣について読んだり、妊婦同士で話をしたが、いまもって不可解な気持ちが残っているので、少しここに書いておきたい。
1970年代にモントリオールで生まれた夫は、生後間もなくサーカムシジョン(circumcision、日本では「割礼」と呼ばれる。儀式的、宗教的理由から男子の陰茎包皮を切除する手術。女子に対するサーカムシジョンもあるが、ここでは男子に限って議論する)を受けている。当時のモントリオールでは、特定の宗教を信仰していなくても(注1)男の子の赤ちゃんはこの手術を受けるのが当然という風潮があったようで、親が特別に要求しなければ男の子はサーカムシジョンを受けさせられていたと言われる。なので、少し大きくなった男の子の間では、サーカムシジョンを受けていないと自分がヘンなんじゃないかと思ったようである。
(注1)世界では男性人口の1/3がサーカムシジョンを受けている。大半がイスラム教圏、イスラエル、アメリカ、東南アジア、アフリカで、うち70%がイスラム教徒。
夫はこの手術を受けさせられたことに対し、今もってある種のわだかまりがあるようで、私が妊娠中にサーカムシジョンに触れたときには「医学的に利益があるとは言えないし、不必要に尋常でない痛みを伴なう手術を生まれたばかりの赤ちゃんにさせるべきではない」と、とても強い意見だった。こうして自分の体を、生まれたままの形から変えられたことに対して違和感を覚えている人もいるようで、彼らが親になって子どもに「受けさせない」選択をする、というのもよく聞いた話である。
北米でサーカムシジョン花盛りの当時(1970年代)、多くの親は宗教的理由ではなく、HIVをはじめとする性病や細菌感染に予防効果がある、といった理由で生後まもなくの赤ちゃんに受けさせていた。ただし、ここ最近では、HIVが蔓延している地域を除いては「医学的利益はわずか」という見方が大勢で(ちなみにWHOはHIV感染率の高いアフリカの地域ではサーカムシジョンが感染防止に役立つとして促進の立場を取っている)、それゆえにカナダではこの手術はもはや保険でカバーされていない。先進国のなかでは最もサーカムシジョン率の高かったアメリカやカナダではここ最近減少傾向にあり、約30%と推定されている。2012年には、アメリカ小児科学会(AAP, American Academy of Pediatrics)もサーカムシジョンはリスクを上回る利益はあるに違いないが、その利益はわずかなので概して推奨はしないという方向で声明を出している(www.aap.org/en-us/about-the-aap/aap-press-room/pages/Newborn-Male-Circumcision.aspx?nfstatus=401&nftoken=00000000-0000-0000-0000-000000000000&nfstatusdescription=ERROR%3a+No+local+token)。
一方、倫理面での問題もある。医療上切迫しているわけでもないのに、本人の同意を得ずになされる手術に対して批判的な見方もあり、こうした立場をとる人たちはサーカムシジョンをmutilation(切断、損傷)と呼ぶ。トロントで息子と同じくらいの子どもを持つ親にこの話題を振ったときには「そんなこと子どもにするなんてどうかしてる!」と憤る人が多くいた一方、「それはプライベートな選択」と議論を好まなかった親も結構いた。いずれにせよ、カナダでは医学的利益がほとんどないとされた以上、以前はほとんど考えもしないで行われていたサーカムシジョンに対し、すべきかどうか決めかねている親が相当数いる、というのが現実だろう。
健康な皮膚の一部を切り取るわけだから、この手術は当然激痛を伴ない、赤ちゃんはあらん限りの声をあげて泣き叫ぶ。赤ちゃんだからといって痛みを感じないわけではない。そうしたビデオを見てすぐに悩みを振り切った知人もいる。
政治的に正しい物言いをすれば「親のプライベートな選択」ということになるだろうが、医学的利益がそれほどないとなれば、それでも手術をするのは宗教的理由か、単に「見た目」にかかわる理由だろう。前者に関しては何とも言えないが、「見た目」に関しては「子どもの権利」という観点からすると問題であると、個人的には思う。
参考)
http://www.circumcision.org/(サーカムシジョンには反対の立場。Circumcision Trauma 10 out of 10 Babiesというビデオも掲載)
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Tuesday, May 14, 2013
Friday, February 8, 2013
児童公園で煙草を吸うなんて・・・
トロントに比べると、京都市内は遊戯具が備わっている公園(児童公園)の数がずいぶんと少ない(田舎に行けば行くほどもっと少なくなる)。 ブランコがひとつ、鉄棒がひとつ、子どもが走り回るスペースもない、というような小さな公園を含めても少ないと思う。
子どもたちは、そんな小さなスペースでも元気よく伸び伸びと遊んでいるのだが、私にはずっと気になっていることがある。それは、そうした公園に置かれているベンチで普通は誰かが煙草やパイプを吸っていること。
私が子どもとよく行くのは、京都府立図書館の前の岡崎公園なのだけれど、そこは(たぶん)図書館前とあって煙草を吸っている人が多い。喫煙のできる場所が限られている喫煙者にとっては、公園というスペースは煙草を吸うための場所なのかもしれないが、子どもを遊ばせている親にとっては迷惑はなはだしい。子どもは遊びに熱中しているので文句を言うようなことはないが、受動喫煙second hand smokeの害をカナダであれほど聞いてきた私としては気になって仕方ない。
以前に比べて禁煙スペースが増えてきたのは喜ばしいことだが、喫茶店やレストランなどは分煙していても、結局のところ煙が流れてくることもしょっちゅうある。先日、イノダで数時間いたら、禁煙席に座っていたにもかかわらず、最後には頭がクラクラしてきたし、コートにもしっかり煙草臭が染み付いてしまっていた。
ついでに言うと、電車で隣に座った人のプンプンするヤニ臭によって気分が悪くなることもある。煙草の匂いで気分が悪くなるのは、なにも私だけではない。私も実際、近くにそういう煙草アレルギーを持った人が何人もいる。煙草を吸っている人に対してまったく敵意はないが、煙草に対するアレルギーを持ち、子どもを持つ身としては煙草の煙ほどうっとうしいものはない。
Tuesday, August 21, 2012
日本の教育では育てない(とても重要な)スキル-世界的に活躍しようと思っている若い日本人へのメッセージ
カナダ(北米といってもいいと思う)の教育にあって、日本の教育で育てられないスキルがあるとすると、それらはcritical thinking-クリティカル・シンキング, problem solving-問題解決能力, team working-ティーム・ワーキング、だと私は思う。この3つのスキルを、北米では子どもたちは学校教育の終わりとともに習得できるしくみになっているが、日本ではそうはなっていない。
私が見る限り、カナダでは小さいころからこうしたスキルを身につけられるよう意図的に教育がなされており、教師が評価するのは知識というより、そうしたスキルである。このあたりが日本とカナダの教育に対する考え方の根本的な違いである。
まず、critical thinkingとは、知識や情報をうのみにするのではなく、それを自ら吟味できる能力のことである。与えられた知識や情報、方法論を吟味するためには、情報収集のスキル、分析するスキル、総合的に判断するスキル、相手を納得させるように説明できるスキル、などが必要になってくる。
真実とされていることを「疑う」ことは、科学的思考にはなくてはならないと言われる。そして、それが常識を覆すような発見につながることはよく知られている。これは経済の分野でいえば、イノベーションのカギであって、Apple社の創立者Steve Jobsの話を読むと彼がいかに熟練したcritical thinkerであったかがうかがえる。彼のような才能は、暗記のちからだけが問われる教育のなかではつぶされるだけだろう。
problem solvingとは、問題にあたったときに自力でそれを解決しようとする問題解決能力のことである。まずは、問題を把握しなくてはならない。これもcritical thinkingと同じように、何が問題になっているのかを理解し、問題の本質を知ることから、どういう方法を適用して解決に結びつけるか、という実践力、判断力に至るまでのはばひろい能力が問われる。
このスキルは、単に学校で必要になるスキルであるとは限らない。将来、子どもたちが実社会に出れば、さまざまな問題に直面しないはずはなく、そのときに問題を投げ出さず、他人任せにせず、自分で解決する能力を養っておくことは人生を乗り切るために非常に重要だと思われる。
team workingは、以上のふたつのスキルを学ぶ途上で同時に身につけられるスキルである。カナダの学校では、グループで完成させるプロジェクト・ベースの課題が頻繁に与えられている(大学でさえ)。グループのなかには、アイデアが自由に出せる生徒、計画的に実行する生徒、客観的にプロジェクト内容を把握し、問題を指摘できる生徒、などさまざまな資質を持った生徒がでてくる。グループ・ワークではまずそれぞれのメンバーの資質を把握し、それを活かせるような仕事の進め方をしていくのが効率的であることを生徒は自然と学ぶことができる。
また、カナダ社会では就職の際にこのteam workingのスキルがあるかどうかが問われることが多い。たしかに、職場という場所は、team workingなくしては成り立たないわけで、そうなると、将来、子どもたちがどのような進路に進むにしても必要になってくるのが、このスキルなのである。また、私が感じたのは、北米では、知識人も学者も知識があるだけでは認められない、ということ。そうした知識や情報を他者に伝えることができるコミュニケーション能力までを求められる。
こう見てくると、これらのスキルは学校にいるときだけ必要になるわけではなく、子どもたちに一生涯を通じてより上手に生きる力を与えるための、実践的なスキルだということがわかる。
カナダと日本で暮らし、これらのスキルが小さいころからの訓練によってのみ身に付くということに気付いた。長らく、日本人の発想や応用力の乏しさが指摘されてはきたものの、教育にこうしたスキルを身につけるための訓練がなされてきていないのは、意図的としか思われない。実際、日本ではこうしたスキルを身につけると、反対に「協調性のない人、面倒な人だ」と言われかねない。
なので、以上のことは、将来は世界的に活躍しようと思っている優れた能力のある若い人、あるいは日本の外で働きたい、暮らしたいと思っている人に向け、とくに伝えておきたいメッセージである。北米では、幼稚園からこうした3つのスキルが学校教育のなかで繰り返し、繰り返し訓練される。一方、日本では義務教育を終えても、(大学教育を終えても)こうしたスキルは身に付かない。この点をしかと認識し、世界に出ていく前に、まずはこれらのスキルをいかに自分のものにするか、を考えておくことがカギになってくる。
私が見る限り、カナダでは小さいころからこうしたスキルを身につけられるよう意図的に教育がなされており、教師が評価するのは知識というより、そうしたスキルである。このあたりが日本とカナダの教育に対する考え方の根本的な違いである。
まず、critical thinkingとは、知識や情報をうのみにするのではなく、それを自ら吟味できる能力のことである。与えられた知識や情報、方法論を吟味するためには、情報収集のスキル、分析するスキル、総合的に判断するスキル、相手を納得させるように説明できるスキル、などが必要になってくる。
真実とされていることを「疑う」ことは、科学的思考にはなくてはならないと言われる。そして、それが常識を覆すような発見につながることはよく知られている。これは経済の分野でいえば、イノベーションのカギであって、Apple社の創立者Steve Jobsの話を読むと彼がいかに熟練したcritical thinkerであったかがうかがえる。彼のような才能は、暗記のちからだけが問われる教育のなかではつぶされるだけだろう。
problem solvingとは、問題にあたったときに自力でそれを解決しようとする問題解決能力のことである。まずは、問題を把握しなくてはならない。これもcritical thinkingと同じように、何が問題になっているのかを理解し、問題の本質を知ることから、どういう方法を適用して解決に結びつけるか、という実践力、判断力に至るまでのはばひろい能力が問われる。
このスキルは、単に学校で必要になるスキルであるとは限らない。将来、子どもたちが実社会に出れば、さまざまな問題に直面しないはずはなく、そのときに問題を投げ出さず、他人任せにせず、自分で解決する能力を養っておくことは人生を乗り切るために非常に重要だと思われる。
team workingは、以上のふたつのスキルを学ぶ途上で同時に身につけられるスキルである。カナダの学校では、グループで完成させるプロジェクト・ベースの課題が頻繁に与えられている(大学でさえ)。グループのなかには、アイデアが自由に出せる生徒、計画的に実行する生徒、客観的にプロジェクト内容を把握し、問題を指摘できる生徒、などさまざまな資質を持った生徒がでてくる。グループ・ワークではまずそれぞれのメンバーの資質を把握し、それを活かせるような仕事の進め方をしていくのが効率的であることを生徒は自然と学ぶことができる。
また、カナダ社会では就職の際にこのteam workingのスキルがあるかどうかが問われることが多い。たしかに、職場という場所は、team workingなくしては成り立たないわけで、そうなると、将来、子どもたちがどのような進路に進むにしても必要になってくるのが、このスキルなのである。また、私が感じたのは、北米では、知識人も学者も知識があるだけでは認められない、ということ。そうした知識や情報を他者に伝えることができるコミュニケーション能力までを求められる。
こう見てくると、これらのスキルは学校にいるときだけ必要になるわけではなく、子どもたちに一生涯を通じてより上手に生きる力を与えるための、実践的なスキルだということがわかる。
カナダと日本で暮らし、これらのスキルが小さいころからの訓練によってのみ身に付くということに気付いた。長らく、日本人の発想や応用力の乏しさが指摘されてはきたものの、教育にこうしたスキルを身につけるための訓練がなされてきていないのは、意図的としか思われない。実際、日本ではこうしたスキルを身につけると、反対に「協調性のない人、面倒な人だ」と言われかねない。
なので、以上のことは、将来は世界的に活躍しようと思っている優れた能力のある若い人、あるいは日本の外で働きたい、暮らしたいと思っている人に向け、とくに伝えておきたいメッセージである。北米では、幼稚園からこうした3つのスキルが学校教育のなかで繰り返し、繰り返し訓練される。一方、日本では義務教育を終えても、(大学教育を終えても)こうしたスキルは身に付かない。この点をしかと認識し、世界に出ていく前に、まずはこれらのスキルをいかに自分のものにするか、を考えておくことがカギになってくる。
Friday, May 11, 2012
子どもに甘い?日本の子育て
The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。
タイトル「(12年日本から離れていた私の)日本の子育ての印象」
http://thegroupofeight.com/?p=1456
日本に戻って暮らし初めて3ヶ月。自分の生まれた国なのに、いろんな場面でカルチャーショックを感じている今日この頃。子育てに関してもカナダ(広い意味で北米)と日本の違いに直面して、大きな戸惑いを感じているのだが、これは私だけでなく、夫もそうであるらしい。もちろん、日本と北米の子育てを白黒はっきりカテゴライズできるわけではないが、私たちの戸惑いの最も大きなものは「子どもに対するdiscipline」の違いといえる。
子どもが集まる場所に行くたびに、「日本では、親が子どもに対して甘い」という印象を私たちは受ける。よく言えば、子どもは子ども本来の姿でのびのび育っている、とも言える。けんかがあっても、おもちゃの取りあいがあっても、友達をたたいても、ひどい言葉を使っても、子どもなんだから当然、放っておきなさい、そのうち子ども同士で自然に解決されるという、言ってみれば非常におおらかな態度。
先日、こんなことがあった。市のこども向け福祉施設に行ったときのこと。施設内にある遊び場には、とても感じのいい、滑り台やいくつもの階段がいっしょになった大きなジムみたいなものがあって、たくさんの子どもたちが遊んでいた。私は、ぶらさがって渡る鉄棒みたいなもの(渡り棒?)で遊んでいるエリック(4歳の息子)を見ていたのだが、あるとき突然、上から小さめの卵型の木のボールがバラバラバラッと降ってきた。ちょっと前にも2,3個落ちてきたのを見ていたので、すぐに合点がいった。上を見上げると、バケツを持った男の子がそれを見て喜んでいる。「おもちゃを上に持ってあがらないで」という張り紙があるのに、バケツに木のボールを山盛り入れて上がり、それを上からばらまいているのだ。
私はとっさに大声で「それはダメ! 下の人に当たると危ないでしょ!」と叫んで、近くにいた施設のスタッフにも「あれは危険です!」と言った。言われたスタッフはそれを聞いて男の子に何か言いにいったのだが、その伝え方が優しく、危機感がまったく感じられないのに正直言って驚いた。それに、あんなにたくさんの親がいたなかで、それも私の周りには落ちてきた木のボールが子どもに当たった親もいたなかで、声をあげたのは私ひとりだったという事実にも唖然とした。それより、そのおもちゃをばらまいた子どもの親は一体どこにいたんだろう?
