Sunday, November 28, 2010

北米人なら知っている曰く付き・・・ Aunt Jemima (bits Magazine掲載)


(bits Magazine掲載 November, 2010)
北米の食品企業のなかには女性の名前を冠したブランド・ネームを使っている企業がいくつもあって、たとえばBetty CrockerやSara Lee、Aunt Jemima、カナダの国民的英雄とされるLaura Secordなどがその例としてあげられる。これを北米ウーマンリヴと見るか、主婦の購買意欲をそそろうとするマーケティング戦略と見るかは様々だし、それぞれに名前の由来も興味深いのだけれど、今回はAunt Jemimaに限って書いてみたい。

まず、断っておくが、私はこの企業のファンでも何でもない。というより、これまで見たことはあるけれど、今日の今日までAunt Jemima商品を購入しようと手に取ったことは一度もない。先ほど、ふと思いついて買い物にでかけ、写真のパンケーキを買ったのは、このコラムのネタになると思ったから。
北米人なら大抵は知っているAunt Jemima商標は、にっこり笑う黒人のおばちゃん(Aunt Jemima)。初めて見たときから何やら違和感を隠せなかったのだけれど、聞いてみるとこの商標、かなりのいわく付きらしい。


この商標が最初に開発されてから、すでに何代ものAunt Jemimaが存在するが、時代が変わるにつれ彼女の容貌も変化してきた。現在はすっきり・溌剌とした黒人女性だが、過去のものはずんぐりむっくり、低賃金労働が妥当というような黒人女性で、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」に出てくる黒人奴隷で乳母のマミィを思い出させ(この小説は黒人差別的と批判されている)、まさに、奴隷制度が存在した時代の黒人女性のステレオタイプを未だに(改良を加えながら)引きずっているのである。この商標撤廃を求める署名運動も存在するし、不買運動の動きも続いている。にも係わらず、同社のパンケーキミックスやシロップは北米の大手スーパーには必ず置かれていて、パンケーキといえばAunt Jemimaというほどのポピュラー商品。マクドナルドも去ることながら、やっぱり消費者は政治的メッセージ以上に値段に飛びつくらしい・・・。


期待せずにバターミルクのパンケーキを食べてみたけれど、まあね、食べられないものではない。粉を使った北米加工食品の典型的味なので、きっと北米人には馴染むのだろう。ただし、政治的にみれば問題ありのこの製品、調べれば調べるほど、このパンケーキを購買してしまった罪悪感は深く、深くなっていくのであった…。

Too Asian?

最近、トロントではToronto Star紙の「北米の大学に東アジア系学生が増えている」記事に対する論議が続いているが、Globe紙のMargaret WenteがWhere cherished values collideというタイトルでコラムを寄せた(Nov. 23,2010)。いつもはWenteのコラムに反論を覚える私だけれど、今回のコラムに賛同している自分にいささか驚いている。
http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/opinion/where-cherished-values-collide/article1809338/

彼女のコラムの要旨を概観すると、今回議論になっているのは東アジア系学生だけれど、40年ほど前まではユダヤ系学生が同じように議論の対象になっていた(ユダヤ系学生がIvy leagueを圧巻している!とか)、当時はこの議論に対してquotaを設定しようという意見もあったが、今回は”Nobody is talking about quotas”. なので、これを人種差別だとする意見には賛成できない。結局のところ、アジア系は”the new Jew”なのであって、どちらの両親も”Pussy”なことで知られている。” 「アジア系学生が大学に増えているというのはよいことである。メリトクラシーが機能しているということであるから。このことをもとに、重要な社会的議論がはじまる可能性がある。そうした社会的議論ができる可能性をふさぐべきではない」。

おおむね賛成。
どこで読んだのか忘れたが、カナダではポルトガル系、ギリシア系の家庭で大学進学率が非常に低いという論文があった。ポルトガル系の文化では学歴あるいは教育機関で学ぶことに対する価値が他文化に比べて低いことが原因と書かれていた。特定の現象(東アジア系学生が増えている)を考察するとなると、文化的な背景を分析しなくてはならない。しかし、こういった特定の文化に根ざした価値の問題は、”Too Asian”記事にはほとんど触れられておらず、単にこの現象に対して白人学生がどう感じているか、といった内容に終始していた。それこそが、あのオリジナル記事の大きな問題だと思う。

