Monday, January 31, 2011

成功の公式=自己コントロール+忍耐

再び子どもの教育に関する研究結果。

Proceedings of the National Academy of Scienceに掲載された、ニュージーランドの研究者の研究結果によれば、子どもが将来成功する可能性は、その子どもの「自己コントロール能力」と「忍耐力」に大きく関係しているという。3歳から約30年間にわたって、1000人の子どものサンプルをとった結果、子どものころに、順番を待てる、少しのことでイライラしない、といった自己コントロール能力が見られた場合、大人になって健康障害やドラッグ問題、経済的問題といった問題に遭遇する可能性は低いという。
Globeの記事も触れているように、同じような研究結果はいくつも他の分野で発表され続けている。以前もどこかで書いたが、60年代にマシュマロ・テストというのもあったしね(4歳の子の目の前にマシュマロをひとつ置いて、「帰ってくるまで待てればマシュマロを2個あげる」と言って15分ほど部屋を出る。忍耐力、自己コントロール能力をはかり、その能力とその後の学力の伸びなどの関係を測定)。

またまた「あたりまえね・・・」って感じの研究結果なのね・・・。 はい、どうもごくろうさん。

PNAS(Proceedings of the National Academy of Science)のウェブサイト
http://www.pnas.org/

Tuesday, January 25, 2011

Reasonable Accommodation-多文化主義とマイノリティの権利

先日、ケベック州National Assemblyで女性がニハブ(ヘッドドレス)を着る宗教的権利についての公聴会に招かれたWorld Sikh Organization of Canada(シーク教徒の世界的組織。彼らはカナダ支部のメンバーでカナダ人)のメンバーが身につけているカーパン(シーク教徒が片時も離さず身につけている小さなナイフ:正義のために戦うことの象徴的意味が含まれる)がセキュリティに抵触するとしてAssembly参加を拒否され、国内で大きな問題になった。

皮肉にも、ケベック州議会の公聴会に招かれていたシーク教徒たちは、宗教的マイノリティの権利をどこまで認めるかを話し合うために招待されていた。そこで、彼らの宗教的権利が拒絶されたことは皮肉としか言いようがない。

この問題は、Reasonable Accommodationの範疇に入り、カナダをはじめ多文化主義社会ではしばしば物議をかもす話題である。

多文化社会であるカナダでは、憲法の一部であるCanadian Charter of Rights and Freedoms(人権憲章)で、さまざまなマイノリティに対する差別の禁止とともに、Accommodation(これ、日本語にするのが難しい言葉のひとつなのだけれど、社会的に受容するという意味合いがある。「許容する」ではなくて、マイノリティにとって快適でなるように社会のルールを変えるという意味合いにとらえられる)を求めている。

このAccommodationはそのことによって被る影響の方がネガティブでない限りにおいて、必ず受容されなくてはならない(Undue hardshipと呼ばれる)。ということで、まずはAccommodationが憲法で保障されているという点を強調しておきたい。

これまでの例をあげてみると、2006年には、これもケベック州だったが、シーク教徒の学生が学校にカーパンを持ってくる権利を認めるかどうかというので議論になったことがある。結局、この件は最高裁判所まで行き、最終的には学生の権利を最大限考慮する判決となった。この問題がカナダをにぎわしていたころ、確かフランスでは学校に宗教的オーナメントを持ってくることを禁止する法律が制定されたのだった。私は新聞を読みながら、マイノリティ宗教に対して大陸とカナダでの対応の違いに驚いた記憶がある。

Reasonable accommodationという言葉は、多文化主義を語るための非常に重要なキーワードである。マイノリティの権利をどこまで受容するのか。この問題は多文化社会では繰り返し形を変えて現れるのだけれど、カナダで最も深い印象を残したケースといえば、RCMP(The Royal Canadian Mounted Police カナダ国家警察、Mountieとも呼ばれる)メンバーにターバン着用を認めるかどうか、の議論だったと思う。シーク教徒のバルテジ・シン・ディロンBaltej Singh DhilionがRCMPへの就職を許可されたとき、ターバン着用は認められていなかった。赤い制服、そして茶色の帽子はMountieのシンボルだった。帽子を着用するためにはターバンを外さなくてはならない。しかし、シーク教徒としてターバンを外すことはできない。シン・ディロンはこのケースを公の場に持っていった。

カナダ人の意見はまっぷたつに割れた。ここはカナダなのだから、カナダのルールに従うべき。いや、Mountieの価値は制服にあるのではなく、国を守る気持ちがあるかどうかにかかっている。一部にはアンチ・シーク、アンチ移民の動きすら顕著にあらわれた。
結局、1990年、8ヶ月の議論の末、カナダ国会はRCMPの服装ルールに変更を加え、ターバン着用を許可する。

シン・ディロンはこのケースを公にすることでカナダの多文化主義の意味を問いただしたともいえる。ほぼ20年前の1971年にはカナダは多文化主義を国家の政策として発表し、移民を同化するという今までのAssimilationとは異なる、それぞれの国民の文化的ヘリテージをカナダのために役立てるという、まったく新しいMosaicのコンセプトを打ち出した。それ以降、Reasonable Accommodationはカナダの多文化主義を完成させるために必要不可欠なプロセスとなった。

こうして書いていて思うのだが、カナダの多文化主義はこうしてマイノリティが自分たちの権利を主張することがきっかけとなり、国家的議論が巻き起こることで強化されていく。「多文化主義」が単なる「目標」ではなく、私たち市民の毎日の生活に直接触れるような「生活のあり方」に変わっていく。こうした議論をいくつもいくつも経ることで、カナダ国民はマルチカルチュラリズムの難しさを体得しながらも、カナダ人のアイデンティティを自ら打ちたてているのだと思う。

トロントとホロコースト生存者

Toronto StarのGreater Torontoセクション(January 24)で、Open Windowというベーカリーが廃業に追い込まれたという記事を読んだ。

