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Saturday, January 12, 2013

ゴキブリ出現と今の私の心情

大半の人がそうだと思うが、私の人生でもゴキブリに好意を抱いたことなんか今までなかった。
それが、おとといは違ったのだ。
学校のトイレ掃除をしていたときのこと。
生徒が「キャ~!!」っと言うので行って見たら、ゴキブリがタイルの上をヨロヨロと歩いている。
そのゴキブリの姿を見たとき、まるで自分のようだ、と思った。
時ならぬ時に、奇妙な場所に出現し、周りに「キャ~!!」っと叫ばれる。
それって今の私の心情に似てはいないか?

思わず涙してしまった。

Saturday, October 13, 2012

日本語の会話が窮屈に感じるとき

日本語と英語とどちらが楽にしゃべれるかと聞かれたら、もちろん日本語に決まっている。私にとっては日本語は母国語だから、細部にわたる説明、微妙な言い回しなども日本語の方が断然難なくできる。



それは明らかであるのに、日本語より英語をしゃべっているときの方が楽だなと感じることがあることに気付いて自分でもどういうわけなのか分からない、ということが帰国当時はよくあった。海外に長く住んでいたため、敬語の使い方も帰国当初はかなり忘れていたと思う。



最近、これについてはこう思うようになった。日本語だと常に話している相手との関係性が言葉のなかに現れる。「現れる」というか、日本語ではそれが常に「明確にされなければならない」。たとえば、仕事上、目上の人に対して為口で話すことはありえないし、年上の人に対してもある程度はそう言うことができる。丁寧語や敬語といった形で繰り返し、繰り返し、こうして現れる「関係性」はそのうち無意識のなかに入ってきて、自分と相手の「ステイタス」、その差のようなものは動かせない事実として絶対的になる。それが私には窮屈に感じられる。



これが英語ならそういうことはない。職場においてもある程度は敬語らしき「丁寧語」はあるし、書き言葉ではきちんとした言葉遣いもある(多分、いわゆるBusiness Englishというのが、英語の敬語にあたるのだと思う)。でも、こうした言葉遣いによって相手とのランクやその差異を意識させられることは滅多にない。言葉上は対等なのだ。だから、英語で仕事をしていると、そんなところに気を遣う必要がないので、言いたいことが案外と簡単に言えて、とても楽なのだ。



多分、そういう意味で私は職場でも外国人と話をする方が楽だと感じているのに違いない。私にとってはいつまでたっても母国語のように自由自在には操れない英語が、とりわけ仕事上は話していると楽だというのは何とも滑稽な話ではあるが、実際にそう感じるのだ。



言語は文化に根ざしたものなのとつくづく感じる。

Saturday, August 4, 2012

社会参加と実存

失ったものを嘆いて今、目の前にあるものの良さを忘れてしまうのは、これまで私が人生のなかで繰り返してきたこと。そしてその度に、愁嘆を追い払おうと努力してきた。

「可能的現実」という言葉はありえないだろうが、「ああしておけば、こうなっていただろう」あるいは「ああしていなかったら、こうはなっていなかっただろう」という想像にばかり足を入れていると、本当によくないことは経験済み。


カナダのことを思うと本当に辛くなることがある。まだホームシックを感じている。


そう言うと、Your home is here, in Japan!と言われるのだが、日本で生まれ育ち、人生の大半を日本で過ごしてきたという事実はあるものの、やっぱり私にとってはカナダの方が快適な部分もかなりある。


私が何よりも「カナダをHomeとして選んだ」理由のひとつは、イデオロギー的にあっているということがある。私の政治思想や物事の考え方そのものは、カナダ社会のマジョリティとかなり一致する部分が多い。だから、カナダにいると政治的・社会的に「腹が立つ」ことが少ない。日本にいると私は苛立ってばかりなので、(あんな馬鹿馬鹿しい番組ばかりやってる)テレビは最初から持っていないが、日本の新聞も読まないことにした。


