Saturday, May 12, 2012

share the painという考え方

先日、エリックの行く保育園で保護者会があり、そのときにお母さんのひとりが「保育園で出される食事の安全性を確保すること」について話し合いの糸口を提示した。対応した保育士は、「それは放射能のことですか」と言って、「それは難しいですねえ。産地を特定することで、被災地の人たちが困っているという状況もありますし、被災地支援にはならないと思いますし」とコメントした(このコメントだけ読むとわかりにくいけれども、保育士の口調からはお母さんの不安を一蹴しているわけではないと私には感じられた。ただ、「子どもの安全」に対して「被災地支援」という言葉で応えた感覚に、私はむしろ驚いた)。


そのときのやりとりで考えさせられたのは、share the pain(痛みを分かち合う)という考え方。日本に来てから、日本人が震災と原発事故、その後の「被災地支援」や「復興」を語るときに、よく出てくるナラティブのひとつが、これであることに徐々に気付き始めていた。


私が見る限り、share the painという考え方は何も日本文化に独特のものではないが、ことさら日本人の心の琴線に響くような気がする。そして、私にはこの考え方を推進しようとする力がどこかで働いているようにも思う。つまり、この考え方を推進しようという人が、あるいは団体がどこかにいるように思う。「がんばろう日本」のなかにも、「がれき問題」にもこれは明らかに見える。


日本に来てみると、原発問題は「がれき受け入れ問題」に集中していて驚いた。そして、以前読んだ新聞の投書欄には「日本全国の市町村ががれきを受け入れるのは当然。日本人として痛みを分かち合うのは当然」という意見が多数出てきたが、これは「share the pain」の典型的なものだ。一方では、がれき受け入れに反対している人たちに対して「身勝手だ」とかいう意見が出てくる。放射能に汚染された震災がれきは被災地では焼却能力を上回っていることから、全国の都道府県が「復興」という横断幕のもと、瓦礫の受け入れに積極的になってほしいと、政府は都道府県に伝えている。


この状況を目の当たりにして、思い出すのは戦争があった時代のこと。そのときも「お国のため」に国民の自由が制限された。「戦地で苦しい思いをしながらお国のために戦っている兵士のことを思えば、これくらいのことは我慢できると思ってがんばった」と言った祖母の言葉のなかには、share the painの考え方にどっぷりと浸かっていたのだということが伺える。


share the painは確かに美しい考えであるし、コミュニティが強く結束して何かを成し遂げるための秘密であると思う。しかし、問題は、そうすることで問題の根本的原因をうやむやにしてしまう可能性があることだ。「がれきに反対するなんて、君は非国民か!」といった論だけに感情的に集中してしまうと、この汚染されたがれきがどういういきさつで出てきたのかが追いやられる。実際、日本に来て以来、私には放射能汚染に対する受け止め方に関する意見の違いの方がやたら取り沙汰されていて(意見の感情的二分化)、この汚染を引き起こした東電やこれまでの政府の原子力推進政策に対する批判がほとんど出てこない現実に唖然としている(これがカナダだったら絶対にありえない)。


もうひとつ言わせてもらえば、「share the pain」に子どもを含めた市民の健康や将来をねじりこむのはやめてもらいたい。議論がここまで行くならば、この国は市民の権利が剥奪された戦時中や独裁体制にあると言われるべきであろう。民主主義の柱のひとつは国が国民の権利を蹂躙しないことである。こうした暴論に民主主義を踏みにじらせてはならない、と強く思う。

Friday, May 11, 2012

子どもに甘い?日本の子育て

The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。
タイトル「(12年日本から離れていた私の)日本の子育ての印象」
http://thegroupofeight.com/?p=1456

日本に戻って暮らし初めて3ヶ月。自分の生まれた国なのに、いろんな場面でカルチャーショックを感じている今日この頃。子育てに関してもカナダ(広い意味で北米)と日本の違いに直面して、大きな戸惑いを感じているのだが、これは私だけでなく、夫もそうであるらしい。もちろん、日本と北米の子育てを白黒はっきりカテゴライズできるわけではないが、私たちの戸惑いの最も大きなものは「子どもに対するdiscipline」の違いといえる。


