Wednesday, August 31, 2011

グローバライゼーションとニート人口

以前、「カナダの大学教育と就職事情」で触れたが、今、カナダでは若者の失業が社会問題化している。若者の失業が増えると、今後、社会はどうなっていくのか、との議論がなされているが、私の見る限り、現在、カナダではベイビー・ブーマーの退職が増える2018年ごろから、さまざまな分野で人材不足が見られるようになるだろうとの推測から、それまで待てば何とか問題は収まる、という感覚が一般的なのではなかろうか(ちなみに、オンタリオ州では、これまでの65歳定年がなくなって-年齢差別だとの判断から-、今は退職する年齢は法的には定められていない)。しかし、今回、イギリスで起こった暴動を見ていて、本当にこのままベイビー・ブーマーの退職を待っているだけでいいのだろうか、と疑問に感じた。

黒人の若者が警察官に射殺されるという事件が発端になり、トッテンハムの町で暴動が起こったのが8月8日。最初、これを聞いたとき、私は人種暴動ではないか、と思ったが、報道は初期の段階から、人種的な暴動であることを否定していた。さらには、(アラブの春とは違って)何らかの政治的声明もスローガンも出ていないことから、政治的な暴動であるとの疑問も否定していた。また、ランダムなフーリガンでもない。では、一体、何が問題なのか。

新聞・ラジオ報道によれば、暴動参加者のほとんどが、20歳以下であるとのこと。肌の色でくくられないということ。彼らはいわゆるLost Generationと言われる世代(1990年代生まれ)に属する高校中退者である。イギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国では若者の失業が大きな社会問題になっていて、NEETS(Not in Employment, Education, Training、ニート=仕事もなく、学校にも通っていない人)人口は増えるばかり。なかでもイギリスは若者の17%がNEET人口、25歳以下の60万人がこれまで仕事についたことがなく、他のヨーロッパ諸国に比べても非常に問題は深刻化している。ロンドンに住む義妹の話を聞いても、この問題がChronic Problem in Britainであって、誰もがお手上げ状態なのだと知れた。

高校を中退し、仕事もなく、将来も見えない若者が抱えた不満が、警察によるひとりの若者の射殺事件をカタリストとして爆発したのが今回の暴動であったというのが、多くの専門家の見方のようである。

カナダでも若者の失業は深刻である。ただ、イギリスと違うのは、カナダの若者の多くは大学卒業後に仕事がないことである。部分的には、カナダ人口の70%がトロントという1都市に集中しており、トロントでは少なくとも高校中退は一部の問題であると捉えられていることがあげられる。

イギリスで失業中の高校中退者の若者は、1980年代以前なら製造業の分野で何らかの仕事を得ることができたものと思われる。しかし、製造業の衰退、および製造業の海外へのアウトソーシングとともに、時代はKnowledge Economyへと突入し、学歴のない、専門教育を受けない若者が彼らの学歴にみあった仕事を国内で見つけられない状況が生み出された。今回の暴動はこうした長いグローバライゼーションの歴史と関連する事件だったと思われる。

グローバライゼーションとともに、先進国からは高校卒業程度のエントリー・レベルの仕事が失われつつある。一方では、発展途上国でエリート教育を受けた人たちは先進国へと移住するという傾向も生まれている。現在のアンバランスで不平等な経済システムは、あちこちの社会で亀裂を生みだしているが、これだけ肥大したシステムを軌道修正する術は今のところどこにもない。

失業者の人口が増えれば社会は内側から崩壊し始める。ニート人口をどうするかは、現在、先進国が直面する社会問題のうち、優先して取り組まなければならない問題であると思われる。

Tuesday, August 30, 2011

書評:Thousand Autumns of Jacob de Zoet by David Mitchelle

Cloud Atlasで話題になったイギリス人作家デイビッド・ミッチェルの新作Thousand Autumns of Jacob de Zoetは、長崎の出島を舞台にした小説。夫が先に読んで非常に感銘を受けて、He is exceptionally skilled writer!とか何とか諸手を挙げて賞賛していたので、いつもはノンフィクション漬けになっている私も読んでみた。

舞台は1719世紀半ばまで鎖国をしていた日本、長崎の出島。宗教は持ってこない、貿易だけをすると約束したオランダ人だけが居住を許されていた出島にオランダの東インド会社の書記としてやってきた若きJacob。彼らオランダ人にとって日本にいるといえども、実際に出会う日本人は通訳や貿易関連の官僚たち。

そんな環境のなかで、Jacobは同じく出島に居住していたオランダ人医師から西洋医学を学んでいた日本人の女性Orito Aibagawaに出会う。顔面に火傷の跡が残るOritoはそれを隠すためのスカーフ(日本語でなら頭巾となるのかしら?)を被っている。父親は高名な西洋医学者で、大名の妻の難産を助けたOritoは、女性であるにもかかわらず、特別に出島のオランダ人医師から教えを受けることを許可されていた。Jacobと書物に対する愛情を共有するOgawaという通訳が、実はOritoと恋愛関係にあったことなど知らないJacobは、彼にOritoへのプレゼントとして辞書を渡す。

しかし、OritoKyoga DomainLord Enomotoに誘拐され、Shiranui山の尼寺に幽閉されてしまう。この尼寺は下界とのつながりを全く絶たれたお寺で、実は寺というのは表向きに過ぎず、大抵が売春宿のようなところから連れ去られた女性たちに奇妙な規則が課されているのだった。しかし、後になって通訳のOgawaMt. Shiranuiの恐るべき秘密を知り、Oritoを救うべく旅に出るが、Lord Enomotoの部下によって殺害されてしまう。

