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Thursday, June 13, 2013

日本は世界一の人権先進国 by上田人権大使


このビデオには笑わされた。

Japan is one of the most advaned countries ・・・あの英語力なのであとは何を言っているかよくわからない。
もっとも司法制度に関して進んだ国、とでも言っているんだろう。
日本に暮らすマイノリティにはそうは思われない、そのへんが外交官のあなたにはわからないんだろう。



Friday, January 11, 2013

日本のカワイイは海外でもカワイイのか?

以下の文章は私もメンバーになっているトロント・ベースのthe group of eightのウェブサイトに寄稿したものです。トロント在住の気鋭日本人ライターによる興味深い文章がたくさん掲載されていますので、ぜひご一読ください!
http://thegroupofeight.com/

まず断っておくが、私はこの文章も、これまで書いた文章もすべて「日本人として」書いてはいないし、物心ついたときから自分が日本に住む思想的マイノリティであることを承知のうえで書いてきた。この文章もマイノリティ的立場から書かれた文章であるということを最初に断っておきたい。


 

 

















先日、ある国語の先生から「たとえば、カナダなんかでも日本のカワイイはやはりカワイイって思われるんでしょうかね」と聞かれた。そのときの教材が日本のカワイイ文化についてのものだということで、国語教育に熱心なこの先生は(ちょっとズレた感覚の)私のところに話をしに来たのだった。それを発端にいろいろと話をしておもしろかったのだが、ひとつ驚いたことは、概して日本人が「日本のカワイイ文化は海外でも十分、通用する」「日本のカワイイ文化は今や世界を圧巻している」と思っていること。


「え~っ!!」というのが私の反応で、その理由のひとつはトロントで日本のカワイイ文化がよく知られていたとか(ジャパン・ファウンデーションの中や、一部のオタク系、コスプレ系サークルは別として)、好感を持たれていたと感じたことはないし、もうひとつは私自身がカワイイ文化を「カワイイ」と思っていないからである。はっきり言って、日本のカワイイを「カワイイ」と思うのは精神年齢の低い人なんじゃないだろうか、というのが私個人の感覚である。



日々利用しているある私鉄が、夏ごろから電車の外側を女子高生が主役のアニメでペイントし、車内の広告もほとんどすべてをその特定のアニメとの「コラボ」を始めたときには驚いた。子どもなら喜ぶかもしれないが、大人の自分が通勤で、おしりが出るかどうかのスレスレ・ミニスカートをはき、金髪でパッチリお目々の女子高生たちの描かれた電車に乗らされる、ということが私には不快である。一方では、普通のおじさんがその電車の写真を撮っている風景などは何度も見たし、こんなことでグランピーになる私はごくごく少数派なんだということも承知している。でも、こういうことは日本でだから可能なんだという気もする。たとえば、トロントの地下鉄でこんなセクシストでロリコン趣味なアニメ電車など走らせようものなら、市民のすざまじい反対に遭うんではないか。



この現象は、日本の社会のある価値観を反映していると思われる。たとえば、よく知られているように、欧米式の育児では、赤ちゃんは赤ちゃんのときから自分の部屋で寝かされる。また、食事のときなどには子どもは大人の会話を邪魔しないように教えられる。あるいは、いつも子どもと一緒にどこへでも行くわけでなく、ときには子どもはベビーシッターに預けられ、カップルだけでディナーやコンサートに行くこともある。こう聞くと、多くの日本人は「大人中心で子どもがかわいそう」なんて思ってしまうが、欧米では「大人の領域=社会/ society」と「子どもの領域」は違うという前提ですべて納得されている。



西欧の論理では、子どもというのは「不完全なもの」で、子ども時代は「完全」である大人になるためのトレーニング期間であり、その間、大人の仕事は子どもが「完全」になるよう指導やサポートを与えることである。なので、子どもができないこと、許されないことがあっても当然だし、「大人の世界」と「子どもの世界」にはかなりはっきりとした線引きがなされている。こうした考え方は、ひとつにはユダヤ・キリスト教的な西欧社会の二元論的思想に基づいていると私は思っている。



一方、日本社会ではこの線引きが曖昧なので「子どもの世界」の領域のものが「大人の世界」に入ってくることがよくあるし、そういう社会で小さいころから育てば、大人になってマンガを読んだり、主婦がキャラクター・グッズを集めたりしていても、あるいはそういう人が周りにいても、案外普通に受け入れられるのだろう。



話を「かわいい」に戻そう。先の「欧米では日本人がカワイイと思うものをカワイイと思うか」という問いだが、さて、答えとしては「個人的な差があるので何ともいえない」ということになる。欧米にも日本のアニメ・ファンもいるし、グローバライゼーションと消費主義の影響で子どもたちもこれらを日常的に目にしている。公害が国境を越えるのと同様、カワイイ文化も世界中に波及しているのは事実である。



しかし、だからといって、どの国でも日本のように「子ども領域のカワイイ」が「大人の世界」である「社会/society」にも入ってきている、と考えるのは間違いではないか。このふたつの世界には日本以上に強固な壁が存在する、と私には感じられる。そう考えると、どうして女子高生アニメ電車が日本では可能で(可能どころか、喜ばれている)、たとえば欧米ではありえないか、ということが理解できるだろうと思う。

Saturday, October 13, 2012

日本語の会話が窮屈に感じるとき

日本語と英語とどちらが楽にしゃべれるかと聞かれたら、もちろん日本語に決まっている。私にとっては日本語は母国語だから、細部にわたる説明、微妙な言い回しなども日本語の方が断然難なくできる。



それは明らかであるのに、日本語より英語をしゃべっているときの方が楽だなと感じることがあることに気付いて自分でもどういうわけなのか分からない、ということが帰国当時はよくあった。海外に長く住んでいたため、敬語の使い方も帰国当初はかなり忘れていたと思う。



最近、これについてはこう思うようになった。日本語だと常に話している相手との関係性が言葉のなかに現れる。「現れる」というか、日本語ではそれが常に「明確にされなければならない」。たとえば、仕事上、目上の人に対して為口で話すことはありえないし、年上の人に対してもある程度はそう言うことができる。丁寧語や敬語といった形で繰り返し、繰り返し、こうして現れる「関係性」はそのうち無意識のなかに入ってきて、自分と相手の「ステイタス」、その差のようなものは動かせない事実として絶対的になる。それが私には窮屈に感じられる。



これが英語ならそういうことはない。職場においてもある程度は敬語らしき「丁寧語」はあるし、書き言葉ではきちんとした言葉遣いもある(多分、いわゆるBusiness Englishというのが、英語の敬語にあたるのだと思う)。でも、こうした言葉遣いによって相手とのランクやその差異を意識させられることは滅多にない。言葉上は対等なのだ。だから、英語で仕事をしていると、そんなところに気を遣う必要がないので、言いたいことが案外と簡単に言えて、とても楽なのだ。



