Showing posts with label Democracy(民主主義). Show all posts
Showing posts with label Democracy(民主主義). Show all posts

Saturday, February 2, 2013

失望していた私を精神的に救ってくれた本『人権の政治思想』 鷲見誠一著

夫にも言ったのだが、昨年の秋くらいから、そして12月の総選挙以降、軽いディプレッションになっていたように思う。ディプレッション、というより「失望感」にかな・・・。


ちょうど1年前の今日、私たち家族は日本にやってきた。

日本で生まれ育ったとはいえ、12年間をカナダで過ごして帰ってきた私にとって日本への再帰文化適応は大変だった(し、今も大変)。年末にふと気付いたのだが、きっとこれも私のマイルドな日本に対する「失望感」が原因だったと思う。



その「失望感」を晴らしてくれたのが、表題の本だった。この本は「人権」という概念が西洋でどのようにして生まれ、どのように発展してきたのか(そして、それは当然、民主主義という政治体制の発展と大いに関係がある)、それを日本ではどう受け入れてきたのか、という政治思想史を扱った本であるのだが、私にとっては「そうなんだ、今の日本に失望する必要はないんだ」と気付かせてくれた大切な本でもある。



どうして日本の民主主義は薄っぺらいんだろう。どうして太平洋戦争中の日本兵のPoWに対する扱いはひどかったんだろう。どうして憲法の精神を蹂躙するようなことを政治家が平気でやれるのだろう。今までこうした疑問にぶちあたるたびに、それが「人権」と「民主主義」、「権力」という政治学では重要な概念と関連があるとは気付いてはいたが、こうした疑問は西洋の政治思想史を勉強すると理解しやすいのだ、ということに今更ながらに気付いた。というか、私もカナダに暮らしてカナダ政治を日々観察しているなかで感じていた漠としていた考えや、日本政治に対する考えなどがやっと理論的に結びついて、点が線になったという感じを覚えた。



日本の政治に「人権」や「尊厳」、「権力の正当性」という概念が根付くまでにはこれから長い年月がかかるのだろう。その一方で「価値の多様化」や「グローバライゼーション」はどんどん進んでいき、その流れのなかで日本政治の歴史は当然ながら日本独自の展開をしていくことになる。その展開に大きな鍵をにぎるのはとりもなおさず市民である、と私も強く感じるが、ひとつ大きな問題だと思うのは、日本の知識層、ジャーナリストたちのクオリティである。



はっきり言って、私たち一般市民は日々、仕事として歴史研究や政治分析をしているわけではないので、厳密な意味ではこうした分野のことは「まったくの主観的意見」としてしか語り得ない。たとえば、領土問題に対して怒っているその辺のおじちゃんに歴史的経緯に裏付けられた説明を問いただしてみても、そんなことはたいてい答えられない。いったい、こうしたおじちゃんやおばちゃんの意見がどこから来ているかというと、新聞やテレビ、雑誌に書かれたことや、そこで言われたことをそれぞれがそれぞれの感情やこれまでの経験に基づいて判断した意見なのである。ということは、専門書籍からバラエティ番組まで、さまざまなメディアで流される情報のクオリティが非常に大切だということだ。



反論もあるかもしれないが、私には日本のメディアに比べればカナダの大手メディアは少なくともある問題に対する両極端の意見をもつ専門家の書いたものを載せようとしているように見受けられる。こうした多様な意見を市民は吟味したうえで自らの感情や経験に照らし合わせて、最も自分で納得がいく、という意見を選び取る。このプロセスにおける知識人、ジャーナリストの役割が日本に比べてはるかに大きいと思う。日本で市民が自らの権利を行使し、自らの義務を果たし、本当の意味での「市民」として成長するには、知識人やジャーナリストたちにもっとしっかり働いてもらわなければならない。



