Friday, August 27, 2010

過去の亡霊と暮らす難しさ

1995年9月13日、アウグスト・ピノチェトはこう言った。
「最善の方法は黙って忘れることですよ。そして、忘れようとするなら、訴訟を争ったり、人々を刑務所に送り込んだりするべきではないのです。忘れることです。重要なのはこの言葉であり、双方が過去を忘れて今の生活を続けることです」

当時、ピノチェトがかつて軍事独裁者として行った数々の人権侵害、殺害などに対し、世界中で訴訟が起こっていた。このピノチェトの言葉は、こうした訴訟に対する不満の表現であるが、私はこの言葉を目にすると、日本のことを思い出す。

戦後、日本社会の大部分の人たちが、上のピノチェトの言葉を意識してかしないかは別として信じてきた結果が、数々の社会のひずみや日本人のゆがんだ精神構造などとして現れているような気がしてならない。

「恐らく、天皇裕仁が指揮責任という規程のもとで戦犯として起訴されなかったという理由から、さらに、生物兵器に関するデータと引き換えに石井四郎が免責されるという裏取引のため、日本人はアメリカに課された民主憲法の下で何事もなかったかのように平然と生活を続けてきた」(アーナ・パリス著「歴史の影」)

しかし、日本人は平然と生活を続けながらも、自分が拠って立つ地盤そのものが時折、ぐらついているのを自覚してきたはずである。たとえば、80年代に起こった薬害エイズ事件の際、事件と同時に露になったミドリ十字と戦前の731細菌部隊との深い関係。戦時中に人体実験や拷問といった非人道的なことに手を染めてきた人たちが、戦後、そうした経験をすっかり忘却の彼方へと葬り去り、のうのうと有名大学の副学長になったり、厚生省の幹部役人になったりしている事実は、ピノチェトの信条を思い出させる。

犯された罪に対する責任の所在を曖昧にすることは、「不処罰」と呼ばれる。不処罰は、被害者の感情をずたずたに切り裂くだけでなく、より広い悪影響を社会全体に及ぼす。不処罰が当然のようにまかり通る社会では、「悪いことをしても権力にバックアップされていれば咎められないのだ」という暗黙のメッセージが流布される。結果、社会正義が通らない社会になっていくと同時に、人々の精神構造には社会不信や人間不信といったシニシズムが潜入していく。長期的に見れば、こうした国民の精神構造は国を滅ぼす。

戦後処理をきちんとしてこなかった代償は思った以上に重い。

Monday, August 23, 2010

Japan issues apology for colonial rule of Korea-The Globe and Mail, Aug.10,2010

管直人首相が首相談話のなかで、韓国の植民地支配に対する謝罪を発表したと記事で読んだ。
カナダをはじめとする西欧社会におけるメディアや世論は、日本はドイツに比すれば「過去に対する反省が見られない」という意見が一般的。

私の個人的な意見をいうと、日本には過去に対する反省をしている個人はたくさんいるけれど、虚勢をはったり、無知や狂信ゆえに失言を繰り返す政治家や、「日本は神の国」と未だ信ずる一部市民の行動によって、そうした反省はかき消されている、と思う。とりわけ、これまでの首相をはじめとする政治的指導者たちが、未だ西洋に対するInferiority complexの裏返しとしか言いようのない極めて危険なNationalismにしがみついているため、Rationalな言動が取れずにいる。

思うに、ドイツと日本の違いは、一般の国民の過去に対する反省の有無というより、指導者の力量の違いにある。日本の指導者には国の行く先が見えないのだ。アデナウアーやウィリー・ブラントは国民の大部分が謝罪を求めていたから謝罪したのではない。彼らは、謝罪と反省のうえに戦後ドイツの混乱したアイデンティティを負の方向から正の方向へ転換することに成功した。戦争に負けること、謝罪が「負け」であると考えるのは短絡的で、ドイツの謝罪と反省はむしろ敗戦国ドイツ・戦争犯罪国ドイツを国際的「勝ち組」にした。日本の政治家はといえば、未だ「南京虐殺がなかった」だのと「井の中の蛙」的な寝ぼけたことを繰り返し、そのたびに国際社会の顰蹙を買っている。靖国の博物館がどれだけ非日本人の笑いものになっているか、知っているのだろうか。こうしたことすべてが、国益(経済的・政治的・国際的評価)にとってどれだけマイナスになっているか、考えたことがあるのだろうか。未だに日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)の不平等条約のトラウマから逃れられず、何が何でも「海外の言いなりにはならない!(謝罪はしない)」と力み、「武力と精神力さえあれば何でもできる」と半世紀前に崩壊したColonialismの呪縛から逃れられない政治指導者って、本当に情けない。