そのあと、エリックが同じ木製のボールをそれが転がって最後にケースのなかに入る、というすべり台に転がしていたとき、小さな子どもがその木のおもちゃがたくさん落ちてくるケースのなかに入ってきた。お父さんは何も言わなかったが、エリックは右から、左からも他の男の子が木のおもちゃを転がしているのだから、その子に当たってしまう可能性は大きい。私が「そこにいると、ボールが当たって痛いわよ」と男の子に言ったら、お父さんは「大丈夫です・・・」と応えて、男の子を動かそうとする気配もない。まあ、木のおもちゃだから当たって死ぬようなことはないけれど・・・。でも、そこはボールが落ちてくるところで子どもが入るための場所ではないし(遊戯道具の使い方が間違っている)、ボールといえども木製なんだから何か間違いがあって頭にでも当たったらどうするんだろう(安全性)。仕方ないので、エリックに転がすときには気を付けるように言ったが、なんだかヘンだなあと感じた。
カナダで子どもを産んで、子育てをしてきた私は、親が子どもがしていることを常に見ていること、それが他の子どもに危害を加えたり、周囲の安全性を損なうような場合は必ず言ってきかせる(「やめなさい!」だけでなく、理由も伝える)、子どもが小さいころから責任をとらせる、ということが当然だと思っている。こうしたことは、誰に教えられたのでもないし、子育て関係の本に書かれていることでもない。ドロップイン・センターやプレイグラウンドなど、子どもがいる環境などで他の親やスタッフを見ながら私が習得したこと、そして、これが広い意味での「文化」なんだと思う。
「Respect my body」というのはエリックが行っていたデイケアの保育士ドナがよく言っていた言葉。子どもたちがドナの足に絡みついたり、お友達を叩いたり、蹴ったりしたとき、ドナはそう言って「他人」と「自分」の境界線を繰り返し子どもたちに知らせ、「他人」の領域にあるものには決して踏み込めないのだと教えていた。私たちは当然と思っていたこのルールが、今になって「北米的」であることに初めて気が付いた次第である。
一方、日本では、子どもたちには大きな自由が与えられている。よほどのことがない限りは、あまり細かいことは言わない。「子どもだから」と大目に見られて、特別の扱いをされて、「言いたいことを言って、したいことをしている」、そして、それが許されている、という感じを受ける。
私の母は、朝起きたら顔を洗う、おふろに毎日入る、食事のあとは濡れタオルで顔をふく、ということを徹底していない私の子育てを見て、「しつけができていない」とコメントした。確かに、私はそのあたりはあまり子どもに厳しく言ってこなかった。しかし、一方では子どもが集団において、あるいは他人に対して「してよいこととわるいこと」「言っていいことと悪いこと」があることはきちんと教えてきたし、それこそが子どもを社会に送り出す私たち親の大きな役目のひとつであると認識してきた。それが「しつけ(discipline)」の定義であると思ってきた。子どもがひとりの人間として社会(学校)に出ることができるように、社会のルールを繰り返し教えることが親の役目だと思ってきた。そして、それは0歳から始まっていた。
日本で暮らして数ヶ月経った今、私の受けた印象は、そうしたdisciplineが始まるのが遅い、ということである。こうして子どもたちが「言いたいことをいい、やりたいことをやっている」状況は、学校に入るとがらりと変わる。学校教育のなかに一歩足を踏み入れれば、今度、彼らを待っているのは極度に自由が限定される世界である。制服や学校での細部にわたる規則、そしてそれが破られたときに与えられる罰則。でも、そのときには子どもたちの生活の大半は「学校」という集団のなかにあるわけで、そういう環境では親以上に教師や集団の影響力が大きくなるのは当然である。だから、教師は恐らく子どもたちの「しつけ」という、(私にとっては当然、親の役目である)大きな仕事を担わされることになる。
個人的には小学校でしつけがされるような状況は、もう時期的に遅い、という気がする。子どもたちの気持ちは親ではなく、集団のほうに移っていく時期だし、自己意識という点でも体力的にもすごい勢いで成長している。その時期にdisciplineが始まるというのは、私にはちょっと信じがたい。
12年をカナダで暮らして帰ってきた私は、別の印象として、小学校高学年、中学校、高校でギュッと内に入ってしまう(外部を閉ざしてしまう)子どもが多いようにも感じている。また、日本人は他人を「見る」ことがなくなっている、というふうにも感じる。電車に乗ると乗客の7割がスマートフォンを一生懸命操作していて、顔を上げない。高校生のコミュニケーション能力も明らかに劣っている。相手の目を見て話ができない、自分の言いたいことを効率的に伝えられない。「子どもに対するしつけ」とこれらの社会問題との関連性を漠然と思うけれど、サンプルをとって調べたわけではないので何ともいえない。しかし、こうした「部外者の印象」はどこか問題の核心をとらえている、という気もする。
結局のところ、文化という潮流は目に見えないだけに対抗するに手ごわいものだ(放射能も同じだと思う)。ふたつの国で子育てをして感じる違いに戸惑いながら、夫と私は日々、私たちの子育てはどうすべきなのか、の話し合いを繰り返している。
タイトル「(12年日本から離れていた私の)日本の子育ての印象」
http://thegroupofeight.com/?p=1456
日本に戻って暮らし初めて3ヶ月。自分の生まれた国なのに、いろんな場面でカルチャーショックを感じている今日この頃。子育てに関してもカナダ(広い意味で北米)と日本の違いに直面して、大きな戸惑いを感じているのだが、これは私だけでなく、夫もそうであるらしい。もちろん、日本と北米の子育てを白黒はっきりカテゴライズできるわけではないが、私たちの戸惑いの最も大きなものは「子どもに対するdiscipline」の違いといえる。
子どもが集まる場所に行くたびに、「日本では、親が子どもに対して甘い」という印象を私たちは受ける。よく言えば、子どもは子ども本来の姿でのびのび育っている、とも言える。けんかがあっても、おもちゃの取りあいがあっても、友達をたたいても、ひどい言葉を使っても、子どもなんだから当然、放っておきなさい、そのうち子ども同士で自然に解決されるという、言ってみれば非常におおらかな態度。
先日、こんなことがあった。市のこども向け福祉施設に行ったときのこと。施設内にある遊び場には、とても感じのいい、滑り台やいくつもの階段がいっしょになった大きなジムみたいなものがあって、たくさんの子どもたちが遊んでいた。私は、ぶらさがって渡る鉄棒みたいなもの(渡り棒?)で遊んでいるエリック(4歳の息子)を見ていたのだが、あるとき突然、上から小さめの卵型の木のボールがバラバラバラッと降ってきた。ちょっと前にも2,3個落ちてきたのを見ていたので、すぐに合点がいった。上を見上げると、バケツを持った男の子がそれを見て喜んでいる。「おもちゃを上に持ってあがらないで」という張り紙があるのに、バケツに木のボールを山盛り入れて上がり、それを上からばらまいているのだ。
私はとっさに大声で「それはダメ! 下の人に当たると危ないでしょ!」と叫んで、近くにいた施設のスタッフにも「あれは危険です!」と言った。言われたスタッフはそれを聞いて男の子に何か言いにいったのだが、その伝え方が優しく、危機感がまったく感じられないのに正直言って驚いた。それに、あんなにたくさんの親がいたなかで、それも私の周りには落ちてきた木のボールが子どもに当たった親もいたなかで、声をあげたのは私ひとりだったという事実にも唖然とした。それより、そのおもちゃをばらまいた子どもの親は一体どこにいたんだろう?
そのあと、エリックが同じ木製のボールをそれが転がって最後にケースのなかに入る、というすべり台に転がしていたとき、小さな子どもがその木のおもちゃがたくさん落ちてくるケースのなかに入ってきた。お父さんは何も言わなかったが、エリックは右から、左からも他の男の子が木のおもちゃを転がしているのだから、その子に当たってしまう可能性は大きい。私が「そこにいると、ボールが当たって痛いわよ」と男の子に言ったら、お父さんは「大丈夫です・・・」と応えて、男の子を動かそうとする気配もない。まあ、木のおもちゃだから当たって死ぬようなことはないけれど・・・。でも、そこはボールが落ちてくるところで子どもが入るための場所ではないし(遊戯道具の使い方が間違っている)、ボールといえども木製なんだから何か間違いがあって頭にでも当たったらどうするんだろう(安全性)。仕方ないので、エリックに転がすときには気を付けるように言ったが、なんだかヘンだなあと感じた。
カナダで子どもを産んで、子育てをしてきた私は、親が子どもがしていることを常に見ていること、それが他の子どもに危害を加えたり、周囲の安全性を損なうような場合は必ず言ってきかせる(「やめなさい!」だけでなく、理由も伝える)、子どもが小さいころから責任をとらせる、ということが当然だと思っている。こうしたことは、誰に教えられたのでもないし、子育て関係の本に書かれていることでもない。ドロップイン・センターやプレイグラウンドなど、子どもがいる環境などで他の親やスタッフを見ながら私が習得したこと、そして、これが広い意味での「文化」なんだと思う。
「Respect my body」というのはエリックが行っていたデイケアの保育士ドナがよく言っていた言葉。子どもたちがドナの足に絡みついたり、お友達を叩いたり、蹴ったりしたとき、ドナはそう言って「他人」と「自分」の境界線を繰り返し子どもたちに知らせ、「他人」の領域にあるものには決して踏み込めないのだと教えていた。私たちは当然と思っていたこのルールが、今になって「北米的」であることに初めて気が付いた次第である。
一方、日本では、子どもたちには大きな自由が与えられている。よほどのことがない限りは、あまり細かいことは言わない。「子どもだから」と大目に見られて、特別の扱いをされて、「言いたいことを言って、したいことをしている」、そして、それが許されている、という感じを受ける。
私の母は、朝起きたら顔を洗う、おふろに毎日入る、食事のあとは濡れタオルで顔をふく、ということを徹底していない私の子育てを見て、「しつけができていない」とコメントした。確かに、私はそのあたりはあまり子どもに厳しく言ってこなかった。しかし、一方では子どもが集団において、あるいは他人に対して「してよいこととわるいこと」「言っていいことと悪いこと」があることはきちんと教えてきたし、それこそが子どもを社会に送り出す私たち親の大きな役目のひとつであると認識してきた。それが「しつけ(discipline)」の定義であると思ってきた。子どもがひとりの人間として社会(学校)に出ることができるように、社会のルールを繰り返し教えることが親の役目だと思ってきた。そして、それは0歳から始まっていた。
日本で暮らして数ヶ月経った今、私の受けた印象は、そうしたdisciplineが始まるのが遅い、ということである。こうして子どもたちが「言いたいことをいい、やりたいことをやっている」状況は、学校に入るとがらりと変わる。学校教育のなかに一歩足を踏み入れれば、今度、彼らを待っているのは極度に自由が限定される世界である。制服や学校での細部にわたる規則、そしてそれが破られたときに与えられる罰則。でも、そのときには子どもたちの生活の大半は「学校」という集団のなかにあるわけで、そういう環境では親以上に教師や集団の影響力が大きくなるのは当然である。だから、教師は恐らく子どもたちの「しつけ」という、(私にとっては当然、親の役目である)大きな仕事を担わされることになる。
個人的には小学校でしつけがされるような状況は、もう時期的に遅い、という気がする。子どもたちの気持ちは親ではなく、集団のほうに移っていく時期だし、自己意識という点でも体力的にもすごい勢いで成長している。その時期にdisciplineが始まるというのは、私にはちょっと信じがたい。
12年をカナダで暮らして帰ってきた私は、別の印象として、小学校高学年、中学校、高校でギュッと内に入ってしまう(外部を閉ざしてしまう)子どもが多いようにも感じている。また、日本人は他人を「見る」ことがなくなっている、というふうにも感じる。電車に乗ると乗客の7割がスマートフォンを一生懸命操作していて、顔を上げない。高校生のコミュニケーション能力も明らかに劣っている。相手の目を見て話ができない、自分の言いたいことを効率的に伝えられない。「子どもに対するしつけ」とこれらの社会問題との関連性を漠然と思うけれど、サンプルをとって調べたわけではないので何ともいえない。しかし、こうした「部外者の印象」はどこか問題の核心をとらえている、という気もする。
結局のところ、文化という潮流は目に見えないだけに対抗するに手ごわいものだ(放射能も同じだと思う)。ふたつの国で子育てをして感じる違いに戸惑いながら、夫と私は日々、私たちの子育てはどうすべきなのか、の話し合いを繰り返している。
Sunday, March 25, 2012
日本の幼児教育の印象
帰国してすぐにやらなくてはならなかったことのひとつはエリックの保育園探し。アパートを探しに行ったその帰りにはすぐに近所の保育園を2,3軒まわってみた。
ところで、そのころ日本の育児環境にまったく無知であった私には、「保育園」と「幼稚園」の差すらわからなかったのだが、アポイントもとらず市役所の保険福祉局子育て支援部にお邪魔してお話を聞いたり(お茶まで出していただいた)、保育園や幼稚園で的外れな質問をするうちに、いろいろとわかってきた。
- 「保育園」は、京都市の各区役所の福祉事務所が管轄。大半が民間経営であり、市営は数が少ない。一方で「幼稚園」は私立で、社団法人京都市私立幼稚園協会に加盟している
- 「保育園」に入るには諸々の条件をクリアしていなくてはならず、市の福祉事務所に申請書を出し、審査にとおらなくてはならない
- 保育園も幼稚園もカソリック系のところが案外とあるのだが、別にカソリックでなくても入園はできる
- 保育費用は、親の前年度の所得によって決まる
- 時間は保育園の方が長く(最長で7時半から6時)、幼稚園は昼間約5時間とフルタイムで働く親には無理
さて、2,3軒、保育園をまわってみて、正直言って私、びっくりした。どこの保育園でも、子どもたちが非常にワイルドに走り回っているのだ。若い先生たちもいっしょになって(体を張って?)走り回っている。そう、その姿を見ながら、「ワイルド」という言葉が私の頭をグルグル駆け巡っていた。
おまけに、夫に向かってある子どもが「あんた、だれ?」と言うのを(日本人ではないからだろう)、先生たちは笑って見ているだけ・・・。私、つい「そういう言い方はしないのよ!」と言ってしまった。そのあと、別の場面で男の先生が園児に向かって「おい、おまえ、さっき言ったやろ?」と笑いながら言っているのを見て、これまた驚いた。こんな言葉を先生が子どもに使うとは!
トロントの幼稚園しか知らない私には、驚くべきカルチャーショーック!
トロントのKindergartenでは、毎日、子どもたちはいろんなことを学んでいた。大きくわけると、図書館(読書、読み聞かせ)、音楽、運動、コンピュータなどが、それぞれ1日のメイン・スケジュールになっていた。私が見た感じでは、「お遊び」というより、しっかりとした「教育」がなされていた。悪い言葉遣いはその場で直されるし、必ず「Please」と言うように教えられる。混沌たる状況ではなく、先生がやはり高い立場にいてDisciplineがしっかりとなされていた。先生は子どもに対してはひとりの人間として扱い、頭ごなしに何かをしかりつける、というやり方はしてなかった。デイケアですらそれは同じだった。
一方、日本の幼稚園は「先生の情熱」みたいなのが何より大切にされているような気がした。先生が「自分の見ている子どもが好き!」という態度を持っていれば、あとは何がどうあってもよい、というような・・・。細かいことは言わずに、愛情をもっておおらかに育てる、ということが非常に重要視されているというような・・・。違うかな?
