Sunday, May 29, 2011

'Butcher of Bosnia' ラトコ・ムラディッチ逮捕される

Butcher of Bosniaと呼ばれるラトコ・ムラディッチがボスニア=ヘルツェゴビナ紛争から16年経った2011年5月26日、ついにセルビア当局によって逮捕され、ICC(International Criminal Court)へ送られることになった。ムラディッチはボスニア=ヘルツェゴビナ紛争でボスニア=セルビア軍の指導者として、少なくとも7500人のボスニア系イスラム教徒の虐殺および女性に対するレイプを主導したとされる。

第二次世界大戦後、ヨーロッパを襲った最悪の虐殺はボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の際に起きた。とりわけスレブレニツァはイスラム系およびクロアチア系に対するエスニック・クレンジングの場所となった。

16年経ったムラディッチが今まで逮捕もされず、法のもとに裁かれることがなかった背景には、世界では戦争犯罪の責任を課せられ、人間性に対する罪を問われていたムラディッチが、旧ユーゴスラビアのセルビア系からはヒーローのようにあがめられていたことが背景にある。実際、ムラディッチの居場所や行動はセルビア当局にはちゃんと把握できていた。ムラディッチを目撃したという声も頻繁に聞かれ、ムラディッチがまったく普通の市民として生活していたことも知られていた。ただし、セルビア系のあいだにはムラディッチに対する支持は強く、たとえば、先月の調査によると51%のセルビア系市民がムラディッチのハーグ送還を支持しないと答えていた。

こうした背景もあり、セルビア当局は時期を選ぶかのように、こうして長い間、ムラディッチを自由に泳がせていたが、ヨーロッパ連合(EU)への加盟はセルビアの長年の念願であり、その条件としてムラディッチのハーグ送還は不可欠だった。

ムラディッチに直接会ったというジャーナリストの記事を読んだ限り、横暴で傲慢なプロフィールが描かれているが、昨日逮捕されたムラディッチの姿にはそうした様子はまったくなく、痛みに苦しむ弱々しい老人という変わり様だった。

数ヶ月前はチリでアレンデが逮捕されたという記事を読んだ。こうして時間はかかっても正義がなされることは大切だと思う。

アーナ・パリスの「歴史の影」を翻訳したとき、彼女の言っている「不処罰は人々の心を荒ませる」というのに強く共感したものだ。自分が暮らす社会で不処罰が堂々とまかり通っているのを見れば、人々はルールを守らないことを何とも思わなくなってしまうし、将来に対する希望が持てない。そして、人々の心は荒み、国家は内部で崩壊してしまう。正義がなされる社会でのみ、人々は明るい展望を持てるのであり、社会正義は健全な国家にとっては基盤のようなものだと思う。ムラディッチの逮捕およびハーグ送還により、セルビアは確かに過去に終止符を打つための一歩を踏み出したのであり、今後は和解に向けたプロセスを始めるきっかけになるであろう。

Saturday, May 28, 2011

OECDによるBetter Life Indexを見比べる

パリでサミットが行われている期間中、パリを拠点とし、各国の財政予測や経済政策のアドバイザーとして知られるOECDは、居住環境、保健、統治、仕事と生活のバランス、環境や満足度などの指標をもとに加盟34カ国Better Life Indexを発表した。これまで、GNPをはじめとする経済指標で先進国を測ってきたOECDもここにきて、経済以外の指標を使って各国の状況を把握しようとしているようだ。

以下は私がOECDデータをもとにまとめたカナダと日本の比較表。Referenceは
http://www.oecd.org/document/63/0,3746,en_2649_201185_47912639_1_1_1_1,00.html

              OECD平均     カナダ      日本
年間収入         22284 USD    27015 USD   23210 USD
雇用率          65%         72%       70%
年間就労時間      1739時間      1699時間   1714時間
就労している母親    66%         71%      66%
24~64歳:高校卒業率 73          87       87%
読解力(PISAプログラム) 493        524      520
平均寿命         79歳         80.7歳     82.7歳(最高)
大気汚染         22マイクログラム 15       27
セイフティ・ネット     91%        95%      90%
投票率           72%        60%      67%
「人生は上々だ」(満足度) 59%      78%      40%