多分、そういう意味で私は職場でも外国人と話をする方が楽だと感じているのに違いない。私にとってはいつまでたっても母国語のように自由自在には操れない英語が、とりわけ仕事上は話していると楽だというのは何とも滑稽な話ではあるが、実際にそう感じるのだ。



言語は文化に根ざしたものなのとつくづく感じる。

Friday, September 14, 2012

長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁

The Group of Eightへの寄稿文です。以下のサイトにも同じ記事があります。

タイトル「長らく海外に出ていた日本人がぶちあたる見えない壁」
以下のサイトでも読めます(こちらは写真もあります)。

http://thegroupofeight.com/?p=1741


日本にいたときは何とも思っていなかったのに、12年をカナダで過ごして帰ってくると違和感を感じる、そういう状況に日々遭遇する。違和感を感じるもののひとつ、paternalism(温情主義)と社会的役割分担に関して思うところを書いてみよう。



私が日々の通勤に使っているのは京阪電鉄だが、車内広告をみまわすと若くてフェミニンな女性が圧倒的に多いことに気付く。当の京阪も、大手デパートも、サラ金会社(サラ金って死語なんだろうか?)も、街角の質屋も、こぞってそうした女性がにっこり微笑んでいるイメージを選んでいる(それも顔だけが大きくクローズ・アップされていたりする)。私はそれらのイメージをじっと見てみる。いったい、広告主は何を訴えようとしているのか? 



しばらく考えているうちに、「安心感」ということばが浮かんできた。彼女たちは見る人を肯定もしなければ、否定もしない。別に何を訴えかけているわけでもない。広告を見る人はこうしたかわいい女性が微笑んでいる姿を見て、何よりもまず「安心する」んじゃないか。



Ladies and Gentlemen. Welcom to the Shinkansen. This is the Nozomi Super-Express bound for Hakata. We will be stopping at…

新幹線に乗ると聞こえてくる、この車内アナウンス。あの高いトーンの女性声が、今の私には何とも不快(で正直言って、うっとおしい)に感じられる。ただ、私には不快に感じられるあの声も、日本では意外や意外、「快適」とか「品がある」、おまけに「セクシー」と感じる人の方が多いらしい。



車内アナウンスといえば、雨の日にだけ流れる「傘のお忘れには十分注意してください」や、ケーブルカーの「お降りの際には、車内が揺れますので足元には十分・・・」アナウンスもうっとおしい。英語でpaternalismという言葉があるが、まるで親のように心配してくれる、そうしたアナウンスが私にはちょっぴり不愉快である。



「丁寧」といえばそうなのだが、それだけだろうか。こうして気遣いしてくれたり、安心感を与えてくれる過剰なサービスは、女性のイメージを使った広告やアナウンサーの高い声によってますます自然化される。日本社会では圧倒的にこうした役割は「女性のもの」とされており、女性がこういう役割を果たしているのを見ると、多くの人は極度に安心するのだろう。



また、一方で私の目には、日本では多くの女性がこの「役割」を無批判に(あるいは喜んで?)引き受けているようにも見える。たとえば、女性の服装には今もカルチャーショックを感じる。フリルやレース、柔らかい素材、ヒラヒラしたもの、フワフワしたもの、リボン・・・、いやあ、私の目にはこういうのが「おそろしくフェミニン」なんだけど・・・。本人が好きならいいじゃない、と言われそうだが、ファッションは「見る」「見られる」の微妙な関係性という要素からもなっているわけで、一方の嗜好に簡単に限られる話ではない。



「日本では女性がよくこんなのを許しているわね」というのもよく感じる。
本屋さんに行くと、誰の目にも見えるようなところにポルノ雑誌やポルノ・マンガが積まれている。あるいは、昔から言われていることだが、週刊雑誌の広告(吊革広告、大手新聞の紙面下に入る広告)の言葉のいくつかは明らかに男性が男性向けに書いていて、不快なほど卑猥で下品。男性がやめないのなら、一方で「ああいうの、やめなさい!」という批判の声が女性から上がらないのだろうか、と疑問に思うが、これも「役割」という観点から考えれば合点がいく。



日本は確かに表面的には民主主義社会だし、男女同権も機能しているように見える。女性だからといって表立って差別されることはない。だから、「日本社会における女性の地位の低さ」を語るより、「日本では女性も男性も自分の役割分担を無意識にわきまえている」点を語ることの方がきっと生産的だろう。私の目には、それぞれが自らの「役割分担」の範囲をわきまえ、その範囲でできることを、それはそれは驚くほど「プロフェッショナルに」やっている(このあたりはすごい!)、と映る。



個人の役割分担は、見えないガラスの壁でしっかりと区切られている。その中にいれば意識されることもないけれど(それにある意味で楽)、いったん外に出て戻った者には、実は自由に歩きまわるのが難しい社会である。

こういうことはどこかで読んでいたし、聞いてもいた。ただ、実際に自分が「アウトサイダーに見えないアウトサイダー(だって、外見は日本人だから)」になったとき、これがよく見え始めた。私には、こうした社会は、critical thinking/クリティカル・シンキングのスキルを訓練されていない国民によって無意識のうちに継続されているように思うが、ま、それはまた別の機会に書くことにしよう。

Tuesday, August 21, 2012

日本の教育では育てない(とても重要な)スキル-世界的に活躍しようと思っている若い日本人へのメッセージ

カナダ(北米といってもいいと思う)の教育にあって、日本の教育で育てられないスキルがあるとすると、それらはcritical thinking-クリティカル・シンキング, problem solving-問題解決能力, team working-ティーム・ワーキング、だと私は思う。この3つのスキルを、北米では子どもたちは学校教育の終わりとともに習得できるしくみになっているが、日本ではそうはなっていない。

私が見る限り、カナダでは小さいころからこうしたスキルを身につけられるよう意図的に教育がなされており、教師が評価するのは知識というより、そうしたスキルである。このあたりが日本とカナダの教育に対する考え方の根本的な違いである。

まず、critical thinkingとは、知識や情報をうのみにするのではなく、それを自ら吟味できる能力のことである。与えられた知識や情報、方法論を吟味するためには、情報収集のスキル、分析するスキル、総合的に判断するスキル、相手を納得させるように説明できるスキル、などが必要になってくる。