トロント市では、それぞれのkindergartenはトロント市教育委員会が管轄しているため、先生たちはしっかりと市教育委員会のカリキュラムに従って教育目的を設定したうえで子どもたちの活動を選んでいる。自らの政治遺産として教育改革を残したいと切望しているマギンティ(オンタリオ)州首相にとって、数年前から取り組んできたオールデイ・キンダーガーデン(小学校と同じ時間帯で)は肝心要の政策に違いなく、2013年にはすべての学校でオールデイ・キンダーガーデンが実施される見込みになっている。
この背景には、従来、「親が子どもを預けるところ」とみなされてきた幼稚園を、「生涯続いていく教育の初歩的基盤」と見直す風潮がある。カナダでは幼児教育研究者や教育専門家、政府関係者などが、こぞって(明らかに世界では最先端)北欧モデルの教育システムを注視しており、最近の研究でも、早期幼児教育の重要性(学力や生活力への影響など)が次々と証明されている。なかでもLiberal党は、国民全体の教育水準を高めるための施策として、早期幼児教育に非常な期待を寄せている(ように私には見える)。
先にも述べたが、トロントではエリックの幼稚園では、子どもたちはすでに4歳からコンピュータを触っている。簡単な数字ゲームをするような感じだが、それでもそこには教育におけるコンピュータ・リテラシーの重要性への気付きがある。そこには「どのような国を目指すのか」に対するカナダ政府のしっかりした答えがあり、「オールデイ・キンダーガーデン」は、それを達成するための施策であるのだ。
「先生たちの情熱」、「愛情をもって育てる」、「体を張って子どもに向き合う」・・・、確かに結構である。でも、私にはこれだけあればすべて何とかなるような幼児教育環境で育ってきた子どもたちが、小学生のうちはまだいいが、中学・高校と進学して大人を含め他者とのあいだに大きな問題に直面する可能性があるのは明らかだ、という気がする。
さて、話が長くなったが、いくつか保育園をまわってみて、こんなことをあれこれ考えながら、正直言って「日本の幼児教育は遅れている」という印象を受けた。それは政府が幼児教育の重要性を認識していない、子どもたちを将来、国を担っていく国民に育てるための責任を認識していない、そのため、組織的に対応ができていないことが根本にあると思うし、政府の無策が批判されもしない状況がちょっと理解できない。
Friday, January 6, 2012
国際離婚と”親による子どもの拉致”(parental abduction:ペアレンタル・アブダクション)
1ヶ月ほど前に、CBCラジオ番組のCurrentでparental abductionについて話していた。聞いていると、元妻(日本人)が2004年に子どもを日本に連れ去ったまま子どもと離れ離れになっている、というモリー・ウッドという人がインタビューを受けていた。彼の話によれば、カナダの裁判所からは彼が親権を与えられていたにもかかわらず、2004年、元妻が日本に子どもを連れたまま帰ってしまったとのことである。現在、子どもたちは17、15歳になっており、日本に帰ってから、母親は子どもたちからカナディアン・アイデンティティを奪い、カナダの家族と連絡を取らせないようにしているとのことである。モリー・ウッドは、「親による子どもの拉致」が子どもにもたらす心理的虐待について幾度となく強調していた。
彼の話だけ聞いていると、リスナーはみんな、子どもを取り上げられた父親の悲しみを感じて、「何という母親だろう!」と思ったことだろう。このプログラムのアンカーも彼に同情的だったし、この父親側の話だけ聞くと、ハーグ条約加盟は当然!という意見を抱くのは自然な成り行きだろう。
しかし、実際には国際離婚にともなう「親による子どもの拉致」の実態はもっともっと複雑である。そして、長年、日本政府が欧米から批准を迫られていたHague Convention on the Civil Aspects of International Child Abduction(国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約)を考えるとき、この複雑性が日本政府の批准に足踏みさせていたのだろうかと思えば、ちょっぴり日本政府にも希望が持てるように思ったものだ。だから、2011年5月に日本政府が批准に前向きな姿勢を示したときは、あれっと思った。時事通信 (5月19日付)の”同条約に関する副大臣会議座長を務めた福山哲郎官房副長官は記者団に「子どもの福祉を第一に考え、加盟してもいいのではないかという結論に至った」と語った”を読んときには、「子どもの福祉を第一に考える、なんてそんなの当たり前じゃない! それが結論なら、なんでこんなに長い時間がかかったのよ?」と思ったものだ。
たとえば、このシチュエーションを自分の状況に照らし合わせてみたとき、カナダという外国に住む私(母親)の状況は明らかに不利である。たとえば、裁判になれば、外国人であり、フルタイムで働いていない私に親権が100%下りる可能性はきわめて低い。親権がいくらか下りたとしても、あるいは下りなくても、定期的に夫は面会の権利を求めてくるだろうから(それにそれは裁判所の指示であって断れないから)、日本に帰ることもできない。そうなると、異国の地でシングル・マザーとして生きていく決断をしなくてはならないが、その決断が簡単に下せるわけがない。
しかし、だからといってモリー・ウッドの元妻のように二国間の司法のギャップを考慮もせず子どもを連れて帰るのを推奨することは到底できない。ウッドが主張するように、子どもたちは友達や家族(親類)と突然連絡を閉ざされるのだから、母親の行動に起因する孤立と重荷は計り知れない。
個人的には、日本にはハーグ条約に加盟してほしいと思う。しかし、批准する、批准しないとは別に、国際離婚に伴なう子どもの拉致に関して、欧米諸国と日本政府との間で、先に記したような現実を照らし合わせた相互理解をより深める必要があると思われる。それなくしては、批准しても、批准しなくても、この問題は私たちのような国際結婚カップルに突然襲い掛かってきて、二国間の理解の違いという大きなクレバスのなかに陥って身動きが取れなくなるのは目に見えている。具体的には、二国間の間の法律や文化の違いを理解する専門家やカウンセラーの設置、さらには国際離婚を考えている人たちに対するサポートやメンタル面での援助などを提供する機関の設置が求められる。
数年前、外務省は領事館を通して国際結婚している日本人に「ハーグ条約に関しての意見書」みたいなのを配って、アンケート調査をしていたことがある。実際に当事者となるであろう国際結婚カップルの意見や、その集計はどういう形で、今回の判断(批准するという)につながったのであろうか。せっかく取った調査の結果をきちんと活かすことが必要だろう。
しかし、私にはひとつ腹が立つことがある。それは、こうして国際結婚カップルの問題になると、国際結婚した日本人女性が「非国民」だの「パンパン」だのと野次られることである。そんな低俗な野次に私も応える必要はないと思いながら、そういう輩はKaren KelskyのWomen on the Vergeを読んで自らも一生懸命けなしている当のスキームに巻き込まれている事実を認識することをお勧めしたい。
彼の話だけ聞いていると、リスナーはみんな、子どもを取り上げられた父親の悲しみを感じて、「何という母親だろう!」と思ったことだろう。このプログラムのアンカーも彼に同情的だったし、この父親側の話だけ聞くと、ハーグ条約加盟は当然!という意見を抱くのは自然な成り行きだろう。
しかし、実際には国際離婚にともなう「親による子どもの拉致」の実態はもっともっと複雑である。そして、長年、日本政府が欧米から批准を迫られていたHague Convention on the Civil Aspects of International Child Abduction(国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約)を考えるとき、この複雑性が日本政府の批准に足踏みさせていたのだろうかと思えば、ちょっぴり日本政府にも希望が持てるように思ったものだ。だから、2011年5月に日本政府が批准に前向きな姿勢を示したときは、あれっと思った。時事通信 (5月19日付)の”同条約に関する副大臣会議座長を務めた福山哲郎官房副長官は記者団に「子どもの福祉を第一に考え、加盟してもいいのではないかという結論に至った」と語った”を読んときには、「子どもの福祉を第一に考える、なんてそんなの当たり前じゃない! それが結論なら、なんでこんなに長い時間がかかったのよ?」と思ったものだ。
たとえば、このシチュエーションを自分の状況に照らし合わせてみたとき、カナダという外国に住む私(母親)の状況は明らかに不利である。たとえば、裁判になれば、外国人であり、フルタイムで働いていない私に親権が100%下りる可能性はきわめて低い。親権がいくらか下りたとしても、あるいは下りなくても、定期的に夫は面会の権利を求めてくるだろうから(それにそれは裁判所の指示であって断れないから)、日本に帰ることもできない。そうなると、異国の地でシングル・マザーとして生きていく決断をしなくてはならないが、その決断が簡単に下せるわけがない。
しかし、だからといってモリー・ウッドの元妻のように二国間の司法のギャップを考慮もせず子どもを連れて帰るのを推奨することは到底できない。ウッドが主張するように、子どもたちは友達や家族(親類)と突然連絡を閉ざされるのだから、母親の行動に起因する孤立と重荷は計り知れない。
個人的には、日本にはハーグ条約に加盟してほしいと思う。しかし、批准する、批准しないとは別に、国際離婚に伴なう子どもの拉致に関して、欧米諸国と日本政府との間で、先に記したような現実を照らし合わせた相互理解をより深める必要があると思われる。それなくしては、批准しても、批准しなくても、この問題は私たちのような国際結婚カップルに突然襲い掛かってきて、二国間の理解の違いという大きなクレバスのなかに陥って身動きが取れなくなるのは目に見えている。具体的には、二国間の間の法律や文化の違いを理解する専門家やカウンセラーの設置、さらには国際離婚を考えている人たちに対するサポートやメンタル面での援助などを提供する機関の設置が求められる。
数年前、外務省は領事館を通して国際結婚している日本人に「ハーグ条約に関しての意見書」みたいなのを配って、アンケート調査をしていたことがある。実際に当事者となるであろう国際結婚カップルの意見や、その集計はどういう形で、今回の判断(批准するという)につながったのであろうか。せっかく取った調査の結果をきちんと活かすことが必要だろう。
しかし、私にはひとつ腹が立つことがある。それは、こうして国際結婚カップルの問題になると、国際結婚した日本人女性が「非国民」だの「パンパン」だのと野次られることである。そんな低俗な野次に私も応える必要はないと思いながら、そういう輩はKaren KelskyのWomen on the Vergeを読んで自らも一生懸命けなしている当のスキームに巻き込まれている事実を認識することをお勧めしたい。
Sunday, December 25, 2011
Feminization of Education : 女の子の方が成績がよい理由
The Group of 8, The Japanese and Canadian Writers' Networkへの寄稿記事を転載
リンク:The group of 8 - The Japanese and Canadian Writers' Network
11月中旬に入ってきたニュース・アイテムのひとつは、女の子の方が学力的に優れている、というもの。男女間の学力格差は、北米やヨーロッパの先進諸国で問題化して久しいし、私も教える側から実際に見てきたのでちょっと書いてみたい。
カナダ政府の教育関連機関Education Quality and Accountability Office (EQAO) および Council of Ministers of Education, Canada (CMEC)によれば、グレード8(8年生)の生徒の学力を計った2010年のThe Pan Canada Assessment Program (PCAP)テストの結果、読解(reading)、数学(math)、科学(science)の3項目で、数学は男女ともに同点、読解と科学では平均的に女の子の方が得点が高かったという。これまでは男の子の方が得点が高かった科学に関しても、今回は女の子が高得点を得るという結果となった。
カナダの教育界では、これまでも男女の学力格差が何度となく取り上げられてきているが、その傾向をさらに裏付ける形になった。
学力格差の理由として学者や教育関係者が挙げるのは、ビデオゲームの影響や成長発達的差異、さらに「教育セクターにおける女性化」など。ビデオゲームの影響(男の子の方が何故かのめりこみやすい)、成長発達的な差異(女の子の方がことばを発するのが早い、とか、女の子の方が文章が上手、とか・・・)以上に私にはこの「教育セクターにおける女性化」というのが興味深い。
一例をあげると女性教師が圧倒的に多いこと。その結果として女性教師の好みで読書リストなどが作られ(たとえば「赤毛のアン」や「若草物語」。男の子は大嫌い!)、男の子の読書離れに結びつく点などが指摘されている。
また、北米では1960年代頃から従来の男性中心、白人中心の教科書やカリキュラムが大きな問題とされ始め、改良・変更が加えられてきた事実がある。たとえば、それまで教科書をはじめとする教育関連書籍の写真は、白人男性医師、白人男性科学者などの写真が圧倒的であったが、現在ではいわゆる「マイノリティ(女性、非白人)」の写真が大半を占め、反対に白人男性(白人男子)の写真は稀という。この結果、男の子は未来の自分の姿を、こうしたロールモデルに投影することができない。
この報告が発表される少し前に、トロント教育委員会(TDSB)はアフリセントリック学校設立を許可したが、これと同時に決められたのは男子、あるいは女子校の設置許可だった。実は、男子校設置許可の理由も、男女間の学力差であった。男子校設置により、男の子が興味をもつ主題や読み物を与えたり、行動ベースのプログラムを組み込むことができ、結果として男の子の学力の伸びにつながるものと期待されている。
高校中途退学率で見ると、カナダ全国で男子(10.3%)、女子(6.6%)と男の子の方が圧倒的に高い。また、カレッジ、大学、修士レベルの在籍数を見ても、女子が男子を上回っている(これはカナダだけでなく、OECD諸国の国際学力調査(PISA)でも結果は同じ)。10年以上も前の話で恐縮だが、日本の公立高校で教えていた私の経験からも、確かに女子の方が平均的に成績がよかった。とりわけ語学(英語、国語)にはその差が歴然と表れていた。よく見ていると、女子生徒は真面目にがんばって勉強する子が、男子に比べると多い。ただ、たまに学力というか、もともとのIQが高いんじゃないか、というような子はいつも男の子だったが・・・。
それで、ふと思うのだが、女子の方が学力的に優れているのなら、どうしてノーベル賞(科学に関する賞)受賞者には男性が多いのだろうか。大学の教授や学者、知識人には比較的男性が多いのだろうか。教育レベルでは制度的問題が改善されたが、社会的にみると制度的問題が未だ女性の進出を妨げている、ということなのだろうか。いや、単に女性のほうが能力的に優れているけれど、その能力を眠らせている、ということなのだろうか。このあたりも気になるところだ。
リンク:The group of 8 - The Japanese and Canadian Writers' Network
11月中旬に入ってきたニュース・アイテムのひとつは、女の子の方が学力的に優れている、というもの。男女間の学力格差は、北米やヨーロッパの先進諸国で問題化して久しいし、私も教える側から実際に見てきたのでちょっと書いてみたい。
カナダ政府の教育関連機関Education Quality and Accountability Office (EQAO) および Council of Ministers of Education, Canada (CMEC)によれば、グレード8(8年生)の生徒の学力を計った2010年のThe Pan Canada Assessment Program (PCAP)テストの結果、読解(reading)、数学(math)、科学(science)の3項目で、数学は男女ともに同点、読解と科学では平均的に女の子の方が得点が高かったという。これまでは男の子の方が得点が高かった科学に関しても、今回は女の子が高得点を得るという結果となった。
カナダの教育界では、これまでも男女の学力格差が何度となく取り上げられてきているが、その傾向をさらに裏付ける形になった。
学力格差の理由として学者や教育関係者が挙げるのは、ビデオゲームの影響や成長発達的差異、さらに「教育セクターにおける女性化」など。ビデオゲームの影響(男の子の方が何故かのめりこみやすい)、成長発達的な差異(女の子の方がことばを発するのが早い、とか、女の子の方が文章が上手、とか・・・)以上に私にはこの「教育セクターにおける女性化」というのが興味深い。
一例をあげると女性教師が圧倒的に多いこと。その結果として女性教師の好みで読書リストなどが作られ(たとえば「赤毛のアン」や「若草物語」。男の子は大嫌い!)、男の子の読書離れに結びつく点などが指摘されている。
また、北米では1960年代頃から従来の男性中心、白人中心の教科書やカリキュラムが大きな問題とされ始め、改良・変更が加えられてきた事実がある。たとえば、それまで教科書をはじめとする教育関連書籍の写真は、白人男性医師、白人男性科学者などの写真が圧倒的であったが、現在ではいわゆる「マイノリティ(女性、非白人)」の写真が大半を占め、反対に白人男性(白人男子)の写真は稀という。この結果、男の子は未来の自分の姿を、こうしたロールモデルに投影することができない。
この報告が発表される少し前に、トロント教育委員会(TDSB)はアフリセントリック学校設立を許可したが、これと同時に決められたのは男子、あるいは女子校の設置許可だった。実は、男子校設置許可の理由も、男女間の学力差であった。男子校設置により、男の子が興味をもつ主題や読み物を与えたり、行動ベースのプログラムを組み込むことができ、結果として男の子の学力の伸びにつながるものと期待されている。
高校中途退学率で見ると、カナダ全国で男子(10.3%)、女子(6.6%)と男の子の方が圧倒的に高い。また、カレッジ、大学、修士レベルの在籍数を見ても、女子が男子を上回っている(これはカナダだけでなく、OECD諸国の国際学力調査(PISA)でも結果は同じ)。10年以上も前の話で恐縮だが、日本の公立高校で教えていた私の経験からも、確かに女子の方が平均的に成績がよかった。とりわけ語学(英語、国語)にはその差が歴然と表れていた。よく見ていると、女子生徒は真面目にがんばって勉強する子が、男子に比べると多い。ただ、たまに学力というか、もともとのIQが高いんじゃないか、というような子はいつも男の子だったが・・・。
それで、ふと思うのだが、女子の方が学力的に優れているのなら、どうしてノーベル賞(科学に関する賞)受賞者には男性が多いのだろうか。大学の教授や学者、知識人には比較的男性が多いのだろうか。教育レベルでは制度的問題が改善されたが、社会的にみると制度的問題が未だ女性の進出を妨げている、ということなのだろうか。いや、単に女性のほうが能力的に優れているけれど、その能力を眠らせている、ということなのだろうか。このあたりも気になるところだ。
Tuesday, December 13, 2011
利き手と発達障害の関係
最近、利き手に関する非常に興味深い新聞記事が掲載された(Globe紙12月8日付)。
左手、あるいは両手を利き手とする人と精神疾患、発達障害に関連性がみられるという。
左手を利き手とするのは人口の10%程度、また、両手を利き手とするのは1%とされている。
利き手が決まる原因についてははっきりした科学的根拠がないが、これまでの研究によれば、母親が高齢出産、妊娠時に強度のストレスを感じていた場合、出世時の子どもが低体重だった場合に、左手が利き手になる可能性が高いという。
平均すると、利き手の違いによるIQの違いはほとんどない。一般的に、左手は芸術などのセンスに恵まれ、創造的であるとされる一方で、平均収入で見ると左手を利き手とする人口は右手に比べて約10%低いというデータがある。
先に書いたように、人口の10%が左手を利き手としているが、スキゾフレニア(精神分裂病)人口のうち20%が左手を利き手としているというのは割合としては高い。スキゾフレニアのほか、ADHD(多動性障害)やディスレクシア(失読症)、ムード・ディスオーダーなどの発達障害と左手利き手人口の関連性が指摘されている。