こういう本が著者が言うように「通勤電車のなかで読まれる」ような状況になればいいのに、と心より思う。

Saturday, May 12, 2012

share the painという考え方

先日、エリックの行く保育園で保護者会があり、そのときにお母さんのひとりが「保育園で出される食事の安全性を確保すること」について話し合いの糸口を提示した。対応した保育士は、「それは放射能のことですか」と言って、「それは難しいですねえ。産地を特定することで、被災地の人たちが困っているという状況もありますし、被災地支援にはならないと思いますし」とコメントした(このコメントだけ読むとわかりにくいけれども、保育士の口調からはお母さんの不安を一蹴しているわけではないと私には感じられた。ただ、「子どもの安全」に対して「被災地支援」という言葉で応えた感覚に、私はむしろ驚いた)。


そのときのやりとりで考えさせられたのは、share the pain(痛みを分かち合う)という考え方。日本に来てから、日本人が震災と原発事故、その後の「被災地支援」や「復興」を語るときに、よく出てくるナラティブのひとつが、これであることに徐々に気付き始めていた。


私が見る限り、share the painという考え方は何も日本文化に独特のものではないが、ことさら日本人の心の琴線に響くような気がする。そして、私にはこの考え方を推進しようとする力がどこかで働いているようにも思う。つまり、この考え方を推進しようという人が、あるいは団体がどこかにいるように思う。「がんばろう日本」のなかにも、「がれき問題」にもこれは明らかに見える。


日本に来てみると、原発問題は「がれき受け入れ問題」に集中していて驚いた。そして、以前読んだ新聞の投書欄には「日本全国の市町村ががれきを受け入れるのは当然。日本人として痛みを分かち合うのは当然」という意見が多数出てきたが、これは「share the pain」の典型的なものだ。一方では、がれき受け入れに反対している人たちに対して「身勝手だ」とかいう意見が出てくる。放射能に汚染された震災がれきは被災地では焼却能力を上回っていることから、全国の都道府県が「復興」という横断幕のもと、瓦礫の受け入れに積極的になってほしいと、政府は都道府県に伝えている。


この状況を目の当たりにして、思い出すのは戦争があった時代のこと。そのときも「お国のため」に国民の自由が制限された。「戦地で苦しい思いをしながらお国のために戦っている兵士のことを思えば、これくらいのことは我慢できると思ってがんばった」と言った祖母の言葉のなかには、share the painの考え方にどっぷりと浸かっていたのだということが伺える。


share the painは確かに美しい考えであるし、コミュニティが強く結束して何かを成し遂げるための秘密であると思う。しかし、問題は、そうすることで問題の根本的原因をうやむやにしてしまう可能性があることだ。「がれきに反対するなんて、君は非国民か!」といった論だけに感情的に集中してしまうと、この汚染されたがれきがどういういきさつで出てきたのかが追いやられる。実際、日本に来て以来、私には放射能汚染に対する受け止め方に関する意見の違いの方がやたら取り沙汰されていて(意見の感情的二分化)、この汚染を引き起こした東電やこれまでの政府の原子力推進政策に対する批判がほとんど出てこない現実に唖然としている(これがカナダだったら絶対にありえない)。


もうひとつ言わせてもらえば、「share the pain」に子どもを含めた市民の健康や将来をねじりこむのはやめてもらいたい。議論がここまで行くならば、この国は市民の権利が剥奪された戦時中や独裁体制にあると言われるべきであろう。民主主義の柱のひとつは国が国民の権利を蹂躙しないことである。こうした暴論に民主主義を踏みにじらせてはならない、と強く思う。

Monday, January 23, 2012

日本の大手メディアは民主主義の大敵

The Economistの記事。
http://www.economist.com/blogs/banyan/2012/01/japans-nuclear-crisis

この記事を読むと、どれだけ日本の大手メディアが日本の民主主義を腐らせているかが明らかである。政府と記者クラブ(メディア)の癒着、メディアの自己センサーシップ・・・、日本人なら薄々知っているこうした情報を、日本のジャーナリズムではなく、西欧のジャーナリズムが指摘するという事実が何とも情けない。