国のためを本当に思うなら、戦後以来連綿と続き、日本のねじくれたアイデンティティを「和解」のもとに「道徳的リハビリテーション」のもとに、ここらできちんと立て直すことだ。ひねくれ、ねじれてゆるゆるになった土台のうえに、このまま日本の将来を積み重ねることは自殺行為に等しい。

「謝罪をすれば次はとめどない賠償金要求につながる」と恐れる声も聞かれるが、私なら、いくら賠償金を払っても、国際的信用と評価を取り戻し、日本人としてまったく新しい戦後アイデンティティを身につけ、国民が裸一貫からまた国を作り直していくことの方がよっぽど凛として、さっぱりしていてよい。謝罪と賠償を済ませない限りは、私たちはいつまでたっても国際的に「虐殺の反省もしない不道徳な国民」としていくらがんばってもそのがんばりが正当に評価されないだろう。

管首相の謝罪、プロセスとしてA評価をあげたい。

子どもを思う親

先日、アメリカで発表された2件の研究結果に「同じ学年でも、年の後半に生まれた子どもはADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder 多動性障害)と診断される可能性が高い」というのがあった。北米では同じ年に生まれた1月から12月生まれが同じ学年に同籍することになるので、「年の後半」というのは9月から12月生まれ、ということで、1月生まれに比べると8~11ヶ月幼いわけで、この幼さが幼児教育関係者や医師などから行動面においてADHDと間違って指摘されるケースが多い、というわけらしい。「5歳の子にとっては1年というスパンは人生の20%と大きいわけだから、1年という切り替えは不自然に違いない」と専門家。

今日のGlobeの記事には、それゆえに1年遅れでKindergarten(幼稚園)や小学校に入れたがる親が増えているとあった。どうしてもはさみの使い方や絵の描き方に稚拙さが現れ、それを他の子どもたちと比べると、子どもが自信喪失するんじゃないか、と心配する親がいるらしい。1年遅れで学校に入れることで「自意識を育ててあげられる」とか・・・。

日本では「早生まれ」(1月1日から4月1日生まれ)と呼ばれ、私も確かに早生まれなので学齢が低いときは「背が低い」とか「走るのが遅い」とかとりわけ身体的にハンディがあったような気がするけれど、だからといって「不公平だ」とか言って文句を言う親はいなかったし、私も気にしなかった。学齢があがるにしたがって、その差もほとんど見えなくなったように思う(ただし、背の順ではいつも前の方だった)。

この記事を読んで思うに、最近の北米の親は(これってミドルクラスで教育熱心な親なんだと思うけど)以前にまして子どもの人生に積極的にかかわっているようだ。

話はちょっと変わるけれど、おとといのGlobeには「子どものBack to school(新学期)のためにFashion advisorやFashion consultantを雇う親もちらほら出ている」と読んだ。何かにつけて北米ではアウトソーシング。子どもを産んだあとは、ナニー(子育て専門に雇われる人。カナダではフィリピンからの人たち、住み込みで働く人が多い)に預け、各種さまざまなレッスンに送り、ファッション・コンサルタントを雇う。

同じ日の新聞にはパキスタンの洪水被害が写真入りで報じられ、その写真にはまだ数ヶ月という子どもを肩に抱いて腰までつかる水のなかを歩いている親の姿があった。何という差だろう、と実に愕然としてしまった。

Friday, August 13, 2010

Ottawa plans new rules for boat migrants(The Globe and Mail, 2010-08-13)

記事はこちら http://www.theglobeandmail.com/news/politics/ottawa-plans-new-rules-for-boat-migrants/article1670700/

5月にタイを出航し、約500名ほどのタミル系スリランカ人を乗せた船MV Sun Seaがバンクーバー沖に到着した。到着と同時に、カナダの国境警備隊によって保護されたタミル系スリランカ人は今後、Refugee claimants(難民申請者)としてカナダ政府の拘置所に一時的に収容されるという。