この記事を読む前日、4歳になるエリックが絵を描いているのを見ながら、エリックの利き手が右手になっていること、それは強制もされず自然にそうなったという事実に気づいて不思議に思ったのだった。スプーンを使い始めたころは、両手どちらとも使っていた。それが何時の間にか自然に右手になった。利き手に関してはどちらかというと生前説が優勢のようであるが、胎児のときの状況が影響しているというのは初めて知った。
また、以前は左手使いはビシビシと直されていたものだった。夫の叔父も左利きで、学校では左手で書くとものさしで叩かれて矯正されていたと言う。しかし、左利きを直せば精神疾患や発達障害の可能性が減少するのか、それとも生まれつきなら矯正は役に立たないということなのだろうか。うーむ、よくわかりませんな・・・。
左手、あるいは両手を利き手とする人と精神疾患、発達障害に関連性がみられるという。
左手を利き手とするのは人口の10%程度、また、両手を利き手とするのは1%とされている。
利き手が決まる原因についてははっきりした科学的根拠がないが、これまでの研究によれば、母親が高齢出産、妊娠時に強度のストレスを感じていた場合、出世時の子どもが低体重だった場合に、左手が利き手になる可能性が高いという。
平均すると、利き手の違いによるIQの違いはほとんどない。一般的に、左手は芸術などのセンスに恵まれ、創造的であるとされる一方で、平均収入で見ると左手を利き手とする人口は右手に比べて約10%低いというデータがある。
先に書いたように、人口の10%が左手を利き手としているが、スキゾフレニア(精神分裂病)人口のうち20%が左手を利き手としているというのは割合としては高い。スキゾフレニアのほか、ADHD(多動性障害)やディスレクシア(失読症)、ムード・ディスオーダーなどの発達障害と左手利き手人口の関連性が指摘されている。
この記事を読む前日、4歳になるエリックが絵を描いているのを見ながら、エリックの利き手が右手になっていること、それは強制もされず自然にそうなったという事実に気づいて不思議に思ったのだった。スプーンを使い始めたころは、両手どちらとも使っていた。それが何時の間にか自然に右手になった。利き手に関してはどちらかというと生前説が優勢のようであるが、胎児のときの状況が影響しているというのは初めて知った。
また、以前は左手使いはビシビシと直されていたものだった。夫の叔父も左利きで、学校では左手で書くとものさしで叩かれて矯正されていたと言う。しかし、左利きを直せば精神疾患や発達障害の可能性が減少するのか、それとも生まれつきなら矯正は役に立たないということなのだろうか。うーむ、よくわかりませんな・・・。
Sunday, December 4, 2011
10代の自殺率の増加
カナダでは若者の死亡原因は、自動車事故に続き、自殺となっている。
最新の2007年データによれば、10から19歳人口では218人 が自殺しており、最大の原因としていじめが挙げられている。また、2009年の調査では、オンタリオ州の7年-12年の生徒のうち、3人に1人がいじめにあっているという報告もある。
とりわけ、新学期の始まる9月は自殺が増えるといわれ、今年はその頃にもトロント郊外のミシサガで16歳の少年が友人(女性)を殺害した後に飛び込み自殺をし、大きな波紋を呼んだ。
友人などの話によれば、この少年はFacebookで自殺を仄めかすメッセージを載せており、また、以前からディプレッションにより自殺願望を口にしていたという。
自殺した若者のうち、なんと91パーセントが何らかの精神疾患を患っているという。
カナダ史に照らして「自殺」を見ると、1800年代後半には自殺をする人は、結婚前に妊娠した女性が大半であったという。1930年代になると、新しいチャンスを求めて新大陸にやってきたものの、富を得ることができなかった男性、とりわけ既婚の若い男性が多かったという。その傾向はいまや大きく変化し、若者と自殺の関連性、さらにはディプレッション、エンザエティの関連性がメディアでも取り沙汰されている。
大学やカレッジでも自殺の問題は今や深刻に取られている。大学やカレッジでは、とりわけ、ヘリコプター・ペアレントに育てられ、参加者すべてがそれだけで賞賛される教育環境で育ってきた学生が、はじめて失敗を経験する場になることが多いことから、失敗に対する大きな不安が影響していると指摘されている。
世界的にみると、若者の自殺は経済的にに豊かな先進国で社会問題化している。一方、第三世界では若者による自殺以上に、病気疾患や事故による死亡率が高い。
北米では、若者の自殺率の増加は、比較的新しい問題である。男女別に見ると、圧倒的に男子に多く、その率は2倍という。しかし、自殺未遂でみると女子の方が多く、男子に多いのは体力的に自殺を実行する力があることが一因であると言われる。
専門家や心理学者は若者の自殺率が増加している理由として、単独の理由に絞り込むことを否定し、ティーン独特の文化、将来に対する不安、精神的な孤独や孤立、いじめ、離婚率の増加、宗教的意味の低下など、さまざまな要因を複合的に見る必要性を指摘している。
また、自殺の兆候として、孤立、突然の学力低下、ディプレッションやエンザエティーといった精神的障害、またアルコールやドラッグへの依存などが挙げられる。一般的に親は「何の兆候もなかった」ということが多いが、よくよく聞いてみると、友人には自殺願望をほのめかしていることが多く、大人には言わない傾向があることも指摘されている。
最新の2007年データによれば、10から19歳人口では218人 が自殺しており、最大の原因としていじめが挙げられている。また、2009年の調査では、オンタリオ州の7年-12年の生徒のうち、3人に1人がいじめにあっているという報告もある。
とりわけ、新学期の始まる9月は自殺が増えるといわれ、今年はその頃にもトロント郊外のミシサガで16歳の少年が友人(女性)を殺害した後に飛び込み自殺をし、大きな波紋を呼んだ。
友人などの話によれば、この少年はFacebookで自殺を仄めかすメッセージを載せており、また、以前からディプレッションにより自殺願望を口にしていたという。
自殺した若者のうち、なんと91パーセントが何らかの精神疾患を患っているという。
カナダ史に照らして「自殺」を見ると、1800年代後半には自殺をする人は、結婚前に妊娠した女性が大半であったという。1930年代になると、新しいチャンスを求めて新大陸にやってきたものの、富を得ることができなかった男性、とりわけ既婚の若い男性が多かったという。その傾向はいまや大きく変化し、若者と自殺の関連性、さらにはディプレッション、エンザエティの関連性がメディアでも取り沙汰されている。
大学やカレッジでも自殺の問題は今や深刻に取られている。大学やカレッジでは、とりわけ、ヘリコプター・ペアレントに育てられ、参加者すべてがそれだけで賞賛される教育環境で育ってきた学生が、はじめて失敗を経験する場になることが多いことから、失敗に対する大きな不安が影響していると指摘されている。
世界的にみると、若者の自殺は経済的にに豊かな先進国で社会問題化している。一方、第三世界では若者による自殺以上に、病気疾患や事故による死亡率が高い。
北米では、若者の自殺率の増加は、比較的新しい問題である。男女別に見ると、圧倒的に男子に多く、その率は2倍という。しかし、自殺未遂でみると女子の方が多く、男子に多いのは体力的に自殺を実行する力があることが一因であると言われる。
専門家や心理学者は若者の自殺率が増加している理由として、単独の理由に絞り込むことを否定し、ティーン独特の文化、将来に対する不安、精神的な孤独や孤立、いじめ、離婚率の増加、宗教的意味の低下など、さまざまな要因を複合的に見る必要性を指摘している。
また、自殺の兆候として、孤立、突然の学力低下、ディプレッションやエンザエティーといった精神的障害、またアルコールやドラッグへの依存などが挙げられる。一般的に親は「何の兆候もなかった」ということが多いが、よくよく聞いてみると、友人には自殺願望をほのめかしていることが多く、大人には言わない傾向があることも指摘されている。
Tuesday, September 13, 2011
再び「スポンジボブ」について
Guardian紙でスポンジボブについて読んで、さっそくブログへポスティングしたが、今朝、同じトピックについて、CBCラジオでクイーンズ大学の心理学者のコメントを聞いた。また、今日付けのToronto Star紙でも同トピックについて記事が掲載されていたので、それを踏まえて、昨日のポスティングに少し補足しておきたい。
Queen’s の心理学者が言うには、4歳というのは子どもの脳の発達にとって非常に過渡的な段階にあり、3歳と5歳の脳では発達的に大きな差異があるらしい。脳の発達に関する研究では、脳の80%が3,4歳時に、10歳までには90%が完成するとされている。10歳以上の子どもや大人にスポンジボブを見せても問題はないが、小さな子どもに見せると短期的に問題がある、つまりその後にタスク(やるべき事)を与えても集中してできないので、こうした番組を見せる時間帯に注意すべきである(その後、宿題をさせる、とか、問題解決をさせるとか、そうした集中力を使うタスクをさせる前は避けたほうがよい、ということ)。
しかし、私はこの心理学者のコメントを聞いてどうも納得いかなかった。彼は「短期的な問題」を取り上げているだけであるが、私たち親は「子どもの脳の発達における長期的影響」をもっと懸念しているのではないか。3,4歳で脳の発達の80%が完成するということは、この時期に脳のなかにいろんなコネクション(回路)が素早いスピードでできているということであり、その回路は一生を通じて残っていくものである。その意味は非常に深いと思うし、そうした視点から今回の研究結果に対する意味を語って欲しかったと思う。
Queen’s の心理学者が言うには、4歳というのは子どもの脳の発達にとって非常に過渡的な段階にあり、3歳と5歳の脳では発達的に大きな差異があるらしい。脳の発達に関する研究では、脳の80%が3,4歳時に、10歳までには90%が完成するとされている。10歳以上の子どもや大人にスポンジボブを見せても問題はないが、小さな子どもに見せると短期的に問題がある、つまりその後にタスク(やるべき事)を与えても集中してできないので、こうした番組を見せる時間帯に注意すべきである(その後、宿題をさせる、とか、問題解決をさせるとか、そうした集中力を使うタスクをさせる前は避けたほうがよい、ということ)。
しかし、私はこの心理学者のコメントを聞いてどうも納得いかなかった。彼は「短期的な問題」を取り上げているだけであるが、私たち親は「子どもの脳の発達における長期的影響」をもっと懸念しているのではないか。3,4歳で脳の発達の80%が完成するということは、この時期に脳のなかにいろんなコネクション(回路)が素早いスピードでできているということであり、その回路は一生を通じて残っていくものである。その意味は非常に深いと思うし、そうした視点から今回の研究結果に対する意味を語って欲しかったと思う。
Monday, September 12, 2011
子どもにとって有害なテレビ番組
我が家にはテレビがない。エリックは、生まれてこの方、自分の家で座ってテレビを見た経験がないのだが、私も夫もこの選択は間違っていなかったと今も思っている。私たちもテレビの効用は認めていないわけではない。ただ、子どもにとっては害の方が大きいと思うのだ。
私たちのように、4年間テレビを絶った後、Fast-pacedな子ども番組を見るとどういう反応が現れると思われるだろうか?
まず、頭が痛くなる。どこに焦点(集中力)を置けばいいのかわからず、戸惑ってしまう。自分の能力のすべてが集まっている「芯」がかき乱される。つまり、集中力が崩れていくのがわかる。相手のペースに流されることに対する恐れ。受動化。
しかし、その当時、カナダの小児科協会も、トロント市保険局のパブリック・ナースも、「テレビはなるべく見せないように」と言うだけで、積極的に「テレビを見せないように」とは言っていなかった。
さて、今日のGuardian紙によると、スポンジボブ(SpongeBob Square Pants)などの画面が素早く切り替わる、ファンタジーに満ちたテレビ番組を見せると、子どもたちの学習能力の低下につながる、という研究結果がPediatricsジャーナルに発表されたという。
この研究結果はUniversity of Virginiaの心理学研究者によるもので、60人の4歳児に9分間のスポンジボブ番組を見せた後、行動を観察すると自己制御能力が低下し、結果的に学習能力の低下につながるというもの。実験では、同様に9分、ゆっくりペースのカナダの教育番組Caillouを見せたり、9分間のお絵かきをさせたが、Caillouとお絵かきでは子どもの能力に変化は見られなかったという。
研究結果では、この理由として、早いペースで動くものを見ると、集中力が下がる点、さらにキャラクターに自分を同一化する傾向、を挙げている。
つまり、画面が素早く切り替わる、ファンタジーに満ちた番組(研究結果では”Fast-paced, fantasy television programs”)を見せると、4歳児は集中力とセルフ・コントロールの能力が低下する、ということである(ちなみに、このセルフ・コントロール/自己抑制能力が学力や生活力の発達にとって最大のカギであるという事実は、最近、数々の研究結果が証明している)。
アメリカの小児科協会American Academy of Pediatricsが、2歳以下にはテレビを見せないようにと強い警告をしたのはわずかに3年ほど前のことだった。2歳以上には、日に2時間以内、それも教育番組に限って大人といっしょに見せることを推奨していた。今回の研究結果は、こうしたガイドラインをサポートする内容で、子どもの健全な行動発達を願うなら、お絵かきやブロック、外遊びをさせるべきだとしている。
参考)Guardian/ガーディアン紙
http://www.guardian.co.uk/science/2011/sep/12/spongebob-children-concentration
私たちのように、4年間テレビを絶った後、Fast-pacedな子ども番組を見るとどういう反応が現れると思われるだろうか?
まず、頭が痛くなる。どこに焦点(集中力)を置けばいいのかわからず、戸惑ってしまう。自分の能力のすべてが集まっている「芯」がかき乱される。つまり、集中力が崩れていくのがわかる。相手のペースに流されることに対する恐れ。受動化。
しかし、その当時、カナダの小児科協会も、トロント市保険局のパブリック・ナースも、「テレビはなるべく見せないように」と言うだけで、積極的に「テレビを見せないように」とは言っていなかった。
さて、今日のGuardian紙によると、スポンジボブ(SpongeBob Square Pants)などの画面が素早く切り替わる、ファンタジーに満ちたテレビ番組を見せると、子どもたちの学習能力の低下につながる、という研究結果がPediatricsジャーナルに発表されたという。
この研究結果はUniversity of Virginiaの心理学研究者によるもので、60人の4歳児に9分間のスポンジボブ番組を見せた後、行動を観察すると自己制御能力が低下し、結果的に学習能力の低下につながるというもの。実験では、同様に9分、ゆっくりペースのカナダの教育番組Caillouを見せたり、9分間のお絵かきをさせたが、Caillouとお絵かきでは子どもの能力に変化は見られなかったという。
研究結果では、この理由として、早いペースで動くものを見ると、集中力が下がる点、さらにキャラクターに自分を同一化する傾向、を挙げている。
つまり、画面が素早く切り替わる、ファンタジーに満ちた番組(研究結果では”Fast-paced, fantasy television programs”)を見せると、4歳児は集中力とセルフ・コントロールの能力が低下する、ということである(ちなみに、このセルフ・コントロール/自己抑制能力が学力や生活力の発達にとって最大のカギであるという事実は、最近、数々の研究結果が証明している)。
アメリカの小児科協会American Academy of Pediatricsが、2歳以下にはテレビを見せないようにと強い警告をしたのはわずかに3年ほど前のことだった。2歳以上には、日に2時間以内、それも教育番組に限って大人といっしょに見せることを推奨していた。今回の研究結果は、こうしたガイドラインをサポートする内容で、子どもの健全な行動発達を願うなら、お絵かきやブロック、外遊びをさせるべきだとしている。
参考)Guardian/ガーディアン紙
http://www.guardian.co.uk/science/2011/sep/12/spongebob-children-concentration
Tuesday, September 6, 2011
宗教的アコモデーション(religious accommodation)と教育システム
今日のGlobe紙に興味深い記事が載っていた。最近、イスラム教家庭の子どもがカソリック教教育委員会が運営するカソリック系の学校に行くケースが増えているという。背景には、イスラム教を信仰する親が、非宗教的な(Secular、セキュラー)学校でゲイ・ライツや同性の恋愛関係、性教育などが非常にオープンに行われることに対して警戒心を感じている現実があるという。崇める神が違うだけで、価値観という意味では確かに似ているところがあるだろうから、これは頷ける。
カソリック系の学校へ行くには、基本的には親のひとりがカソリックでなくてはならないが、高校以降は非カソリックでもスペースさえあれば受け入れてくれる。現在、カソリック系高等学校の生徒のうち10%が非カソリック信者だという。
私の住む州、オンタリオ州ではCatholic School Board(カソリック系教育委員会)の存在が、セキュラー(非宗教教育委員会)とともに認められている。子どもをセキュラーな学校に行かせるか、カソリック系の学校に行かせるかは親の判断にゆだねられるが、このカソリック系教育委員会に対しては、近年、批判が強まっているというのも事実である。
どちらの教育委員会も、州政府から資金援助を受けて運営されている。なぜカソリック信者だけが優遇されて、たとえばイスラム系教育委員会はないのか、シーク系はどうなのか、ユダヤ系はどうなのか、と多くが思っている。オンタリオ州の法律では、オンタリオ州民すべてにreligious rights(宗教的権利)が保障されており、公的機関にはreligious accommodation(宗教的アコモデーション:各人の宗教的権利をできる限り受け入れること)が義務づけられている。カソリックだけが優遇されるのはおかしい、と理論からするとなってしまう。
私の記憶では、数年前の州選挙の際、ジョン・トーリーという保守党党首が「保守党はreligious rightsを認めて、ユダヤ系教育委員会を設置する」と公約した結果、選挙に破れたのだった。つまり、オンタリオ州では(とりわけトロントでは)世論は、カソリック教育委員会の存在は歴史的な経緯があるとしても、それ以上に公的資金(税金)を使って宗教ベースの学校を設置するべきではない、という風潮に傾いていたのだった。
宗教ベースの学校といえば、昨年のある事件がまたまたカソリック系教育委員会に対する風当たりを強めている。その事件とは、昨年11月、オンタリオ州ハルトン地区のカソリック教育委員会がGay-straight alliancesというクラブ(ゲイとストレートの学生が会ってゲイライツについて話し合うカジュアルなクラブ)を禁止する決定を下した事件であり、大手メディアではこれを同性愛者に対する差別であるとして社会問題として捉えていた。結局、カソリック教育委員会は、「ゲイ」という言葉を使わず、かわりにequity clubとすることで何とか難を逃れたが、カソリック系の学校では性教育やゲイ・ライツについて話をするどころか、こうした話題をタブーにしている現実が明らかになって私などはこのまったくもって信じられないほどの時代錯誤に呆れている。
そもそも、カソリック教育委員会が設置されたのは、プロテスタントの多いアングロ・サクソン系人口にあってマイノリティとしてのカソリック系市民の権利を守るためだった。しかし、プロテスタントとカソリックという二大勢力対立の図は、現代のマルチカルチャー都市トロントではすでに崩壊している。それなのに、このカソリック教育委員会が今も居座ってゲイ差別を公に口にしているとは信じ難い事実である。ダーウィンの進化論を教えないアメリカの学校などより、カナダはずっとセキュラーな社会であると思うが、それでもまだカソリック的価値が社会のはっきりとは見えないところに存在してもいる。いずれはカソリック教育委員会も消えてなくなるだろうが、マイノリティの権利を大切にする風土が、それを難しくしているというのは、実際、奇妙な事実である。
Monday, August 29, 2011
妊娠中に胎児の障害がわかったら人工中絶をしますか?