私にとっては社会正義や人権の尊重は何より大切なものだから、そういう意味で日本社会は疑問に思わざるを得ない点が多くて、正直言って日本人として辛い。


その一方で、やはり日本も快適だと思う。何より言葉が簡単に通じる。カナダではとくにカスタマー・サービスや政府関係に電話したりするのが何とも億劫だったが、それがまったくない(もとからの電話ギライというのはあるにしても)。


それに、日本ではカスタマー・サービスをはじめとするサービス関係の分野で働いている人たちの対応がとにかくすばらしく「プロフェッショナル」だ。夫とも話すのだが、カナダだったら、たとえばIt’s not my businessという言葉やYou have to go to …という言葉で、ひとつの情報を求めようとすると、あっちに行ったりこっちに行ったりしなくてはいけないのだが、日本ではその煩雑さ、手間がない。それで思い出すのは、トロントでTTCのストリートカーの運転手が、路線を走っている最中だというのに、途中でストリートカーをとめて、コーヒーを買いに行き、悠々と帰ってきたこと。私はそれを見て唖然としたものだが、他の乗客は別に何事もなかったようにしているし(今から考えると、これは都会の人の被っている仮面なのかもしれない)、同じような経験があるという知人も何人かいた。日本では、たぶん、ひとりひとりがその仕事に関してプロフェッショナルなんだと思うが、この違いは一体何なんだ、と思ってしまう。

話は戻るが、「可能的現実」に関していえば、カナダにずっと暮らしていれば快適なこともあったが、不便なこともあっただろう。日本でもそれは同じだということにも気付く。完璧な社会というのはありえないのだから、世界中のどこにいても不便はある。

ただ、社会にコミットせずにその社会に生きる、というのは私には非常に辛い。最近、サルトルのいうアンガジュマンのことをやたらと考えている。

Friday, June 15, 2012

まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。


今日はダラダラ書きます・・・。
まだまだ日本の生活で慣れないことの多い私・・・。

りんごが高い! ひとつ250円するのだ、日本のりんごは。りんごなんて、トロントにいたころは毎日ひとつは食べてたのに、今となっては高嶺の花。果物が全般的に高い! 種類もあまりないし・・・。フルーツ大好きの私にはイタイ。
Wi fiが普及してない? StarbucksでWi fiが使えないのはびっくりした。「どこでWi fi使えますか?」の問いに返ってきたこたえが「マクドナルド」。え~!うそでしょ? あんなローレベルのファーストフード・チェーンが? 仕方なく行ってみたけれど、スマートフォンか何かのインターネット・プラン(Yahoo?)に入ってないので使えなかった。これまでカフェやStarbucksを仕事場に使ってきた夫は本当に困っている。図書館でもコンピュータがまずないし、インターネットもないし、Wi fiもない。いや~、これって困るでしょ?
食品の大きさが小さい。かぼちゃも四分の一の大きさ、じゃがいもも4つパックに入っているだけ(それで300円ほどする)・・・。(トロントではじゃがいもは大きなバッグ、たぶん10キロ? に入って2ドルくらいだった)なので、何度も買い物に行く必要がある。スーパーが近くてよかった・・・。
パンが甘い。とにかく甘い。こんなのを毎日食べていると大変じゃない? しかし、町中どこにでもあるパン屋さん。その数の多さに驚く。こんなにたくさんのパン屋さんがやっていってるってことは、日本人ってかなりたくさんパンを食べているのだろうか。
ピザが高い。一枚2500円! ピザってスナックの感覚だと思ってたのに、日本では高級なのね! Mama'sのピッツァが恋しい・・・。

オーブンがなくて本当に困っている。
オーブン・トースターのことじゃなくて、ケーキやパンが焼けるオーブンのこと。これが4万、5万と非常に高いので、短期間の予定で日本に来ている私たちは泣く泣くガマンしている。日本ではオーブンがない家庭が多いらしい。