Monday, October 17, 2011

言論の自由 対 マイノリティの保護: ヘイト・スピーチの行方

現在、カナダ最高裁判所では、ここ数十年のうちで最も重要とされる裁判が審議されている。この裁判は、最も重要であると同時に、最も複雑な裁判であり、出された判決は今後のカナダ社会における言論の自由に多大な影響を与えると見られる。

裁判の発端は、サスカッチュワン州のウィリアム・ワットコットが配布していたパンフレット。パンフレットは、同性愛を教えることを義務づけた同州の教育方針を批判し、同性愛者の生活のスタイルをSodomite(肛門性交をする人、男色者の意味)と呼ぶなど、同性愛や同性愛者に対する批判が盛られていた。この後、パンフレットを読んだ一部の市民からSHRC(サスカッチュワン州人権評議会)へ苦情が寄せられ、その結果、2005年、裁判所はワットコット氏に「Hate crime/ヘイトクライム(憎悪をあおる表現をした罪)」の罪で有罪とし、17,500ドルの罰金を課した。ワットコット氏はこれを「自らのFreedom of Speech/表現の自由が侵害されている」として控訴、最終判断は最高裁判所に委ねられることになった。

カナダには、日本には存在しないHate speech lawという法律がある。この法律は、マイノリティの権利を守ることを目的とした法律で、ヘイトクライムは、聞いた人たちが不快に思ったり、それにより社会全体にステレオタイプを広げるような表現を広めたことに対する罪となっている。

一方、北米社会で最も尊重されてきた法律のひとつがFreedom Of speech(表現の自由)。自分の考えや思想を誰もが自由に表現する権利を認めている。

連邦政府と同じように、サスカッチュワン州の人権に関する法律には、表現の自由は、それが憎悪を煽ることを目的としている場合には表現の自由は限られる、とされている(ちなみに、州にかなりの権力と権利を認めているカナダでは各州にそれぞれ人権に関する法律が存在する)。

一言で言えば、今回の裁判の争点は、表現の自由とヘイト・スピーチの対立ということになり、表現の自由はヘイトスピーチによって縮小されるべきではないと主張する側と、表現の自由以上にマイノリティの権利を守ることの方が社会全般には利が大きいとする側との対立、ということになる。しかし、この裁判をより複雑にしているのは、「どこまでがヘイト・スピーチにあたるか」という判断であり、宗教的信念などを表現すれば誰かが気分を害するのが現実で、この線引きを任せられた法廷にとっては、非常に複雑な決定となる。

私が見る限り、これまでのカナダにおける判決をみるとどちらかというとヘイト・スピーチにより重点が置かれ、表現の自由が制限され続けてきた、という気がする。ただ、今回、新聞の報道を読む限り、この傾向が多少変化する可能性があるように思われる。

さきに、これまでカナダはどちらかというと表現の自由を制限する傾向にあった、と述べたが、それには最高裁判所判事のRosalie Abellaロザリー・アベラの法曹界における影響力を考える必要があると思う。ロザリー・アベラは第二次世界大戦後、ドイツのDPキャンプ(難民キャンプ)で生まれ、カナダ最高裁判所初のユダヤ系女性判事となった。彼女はマイノリティの権利を守ることに法的生命をかけてきた女性である。ヨーロッパでユダヤ系が被ってきたこれまでの差別的待遇、それにより600万人のユダヤ系が命を奪われてきた歴史、それを考えると、表現の自由とヘイト・スピーチを秤にかけたとき、表現の自由が制限されるのは理に適っている。

表現の自由とヘイトクライム今までにもたびたび法廷で対立しあってきた。ただし、そのたびに、「では、どこまでがヘイト・スピーチにあたるのか」という問いに対して、カナダ国民が納得するような結論を出してくることができなかった。