真実とされていることを「疑う」ことは、科学的思考にはなくてはならないと言われる。そして、それが常識を覆すような発見につながることはよく知られている。これは経済の分野でいえば、イノベーションのカギであって、Apple社の創立者Steve Jobsの話を読むと彼がいかに熟練したcritical thinkerであったかがうかがえる。彼のような才能は、暗記のちからだけが問われる教育のなかではつぶされるだけだろう。


problem solvingとは、問題にあたったときに自力でそれを解決しようとする問題解決能力のことである。まずは、問題を把握しなくてはならない。これもcritical thinkingと同じように、何が問題になっているのかを理解し、問題の本質を知ることから、どういう方法を適用して解決に結びつけるか、という実践力、判断力に至るまでのはばひろい能力が問われる。


このスキルは、単に学校で必要になるスキルであるとは限らない。将来、子どもたちが実社会に出れば、さまざまな問題に直面しないはずはなく、そのときに問題を投げ出さず、他人任せにせず、自分で解決する能力を養っておくことは人生を乗り切るために非常に重要だと思われる。


team workingは、以上のふたつのスキルを学ぶ途上で同時に身につけられるスキルである。カナダの学校では、グループで完成させるプロジェクト・ベースの課題が頻繁に与えられている(大学でさえ)。グループのなかには、アイデアが自由に出せる生徒、計画的に実行する生徒、客観的にプロジェクト内容を把握し、問題を指摘できる生徒、などさまざまな資質を持った生徒がでてくる。グループ・ワークではまずそれぞれのメンバーの資質を把握し、それを活かせるような仕事の進め方をしていくのが効率的であることを生徒は自然と学ぶことができる。


また、カナダ社会では就職の際にこのteam workingのスキルがあるかどうかが問われることが多い。たしかに、職場という場所は、team workingなくしては成り立たないわけで、そうなると、将来、子どもたちがどのような進路に進むにしても必要になってくるのが、このスキルなのである。また、私が感じたのは、北米では、知識人も学者も知識があるだけでは認められない、ということ。そうした知識や情報を他者に伝えることができるコミュニケーション能力までを求められる。


こう見てくると、これらのスキルは学校にいるときだけ必要になるわけではなく、子どもたちに一生涯を通じてより上手に生きる力を与えるための、実践的なスキルだということがわかる。


カナダと日本で暮らし、これらのスキルが小さいころからの訓練によってのみ身に付くということに気付いた。長らく、日本人の発想や応用力の乏しさが指摘されてはきたものの、教育にこうしたスキルを身につけるための訓練がなされてきていないのは、意図的としか思われない。実際、日本ではこうしたスキルを身につけると、反対に「協調性のない人、面倒な人だ」と言われかねない。


なので、以上のことは、将来は世界的に活躍しようと思っている優れた能力のある若い人、あるいは日本の外で働きたい、暮らしたいと思っている人に向け、とくに伝えておきたいメッセージである。北米では、幼稚園からこうした3つのスキルが学校教育のなかで繰り返し、繰り返し訓練される。一方、日本では義務教育を終えても、(大学教育を終えても)こうしたスキルは身に付かない。この点をしかと認識し、世界に出ていく前に、まずはこれらのスキルをいかに自分のものにするか、を考えておくことがカギになってくる。

Saturday, August 4, 2012

社会参加と実存

失ったものを嘆いて今、目の前にあるものの良さを忘れてしまうのは、これまで私が人生のなかで繰り返してきたこと。そしてその度に、愁嘆を追い払おうと努力してきた。

「可能的現実」という言葉はありえないだろうが、「ああしておけば、こうなっていただろう」あるいは「ああしていなかったら、こうはなっていなかっただろう」という想像にばかり足を入れていると、本当によくないことは経験済み。


カナダのことを思うと本当に辛くなることがある。まだホームシックを感じている。


そう言うと、Your home is here, in Japan!と言われるのだが、日本で生まれ育ち、人生の大半を日本で過ごしてきたという事実はあるものの、やっぱり私にとってはカナダの方が快適な部分もかなりある。


私が何よりも「カナダをHomeとして選んだ」理由のひとつは、イデオロギー的にあっているということがある。私の政治思想や物事の考え方そのものは、カナダ社会のマジョリティとかなり一致する部分が多い。だから、カナダにいると政治的・社会的に「腹が立つ」ことが少ない。日本にいると私は苛立ってばかりなので、(あんな馬鹿馬鹿しい番組ばかりやってる)テレビは最初から持っていないが、日本の新聞も読まないことにした。


私にとっては社会正義や人権の尊重は何より大切なものだから、そういう意味で日本社会は疑問に思わざるを得ない点が多くて、正直言って日本人として辛い。


その一方で、やはり日本も快適だと思う。何より言葉が簡単に通じる。カナダではとくにカスタマー・サービスや政府関係に電話したりするのが何とも億劫だったが、それがまったくない(もとからの電話ギライというのはあるにしても)。


それに、日本ではカスタマー・サービスをはじめとするサービス関係の分野で働いている人たちの対応がとにかくすばらしく「プロフェッショナル」だ。夫とも話すのだが、カナダだったら、たとえばIt’s not my businessという言葉やYou have to go to …という言葉で、ひとつの情報を求めようとすると、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはいけないのだが、日本ではその煩雑さ、手間がない。それで思い出すのは、トロントでTTCのストリートカーの運転手が、路線を走っている最中だというのに、途中でストリートカーをとめて、コーヒーを買いに行き、悠々と帰ってきたこと。私はそれを見て唖然としたものだが、他の乗客は別に何事もなかったようにしているし(今から考えると、これは都会の人の被っている仮面なのかもしれない)、同じような経験があるという知人も何人かいた。日本では、たぶん、ひとりひとりがその仕事に関してプロフェッショナルなんだと思うが、この違いは一体何なんだ、と思ってしまう。

話は戻るが、「可能的現実」に関していえば、カナダにずっと暮らしていれば快適なこともあったが、不便なこともあっただろう。日本でもそれは同じだということにも気付く。完璧な社会というのはありえないのだから、世界中のどこにいても不便はある。