スリランカでは、数年前から政府(シンハリ系、宗教的には仏教徒)によるタミル・タイガーという政治組織との間で内戦状態が続いていたが、去年の秋にタミル・タイガーが敗北したのを受けて、多くのタミル系住民(おもにヒンドゥー教徒)が国外に流出しているが、西洋諸国ではオーストラリアが非常に厳しい対応を見せたあと、カナダに向かうタミル系が軒並み増えている。実際、西洋諸国でもカナダは最も多いタミル系ディアスポラ(国外に暮らす人)人口を抱え、なかでもトロントは事実上の「タミル首都」となっている。

昨年10月には、同じようにタミル系スリランカ人76人を乗せたOcean Ladyがバンクーバー沖に到着後、難民申請をし、現在、全員がトロントで難民申請の審査結果を待っている状態。関係者の話では、数年のちには全員にカナダにおける法的滞在が認められる可能性が高いという。

今回の500名はもちろんビザや特別な渡航書類などもっていない。タイかどこかで国境を越えて人を移動させる密輸業者(Human smugglerとかHuman traffickerと呼ばれる)に高いお金を払って、船に乗った人たちだ。彼らをIllegal immigrants(不法入国者)と呼ぶか、Refugee claimants(難民申請者)と呼ぶかはかなり難しいところだろう。

タミル・タイガーという組織は、カナダ政府によってテロリスト組織と認識されており、今回の難民申請者のなかにもこの組織とかかわりのある人がいるのではないかとカナダ政府も彼らの選別には特別注意を払うという。とりわけ保守党政府のなかには、カナダの人道的な国境警備や寛大な移民政策を利用しようとしている密輸業者などに対する警戒感があるため、今回はカナダを利用できるという「前例をつくらないため」に厳しい措置を取る必要性を主張する議員も出てきている。

一方で、国内の意見は2分しているが、根底には、ある人がある国で命の危険にさらされるなら、カナダは彼を保護する義務がある、という考えがカナダ人全体を貫いている。ただし、その人がテロリスト組織や戦争犯罪を犯しているなら、こうした人たちはカナダの庇護に値するものではないので、厳しく選別することが重要である、というのも大半の意見だろう。海外のカナダ大使館で難民・移民申請をして結果を何年も待っている人たちがいる一方で、こうやって不法に国境までやってきて難民申請をする人たちがいるのは制度の悪用とする声もある。昨年の76人もそうだが、今回の500人も、難民申請をして結果が出るまでは国民の税金で彼らの生活はまかなわれることになる。

スリランカ内戦が続いていたころ、トロント市内のアメリカ領事館前では、連日のようにタミル系住民による抗議活動が続いていた。ポスターやプラカードには「カナダはスリランカ政府によるタミル系住民への迫害に行動を起こすべきである」と書いてあったが、トロント市民の多くは彼らに同情的であったとは思えない。他国の政治に干渉するのは、よほどのことがない限り国際法違反であるし、迫害されているとするタミル・タイガーがテロリスト的手法を使って政府と同じような残虐なことをしているという状況を鑑みても、この抗議活動が人道的な市民に飛火することがなかったのも当然といえる。

カナダは、難民の受入国として非常に寛大な措置を取ってきたことで国際的にも知られる。母国で命の危険にさらされる場合が考えるときは、たとえカナダ国境まで来る手段が不法であったとしても、国境で難民申請できる。

しかし、第二次世界大戦中、多くのユダヤ人を乗せた船がカナダに到着したが、当時の政府は彼らを追い返し、結果的に全員がドイツに返還されたあと、収容所で虐殺されたという歴史がある。さらに、1914年にも376人のインド人を乗せたコマガタ丸がバンクーバーに到着したが、当時の政府は追い返している。この2つの事件に対しては、のちに政府が謝罪を行い、人種差別的な過去の移民政策に対する反省としている。
今回の出来事も、よほどの例外が見つからない限り、カナダ政府は結果的に全員を難民として受け入れることになるだろう。

Tuesday, August 10, 2010

Girlhood, interrupted: Female puberty is arriving earlier-often at age 7- and obesity is the key factor-The Globe and Mail, Aug.10, 2010-08-10

Globeの記事はこちら
http://www.theglobeandmail.com/life/health/obesity-linked-to-more-girls-hitting-puberty-as-young-as-7-study-shows/article1667505/