以前住んでいたSt. Clair×Bathurstあたりには、Open Windowベーカリーが1軒あって、どっしりしたパンが好きな私はそこでライブレッドをたまに買っていた(クロワッサンやバゲットはあまりおいしいとは思わなかったけどね・・・)。Open Windowとの名の通り、このベーカリーはパンづくりをしているベーカーがガラス越しに見え、他のベーカリーと比べてかなりヨーロッパ的(あるいはユダヤ系)な雰囲気が漂っていた。スタッフも親切な人が多かったし、そこのバクラバやハルバが私は大好きだった。

記事を読んで知ったのだが、Open Windowベーカリーの創始者は、わずか7ドルを持ってカナダに渡ってきたホロコースト生存者のMax Feigで、1957年の設立以後、どんどんチェーンを増やし、1980年代の最盛期には日本にも冷凍ベーグルを輸出していたとか。最近のリセッションの影響、小麦粉や砂糖、オイルなどの日常品の価格急騰などに押されて、ビジネスを畳むこととなったらしい。

Open Windowベーカリーの創立者Max Feigは現在、アルツハイマーが進行し、自ら興したビジネスが廃業に追い込まれた事実は認識できてないという。

多文化都市トロントには、各エスニックでシニア用施設が多く存在しているが、ユダヤ系のためのBaycrest はケアの面でも研究の面でもカナダで最高の高齢者施設とされている。私は以前、このBaycrestで撮られたドキュメンタリーをCBCで見たことがあって、そのときの衝撃はいまでも覚えている。

ホロコースト生存者の入居者はアルツハイマーを患うと、若いころに経験した悲惨な体験に根付いた行動に出ることが多いらしい。たとえば、ある入居者は、何度も何度も食事をこっそりとベッドの下や棚のなかに隠して、「そんなことをしなくてもいいのよ」と言われると、「いつ食べ物がなくなるかわからないし、いつ連行されるかわからない」と口癖に言っていたというし、看護婦がはいていた木靴(サボ)の音を聞くたびに強制収容所のドイツ人看守の思い出が蘇ってきてパニックになる入居者もいる。

また、アルツハイマーにかかった高齢者のなかには、成人して学んだ言語(トロントの場合は英語)をすっかり忘れても、小さいときに話していた母語だけははっきり覚えているという人が多いと聞く。そのため、Baycrestにイーディッシュ語を話す専門家やナースがいるように、移民都市トロントのエスニック用高齢者施設では特定の言語が話せるスタッフを抱えていることがカギになってくる。

ちょっと古いデータだけれど、2001年の統計調査によれば、カナダのホロコースト生存者2万3660人のうち、1万2815人がトロントエリアに住んでいるという。この数は、カナダ全国のホロコースト生存者の54.2%にあたる(ちなみに、1997年8月時点での世界の推定ホロコースト生存者数は834,000 から960,000 人)。

戦後、ヨーロッパに留まることを選んだ生存者はほとんどいなかったため、ヨーロッパではホロコースト生存者が世界に存在すると聞いて驚く人もいるという。しかし、トロント周辺ではこうして何らかの機会にホロコースト生存者の話がメディアに浮上することが時折ある。また、新聞のObituary欄にもときどき「ホロコースト生存者」という文字が出てきたりする。

なんだかベーカリー廃業の記事とはまったく関係のない話題になってしまったが、ホロコースト生存者の話がこうして何気なく出てくるところはトロントならではなのだろうね、と思ったのであった。

Monday, January 17, 2011

Amy Chuaの Battle Hymn of the Tiger Motherをめぐる議論

最近発売された新刊書Battle Hymn of the Tiger Mother が1月11日のGlobe紙で紹介されて以降、読者からさまざまなコメントが寄せられている。もちろん、本そのものを読んでいない私は、新聞の記事をもとに記すしかないのだけれど、どうもこの本はこんな感じの内容らしい。

子どもを成功に導くしつけをしたいなら、中国人家庭のしつけ(Chinese child-rearing techniques)こそ、最も効果的。「中国人家庭のしつけ」の例としては・・・

ボーイフレンドは許されない
お泊りも許されない
両親の言いつけには絶対服従
ピアノかバイオリンを始めたら何があっても絶対にやめない

著者はイエール大学法律学科の教授で、中国系の移民家庭に育っている。小さいころからこのようなしつけ方で育てられてきて、実際に自分が母親になったときにはそのやり方が最もすばらしいことに気付き、同じやり方で2人の女の子を育て、ふたりとも立派に育ったという。この本はそんな彼女の母親としての回想記。

インタビュー記事のなかでも触れているように、こうしたしつけの仕方はアジア系の家庭では一般的で、私たち日本人にも何となくピンとくるところがあるだろう。彼女は西洋的な、たとえば「子どもに選択肢=自由を与える」というやり方には断固として反対で、子どもに友達と遊ぶかピアノのレッスンに行くかという選択肢を与えれば、友達を取るに決まっている。西洋的なやり方で育てていれば、バイオリンを習っていた子どもは、すぐに簡単な楽器に変えるか、あるいはすぐにやめてしまう。しかし、中国系家庭のしつけでは「1度やり始めたことは最後まで何があってもやり通す」ことが強要されるので、泣いてもわめいても子どもはバイオリンのレッスンに連れていかれる。このように、子ども時代にはものごとの良し悪しは親が決めてあげるのがいちばんだとしている。

この本が発売されて以降、著者エイミー・チュアのもとにはEメールが殺到しているという。彼女のしつけをサポートするメールもあれば、一方では「子ども虐待」と厳しく批判するメールもあるという。

Globe紙のコラムニストのマーガレット・ウェンテは、世界的に著名なピアニストラン・ランやテニス・プレーヤーのアンドレ・アガシなども同じようなやり方で育てられてきたとし、エイミー・チュアの本は「優れた遺伝子がなければ、どんなしつけをしても成功することはない」という点に触れられていないと指摘している。

こうした批判に対し、エイミー・チュアは、中国系家庭に典型的な教育のしかたは、厳しいことだけが大切なのではなく、親が子育てを何を置いても一番のプライオリティとしなくてはならない点なのだと強調している。つまり、親が子どもを「成功させる」というコミットメントがあるかどうかが成功のカギになるというのだ。