最後に、このコラムには興味深い統計が載っているので転載しておこう。
· カナダで最もアジア系学生が多いのはUBC(University of British Columbiaバンクーバー)で、バンクーバーの東アジア系市民の割合は21.5%にもかかわらず、UBC東アジア系学生は43%。
· アメリカではUniversity of California at Barkley。カリフォルニア州のアジア系アメリカ人人口の割合は12%、Berkleyの1年目は42%がアジア系。

Saturday, November 27, 2010

グローバル経済格差とナニーの実態

カナダ人の大半は、カナダは国際社会で積極的に人道的支援を行い、国際協調の仲介役、あるいは人権問題でも主導的立場に立っていると考えている。それゆえに、もし、カナダが発展途上国の人たちをExploitしていると聞けばにわか信じがたいだろう。

カナダ人の多くが見逃している人権問題のひとつは、外国人労働者に対するSystemic discrimination(構造的差別)である。Systemic discriminationというのは、社会構造や社会の規則(法律やルール)のなかに温存されている形でおこる差別で、極端な例をあげるとカースト制やアパルトヘイトなどがこれにあたる。カナダ国内で起こっている外国人労働者に対する差別は、グローバライゼーション、もっと細かく言うとグローバル経済格差、グローバル人身売買の問題とからんで複雑なのだが、これらの問題はカナダ政府が導入したLive-in Caregiver Program というプログラムによく反映されている。

Live-in Caregiver Programは、高齢化による社会変化に対応するために30年ほど前に導入された移民政策にかかわる制度で、簡単に言えば国内で需要があるにもかかわらず供給が不足している介護(Caregiver-介護や育児にあたる人材)分野に海外から安い労働力を導入することを目的に考案された制度である。

Live-in Caregiver Programの対象になるのは、介護者やPSW(Personal Support Worker)、ナニー(子どもの世話役)で、期間は2年間。2002年には93%がフィリピン出身者、とりわけ女性が大半を占めているという統計が示す通り、この制度のほとんどがフィリピン人労働者によって補われている(トロントでは「ナニー」といえば「フィリピン人」と連想されるほど、フィリピン人ナニーへの需要は高い)。カナダの移民制度はポイント・システムをとっているため、学歴や職歴などで高いポイントを取れるエリートたち(たいていは発展途上国で高学歴・高収入の男性)に有利に働く。そのため、たとえばフィリピンの農村出身の女性たちには、Live-in Caregiver Programはカナダでの労働を可能にする唯一のパスポートということができる。このプログラムをはじめ、外国人労働者を一時的に受け入れる移民制度は、ヘルスケア、建設業、農業といった国内の労働力不足の分野に労働力をもたらしたとして評価されているが、他方では外国人労働者の権利を確実に保護していない点、自国のリッチ層のために海外の安い労働力を使うという倫理性の問題、仲介エージェンシーによる人身売買の問題といった暗部も指摘されている。

一方で、フィリピンの現状に目を向けてみれば、1970年代以降、フィリピンは高い失業率や貧困といった国内問題を解決する手段として、外貨を稼ぐことを目的として安い労働力を海外に輸出するという政策を取ってきたことが分かる。とりわけ農村の女性たちが安い労働力として、欧米はもとより中東、香港などにも大量に出て、ナニーとして働いている(ごく最近、UAE発マニラ行きの飛行機のなかで子どもを産んだフィリピン人ナニーが、子どもを遺棄したとして逮捕された事件があった。彼女の妊娠は雇用主によるレイプとされ、外国人の一時的労働者の労働条件の過酷さや権利の欠如を浮き彫りにしている)。

これらを考えあわせると、カナダおよび外国人一時労働者を受け入れている国々とフィリピン政府にとっては、Win-win situationにあたるわけだけれど、この制度は非常に深刻な問題をはらんでいる。