オーブンがないと、できないことが多い。パンが焼けない。ケーキが焼けない。ピザも焼けない。ローストやグリルなどの大皿オーブン料理ができない。お料理の幅が狭まっている。私は何を料理していいかわからず、時々途方に暮れている。

なかでもパンが焼けないのはガッカリで、日本の甘いフワフワのパンが口にあわない私たち家族は、ホームベーカリーを買ってそれでパンを焼いている。

<日本の服装に戸惑う>
カナダから持ってきた服がローカットだということに気付いた。
北米のものに比べると、日本の服は胸元はどーんと開いていないものが多いので、ちょっと首のあたりが窮屈にさえ感じる。スカートがあまりに短かったり、凝ったフリルやリボンがあったり、ゴテゴテしたハイヒール、北米では奇妙に映るコスプレっぽいもの(北米では水商売系の人だと思われそうなもの)が普通に見られる。時々、髪の毛を金髪にして、全身バービーになっている若い女性もいて仰天させられる。女性の服装が全般的に幼い。

概してあまり肌を見せないのが日本のようで、夏でも紫外線対策で完全防備している人たちが結構いる。つばの大きな帽子(夫は日本人帽子と呼ぶ)、腕に着用する特別のもの(名前は不明)、長ソックス・・・など、夫の目にもこうした姿は異様に映るらしい。私も夏の服というとノースリーブが多いのだが、ノースリーブはあまりポピュラーではないように思う。
それにストッキング! 
北米では冷房のきいたオフィスで働くワーキングウーマンでなければ、夏にストッキングなんて考えられないのだが、日本では夏でもストッキングは普通みたい。それも黒だったりするからビックリした。カナダでは素足で平気に働いていたが、日本ではどうもおかしいようなので、私もイヤだなあと思いつつ、暑いのにストッキング着用で学校に行っている。

Friday, May 4, 2012

電車のなかでマンガを読む人

毎日、電車に乗って通勤しているのだが、昨日、スーツを着たサラリーマン風情の男性が向かいに座り、すぐさまマンガ本を読み始めたのを見て、「おお、10年前に比べると電車のなかでマンガを読んでいる人の数が圧倒的に少なくなったわね」と感じた。以前は、こうした「大の大人」がマンガを読んでいる風景は何も珍しいことではなかったのだが、今回、日本に来てみるとあまり見ない(路線によって違うのだろうか?)

しかし、同時に文庫本や単行本を読んでいる人が少なくなってもいる、というのも観察済み。


では、大部分は何をしているか。スマートフォン(日本ではスマホと呼ばれる)に見入っているのだ。たくさんの人が静かにそれぞれのスマートフォンに見入っている光景、私はあれに最初はちょっと驚いたが、今はかなり慣れた。とにかく電車のなかで携帯電話をする人がいないのはいいことだと思う(日本に帰国してすぐのころ、夫も私も電車のなかで携帯を使っていたのだが、すぐに係員が飛んできて注意された)。

公共の場で他人に迷惑になることをしない、という原則に則っているので、これが「公共マナー」として根付く日本の文化というのは案外とすんなり理解できるのだけれど、一方では週末の早朝に聞こえる古紙回収車の大きな音楽とAnnoyingな放送が許されている事実にはどうも首をかしげてしまうなあ・・・。

Saturday, April 14, 2012

日本人の知的レベル

カナダから帰国してしばらくのあいだ、両親の家に2ヶ月滞在していたが、その間、テレビがつけっぱなしになっていることがあった。私たちはテレビを持っていないから、夫と子どもと3人で珍しそうに最初は見ていたが、すぐに飽きてしまったと同時に、その内容の単一さには驚いてしまった。