この一連のコメントを眺めながら、最近、Too Asianというタイトルでアジア系学生がカナダの大学を圧巻しているというMacLean誌の記事を思い出した。そこにはアジア系の学生は学業では非常に優秀な成績を収めているけれど、社会的な集まりに参加しないとか、要するにがり勉(こんな言葉あったよね?)だという白人学生のコメントが載っていた。エイミー・チュアの本に書かれているような方法で育てられれば、そういう子どもたちになるのもわかるような気がする。

私も小さいころ、こうした教育を学校でなされてきた。両親はそうではなかったけれど、とりわけ体育の教師がこんな感じだった。体罰や暴言(私は1度ある教師に「おまえは人間のくずだ!」と言われたことがある)やハラスメントは日常茶飯事だったし、「選択を与える」なんてのは論外だった。今なら考えられない、と思うのは、その後、西洋的な育児・教育テクニックが日本を圧巻したからに違いない。日本はまだまだ昔ながらのやり方は残っていても、主流はやっぱり「選択肢を与えましょう」「責任を取らせましょう」「ルールを決めましょう」といったやり方だろう。

巷には、さまざまな「育て方」理論がはびこっている。私は今日、ブックストアのParentingセクションで立ち読みをしていたのだけれど、実に実にさまざまな御仁がさまざまな方法の「育て方」を披露している。主流は圧倒的に「子どもを1人の人間として扱う」という西洋的な育て方だけれど、エイミー・チュアの本はこのマーケットのうちで唯一、それに反する論を紹介している本だろう。

思うのだけれど、結局のところ、親にとって「育て方」というのは、「どんな子どもに育ってほしいか」をはっきりさせることが出発点になるべきだと思う。ブックストアで立ち読みしながら、私が親として子どもをどう育てたいかはっきりとわかっていないなら、この情報の山はただのごみの山だということに改めて気付いた。エイミー・チュアや多くの中国系の家庭の親たちのように、Academic Excellenceが最も大切なのだろうか。それとも、子どもが自分を愛し、他人を愛せるような人間になることが大切なのだろうか。世界で最も有名なピアニストに育てたいなら、エリート教育、つまりスパルタンな方法が必要だろう。「目的」がはっきりしていれば、おのずとどういう方法がよいかは分かるだろうし、もうひとつ言わせてもらえば、子どもを観察することの重要性も忘れてはならない。

子どもにはそれぞれパーソナリティがあり、好きなこと、得意なことがある。エリックが生まれてから私が経験した大きな気付きのひとつは、そのことだった。そして、それに気付くためには子どもをじいっと観察することが大切だ。この点に関してはシュタイナー教育をはじめとする西洋の教育論はすぐれた理論的バックグラウンドを与えていると思う。個人的には、エイミー・チュアの描く方法では育てられたくないし、そう思う私は(Do unto others as you would have them do unto you)この方法を採用することはないだろうね…。

Friday, January 14, 2011

フォアグラとアニマル・ライツ

毎年2月、カナダの首都オタワの冬を彩る「Winterlude」というフェスティバルが開催される。このフェスティバルの一環として、著名シェフが創作する一流料理を堪能できるディナーのチケットが販売され、結構なお値段にもかかわらず数時間でチケット完売というポピュラリティを誇っている。今年はフォアグラ料理ではカナダ料理界で右に出るものはいないといわれるシェフ、マーティン・ピカードが参加することになっていた。

しかし、一部のアニマル・ライツのアクティビストの助言がもとになり、素材としてフォアグラを使わずに料理をすることを求められ、結果的にシェフが辞退するという顛末となった。オタワやモントリオール市内の有名レストランでは、このシェフの取った態度(一部の狂信者=アニマル・ライツに屈しなかったという態度)をサポートする動きとして、フォアグラをメニューに取り上げるお店が出ているという。(Duck-liver flap ruffles feathers of Ottawa chefs, The Globe and Mail, January 12, 2011)

フォアグラ(foie gras)とは、必要以上に大量の餌を強制的に与えたガチョウや鴨の肥大化した胃で、世界3大珍味のひとつとして知られる。世界で生産されるフォアグラの大半がフランスで生産されている。この不自然な飼育方法を「動物虐待」としてAnimal rights(アニマル・ライツ)アクティビスト(動物の権利を守ることを目的として活動)たちの間では、フォアグラ全廃がひとつのターゲットとなっている。

アニマル・ライツのグループとして最もよく知られているのはPETA (People for the Ethical Treatment of Animals)というグループだろう。ハリウッドのセレブなど著名人も名を連ねているこのグループは、動物を食べること自体に反対していて、ヴェーガン(卵や乳製品も食べないベジタリアン)主義を唱えている。もちろん、毛皮製品をはじめ、動物の皮を使ったハンドバッグ、薬品・コスメティック企業による動物実験、狩猟、さらには動物に乗り物をひかせることなど、動物を人間の利便のために利用することに反対している(いやはや、ここまでくるとちょっと行き過ぎのような気がするね。西欧社会で何不自由なく生きている人たちの考えそうなことである・・・)。

動物を食べることは「動物虐待」に値するのだろうか。

大部分の人にとっては間接的にはそう言うこともできるだろう。自分では殺してはいないが、殺された動物の肉を食べている、というだけの理由ではない。残酷きわまりない殺され方をサポートするかのようにスーパーの肉を繰り返し買っていることが原因である。数年前にベストセラーとなったFirst Food Nationという本には、大手ファーストフードチェーンと牛肉産業の関係、どんなに残酷なやり方で牛が屠殺され、ブロイラチキンが育てられているかが克明に描かれていた。また、時期を同じくして巨大な食品産業の内情を告発するようなドキュメンタリーもいくつか発表され、物議をかもした。私たちの多くは、晩ごはんに調理するお肉がどのような経路でスーパーマーケットに届いているかを知らない。屠殺場でどのように残酷な殺され方をしているのかを漠然とは知っていても実際には見たくはない。でも、残酷な殺され方をしたお肉を買うことは、そうしたやり方をサポートすることになり、間接的に動物虐待に加担しているということができるだろう。