現在では、妊娠7週目の血液検査で胎児の性別が95%の確率で分かるらしい。また、精子・卵子バンクでは、望めば知的能力、運動能力、髪や目の色、人種や民族、まつげの長さまでお好みで選べる。テクノロジーの発展により、ダウン症から他の障害まで胎児の段階でスクリーニングできる社会が到来しつつある。デンマークの新聞によれば、2030年までにはダウン症は社会から抹消されるということである。つまり、これから母親、父親になる人は、障害児の生に関して「選択の権利」があるということになる。
24日付けのIan BrownのエッセーI'm glad I never had to decide whether my strange lonely boy ought to exist(奇妙で孤独な私の息子が存在すべきかを決めなくてよかったことが私には嬉しい)は、生々しく、秀逸である。イアン・ブラウンの妻が言うように、障害者がいなくなった社会とは、寛容さに欠ける社会に違いない。
人間の完璧性とは何か。障害者(あるいは弱者)が私たちの社会に教えてくれていることは何か。人間性とは何か。テクノロジーの発展と倫理はどういう関係になくてはならないのか。さまざまな問いを考えさせてくれる、美しくも悲しいエッセーをぜひご一読いただきたい。
http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/ian-brown/im-glad-i-never-had-to-decide-whether-my-strange-lonely-boy-ought-to-exist/article2144132/
24日付けのIan BrownのエッセーI'm glad I never had to decide whether my strange lonely boy ought to exist(奇妙で孤独な私の息子が存在すべきかを決めなくてよかったことが私には嬉しい)は、生々しく、秀逸である。イアン・ブラウンの妻が言うように、障害者がいなくなった社会とは、寛容さに欠ける社会に違いない。
人間の完璧性とは何か。障害者(あるいは弱者)が私たちの社会に教えてくれていることは何か。人間性とは何か。テクノロジーの発展と倫理はどういう関係になくてはならないのか。さまざまな問いを考えさせてくれる、美しくも悲しいエッセーをぜひご一読いただきたい。
http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/ian-brown/im-glad-i-never-had-to-decide-whether-my-strange-lonely-boy-ought-to-exist/article2144132/
Saturday, July 23, 2011
書評+タイガー・マザーをめぐる議論を考える (Nikkei Voice, July/Aug, 2011 掲載)
“Battle Hymn of the Tiger Mother” by Amy Chua
今年上旬に出版されて以降、メディアで数多くの賛否両論を引き起こした本著は、イエール大学法学部教授エイミー・チュアの子育てに関するメモワール。最初に書評が発表されたウォールストリート・ジャーナルでは、「なぜ中国式の子育てが優れているか」というセンセーショナルなタイトルが掲げられていたり、「子どもの自尊心ばかり気にしている西洋式では結局子どもは何も成し遂げることができない」といったコメントに表れるような、北米社会で浸透している子育てのやり方を否定的に描いていることから大反響を浴びた。The Globe and Mail紙によれば、この本が出版されて以降、エイミー・チュア宛てに「子ども虐待」「最悪の母親」といったメールが殺到したという。
本著を読み終えて思うのは、いかにメディアがセンセーショナルな描き方をしてきたか、ということだ。確かに、著者は「中国式の子育ては優れている」と信じている。しかし、この本は、次女ルルの反抗にあった挙句、中国式では手なずけられない場合もある、という点に気付いた著者の記録だと、私は読んだし、実際、この本のサブタイトルはこうなっている。「本著は子育てに関しては西欧のやり方より中国系のやり方の方が優れている、という本になるはずだった。しかし、実際には、激しい文化的衝突、つかの間に味わった勝利、13歳の娘がいかに私を謙虚にさせたかを綴った記録となった」。
中国式は従順な長女ソフィアにはうまくいった(ように見える)。しかし、性格的には「著者そのもの」である次女ルルとの熾烈な戦いの末(旅行先モスクワのカフェでの驚くべき大喧嘩!)、著者は最終的に「選択肢を与える」という、彼女が嫌った西洋的なやり方にトライしてみるのだ。表面上は「中国式の方が優秀」と主張してはばからない著者だが、よく読んでみれば、ハードルが立ちはだかるたび何度となく密かに自分の信念を疑問視し、葛藤している様子が描かれている。彼女がこの本を書き始めたのは、モスクワから帰った後だというのは意味深い事実だと思う。
私が読んだ書評の多くはこの点を故意に避けたか、触れても最小限に留めていた。メディアは、「中国式の子育てが優れている」というテーゼが、西欧的価値に対する大きな挑戦であることに目をつけ、「売れる」と踏んだ末に、その部分だけを意図的にデフォルメしたのだと思う。結果的に見ればこうした賛否両論は本著に対する最大の宣伝効果になったし、したたかな著者のこと、内心ほくそえんでいることだろう。
しかし、メディアが喜ぶ、このような二分対立の図式を買ってもよいものだろうか。また、子育てのやり方を「西洋式」「中国式」という真っ向から対立するものとして描くエイミー・チュアの方法論を買ってもよいのだろうか。著者の子育ては、何も「中国式」とは限らず、「スパルタ式」とか「エリート教育(音楽家やスポーツ選手を育てるやり方)」という言い方でも表現できるし、西欧社会でもこうしたやり方で育てている親はいるはずである。著者も実は、「中国式」が何も中国系家庭特有のものではなく、ポルトガル系家庭でも、イギリス系家庭でも見られる、と言う。しかし、そう言いながらも、やはり自らの育て方を「中国式」と言ってはばからない。チュアの夫が言うように、彼女には「西洋のやり方」、「中国式のやり方」とステレオタイプ化する傾向がある。こうした類のステレオタイプは、実は今年初頭、話題になったマクレーン誌のToo Asian記事をめぐる論争でも現れ、他でもない、メディアにとっては大きな利益に結びついた。
数十年前、アイビー・リーグにユダヤ系学生が増え始めたころ、「ジューイッシュ・マザー」は「教育ママ」と同義であった。それが今回、ドラゴン・マザーに代わっただけである。国際政治におけるアメリカのヘゲモニーが崩れた今、「チャイニーズ・マザー」という言葉が北米社会にもたらす意味は、単なる「教育ママ」以上に、中国文化に対する羨望や畏怖といったさまざまな感情をも反映しているのであろう。
というわけで、私は著者のアプローチを「タイガー・マザー・アプローチ」と呼ぶことにしたいが、この子育てには、素晴らしい点があると同時に、問題点もあることを考え合わせなければなるまい。たとえば、プリンストン大学のピーター・シンガー(バイオエシックス)は、このアプローチは「たしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている」点を指摘する。子どもの成績はすべてAを期待しながら、協力と協調が要求される体育と演劇を除外している点、音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、この方法では社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できないうえ、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る傾向を助長する。結果、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性がある。アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やうつ病といった精神障害も、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれない、とシンガーは指摘する。
親として私が著者にひとつ共感することがあるとすれば、それは子育てに関する親のコミットメントという点である。エイミー・チュアは困った人だと、本著を読みながら何度も思った。もし、まわりに彼女のような母親がいれば、私はさっさと逃げ出すだろう。彼女が何と言おうと、私には彼女が物質主義に見えるし、エリート主義だと思う。ただ、母親としての彼女のコミットメントは例外的だ。大学の仕事をしながら、毎日五時間、二人の娘のピアノとバイオリンのレッスンに付きっ切りでコーチし、毎週土曜日には片道二時間、車を運転して子どもをバイオリンのレッスンに連れていく。子どものためなら時間も努力もお金も惜しまない。子どもの傍で、子どもを観察しながらの子育ては、大変な努力を要する。しかし、子どもに何かを教えようと思えば(あるいは子どもから何かを学ぼうとすれば)「深いかかわり」が必要だ。エイミー・チュアが例外的なのは、そうした深い親子のかかわりの中で立ち現れる葛藤や対立を恐れることなく受け止め、目標に向かって邁進していく態度である。The Daily Telegraphのアリソン・ペアソンが主張するように、「エイミー・チュアの子育ての方法は過酷なものではあるけれど、子どもにまったく無関心で、テレビにベイビー・シッティングをさせ、レッセ・フェール(好きなようにやらせる)で育てている親とどっちが残酷なのか」と私も思う。親としてこの点には深く共感するし、「中国式」とか「西洋式」などといったステレオタイプよりずっと大切なポイントであると思う。
今年上旬に出版されて以降、メディアで数多くの賛否両論を引き起こした本著は、イエール大学法学部教授エイミー・チュアの子育てに関するメモワール。最初に書評が発表されたウォールストリート・ジャーナルでは、「なぜ中国式の子育てが優れているか」というセンセーショナルなタイトルが掲げられていたり、「子どもの自尊心ばかり気にしている西洋式では結局子どもは何も成し遂げることができない」といったコメントに表れるような、北米社会で浸透している子育てのやり方を否定的に描いていることから大反響を浴びた。The Globe and Mail紙によれば、この本が出版されて以降、エイミー・チュア宛てに「子ども虐待」「最悪の母親」といったメールが殺到したという。
本著を読み終えて思うのは、いかにメディアがセンセーショナルな描き方をしてきたか、ということだ。確かに、著者は「中国式の子育ては優れている」と信じている。しかし、この本は、次女ルルの反抗にあった挙句、中国式では手なずけられない場合もある、という点に気付いた著者の記録だと、私は読んだし、実際、この本のサブタイトルはこうなっている。「本著は子育てに関しては西欧のやり方より中国系のやり方の方が優れている、という本になるはずだった。しかし、実際には、激しい文化的衝突、つかの間に味わった勝利、13歳の娘がいかに私を謙虚にさせたかを綴った記録となった」。
中国式は従順な長女ソフィアにはうまくいった(ように見える)。しかし、性格的には「著者そのもの」である次女ルルとの熾烈な戦いの末(旅行先モスクワのカフェでの驚くべき大喧嘩!)、著者は最終的に「選択肢を与える」という、彼女が嫌った西洋的なやり方にトライしてみるのだ。表面上は「中国式の方が優秀」と主張してはばからない著者だが、よく読んでみれば、ハードルが立ちはだかるたび何度となく密かに自分の信念を疑問視し、葛藤している様子が描かれている。彼女がこの本を書き始めたのは、モスクワから帰った後だというのは意味深い事実だと思う。
私が読んだ書評の多くはこの点を故意に避けたか、触れても最小限に留めていた。メディアは、「中国式の子育てが優れている」というテーゼが、西欧的価値に対する大きな挑戦であることに目をつけ、「売れる」と踏んだ末に、その部分だけを意図的にデフォルメしたのだと思う。結果的に見ればこうした賛否両論は本著に対する最大の宣伝効果になったし、したたかな著者のこと、内心ほくそえんでいることだろう。
しかし、メディアが喜ぶ、このような二分対立の図式を買ってもよいものだろうか。また、子育てのやり方を「西洋式」「中国式」という真っ向から対立するものとして描くエイミー・チュアの方法論を買ってもよいのだろうか。著者の子育ては、何も「中国式」とは限らず、「スパルタ式」とか「エリート教育(音楽家やスポーツ選手を育てるやり方)」という言い方でも表現できるし、西欧社会でもこうしたやり方で育てている親はいるはずである。著者も実は、「中国式」が何も中国系家庭特有のものではなく、ポルトガル系家庭でも、イギリス系家庭でも見られる、と言う。しかし、そう言いながらも、やはり自らの育て方を「中国式」と言ってはばからない。チュアの夫が言うように、彼女には「西洋のやり方」、「中国式のやり方」とステレオタイプ化する傾向がある。こうした類のステレオタイプは、実は今年初頭、話題になったマクレーン誌のToo Asian記事をめぐる論争でも現れ、他でもない、メディアにとっては大きな利益に結びついた。
数十年前、アイビー・リーグにユダヤ系学生が増え始めたころ、「ジューイッシュ・マザー」は「教育ママ」と同義であった。それが今回、ドラゴン・マザーに代わっただけである。国際政治におけるアメリカのヘゲモニーが崩れた今、「チャイニーズ・マザー」という言葉が北米社会にもたらす意味は、単なる「教育ママ」以上に、中国文化に対する羨望や畏怖といったさまざまな感情をも反映しているのであろう。
というわけで、私は著者のアプローチを「タイガー・マザー・アプローチ」と呼ぶことにしたいが、この子育てには、素晴らしい点があると同時に、問題点もあることを考え合わせなければなるまい。たとえば、プリンストン大学のピーター・シンガー(バイオエシックス)は、このアプローチは「たしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている」点を指摘する。子どもの成績はすべてAを期待しながら、協力と協調が要求される体育と演劇を除外している点、音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、この方法では社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できないうえ、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る傾向を助長する。結果、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性がある。アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やうつ病といった精神障害も、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれない、とシンガーは指摘する。
親として私が著者にひとつ共感することがあるとすれば、それは子育てに関する親のコミットメントという点である。エイミー・チュアは困った人だと、本著を読みながら何度も思った。もし、まわりに彼女のような母親がいれば、私はさっさと逃げ出すだろう。彼女が何と言おうと、私には彼女が物質主義に見えるし、エリート主義だと思う。ただ、母親としての彼女のコミットメントは例外的だ。大学の仕事をしながら、毎日五時間、二人の娘のピアノとバイオリンのレッスンに付きっ切りでコーチし、毎週土曜日には片道二時間、車を運転して子どもをバイオリンのレッスンに連れていく。子どものためなら時間も努力もお金も惜しまない。子どもの傍で、子どもを観察しながらの子育ては、大変な努力を要する。しかし、子どもに何かを教えようと思えば(あるいは子どもから何かを学ぼうとすれば)「深いかかわり」が必要だ。エイミー・チュアが例外的なのは、そうした深い親子のかかわりの中で立ち現れる葛藤や対立を恐れることなく受け止め、目標に向かって邁進していく態度である。The Daily Telegraphのアリソン・ペアソンが主張するように、「エイミー・チュアの子育ての方法は過酷なものではあるけれど、子どもにまったく無関心で、テレビにベイビー・シッティングをさせ、レッセ・フェール(好きなようにやらせる)で育てている親とどっちが残酷なのか」と私も思う。親としてこの点には深く共感するし、「中国式」とか「西洋式」などといったステレオタイプよりずっと大切なポイントであると思う。
Tuesday, July 19, 2011
カナダの大学教育と就職事情
最近、カナダで仕事探しに苦戦しているグループといえば、移民と新卒である。移民が仕事探しに苦戦をしているのは何も新しく始まったことではないが、「新卒」はかなり新しい傾向である。
たとえば、私も大学を卒業したばかりの人たちの就職サポートをしたことがあるが、University of TorontoでUrban Planningを専攻し、半年間ほど仕事を探しているが面接にさえ至らないという女性がいた(そして、私の前でボロボロと涙を流した)。同じクラスメイトも似たり寄ったりの状況らしい。彼女といっしょにUrban Planning(約10年ほど前には、トロントでは成長分野の仕事だと言われていた)関連の情報を集めたが、ポスティング(求人情報)を見ると、すべて「3年以上の経験」を要求していて、彼女のように新卒・エントリー・レベルでの仕事はまったく見当たらない。
そこで、今、トレンドなのは、大学を卒業してからカレッジや職業専門学校に行き直すか、Graduate School(大学院)に行くこと。カレッジや職業専門学校は、大学とは違って就職を目的とした学校で、1年から3年ほどで資格や専門トレーニングが受けられる。つまり、仕事に直結している。ちなみに、以前は「カレッジ」といえば、高校を卒業した人がすでに設定している仕事を得るために行く学校だったが、最近はめっきり年齢があがっている。移民のなかにもカレッジで特定の職業訓練を受ける人が多いうえ、最近の経済不況でキャリア・チェインジャー(転職者)が増えていることもある。ここ数年の不況の波にのまれず、非常な利益をあげているのがカレッジなのだ。