一方の出島では、Jacobがオランダ東インド会社の内部腐敗を知り、その改革に乗り出そうとするが、敵が多く思うようにいかない。そのうちに、出島に貿易拠点を設置しようとしているイギリスの船が出島沖にやってきて、オランダ出島の存在を危機的なものにする。

David Mitchellの文体は古典的でもありながら、非常に詩的オリジナリティにあふれ悲しくて美しい。Jacobが若いときに恋に落ちた異国の女性と結ばれることがなかったにもかかわらず、心のなかにずっと思い続けてきた感情にぴったりと沿うような文体である。とりわけ、最後の部分、Jacobが死ぬ間際になって、Oritoの姿を垣間見る場面にすべてのストーリーが巧く結晶されている。

一方では史実に基づいた非常に精巧な歴史小説であり、他方では叶うことのなかったロマンスを描いた小説でもある。また、この小説には悪党がたくさん出てくる。500年生きているというEnomotoをはじめ、東インド会社で自分の利益を貪る人たちなど、こうした悪党に挑む、この時代の人物としては驚くほど道徳的で、他の国の文化に対してオープンなJacobをどうしても応援したくなる。私にとっては難しい単語がたくさん出てきて読むのに時間がかかったが、いったん読み始めたら他のことを忘れてページをめくるのに没頭するような、スリルとサスペンスに満ちた小説でもある。

Jacobは出島ワイフ(娼婦)との間にできた子どもを日本にいるときには育ててきたが、最終的にオランダに戻る際には日本に残していくことになる。そして、祖国のオランダではイギリスの脅威からオランダ出島を守ったことで名誉市民とされ、若い地元の女性と結婚し、死を迎える。ある部分で、Jacobは出島で最後にOritoを見たときに(彼女はJacobの出島ワイフの申し出を受け入れようとしていたのだったが、警備の人に追い返されたが、その後、すぐに誘拐されたのだった)どんなことをしてでも彼女を助けていれば、と後悔する。そして、彼が死の直前に見たのがOritoだったという事実はとても悲しく、Jacobの失ったものに対する思いを十分に、見事に描き出していると思う。私たちはひとつの人生だけを生きるのだけれど、そのなかで失った、大切なものに対する思いというのは深く、深く心の奥深いところに残っているものだ。その美しさ、可能性、不可能性をこういう形で描き出すことのできるデイビッド・ミッチェルの表現力は例外的だと思う。

以前、CBCラジオでインタビューを受けていたデイビッド・ミッチェルは、広島でAET(英語補助教員)として働いていた経験を話していた。その経験があるからなのだろう、お寺の匂いとか、夏の夕方の空気、座敷の音など、ミッチェルが描き出す日本の細かい風景は、日本を知る者にはAuthenticに感じられる。「当時、オランダ人が髭剃りのときにシェイビング・クリームを使っていたかどうか、といった史実を調べるのに非常に長い時間がかかった」とどこかで書いていたが、最近の作家はオリジナルな空想力に加えて、リサーチ力も必要とされているようだ。

Monday, August 29, 2011

妊娠中に胎児の障害がわかったら人工中絶をしますか?

現在では、妊娠7週目の血液検査で胎児の性別が95%の確率で分かるらしい。また、精子・卵子バンクでは、望めば知的能力、運動能力、髪や目の色、人種や民族、まつげの長さまでお好みで選べる。テクノロジーの発展により、ダウン症から他の障害まで胎児の段階でスクリーニングできる社会が到来しつつある。デンマークの新聞によれば、2030年までにはダウン症は社会から抹消されるということである。つまり、これから母親、父親になる人は、障害児の生に関して「選択の権利」があるということになる。

24日付けのIan BrownのエッセーI'm glad I never had to decide whether my strange lonely boy ought to exist(奇妙で孤独な私の息子が存在すべきかを決めなくてよかったことが私には嬉しい)は、生々しく、秀逸である。イアン・ブラウンの妻が言うように、障害者がいなくなった社会とは、寛容さに欠ける社会に違いない。

人間の完璧性とは何か。障害者(あるいは弱者)が私たちの社会に教えてくれていることは何か。人間性とは何か。テクノロジーの発展と倫理はどういう関係になくてはならないのか。さまざまな問いを考えさせてくれる、美しくも悲しいエッセーをぜひご一読いただきたい。

http://www.theglobeandmail.com/news/opinions/ian-brown/im-glad-i-never-had-to-decide-whether-my-strange-lonely-boy-ought-to-exist/article2144132/

レイトンとカナダ政治における社会民主的価値


市役所前に設えられたメモリアル

トロント市役所前に集まったたくさんの市民


ジャック・レイトンの国葬が予定されていた土曜日、市役所のコンクリートいっぱいに書かれた市民からのメッセージを前に、彼の生き方、そして死がどれほどカナダ国民の心を深く揺り動かしたかに気付いてハッとした。

私個人にとって、ジャック・レイトンは何よりも、「弱者の代弁者」だった。トロント市議会議員として、さらに連邦政治に活動拠点を移してからはNDP(新民主党)の党首として、彼の政治的功績には、女性に対する暴力に対する法整備、ゲイ・レズビアンの権利獲得、ホームレスや社会福祉をはじめ、社会的弱者に対する社会保障が数多く含まれている。

日本で派閥争いや地元主義でしか動けず、行動どころか論理的なスピーチすらできない無能な政治家ばかり見てきた私にとっては、ジャック・レイトンのような政治家は非常に新鮮だった。
ジャック・レイトンが死の数日前に書いたとされる、カナダ国民に向けた手紙は、揺るぎない彼の信念を語っていて、非常に感動的である。

“Remember our proud history of social justice, universal health care, public pensions and making sure no one is left behind. There are great challenges before you, from the overwhelming nature of climate change, to the unfairness of an economy that excludes so many from our collective wealth, and the changes necessary to build a more inclusive and generous Canada”.