私の知っている日本とカナダのデータを比べてみると、私の実感とはかなりずれている部分があるように思う。たとえば、年間就労時間をみると、日本はOECDのうちでも平均以下となっているが、私の実感では残業などを考えると、とても平均以下であるとは思われない。さらに、「就労している母親」指標で、日本はOECD平均の66%、カナダは71%だが、私の実感では、同じように「就労している母親」のカテゴリーに含まれればそうなのだが、カナダではフルタイムで働く母親が多いものの、日本ではパートタイムが圧倒的に多いように思う。

しかし、最後の「人生に対する満足度」の日本の低さはちょっと悲しい。経済的なことをいえば、日本は明らかに平均を上回っているのに比べ、この数字は何だが非常に意味深だと思う。バングラデッシュ出身の友人が私に、「世界で最も不幸せだと思っている国民は日本人」と言っていたのを思い出す。彼は、自分の国は経済的には非常に問題があるけれど、人々はそれぞれの人生を幸福だと感じていると言っていた。私はこういう十羽一絡げ的なコメントは避けたいが、40%というのはちょっと信じ難い。

私の思う「日本に足りないもの」を書き出してみる。
• 政治や社会に対する信頼感
• 人々が将来に希望をもつための公正で開かれた社会
• Diversity/多様性 (社会的多様性というのだろうか。人口だけでなく、意見の多様性や、選択の多様性など。そのためには社会がオープンでなくてはならない)
• 個人と社会をつなぐネットワークの確率

カナダと日本に暮らした私の実感では、以上のようなものが日本にあれば、日本はもっとすばらしい国になると思うし、そうなってほしいと願っている。

Saturday, May 14, 2011

世界の都市へと広がるSlut Walk

2011年1月24日、ヨーク大学法学部の女子学生に向け、女性の安全性に関する講演が行われた。そのなかで、スピーカーのひとりであったトロント市警察の警察官が言ったとされる言葉"women should avoid dressing like sluts in order not to be victimized."(性的犯罪に巻き込まれないためには、slutのような服装はしないこと)をめぐっては大きな展開があった。

Slutというのは、売春婦とか尻軽女とかいう意味で、軽蔑の意味が含まれている。新聞やラジオでは「時代遅れもはなはだしい」として、被害者である女性を性犯罪の理由であるかのように仕立て上げる考え方を批判し、この警察官に対して「過去50年間、この警察官はどこで何をしていたのだ」と、いまだ社会の変化に気付いていない彼のような市民に厳しい批判の矛先を向けると同時に、警察をはじめ企業などに隠れて存在している女性に対する蔑視感にも言及した。私の知る限りでは、この件に関しては警察官の言葉を擁護するような意見はメディアではまったく見られなかったし、この問題を「一人の警察官の問題」としてではなく、広く社会全体に未だ隠されている問題として取り上げ、多くの市民の声を吸い上げることが可能になったのは、カナダのジャーナリストたちの力量の現れだと思う。

こうした反応を受けて、トロント市警察、当の警察官はただちにヨーク大学に対して謝罪の手紙を送ったが、女性に対する性的暴力、ターゲットにされる女性に性犯罪の責任を転嫁するこうした考え方に対して非常に強い関心と批判はおさまらず、4月上旬、トロント市内でSlut Walkというデモが組織され、slutを思わせる服装の女性たち、男性たちも参加して大規模のデモ行進が市内でなされた。蔑視の意味を持つ言葉を自らのものとして使うやり方は、その言葉に対する強烈な批判となりえることは、黒人が過去、証明している。

さらに興味深いのは、その後、このSlut Walkは5月7日のボストンをはじめ、世界60都市に飛び火したことだ。Face bookやTwitterなどのソーシャル・メディアを使って、女性の権利をうたう組織が、世界中で連携する動きを見せた。今後数週間のうちに(5月中)アムステルダム、ロンドン、シドニー、オースティンなどの都市でも同じ目的のSlut Walkが予定されている。日本ではどうなのだろうか?