私がナニーと接点を持ったのは、エリックが生まれてからで、その当時、私たちはトロントでも高級住宅街として知られるフォレストヒルにあるアパートに住んでいたため、公園で多くのフィリピン系ナニーと知り合いになった。

彼らの話には度肝を抜かれた。ほとんどの女性たちが、フィリピンに幼い子どもたちを残してきており、1年に1度、雇用者が許せば国に帰れるということだった。ほとんどが、長時間労働、コンディションに関して不満を持っていて、最初は子育てと簡単なハウスキーピングが仕事だったのに、徐々に掃除や洗濯、料理や、パーティーがあれば給仕の仕事などもさせられるようになったと言っていた。

マリアという若いフィリピン人ナニーの話には耳をうたがった。雇用主はあるドラッグストアのオーナーで、家にはプールが2つ、テニスコートがひとつあるという大きな邸宅に住んでいる。マリアに与えられた部屋は窓もない物置部屋みたいな部屋で、ベッドがひとつ、小さなテーブルと椅子があるだけで、テレビも電話もなかった。1歳と3歳の子どもの世話を6時から7時という約束にもかかわらず、朝6時から夜、子どもたちが寝るまで(たいてい10時ごろ)面倒をみているという。苦情を訴えると、「それなら、他のナニーを雇う」と一蹴されてしまったらしい。国では彼女の仕送りを待っている家族がいる。帰りたいけれど、帰れないという状況に、彼女は窒息しそうだと言っていた。

フィリピンに残してきた2歳の子どもの写真を見せてくれながら、マリアは涙をこぼしていた。
自分の子どもを国に残して、カナダの地で裕福なカナダ人の1、3歳の子どもの世話をしているこの小柄な20代の女性の置かれている状況に、グローバル経済格差、ポスト・コロニアリズム、南北問題などといった国際問題が複雑に絡んで見えた。

まず、グローバル経済格差が1国のうちに見られるようになっていること。従来、ある国で見られた社会的階層(労働者階級、中間階級、上流階級など)の差が、グローバライゼーションの影響により、国際社会における経済格差を反映するようになっていること。具体的にいえば、貧しい国から来た移民が社会の下層部に位置し、低賃金労働に従事するような現状がそれである。結局のところ、グローバル社会では個人は国境を自由に行き来することができるけれど、国際経済秩序の影響から逃れることはできないということなのだろうか。

ポスト・コロニアリズム。フィリピン人ナニーが好まれる理由のひとつは、彼らが英語を理解することにある。フィリピンがアメリカの元植民地だったことを考え合わせなくてはならない。

移民制度。私も以前はJanice Steinの言うように「今後は先進国は深刻な労働力不足という問題に直面する。そのとき海外から労働力を入れられるかどうかが、その国が経済的に成功するかどうかのカギになる」と考えていた。そのため、カナダのように積極的にスキルを持つ移民を獲得することを目的とした移民政策は必須だと考えていた。しかし、移民政策や労働力不足の問題を考えるなら、1国の経済的繁栄だけに絞って考えてもいいものかと、今は考えている。たとえば、カナダ国内の医師不足を理由に、カナダは海外で医師の移民に高いポイントを与えているが、それがエチオピアで不足している医師をエチオピア人から奪うことになるという側面があることにはあまり考慮をはさまない。そして、一方ではエチオピアに対する経済支援をしているという現状には何か問題がある。それに、貧しい国からエリートを奪う先進諸国の移民政策は、国際人道上、あるいは倫理的に正しいことだとも思われない。

国際経済支援の問題、および先進諸国に住む人たちの発展途上国に住む人たちに対する理解。さらに、多くのカナダ人は、外国人一時労働者を雇うことは、お互い(外国人労働者およびカナダ人)の利益になると考えている。ナニーの雇用者の多くは、良心的にフィリピン人ナニーを雇うことが、貧しいフィリピン人女性を助けることになると考えている。しかし、本当にそうだろうか。フィリピン経済が長期的に安定するような援助をすべきではないだろうか。

Saturday, November 13, 2010

“The universities are becoming too Asian”??