ただ、社会にコミットせずにその社会に生きる、というのは私には非常に辛い。最近、サルトルのいうアンガジュマンのことをやたらと考えている。

Friday, June 15, 2012

まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。


今日はダラダラ書きます・・・。
まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。

りんごが高い! ひとつ250円するのだ、日本のりんごは。りんごなんて、トロントにいたころは毎日ひとつは食べてたのに、今となっては高嶺の花。果物が全般的に高い! 種類もあまりないし・・・。フルーツ大好きの私にはイタイ。
Wi fiが普及してない? StarbucksでWi fiが使えないのはびっくりした。「どこでWi fi使えますか?」の問いに返ってきたこたえが「マクドナルド」。え~!うそでしょ? あんなローレベルのファーストフード・チェーンが? 仕方なく行ってみたけれど、スマートフォンか何かのインターネット・プラン(Yahoo?)に入ってないので使えなかった。これまでカフェやStarbucksを仕事場に使ってきた夫は本当に困っている。図書館でもコンピュータがまずないし、インターネットもないし、Wi fiもない。いや~、これって困るでしょ?
食品の大きさが小さい。かぼちゃも四分の一の大きさ、じゃがいもも4つパックに入っているだけ(それで300円ほどする)・・・。(トロントではじゃがいもは大きなバッグ、たぶん10キロ? に入って2ドルくらいだった)なので、何度も買い物に行く必要がある。スーパーが近くてよかった・・・。
パンが甘い。とにかく甘い。こんなのを毎日食べていると大変じゃない? しかし、町中どこにでもあるパン屋さん。その数の多さに驚く。こんなにたくさんのパン屋さんがやっていってるってことは、日本人ってかなりたくさんパンを食べているのだろうか。
ピザが高い。一枚2500円! ピザってスナックの感覚だと思ってたのに、日本では高級なのね! Mama'sのピッツァが恋しい・・・。

オーブンがなくて本当に困っている。
オーブン・トースターのことじゃなくて、ケーキやパンが焼けるオーブンのこと。これが4万、5万と非常に高いので、短期間の予定で日本に来ている私たちは泣く泣くガマンしている。日本ではオーブンがない家庭が多いらしい。

オーブンがないと、できないことが多い。パンが焼けない。ケーキが焼けない。ピザも焼けない。ローストやグリルなどの大皿オーブン料理ができない。お料理の幅が狭まっている。私は何を料理していいかわからず、時々途方に暮れている。

なかでもパンが焼けないのはガッカリで、日本の甘いフワフワのパンが口にあわない私たち家族は、ホームベーカリーを買ってそれでパンを焼いている。

<日本の服装に戸惑う>
カナダから持ってきた服がローカットだということに気付いた。
北米のものに比べると、日本の服は胸元はどーんと開いていないものが多いので、ちょっと首のあたりが窮屈にさえ感じる。スカートがあまりに短かったり、凝ったフリルやリボンがあったり、ゴテゴテしたハイヒール、北米では奇妙に映るコスプレっぽいもの(北米では水商売系の人だと思われそうなもの)が普通に見られる。時々、髪の毛を金髪にして、全身バービーになっている若い女性もいて仰天させられる。女性の服装が全般的に幼い。

概してあまり肌を見せないのが日本のようで、夏でも紫外線対策で完全防備している人たちが結構いる。つばの大きな帽子(夫は日本人帽子と呼ぶ)、腕に着用する特別のもの(名前は不明)、長ソックス・・・など、夫の目にもこうした姿は異様に映るらしい。私も夏の服というとノースリーブが多いのだが、ノースリーブはあまりポピュラーではないように思う。
それにストッキング! 
北米では冷房のきいたオフィスで働くワーキングウーマンでなければ、夏にストッキングなんて考えられないのだが、日本では夏でもストッキングは普通みたい。それも黒だったりするからビックリした。カナダでは素足で平気に働いていたが、日本ではどうもおかしいようなので、私もイヤだなあと思いつつ、暑いのにストッキング着用で学校に行っている。

Saturday, April 14, 2012

日本人の知的レベル

カナダから帰国してしばらくのあいだ、両親の家に2ヶ月滞在していたが、その間、テレビがつけっぱなしになっていることがあった。私たちはテレビを持っていないから、夫と子どもと3人で珍しそうに最初は見ていたが、すぐに飽きてしまったと同時に、その内容の単一さには驚いてしまった。

こうしてテレビを見る限り、日本人の興味・関心については、こう簡単に言えると思う。
1. 食べ物
2. 旅行
3. 自然

あとは、これに歴史や日本賛美がからんでくるものがあったりもするが、あるいはスポーツがあったりするが、だいたいこんなところだ。

頭の悪いタレントなどが出てコメントするものから、知識提供型の洗練されたものまで、いろいろな形式をとってはいるけれど、テレビ番組の主題としてはこの3つが圧倒的に多い。これら3つに個別のフォーカスがあたっているもの、あるいは全部一緒にひとつの番組にしたものなどがあって、それぐらいが違うだけで中身は本当にどれも似たり寄ったり。私なんて、こんなのはすぐに飽きてしまうのだけれど、日本ではこのパターンで年がら年中回っているらしい。

はっきり言って、タレントが観光地を訪れてお店をまわっておいしい料理を食べて・・・というような番組は退屈このうえない。食べ物も同じようなものばっかりだし、ここに限界があると思うのは私だけなのだろうか。それに、こうした番組が観光地やお店の一方的プロパガンダになっていることを思うと、そのあたりに目を光らせないでいいのか、と思ってしまう。

もうひとつ言わせてもらえば、芸能人やらタレントやらが海外に行く番組があるが、時折さらけ出される、この人たちのエスノセントリックな発言や行動には、もう唖然となるしかない。そうした無知をさらけだして嬉々として世界を回るような番組が、日本にいる日本人にだけ見られていることを祈るばかりである。

一方、日本のテレビ番組で圧倒的に少ないと感じるのは、「政治的」「経済的」な問題を扱う番組である。これは国内政治・経済のみならず、国際政治・経済に関しても同じである。シリアで大規模な政府による弾圧がおこっていようと、それに関しては1分のニュースが流れるだけで背景説明もコメントもまったくない。当然といえば当然だが、東アジア関連のニュースは少しはフォーカスが定まって報道されるが、やはり全体的にみると量的にはかなり少ない。

これはよく考えると、日本の主要新聞に関しても同じことがいえるし、当然、テレビ番組の主流は視聴者の興味が反映されたものだから、きっと日本人がこうした問題にあまり興味がないのだと思われるが、ちょっとこのレベル、低すぎるんじゃない?「本当にこんなんで日本人このまま大丈夫?」と本気で心配している私・・・。

外国人配偶者「問題」

外国人の配偶者をもつと、お役所関係の書類上で思わぬ問題に遭遇する、ということがよーくわかった。まず、夫と私は同一の生計を営んでいるにもかかわらず、夫が日本人ではないということだけで、住民票では日本人であるという理由だけで私が世帯主となり、夫の名前は通常、記載されない(夫の名前を住民票に記載するためにはもう一段階の申請が必要になる)。なので、夫と私が「同一の生計を営んでいる」という記載を公式に探すためには、「外国人登録記載事項証明書の省略のないもの」をもらう必要がある、ということにまわりまわってやっと行き着いた。