“And finally, to all Canadians, Canada is a great country, one of the hopes of the world. We can be a better one-- a country of greater equality, justice, and opportunity. We can build a prosperous economy and a society that shares its benefits more fairly.”
(最後に、すべてのカナダ国民へ。カナダはすばらしい国です。世界の希望のひとつといってもいいでしょう。私たちが望めば、今以上にすばらしい国にすることができます。より公平で、より正義に満ちた国、そしてより多くの可能性を秘めた国、社会的利益を国民のすべてが享受できる、ゆたかな経済と社会を作りあげることができるのです。)


ジャク・レイトンの手紙を読んで心を動かされるカナダ人の多くは、NDPサポーターでなくても、こうした価値をどこかに秘めているように私には思われる。実際、私の感じでは、このあたりがカナダを世界で最も成功したマルチカルチャー国家(多文化国家)にしているように思われる。というのも、マルチカルチャー国家として成功するためには、弱者にやさしい、寛容で、開かれた、社会正義がまかり通る社会でなくてはならないからだ。サーコージーやキャメロンが「マルチカルチャリズムは失敗だった」と言うのは、彼らの国がマルチカルチャー社会を実現するだけの基盤が整っていなかったことが原因なのだと私は思っている。

さて、市役所周辺にチョークで書かれたメッセージには、英語だけでなくスペイン語、アラビック、中国語、日本語もあった。タミル(スリランカ系)、中国系などさまざまなエスニック・コミュニティからのメッセージも掲げられていた。「弱者の代弁者」であったジャック・レイトンは、まさにマルチカルチャー国家になくてはならない政治家であった。
ジャック・レイトンの手紙には、Social Democratic(社会民主的)な価値 --社会正義、公平で開かれた社会、弱者にやさしい社会、寛容な社会、公平な富の分配、環境保護-- がちりばめられている。NDPの掲げる価値は、しかし、Social Democraticの伝統以外にも、カナダの政治史においては実は基盤として根強く残っているように思う。カナダ政治はイギリスの保守党的価値からはじまっているが、この保守党的価値には根強いNoblesse obligeという考え方が根付いている。これは、豊かな者は社会的弱者に対して保護を与える義務があるという、貴族的な考え方である。カナダの保守党(Conservative Party)も、歴史的にみるとRed Toryという政治的伝統があって、彼らは保守党に属しながらも弱者社会保障を掲げており、社会政策に関してはかなり自由党(Liberal Party)に近いと見られていた。

Tuesday, August 23, 2011

国民の尊敬を勝ち得た政治家ジャック・レイトン死去 + (補足)日本政治を考える:日本政治におけるリーダーシップの不在

補習校で公民を教えていたとき、中学3年生に「政治家というのはどんな人ですか」という質問をしたことがある。その答えには笑いを超えて強い危機感を感じたものだ。
「悪い人」「あくどい人」「やくざ」「えらそーな人」「親のコネでしか何もできない人」「人をだましてお金をぶんどっている人」「頭を下げて、あやまっている人」「失言する人」「失言してあやまっている人」…。
大半が日本で育った彼らにとって、政治家とはネガティブな存在でしかなく、日本人の政治不信がこれほど深刻なのだと実感した。

それに比べると、カナダ人が政治家に対して持っているイメージは格段上だという気がする。ただ、それは、カナダの政治家がみんな国のため、国民のために動いているからではなく、ひろく国民の尊敬を集めるような生き方をしている政治家が、少数ではあるが実際に存在することが理由だと思われる。

NDP(新民主党)の党首ジャック・レイトン/Jack Laytonは明らかにそんな政治家のひとりだった。22日朝に飛び込んできたジャック・レイトン死去のニュースは、カナダ国民を深い悲しみに包んでいる。とくにNDPのサポーターでもない私も夫も(たぶん多くのカナダ人のように)、他のことが手につかないくらいに落ち込んでいる。

カナダ連邦政治で最も左派に属するNDP党が最も誇りする政治的貢献は、Universal Health careであろう。すべての国民が基本的な医療サービスを受けられるこのシステムは、NDPのトミー・ダグラスによって実現され(1966)、この功績によりトミー・ダグラスはCBC放送による国民投票の結果、「最も偉大なカナダ人」に選ばれている。今年7月、ガン治療を理由に一時的に政治から退いていたジャック・レイトンは、社会正義、社会保障、マイノリティの権利などを積極的にかかげてきたNDPの顔だった。今年の総選挙では、政党の歴史上初めてハーパー保守党政府に対する公式野党となり、伝統的に地元政党が強いケベック州で驚くほど票を伸ばし、カナダ政治において決定的な革命的瞬間をもたらした。

英語圏で人を褒めるときに使われることばにIntegrityという言葉がある。ジャック・レイトンはまさにこのIntegrityという言葉がぴったりの生き方をした政治家であったと思う。ジャック・レイトンが死の直前に書いたとされる手紙には、彼の揺ぎない政治的信念が反映されている。社会正義に基づいた社会、公平で平等な社会、社会的弱者にやさしい社会、  誰一人遅れをとることがないような社会、より寛容で開かれた社会の実現。それがジャック・レイトンのビジョンだったし、私はこれまでも、そして今回も彼のビジョンを読み、カナダという国に対して誇りと将来への希望を感じてきた。彼の演説や主張は、私たち、社会正義を求める国民、マイノリティのカナダ国民を奮い立たせてくれるパワーを持っていたが、それは彼のゆるぎない確信、ビジョンに裏付けられていたからだと思う。