Slut Walkをめぐる一連の動きに対して批判が出ているのは実は一部フェミニストからであるというのも面白い。批判のひとつは、こうしてSlutの格好で楽しそうに歩くのは性犯罪の被害に遭った女性たちに対して、レイプの持つ意味を軽く見せることになるというもの。また、一方では、好きな服装で歩く女性の権利は当然あるとしながらも、さらにはレイプの責任は完全に加害者側にあると認めながらも、わざと露出度の高い服装をしている女性に対して警戒感の低さと男性の欲望に沿うような役割を自ら果たしている点を指摘する批判もある。

この際、ついでに言うと、少なくとも北米社会がどんどんSexualizeされている傾向にある点も指摘されてしかるべきだと思う。昨日の新聞では、10歳以下の女の子の洋服が、ここ数年、よりセクシーになってきているという記事を読んだ。これも女性をセクシュアリティの対象として捉える動きを加速する一例だと思う。また、Lady GagaやAmy Winehouseなどのセレブリティも、一方では女性に対する一般概念を壊したクリエイティビティは評価されるべきだと思うが、同時にこうした資本主義システムに乗せられて、女性がそのアイデアを自ら買ってしまったことは大きな問題となっていると思う。そう書いてきて、今、私の頭のなかを占めているのは、ポルノの氾濫する異常ともいえる日本社会のことだが、そのことはまた項を改めて後日書きたいと思う。

Monday, May 2, 2011

カナダ総選挙(2011)とカナダ政治の傾向

http://www.theglobeandmail.com/news/politics/new-political-era-begins-as-tories-win-majority-ndp-seizes-opposition/article2006635/

まだ開票作業は続いているが、どうやらConservative(保守党)が3期目の政権をとり、さらにはMajority Governmentになる見通しが高くなっている。NDP (新民主党)は第2党に躍進、公式に野党第一党となった。惨敗を被っているのはLiberal(自由党)とBQ(Block Quebecoise)。

Conservativeはキャンペーン中に「過半数はないだろう」と自ら宣伝し、国民の票が保守的な経済政策を求める国民の票がNDPに流れるのを防いだように見える。なかなか小ざかしいやり方だ。

ハーバード大学の職を辞して自由党に加わり、党首として今回の選挙に臨んだマイケル・イグナティエフは、自らの議席すら確保できるかどうかわからない接戦を強いられている。イグナティエフの退陣は確実だろう。自由党ナンバー2のボブ・レエは私の選挙区(ローズデール)でまあ楽勝しているが、きっと彼が自由党を率いていくことになるに違いない。

ケベック州の独立をうたうBQ(ブロック・ケベコワ)の党首ジル・デュセッペも自らの議席をNDP候補に譲り、彼の今後も退陣しかないだろう。

ジャック・レイトン率いるNDPの躍進には目を見張るものがあった。今のところ手に入る情報をもとにすれば、NDPはケベックで票を伸ばし、これまでBQに流れていた票を確保したように見える。NDPは興味深いことに、ケベックの(カナダからの独立)を前向きに受け止める声明を発表したこと、また、ケベコワ(ケベック人)の歴史的に保守系政策に対する嫌悪感をから、「何としても保守党だけは避けたい」という意思表示と見える。

そうなると、今後、注目したいのは、自由党Liberalと国民民主党NDPとの連立政権の可能性だ。次期党首となるだろうボブ・レエはもともと国民民主党のオンタリオ州議会議員で、NDPが州政権をとったときには党首として、オンタリオ政府の州知事として画期的な政策を敷き、いくつかは成功したが、社会福祉にお金をつぎ込んで州政府を多大なDeficitの状態に追い込んだ。そのことから、オンタリオ州ではFiscally conservativeな市民の間では不人気だが、彼とNDPの間で連立の動きを探ることは可能だろう。

ヨーロッパでもそうだが、カナダでは人々がFiscal conservatismになっている傾向があるように見受けられる。これは私がカナダに来た12年前と比べて、カナダ人の政治意識における最も大きな変化だと思う。Fiscal Conservatismの日本語が何なのか思い出せないが、これは、小さな政府(国営企業の私有化)、税金は抑える、社会福祉には消極的、ビジネスに甘い・・・などの特徴を有し、そのため、資本主義の恩恵を被っている人、とりわけビジネス分野の人たちから支援される傾向にある。この傾向が進むにつれ、教育や社会福祉、移民向けサービスなどに力を入れてきた自由党Liberalは票を失ってきた。