そもそも「戸籍」は日本人にだけあてられるものなので、外国人配偶者がいる場合は戸籍や住民票だけ見ると、子どもの名前が出ているだけで、シングルマザーのようになっている。日本人同士なら簡単に「家族」として出てくるものが、外国人配偶者がいる場合には「家族」であることが証明できる書類がすんなりとは出てこない。わざわざ外国人と結婚したんだから当然、というような馬鹿げた論はやめていただきたい。


こうした「問題」に直面すると、私や夫としては心情的に「不快感」を感じざるを得ない。日本政府は、どうやら私たちが結婚している、という状態を素直に認めたくない、あるいは好意的には思っていないのね、と思わざるを得ない。私にはどうもひっかかる。


同じようなことが現代のカナダで起これば、こういう措置は「差別的」だという声がすぐに上がるに違いない。ジャーナリストが書くか、人権擁護団体が声をあげるか、個人が声をあげるか、エスニック・コミュニティのリーダーが声をあげるか、何らかの方法で、社会的問題として取り上げられるに違いない。


私は長らく日本のメインストリームとして生活してきた経験から、こうして日本に住んでいる外国人やその他の非メインストリームの人たちが、どれほど制度的不自由を課せられてきているか、に思い至ることはなかった。今回、外国人配偶者と日本に住むことになって、さまざまな手続きを経るうちに、メインストリームの人が見えない「制度上の差別」があるのだと気付いた。恐らく、日本も時代の流れとして、いずれはこうした制度を変えていくだろうと思う。しかし、今、気付いた人が声をあげることで、その変革が早まる可能性があるだろうから、私は市政に対してこの点でコメントを出していこうと思っている。

Wednesday, February 15, 2012

ヘボン式って何だ?

二重国籍者の子どものパスポート申請が何とも大変だった。

まず、旅行代理店で航空券を買うのに、航空券の名前はパスポートの名前と同じでなくてはならないと言われる。ま、至って当然のことなのだが、そのとき、エリックはカナダのパスポートしか持っておらず、これから日本のパスポートを申請する、ということになっていた。


さて、エリックの名前の表記に関しては母親の私もちょっぴり不安がある。日本の戸籍では、「篠原エリック空」となっている。カナダでは、「エリック・スクリバニック」で通っている(ミドルネームのソラは通常は書かない)。「それって、別人じゃーん!」と知人からも言われる。さて、航空券は、日本のパスポートと同じなのだから、篠原エリック空ということにすればいい。しかし、今度は今まで使っていたマイレージ・プログラムが使えないことが判明(今まではカナダのパスポートで旅行していたから)。残念だが、これはあきらめるとする。


次なる難関はパスポート申請用紙の「ヘボン式」。パスポート申請書類には、ヘボン式でエリックの名前を記載しなくてはならない。ヘボン式というのは、日本の「仮名にローマ字を一対一で対応させたもの」(ウィキより)で、日本人の名前には難なく対応させられるが、エリックはERIKKUとなる。

領事館に行く前には、夫の姓「スクリバニック」などをヘボン式で書かされたらどうしよう、と心配してしまった。「バ」か「ヴァ」も議論の残るところで、それも大切なパスポートなのだから失敗してはいけないだろうとの懸念から、私も深夜、突然起きて考えていたら眠れなくなってしまった(心配性・・・)。結局、その必要はなくてホッとしたのだけれど・・・。


それで思ったのだが、こういう経験っていうのはエリックのような二重国籍者にとって典型的なんじゃないか。ふたつの国の基準は違っている。その関係性がうまくいかずチグハグなこともある。その狭間にあって、二重国籍者は1つの国籍しか持たない人に比べると、思わぬような問題に遭遇する可能性も高いんじゃないだろうか。日本という国は、「規格外」の人にとっては非常に住みにくい国なんじゃないか。そんな予感を覚えた。

それにしても、私には意味のわからない、このヘボン式、そもそも何のためのものなのだろうか・・・。必要あるんだろうか・・・。

Monday, January 23, 2012

日本の大手メディアは民主主義の大敵

The Economistの記事。
http://www.economist.com/blogs/banyan/2012/01/japans-nuclear-crisis

この記事を読むと、どれだけ日本の大手メディアが日本の民主主義を腐らせているかが明らかである。政府と記者クラブ(メディア)の癒着、メディアの自己センサーシップ・・・、日本人なら薄々知っているこうした情報を、日本のジャーナリズムではなく、西欧のジャーナリズムが指摘するという事実が何とも情けない。

Wednesday, October 12, 2011

外国人1万人に航空券を無料提供:日本政府に対する信用ガタ落ちの今、「安全です」と言われても・・・

夫が友人(ともにPh.D 学生)から聞いたニュースは、日本の観光庁が外国人1万人に無料で航空券を提供し、日本の観光回復を目指す、というもの。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111009-OYT1T00814.htm


正直言って、呆れたね。日本のお役所ってのは、外国向けマーケティングというとこの方法しか知らないのだ。つまり、「外国人に宣伝させる」というやつである。JET制度なんてその最たるもので、名目上は外国人に来てもらって英語を教えてもらうということだが、本当は彼らが3年の任期を終え、世界に散らばってからは日本の広告塔となってくれることを期待しているのだ。今回も、「外国人に宣伝させるのがいちばん」という思いが見え見えである。


私が違和感を感じる理由はいくつかある。そもそも、ここには「日本に来れば日本のよいところが見えるに違いない」という思い込みがある(これはアレックス・カーなどのジャパノファイルの功罪が大きいと思われるが、これは大きな問題なので稿を改めて書きたい)。また、自分の国を自ら発信しようというスキルがないし、アイデアもないし、その意欲がさらさらない。お金(航空券)だけ払って、あとは全部「外国人」にマーケティングを任せるという態度がどうも気に入らない(航空券を提供する見返りに、レポートを書いたり、今後の観光旅行プランを提案してもらうらしい)。


加えて、読売によればこの事業費予算として11億円を盛り込んだというが、震災後の後始末は始まったばかりなのに、そんなことに税金を使っている場合なのか。原発事故では、海外とまったく危機感が違っていた日本だったが、傍から見ているとこの事件は、海外における日本政府や企業およびジャーナリズムに対する不信感を煽っただけである。この政府が「安全です、来てください」と言ったところで誰が信用するものか、というのが海外にいる者の正直な感想ではないか。いまだ原発事故の危機が去らず、ジャパン・ブランドの価値も低迷し続けている今、なぜ観光なのか、さっぱり理解できない。