言っていることと行動がぴったりと合致し、首相であろうと社会的弱者であろうと決して態度を変えることなく会話ができ、その限りないエネルギーとIntegrity、カリスマ、そしてカナダがどこへ行くべきか、についての明確なビジョンを抱いていたジャック・レイトンは、政治信念の違う政治家、あるいは意見のまったく合わない国民からも尊敬されていた。ハーパー首相が提案した国葬は、彼に対する国民の尊敬を考えるとまったくもってふさわしい形のお別れになるだろうと思う。
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/jack-laytons-legacy-wont-end-here/article2138288/


(補足)日本政治を考える:日本政治におけるリーダーシップの不在
ジャック・レイトンのような政治家を見ていると、日本の政治家のなかに彼のような政治家がひとりでもいないものかと思ってしまう。毎年のように首相がかわる日本は、何よりも国際政治の舞台で外交的ダメージを被っていると思う。各紙にあらわれたジャック・レイトン追悼記事を読みながら、政治家が必ず持っていなくてはならないリーダーの条件を考えてみた。

日本では、次期首相候補として某政治家が名乗りを上げているが、彼は以下のクライテリアを満たせるだろうか。何より、今の日本にこれらのクオリフィケーション、リーダーシップを持った政治家はいるのだろうか?

1)確固とした政治ビジョンを持っている
どんな国にしたいのか。国としての特徴(長所や短所)を見極める分析力を持ち、足りないものは何なのかを特定し、それを補うための計画が立てられるのか。そのビジョンは明確に国民に伝わっているのか。そして、そのビジョンに国民は同意できるのか。

2)尊敬=信頼に値するクオリティを持っている
人として尊敬できるか。言っていることと行動が一致しているか。自分でもなく、一部の人でもない、国民のために働く意思があるのか。情熱はあるのか。自分の持っている信念を貫くような生き方をしているか。

3)効率的コミュニケーションができる
論理的にものごとが考えられ、論理的に意見が言えるか。反対意見に対して、論理的に反論できるか。感情的な議論には組しないか。どのレベルの人ともコミュニケーションができるか。言っていることに国民が共鳴できるような話し方ができるか。

結局、リーダーシップ・スキルを持たない政治家は、偶然にも運良く首相(政治家)になれたとしても長期的には続かない。それに、そういう輩が国政に携わっていると国民にとって迷惑極まりない。すべての職業にその職業に必要なスキルが要求されるように、政治家にもかならずスキルのチェックを行うべきだと強く思う。

モラルなき資本主義の結果としてのover-sexualisation

フランスの下着販売会社Jours Apres Lunesが、ウェブサイトで6歳くらいのモデルの女の子にパールのアクセサリーをつけたり、ブリジッド・バルドー風のヘアスタイルをさせ、なまめかしいポーズをさせて商品をアピールしていることで、over-sexualisation(オーバー・セクシュアライゼーション:本来、性的でないものを性的に見せること、の意。日本語で何というのかしら?)との批判を集めている。この会社がターゲットにしているのは4~12歳の女の子で、批判の多くはモデルの子が単なる子どもではなく、「小さな女性」として扱われていることに集中している。「Exploitive(搾取主義)」、「Creepy(気持ち悪い)」、あるいは「ペドファイル(幼児を性愛の対象として見る人)のファンタジーをあおっている」として、とりわけ北米からの批判が多いという。

over-sexualisationといえば、最近、フランスの雑誌Vogueが10歳のThylane Loubry Blondeauを表紙に使ったことで批判の矢面に立たされたほか、アパレルのAmerican Eagleは、先週、ティーンネイジャーの女の子向けにプッシュアップ・ブラを発売し、大きな議論をかもしている。また、Miu Miuも14歳のHaille Stainfeldを起用するなど、ファッション界では10代の女の子をモデルとするなど、業界のモデルおよびターゲットにしている消費者の年齢が目に見えて低下している。

私もover-sexualisationの問題は非常に気になっている。根本にあるのは、どこまでも利益だけを追求する資本主義だと思うし、同時に企業の戦略に易々と乗ってしまう消費者が当たり前のように浸かっている消費主義だと思う。

数週間前のこと。Yorkdale Mallで父親と4、5歳くらいの女の子を見た。その女の子のファッションには驚いた。彼女は、超ミニスカートのすそからフリルをのぞかせ、黒いレースのトップに何重ものパールのネックレスをしていて、女の子というよりは明らかに「小さな女性」だった。父親はAbercrombie and Fitchの大きなロゴの入ったシャツを着ていて、手にはいくつものショッピング・バッグを持っていた。あとで、彼らが日本語を話しているのを聞いてショックだったが、確かに日本ではこういう場面にときに出くわすことがある。Consumerismの行き過ぎやブランド商品の過剰化は日本でよく見られるが、私には本当に気味の悪い現象に見える。本人はブランド商品を着て気持ちいいのかわからないが、結局、企業の側からすると、彼らは自ら歩く無料広告塔になってくれているわけで、こんなにありがたいことはないだろう。