しかし、アメリカとの違いとして、財政政策では保守化しているカナダ人も、やはり社会的な保守化(Social conservatism)はしていない点は重要なポイントだと思う。たとえば、「中絶反対」とか「キリスト教」とか「犯罪は徹底的に処罰する」という政策は大多数のカナダ人には受け入れ難い。やはり社会的には自由主義なのだ(Social liberalism)。

話が広がってしまったが、しかし、しかし、本当にこれは大変なことになった。今後、過半数を確保した保守党政府は今まで以上に経費削減や社会福祉の予算をカットするだろう。夫の大学も影響を受けないわけがないし、とりわけ人文系は予算を削られるだろう(彼らはマネジメントやビジネス、サイエンスには喜んでお金を出すんだが・・・)。移民向けサービスなどの予算も今まで以上に削られるだろう。ここはひとつ、野党第一党となったNDP、好感度ナンバーワンのジャック・レイトンにがんばってもらいたい。

殺人を犯す国家・殺人を喜ぶ国民

カナダでは総選挙投票日の今日、Star紙、Globe紙のヘッドラインはOsama Bin Laden Dead。ホワイトハウスの前ではビン・ラディンの死を祝福する国民の姿があり、イギリスやカナダの政治指導者たちも歓迎する声明を発表した。唯一、ロシアの大統領だけがアメリカの報復に疑問を呈した声明を出している。

Globe紙の別の記事は、NATOの爆撃でガダフィの6番目の息子が死亡したと伝えている。ガダフィは助かったとしているが、明らかに彼を標的にした空爆である。今後も空爆が続き、標的が的中すればガダフィの命もないだろう。

このふたつの記事を読んで、何とも気味が悪くなった。私はビン・ラディンやガダフィの息子に同情しているのではない。国家による個人の殺人がこんなにも簡単になされてしまう現実を前に驚愕の念を隠せないのだ。

どちらの記事も、最も容易な表現を使えば「国家が他国の個人を殺害した」ということであり、そう考えるとこの意味は非常に深長である。たとえビン・ラディンが大量殺人を首謀したとするならば、民主国家としてまずは司法のもとに犯罪を裁くのが当然の過程となるだろうが、このケースは最初から(9・11の前から)アメリカ政府により「テロリストによるアメリカへのテロリズム」であると繰り返し繰り返し戦略的に叩き込まれてきたため、こうしてひとりの人間が殺されたところで、私たちの誰も悲しみはしないし、それどころか祝福などしているのだ。アメリカ政府は、長い間、自分たちの戦争をJust War(正義の戦争)と位置づけており、自分たちの正しさを疑うことはなかった。自分たちが正しければ、それに反対する勢力はすべて「悪」となるのだ。その構図を叩き込まれた国民にとっては、「悪」の権化とされた一人の人間の死など何ほどでもないわけである。冷戦時代のアメリカは実は同じことをしていた。

一方で、今朝、CBCのラジオで9・11の当日、WTCで働いていたビジネスマンの父を失ったカナダ人女性が「Bin Ladenの死をどう受け止めるか」とのインタビューに答えて、「これ(ラディンの死)で気持ちが楽になったということはない。私にとっては、父が死んだことで誰かを憎むようになることは、テロリストの思う壷だし、自らが苦しむことになる。だから、そういう捉え方はしない。今日のことがどういう意味を持つかと言われれば、今は分からない」と答えていた。

ビン・ラディンの死で世界が安全になったなどとはいえないし、むしろ今後、イスラム教原理主義者による更なる報復も考えられる。そして、アメリカの敵のリストは永久に続いていく。ビン・ラディンの殺害は、アメリカにとっては何にもまして「正義がなされた」という象徴的意味を世界に見せ付けることであったに違いない。

国家がこのように個人の殺害を主導する世界に、平和という言葉は何の意味もなさないような気分になる。ただし、自分の機軸をもとに考えれば、こうした状況を気味の悪い現実として声を挙げるべきだと思うし、民主主義社会に住む私たち国民ひとりひとりが国家によるプロパガンダを跳ね返すだけの批判能力を有する努力を常にすべきだと思う。