私と夫は95%ベジタリアンだが、お肉を買うときにはオーガニック、ハラル(Halal、イスラム教の戒律に従って供される食べ物。下記Halalの引用参照)やコーシャー(Kosher、ユダヤ教の戒律に従って供される食べ物)の承認を受けたものを買うようにしている。宗教的な理由ではなく、動物にできるだけ痛みを感じさせないやりかたで屠殺するこうした方法の方を選びたいからだ。アニマル・ライツほど強い信条をもってはいないが、個人的には不必要な痛みを他者に与えたくはない。これだけ食料が豊富に手に入る私たちの社会において、肉を食べる意味はその味以外には皆無だとも思う。肉の味? 私には調理次第では豆のコロッケであるファラフェルの方がチキン・ディバーンよりもずっとずっとおいしいと感じられる(年のせいかもしれないが)。

多くの人の場合、ひとたび牛や豚がスローターハウスでどのように屠殺されているかを、あるいはフォアグラがどうやって作られているかを映像で見れば(U tubeにそうした映像はたくさんある)、お肉やフォアグラを食べたいという気持ちは激減するだろう。スーパーのお肉がどこからきたのかに思いを巡らせば、私たちの「食べる」意味をもういちど考え直す必要があるだろう。「食べる」ということがいかに残酷なことであるのかを、現代に生きる私たちは都合よく忘れているように思う。

今回のフォアグラ騒動で、多くの人たちがU Tubeで不必要に大量の餌を強制され、最後には立てなくなったり、内臓が破裂したりする鴨を見ることだろう。その人たちは、それでもまだフォアグラを食べようとするのだろうか。

Halal(Wikipedia)
This method of slaughtering animals consists of a swift, deep transverse incision with a sharp knife across the neck, cutting through the windpipe, the food pipe, the vagus nerve,
jugular veins, and carotid arteries of both sides, but leaving the spinal cord intact. This method of slaughter opens the circulatory system, which is at high pressure, to the air, causing pressure to equalize and the blood pressure in the brain to fall to zero

Thursday, January 13, 2011

カナダ人と読書

カナダ人は読書が好きな国民らしい。

1日に読書をする時間に関する各国の比較では、カナダは40分と、フィンランドの46分に続き世界2位になっている。本を読まないと答えたのはわずか13%で、アメリカの43%に比べると比較にならない。

私の感じでは、カナダ人が本を読んでいるかどうかはわからないが、カナダの社会では「読書」がメインストリームのメディアで大きく取り上げられる機会は日本に比べはるかに多いと思う。

たとえば、英語圏の文学賞(マン・ブッカー・プライズなど)のリストが発表されると、新聞や雑誌はそのニュースでにぎわうし、カナダ総督の名を冠した文学賞(カナダ政府がスポンサー、部門はフィクション、ノンフィクション、英語、フランス語)のリスト発表時には、CBCラジオがCanada Readsという名で、それぞれの候補作を押す著名なカナダ人作家たちが討論しあうという興味深いプログラムを受賞が決まるまで何週間にもわたって放送している。さらに、この討論は、リスナーからのフィードバックも加わり、受賞の日までかなり高度な議論がなされる。

また、カナダでは「ブック・クラブ」というサークルがあちこちにあって、そこでは同じ本を読んでいる人たちが集まり、その内容を話し合っている。たとえば、トロント市立図書館でも同じような主旨である本を取り上げて、定期的に集まるプログラムを組んでいる(移民だけに特化したブック・クラブもある!)。一方、ブックストアでも、文学賞の時期にともなって候補にあがっている作家を招いたり、その他の時期にも定期的にさまざまな作家を招いて講演会を催し(誰でも無料で参加できる)ているし、たいていそうした講演会は満員ということが多い。

トロント市立図書館やカナダの大学では、Writer in residenceというタイトルで特定の作家を大学のレジデンスに招き、1年間、図書館を含む大学の施設を無料で利用できるようにしたりというプログラムもよく知られている。

もうひとつ、毎年秋になると、トロントのハーバーフロントでは世界各国から作家を集めてInternational Festival of Authorsという大きな催しが開催される。招かれた作家たちは、自分の作品を一部読み聞かせ、文学に関する講演を行ったり、参加者と議論をしたりする。これもまた毎年大成功で、著名な作家の講演チケットを購入するのはなかなか簡単にはいかない。

日本では、ベストセラーといえばHow toものか、ビジネス書、マンガ、安っぽい大衆文学あたりだが、カナダでは日本と比較にならないほど「知的」な本がベストセラーになるのは当たり前。たとえば、私が翻訳したLong Shadows(翻訳は「歴史の影」社会評論社)は、歴史と記憶をテーマにしたかなり手ごわい本だが、この本はカナダ最高のノンフィクション本に与えられる賞を獲得し、長い間ベストセラーとして多くのカナダ人のあいだで読まれてきた。

カナダ国民の教養が高いということなのだろうか。恐らく、社会全体にLiteratureを大切にしようとする土壌が育っているのだと思う。Literatureのスポンサーとなるのは政府をはじめ、出版界、NPOなどの芸術機関などで、こうした動きを見ていると、カナダでは芸術や芸術家を文化の一部として守り、援助しようという姿勢がひろく社会の隅々にまで行き渡っている感がある。先日、ヤン・マーテルの書評でもちらっと触れたように、社会が芸術を守ろうという姿勢を崩せば、長い目でみるとそれは国家の魂を奪うような悲惨な結果に結びつく。

“われわれ市民が芸術家を援助しなければ、我々は荒々しい現実のために想像力を犠牲にし、結局のところ何ひとつ信じられなくなって、無価値な夢だけを抱くはめになる。”Yann Martel

Tuesday, January 11, 2011

One of the greatest novels I have ever read--Life of Pi (Yann Martel)