こうしてテレビを見る限り、日本人の興味・関心については、こう簡単に言えると思う。
1. 食べ物
2. 旅行
3. 自然

あとは、これに歴史や日本賛美がからんでくるものがあったりもするが、あるいはスポーツがあったりするが、だいたいこんなところだ。

頭の悪いタレントなどが出てコメントするものから、知識提供型の洗練されたものまで、いろいろな形式をとってはいるけれど、テレビ番組の主題としてはこの3つが圧倒的に多い。これら3つに個別のフォーカスがあたっているもの、あるいは全部一緒にひとつの番組にしたものなどがあって、それぐらいが違うだけで中身は本当にどれも似たり寄ったり。私なんて、こんなのはすぐに飽きてしまうのだけれど、日本ではこのパターンで年がら年中回っているらしい。

はっきり言って、タレントが観光地を訪れてお店をまわっておいしい料理を食べて・・・というような番組は退屈このうえない。食べ物も同じようなものばっかりだし、ここに限界があると思うのは私だけなのだろうか。それに、こうした番組が観光地やお店の一方的プロパガンダになっていることを思うと、そのあたりに目を光らせないでいいのか、と思ってしまう。

もうひとつ言わせてもらえば、芸能人やらタレントやらが海外に行く番組があるが、時折さらけ出される、この人たちのエスノセントリックな発言や行動には、もう唖然となるしかない。そうした無知をさらけだして嬉々として世界を回るような番組が、日本にいる日本人にだけ見られていることを祈るばかりである。

一方、日本のテレビ番組で圧倒的に少ないと感じるのは、「政治的」「経済的」な問題を扱う番組である。これは国内政治・経済のみならず、国際政治・経済に関しても同じである。シリアで大規模な政府による弾圧がおこっていようと、それに関しては1分のニュースが流れるだけで背景説明もコメントもまったくない。当然といえば当然だが、東アジア関連のニュースは少しはフォーカスが定まって報道されるが、やはり全体的にみると量的にはかなり少ない。

これはよく考えると、日本の主要新聞に関しても同じことがいえるし、当然、テレビ番組の主流は視聴者の興味が反映されたものだから、きっと日本人がこうした問題にあまり興味がないのだと思われるが、ちょっとこのレベル、低すぎるんじゃない?「本当にこんなんで日本人このまま大丈夫?」と本気で心配している私・・・。

Tuesday, March 27, 2012

幼児期にマルチカルチャー環境で育った子ども

先日、ある保育園に行ったときのこと。

門を入ってきた夫に向かって、あるひとりの園児が「あんた、だれ?」と言って私はかなりカンカンになったのだが、まわりの子どもたちの反応を見ていても、あきらかに「ガイジン」が来たことに興味を示し、興奮している。子どもだから、その反応はどこまでもストレート。

それに親子3人で町を歩いているとジロジロと見られることも多い。おばちゃん、子どもは特にそうだが、なかでも年配の人のなかには、まず私の方を見て、夫を見て、それからエリックをジイーッと見て、またまた私を見て、エリックを・・・、という念の入れ方でこちらを見てくるので、私もつい「ちょっと、そこまでしないでよね・・・」と眉をしかめてみせる。ちょっとこういうのはトロントではなかったので、面倒に思う。

それで思うのがトロントの幼児教育環境。エリックのデイケアでは、多様なethnic backgroundをもつECE(幼児教育の先生)がいて、子どもたちの民族構成も同じように多彩だった。この多様性は決して「人種」や「肌の色」「目の色」として語られることはなく、あくまでもそれは言葉や習慣を含む「文化」としてとらえられていた。ECEも、キンダーガーデンの先生も、外見で判断したり、外見をとやかく言ったりすることは絶対になかったし、これはあれだけのマルチカルチャー都市トロント社会では常識である(ほとんどすべてのinstitutionでinclusivenessの重要性は文書化されて配布される)。

こんなトロントで育ってきたエリックは、今まで一度だって「人種」や「肌の色」に関する発言をしたことがなかったが、昨日、初めてそれらしきを聞いた。小さな路地を歩いていると、後ろから白人の男性(明らかに日本ではマイノリティ)がやってきた。エリックはその人に気付いて「カナダ人みたいな人だね」と言ったのだった。年齢のせいなのか、はじめて日本に来て外見の違いに気付いたのかわからないが、私はこの発言にいろいろと考えさせられた。

