Saturday, April 14, 2012

日本人の知的レベル

カナダから帰国してしばらくのあいだ、両親の家に2ヶ月滞在していたが、その間、テレビがつけっぱなしになっていることがあった。私たちはテレビを持っていないから、夫と子どもと3人で珍しそうに最初は見ていたが、すぐに飽きてしまったと同時に、その内容の単一さには驚いてしまった。

こうしてテレビを見る限り、日本人の興味・関心については、こう簡単に言えると思う。
1. 食べ物
2. 旅行
3. 自然

あとは、これに歴史や日本賛美がからんでくるものがあったりもするが、あるいはスポーツがあったりするが、だいたいこんなところだ。

頭の悪いタレントなどが出てコメントするものから、知識提供型の洗練されたものまで、いろいろな形式をとってはいるけれど、テレビ番組の主題としてはこの3つが圧倒的に多い。これら3つに個別のフォーカスがあたっているもの、あるいは全部一緒にひとつの番組にしたものなどがあって、それぐらいが違うだけで中身は本当にどれも似たり寄ったり。私なんて、こんなのはすぐに飽きてしまうのだけれど、日本ではこのパターンで年がら年中回っているらしい。

はっきり言って、タレントが観光地を訪れてお店をまわっておいしい料理を食べて・・・というような番組は退屈このうえない。食べ物も同じようなものばっかりだし、ここに限界があると思うのは私だけなのだろうか。それに、こうした番組が観光地やお店の一方的プロパガンダになっていることを思うと、そのあたりに目を光らせないでいいのか、と思ってしまう。

もうひとつ言わせてもらえば、芸能人やらタレントやらが海外に行く番組があるが、時折さらけ出される、この人たちのエスノセントリックな発言や行動には、もう唖然となるしかない。そうした無知をさらけだして嬉々として世界を回るような番組が、日本にいる日本人にだけ見られていることを祈るばかりである。

一方、日本のテレビ番組で圧倒的に少ないと感じるのは、「政治的」「経済的」な問題を扱う番組である。これは国内政治・経済のみならず、国際政治・経済に関しても同じである。シリアで大規模な政府による弾圧がおこっていようと、それに関しては1分のニュースが流れるだけで背景説明もコメントもまったくない。当然といえば当然だが、東アジア関連のニュースは少しはフォーカスが定まって報道されるが、やはり全体的にみると量的にはかなり少ない。

これはよく考えると、日本の主要新聞に関しても同じことがいえるし、当然、テレビ番組の主流は視聴者の興味が反映されたものだから、きっと日本人がこうした問題にあまり興味がないのだと思われるが、ちょっとこのレベル、低すぎるんじゃない?「本当にこんなんで日本人このまま大丈夫?」と本気で心配している私・・・。

外国人配偶者「問題」

外国人の配偶者をもつと、お役所関係の書類上で思わぬ問題に遭遇する、ということがよーくわかった。まず、夫と私は同一の生計を営んでいるにもかかわらず、夫が日本人ではないということだけで、住民票では日本人であるという理由だけで私が世帯主となり、夫の名前は通常、記載されない(夫の名前を住民票に記載するためにはもう一段階の申請が必要になる)。なので、夫と私が「同一の生計を営んでいる」という記載を公式に探すためには、「外国人登録記載事項証明書の省略のないもの」をもらう必要がある、ということにまわりまわってやっと行き着いた。


そもそも「戸籍」は日本人にだけあてられるものなので、外国人配偶者がいる場合は戸籍や住民票だけ見ると、子どもの名前が出ているだけで、シングルマザーのようになっている。日本人同士なら簡単に「家族」として出てくるものが、外国人配偶者がいる場合には「家族」であることが証明できる書類がすんなりとは出てこない。わざわざ外国人と結婚したんだから当然、というような馬鹿げた論はやめていただきたい。


こうした「問題」に直面すると、私や夫としては心情的に「不快感」を感じざるを得ない。日本政府は、どうやら私たちが結婚している、という状態を素直に認めたくない、あるいは好意的には思っていないのね、と思わざるを得ない。私にはどうもひっかかる。


同じようなことが現代のカナダで起これば、こういう措置は「差別的」だという声がすぐに上がるに違いない。ジャーナリストが書くか、人権擁護団体が声をあげるか、個人が声をあげるか、エスニック・コミュニティのリーダーが声をあげるか、何らかの方法で、社会的問題として取り上げられるに違いない。


私は長らく日本のメインストリームとして生活してきた経験から、こうして日本に住んでいる外国人やその他の非メインストリームの人たちが、どれほど制度的不自由を課せられてきているか、に思い至ることはなかった。今回、外国人配偶者と日本に住むことになって、さまざまな手続きを経るうちに、メインストリームの人が見えない「制度上の差別」があるのだと気付いた。恐らく、日本も時代の流れとして、いずれはこうした制度を変えていくだろうと思う。しかし、今、気付いた人が声をあげることで、その変革が早まる可能性があるだろうから、私は市政に対してこの点でコメントを出していこうと思っている。