大学院に行くというのもひとつの方法だ。ただし、もし経済的余裕があれば、の話だが。カナダの大学生は大半が自分で学費をまかなっていて、最近の学費値上げの影響で多くの学生が返還義務のある奨学金を政府から受けている。そのため、「大学院に行く」というのは経済的に恵まれた人のためのオプションであるといえる。
カナダはここ数年間、経済的にはマイルドな不況にある。製造業やITは最も大きな打撃を受けた分野である。ただし、案外と知られていないのが、今、こうした状況でも「仕事がある」分野が存在することだ。それは、プラマーやカーペンター、電気工事といった熟練工の仕事で、こうした分野では実は人手が足りず困っている。こうした仕事は高校卒業後、見習い工として実際に経験のある職人に習いながら仕事をするわけで、カレッジや職業学校に行く必要はない。かといって、こうした熟練工の仕事がすべての人にあっているかというともちろんそんなことはない。なかなか難しいところだ。
大学を出て仕事が見つからない傾向が社会問題化しているカナダでは、大学のあり方を問いただす動きも出てきている。仕事に結びつかない勉強を教えて意味があるのか、大学を2年にすべきだ、との声も出ている。各大学もそれを考慮しながら、カリキュラムを組み直す可能性もある。私はもちろんこうした意見には反対であって、そのことはまた項を改めて書きたいと思う。
たとえば、私も大学を卒業したばかりの人たちの就職サポートをしたことがあるが、University of TorontoでUrban Planningを専攻し、半年間ほど仕事を探しているが面接にさえ至らないという女性がいた(そして、私の前でボロボロと涙を流した)。同じクラスメイトも似たり寄ったりの状況らしい。彼女といっしょにUrban Planning(約10年ほど前には、トロントでは成長分野の仕事だと言われていた)関連の情報を集めたが、ポスティング(求人情報)を見ると、すべて「3年以上の経験」を要求していて、彼女のように新卒・エントリー・レベルでの仕事はまったく見当たらない。
そこで、今、トレンドなのは、大学を卒業してからカレッジや職業専門学校に行き直すか、Graduate School(大学院)に行くこと。カレッジや職業専門学校は、大学とは違って就職を目的とした学校で、1年から3年ほどで資格や専門トレーニングが受けられる。つまり、仕事に直結している。ちなみに、以前は「カレッジ」といえば、高校を卒業した人がすでに設定している仕事を得るために行く学校だったが、最近はめっきり年齢があがっている。移民のなかにもカレッジで特定の職業訓練を受ける人が多いうえ、最近の経済不況でキャリア・チェインジャー(転職者)が増えていることもある。ここ数年の不況の波にのまれず、非常な利益をあげているのがカレッジなのだ。
大学院に行くというのもひとつの方法だ。ただし、もし経済的余裕があれば、の話だが。カナダの大学生は大半が自分で学費をまかなっていて、最近の学費値上げの影響で多くの学生が返還義務のある奨学金を政府から受けている。そのため、「大学院に行く」というのは経済的に恵まれた人のためのオプションであるといえる。
カナダはここ数年間、経済的にはマイルドな不況にある。製造業やITは最も大きな打撃を受けた分野である。ただし、案外と知られていないのが、今、こうした状況でも「仕事がある」分野が存在することだ。それは、プラマーやカーペンター、電気工事といった熟練工の仕事で、こうした分野では実は人手が足りず困っている。こうした仕事は高校卒業後、見習い工として実際に経験のある職人に習いながら仕事をするわけで、カレッジや職業学校に行く必要はない。かといって、こうした熟練工の仕事がすべての人にあっているかというともちろんそんなことはない。なかなか難しいところだ。
大学を出て仕事が見つからない傾向が社会問題化しているカナダでは、大学のあり方を問いただす動きも出てきている。仕事に結びつかない勉強を教えて意味があるのか、大学を2年にすべきだ、との声も出ている。各大学もそれを考慮しながら、カリキュラムを組み直す可能性もある。私はもちろんこうした意見には反対であって、そのことはまた項を改めて書きたいと思う。
Saturday, July 2, 2011
Child Care subsidy(補助金)の現実とカナダ政治
6月29日付けToronto Star紙によれば、2011年6月現在で、19,817人の子どもがオンタリオ政府からの補助金を待っているという。2005年には3000人台だったSubsidy待ちの子どもの数は過去6年で6倍以上にも増えていることになる。
私たちの家庭では、夫と私はフルタイムの学生であったにもかかわらず、このSubsidyをもらえずにいる。というのには、いろいろとわけがあって、ひょっとすると読者の方の参考になるかもしれないので、書いておこう。
カナダ政府は6歳までの子どもに対し、家庭の収入に関係なく1ヶ月に一律100ドルのUniversal Child Care Benefit (UCCB)を払っている。チャイルド・ケアといえば、2005年、ポール・マーティン首相率いるLiberal(自由党)が、国民が長らく待ち望んでいたNational child careを導入しようとしていたのだった。しかし、イデオロギーの全くちがうConservative(保守党)とNDP(民主党)が政府に不信任決議を出した結果、議会は解散、その後の選挙では保守党が勝利し、スティーブン・ハーパー首相はその後も首相として居座っているわけだが、私にとってはUCCBの導入は National child careのお粗末な埋め合わせとしか思われない。
このUCCBとは別に、政府から支払われるCanada Child Tax Benefit (CCTB)というのがあって、こちらは家庭の収入に応じて支払い金額が変わってくる。
Child care subsidyというのは、オンタリオ政府が両親とも働いている子どもの家庭に対して育児の補助金を出しているもので、州政府はこのサービスを市町村に委託しているため、私の場合ならトロント市の管轄するサービスということになる。
さて、私たちの話。
妊娠したときに周りの人によく言われたのが、「今すぐデイケアのWaiting listに申請しなさい」という言葉。トロントでは、子どもをデイケアに入れるのは簡単なことではなくて、デイケアによって、2年、3年のウェイティング・リストがあるという。産休が1年であれば、生まれる前からデイケアを探しておく、ということになるのも理に適っている。そして、エリックが生まれた1年後くらいには、Subsidyのことを知った。夫はなぜか政府からお金をもらうのがどうもイヤみたいだし、私もそんなものはどうでもいいや、という感じだったが、そのとき懇意にしていたパブリック・ナースの強い勧めに従って、このSubsidyというのを申請した。
エリックが2歳になる前、電話がかかってきた。Subsidyをもらえる順番がkたから、これから6ヶ月の間にエリックのデイケアと私がフルタイムの仕事を見つけるか、フルタイムで学校に行く手続きをするように言われた。結局、私たちはそれをしなかった。というのも、まだ2歳にもなっていないエリックを週5日間デイケアに預けるということが、私にはどうしてもできなかったからだ。それで、エリックが2歳半のときに私たちはウェイティング・リストの一番下になってしまった。
エリックが3歳くらいで私はフルタイムでカレッジに戻ることに決め、それ以降、エリックのデイケア費用をすべて実費でまかなっている。夫の大学内のデイケアなので学生料金が適用されるとはいえ、1ヶ月に1000ドルあたりを学生の私たちが払うのは大変なこと。共働きで高い収入を得ている家庭がSubsidyをもらっていたり、移住権を持たない人たち、数年後はカナダに住む予定のない人がもらっているのも見てきた。個人的に納得いかないことも多いが、この顛末があって、私はカナダのチャイルド・ケア・システムの欠陥が非常に深刻なものだと認識するに至った。
問題を羅列するなら、
1 デイケアの費用が非常に高いこと。
2 デイケアの数が足りていないこと。
3 そのおかげで、働けるべき人が働けないこと(ほとんどが女性)。
トロントでは、デイケアの費用は平均するとフルタイムで1000ドルあたり。もし、月給1500ドルほどの低賃金で働いているとすると、デイケアに入れるよりは自分で面倒をみるという選択をする人がいるのは間違いない。
デイケアのウェイティング・リストは、先ほど述べたように非常に長い。年齢にもより、年齢が低ければ低いほど待ち時間も長い。これでは、仕事への復帰や家庭の事情を計画的に考えることができない。一方では、ECE(Early Childcere Educator)の資格を持った人たちが、仕事を見つけられないという状況もある。サービス・プロバイダーとなりえる人材はたくさん生み出しているのに、就職先がないというのも、デイケアの数が少ないことが原因なのだ。
この2つの理由から、働いてしかるべき人が働けないという状況が生み出されている。そして、その対象となるのは通常は女性であり、育児に対する社会支援の欠如の結果、女性が社会で能力を発揮する機会を奪っているともいえる。結果的には、カナダ社会は経済的にも打撃を受けていることになる。
言わせてもらえば、各家庭に育児補助金を与えるなんてことよりも、まずはデイケアに補助金を与えるべきなのだ。
同じカナダでも、ケベック州ではデイケア費用は1日7ドルである。これは、ケベック州政府が個人にではなく、デイケアに補助金を提供しているからである。まずは州主導でデイケアを設置し(州立にしてもよい)、デイケアに補助金を提供する。こうすれば、ECEの人材も雇用の機会ができるし、クオリティの高い、安心して子どもを預けられるデイケアがあれば、おもに母親たちは仕事をもっと自由に選ぶことができるはずだ。
私はポール・マーティンのリベラル党がNational Child care計画を打ち出したときは子どもを作る予定も希望もなかったものだから、あのときのリベラルの敗北がどれほど自分の人生にマイナスに働くことになったかを考えたこともなかった。でも、今から考えると、上のような問題に対し、解決策を与えてくれるのはNational child careであったと強く思う。
月に100ドルのUCCBなんていらない。収入に応じてもらえるCCTBだっていらない。Subsidyに関するストレスや不公平だっていらない。毎月、子どものいる家庭に送っている補助金を、デイケアを国が率先して増やし、部分的に管理する費用に充てれば済むことなのだ。こんな簡単なことがなぜできないかというと、それはConservative(保守党)政府にそうする意志がないという以外に説明がつかない。
表立っては決して言わないが、保守党は伝統的な家族像を忠実に守ろうとする傾向がある。子育ては親がするもの、「伝統的家族」とは父親・母親に子供であって、決して母親と母親(あるいは父親と父親)に子どもではない、というのが保守派の基本的な考え方である(イデオロギー的にはSocial conservatismとなる)。
この考え方は、保守党のSame-sex marriageに対する反対、Abortionに対する反対、デイケアより各家庭での子育て推進、という姿勢に如実にあらわれていて、数ヶ月ほど前、保守党の議員が「子育ては親がするもの」というコメントを出してメディアを賑わしたが、これもそうした保守派の意見の反映と考えれば容易に理解できる。反対に言えば、National child careという案がLiberal(自由)党から出されたのはもっともなのだ(ちなみに、Social conservatismは何もキリスト教保守派の特権ではなく、移民のなかにも同じような価値に共感する人たちが多いのも興味深い)。
専門家をはじめ、多くの親たちはカナダにおけるチャイルドケア・システムの欠陥を認識していて、声をあげてはいるが、保守党が政権を握っている限りカナダがチャイルドケア・システムの変革を推進するとは到底思われない。カナダ政治をみていると、今後しばらくの間は保守党政権が続きそうであるし。連邦政府レベルでは保守党政権が5年間続いているし、先のトロント市長選でも保守派ロブ・フォードが圧勝、現在のマギンティ州政府のみが自由党であるが、残念ながら今年秋の選挙で政権を譲ることになるだろうと私は思っている。こんな状況のなか、5年前に連邦Liberalが提示したNational Child careが現実のものになるとは到底思えない。
そして、そんなこんなしているうちに私たちのエリックもチャイルド・ケアが必要ない年齢になっていく。私には、チャイルドケア・システムの欠陥はエリックが成長するに従ってよりはっきりと見えてきたわけで、本当にそれが必要な時期は子育てに追われ声をあげる気力もなかった・・・。結局、チャイルド・ケアが必要なのは子どもが6歳になるまでで、それを過ぎれば必要なくなる。一方では、カナダでこれまで数々の社会的変革に寄与してきたBaby-boomer世代は、今はもう自分たちの健康のこと、つまりヘルスケア・システムにだけ関心を寄せている。カナダのUniversal health careも、これまた欠陥の多いシステムであってそのあたりの議論に比べると、チャイルド・ケア議論は勢いを欠いている。
というわけで、チャイルド・ケアという問題が政治的課題になるのは簡単なことではない。カナダのチャイルドケア・システムは、破綻は確実なのに(ケベックをのぞいて)手の施しようがない、というブラックホールのなかで忘れ去られてしまったかのようだ。
私たちの家庭では、夫と私はフルタイムの学生であったにもかかわらず、このSubsidyをもらえずにいる。というのには、いろいろとわけがあって、ひょっとすると読者の方の参考になるかもしれないので、書いておこう。
カナダ政府は6歳までの子どもに対し、家庭の収入に関係なく1ヶ月に一律100ドルのUniversal Child Care Benefit (UCCB)を払っている。チャイルド・ケアといえば、2005年、ポール・マーティン首相率いるLiberal(自由党)が、国民が長らく待ち望んでいたNational child careを導入しようとしていたのだった。しかし、イデオロギーの全くちがうConservative(保守党)とNDP(民主党)が政府に不信任決議を出した結果、議会は解散、その後の選挙では保守党が勝利し、スティーブン・ハーパー首相はその後も首相として居座っているわけだが、私にとってはUCCBの導入は National child careのお粗末な埋め合わせとしか思われない。
このUCCBとは別に、政府から支払われるCanada Child Tax Benefit (CCTB)というのがあって、こちらは家庭の収入に応じて支払い金額が変わってくる。
Child care subsidyというのは、オンタリオ政府が両親とも働いている子どもの家庭に対して育児の補助金を出しているもので、州政府はこのサービスを市町村に委託しているため、私の場合ならトロント市の管轄するサービスということになる。
さて、私たちの話。
妊娠したときに周りの人によく言われたのが、「今すぐデイケアのWaiting listに申請しなさい」という言葉。トロントでは、子どもをデイケアに入れるのは簡単なことではなくて、デイケアによって、2年、3年のウェイティング・リストがあるという。産休が1年であれば、生まれる前からデイケアを探しておく、ということになるのも理に適っている。そして、エリックが生まれた1年後くらいには、Subsidyのことを知った。夫はなぜか政府からお金をもらうのがどうもイヤみたいだし、私もそんなものはどうでもいいや、という感じだったが、そのとき懇意にしていたパブリック・ナースの強い勧めに従って、このSubsidyというのを申請した。
エリックが2歳になる前、電話がかかってきた。Subsidyをもらえる順番がkたから、これから6ヶ月の間にエリックのデイケアと私がフルタイムの仕事を見つけるか、フルタイムで学校に行く手続きをするように言われた。結局、私たちはそれをしなかった。というのも、まだ2歳にもなっていないエリックを週5日間デイケアに預けるということが、私にはどうしてもできなかったからだ。それで、エリックが2歳半のときに私たちはウェイティング・リストの一番下になってしまった。
エリックが3歳くらいで私はフルタイムでカレッジに戻ることに決め、それ以降、エリックのデイケア費用をすべて実費でまかなっている。夫の大学内のデイケアなので学生料金が適用されるとはいえ、1ヶ月に1000ドルあたりを学生の私たちが払うのは大変なこと。共働きで高い収入を得ている家庭がSubsidyをもらっていたり、移住権を持たない人たち、数年後はカナダに住む予定のない人がもらっているのも見てきた。個人的に納得いかないことも多いが、この顛末があって、私はカナダのチャイルド・ケア・システムの欠陥が非常に深刻なものだと認識するに至った。
問題を羅列するなら、
1 デイケアの費用が非常に高いこと。
2 デイケアの数が足りていないこと。
3 そのおかげで、働けるべき人が働けないこと(ほとんどが女性)。
トロントでは、デイケアの費用は平均するとフルタイムで1000ドルあたり。もし、月給1500ドルほどの低賃金で働いているとすると、デイケアに入れるよりは自分で面倒をみるという選択をする人がいるのは間違いない。
デイケアのウェイティング・リストは、先ほど述べたように非常に長い。年齢にもより、年齢が低ければ低いほど待ち時間も長い。これでは、仕事への復帰や家庭の事情を計画的に考えることができない。一方では、ECE(Early Childcere Educator)の資格を持った人たちが、仕事を見つけられないという状況もある。サービス・プロバイダーとなりえる人材はたくさん生み出しているのに、就職先がないというのも、デイケアの数が少ないことが原因なのだ。
この2つの理由から、働いてしかるべき人が働けないという状況が生み出されている。そして、その対象となるのは通常は女性であり、育児に対する社会支援の欠如の結果、女性が社会で能力を発揮する機会を奪っているともいえる。結果的には、カナダ社会は経済的にも打撃を受けていることになる。
言わせてもらえば、各家庭に育児補助金を与えるなんてことよりも、まずはデイケアに補助金を与えるべきなのだ。