 Colour blind(カラー・ブラインド)という言葉がある。多文化環境で育ったりしたときに、肌の色や外見の違いに気付くことさえない、という状況のことで、一時はポジティブな意味合いで使われていた。マルチカルチャーで育った子どもたちは、外見の違いで区別することなく、その違いを当然と受け止めるだろうから、人種差別をなくすにはマルチカルチャー環境で育てるのが有効、という主張もあった。
しかし、今はこういう主張はほとんど聞かれない。エリックのように、幼少のうちは周囲の大人が発言に気をつけていればカラー・ブラインドになる。でも、子どもの知的発達の第一歩は「違いに気付く」ことで、それを否定することはできない。これまで多文化社会で生活してきて思うのは、差別発言をなくすためには、各人の恒常的で意識的な努力がなくてはならない、ということ。当然、それ以前に「なぜ差別がわるいのか」に対する各人の気付きがなくてはならない。私には、差別のない社会とは、このあたりを繰り返し繰り返し問いただされる、ある意味で厳しい環境でなくてはならないと思われる。カナダに暮らして常に感じたのは、多文化社会はそういう意味でも差別に対するガードが常にはられている状況だということ。日本の環境を見ると、差別的行動や差別的発言に「甘い」と思う。差別的発言があった場合、それを糾弾する力が非常に弱い。
エリックを見て「ハーフ?」という質問を受けることがあるが、それもほんとうはやめてもらいたい。外見だけに焦点をあてた言葉遣いをずっとしていると、子どもは外見のほうにフォーカスをあてていくだろう。

幼児期に多文化環境で育った子どもたちを見てきた私は、日本の子どもたちが「ガイジン」を見たときの反応に驚いているわけだが、それは子どもたちというより、日本の大人たちの意識を反映しているのだろう。
「子どもは大人の鑑」、言い得て妙、というべきか・・・。

Sunday, March 25, 2012

日本の幼児教育の印象

帰国してすぐにやらなくてはならなかったことのひとつはエリックの保育園探し。アパートを探しに行ったその帰りにはすぐに近所の保育園を2,3軒まわってみた。

 
ところで、そのころ日本の育児環境にまったく無知であった私には、「保育園」と「幼稚園」の差すらわからなかったのだが、アポイントもとらず市役所の保険福祉局子育て支援部にお邪魔してお話を聞いたり(お茶まで出していただいた)、保育園や幼稚園で的外れな質問をするうちに、いろいろとわかってきた。

 
  • 「保育園」は、京都市の各区役所の福祉事務所が管轄。大半が民間経営であり、市営は数が少ない。一方で「幼稚園」は私立で、社団法人京都市私立幼稚園協会に加盟している
  •  「保育園」に入るには諸々の条件をクリアしていなくてはならず、市の福祉事務所に申請書を出し、審査にとおらなくてはならない
  • 保育園も幼稚園もカソリック系のところが案外とあるのだが、別にカソリックでなくても入園はできる
  • 保育費用は、親の前年度の所得によって決まる
  • 時間は保育園の方が長く(最長で7時半から6時)、幼稚園は昼間約5時間とフルタイムで働く親には無理
・・・というわけで、私がフルタイムで働くことになっているので、エリックは保育園に預けることになる。ただ、今の時点では、幼稚園と保育園でカリキュラムの内容などがどう違っているのかは不明(東京に住む妹によれば、「お勉強させようと思ったら幼稚園。保育園は遊ばせてくれるところ」らしいが、これは主観的な意見だろうね・・・)。

 

