Tuesday, August 21, 2012

日本の教育では育てない(とても重要な)スキル-世界的に活躍しようと思っている若い日本人へのメッセージ

カナダ(北米といってもいいと思う)の教育にあって、日本の教育で育てられないスキルがあるとすると、それらはcritical thinking-クリティカル・シンキング, problem solving-問題解決能力, team working-ティーム・ワーキング、だと私は思う。この3つのスキルを、北米では子どもたちは学校教育の終わりとともに習得できるしくみになっているが、日本ではそうはなっていない。

私が見る限り、カナダでは小さいころからこうしたスキルを身につけられるよう意図的に教育がなされており、教師が評価するのは知識というより、そうしたスキルである。このあたりが日本とカナダの教育に対する考え方の根本的な違いである。

まず、critical thinkingとは、知識や情報をうのみにするのではなく、それを自ら吟味できる能力のことである。与えられた知識や情報、方法論を吟味するためには、情報収集のスキル、分析するスキル、総合的に判断するスキル、相手を納得させるように説明できるスキル、などが必要になってくる。



真実とされていることを「疑う」ことは、科学的思考にはなくてはならないと言われる。そして、それが常識を覆すような発見につながることはよく知られている。これは経済の分野でいえば、イノベーションのカギであって、Apple社の創立者Steve Jobsの話を読むと彼がいかに熟練したcritical thinkerであったかがうかがえる。彼のような才能は、暗記のちからだけが問われる教育のなかではつぶされるだけだろう。


problem solvingとは、問題にあたったときに自力でそれを解決しようとする問題解決能力のことである。まずは、問題を把握しなくてはならない。これもcritical thinkingと同じように、何が問題になっているのかを理解し、問題の本質を知ることから、どういう方法を適用して解決に結びつけるか、という実践力、判断力に至るまでのはばひろい能力が問われる。


このスキルは、単に学校で必要になるスキルであるとは限らない。将来、子どもたちが実社会に出れば、さまざまな問題に直面しないはずはなく、そのときに問題を投げ出さず、他人任せにせず、自分で解決する能力を養っておくことは人生を乗り切るために非常に重要だと思われる。


team workingは、以上のふたつのスキルを学ぶ途上で同時に身につけられるスキルである。カナダの学校では、グループで完成させるプロジェクト・ベースの課題が頻繁に与えられている(大学でさえ)。グループのなかには、アイデアが自由に出せる生徒、計画的に実行する生徒、客観的にプロジェクト内容を把握し、問題を指摘できる生徒、などさまざまな資質を持った生徒がでてくる。グループ・ワークではまずそれぞれのメンバーの資質を把握し、それを活かせるような仕事の進め方をしていくのが効率的であることを生徒は自然と学ぶことができる。


また、カナダ社会では就職の際にこのteam workingのスキルがあるかどうかが問われることが多い。たしかに、職場という場所は、team workingなくしては成り立たないわけで、そうなると、将来、子どもたちがどのような進路に進むにしても必要になってくるのが、このスキルなのである。また、私が感じたのは、北米では、知識人も学者も知識があるだけでは認められない、ということ。そうした知識や情報を他者に伝えることができるコミュニケーション能力までを求められる。


こう見てくると、これらのスキルは学校にいるときだけ必要になるわけではなく、子どもたちに一生涯を通じてより上手に生きる力を与えるための、実践的なスキルだということがわかる。


カナダと日本で暮らし、これらのスキルが小さいころからの訓練によってのみ身に付くということに気付いた。長らく、日本人の発想や応用力の乏しさが指摘されてはきたものの、教育にこうしたスキルを身につけるための訓練がなされてきていないのは、意図的としか思われない。実際、日本ではこうしたスキルを身につけると、反対に「協調性のない人、面倒な人だ」と言われかねない。


なので、以上のことは、将来は世界的に活躍しようと思っている優れた能力のある若い人、あるいは日本の外で働きたい、暮らしたいと思っている人に向け、とくに伝えておきたいメッセージである。北米では、幼稚園からこうした3つのスキルが学校教育のなかで繰り返し、繰り返し訓練される。一方、日本では義務教育を終えても、(大学教育を終えても)こうしたスキルは身に付かない。この点をしかと認識し、世界に出ていく前に、まずはこれらのスキルをいかに自分のものにするか、を考えておくことがカギになってくる。

Saturday, August 4, 2012

社会参加と実存

失ったものを嘆いて今、目の前にあるものの良さを忘れてしまうのは、これまで私が人生のなかで繰り返してきたこと。そしてその度に、愁嘆を追い払おうと努力してきた。

「可能的現実」という言葉はありえないだろうが、「ああしておけば、こうなっていただろう」あるいは「ああしていなかったら、こうはなっていなかっただろう」という想像にばかり足を入れていると、本当によくないことは経験済み。


カナダのことを思うと本当に辛くなることがある。まだホームシックを感じている。


そう言うと、Your home is here, in Japan!と言われるのだが、日本で生まれ育ち、人生の大半を日本で過ごしてきたという事実はあるものの、やっぱり私にとってはカナダの方が快適な部分もかなりある。


私が何よりも「カナダをHomeとして選んだ」理由のひとつは、イデオロギー的にあっているということがある。私の政治思想や物事の考え方そのものは、カナダ社会のマジョリティとかなり一致する部分が多い。だから、カナダにいると政治的・社会的に「腹が立つ」ことが少ない。日本にいると私は苛立ってばかりなので、(あんな馬鹿馬鹿しい番組ばかりやってる)テレビは最初から持っていないが、日本の新聞も読まないことにした。


私にとっては社会正義や人権の尊重は何より大切なものだから、そういう意味で日本社会は疑問に思わざるを得ない点が多くて、正直言って日本人として辛い。


その一方で、やはり日本も快適だと思う。何より言葉が簡単に通じる。カナダではとくにカスタマー・サービスや政府関係に電話したりするのが何とも億劫だったが、それがまったくない(もとからの電話ギライというのはあるにしても)。


それに、日本ではカスタマー・サービスをはじめとするサービス関係の分野で働いている人たちの対応がとにかくすばらしく「プロフェッショナル」だ。夫とも話すのだが、カナダだったら、たとえばIt’s not my businessという言葉やYou have to go to …という言葉で、ひとつの情報を求めようとすると、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはいけないのだが、日本ではその煩雑さ、手間がない。それで思い出すのは、トロントでTTCのストリートカーの運転手が、路線を走っている最中だというのに、途中でストリートカーをとめて、コーヒーを買いに行き、悠々と帰ってきたこと。私はそれを見て唖然としたものだが、他の乗客は別に何事もなかったようにしているし(今から考えると、これは都会の人の被っている仮面なのかもしれない)、同じような経験があるという知人も何人かいた。日本では、たぶん、ひとりひとりがその仕事に関してプロフェッショナルなんだと思うが、この違いは一体何なんだ、と思ってしまう。

話は戻るが、「可能的現実」に関していえば、カナダにずっと暮らしていれば快適なこともあったが、不便なこともあっただろう。日本でもそれは同じだということにも気付く。完璧な社会というのはありえないのだから、世界中のどこにいても不便はある。

ただ、社会にコミットせずにその社会に生きる、というのは私には非常に辛い。最近、サルトルのいうアンガジュマンのことをやたらと考えている。