いくら企業が何と弁明しようと、彼らの第一の存在理由は利益追求にある。そのためには企業は手段を選ばない。倫理性もモラリティも彼らには問題ではない。本来ならば、お金を持っている大人が消費者であるから、企業は彼らを対象として彼らの欲望を満たすサービスやグッズを提供してきたが、しばらくすると企業はもっとよい計画に気付いた。それは、将来、「消費者」となりえる子どもを小さいころから「消費者」に訓練することだった。ドキュメンタリーSupersize Meが指摘したように、子どものころに親しんだ味は一生消えない。マクドナルドはそれに目を付けて、Happy Mealや子どものお誕生日パーティーという商品を打ち出し、子どもが楽しめるようなプレイグラウンドを次々と作っていった。結果、マクドナルドはかつてない消費者のLoyalty(忠誠)を獲得することになった。

先に述べたフランスのアパレル企業がやっていることは、この変化球に過ぎない。こうした動きを批判する人たちは、企業が消費者の幅を押し広めるこうしたやり方が倫理的ではない、消費者の知らないうちに「消費者トレーニング」を課していると批判する。しかし、ほんとうにそうだろうか。企業に「倫理」を求めるより、親、つまり大人の消費者ひとりひとりがこうした策略に抗するだけの知識と批判的能力を身につける方が断然意味のあることではないかと思う。

私は資本主義がすべて悪だとは思わない。資本主義のよい面であるInnovation、あるいは技術開発などは、本来、人間がもつ自然の本性にあった側面であると思う。人間の、よりよいものを作りたいという欲求は、さまざまな開発をもたらしてきたし、それで多くの人たちの命は救われ、生活は便利になった。しかし、一方では利益追求を固執するあまり、倫理性や道徳性をおざなりにしてきたが、それは消費者が「知識や常識」あるいは「批判的精神」を持っている限り、許されることではない。消費者が企業の戦略を鵜呑みにしているような状況こそ、大きな問題だと思う。

人間を「消費者」としてしか見ない企業の言いなりにはならないこと。「消費者」である前に「市民」であること。「その手には乗らないわよ!」としっかり反論できること。そのために情報を集め、懐疑的になったり批判的になったりするのはまったく当然で、健康的なことであると信じている。

参照:French lingerie firm pretty babies prompt calls to let girls be girls (The Globe and Mail, August 19, 2001)

Thursday, August 18, 2011

Honour Killing(名誉の殺人)かDVか

以前、「女性蔑視とDV(ドメスティック・バイオレンス)」でも触れたが、今日はHonour Killingについて書いてみたい。この問題は、女性に対する暴力という問題のみならず、多文化主義においてホスト・コミュニティの価値観と対抗する伝統をどう受容するか、という非常に複雑で興味深い問題を内包している。

●事件
今年7月22日、21歳になるShaher Bano Shahdadyがトロントのスカーボロー地区で殺害されるという事件が起こった。警察は容疑者として夫のAbdul Malik Rustam (27)を逮捕したが、この事件がメディアの注目を集めたのは、honour killingの可能性が否定できないためだった。彼女は生まれて間もなく家族とともにパキスタンから移民してきており、13歳でパキスタンの学校に入り、18歳で従兄弟にあたるRustamと結婚。妊娠後、カナダに戻って心臓に障害のある子どもを出産したが、二人の関係は非常に悪化していた。

●honour killingかDVか
この事件をhonour killingと見るか、DV(ドメスティック・バイオレンス)と見るかによって、専門家の意見はわかれている。Tarek Fatah (Muslim Canadian Congress)によれば、Rustamは妻がブルカ(頭からすっぽり被るドレス)を着用しないこと、あるいはFacebookで他の男性と連絡をとっていたことなどに強く反対していたこと、彼女は離婚を願っていたことなどから、この殺人は明らかにHonour Killingであるという。一方、こうした殺害は部分的にはDVであるとする専門家もいる。トロントのバーブラ・シュリファー・コメモレティブ・クリニックのカウンセラーFarrah Khanは、DVは移民コミュニティ(とりわけ南アジア・コミュニティ)にだけ存在するのではないことを強調し、南アジア・コミュニティ内で起こる女性に対する殺害を簡単にhonour killingとすることを拒否している。

honour killing(名誉の殺人)とは、通常、家族の名誉に泥を塗ったという理由で、男性メンバーが家族や親族の女性メンバーを殺害することで、イスラム教圏では、これは例外的殺人にあたるため、殺人を犯した本人が罰せられることはほとんどない。家族の名誉を取り戻すために殺害を犯す必要があるという考えが背景にある。ただ、通常、家族や親類の女性に対して振るわれる暴力、いわゆるDV(ドメスティック・バイオレンス)との線引きは非常に難しく、HKが南アジア系コミュニティでしばしば見られることから、専門家やメディアはHKという名称を使うことでステレオタイプ、あるいは人種差別者というレッテルを貼られることを非常に気にしている。

カナダでは2002年以降、12件のhonour killingが報告(2010年時点)されており、移民人口の多いトロント周辺ではhonour killingらしき殺人が起こっている。たとえば、2008年、娘がブルカを着ないという理由で、父親と兄が協同して16歳のAqsa Parvezを殺した事件、あるいは、2009年にAmandeep Kaur Dhillonが義父によって殺される事件などが記憶に新しい。カナダの刑法であるCriminal Codeには、honour killingという言葉はなく、警察もこれらの事件をhonour killingであると特定することはない。