Pubertyというのは、小児期から成人期の間の思春期ということだが、この時期は、体の特徴としては第二次性徴(胸のふくらみなど)が出てくるころ。北米で、女の子の思春期が早まっている、という話はよく耳にしてきたが、この記事によれば、7歳、8歳ですでにそうした第二次性徴が見られるという。

Pediatrics誌に掲載された論文によると、6~8歳までの1239人の女子を対象とした調査では、胸がふくらみ始める女の子の割合は7歳で15%、8歳になると27%と飛躍する。1997年の調査(Marcia Herman-Giddens他による)では、白人で5%、黒人で15.4%の割合で、7歳時に思春期を迎えるという結果が出ていたが、今回は白人15%、黒人23%、ヒスパニック15%と伸びている。ただし、思春期が早まったからといって、生理が開始する時期も早まるわけではなくて、生理開始時期は前回の調査とほぼ同じで12~13歳とのこと。

最も気になる点は、肥満と思春期のはじまりの相関性。脂肪とホルモンのあいだに関係があることから、肥満の女子はそうでない女子に比べると思春期のはじまりが早くなる傾向があるという。

この調査の対象はアメリカ人だが、人種別に分類されているなかにアジア系は入っていないのはどうしてなのだろうか。思春期は成人期に移行するための必要な時期であるが、自意識や性に対する意識が7,8歳から目覚めてくるとかなり厄介なのではないだろうか。何も気にせず走り回っている時期は、できれば長い方がいいのではないか。肥満だけが問題なのか。肥満の子が食べている加工食品やファーストフードのなかに、ホルモンに刺激を与える化学物質が入ってはいないのか。肥満の子どもが増えている北米では、この研究結果は重く捉えられるべきだと思う。

Monday, August 9, 2010

アイデンティティと言語

夫は「カナダ人」であって、カナダで生まれている。
父親は20歳少し前にセルビアからカナダへ移住してきた。母親は、ケベック州モントリオール生まれのアイリッシュ系カナダ人。もっと詳しく言えば、義父の血筋はセルビア系のみならず、クロアチア系、スラブ系も混ざり、義母の場合は、イギリス系、アイリッシュ系、フランス系の血が混ざっている。

なので、夫の継承文化を厳密に言えば、「セルビア・クロアチア・スラブ・イギリス・アイリッシュ・フランス系カナダ人」ということになるが、これではあまりにも面倒なので「カナダ人」ということになる。「セルビア系カナダ人」は、夫には100%しっくりこないらしい。

カナダは、実に複数の文化的背景を持つ人たちにとっては非常に都合のよい国である。だいたい、血筋が複数である、ということがカナダ人の本質のようなところもあるので、誰も細かいところは気にしない。

個人のアイデンティティとは、複数の「自分はこれ」というファクターから選び取られるものだが、「生まれた国」とか「民族の血(血統)」はなかでも非常に重要なファクターになると考えられている。しかし、本当にそうだろうか。その言葉は、生まれた国と民族の血とアイデンティティが同一である場合にしか当たらないのではないか。

もし義父が夫に小さいころ、セルビア語を教えていて、夫がセルビア語を話せたとしたら、彼は自分を指して「セルビア系カナダ人」と言うこともできたと思う、と彼は言う。言語を操れるかどうか、言語をはじめとする文化的エッセンスを共有できるかどうか、は「生まれた国」や「血統」以上に大切なのではないか。言語は、私たちがものを考える土台となるものであるし、言語システムのなかには無条件で思考枠というものが組み込まれている。言語を知らずして、その国と自分を同一化できるとは到底思えない。

「カナダでは細かいことは誰も気にしない」と書いたが、もう少し詳しく言うと、カナダでは、出生地、肌の色、人種、母国語、宗教などではなく、この国の言葉を通して同じ文化的エッセンスを共有できるか、がマジョリティとマイノリティの差となってくるというのが私の実感である。

そう考えると、私がエリックに日本語を教えているのは、単に日本語という言語を習得してもらおうと思っているのではなく、言語を通して私の母国である日本とのつながりを維持してほしいと思っているからに違いない。単に「母親が日本人だから」という理由で、エリックが将来、日本人としてのアイデンティティを選び取るとは思えない。何が何でも彼に日本人のアイデンティティを感じてほしいとは思ってないが、選択肢は多い方がよい。母親としてできることなら、その選択肢を与えてあげたいと思っている。