子どもが集まる場所に行くたびに、「日本では、親が子どもに対して甘い」という印象を私たちは受ける。よく言えば、子どもは子ども本来の姿でのびのび育っている、とも言える。けんかがあっても、おもちゃの取りあいがあっても、友達をたたいても、ひどい言葉を使っても、子どもなんだから当然、放っておきなさい、そのうち子ども同士で自然に解決されるという、言ってみれば非常におおらかな態度。


先日、こんなことがあった。市のこども向け福祉施設に行ったときのこと。施設内にある遊び場には、とても感じのいい、滑り台やいくつもの階段がいっしょになった大きなジムみたいなものがあって、たくさんの子どもたちが遊んでいた。私は、ぶらさがって渡る鉄棒みたいなもの(渡り棒?)で遊んでいるエリック(4歳の息子)を見ていたのだが、あるとき突然、上から小さめの卵型の木のボールがバラバラバラッと降ってきた。ちょっと前にも2,3個落ちてきたのを見ていたので、すぐに合点がいった。上を見上げると、バケツを持った男の子がそれを見て喜んでいる。「おもちゃを上に持ってあがらないで」という張り紙があるのに、バケツに木のボールを山盛り入れて上がり、それを上からばらまいているのだ。


私はとっさに大声で「それはダメ! 下の人に当たると危ないでしょ!」と叫んで、近くにいた施設のスタッフにも「あれは危険です!」と言った。言われたスタッフはそれを聞いて男の子に何か言いにいったのだが、その伝え方が優しく、危機感がまったく感じられないのに正直言って驚いた。それに、あんなにたくさんの親がいたなかで、それも私の周りには落ちてきた木のボールが子どもに当たった親もいたなかで、声をあげたのは私ひとりだったという事実にも唖然とした。それより、そのおもちゃをばらまいた子どもの親は一体どこにいたんだろう?


そのあと、エリックが同じ木製のボールをそれが転がって最後にケースのなかに入る、というすべり台に転がしていたとき、小さな子どもがその木のおもちゃがたくさん落ちてくるケースのなかに入ってきた。お父さんは何も言わなかったが、エリックは右から、左からも他の男の子が木のおもちゃを転がしているのだから、その子に当たってしまう可能性は大きい。私が「そこにいると、ボールが当たって痛いわよ」と男の子に言ったら、お父さんは「大丈夫です・・・」と応えて、男の子を動かそうとする気配もない。まあ、木のおもちゃだから当たって死ぬようなことはないけれど・・・。でも、そこはボールが落ちてくるところで子どもが入るための場所ではないし(遊戯道具の使い方が間違っている)、ボールといえども木製なんだから何か間違いがあって頭にでも当たったらどうするんだろう(安全性)。仕方ないので、エリックに転がすときには気を付けるように言ったが、なんだかヘンだなあと感じた。


カナダで子どもを産んで、子育てをしてきた私は、親が子どもがしていることを常に見ていること、それが他の子どもに危害を加えたり、周囲の安全性を損なうような場合は必ず言ってきかせる(「やめなさい!」だけでなく、理由も伝える)、子どもが小さいころから責任をとらせる、ということが当然だと思っている。こうしたことは、誰に教えられたのでもないし、子育て関係の本に書かれていることでもない。ドロップイン・センターやプレイグラウンドなど、子どもがいる環境などで他の親やスタッフを見ながら私が習得したこと、そして、これが広い意味での「文化」なんだと思う。


「Respect my body」というのはエリックが行っていたデイケアの保育士ドナがよく言っていた言葉。子どもたちがドナの足に絡みついたり、お友達を叩いたり、蹴ったりしたとき、ドナはそう言って「他人」と「自分」の境界線を繰り返し子どもたちに知らせ、「他人」の領域にあるものには決して踏み込めないのだと教えていた。私たちは当然と思っていたこのルールが、今になって「北米的」であることに初めて気が付いた次第である。


一方、日本では、子どもたちには大きな自由が与えられている。よほどのことがない限りは、あまり細かいことは言わない。「子どもだから」と大目に見られて、特別の扱いをされて、「言いたいことを言って、したいことをしている」、そして、それが許されている、という感じを受ける。


