Monday, October 17, 2011

言論の自由 対 マイノリティの保護: ヘイト・スピーチの行方

現在、カナダ最高裁判所では、ここ数十年のうちで最も重要とされる裁判が審議されている。この裁判は、最も重要であると同時に、最も複雑な裁判であり、出された判決は今後のカナダ社会における言論の自由に多大な影響を与えると見られる。

裁判の発端は、サスカッチュワン州のウィリアム・ワットコットが配布していたパンフレット。パンフレットは、同性愛を教えることを義務づけた同州の教育方針を批判し、同性愛者の生活のスタイルをSodomite(肛門性交をする人、男色者の意味)と呼ぶなど、同性愛や同性愛者に対する批判が盛られていた。この後、パンフレットを読んだ一部の市民からSHRC(サスカッチュワン州人権評議会)へ苦情が寄せられ、その結果、2005年、裁判所はワットコット氏に「Hate crime/ヘイトクライム(憎悪をあおる表現をした罪)」の罪で有罪とし、17,500ドルの罰金を課した。ワットコット氏はこれを「自らのFreedom of Speech/表現の自由が侵害されている」として控訴、最終判断は最高裁判所に委ねられることになった。

カナダには、日本には存在しないHate speech lawという法律がある。この法律は、マイノリティの権利を守ることを目的とした法律で、ヘイトクライムは、聞いた人たちが不快に思ったり、それにより社会全体にステレオタイプを広げるような表現を広めたことに対する罪となっている。

一方、北米社会で最も尊重されてきた法律のひとつがFreedom Of speech(表現の自由)。自分の考えや思想を誰もが自由に表現する権利を認めている。

連邦政府と同じように、サスカッチュワン州の人権に関する法律には、表現の自由は、それが憎悪を煽ることを目的としている場合には表現の自由は限られる、とされている(ちなみに、州にかなりの権力と権利を認めているカナダでは各州にそれぞれ人権に関する法律が存在する)。

一言で言えば、今回の裁判の争点は、表現の自由とヘイト・スピーチの対立ということになり、表現の自由はヘイトスピーチによって縮小されるべきではないと主張する側と、表現の自由以上にマイノリティの権利を守ることの方が社会全般には利が大きいとする側との対立、ということになる。しかし、この裁判をより複雑にしているのは、「どこまでがヘイト・スピーチにあたるか」という判断であり、宗教的信念などを表現すれば誰かが気分を害するのが現実で、この線引きを任せられた法廷にとっては、非常に複雑な決定となる。

私が見る限り、これまでのカナダにおける判決をみるとどちらかというとヘイト・スピーチにより重点が置かれ、表現の自由が制限され続けてきた、という気がする。ただ、今回、新聞の報道を読む限り、この傾向が多少変化する可能性があるように思われる。

さきに、これまでカナダはどちらかというと表現の自由を制限する傾向にあった、と述べたが、それには最高裁判所判事のRosalie Abellaロザリー・アベラの法曹界における影響力を考える必要があると思う。ロザリー・アベラは第二次世界大戦後、ドイツのDPキャンプ(難民キャンプ)で生まれ、カナダ最高裁判所初のユダヤ系女性判事となった。彼女はマイノリティの権利を守ることに法的生命をかけてきた女性である。ヨーロッパでユダヤ系が被ってきたこれまでの差別的待遇、それにより600万人のユダヤ系が命を奪われてきた歴史、それを考えると、表現の自由とヘイト・スピーチを秤にかけたとき、表現の自由が制限されるのは理に適っている。

表現の自由とヘイトクライム今までにもたびたび法廷で対立しあってきた。ただし、そのたびに、「では、どこまでがヘイト・スピーチにあたるのか」という問いに対して、カナダ国民が納得するような結論を出してくることができなかった。

個人的には、宗教が絡むとこの問題はますます複雑になるという気がする。誰かが言ってたように「もし、アンチ・ゲイ的発言がすべてヘイト・スピーチなら、最初に罰せられるべきは聖書」というのもうなづけるし、ルーテル教会の信者ワットコット氏は心の底からゲイは罪であると信じているわけであるし、それと「共産主義者は世界を破壊している」という政治的信念の表現と何が違うのか、という意見もうなづける。

とはいっても、やはりヘイト・スピーチを切り崩すことには余りにも懸念が大きい。国で最大の法的権限を与えられた最高裁判所が、社会的に弱い立場にいるマイノリティの権利を守る姿勢を見せることは象徴的意味のあることだと思う。

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