Thursday, August 5, 2010

それでも懲りないRob Ford

トロント市長選挙に出馬しているエトビコ市議会議員のRob Ford。またまた、私の神経を苛立たせてくれる。
今回は、same-sex marriage(同性結婚)についてのコメントで、そのまま引用すると”Men who don't truly comprehend the reality of the importance of the God difined family will dismantle the very ethical fibers of what a healthy democratic civilization is".(神が定義した家族の重要性という事実を理解できないような人間は、健全な民主主義文明の倫理的性質を粉砕してしまうだろう

このコメントは、彼自身も後で認めているように、市長選に出馬しているライバルのGeorge Smithermanを意識したコメントであり、ホモフォビックのRob Fordにとってはopenly gay(ゲイであると公言していて)で、実際にパートナーとの間にSSMを挙げ、養子を迎えているSmithermanの市長としての信頼性が疑問でしょうがないらしい。

Rob Fordは、2008年にも、"Those Oriental people work like dogs ... they sleep beside their machines,・・・The Oriental people, they're slowly taking over ... they're hard, hard workers.(東洋人は犬のように働く。彼らは機械のそばで睡眠を取り、ゆっくりと社会を乗っ取っていく。彼らは非常な働きものだ)''という言葉でトロントのアジア系コミュニティを震撼させ、謝罪を求める署名にも応じることなく、「あれは褒め言葉のつもりで言ったまでだ」と最後まで謝罪しなかった。市長のDavid Millerは、"We're one of the most diverse cities in the world. We don't stereotype people by the racial or ethnic background in this city.(トロントは世界でも有数の民族的に多様な都市だ。この都市で、人々を人種や民族によってステレオタイプ化するようなこ
とはしてはならない"と言ったにもかかわらず。また、あれと同じRob Fordである。

トロントは、same-sexカップルが公式に結婚しようとやってくる、世界でも有数のゲイ・フレンドリー都市として知られ、2014年には世界最大のクイアー・フェスティバルであるWorld Pride のホストが決まっている。さらに、半数以上が外国生まれ、人種的にも多様なトロントで、この人物が市長としてふさわしいとは到底思えない。Smitherman for our mayor!

Cloned beef rekindles Britain's anxieties over meat supply (The Globe and Mail, Aug.5, 2010)

イギリスでクローン牛の肉やミルクが、知らない間に市場に出回っていたとか。何と不気味な話!

イギリスでは、クローン牛肉やクローン牛のミルク販売は、政府の認可なしではできないにもかかわらず、今回の事件が起こったことで、現在、保健省などが調査を継続している。イギリスの食品管理局および科学者たちは、クローン牛の安全性については心配ないと主張しているが、狂牛病の被害がいまだ記憶に残る英国では、人々の反応は非常に敏感なようである。

今年6月、ヨーロッパ議会は、クローン牛子孫の肉およびミルクの適切な認可のもとでの販売を許可したばかりだが、クローン技術による食品そのものの販売は認可されていない。科学者の大半はクローンの動物、あるいはその子孫の食肉は安全面で問題なしと信じているが、どうも市民は警戒している様子。GM食品やクローン家畜の食肉の安全性は疑問視もされていないアメリカとは大きな違いである。

Tuesday, August 3, 2010

マイナー路線の国

夫は文化人類学を研究している。彼の詳細な専門分野は何度聞いてもよくわからないのだが、医療関係が専門、フィールドは日本とのこと。そろそろフィールドリサーチのことを考えなくてはならないのだが、マスターのときにお世話になった教授と話をしていると、夫が日本をフィールドにすることに少なからず疑問を呈したらしい。彼の感じでは、日本というフィールドは文化人類学の分野では、魅力が以前に比べるとかなり廃っている。さらに、日本の学者たちは自分たちの国のなかだけで研究をしており、国際的な学会などにはあまり顔を出さない。出てきたとしても、活発な意見交換や学術的な交流もほとんど持たれない。なので、日本関連の研究はなかなかオープンな場では学術研究の対象としては難しい。さらに、将来、北米の大学や研究機関での就職を考えるとき、日本を専門にすることは不利にもなりかねない。
とまあ、この人類学の権威は、こんな感じでざっくばらんに話をしてくれたらしい。