この記事は、日本語訳が出ているヤン・マーテルの「パイの物語」を英語版で読んで書いた感想です。

書評となるとかなり辛口の私だけれど、この小説はどう考えても今まで読んだ数多くの小説のうち最も完璧な小説のひとつに違いない。

2001年に発表されたこの小説は、カナダ人作家 (!) Yann Martelの2作目。10年たった今頃読み終えて、どうしてもっと早く読まなかったのだろうと悔やまれる私だけれど、当時、この小説がメディアで「最後にどんでん返しを食らう」という部分がひっかかっていたのだと思う。しかし、ひるがえって考えると、なぜこの小説がこの点に限って強調されたのかが今更ながらに理解できる。たしかに最後には大どんでん返しが待っている。とはいえ、その点だけが強調されるならば、この小説をヤン・マーテル(Yann Martel)が書いたポイントはまったく外れてしまうだろう。Yann Martelの関心は、「物語」「サバイバル」「信仰/宗教/神」にあって、この小説を読む読者はそのすべてを余すところなく考えさせられる。この小説は、どんでん返しなんかよりずっとずっと奥深い形而学的な小説なのである。

カナダ人作家がポンディチェリ(南インドの都市)のカフェで隣に座った老人と会話をする。その老人は、彼が作家だと知ると、”I have a story that will make you believe in God”.(神がいることを信じさせてくれる話がある)と言って、彼の知人のストーリーを話し始める。

小説の大部分はその話の内容、Piというポンディチェリの少年が家族とともにカナダに船で移住する途中で、太平洋上で遭難し、動物とともに小さな船の上で226日を過ごした話になっている。その前の章では、Piと宗教の関係を軸として、Piの過去(ポンディチェリでの生活)と現在(カナダで家族とともに暮らしている)が交錯して語られる。最後の章は、貨物船沈没の真相を探る日本人2人(船はOika汽船という日本の船が所有)がPiを尋問する様子とその内容が描かれる。そして、この部分で、日本人2人が前章(小説の大部分)で語られたベンガル・トラと漂流したPiの話をまったく信じないことから、Piによって最終的に「もうひとつの物語」が語られることになる(”You want a story without animals… Here’s another story”-動物が出てこない話を聞きたいわけですね。・・・では、もうひとつの物語を話しましょう…)。

1.小説、物語、ストーリーテリング(語り)とは
小説の冒頭、Author’s Noteとして、「書き手」がなぜこの小説を書くに至ったかを語る部分がある。この部分の終わりで、この小説を執筆するうえで援助を提供してくれた人たちに謝辞を述べるのだが、最終部分はCanada Council for the Arts(カナダ芸術評議会)の助成金がなければこの小説が世に出ることはなかったと述べる。最終行の文章を引用する。
“If we, citizens, do not support our artists, then we sacrifice our imagination on the altar of crude reality and we end up believing in nothing and having worthless dreams.” (われわれ市民が芸術家を援助しなければ、我々は荒々しい現実の前に想像力を犠牲にし、結局のところ何ひとつ信じられなくなって、無価値な夢だけを抱くはめになる。)

長らく無名の作家として暮らしてきたヤン・マーテル自身のことばとして、これを取ることもできるが、この文章にはこの小説の真髄ともいえる奥深いテーマがひそんでいる。

いったい、どうして私たちには小説(物語・語り)が必要なのか。
それこそがそのテーマである。これはまた、ひるがえって、どうして小説家はフィクションを創り出すのか。そして、社会はなぜフィクションを作り出す芸術家(小説家を含む)を援助する必要があるのか、という疑問をも同時に投げかける。

ちなみに、「社会はなぜフィクションを作り出す芸術家を援助する必要があるのか」は、ギリシア哲学者のプラトンが「ものがたり」として語ったテーマでもあり、哲学を勉強した作家ならではの切り口といえる。

2.サバイバル
太平洋上を226日間漂流し、Pi は生き残った。しかし、そこで人生は終わるわけではない。
1章では、ポンディチェリでのPiの生活の様子とともに、漂流の後トロントに移住し、彼がトロント大学で動物学と宗教学を専攻し、薬剤師の妻との間に子どもが2人いることが簡単に描かれる。その章の最終の文章は“This story has a happy ending.”となっている。Piがかいくぐった、このおぞましい物語がHappy Endingになるためには、生き延びるためのスキルとして想像力が必要だったのだ。私には、ヤン・マーテルは芸術家として想像力こそが私たちの人生・社会に付き物の悲劇をなぐさめ、乗り切るための道具として不可欠なのだと言っているようにも思える。

再度繰り返すが、いったい、どうして私たちには小説(物語・語り)が必要なのか。

Piが語る「最初の物語」は、それに対する答えである。Piが実際に経験した「もうひとつの物語」は、吐き気を催すようなカニバリズムの記録(Crude reality/荒々しい現実)である。「もうひとつの物語」を生き延びねばならなかったPiにとって、「最初の物語」は死が彼の人生を終わらせるまで必要不可欠な物語、Crude realityを克服できる唯一の手段だと言える。Piは想像力によってのみ、おぞましい現実を乗り越え、Happy endingを自分のものにすることができたのだと私は読み取った。

「最初の物語」では、メキシコの陸地に上陸する前にベンガル・トラのリチャード・パーカーはPiにさよならも言わず、船を去っていく。リチャード・パーカーがPiであると読めば、極限まで追い詰められた人間が殺人を犯して生き残った残酷性を、人間の社会へ入っていく前に捨て去る必要があったという意味が込められているのではないか。

最近ホロコーストに関する小説を読んでいて、そのなかで恐ろしい現実をなぐさめるために夜になると子どもたちはそれぞれ「おはなし」を語ったという文章に出会った。信じられないような惨事を乗り切るために、私たちは「物語」を利用する。あるいは、生きるために最も大切なメッセージを伝達するために古くから「物語・たとえばなし」が利用されてきた。聖書もプラトンの著述も仏典もフォークロアも昔話もみんな「ものがたり」として書かれているのは興味深い共通点である。

最終章のうち、非常に印象深い会話が描かれる。
“Isn't telling about something - using words, English or Japanese -- already something of an invention? Isn't just looking upon this world already something of an invention?” (英語にしろ日本語にしろ、言葉によって語れば、それは作り事(創造)となるのでは? 世界をただ見ているだけでもすでにそれは我々の作り事(創造)なのでは?) 
The world isn't just the way it is. It is how we understand it, no?”(世界がありのまま存在することはありえないのであって、それを我々がどう理解するかに拠るのでは?)