Friday, September 9, 2011

日本では当然? 年齢差別

日本政府や日本の大学が外国人に提供している奨学金を調べていた夫は、かなり失望していた。多くの奨学金や留学プログラムは、対象が「30歳以下の若手研究者」ということになっているという。


日本ではかなり当然とされている差別に、年齢差別がある。求職案内には、平気で「40歳以下」とか「30歳以下」とはっきりと書かれている。たしか、教職試験を受けられる上限年齢も42歳までだったと記憶している。

一方、カナダでは求職情報として年齢や性別、国籍、文化的バックグラウンド、母国語、障害、犯罪歴などを特定することは法律で禁じられている。また、退職年齢を定めていた今までの法律を改正して、今では好きなときに仕事を退職できるようになっている。なので、この国に10年以上暮らすと、日本で市販されている履歴書が大問題であると思われてくる。


ただし、日本は今までにない労働者人口減少に直面している。きっと、私が日本を出た12年前と比べると、年齢差別は和らいでいるのだとは思うが、引き続き残っている部分も多いだろうと察する。このまま、このような制限を今後も続けていて問題がないとは思われない。日本のことだから、移民を受け入れるか、年齢制限をなくすか、といえば後者を選ぶに決まっているんだろうけれど…。

Tuesday, August 16, 2011

19歳の日本人女性、ナイアガラの滝に転落

今日、早朝のCBCラジオ・ニュースを聞いていると、19歳の日本人がナイアガラの滝に落ちたと報じていた。ナイアガラの滝を囲っているフェンスをつないでいる石柱の上にのぼって写真を撮っていたが、そこに立った瞬間、バランスを崩して25メートル下の滝に落下したという。警察は周辺の捜索活動を続けているが現時点では発見されておらず、死亡は確実と見られている。報道によると、この日本人女性はトロントの語学学校に通っていたというから、語学留学生だったに違いない。

Windsor Star紙が報じるところによると、ウィンザー在住のカップルが撮った写真の背景に偶然写った女性が、被害者ということである。
http://blogs.windsorstar.com/2011/08/16/city-desk/
8月17日付けトロント・スター紙は、日本人女性の名前を「トクマス・アヤノ」と報じ、Facebookからの写真をトロント・セクション1面に転載していた。

CBCのインタビューを受けて、City of Niagara Fallの市長は、「安全面に問題があったのでは」という疑念を全面的に否定し、何万人という観光客が訪れているナイアガラの滝でこうした事故が起こるのは非常に稀だとし、被害者の安全性に対する判断力の欠如を強調していた。また、その背景にあるのはFace bookなどのソーシャル・メディアやインターネットで、そうした媒体により目を引く写真を撮ろうとする傾向性についても指摘していた。要するに、自分の市政にはまったく過失はない、というインタビューだった。

Toronto Star紙は、被害者の女性が岩の上にのぼって写真を撮っているのを見て危機感を感じたが「英語が分からないようだったので何も言わなかった」という傍観者の発言を掲載していた(もちろん、この人を責めるつもりはないが、「英語が分からないようだったから」というExcuseは一体何なのだ? いくら言葉が通じなくても、危険だからやめなさい、というくらいは危機感があればするはずだと思う)。

先の市長をはじめ、この事故が単にIsolated Case(単独で起こった事故)であって、より大きな社会的問題(海外からのツーリストに対する配慮、安全面)をはらんでないという見方が今のところ大半を占めているようだが、本当にそうなのだろうか。もちろん、カナダのメディアはそれ以上は見ないだろう。ただ、トロントに暮らす日本人の私には、「日本人の危機意識の低さ」「周囲が目に入らない」傾向性についても、念のため、触れておく必要があるのではないかと思われる。

カナダ人にとって、トロントで英語を勉強している日本人の女性は非常にOff Guardに見える。地下鉄の駅でお財布から厚い紙幣の束を出して数えていたり、見知らぬ男性から話しかけられて単にニコニコ笑っていたり、あるいは図書館で大きな声で笑いながら話をしていたりする姿を見ると、私もかなり違和感を感じてしまう。危機感がない、というのはひとつだが、周囲がどうなっているのか全く気にしていない様子は、私の目には奇妙に映る。もう少し言えば、こうした「危機感のなさ」、あるいは「周囲が目に入らない」は、責任ある大人としての成熟度の欠如だという気がする。微笑を誘っているうちはよいが、それが盗難やレイプといった事件に発展する可能性は絶対に忘れてはならないと思う。

トロントに来ている日本人語学学生、ワーキングホリデーの人たちすべてがそうだとは言わない。邦人の安全性に助言を与えるべき領事館が、こうした問題に関してどう動いているのかは知らない。また、こうした問題がトロントの日系コミュニティで語られるべき優先問題であるとは、私には思われない。ただ、こういう傾向性とその結果についてはどこかで語られなくてはならないという気がしてならない。

Saturday, April 16, 2011

オンライン版の読売新聞の記事

Online Yomiuriより引用。 太字は筆者。

東日本大震災後、日本を訪れる外国人観光客らが激減し、ツアーなどのキャンセルが相次いでいる。読売新聞のまとめでは、少なくとも約8万人の外国人が宿泊や訪問を取りやめ、海外からの飛行機運航も中止に。観光地からは「原発事故の風評被害だ」など、悲鳴にも似た声が上がっている。http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20110416-OYT1T00912.htm

被災地だけでなく、西日本の観光地などでも外国人観光客のキャンセルが相次ぎ、国内の観光産業は大きな打撃を受けている。海外メディアなどが、原発事故を実態よりも大げさに伝えたのも、一因とみられる。政府が新成長戦略の柱の一つに据えた「観光立国」構想も、大幅な見直しが避けられない情勢だ。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110407-OYT1T00129.htm?from=nwla

こんなときに観光客が減るのが「風評被害」だという観光地のコメント・・・。最大級の地震、いまだ続いている余震、さらには放射能汚染水を海洋に流し、大気中の放射線レベルをはっきり示さない政府・・・と、こんな国に誰が観光などしようと思うだろうか。絶対に行かなくてはならない、というのでなければ、誰だって今日本になど行きたいとは思わないのは誰もが当然理解できることだろう。政情が安定しなかったり、内戦が起こっていたりする国に誰も行きたいと思わないように、放射能被害にあう危険性のある国、放射能汚染された食品を食べなくてはならない国は避けようとするのが当然ではないか。観光産業は結局のところ現地がどんなに努力してもうまくいかないときはうまくいかない、かなり依存的な産業なのだ。さらには、日本では「風評被害」という言葉ですべて片付けようとしているような傾向が見られるが、このあたり、少なくともジャーナリズムには、もっと深い洞察をお願いしたい。