●ホスト文化の価値観と対立する文化を受容すべきか、という議論
honour killingは移民を多く受け入れている西洋諸国で見られる問題だが、こうした伝統は西洋的価値と矛盾することから、数々の議論が起こっている。一方では、7月22日にノルウェーで起こったアンネシュ・ブレイビクによるテロ事件にあらわれたように、移民の西洋的価値への絶対的適応を要請し、とりわけイスラム教的価値観を容認すべきではないとする見方がある。アメリカやフランスなどに比べると、今のところカナダでは何とかこうした異なる価値感を妥協しながら受け入れていこうとする動きが主流を占めていると思われる。ただし、どこまで受け入れるか、に関してはやはり議論が尽きないし、移民の文化がhonour killingといった犯罪に発展する場合は、より問題は複雑である。私が見たところ、カナダで政治家や知識人が最も恐れるのは、ステレオタイプや人種差別主義者とのレッテルを貼られることであるため、メディアや知識人のあいだでは移民の文化に関してはなるべく触れないでおこう、移民の文化に関してはそのコミュニティをよく知る専門家に意見を聞こうとする流れもある。

さて、honour killingに話を戻すと、南アジア系コミュニティをよく知るソーシャルワーカーのAruna Pappは、とりわけ南アジア圏から来る移民に対して、カナダに来た際にはカナダ社会においては女性の権利や女性の地位はどうとらえられているのか、といったことを学ぶプログラムを移民に提供すべきだと示唆している。興味深いのは、こうした提案に異議を唱えるのはたいていがリベラルな白人アカデミックであって、彼らは特定のコミュニティのレイシャル・プロファイリング(racial profiling、特定のコミュニティにステレオタイプのプロファイルを課すこと)の可能性に懸念を示している。確かに、特定のコミュニティに対してだけそうしたプログラムを提供すれば、他でもない、プロファイリングであるので、このあたりは非常に複雑な問題である。

ちょっと話は逸れるが、アメリカの保守的ニュース番組Fox Newsでは、キャスターやコメンテーター-すべて白人-がhonour killingを批判して、「こうした伝統はアメリカ社会では許容できない!」と感情むき出しになっていたりする。一方、南インド系コミュニティから専門家やイマームを呼んできてインタビューしているカナダのCBCとはまったく捉え方が違っていて唖然とする…。

実は、似たような問題として、宗教を学校に持ち込むこと、あるいはFGM(Female Genital Mutilation、赤ちゃんのときに女性器を切断する風習)なども同様に議論がなされているので、また項を改めて書きたいと思う。

Wednesday, August 17, 2011

有毒リップスティック

1日の終わりに鏡をみると、口紅の色がほとんど残っていない。「朝つけたリップスティックのほとんどが体のなかに入ってしまったんだろうね」と思いつつ、微量ならたいした問題はないと、半ばこの問題から無理矢理に目をそらしてきた私…。

しかし、先週末のGlobe紙によれば、政府の食品安全委員会は許可しているものの、厳密に調べてみると、大半のリップスティックから、カドミウム、砒素、鉛が検出されるという。「微量ならたいした問題ではない」と思われるかもしれないが、女性が一生のうち体内に取り込むリップスティックの平均的量は4~7パウンド(1パウンドは453.6g)と半端ではない。40を過ぎて、この問題性にやっと目覚めた次第である。
専門家は、原料ラベルを確認し、なるべく少量の原料が使われている商品を選ぶことを推奨している。
何よりおすすめなのは、Skin Deepというデータベース。ここには、6万8000品もの化粧品のプロファイルが見られ、各商品の有害性が確認できる。これまで、子ども用のシャンプーやサンスクリーンなどを買うときにこのサイトを利用してきたが、まさか自分のリップスティックの安全性にまで目を向けてこなかった。今日はこれから安全なリップスティックを買いに行こうっと。

EWG’s Skin Deep Cosmetics Database(化粧品のデータベース)
http://www.ewg.org/skindeep/

Tuesday, August 16, 2011

19歳の日本人女性、ナイアガラの滝に転落

今日、早朝のCBCラジオ・ニュースを聞いていると、19歳の日本人がナイアガラの滝に落ちたと報じていた。ナイアガラの滝を囲っているフェンスをつないでいる石柱の上にのぼって写真を撮っていたが、そこに立った瞬間、バランスを崩して25メートル下の滝に落下したという。警察は周辺の捜索活動を続けているが現時点では発見されておらず、死亡は確実と見られている。報道によると、この日本人女性はトロントの語学学校に通っていたというから、語学留学生だったに違いない。

Windsor Star紙が報じるところによると、ウィンザー在住のカップルが撮った写真の背景に偶然写った女性が、被害者ということである。
http://blogs.windsorstar.com/2011/08/16/city-desk/
8月17日付けトロント・スター紙は、日本人女性の名前を「トクマス・アヤノ」と報じ、Facebookからの写真をトロント・セクション1面に転載していた。

CBCのインタビューを受けて、City of Niagara Fallの市長は、「安全面に問題があったのでは」という疑念を全面的に否定し、何万人という観光客が訪れているナイアガラの滝でこうした事故が起こるのは非常に稀だとし、被害者の安全性に対する判断力の欠如を強調していた。また、その背景にあるのはFace bookなどのソーシャル・メディアやインターネットで、そうした媒体により目を引く写真を撮ろうとする傾向性についても指摘していた。要するに、自分の市政にはまったく過失はない、というインタビューだった。

Toronto Star紙は、被害者の女性が岩の上にのぼって写真を撮っているのを見て危機感を感じたが「英語が分からないようだったので何も言わなかった」という傍観者の発言を掲載していた(もちろん、この人を責めるつもりはないが、「英語が分からないようだったから」というExcuseは一体何なのだ? いくら言葉が通じなくても、危険だからやめなさい、というくらいは危機感があればするはずだと思う)。