これは、一方では「現実」とは何なのか、を考えさせてくれる会話でもある。
Life of Piは、実に、現実と想像が幾重にも重なって織り成されている。

まず、この小説を書いた「語り手」が現れる。それはヤン・マーテルのようにも思えるが、実際には私たちには分からない。そして、ポンディチェリでPiの漂流の話をするインド人老人が現れる。漂流を経験したPi自身がいる。最後に、メキシコでPiを尋問するMr. OkamotoとMr. Chibaがいる。小説全体を通して、これらの人たちそれぞれがそれぞれにPiの漂流をテーマとした話をまったく違う角度から語っている。それに、忘れてならないのは、これを読む私たち読者がいること。

私は「もうひとつの物語」が実際に起こった物語だと捉えたけれど、読む人によってはそうはとらないかもしれない(最後にインタビューした日本人によって書かれた報告書によると、彼は最初の物語が実際の物語だと捉えている)。「現実」とは何を言うのか。私たちは見たいものだけを見ているということ、そして、想像力は私たちの生きる源であるということは確かだろう。

3.信仰/宗教/神
ヤン・マーテルは明らかに宗教に非常に関心を寄せている。どこだったか、インタビューに答えて彼はイスラム教の内容を知り、とても共鳴した、と述べていた。一方で、神を信じない人たち(Agnostic)、とりわけ薄っぺらい無神論者の論には手厳しい。

第1章では、ポンディチェリでのPiがキリスト教とイスラム教、ヒンズー教の3つを信仰しようとしている姿が描かれている。しかし、彼が本当に神に救いを求めたのは、同乗のコックを殺した後だったというのが興味深い。「物語」と同じように、神もまた、おぞましい現実を乗り越えるためのサバイバルに必要なのだと読めば、「物語」と「神」の同一性にも思いをめぐらせることができる。
私たち人間は、神をも「創造」したのだろうか。神をも創造する必要があるのだろうか。

最後に、Yann Martelの作家としてのスキルについて書いておきたい。英語圏で出版された本に与えられる文学の最高峰ともいわれるマン・ブッカー・プライズを獲得したとあって、彼の文学的スキルは疑う余地はない。私はこの本を読んだ後、ベストセラー小説を読み始めたが、ハーレクイン小説のような文章の薄っぺらさに驚いた。

マーテルは「ページ・ターナー(どんどん読みたくなる)」といわれるような本を書く作家ではない。彼は作家という職業の何たるかを自ら考え尽くし、読者を問いただそうとしている。彼の言葉を文字通り信じてはいけない。彼の言葉や文章の構成の裏には必ずドアが待っている。そのドアをあければ、私たち読者は必ず自分の存在の根源に向き合う必要に迫られる。

マーテルの語りは、実にあちこちで笑いをそそう。(私が最も好きなのは、モントリオールでピザを電話で注文しようとして、名前を聞かれたPiがどうせ自分の本名Pisine Molitor Patelを言っても理解してもらえないと、”I am who I am.”(在りて在るもの=聖書のなかでモーセが神に名前を聞いたときに、説明された言葉でもある)と言ったのが、”Ian Hoolihan”という宛名で来たというエピソード)。最終章の日本人インタビュアとPiの間の会話もまた、これが非常におかしいのだけれど、この悲惨極まりないカニバリズムの物語を背景に読みながら、笑っていいものやら、悪いのやら困惑してしまった。

また、この小説のPiという非常にスマートなキャラクター、インドを文化的背景にしたセッティングは、Yann Martelの語りにピッタリだと思う。果たして、この作家にそれ以外の人物が描かれるのだろうか、とすら思える。Yann Martelの生み出したPiは実に生き生きと描かれている。

ところで、ちらっとAmazonの日本語レビューを読んでみたが、どれひとつとしてこの小説の核心に迫るレビューはないようだった。これはいったいどうしたことなのだろう。メジャーの文学批評を読んでない私には知る由もないが、ちょっぴり気になる。

日本語訳は「パイの物語」として出版されている。Amazonのレビューは以下。
http://www.amazon.co.jp/gp/switch-language/product/4812415330/ref=dp_change_lang?ie=UTF8&language=ja_JP#_

Thursday, January 6, 2011

起業で成功する移民

2002年に『移民のまちで暮らす』(社会評論社刊)を上梓したとき、私のなかにはもうひとつ、本のアイデアが芽生えていた。拙著『移民のまちで暮らす』は、世界中の文化を体現したような、さまざまな人たちが暮らすマルチカルチャー都市トロントで、マルチカルチャーの可能性を日本人の移民である私の経験をもとに考察したものだが、結論的にはマルチカルチャーは民主主義社会の基盤を強くし、数多くのベネフィットを社会に還元するという結論に落ち着いた。そのベネフィットのひとつとして、私は「新しいアイデアの創出」をあげた。そして、新しい本のアイデアは、このあたりをもっと深く掘り下げてみることだったが、私の人生はあっちへまわり、こっちへ帰りで、結局いまだその本を書く状況には至っていない・・・。

さて、生涯を通して「ビジネス」とはまったく無縁な生活を送っている私だが、昨今のビジネスに必要な要素とはInnovation, Invention, research and developmentであって、基本をおさえた上でいかに新しいニーズを探り出すかに、ビジネス・センスはのよしあしがかかっている、という点だけは、新聞など読む限り理解している。そのうえで必要な「新しいアイデアの創出」は、日本でよく言われるように従来の考え方ややり方に「風穴をあける」ということ。これは、考え方におけるクリエイティビティ、柔軟性、発想のゆたかさ、などがあげられ、他の国民に比べ、日本人はとりわけこの側面で弱いとされている(し、日本の外から見ていると実にそう感じられる)。