個人的には、宗教が絡むとこの問題はますます複雑になるという気がする。誰かが言ってたように「もし、アンチ・ゲイ的発言がすべてヘイト・スピーチなら、最初に罰せられるべきは聖書」というのもうなづけるし、ルーテル教会の信者ワットコット氏は心の底からゲイは罪であると信じているわけであるし、それと「共産主義者は世界を破壊している」という政治的信念の表現と何が違うのか、という意見もうなづける。

とはいっても、やはりヘイト・スピーチを切り崩すことには余りにも懸念が大きい。国で最大の法的権限を与えられた最高裁判所が、社会的に弱い立場にいるマイノリティの権利を守る姿勢を見せることは象徴的意味のあることだと思う。

Monday, May 2, 2011

殺人を犯す国家・殺人を喜ぶ国民

カナダでは総選挙投票日の今日、Star紙、Globe紙のヘッドラインはOsama Bin Laden Dead。ホワイトハウスの前ではビン・ラディンの死を祝福する国民の姿があり、イギリスやカナダの政治指導者たちも歓迎する声明を発表した。唯一、ロシアの大統領だけがアメリカの報復に疑問を呈した声明を出している。

Globe紙の別の記事は、NATOの爆撃でガダフィの6番目の息子が死亡したと伝えている。ガダフィは助かったとしているが、明らかに彼を標的にした空爆である。今後も空爆が続き、標的が的中すればガダフィの命もないだろう。

このふたつの記事を読んで、何とも気味が悪くなった。私はビン・ラディンやガダフィの息子に同情しているのではない。国家による個人の殺人がこんなにも簡単になされてしまう現実を前に驚愕の念を隠せないのだ。

どちらの記事も、最も容易な表現を使えば「国家が他国の個人を殺害した」ということであり、そう考えるとこの意味は非常に深長である。たとえビン・ラディンが大量殺人を首謀したとするならば、民主国家としてまずは司法のもとに犯罪を裁くのが当然の過程となるだろうが、このケースは最初から(9・11の前から)アメリカ政府により「テロリストによるアメリカへのテロリズム」であると繰り返し繰り返し戦略的に叩き込まれてきたため、こうしてひとりの人間が殺されたところで、私たちの誰も悲しみはしないし、それどころか祝福などしているのだ。アメリカ政府は、長い間、自分たちの戦争をJust War(正義の戦争)と位置づけており、自分たちの正しさを疑うことはなかった。自分たちが正しければ、それに反対する勢力はすべて「悪」となるのだ。その構図を叩き込まれた国民にとっては、「悪」の権化とされた一人の人間の死など何ほどでもないわけである。冷戦時代のアメリカは実は同じことをしていた。

一方で、今朝、CBCのラジオで9・11の当日、WTCで働いていたビジネスマンの父を失ったカナダ人女性が「Bin Ladenの死をどう受け止めるか」とのインタビューに答えて、「これ(ラディンの死)で気持ちが楽になったということはない。私にとっては、父が死んだことで誰かを憎むようになることは、テロリストの思う壷だし、自らが苦しむことになる。だから、そういう捉え方はしない。今日のことがどういう意味を持つかと言われれば、今は分からない」と答えていた。

ビン・ラディンの死で世界が安全になったなどとはいえないし、むしろ今後、イスラム教原理主義者による更なる報復も考えられる。そして、アメリカの敵のリストは永久に続いていく。ビン・ラディンの殺害は、アメリカにとっては何にもまして「正義がなされた」という象徴的意味を世界に見せ付けることであったに違いない。

国家がこのように個人の殺害を主導する世界に、平和という言葉は何の意味もなさないような気分になる。ただし、自分の機軸をもとに考えれば、こうした状況を気味の悪い現実として声を挙げるべきだと思うし、民主主義社会に住む私たち国民ひとりひとりが国家によるプロパガンダを跳ね返すだけの批判能力を有する努力を常にすべきだと思う。