Monday, September 7, 2009

憲法が蹂躙され続けることこそ最大の問題

「日系の声/Nikkei Voice」2006年5月号掲載

本誌2月号で憲法改正論議についてまとめたように、現在、日本国憲法に関する議論は「改憲」「護憲」をめぐって割れている。日本にいたころは筋金入りの「護憲派」だった私も、現在は意見が変わってきた。その立場をまとめ、議論に一石を投じてみたい。

私の立場をひと言で言うなら「改憲・修憲」ということになる。しかし、平和主義のかたちを残さない自民党の改憲案には反対である。一方で、九条の会に代表される「護憲」の立場にも賛成しかねる。テロリズム、地域紛争といった国際社会が直面している危機的状況に対し、彼らが掲げる「平和的解決、平和外交」には具体性が乏しいうえに、その主張は日米安保条約なしで成立するとは到底思われないからだ。

私は現行憲法の「平和主義」が現実問題としての安全保障から隔絶されてしまっている点、また、軍隊の位置付けの明確化およびPKO定義を欠いていること、以上二点の問題点から憲法を改正(修正)すべきときに来ていると思っている。

まず、私が何よりも問題だと思うのは、国の暴走を止め、国の理念を示す最高法規である憲法が、自民党などが姑息に整備してきたPKO協力法、周辺事態法、イラク特別措置法など下位の法律によって蹂躙され続けていることである。九条第一項に抵触する件の法がすべて違憲であることは、国法学者の判断に頼らずとも明らかだ。憲法違反の法律が次々と国会で成立し、国民の間に「憲法は死文化している」という意識が広がることは、改憲云々以上に重大な懸念として捉えられるべきである。

しかし、なぜそのような憲法違反が堂々とまかり通るのか。その最大の理由は、憲法の掲げる平和主義(理想)と日本が必要とする安全保障(現実)との間に、気恥ずかしくなるほど大きな溝があるからだ。実に、この溝は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とうたう九条と自衛隊の存在とのあいだに典型的に現れている。「日本は平和主義です」と言いながら、軍事費の多い二位から一〇位の国々の総軍事費を上回るアメリカと安全保障条約(一九六〇年締結)を結び、世界四位の軍事費を持ち(CIAデータ)、アメリカに莫大な「思いやり予算」を提供する一方で、侵略戦争であるイラク戦争に自衛隊を派兵している日本の姿勢は「平和主義」という言葉に対する大きな欺瞞に他ならない。

日本人が誇りとしてきた憲法の平和主義は、確かに高邁な理想である。しかし、実際の日本は、独立国家として軍隊と安全保障戦略が不可欠である。それゆえ、私たちは今まで現実とのあいだで翻弄され続けてきた「平和主義」を、安全保障の観点から見直す必要がある。今回の憲法論議は、理念の問題であると同時に安全保障の問題だということを、とりわけここで強調しておきたい。

もう一つ、私が「改憲」の立場を取る理由は、国際社会では平和維持活動(PKO)の必要性が日に日に増しているにもかかわらず、現行憲法にはこの視点が欠落しているからである(憲法が制定された一九四七年時点では、これらの概念がまだ形になってなかったからであるが)。国際平和構築を目的とする国連主導のPKOは、国際法違反の軍事介入とは違う。ここが明確でないために日本で起こっている混乱は計り知れない。たとえば、PKOに自衛隊を派遣しながら、憲法によって武器携帯が認められていないという理由で、他国の軍隊の護衛がなければ活動できないといった国際社会の「お荷物」状態がそのひとつである。さらに、日本政府はイラク戦争(二〇〇三年)のような違法な軍事介入に自衛隊を送っている。

独立国家として軍隊を持つことは国際法も認めている。さらに、私は、とりわけ平和主義を掲げる日本がPKOにその軍隊を派遣することは、国際社会の一員として当然の責任であると考える。いずれにしてもPKO定義を憲法に盛り込み、PKOと軍事介入の線引きを明文化する必要がある(この点を曖昧にしたままの自民党案は危険きわまりない)。

PKOが世界の安全保障にどれだけ役立つか、侵略戦争の過去を持つ日本およびヨーロッパ諸国の軍隊が元植民地に派遣されるべきか、という問題にはここでは触れない。しかし、PKOのひとつで、第二次世界大戦後、ホロコーストの反省に立って生まれた人道的介入は、今後の安全保障にとって重要な概念であると思う。この概念は、ある国の国民の一部に対し著しい人権侵害がなされたとき、国際社会にはその人たちを守る責任がある、という国際社会の道徳的対応であり、ジェノサイドなどがこれにあたる。究極的に言うならば、戦争とは人権侵害であるともいえるだろう。

平和主義とは、中立・非武装の立場を貫くこととは限らない。著しい人権侵害に対しては、国際社会が容赦しないというメッセージを送り続ける必要があるし、それこそ現状に即した平和主義のあり方だと思う。

以上の二点が私の改憲・修憲論の要旨である。自衛隊という「軍隊」をどう位置づけるのか。自衛隊すら放棄するのか(その際は、誰が国を守るのか)。国連からの要請に軍隊を派遣するのか(派兵拒否を選ぶなら、その代わりにどんな国際貢献を提供できるのか)。何よりも、テロリズムや核の脅威といった不安あふれる世界で、独立国家として必要な安全保障に合致する平和主義をどう描くのか。それこそが、戦後六〇年たった今、日本国民につきつけられた問いであり、今こそ国の根幹にかかわる理念を考え直すまたとない機会である。

私の願いは、こうした議論を尽くして日本が今一度、平和憲法を選び取ることである。そして、日本国民が選び取った理想を掲げる憲法に、政治家を抑制させると同時に政治の判断の拠点となる最高法規としての威厳を与えることである。そのための手続きが是非とも必要であると思う。ただし、今の日本に、平和主義の理念に耐えられるだけの国民の信念と外交戦略があるのか。実のところ、それこそ私が最も気になる点である。