同じカナダでも、ケベック州ではデイケア費用は1日7ドルである。これは、ケベック州政府が個人にではなく、デイケアに補助金を提供しているからである。まずは州主導でデイケアを設置し(州立にしてもよい)、デイケアに補助金を提供する。こうすれば、ECEの人材も雇用の機会ができるし、クオリティの高い、安心して子どもを預けられるデイケアがあれば、おもに母親たちは仕事をもっと自由に選ぶことができるはずだ。
私はポール・マーティンのリベラル党がNational Child care計画を打ち出したときは子どもを作る予定も希望もなかったものだから、あのときのリベラルの敗北がどれほど自分の人生にマイナスに働くことになったかを考えたこともなかった。でも、今から考えると、上のような問題に対し、解決策を与えてくれるのはNational child careであったと強く思う。
月に100ドルのUCCBなんていらない。収入に応じてもらえるCCTBだっていらない。Subsidyに関するストレスや不公平だっていらない。毎月、子どものいる家庭に送っている補助金を、デイケアを国が率先して増やし、部分的に管理する費用に充てれば済むことなのだ。こんな簡単なことがなぜできないかというと、それはConservative(保守党)政府にそうする意志がないという以外に説明がつかない。
表立っては決して言わないが、保守党は伝統的な家族像を忠実に守ろうとする傾向がある。子育ては親がするもの、「伝統的家族」とは父親・母親に子供であって、決して母親と母親(あるいは父親と父親)に子どもではない、というのが保守派の基本的な考え方である(イデオロギー的にはSocial conservatismとなる)。
この考え方は、保守党のSame-sex marriageに対する反対、Abortionに対する反対、デイケアより各家庭での子育て推進、という姿勢に如実にあらわれていて、数ヶ月ほど前、保守党の議員が「子育ては親がするもの」というコメントを出してメディアを賑わしたが、これもそうした保守派の意見の反映と考えれば容易に理解できる。反対に言えば、National child careという案がLiberal(自由)党から出されたのはもっともなのだ(ちなみに、Social conservatismは何もキリスト教保守派の特権ではなく、移民のなかにも同じような価値に共感する人たちが多いのも興味深い)。
専門家をはじめ、多くの親たちはカナダにおけるチャイルドケア・システムの欠陥を認識していて、声をあげてはいるが、保守党が政権を握っている限りカナダがチャイルドケア・システムの変革を推進するとは到底思われない。カナダ政治をみていると、今後しばらくの間は保守党政権が続きそうであるし。連邦政府レベルでは保守党政権が5年間続いているし、先のトロント市長選でも保守派ロブ・フォードが圧勝、現在のマギンティ州政府のみが自由党であるが、残念ながら今年秋の選挙で政権を譲ることになるだろうと私は思っている。こんな状況のなか、5年前に連邦Liberalが提示したNational Child careが現実のものになるとは到底思えない。
そして、そんなこんなしているうちに私たちのエリックもチャイルド・ケアが必要ない年齢になっていく。私には、チャイルドケア・システムの欠陥はエリックが成長するに従ってよりはっきりと見えてきたわけで、本当にそれが必要な時期は子育てに追われ声をあげる気力もなかった・・・。結局、チャイルド・ケアが必要なのは子どもが6歳になるまでで、それを過ぎれば必要なくなる。一方では、カナダでこれまで数々の社会的変革に寄与してきたBaby-boomer世代は、今はもう自分たちの健康のこと、つまりヘルスケア・システムにだけ関心を寄せている。カナダのUniversal health careも、これまた欠陥の多いシステムであってそのあたりの議論に比べると、チャイルド・ケア議論は勢いを欠いている。
というわけで、チャイルド・ケアという問題が政治的課題になるのは簡単なことではない。カナダのチャイルドケア・システムは、破綻は確実なのに(ケベックをのぞいて)手の施しようがない、というブラックホールのなかで忘れ去られてしまったかのようだ。
Monday, February 14, 2011
まだまだ続くTiger Mother論議
単なる偶然だろうか。今日のGlobe、Toronto Starの両紙のコメントページにAmy ChuaのBattle Hymn of the Tiger Motherをめぐるコメントが掲載されていた。(Amy Chuaに関する過去ポストは以下)http://torontostew.blogspot.com/2011/01/amy-chua-battle-hymn-of-tiger-mother.html
Globe紙のコラムはプリンストン大学の教授(バイオエシックス)のPeter Singer、Star紙はコラムニストのHeather Mallickによるもの。
最近、ほんとうにエイミー・チュアという名前を、Tiger Momという名称をメディアで目にする機会が多い。抜粋部分しか読んでいない私にも、この本が出版的には大成功だということだけは明らかに分かる。
Peter Singerの議論。Tiger Motherアプローチはたしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている。エイミー・チュアは子どもに成績表すべてA、ただし「体育と演劇以外」といい、集団のなかで協調が要求される演劇や体育を除いていること、さらには音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、Tiger Motherアプローチでは社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できない点、また、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る可能性を指摘している。このふたつは、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性を助長する。
Heather Mallickはズバリ「Amy Chuaは母親として失格」といつもながら辛口なコメントをしている。Tiger Motherアプローチは、要するに「成功=お金」という公式に基づいている。エイミー・チュアにとっては、いくら子どもがジュリアードに行ったとしても、それはアイビーリーグへの入学を許可され、将来的に経済的約束がされる職業(医者、弁護士、教授など)につながっていくから「成功」なのであって、子どもが音楽を心から愛し、自分のしていることに限りない幸せを感じているからではない。チュアは「子どもを育てた」というが、本当は子どもを育てたのではなく、株式市場に投資していただけなのだ。子どもがどれくらいの報酬(配当)を親に持ちきたらしてくれるかによって、子どもの「成功」が決まるのなら、その親は「失格」以外のなにものでもない。
うーん、興味深い論争! Tiger Motherアプローチでチュアや彼女の子どものように成功した例もあるかもしれないが、失敗例もたくさんあるのではないか。その失敗例は、ピーター・シンガーの議論にあるように自殺やディプレッション、エンザエティーといった精神障害としてあらわれるケースもみられる(アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やディプレッションなども、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれないと示唆している)。
Globe紙のコラムはプリンストン大学の教授(バイオエシックス)のPeter Singer、Star紙はコラムニストのHeather Mallickによるもの。
最近、ほんとうにエイミー・チュアという名前を、Tiger Momという名称をメディアで目にする機会が多い。抜粋部分しか読んでいない私にも、この本が出版的には大成功だということだけは明らかに分かる。
Peter Singerの議論。Tiger Motherアプローチはたしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている。エイミー・チュアは子どもに成績表すべてA、ただし「体育と演劇以外」といい、集団のなかで協調が要求される演劇や体育を除いていること、さらには音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、Tiger Motherアプローチでは社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できない点、また、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る可能性を指摘している。このふたつは、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性を助長する。
Heather Mallickはズバリ「Amy Chuaは母親として失格」といつもながら辛口なコメントをしている。Tiger Motherアプローチは、要するに「成功=お金」という公式に基づいている。エイミー・チュアにとっては、いくら子どもがジュリアードに行ったとしても、それはアイビーリーグへの入学を許可され、将来的に経済的約束がされる職業(医者、弁護士、教授など)につながっていくから「成功」なのであって、子どもが音楽を心から愛し、自分のしていることに限りない幸せを感じているからではない。チュアは「子どもを育てた」というが、本当は子どもを育てたのではなく、株式市場に投資していただけなのだ。子どもがどれくらいの報酬(配当)を親に持ちきたらしてくれるかによって、子どもの「成功」が決まるのなら、その親は「失格」以外のなにものでもない。
うーん、興味深い論争! Tiger Motherアプローチでチュアや彼女の子どものように成功した例もあるかもしれないが、失敗例もたくさんあるのではないか。その失敗例は、ピーター・シンガーの議論にあるように自殺やディプレッション、エンザエティーといった精神障害としてあらわれるケースもみられる(アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やディプレッションなども、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれないと示唆している)。
Monday, January 31, 2011
成功の公式=自己コントロール+忍耐
再び子どもの教育に関する研究結果。
Proceedings of the National Academy of Scienceに掲載された、ニュージーランドの研究者の研究結果によれば、子どもが将来成功する可能性は、その子どもの「自己コントロール能力」と「忍耐力」に大きく関係しているという。3歳から約30年間にわたって、1000人の子どものサンプルをとった結果、子どものころに、順番を待てる、少しのことでイライラしない、といった自己コントロール能力が見られた場合、大人になって健康障害やドラッグ問題、経済的問題といった問題に遭遇する可能性は低いという。
Globeの記事も触れているように、同じような研究結果はいくつも他の分野で発表され続けている。以前もどこかで書いたが、60年代にマシュマロ・テストというのもあったしね(4歳の子の目の前にマシュマロをひとつ置いて、「帰ってくるまで待てればマシュマロを2個あげる」と言って15分ほど部屋を出る。忍耐力、自己コントロール能力をはかり、その能力とその後の学力の伸びなどの関係を測定)。
またまた「あたりまえね・・・」って感じの研究結果なのね・・・。 はい、どうもごくろうさん。
PNAS(Proceedings of the National Academy of Science)のウェブサイト
http://www.pnas.org/
Proceedings of the National Academy of Scienceに掲載された、ニュージーランドの研究者の研究結果によれば、子どもが将来成功する可能性は、その子どもの「自己コントロール能力」と「忍耐力」に大きく関係しているという。3歳から約30年間にわたって、1000人の子どものサンプルをとった結果、子どものころに、順番を待てる、少しのことでイライラしない、といった自己コントロール能力が見られた場合、大人になって健康障害やドラッグ問題、経済的問題といった問題に遭遇する可能性は低いという。
Globeの記事も触れているように、同じような研究結果はいくつも他の分野で発表され続けている。以前もどこかで書いたが、60年代にマシュマロ・テストというのもあったしね(4歳の子の目の前にマシュマロをひとつ置いて、「帰ってくるまで待てればマシュマロを2個あげる」と言って15分ほど部屋を出る。忍耐力、自己コントロール能力をはかり、その能力とその後の学力の伸びなどの関係を測定)。
またまた「あたりまえね・・・」って感じの研究結果なのね・・・。 はい、どうもごくろうさん。
PNAS(Proceedings of the National Academy of Science)のウェブサイト
http://www.pnas.org/
Monday, January 17, 2011
Amy Chuaの Battle Hymn of the Tiger Motherをめぐる議論
最近発売された新刊書Battle Hymn of the Tiger Mother が1月11日のGlobe紙で紹介されて以降、読者からさまざまなコメントが寄せられている。もちろん、本そのものを読んでいない私は、新聞の記事をもとに記すしかないのだけれど、どうもこの本はこんな感じの内容らしい。
子どもを成功に導くしつけをしたいなら、中国人家庭のしつけ(Chinese child-rearing techniques)こそ、最も効果的。「中国人家庭のしつけ」の例としては・・・
ボーイフレンドは許されない
お泊りも許されない
両親の言いつけには絶対服従
ピアノかバイオリンを始めたら何があっても絶対にやめない
著者はイエール大学法律学科の教授で、中国系の移民家庭に育っている。小さいころからこのようなしつけ方で育てられてきて、実際に自分が母親になったときにはそのやり方が最もすばらしいことに気付き、同じやり方で2人の女の子を育て、ふたりとも立派に育ったという。この本はそんな彼女の母親としての回想記。
インタビュー記事のなかでも触れているように、こうしたしつけの仕方はアジア系の家庭では一般的で、私たち日本人にも何となくピンとくるところがあるだろう。彼女は西洋的な、たとえば「子どもに選択肢=自由を与える」というやり方には断固として反対で、子どもに友達と遊ぶかピアノのレッスンに行くかという選択肢を与えれば、友達を取るに決まっている。西洋的なやり方で育てていれば、バイオリンを習っていた子どもは、すぐに簡単な楽器に変えるか、あるいはすぐにやめてしまう。しかし、中国系家庭のしつけでは「1度やり始めたことは最後まで何があってもやり通す」ことが強要されるので、泣いてもわめいても子どもはバイオリンのレッスンに連れていかれる。このように、子ども時代にはものごとの良し悪しは親が決めてあげるのがいちばんだとしている。
この本が発売されて以降、著者エイミー・チュアのもとにはEメールが殺到しているという。彼女のしつけをサポートするメールもあれば、一方では「子ども虐待」と厳しく批判するメールもあるという。
Globe紙のコラムニストのマーガレット・ウェンテは、世界的に著名なピアニストラン・ランやテニス・プレーヤーのアンドレ・アガシなども同じようなやり方で育てられてきたとし、エイミー・チュアの本は「優れた遺伝子がなければ、どんなしつけをしても成功することはない」という点に触れられていないと指摘している。
こうした批判に対し、エイミー・チュアは、中国系家庭に典型的な教育のしかたは、厳しいことだけが大切なのではなく、親が子育てを何を置いても一番のプライオリティとしなくてはならない点なのだと強調している。つまり、親が子どもを「成功させる」というコミットメントがあるかどうかが成功のカギになるというのだ。
この一連のコメントを眺めながら、最近、Too Asianというタイトルでアジア系学生がカナダの大学を圧巻しているというMacLean誌の記事を思い出した。そこにはアジア系の学生は学業では非常に優秀な成績を収めているけれど、社会的な集まりに参加しないとか、要するにがり勉(こんな言葉あったよね?)だという白人学生のコメントが載っていた。エイミー・チュアの本に書かれているような方法で育てられれば、そういう子どもたちになるのもわかるような気がする。
私も小さいころ、こうした教育を学校でなされてきた。両親はそうではなかったけれど、とりわけ体育の教師がこんな感じだった。体罰や暴言(私は1度ある教師に「おまえは人間のくずだ!」と言われたことがある)やハラスメントは日常茶飯事だったし、「選択を与える」なんてのは論外だった。今なら考えられない、と思うのは、その後、西洋的な育児・教育テクニックが日本を圧巻したからに違いない。日本はまだまだ昔ながらのやり方は残っていても、主流はやっぱり「選択肢を与えましょう」「責任を取らせましょう」「ルールを決めましょう」といったやり方だろう。
巷には、さまざまな「育て方」理論がはびこっている。私は今日、ブックストアのParentingセクションで立ち読みをしていたのだけれど、実に実にさまざまな御仁がさまざまな方法の「育て方」を披露している。主流は圧倒的に「子どもを1人の人間として扱う」という西洋的な育て方だけれど、エイミー・チュアの本はこのマーケットのうちで唯一、それに反する論を紹介している本だろう。
思うのだけれど、結局のところ、親にとって「育て方」というのは、「どんな子どもに育ってほしいか」をはっきりさせることが出発点になるべきだと思う。ブックストアで立ち読みしながら、私が親として子どもをどう育てたいかはっきりとわかっていないなら、この情報の山はただのごみの山だということに改めて気付いた。エイミー・チュアや多くの中国系の家庭の親たちのように、Academic Excellenceが最も大切なのだろうか。それとも、子どもが自分を愛し、他人を愛せるような人間になることが大切なのだろうか。世界で最も有名なピアニストに育てたいなら、エリート教育、つまりスパルタンな方法が必要だろう。「目的」がはっきりしていれば、おのずとどういう方法がよいかは分かるだろうし、もうひとつ言わせてもらえば、子どもを観察することの重要性も忘れてはならない。