これは1カナダ人研究者の意見に相違ないが、夫の話によれば別の機会に会って話した数人の教授がここまでストレートには言わないものの、同じような懸念を表したという。

少なくとも北米では、日本はマイナー路線になっているという感じは私も受ける。先日、日本語を教えている知人と会ってズバリ聞いてみた。「今、日本語を勉強しようとしているのは誰なの?」
彼女の答えは「オタクよ。マンガオタクとか、アニメオタク。それから、ゲームオタク。オタクが多いから、教える方法も考え直さないとね」と言っていた。

80年代、日本ブームが起きたとき、日本語学校には、ビジネスマンや弁護士といったプロフェッショナル、日本に興味をひかれるOpen mindedな若者たちだった。それが、この30年の間、大きく変化したわけである。

北米における日本のイメージが変わってきたことは確かである。こうしたイメージは、日本から輸出されるものと、受け取る側の期待感との間のバランスのうえに成り立っていて、そのなかでは、誰が、どんなイメージを恣意的に流布しようとしているか、の力関係も見てみるとおもしろい。
以前、ある文献を読み終えた夫は、「日本政府が今最も力を入れて海外に輸出しようとしている文化は、マンガやアニメだと、この論文はくくっていた」と言っていた。

日本政府がアニメを日本文化として恣意的に輸出しようとしているのは、政府の海外プロモーション出先機関である海外のJapan Foundationの図書館や展示会などを見ると明らかであるし、個人的には興味の欠片もないが、それ自体を批判しているわけではない。日本政府が各種統計やデータに基づいて、どんな人を対象に何をプロモートしたいかを検討したうえで出した結論なのだろうし。

ただ、言わせてもらえば、少なくともカナダでは、高い教育を受けた人のなかには、マンガやアニメをまじめに受け取る人は多いとは言えない。反対に、彼らのなかには日本のマンガやアニメの悪影響を指摘する人たちも多いし、アニメに付随してくるアニメベースの商業的悪癖(日本的消費文化の典型-Collectables参照)に危機感を覚える人も多い。それを知ったうえで日本政府はアニメやマンガを輸出しているのかどうかが私は知りたいだけである。

Sunday, August 1, 2010

日本的消費文化の典型-Collectables

数ヶ月ほど前、Globeの記事に日本に関するものを見つけて読んだ。その記事は、動物の形をした日本製のシリコン輪ゴムが、北米の子どもたちの間で爆発的なヒット商品となっている、という内容だった。子どもたちは競うようにしてそれらを集め、学校に持ってきてはそれを交換したりしているうちはいいが、それがエスカレートして、輪ゴム欲しさに窃盗やいじめといった現象も見られ始めたという。
これを読んで、私は知人の小学生の子どもで私が遊びに行くと必ずポケモン・カードを見せてくれる男の子のことを思い出した。彼がそのカードを見せながら教えてくれるところによると、学校でこうしたカードを集めたり、交換したりするのが流行っているらしい。あるいは、たくさん集めるために、両親を説得したりするのも大きな仕事になっているらしい。

日本人の知人が子どもにくれたおみやげのなかに、日本製の入浴剤があったが、それは子ども向けで、おまけとして「虫キング」というスティッカーがついていた。それを見ながら、こうしたスティッカーやカードは、それ自体がCollectable(集めるもの)になりうるものだと、そしてそれは日本のConsumerismの特徴のひとつだと思った。

「集めさせて、次々に買わせる」。これは、明らかに子どもたち向けの戦略に違いない。子どもたちはものを集めるのが好きだし、それをネタに、学校でさまざまな社会的インタラクションが起こるのも確かである。しかし、夫のような北米人から見れば、これは「資本主義の汚い面」であって、掘り下げて考えてみると、プロテスタント文化では、とりわけ子どもを対象にものを売ろうとするのは道徳的に間違っているという考え方が、長い間根付いていた。

最近はそれも崩れ始めた感は否めないが、やはり企業はどこかで自制しているような感じを私は受けるし、一方の両親たちもこうした企業のやり方には警戒感を覚えていて、子どものときから誕生日会の会場を提供したりするマクドナルドは、いくら経営的には成功しているにしても、企業の一般的な社会的評価はかなり低い。

日本は、ある意味で、売れれば何でも出す、といった極度な消費社会である。こうした発想は、海外に住んでいる人たちにはちょっと理解しにくい。