先の市長をはじめ、この事故が単にIsolated Case(単独で起こった事故)であって、より大きな社会的問題(海外からのツーリストに対する配慮、安全面)をはらんでないという見方が今のところ大半を占めているようだが、本当にそうなのだろうか。もちろん、カナダのメディアはそれ以上は見ないだろう。ただ、トロントに暮らす日本人の私には、「日本人の危機意識の低さ」「周囲が目に入らない」傾向性についても、念のため、触れておく必要があるのではないかと思われる。

カナダ人にとって、トロントで英語を勉強している日本人の女性は非常にOff Guardに見える。地下鉄の駅でお財布から厚い紙幣の束を出して数えていたり、見知らぬ男性から話しかけられて単にニコニコ笑っていたり、あるいは図書館で大きな声で笑いながら話をしていたりする姿を見ると、私もかなり違和感を感じてしまう。危機感がない、というのはひとつだが、周囲がどうなっているのか全く気にしていない様子は、私の目には奇妙に映る。もう少し言えば、こうした「危機感のなさ」、あるいは「周囲が目に入らない」は、責任ある大人としての成熟度の欠如だという気がする。微笑を誘っているうちはよいが、それが盗難やレイプといった事件に発展する可能性は絶対に忘れてはならないと思う。

トロントに来ている日本人語学学生、ワーキングホリデーの人たちすべてがそうだとは言わない。邦人の安全性に助言を与えるべき領事館が、こうした問題に関してどう動いているのかは知らない。また、こうした問題がトロントの日系コミュニティで語られるべき優先問題であるとは、私には思われない。ただ、こういう傾向性とその結果についてはどこかで語られなくてはならないという気がしてならない。

Tuesday, August 9, 2011

Hiroshima Day in Toronto(前回からの続き):科学技術原理主義に抗して

核兵器、原発はどうして存在しているのか。核兵器、原発をどうして破棄できないのか。あんなに人間にとって脅威なのに。Hiroshima Day CoalitionのFaith & Abolition: No Nuclear Weapons, No Nuclear Powerに参加している最中、私はそれをずっと考えていた。

1980年代には、核抑止理論というのが台頭し、核を持つことで平和が保たれると信じられていたが、現在、核抑止理論を云々する政治家は時代遅れと考えられている。共和党のオバマ大統領は、NPT推進を外交政策の要とすることを宣言したが、実際には核兵器は今は国家の枠を超えて、小規模なテロリスト、原理主義者といったグループによる所有も確認されつつあり、核を保有することで得られる力は政治的には実際問題として存在するものと思われる。

ここでは、政治的な理由は置いておいて、少し別の理由を見てみたいと思う。
私には、どうも科学技術が内包する問題に触れないことには、問題の根源が見えてこないように思われる。一般的には、科学の進歩はポジティブにとらえられている。私はよく日本から来てトロントに住んでいる人たちが「カナダに比べたら日本のテクノロジーは数段進歩している」というような言葉を口にするのも聞いている。このコメントは「日本のほうがすぐれている」という意味である。確かに、科学技術は私たちの生活を豊かにしている側面もあるだろう。たとえば、インターネットのある時代に海外移住した私などは、テクノロジーの恩恵を毎日のように感じつつ暮らしている。しかし、だからといって科学技術のネガティビティを帳消しにしているわけではないことは覚えておかねばならない。

世界初の原子爆弾開発には世界でも有数の、数多くの科学者がかかわっていた。別の言葉でいえば、原子力爆弾の開発は科学者の知識や技術なしでは不可能だった。私は科学をやっている人間ではないが、科学分野で研究をしている友人たちは、寝食を忘れて研究に没頭している。彼らの研究への情熱は、部分的には新しい発見、部分的にはそれが社会にもたらす恩恵に基づいている。新しいものを発見する情熱は否定できないし、それによって歴史上多くの発見は可能になったわけで、その恩恵の数々はここで指摘するまでもないだろう。

それゆえ、私はFaith & Abolitionの集会に参加していた一人が言うように、「科学技術そのものが悪い」とは考えていない。彼からもらったパンフレットには、「現代の問題の多くは、科学技術に起因している」と書かれていて、すべての科学技術を排して安全で平和な世界をつくろうと訴えていた。彼の言っていることには一理あるが、この主張が現実的であるとは到底思われない。

私たちが今、きちんと向き合わなくてはならない問題は、科学技術に対する熱狂的な信仰、Scientific-technological Fundamentalism、つまり科学技術原理主義であると思われる。これは、科学万能主義と同様、人間が遭遇する問題のすべてに解決を与えてくれるのは科学であるという考え方である(scientific expansionism=科学拡張主義も同じ)。理性による批判をまったく加えないままに、宗教を信じる原理主義者のように、科学技術の原理主義者もまた非常に強い信念(というより、実はドグマ)にのみ基づいて科学技術を崇拝し、それが「真実の道」であると信じている。そして、この考え方は思ったよりも広く社会に浸透していて、科学技術に関して全く無知であったり、科学と縁の無い生活を送っている人たちですら、水で薄められた科学万能主義的考え方に染まっていたりする。

2011年3月に起こった福島原発事故の後、市民の間ではそれまではほとんど表立って論議されることのなかった原発に対する賛否が大きく割れた。私が見る限り、原発に賛成していた多くが、科学技術を職業としている人、あるいはそれを勉強した人たち、また、そこから個人的に利益を受けてきた人たち、あるいは原子力産業のプロパガンダを盲目的に信じてきた批判能力(Critical thinking)をまったく持たない市民だったが、彼らの論理の根本にあったのは、「科学技術(=人間)の力をもってすれば、原子力はTameできる」という動かし難い信念だったように思う。「信念」というのはまさに言葉どおりで、これは理論や理性にもとづいたものではない。「東電に事故が起きたときはどうするのだ、と聞いたら、事故なんて起きないから安心しなさい、と言われた」という福島原発近隣住民の言葉、あるいは「原発は100%安全」という言葉にはその狂信ぶりがしっかりと表れていた。