次。「海外メディアなどが、原発事故を実態よりも大げさに伝えた」というのはどこに根拠があるのか。私に言わせれば、日本メディアが事実を伝えようとする姿勢すら持っておらず、政府やTEPCOの言葉を(ジャーナリズムの基盤であるべき)批判精神もなく鵜呑みにしている状況に、「海外メディア」に責任を着せるというのは、全くもってもってのほかだと思う。

Wednesday, March 16, 2011

真実を知っているのは誰か

原発事故、放射能被害に関して、どの情報を信じていいかわからないというのが、非常に大きな不安の源になっている。私が見る限り、概してNHKや政府、東電から流される情報より、海外メディアを読んでいる方が危機感が高くなる気がする。たとえば、昨日のGlobe紙では、プリンストン大学物理学者のHippel教授のコメント-事態はすでにスリーマイル島原発事故をはるかに超えている-と報じていたが、NHKに出ていた大阪大学の教授は「スリーマイルには至っていない」という言い方をしていた。

「一体、誰を信じればいいの?」とNHK番組で誰かが言っていたが、この時点では、誰一人として「真実」を知ってはいないだろう。記者会見している東電の役員だって、官房長官だってこの状況を断片的に知っているだけだ。昨日、CBCラジオでカナダ人専門家が言っていたように「今回の福島第一原発事故・被害の全貌が明らかになるまでには1年、いやそれ以上の年数がかかるだろう」。

現在、私たちにできるのは1つのメディア・ソースだけでなく、できるだけ複数のソースにあたることだと思う。その情報に基づいて、各自が状況の判断をする以外にはない。

Friday, September 3, 2010

北米版・子どもたちのお弁当

北米では9月といえば新学期。それにあわせて、Globe紙はLife sectionで「子どものランチ」の記事を載せた。この記事、いくつかのLunchの写真を掲載し、健康的で環境に配慮したランチの例をあげていた。北米のスクール・キッズのランチといえばBrown bag(紙袋ランチ)が定番で、典型的な北米人の夫などは「毎日、ベーグルにクリームチーズやいちごジャムをぬったサンド、あ、たまにピーナッツバターもあったね」を持っていっていたという(ちなみに、現在では学校はアレルギーの生徒のためにピーナッツ持ち入り禁止)。その常識をくつがえすかのように、記事では「スシ・ロールサンド(パンにチーズやハムをはさんでくるくるっとすしロールのように巻いたもの」や「シリアル・ブレスレット(チリオスなどの輪っか型シリアルを糸でつなげてブレスレットみたいにしたもの)」などを提案したうえで、Brown bagではなく、環境に配慮して再利用可能なBento box(北米の日本食レストランのセットメニューが出される仕切りのあるお弁当箱)なんてのも取り入れていた。

とりたてて面白くもない記事だったけれど、今日の新聞には読者からのこの記事への反応がいくつか来ていた。それが興味深い。3人の読者はおしなべて、この記事を読んでプンプン怒っているらしい。自分も働いて、猫や犬にもえさをあげなくてはならない忙しい朝に、そんな悠長なことができますか!というのが主旨で、だれがスシ・ロールサンドやシリアル・ブレスレットをつくるような余裕があるのよ、と立腹している。

数ヶ月前(もう1年ほどになるかも)にも、実はGlobe紙のLife sectionに同じようなKids Lunchに関する記事が出ていて(たしか、いくつかの超目を引く、凝ったLunchの写真をブログから拾ってきていた)、それに対する読者の反応というのが今回とまったく同じだった。

それで考えたのだけれど、日本のお母さんたちってこうやって毎朝、子どもたちが喜ぶようなお弁当を作るのが常識になっていて、茶色の紙袋に、クリームチーズをはさんだベーグルとりんごをひとつ入れたようなお弁当なんてちょっとありえない。そこには、明らかに文化的違いというのがあって、日本では無意識のうちに母親は子どもの食生活に責任を持たされているし、きっとマクドナルドのハンバーガーなんてのを持っていったりすれば、担任教師から呼び出されたりすることだろう。

もうひとつには、概して日本を含むアジア系の母親がそうであるように、アジア系の母親は子どもに対する愛情をハグやキスで表すよりは、おいしくて栄養のある食事を作ることで表現しようとする傾向がある、という点も忘れてはならない。日本では本屋さんに行けば、子ども用のお弁当づくりの本や雑誌の特集があちこちに見られるし、母親たちもこぞって子どもがふたをあけて「ああ、おいしそう!」と言ってくれ、帰ってくれば「お母さん、今日のお弁当、おいしかった」と言ってくれるのが何よりうれしいという感じもある。

単なるランチの違いなんだけれど、北米の母親のRoleの違い、北米と日本での食に対するこだわりの違いや社会構造の違い(北米では専業主婦はメジャーではない)など、いろいろ考えさせられて興味深い。

Monday, August 23, 2010

Japan issues apology for colonial rule of Korea-The Globe and Mail, Aug.10,2010

管直人首相が首相談話のなかで、韓国の植民地支配に対する謝罪を発表したと記事で読んだ。
カナダをはじめとする西欧社会におけるメディアや世論は、日本はドイツに比すれば「過去に対する反省が見られない」という意見が一般的。

私の個人的な意見をいうと、日本には過去に対する反省をしている個人はたくさんいるけれど、虚勢をはったり、無知や狂信ゆえに失言を繰り返す政治家や、「日本は神の国」と未だ信ずる一部市民の行動によって、そうした反省はかき消されている、と思う。とりわけ、これまでの首相をはじめとする政治的指導者たちが、未だ西洋に対するInferiority complexの裏返しとしか言いようのない極めて危険なNationalismにしがみついているため、Rationalな言動が取れずにいる。

思うに、ドイツと日本の違いは、一般の国民の過去に対する反省の有無というより、指導者の力量の違いにある。日本の指導者には国の行く先が見えないのだ。アデナウアーやウィリー・ブラントは国民の大部分が謝罪を求めていたから謝罪したのではない。彼らは、謝罪と反省のうえに戦後ドイツの混乱したアイデンティティを負の方向から正の方向へ転換することに成功した。戦争に負けること、謝罪が「負け」であると考えるのは短絡的で、ドイツの謝罪と反省はむしろ敗戦国ドイツ・戦争犯罪国ドイツを国際的「勝ち組」にした。日本の政治家はといえば、未だ「南京虐殺がなかった」だのと「井の中の蛙」的な寝ぼけたことを繰り返し、そのたびに国際社会の顰蹙を買っている。靖国の博物館がどれだけ非日本人の笑いものになっているか、知っているのだろうか。こうしたことすべてが、国益(経済的・政治的・国際的評価)にとってどれだけマイナスになっているか、考えたことがあるのだろうか。未だに日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)の不平等条約のトラウマから逃れられず、何が何でも「海外の言いなりにはならない!(謝罪はしない)」と力み、「武力と精神力さえあれば何でもできる」と半世紀前に崩壊したColonialismの呪縛から逃れられない政治指導者って、本当に情けない。