Maclean’s MagazineのUniversity Guide reportは、”Too Asian”というタイトルで、北米の大学で東アジア系学生の割合が増え過ぎているという記事を載せた。
http://oncampus.macleans.ca/education/2010/11/10/too-asian/

時期を同じくして、Toronto Starも”Asian students suffering for success”(Nov.10,2010)というタイトルを掲げ、大学で東アジア系学生(とくに中国系)が増えていて、それを懸念している中国系の団体が親を招いて「本人にその意志がないのに無理に大学進学を勧めるべきではない」という講演を行ったという内容を載せている。
http://www.thestar.com/article/888368--asian-students-being-forced-into-university-maclean-s

これらの記事に対し、The Chinese Canadian National Councilがステレオタイプの増長、fear mongeringだとして強い抗議を表明したという記事が翌日の同紙に載った。

記事によれば、大学へ願書を出す高校生の割合は、中国系カナダ人で72%、カナダ生まれのカナダ人で42%。中国系をはじめとするアジア系学生は学力テストでは、他のエスニックグループをしのいで最も高得点を得ている。中国系の親は子どもがたとえ関心を示さなかったとしても、大学進学を(ときには)強制し、とりわけエンジニア、医学、科学分野への進学や就職を強く勧めているという。しかし、アジア系学生は自分の意見を持っているか、problem solvingができるか、というとそういうわけではなく、彼らの学力の高さは暗記や繰り返しドリルなどによって保たれている、というコメントもある。
Macleanの記事には非アジア系の高校生が「あまりにも中国系が多すぎるからUniversity of Torontoには願書を出すつもりはない。彼らは一心不乱に勉強に打ち込むから、こちらに勝ち目はない」とか、U of Tの学生が、アジア系の学生たちは自分たちだけで固まって他のグループと交流しようとしない、といったというコメントも紹介されている。

カナダ社会では、東アジア系移民はHardworkingだというステレオタイプが強くはびこっている。低賃金で長時間働く、結束が固いといったステレオタイプもある。これらは過去、プロテスタント社会であったオンタリオで、日曜日にはお店をあけていなかったのが、移民の流入とその他諸々の社会的変化で、休日にお店をあけるようになったが、その傾向は東アジア系の移民が原因であると思っているカナダ人が多いことがひとつ原因になっている(コーナーストアと呼ばれる小さな個人経営のお店は、韓国系・中国系のオーナーが経営していることが多い)が、反対にアジア系はカナダ人をLazyだと見ていることも多い(ちなみに、Nativeに対してカナダ人が持つステレオタイプもLazy)。「黄渦論」や、数年前に西海岸のある政治家が言った"Asian Invasion"、次期トロント市長に決まったRob Fordのアジア系への差別的コメントなどは、こうしたイメージに依拠している。

確かにこれら一連の記事は「北米大学は中国系にのっとられようとしている」とか「東アジア系の親は子どもたちに強力な圧力をかけて大学へ送り込んでいる」というメッセージを送っている。しかし、一方ではまったくの事実がないわけでもない。この記事について夫と話したのだが、彼が言うにはUofTのキャンパスを歩けば、東アジア系学生の多さは一目瞭然だという。しかし、同じU of TでもScarborough校には南アジア系が多いし、学部や専攻によっても人口構成はかなり違っている。

私の感じでは、(私たち日本人をふくめ)東アジア系は子どもや親戚たちの学歴や仕事の地位などに非常にこだわるが、一方では「子どもが何に興味関心があるのか」とか「社会的関心」とか「社会的貢献」といった点ではあまり関心はないし、やはり「勉強」というと暗記やドリルが基本になっている。

結局、こうした教育界に見られる諸現象は文化的違いから生じているということができるだろう。そして、文化は「価値」に深く根ざして生み出されるものだから、エスニック・グループによってその「価値」が若干違っているということもできる。しかし、もっといえば、同じエスニック・グループのなかにだって、若干の違いはあるわけで、私の知人(カナダ生まれの白人)の家庭でも、同じように親が(名門)大学進学を強く勧めて、大学で医学を専攻したけれど、かなりあとになって小さいころから関心のあった気象学をもういちど学び始めた、という例もある。つまり、マイクロレベルでいえば、各家庭・各人にすでに「文化」はそなわっている。そうすると、この記事は、そうした「文化的違い」をかなりおおざっぱに表現したに過ぎない、ということもできるだろう。