私の母は、朝起きたら顔を洗う、おふろに毎日入る、食事のあとは濡れタオルで顔をふく、ということを徹底していない私の子育てを見て、「しつけができていない」とコメントした。確かに、私はそのあたりはあまり子どもに厳しく言ってこなかった。しかし、一方では子どもが集団において、あるいは他人に対して「してよいこととわるいこと」「言っていいことと悪いこと」があることはきちんと教えてきたし、それこそが子どもを社会に送り出す私たち親の大きな役目のひとつであると認識してきた。それが「しつけ(discipline)」の定義であると思ってきた。子どもがひとりの人間として社会(学校)に出ることができるように、社会のルールを繰り返し教えることが親の役目だと思ってきた。そして、それは0歳から始まっていた。


日本で暮らして数ヶ月経った今、私の受けた印象は、そうしたdisciplineが始まるのが遅い、ということである。こうして子どもたちが「言いたいことをいい、やりたいことをやっている」状況は、学校に入るとがらりと変わる。学校教育のなかに一歩足を踏み入れれば、今度、彼らを待っているのは極度に自由が限定される世界である。制服や学校での細部にわたる規則、そしてそれが破られたときに与えられる罰則。でも、そのときには子どもたちの生活の大半は「学校」という集団のなかにあるわけで、そういう環境では親以上に教師や集団の影響力が大きくなるのは当然である。だから、教師は恐らく子どもたちの「しつけ」という、(私にとっては当然、親の役目である)大きな仕事を担わされることになる。


個人的には小学校でしつけがされるような状況は、もう時期的に遅い、という気がする。子どもたちの気持ちは親ではなく、集団のほうに移っていく時期だし、自己意識という点でも体力的にもすごい勢いで成長している。その時期にdisciplineが始まるというのは、私にはちょっと信じがたい。


12年をカナダで暮らして帰ってきた私は、別の印象として、小学校高学年、中学校、高校でギュッと内に入ってしまう(外部を閉ざしてしまう)子どもが多いようにも感じている。また、日本人は他人を「見る」ことがなくなっている、というふうにも感じる。電車に乗ると乗客の7割がスマートフォンを一生懸命操作していて、顔を上げない。高校生のコミュニケーション能力も明らかに劣っている。相手の目を見て話ができない、自分の言いたいことを効率的に伝えられない。「子どもに対するしつけ」とこれらの社会問題との関連性を漠然と思うけれど、サンプルをとって調べたわけではないので何ともいえない。しかし、こうした「部外者の印象」はどこか問題の核心をとらえている、という気もする。


結局のところ、文化という潮流は目に見えないだけに対抗するに手ごわいものだ(放射能も同じだと思う)。ふたつの国で子育てをして感じる違いに戸惑いながら、夫と私は日々、私たちの子育てはどうすべきなのか、の話し合いを繰り返している。

Friday, May 4, 2012

電車のなかでマンガを読む人

毎日、電車に乗って通勤しているのだが、昨日、スーツを着たサラリーマン風情の男性が向かいに座り、すぐさまマンガ本を読み始めたのを見て、「おお、10年前に比べると電車のなかでマンガを読んでいる人の数が圧倒的に少なくなったわね」と感じた。以前は、こうした「大の大人」がマンガを読んでいる風景は何も珍しいことではなかったのだが、今回、日本に来てみるとあまり見ない(路線によって違うのだろうか?)

しかし、同時に文庫本や単行本を読んでいる人が少なくなってもいる、というのも観察済み。


では、大部分は何をしているか。スマートフォン(日本ではスマホと呼ばれる)に見入っているのだ。たくさんの人が静かにそれぞれのスマートフォンに見入っている光景、私はあれに最初はちょっと驚いたが、今はかなり慣れた。とにかく電車のなかで携帯電話をする人がいないのはいいことだと思う(日本に帰国してすぐのころ、夫も私も電車のなかで携帯を使っていたのだが、すぐに係員が飛んできて注意された)。

公共の場で他人に迷惑になることをしない、という原則に則っているので、これが「公共マナー」として根付く日本の文化というのは案外とすんなり理解できるのだけれど、一方では週末の早朝に聞こえる古紙回収車の大きな音楽とAnnoyingな放送が許されている事実にはどうも首をかしげてしまうなあ・・・。