従来の考えかたややり方とは違った見方ができるのは、ある意味でアウトサイダーの強みであるといえる。そういう意味で、多くの文化的背景をもつ人たちが集まるマルチカルチャー都市では、「新しいアイデアの創出」というより、移民が自分たちの文化を新しい視線でビジネスに持ち込むことは、そのままInventionとなる。

さて、Globe紙のBusiness Sectionに(Jan. 5, 2011)それをそのまま体現したような記事が載っていたのでご紹介したい。

南インドでは、ダウンタウンで働くビジネスマンにお昼のランチを届けるサービスがある。家で奥さんが作ったランチ(お弁当)をあったかいうちに会社で働く夫に届けてもらえるサービスで、私も以前、ランチバッグをたくさん載せた車をワーラーが引っ張っている写真を見て、非常に興味深いビジネスがあるものだ、と思ったことがある。さて、トロントで働いていたインド出身の女性が、出身国では当然になされていたこのサービスのニーズに目をつけて、トロントでランチ配達ビジネスを始め、これがかなりうまくいっているらしい。彼女も驚いたことに、サービスを利用する人たちの多くは、ITや弁護士、金融関係の仕事に従事する若い白人男性で、すばやく済ませることのできる、ヘルシーなランチを求めている人たちがクライアントらしい。

記事では、このようにForeign concept(新しいコンセプト)を持ち込んでカナダで成功している例のひとつとして、プライベート・チュータリングのサービスを導入したKumon(公文)を挙げていたが、この他にも移民が、とりわけフード産業で海外文化のコンセプトを持ち込んで、健康ブームなどに乗っかって成功しているビジネスを私もいくつか知っている。

日本の経済低迷を解消するためにはいくつもの方法があると思うが、移民政策をよりオープンにすることも、そのひとつだろうと思う。外から見ているとグローバル経済の波にうまく乗っかってない日本だが、このまま孤立したまま、いったいどこへ行くのだろうか、わが母国は・・・。

Globe紙の記事Foreign concepts, Canadian profits(いつもながら冴えてるわね、コピーが)
http://www.theglobeandmail.com/report-on-business/your-business/

Wednesday, January 5, 2011

若者の失業率-もっと新しい労働形態を探そうではないか!

今朝のCBCラジオ番組Currentで、カナダの若者の失業率を取り上げていて非常に興味深いと思った。

統計によれば、若者(15~25歳)の失業率は15%。率としてはそれほど高くないが、専門家によればそのうち仕事を探している人の割合は約63%で、残り約35%は自ら仕事を探すことをやめた人たち(Opt outした人たち)だという。

昨日のToronto Star紙にはカナダで今、失業中なのは若者および移民であるという記事が載っていたが、実際、私の感覚としても、その通りである。カナダの移民制度はポイント・システムを採っているため、高学歴の移民が多く、カナダの若者もまた、多くが大学を卒業している。ただ、移民にとっては仕事がない、ということは危機的な問題なので、低賃金労働であるエントリー・レベルの仕事でもとりあえず見つける。しかし、ジェネレーションXである親や教授たちに「学位をとればよい仕事が見つかる」と言われ続けて大学を出た若者の感覚としては、低賃金労働に就くぐらいなら再び学校に戻って新しいスキルを身につけようとする。そのため、移民は低賃金労働に従事、カナダ生まれの若者は仕事に就く時期を復学によって延期するという現象が現れているという。

番組のなかで、専門家が昔の若者も同じように失業率の高さに直面していたが、昔と違って、現在、失業中の若者が陥っている大きな問題は、毎年のようにかさむ借金であると指摘していた。

以前ほどではないが、カナダでは今も大学の学費は自分で払っている学生が多く、彼らは年々増える学費に首を締められている。仕事が探せればいいが、さらにまた学校に戻ったりするようなことになれば、またまた借金が増える。また、グローバライゼーションにともなう競争の激化、アウトソーシングといった労働市場の変化も彼らには向かい風となって立ち向かってくる。失業率の高さは長年、先進国では社会問題のひとつとなっているが、実に仕事を探している人たちの数といったら半端ではない。

話をちょっと変えるが、私にとっては9時から5時まで働くというリズムがどうしてもライフスタイルにあわない。9時から仕事が始まるとして、家を出るのが8時、帰ってくるのは6時。ということは、1日24時間のうち10時間を仕事に拘束されるということで、睡眠時間を7時間と考えれば、残りの7時間が自分の時間となる。でも、この7時間は、食事をしたり、料理をしたり、シャワーをしたりという時間が含まれるわけで、決して純粋な意味での「自分の時間」ではない。「自分の時間」という言葉で私が意味したいのは、自分の人生をゆたかにするために使える時間ということ。

(シュタイナーのFour Temperamentsのうち)Melancholyに属し、明らかなIntrovert(自分の外の世界より内の世界を広く持っている人たち)に属する私にしてみれば、こうした時間がないと精神的にどうもやっていけない。いや、一体全体、どうして1日の半分の時間を仕事に費やす必要があるのだろう、と私は疑問に思う。もちろん、こうしたリズムで問題なく生活できる人もたくさんいるし、それが社会のノームであるとされてきた。しかし、社会全体が9-5の人たちのリズムで動いているなかで生活するのは、私のような少数派に属する人たちにはかなりきつい。私もよく考えれば、今までこうしたリズムの生活から無意識的にOpt outしてきたと思う。

そこで、どうだろう。私たちのような9-5が合わない人のためにも、失業率の高さを軽減するためにも、もっともっとフレキシブルな労働形態を導入してみるのはいかがだろう。長時間働いている人たちと仕事がない人たちのあいだで、仕事の量をシェアするような労働形態を考えてみるのはいかがだろう。9-5が社会のノームであるというのは所詮、誰かが生み出した幻想なのだ。もっと別の労働形態を考えることができるはずだし、そうすれば、もっと家族で過ごす時間も増えるだろうし、趣味に時間を割くこともできる。自分を高めたり自分に向き合ったりする時間だって増えるだろう。仕事の量をシェアすることによって、失業率は低くなるし、GNPは減っても、もっと心ゆたかな生活ができるのではないかしらね・・・。