子どもにはそれぞれパーソナリティがあり、好きなこと、得意なことがある。エリックが生まれてから私が経験した大きな気付きのひとつは、そのことだった。そして、それに気付くためには子どもをじいっと観察することが大切だ。この点に関してはシュタイナー教育をはじめとする西洋の教育論はすぐれた理論的バックグラウンドを与えていると思う。個人的には、エイミー・チュアの描く方法では育てられたくないし、そう思う私は(Do unto others as you would have them do unto you)この方法を採用することはないだろうね…。
子どもを成功に導くしつけをしたいなら、中国人家庭のしつけ(Chinese child-rearing techniques)こそ、最も効果的。「中国人家庭のしつけ」の例としては・・・
ボーイフレンドは許されない
お泊りも許されない
両親の言いつけには絶対服従
ピアノかバイオリンを始めたら何があっても絶対にやめない
著者はイエール大学法律学科の教授で、中国系の移民家庭に育っている。小さいころからこのようなしつけ方で育てられてきて、実際に自分が母親になったときにはそのやり方が最もすばらしいことに気付き、同じやり方で2人の女の子を育て、ふたりとも立派に育ったという。この本はそんな彼女の母親としての回想記。
インタビュー記事のなかでも触れているように、こうしたしつけの仕方はアジア系の家庭では一般的で、私たち日本人にも何となくピンとくるところがあるだろう。彼女は西洋的な、たとえば「子どもに選択肢=自由を与える」というやり方には断固として反対で、子どもに友達と遊ぶかピアノのレッスンに行くかという選択肢を与えれば、友達を取るに決まっている。西洋的なやり方で育てていれば、バイオリンを習っていた子どもは、すぐに簡単な楽器に変えるか、あるいはすぐにやめてしまう。しかし、中国系家庭のしつけでは「1度やり始めたことは最後まで何があってもやり通す」ことが強要されるので、泣いてもわめいても子どもはバイオリンのレッスンに連れていかれる。このように、子ども時代にはものごとの良し悪しは親が決めてあげるのがいちばんだとしている。
この本が発売されて以降、著者エイミー・チュアのもとにはEメールが殺到しているという。彼女のしつけをサポートするメールもあれば、一方では「子ども虐待」と厳しく批判するメールもあるという。
Globe紙のコラムニストのマーガレット・ウェンテは、世界的に著名なピアニストラン・ランやテニス・プレーヤーのアンドレ・アガシなども同じようなやり方で育てられてきたとし、エイミー・チュアの本は「優れた遺伝子がなければ、どんなしつけをしても成功することはない」という点に触れられていないと指摘している。
こうした批判に対し、エイミー・チュアは、中国系家庭に典型的な教育のしかたは、厳しいことだけが大切なのではなく、親が子育てを何を置いても一番のプライオリティとしなくてはならない点なのだと強調している。つまり、親が子どもを「成功させる」というコミットメントがあるかどうかが成功のカギになるというのだ。
この一連のコメントを眺めながら、最近、Too Asianというタイトルでアジア系学生がカナダの大学を圧巻しているというMacLean誌の記事を思い出した。そこにはアジア系の学生は学業では非常に優秀な成績を収めているけれど、社会的な集まりに参加しないとか、要するにがり勉(こんな言葉あったよね?)だという白人学生のコメントが載っていた。エイミー・チュアの本に書かれているような方法で育てられれば、そういう子どもたちになるのもわかるような気がする。
私も小さいころ、こうした教育を学校でなされてきた。両親はそうではなかったけれど、とりわけ体育の教師がこんな感じだった。体罰や暴言(私は1度ある教師に「おまえは人間のくずだ!」と言われたことがある)やハラスメントは日常茶飯事だったし、「選択を与える」なんてのは論外だった。今なら考えられない、と思うのは、その後、西洋的な育児・教育テクニックが日本を圧巻したからに違いない。日本はまだまだ昔ながらのやり方は残っていても、主流はやっぱり「選択肢を与えましょう」「責任を取らせましょう」「ルールを決めましょう」といったやり方だろう。
巷には、さまざまな「育て方」理論がはびこっている。私は今日、ブックストアのParentingセクションで立ち読みをしていたのだけれど、実に実にさまざまな御仁がさまざまな方法の「育て方」を披露している。主流は圧倒的に「子どもを1人の人間として扱う」という西洋的な育て方だけれど、エイミー・チュアの本はこのマーケットのうちで唯一、それに反する論を紹介している本だろう。
思うのだけれど、結局のところ、親にとって「育て方」というのは、「どんな子どもに育ってほしいか」をはっきりさせることが出発点になるべきだと思う。ブックストアで立ち読みしながら、私が親として子どもをどう育てたいかはっきりとわかっていないなら、この情報の山はただのごみの山だということに改めて気付いた。エイミー・チュアや多くの中国系の家庭の親たちのように、Academic Excellenceが最も大切なのだろうか。それとも、子どもが自分を愛し、他人を愛せるような人間になることが大切なのだろうか。世界で最も有名なピアニストに育てたいなら、エリート教育、つまりスパルタンな方法が必要だろう。「目的」がはっきりしていれば、おのずとどういう方法がよいかは分かるだろうし、もうひとつ言わせてもらえば、子どもを観察することの重要性も忘れてはならない。
子どもにはそれぞれパーソナリティがあり、好きなこと、得意なことがある。エリックが生まれてから私が経験した大きな気付きのひとつは、そのことだった。そして、それに気付くためには子どもをじいっと観察することが大切だ。この点に関してはシュタイナー教育をはじめとする西洋の教育論はすぐれた理論的バックグラウンドを与えていると思う。個人的には、エイミー・チュアの描く方法では育てられたくないし、そう思う私は(Do unto others as you would have them do unto you)この方法を採用することはないだろうね…。
Sunday, January 2, 2011
Orchid childをどう育てるか
あなたの子どもは・・・
・かすかな匂いにも敏感
・静かに遊ぶほうが好き
・シャツのタグやソックスの縫い目などが気になる
・ちょっとしたことにびっくりする
・周りに知らない人がいない方が仕事を上手に仕上げられる
・感情的に心を動かされることが多い
・友達の悲しみにすぐに気付く
・興奮した日には眠れないことが多い
・痛みに敏感
・完璧主義者
・うるさい場所は嫌い
上の点に該当する箇所が多ければ、あなたの子どもはOrchid Childの可能性が高いのですって。
Globeの記事How to raise an ‘orchid child’ to blossom(January 1, 2011)で、orchid childという名称をはじめて知った。そして、それって私のことだと気付いた。
記事によれば、全人口のうち15~20%があたるorchid childとは、周りの環境に容易に刺激を受ける人たちのことをいう。たとえば、簡単に驚いたり、痛みやちょっとした匂い、粗い衣服に敏感(タグなどが肌にあたると不満を訴える)、芸術などによく心を動かされる、明るいライトなどが非常に気になるなど、全体的に周囲の環境に対して非常にセンシティブな側面が特徴。シャイに見えることが多く、内向的な子どもたちがほとんどだが、内向的なのはlearned behaviourであるという。
研究者によれば、こうした子どもたちは、ストレスの多い家庭や環境で育つと呼吸器疾患やディプレッション、anxiety(精神的不安)などの疾患を患う可能性が高くなるが、一方で子どもたちを保護し、大切に育てていく環境があれば、他の子どもたちに比べて病気疾患を患う確率が低くなり、社会的にも成功する確率は高くなるという。
Orchid childの研究目的のひとつは、親や教師たちにこうした子どもたちをどう育てるかの指針を与えることだが、結果として、orchid childには体罰や強い罰則は単にネガティブな影響を与えるだけなのでやさしく諭すこと、さらに次に起こることを知っていると安心するので、なるべく日常的ルーティーンを与えることなどが挙げられている。
デイケアやドロップイン・センターで他の子どもたちを見ていると、20%は多すぎる見積もりだろうけれど、こういう子どもたちは確かにいる。他の子どもに自分のやってることを邪魔されたら泣く子や、ダイパーに一度おしっこしたらもう換えてほしいと泣く赤ちゃんなど、もうすでに赤ちゃんのころからこうした特徴は見られる。でも、親として思うのだが、こうして研究者に教育の指針を与えられる必要があるのだろうか。子どもをじいっと観察しているうちに、親や教育者であればこういう子どもの特徴は把握できるだろうし、その観察や経験の結果からどういうふうに育てればいいか、専門家でなくてもそのあたりの察しはつくのではないか。
多くの時間を一緒に過ごしている親や教師であれば、子どもたちがどんな子であるか見極めるのは決して難しいことではない。その子どもの性格や特徴によってどういう教育方針をとるべきか、という点も(自分の仕事を効率的にしようと思えば)自ずと察しがつくのではないか。というか、このあたりの察しがつかない親は、子どもを客観的に見つめるという観察が足りないのだろうし、こういう場合、親や教師の仕事は、それはそれは大変なものだろう。
もうひとつ付け加えると、Orchid childはシュタイナーのFour Temperamentsの「憂鬱質」に似ている(シュタイナーは子どもの性格には4つのファクター、Four Temperamentsがあると考え、それぞれ、それらのうちで強いものと弱いものの組み合わせで性格が形成されると考えた。親や教育者はそれぞれのTemperamentsにあわせた対応をしていくことで、その子の能力をより引き出せるという。そのうちのひとつのTemperamentはMelancholic/メランコリックで、日本語では「憂鬱質」とされる)。さらにはローマ時代の医学で言われていたFour Temperamentsも同じことを言っている。これもまたLabelling(レッテルを貼る)のひとつと解せば、今後、子どもたちを対象とした研究が、子どもたちのすべてをLabellingしていく方向に向かうのかという気もする。
ちなみに、私たちの子どもエリックは赤ちゃんのころから何があってもあまり文句を言わない子だった。うんちがダイパーについていようが、環境が変わろうと文句もなく、飛行機でも簡単に眠る子だった。そうした特徴は、驚くべきことに生後1週間ほどNICUに入っていたエリックを見てくれていた看護婦さんたちにも分かったようで、「この子はハッピーな顔をしてよく眠っていることが多いし、とっても育てるのが楽な子になるはずよ」と言っていた。生後1週間で性格がわかるなんて、と疑心暗鬼だった私もエリックを育てるうちに看護婦さんたちの観察や経験に舌を巻いた。そして、同時に、私たち人間の性格の大半はすでに生まれたときに決まっているのだと信じるようになった。そうなると、「性格をかえよう」とすることの無意味性にも気付いた。自分の性格を受け入れ、その性格がうまく機能する環境を整えることの方がずっと大切で意味のあることなのだと確信した。
これは子どもの話だけれど、orchid childが大人になった私にいわせれば、自分の性格を知ることが何より大切。子ども時代は親や教師が環境を変えてくれたけれど、今では自分で環境を見極め、自分が最も快適と思われる環境をつくっていく必要がある。そのためには、「自らを知る」ことが何より必要で、ま、よく考えればそれはorchid childに限ったことではないんじゃないか。性格は変えられなくても、ものごとに対する態度や環境はある程度私たちのコントロール下に置くことはできる。それって、案外、成功の秘訣なのではないか。
ときどき、新聞に掲載される「学術的研究結果」には、驚くほど無意味なものがたまにある。そんなばかばかしいことにお金を使う余裕があるなら、もっと他のことに予算をまわせないものか、とつくづく思う。この研究結果も、実践の場にいる親や教師なら感覚的に分かって実践していることではないのかね?
・かすかな匂いにも敏感
・静かに遊ぶほうが好き
・シャツのタグやソックスの縫い目などが気になる
・ちょっとしたことにびっくりする
・周りに知らない人がいない方が仕事を上手に仕上げられる
・感情的に心を動かされることが多い
・友達の悲しみにすぐに気付く
・興奮した日には眠れないことが多い
・痛みに敏感
・完璧主義者
・うるさい場所は嫌い
上の点に該当する箇所が多ければ、あなたの子どもはOrchid Childの可能性が高いのですって。
Globeの記事How to raise an ‘orchid child’ to blossom(January 1, 2011)で、orchid childという名称をはじめて知った。そして、それって私のことだと気付いた。
記事によれば、全人口のうち15~20%があたるorchid childとは、周りの環境に容易に刺激を受ける人たちのことをいう。たとえば、簡単に驚いたり、痛みやちょっとした匂い、粗い衣服に敏感(タグなどが肌にあたると不満を訴える)、芸術などによく心を動かされる、明るいライトなどが非常に気になるなど、全体的に周囲の環境に対して非常にセンシティブな側面が特徴。シャイに見えることが多く、内向的な子どもたちがほとんどだが、内向的なのはlearned behaviourであるという。
研究者によれば、こうした子どもたちは、ストレスの多い家庭や環境で育つと呼吸器疾患やディプレッション、anxiety(精神的不安)などの疾患を患う可能性が高くなるが、一方で子どもたちを保護し、大切に育てていく環境があれば、他の子どもたちに比べて病気疾患を患う確率が低くなり、社会的にも成功する確率は高くなるという。
Orchid childの研究目的のひとつは、親や教師たちにこうした子どもたちをどう育てるかの指針を与えることだが、結果として、orchid childには体罰や強い罰則は単にネガティブな影響を与えるだけなのでやさしく諭すこと、さらに次に起こることを知っていると安心するので、なるべく日常的ルーティーンを与えることなどが挙げられている。
デイケアやドロップイン・センターで他の子どもたちを見ていると、20%は多すぎる見積もりだろうけれど、こういう子どもたちは確かにいる。他の子どもに自分のやってることを邪魔されたら泣く子や、ダイパーに一度おしっこしたらもう換えてほしいと泣く赤ちゃんなど、もうすでに赤ちゃんのころからこうした特徴は見られる。でも、親として思うのだが、こうして研究者に教育の指針を与えられる必要があるのだろうか。子どもをじいっと観察しているうちに、親や教育者であればこういう子どもの特徴は把握できるだろうし、その観察や経験の結果からどういうふうに育てればいいか、専門家でなくてもそのあたりの察しはつくのではないか。
多くの時間を一緒に過ごしている親や教師であれば、子どもたちがどんな子であるか見極めるのは決して難しいことではない。その子どもの性格や特徴によってどういう教育方針をとるべきか、という点も(自分の仕事を効率的にしようと思えば)自ずと察しがつくのではないか。というか、このあたりの察しがつかない親は、子どもを客観的に見つめるという観察が足りないのだろうし、こういう場合、親や教師の仕事は、それはそれは大変なものだろう。
もうひとつ付け加えると、Orchid childはシュタイナーのFour Temperamentsの「憂鬱質」に似ている(シュタイナーは子どもの性格には4つのファクター、Four Temperamentsがあると考え、それぞれ、それらのうちで強いものと弱いものの組み合わせで性格が形成されると考えた。親や教育者はそれぞれのTemperamentsにあわせた対応をしていくことで、その子の能力をより引き出せるという。そのうちのひとつのTemperamentはMelancholic/メランコリックで、日本語では「憂鬱質」とされる)。さらにはローマ時代の医学で言われていたFour Temperamentsも同じことを言っている。これもまたLabelling(レッテルを貼る)のひとつと解せば、今後、子どもたちを対象とした研究が、子どもたちのすべてをLabellingしていく方向に向かうのかという気もする。
ちなみに、私たちの子どもエリックは赤ちゃんのころから何があってもあまり文句を言わない子だった。うんちがダイパーについていようが、環境が変わろうと文句もなく、飛行機でも簡単に眠る子だった。そうした特徴は、驚くべきことに生後1週間ほどNICUに入っていたエリックを見てくれていた看護婦さんたちにも分かったようで、「この子はハッピーな顔をしてよく眠っていることが多いし、とっても育てるのが楽な子になるはずよ」と言っていた。生後1週間で性格がわかるなんて、と疑心暗鬼だった私もエリックを育てるうちに看護婦さんたちの観察や経験に舌を巻いた。そして、同時に、私たち人間の性格の大半はすでに生まれたときに決まっているのだと信じるようになった。そうなると、「性格をかえよう」とすることの無意味性にも気付いた。自分の性格を受け入れ、その性格がうまく機能する環境を整えることの方がずっと大切で意味のあることなのだと確信した。
これは子どもの話だけれど、orchid childが大人になった私にいわせれば、自分の性格を知ることが何より大切。子ども時代は親や教師が環境を変えてくれたけれど、今では自分で環境を見極め、自分が最も快適と思われる環境をつくっていく必要がある。そのためには、「自らを知る」ことが何より必要で、ま、よく考えればそれはorchid childに限ったことではないんじゃないか。性格は変えられなくても、ものごとに対する態度や環境はある程度私たちのコントロール下に置くことはできる。それって、案外、成功の秘訣なのではないか。
ときどき、新聞に掲載される「学術的研究結果」には、驚くほど無意味なものがたまにある。そんなばかばかしいことにお金を使う余裕があるなら、もっと他のことに予算をまわせないものか、とつくづく思う。この研究結果も、実践の場にいる親や教師なら感覚的に分かって実践していることではないのかね?
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