最後に、この手のジャーナリズムの「たちの悪さ」に言及しておきたい。自分は人種差別・ステレオタイプをあおっているのではない、とでも言わんばかりに、対象となっている団体に所属するメンバー(この場合は中国系の専門家)のコメントをあげて、最終的に自説に引っ張っていく。これは、The Globe and Mailの人気コラムニストMargaret Wenteがよくやる手法で、「日系カナダ人は太平洋戦争時にカナダ政府によって財産を没収され、収容所に強制的に入れられたけれど、その当時に強制収容所に入れられたMr Suzukiは、収容所は子どもにとっては楽しい場所だったと言っている。そう考えると、決してそれが悪かったとばかり言えはしない」という結論に強引に持っていく。北米ジャーナリストは自分がRacist(人種差別主義者)であると言われることだけは絶対に避けたいと思っているので、こういうセンシティブな話題を書くときはいつも「客観性」を求め、そのために他人のコメントを引用することが多い。しかし、その「客観性」も、誰の声を引用するか、という時点ですでに「主観的」になっているわけで、厳密に言えばここに客観性の入る余地はない。こういう議論に対しては非常に不快感を覚える。

私の目から見れば、内容としては非常に興味深いが、半分は事実にもとづいていて、あとの半分はステレオタイプやfear mongeringをあおっている。その原因の大半は記者の書き方にある。専門家や社会学者の意見を載せるよりは、非常に主観的で感情的な巷の学生の声を載せたり、統計があまりに少ないうえに、Maclean’sとまったく同じスタンス(非中国系の学生が大学で居心地が悪くなっている、という)で書かれている。もちろん、こういう書き方をすれば新聞は売れる。それを狙ったのかもしれないが、低俗なジャーナリズムという印象はぬぐえない。

Sunday, November 7, 2010

N.S.man convicted in cross-burning(Globe and Mail, Nov.6, 2010)

今年2月、東海岸に位置するノバ・スコシア州の小さな町で起こった事件が、カナダ全土を震撼させた。その事件とは、この町で唯一の黒人であるシェイン・ハウとパートナー(白人女性)の家の庭で十字架が焼かれた事件である。カップルは”die nigger die”という叫びで目を覚ましたという(niggerは差別用語)。その後、若い男が数人逮捕されたが、この記事によると裁判において彼らのhate crimeに対する有罪が確定したという。

記事中のコメントにあるように、何も裁判までしなくてもこの事件はhate crime(特定のグループに対する憎悪をかきたてる行為を行った罪、ちなみに日本の法にはhate crimeは定められていない)に決まっている。「十字架を焼く」といえばKKK(クー・クラックス・クラン)のお決まりであって、黒人排斥運動(というか黒人殺害)に強力なイニシアチブととっていたKKKを真似たこの卑劣な行為は許されるものではない。

今回と似たような事件は、いまだマルチカルチュラリズム(多文化共生)を誇りとするカナダにおいて時折起こっている。こうした事件が起こるたびに、トロントに住んでいてよかった、と思う。今回の裁判でも、コミュニティの一部はシェイン・ハウをサポートしているというが、大部分はサポートしていないらしく、家族は今後の報復の可能性を恐れている。アジア系としては、やっぱり小さな村や町には住みたくない。

この記事で私が最も感銘を受けたのは、他の民族グループからのサポートである。カナダのエスニックコミュニティではユダヤ系がその先端にあるが、またしてもCanadian Jewish Congress(CJC)のCEOであるBernie Farberがこの判決に対するサポートを表明していた。私はいつも、多文化主義が真に機能し、ポジティブな結果へと動いていくためには、エスニック・コミュニティの役割が欠かせないと思っているが、人種差別に対する闘いのフロントラインにCJCがいることを知るたびに非常な安心感を覚える(本当は、政府から過去に受けた人種差別的待遇に対するリドレスを勝ち取った日系コミュニティもこの役割を担うべきである)。