Sunday, January 2, 2011

Orchid childをどう育てるか

あなたの子どもは・・・

・かすかな匂いにも敏感
・静かに遊ぶほうが好き
・シャツのタグやソックスの縫い目などが気になる
・ちょっとしたことにびっくりする
・周りに知らない人がいない方が仕事を上手に仕上げられる
・感情的に心を動かされることが多い
・友達の悲しみにすぐに気付く
・興奮した日には眠れないことが多い
・痛みに敏感
・完璧主義者
・うるさい場所は嫌い

上の点に該当する箇所が多ければ、あなたの子どもはOrchid Childの可能性が高いのですって。

Globeの記事How to raise an ‘orchid child’ to blossom(January 1, 2011)で、orchid childという名称をはじめて知った。そして、それって私のことだと気付いた。

記事によれば、全人口のうち15~20%があたるorchid childとは、周りの環境に容易に刺激を受ける人たちのことをいう。たとえば、簡単に驚いたり、痛みやちょっとした匂い、粗い衣服に敏感(タグなどが肌にあたると不満を訴える)、芸術などによく心を動かされる、明るいライトなどが非常に気になるなど、全体的に周囲の環境に対して非常にセンシティブな側面が特徴。シャイに見えることが多く、内向的な子どもたちがほとんどだが、内向的なのはlearned behaviourであるという。

研究者によれば、こうした子どもたちは、ストレスの多い家庭や環境で育つと呼吸器疾患やディプレッション、anxiety(精神的不安)などの疾患を患う可能性が高くなるが、一方で子どもたちを保護し、大切に育てていく環境があれば、他の子どもたちに比べて病気疾患を患う確率が低くなり、社会的にも成功する確率は高くなるという。

Orchid childの研究目的のひとつは、親や教師たちにこうした子どもたちをどう育てるかの指針を与えることだが、結果として、orchid childには体罰や強い罰則は単にネガティブな影響を与えるだけなのでやさしく諭すこと、さらに次に起こることを知っていると安心するので、なるべく日常的ルーティーンを与えることなどが挙げられている。

デイケアやドロップイン・センターで他の子どもたちを見ていると、20%は多すぎる見積もりだろうけれど、こういう子どもたちは確かにいる。他の子どもに自分のやってることを邪魔されたら泣く子や、ダイパーに一度おしっこしたらもう換えてほしいと泣く赤ちゃんなど、もうすでに赤ちゃんのころからこうした特徴は見られる。でも、親として思うのだが、こうして研究者に教育の指針を与えられる必要があるのだろうか。子どもをじいっと観察しているうちに、親や教育者であればこういう子どもの特徴は把握できるだろうし、その観察や経験の結果からどういうふうに育てればいいか、専門家でなくてもそのあたりの察しはつくのではないか。

多くの時間を一緒に過ごしている親や教師であれば、子どもたちがどんな子であるか見極めるのは決して難しいことではない。その子どもの性格や特徴によってどういう教育方針をとるべきか、という点も(自分の仕事を効率的にしようと思えば)自ずと察しがつくのではないか。というか、このあたりの察しがつかない親は、子どもを客観的に見つめるという観察が足りないのだろうし、こういう場合、親や教師の仕事は、それはそれは大変なものだろう。

もうひとつ付け加えると、Orchid childはシュタイナーのFour Temperamentsの「憂鬱質」に似ている(シュタイナーは子どもの性格には4つのファクター、Four Temperamentsがあると考え、それぞれ、それらのうちで強いものと弱いものの組み合わせで性格が形成されると考えた。親や教育者はそれぞれのTemperamentsにあわせた対応をしていくことで、その子の能力をより引き出せるという。そのうちのひとつのTemperamentはMelancholic/メランコリックで、日本語では「憂鬱質」とされる)。さらにはローマ時代の医学で言われていたFour Temperamentsも同じことを言っている。これもまたLabelling(レッテルを貼る)のひとつと解せば、今後、子どもたちを対象とした研究が、子どもたちのすべてをLabellingしていく方向に向かうのかという気もする。

ちなみに、私たちの子どもエリックは赤ちゃんのころから何があってもあまり文句を言わない子だった。うんちがダイパーについていようが、環境が変わろうと文句もなく、飛行機でも簡単に眠る子だった。そうした特徴は、驚くべきことに生後1週間ほどNICUに入っていたエリックを見てくれていた看護婦さんたちにも分かったようで、「この子はハッピーな顔をしてよく眠っていることが多いし、とっても育てるのが楽な子になるはずよ」と言っていた。生後1週間で性格がわかるなんて、と疑心暗鬼だった私もエリックを育てるうちに看護婦さんたちの観察や経験に舌を巻いた。そして、同時に、私たち人間の性格の大半はすでに生まれたときに決まっているのだと信じるようになった。そうなると、「性格をかえよう」とすることの無意味性にも気付いた。自分の性格を受け入れ、その性格がうまく機能する環境を整えることの方がずっと大切で意味のあることなのだと確信した。

これは子どもの話だけれど、orchid childが大人になった私にいわせれば、自分の性格を知ることが何より大切。子ども時代は親や教師が環境を変えてくれたけれど、今では自分で環境を見極め、自分が最も快適と思われる環境をつくっていく必要がある。そのためには、「自らを知る」ことが何より必要で、ま、よく考えればそれはorchid childに限ったことではないんじゃないか。性格は変えられなくても、ものごとに対する態度や環境はある程度私たちのコントロール下に置くことはできる。それって、案外、成功の秘訣なのではないか。

ときどき、新聞に掲載される「学術的研究結果」には、驚くほど無意味なものがたまにある。そんなばかばかしいことにお金を使う余裕があるなら、もっと他のことに予算をまわせないものか、とつくづく思う。この研究結果も、実践の場にいる親や教師なら感覚的に分かって実践していることではないのかね?