さて、2,3軒、保育園をまわってみて、正直言って私、びっくりした。どこの保育園でも、子どもたちが非常にワイルドに走り回っているのだ。若い先生たちもいっしょになって(体を張って?)走り回っている。そう、その姿を見ながら、「ワイルド」という言葉が私の頭をグルグル駆け巡っていた。

 

おまけに、夫に向かってある子どもが「あんた、だれ?」と言うのを(日本人ではないからだろう)、先生たちは笑って見ているだけ・・・。私、つい「そういう言い方はしないのよ!」と言ってしまった。そのあと、別の場面で男の先生が園児に向かって「おい、おまえ、さっき言ったやろ?」と笑いながら言っているのを見て、これまた驚いた。こんな言葉を先生が子どもに使うとは!

 

トロントの幼稚園しか知らない私には、驚くべきカルチャーショーック!

 

トロントのKindergartenでは、毎日、子どもたちはいろんなことを学んでいた。大きくわけると、図書館(読書、読み聞かせ)、音楽、運動、コンピュータなどが、それぞれ1日のメイン・スケジュールになっていた。私が見た感じでは、「お遊び」というより、しっかりとした「教育」がなされていた。悪い言葉遣いはその場で直されるし、必ず「Please」と言うように教えられる。混沌たる状況ではなく、先生がやはり高い立場にいてDisciplineがしっかりとなされていた。先生は子どもに対してはひとりの人間として扱い、頭ごなしに何かをしかりつける、というやり方はしてなかった。デイケアですらそれは同じだった。

 

一方、日本の幼稚園は「先生の情熱」みたいなのが何より大切にされているような気がした。先生が「自分の見ている子どもが好き!」という態度を持っていれば、あとは何がどうあってもよい、というような・・・。細かいことは言わずに、愛情をもっておおらかに育てる、ということが非常に重要視されているというような・・・。違うかな? 

 

トロント市では、それぞれのkindergartenはトロント市教育委員会が管轄しているため、先生たちはしっかりと市教育委員会のカリキュラムに従って教育目的を設定したうえで子どもたちの活動を選んでいる。自らの政治遺産として教育改革を残したいと切望しているマギンティ(オンタリオ)州首相にとって、数年前から取り組んできたオールデイ・キンダーガーデン(小学校と同じ時間帯で)は肝心要の政策に違いなく、2013年にはすべての学校でオールデイ・キンダーガーデンが実施される見込みになっている。

 

この背景には、従来、「親が子どもを預けるところ」とみなされてきた幼稚園を、「生涯続いていく教育の初歩的基盤」と見直す風潮がある。カナダでは幼児教育研究者や教育専門家、政府関係者などが、こぞって(明らかに世界では最先端)北欧モデルの教育システムを注視しており、最近の研究でも、早期幼児教育の重要性(学力や生活力への影響など)が次々と証明されている。なかでもLiberal党は、国民全体の教育水準を高めるための施策として、早期幼児教育に非常な期待を寄せている(ように私には見える)。

 

先にも述べたが、トロントではエリックの幼稚園では、子どもたちはすでに4歳からコンピュータを触っている。簡単な数字ゲームをするような感じだが、それでもそこには教育におけるコンピュータ・リテラシーの重要性への気付きがある。そこには「どのような国を目指すのか」に対するカナダ政府のしっかりした答えがあり、「オールデイ・キンダーガーデン」は、それを達成するための施策であるのだ。

 

「先生たちの情熱」、「愛情をもって育てる」、「体を張って子どもに向き合う」・・・、確かに結構である。でも、私にはこれだけあればすべて何とかなるような幼児教育環境で育ってきた子どもたちが、小学生のうちはまだいいが、中学・高校と進学して大人を含め他者とのあいだに大きな問題に直面する可能性があるのは明らかだ、という気がする。

 

さて、話が長くなったが、いくつか保育園をまわってみて、こんなことをあれこれ考えながら、正直言って「日本の幼児教育は遅れている」という印象を受けた。それは政府が幼児教育の重要性を認識していない、子どもたちを将来、国を担っていく国民に育てるための責任を認識していない、そのため、組織的に対応ができていないことが根本にあると思うし、政府の無策が批判されもしない状況がちょっと理解できない。