一方、私がムッときたのは、有罪判決を受けた若者の家族の「若いときにはばかなことをやるものだよ。こんなに大きな事件にせず、もう一度チャンスを与えてあげることが大切じゃないのか」というコメント。問題の本質がわかってない。自転車泥棒と違って、これは意図的にある人種のグループ全体を対象にし憎悪をかきたてている、大事件なのだ。若くてもこの罪は決して軽く扱われてはならないし、それが今回の裁判でカナダが国民全体に送った大切なメッセージなのである。

旗を振る人、旗をなびかせるアパート

Toronto Star(Turkish man forced to remove flag, Nov.5,2010)
記事によると、オシャワ(トロント郊外)のあるアパートで、トルコ出身の賃貸者がバルコニーに飾ったトルコ国旗をはずすようにとlandlord(大家というのでしたっけ?)から通告が来たらしい。そのときにはすべての賃貸者が同じ通告を受けたというが、その後、カナダ国旗だけは飾ってもいいという通告が来たという。Star紙の書き方では、「なんでカナダ国旗はよくて、トルコ国旗はだめなのか、そこに人種差別の種がひそんではいまいか」という感じなのだけれど、この記事を読む限り、大家の対応がプロフェッショナリズムの見地からするとあまりに程度が低く、トルコ国旗は取って欲しいんだけれど、人種差別的な意図を強調するほどでははないのではないか、という気がしてならない。

とはいっても、結果的に意図はなくても、法的に見れば大家の対応は人種差別的行為にあたる。カナダではとりわけ人種差別は深刻に取られているし、人種差別への社会的意識も高いので、仮にこの件が法廷に行くとすれば、大家は深刻な状況に追い込まれることは間違いない。

この記事を読みながら考えたのは、これが日本であれば大きな問題にまで発展することもなく、「トルコ国旗をはずせよ」との通告に対して社会的に人種差別であると糾弾する人たちもほとんどいないだろう、ということ。だいたい、銭湯に「外国人お断り」の張り紙がはられていても、賃貸物件に「外国人お断り」と注意書きがされていても、人種差別であると思わない人が大勢いる国なのだもの。

もうひとつ、個人的には自分の国の旗を喜んで振ったりなびかせたりする人の気持ちが分からない。私にとって私のアイデンティティは私個人に非常に強く結びついているので、そこに国家が入ってくる余地はほとんどない。

トロントでは、実にさまざまな国の旗を目にする。オリンピックやサッカーといった国際的スポーツ・イベントの際にはとりわけ顕著にあらわれる。旗を振る人たちはよく「プライド」という言葉を口にするけれど、「その国の市民であることの誇り」って私には非常に漠然としていて感覚的に分からない。その国に生まれたのは偶然のできごとであって、それに「プライド」を覚えるって、どういうことなのだろう。私にとっては、私個人をつくりあげるのは私個人の自由な選択による。私がどういう人間になりたいのか、ということに関しては私個人が選べ、その選択のうえに自由に行動をあわせていくことができる。つまり、自由のうえに成り立つ選択の結果、個人に対する責任も100%負うことになるわけで、私がある環境下でどういう行為を取り、どういう生き方を選ぶかに関しては、「プライド」の成り立つ余地がある。でも、「その国の人」と「国」とのあいだにはあまりにも距離がありすぎて、私にはピンとこない。さらには、「国」って言ったって何をどう規定するかよく分からないし、「国の文化」という点ですら、他の国の文化を知れば知るほどその固有性以上にUniversalityの方が強調されてきて、一国だけを自分に引き寄せるという気持ちが私にはなくなっている。

もうひとつ言えば、私は日本国民として日本を誇らしく思う点があまりに少ない。私個人のイデオロギーや思想と日本の現状があまりに大きく乖離しているので、私は成長すればするだけ、日本との間にどんどん大きな距離を置くようになっている点もあるだろう。

とにもかくにも、旗を振る人を見ると、私はその人と自分とのあまりに大きな距離を感じてゲンナリしてしまう。

ま、いいのだ。私はGlobal Citizen、コスモポリタンで生きていくという選択をしたのだから・・・。