国のためを本当に思うなら、戦後以来連綿と続き、日本のねじくれたアイデンティティを「和解」のもとに「道徳的リハビリテーション」のもとに、ここらできちんと立て直すことだ。ひねくれ、ねじれてゆるゆるになった土台のうえに、このまま日本の将来を積み重ねることは自殺行為に等しい。

「謝罪をすれば次はとめどない賠償金要求につながる」と恐れる声も聞かれるが、私なら、いくら賠償金を払っても、国際的信用と評価を取り戻し、日本人としてまったく新しい戦後アイデンティティを身につけ、国民が裸一貫からまた国を作り直していくことの方がよっぽど凛として、さっぱりしていてよい。謝罪と賠償を済ませない限りは、私たちはいつまでたっても国際的に「虐殺の反省もしない不道徳な国民」としていくらがんばってもそのがんばりが正当に評価されないだろう。

管首相の謝罪、プロセスとしてA評価をあげたい。

Tuesday, August 3, 2010

マイナー路線の国

夫は文化人類学を研究している。彼の詳細な専門分野は何度聞いてもよくわからないのだが、医療関係が専門、フィールドは日本とのこと。そろそろフィールドリサーチのことを考えなくてはならないのだが、マスターのときにお世話になった教授と話をしていると、夫が日本をフィールドにすることに少なからず疑問を呈したらしい。彼の感じでは、日本というフィールドは文化人類学の分野では、魅力が以前に比べるとかなり廃っている。さらに、日本の学者たちは自分たちの国のなかだけで研究をしており、国際的な学会などにはあまり顔を出さない。出てきたとしても、活発な意見交換や学術的な交流もほとんど持たれない。なので、日本関連の研究はなかなかオープンな場では学術研究の対象としては難しい。さらに、将来、北米の大学や研究機関での就職を考えるとき、日本を専門にすることは不利にもなりかねない。
とまあ、この人類学の権威は、こんな感じでざっくばらんに話をしてくれたらしい。

これは1カナダ人研究者の意見に相違ないが、夫の話によれば別の機会に会って話した数人の教授がここまでストレートには言わないものの、同じような懸念を表したという。

少なくとも北米では、日本はマイナー路線になっているという感じは私も受ける。先日、日本語を教えている知人と会ってズバリ聞いてみた。「今、日本語を勉強しようとしているのは誰なの?」
彼女の答えは「オタクよ。マンガオタクとか、アニメオタク。それから、ゲームオタク。オタクが多いから、教える方法も考え直さないとね」と言っていた。

80年代、日本ブームが起きたとき、日本語学校には、ビジネスマンや弁護士といったプロフェッショナル、日本に興味をひかれるOpen mindedな若者たちだった。それが、この30年の間、大きく変化したわけである。

北米における日本のイメージが変わってきたことは確かである。こうしたイメージは、日本から輸出されるものと、受け取る側の期待感との間のバランスのうえに成り立っていて、そのなかでは、誰が、どんなイメージを恣意的に流布しようとしているか、の力関係も見てみるとおもしろい。
以前、ある文献を読み終えた夫は、「日本政府が今最も力を入れて海外に輸出しようとしている文化は、マンガやアニメだと、この論文はくくっていた」と言っていた。

日本政府がアニメを日本文化として恣意的に輸出しようとしているのは、政府の海外プロモーション出先機関である海外のJapan Foundationの図書館や展示会などを見ると明らかであるし、個人的には興味の欠片もないが、それ自体を批判しているわけではない。日本政府が各種統計やデータに基づいて、どんな人を対象に何をプロモートしたいかを検討したうえで出した結論なのだろうし。

ただ、言わせてもらえば、少なくともカナダでは、高い教育を受けた人のなかには、マンガやアニメをまじめに受け取る人は多いとは言えない。反対に、彼らのなかには日本のマンガやアニメの悪影響を指摘する人たちも多いし、アニメに付随してくるアニメベースの商業的悪癖(日本的消費文化の典型-Collectables参照)に危機感を覚える人も多い。それを知ったうえで日本政府はアニメやマンガを輸出しているのかどうかが私は知りたいだけである。

Sunday, August 1, 2010

日本的消費文化の典型-Collectables

数ヶ月ほど前、Globeの記事に日本に関するものを見つけて読んだ。その記事は、動物の形をした日本製のシリコン輪ゴムが、北米の子どもたちの間で爆発的なヒット商品となっている、という内容だった。子どもたちは競うようにしてそれらを集め、学校に持ってきてはそれを交換したりしているうちはいいが、それがエスカレートして、輪ゴム欲しさに窃盗やいじめといった現象も見られ始めたという。
これを読んで、私は知人の小学生の子どもで私が遊びに行くと必ずポケモン・カードを見せてくれる男の子のことを思い出した。彼がそのカードを見せながら教えてくれるところによると、学校でこうしたカードを集めたり、交換したりするのが流行っているらしい。あるいは、たくさん集めるために、両親を説得したりするのも大きな仕事になっているらしい。

日本人の知人が子どもにくれたおみやげのなかに、日本製の入浴剤があったが、それは子ども向けで、おまけとして「虫キング」というスティッカーがついていた。それを見ながら、こうしたスティッカーやカードは、それ自体がCollectable(集めるもの)になりうるものだと、そしてそれは日本のConsumerismの特徴のひとつだと思った。

「集めさせて、次々に買わせる」。これは、明らかに子どもたち向けの戦略に違いない。子どもたちはものを集めるのが好きだし、それをネタに、学校でさまざまな社会的インタラクションが起こるのも確かである。しかし、夫のような北米人から見れば、これは「資本主義の汚い面」であって、掘り下げて考えてみると、プロテスタント文化では、とりわけ子どもを対象にものを売ろうとするのは道徳的に間違っているという考え方が、長い間根付いていた。

最近はそれも崩れ始めた感は否めないが、やはり企業はどこかで自制しているような感じを私は受けるし、一方の両親たちもこうした企業のやり方には警戒感を覚えていて、子どものときから誕生日会の会場を提供したりするマクドナルドは、いくら経営的には成功しているにしても、企業の一般的な社会的評価はかなり低い。

日本は、ある意味で、売れれば何でも出す、といった極度な消費社会である。こうした発想は、海外に住んでいる人たちにはちょっと理解しにくい。