Saturday, March 24, 2012

カルチャーショック日本

京都に引っ越してきた。13年ぶりの京都は見慣れている風景に、へんてこなものや奇妙なものがたくさん詰まった町に感じられる。最近思うところをいくつか書き出してみよう。

  • 観光客が減った? 
   先日も近所の岡崎あたりを散策していて思ったのだが、「圧倒的に観光客が減っている」。私が学生だったころは、もっともっとたくさんの外国人観光客がいて、八坂神社や清水などに行くと英語やドイツ語があっちこっちから聞こえていたものだ。しかし、ところが、もう少し時間が経つと、観光客そのものが「圧倒的に」減ったのではなくて、観光客の内訳が変わっているのだということに気付いた。京都以外の日本の団体旅行客だと思っていたら、実は中国語をしゃべっていて、見かけは日本人と区別はつかないアジア(中国)からの観光客だった(これはカナダでも同じで、近年、中国からの観光客が世界中で増えている)。でも、確かにヨーロッパや北米からの白人観光客は減っている。これって原発事故の影響なんじゃないかしらね。

  • 自転車の勢いのすごさ
   まあ、自転車勢のすごいことといったら! 京都は学生のまちだから自転車を使う人口が多いのかもしれないが、そのアグレッシブさは半端じゃない。学生はもちろん、おばちゃんたちやおじいちゃんだって負けちゃいない。後ろから、「キーッ!!」というブレーキの音とともにすごい勢いで迫ってくる。狭いところをここぞとばかりにやってくるし、車にも大接近するし、歩いている4歳児エリックも、私も、何度か轢かれそうになっている。友人によれば、自転車に轢かれて死んだ人もいるとか。気をつけなくっちゃ。

  • 官公庁が古い。
   京都府庁と京都市役所に行ったときに、その風貌の古さに度肝を抜かれた。カナダでの最新鋭の情報テクノロジーとピカピカのキュービクル・オフィス、オンライン化に慣れていた私にとっては、すべてが「古い=旧時代的」に映った。ミシミシと音を立てる木の床(フローリングといえるのか?)、コンピュータ以外は古めかしいオフィス機器、ねずみ色の事務用ロッカーや机、椅子・・・。職員の腕に巻かれた事務用腕カバー(というのかね?)に「キャー!」っと思い、向こうからやってきた職員が私の前に「ギギギー!」という椅子の音を立てて座り、「はい、何でしょうか?」と言ったときの、その人のタバコ臭までが、すべてカルチャー・ショックだった。

    それに何もかもがまだ紙上でやられている。何とか届けや何とか交付書など、いちいちこちらが書面で「申込書」を書かなければならない(それに印鑑がいるし)。カナダだったら、こんなことはオンライン上で簡単にできる。それで思い出したが、トロント市の各オフィスでは「無駄を出さない(efficiency)」ことを非常に重要なことと考えていて、できるだけ不必要な紙を出さないことをインターンをしていた私も強く言われた。「オンラインで情報があるんだったら、わざわざ紙に印刷して配る必要はないでしょ」というのが、市の言い分だった。トロント大学の政治学者Janis Stainがずいぶん前に主張していたように、北米ではEfficiency(効率性)という価値がいろんな組織で幅をきかすようになっているが、オンライン化もその現れのひとつと見える。さて、一方、日本の市役所や府庁のオフィスを見ると、山のように紙の書類が詰まれていたり、ねずみ色のロッカーにファイルでまとめられていて、あれをどこかで一括的にデータ処理するのは無理なんだろうな、と余計なお世話的なことを思ったり・・・。
  • オンライン化が思ったほど進んでない
    それと関連して、日本ではオンライン化が思ったほど進んでいないこともある。たとえば、カナダでは銀行に預けたお金を他の口座に移したり、払ったりすることがオンライン上で簡単にできるオンライン・バンキングが普通だが、日本ではやっとこのサービスが始まったばかりのような印象を受けた。しかし、このオンライン・バンキングを利用するために、まず紙上で申込書を書いて郵送する必要があったのには笑ってしまった。

    このほかにも先ほど述べたように官公庁で書面という形式がいまだにひろく使われていることもそうだが、情報はおもに紙ベースだし、ほかにも公共図書館に自由に使えるコンピュータが置かれていない、WiFiが使える公共の場所が少ない、などインターネットが北米ほど普及していない印象を覚える。それはひょっとするとコンピュータ・リテラシーの低さと関係があるのかもしれない。

  • 禁煙化がちょっぴり進んだ?
    昨日、ふと近所を散歩していた途中、ふらっと「みやこメッセ」に立ち寄った。建物自体は非常に使いやすく、オープンスペースがたくさんあって好印象を覚えたが、小さな池のある中庭のようなスペースでスーツを着たたくさんの人がタバコを吸っていた。もちろん館内はすべて禁煙なのだが、こういう場所にも近くに喫煙スペースを設けていて、困ったことにその煙が館内にもくもくと流れてきている。日本は喫煙者の多い社会なのだと改めて実感。

    喫茶店に入っても案外と喫煙できる喫茶店も多い。お店の半分を喫煙にして、半分のスペースを禁煙にしているところもあるのだけれど、これってタバコ臭アレルギーの私にはどんな意味があるんだろうと思われる。

    でも、徐々にではあるけれど日本社会も禁煙化が進んでいるように思われる。新幹線のぞみに乗ったら、「全車禁煙ですので・・・」と車内放送が流れていて、禁煙車に乗ったものの扉が開く度に煙が流れてきていた2年前に比べればかなりましにはなっているんじゃないかしら。
  • 連帯責任を強制される社会
    アパートを借りるのに、連帯保証人が必要、というのには困ってしまった。家族はいないわけではないけれど、40過ぎて親や妹家族にお願いして「家賃が払えなかった場合」を想定し、印鑑や印鑑証明を頼むというのが、どうしても腑に落ちない。ティーネイジャーや学生の身であれば「保証人」が必要になるのは理解できるが、それ以外の人に「連帯保証人」を立てさせるというのは、それって昔の「五人組」の考え方が根付いているからなのかと思ってしまう。五人組って、あの、連帯責任を課す制度で、1家族が年貢をおさめられなかったら、のこり4人の家族が何とかする、という「集団の論理」に根ざしたあくどい制度ではなかったっけ。こうして関係ない他人を個人の生活に巻き込む制度は、「個」が何より主体と考えるカナダでは考えられない、とこれもカルチャーショック。
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こんなことを毎日感じていると、ふと、私自身がもう日本からかなり遠ざかっているのだ、ということに改めて気付く。昨日もスーパーで、買い物客のおばちゃんが紙についている洗剤サンプルのにおいをかいでいるのをマジマジと見ながら、「ふーん、こうやってにおいのサンプルを嗅ぐのね」と心に留めたり・・・。つまり、海外から日本に来た人が感じるであろうことを、12年海外で暮らした私も感じているのだろう。半分日本人で、半分は非日本人の感じ。そして、今しか持てないこの絶妙な距離感を、自分でもとってもおもしろいと思う。いずれ私の感覚も日本人のそれと変わらなくなるだろうから、しばらくはこの距離感をしっかり味わっておこうっと。

日本で暮らし始める

ブログのタイトルが「トロントに暮らす、考える」なのに、夫の都合で日本に短期的にやってきて「日本で暮らす、考える」をやっている私。日本人にとって当たり前のことに驚いたり、思ったよりassertiveになっている私自身に驚いたりしている今日このごろ。これからしばらくのあいだ、へんてこりんな日本人として、祖国日本滞在記を綴っていきます!