科学技術が「理性」や「批判的能力」や「倫理」から独立して一人歩きすることの危険性は、歴史が証明している。マンハッタン・プロジェクトにはそのプロジェクトの過程を鳥瞰的に批判できる倫理部門が欠落していた。原子力爆弾を一般市民の頭上に投下し、一般市民がその瞬間から世代を超えて被る被害に関する残虐性、その倫理的正当性についての議論はなされなかった。悪名高き日本の731部隊は、科学進歩のためという目的のもと、数々の残虐きわまる実験を繰り返した気鋭の科学者による殺人集団であった。

オッペンハイマーは自分のかかわったマンハッタン・プロジェクトの最終結果を実際に自分の目で見て初めて、その破壊力を思い知り、死ぬまでプロジェクト関与を後悔し続けたという。私は、あれだけの科学的知識と知性を備えたオッペンハイマーが、自ら開発にかかわった新技術が自分と同じ人間に想像を絶する苦しみを与えるであろうことが、なぜ想像できなかったのかと理解に苦しむ。ただ、科学者や政治家は目の前にターゲットを置くと、それを獲得することばかりに終始する傾向があり、モラリティという面では到底あてにはできない。となると、批判的能力を見に付け、バランスのとれたモラリティを確保しておくべきは私たち市民に他ならない。モラリティを欠く科学者や政治家、そこに連なって金利をむさぼっている資本家に、私はもはや何の期待も持っていない。

ノース・ヨークの区役所で展示された原爆写真展のパネルには、「もはや核のあり方を政治家だけに任せておくことはできない。私たち市民がしっかりと政府を監視する必要がある」とあったが、「核」という言葉は「原子力発電」にも置き換えられるはずだ。私はこのことばの意味の深さを、とりわけ福島原発事故後に実感している。

Sunday, August 7, 2011

Hiroshima Day (ヒロシマ・デー) in Toronto


8月。広島生まれの私は、やっぱりこの時期になると戦争について考えることが多い。
今年は、North York Civic Centre(ノースヨーク区役所)で行われたHiroshima, Nagasaki Poster & Survivor’s Artwork Exhibitでボランティアをし、8月6日はFaith & Abolition: No Nuclear Weapons, No Nuclear Powerの集会に参加した。どちらもToronto’s Hiroshima Day Coalition主催で、私たちのTA9(Toronto Article 9)もCoalitionに名前を連ねている。

Exhibitionは、原子力爆弾の開発と背景などの説明、原爆や被爆者の写真をパネル展示していて、その展示を見た数人からコメントを聞く機会があった。ひとりの人は「本当にばかげたことだ! 人間というのはなんてばかなのだ」と非常に憤慨していた。また、別の人は「原子力は平和的利用に限るべきだ」とコメントを残していった。子どもにあまりにも生々しい写真を見せないようにしていた母親もいた。そして、「私は1945年、広島にいた」という女性は、彼女の息子を指して「彼は1945年4月に広島で生まれたの」と日本語で言った。詳しく聞いてみると、彼女は日本人ではなくて、韓国(当時は日本に併合されていた)から出稼ぎに広島の工場に来ていたという。その後、広島から離れたので被爆はまぬがれたらしい。しかし、「もう少し長く広島にいたら、どんなことになっていたか…」と視線を落とした。帰り際、彼女が「カナダはいいね」としんみり言っていたのが印象的だった。

そのあと、ボランティアに来た日系2世のPaulは、「バンクーバーで生まれたが、原爆が落とされたときに広島にいた」と流暢な日本語で話してくれた。1945年8月6日、東広島市に滞在していたPaulは、頭上にB29が飛ぶのを見て、しばらくして大きな爆発音のあと、煙がもくもくと広島市上空に上がるのを見たという。当時は何が起こったのかまったく分からなかったが、翌日、近所の人が広島市の駅員として市まで働きに行って帰ってきたが、その翌日に、突然元気だったその人が死んだことから、町の人たちは「なにかとてつもなくおそろしいことが起こっているから、広島市にはぜったいに行くな」と話し合ったという。
広島、長崎での原爆投下を実際に経験した人がいまも健在だという事実が、非常に重く感じられた。

8月6日、The Church of the Holy Trinityで行われた集会は、日本人の私が知っている「追悼集会」という色合いはまったくなく、「反核、反原発」というGoalを目指す毛色の違う団体がそれぞれに主張をそれぞれのやり方で繰り返し、「ヒロシマ・ナガサキ」は彼らにとっては反核のシンボルなのだと強く実感した。

従来は8月6日のHiroshima Day Coalitionの集会は、トロント市庁舎前のNathan Philip Squareで行われ、政治的には左派の市長はMayers for Peaceにも名を連ね、「非核都市」を宣言したトロント市は全面的にバックアップしていた。今年はSquareの改修工事を理由に、集会は通りを挟んだThe Church of the Holy Trinityで、灯篭流しはいつものようにNathan Philip Squareのプールで行われた。また、従来は「反核」の集会であったが、今年は3月の福島原発事故を受けて、マンデートに「反原発」を盛り込むことになったのは新しい動きである。

個人的には「憎悪は暴力ではなく、愛で包むべき」といった宗教的なことばや、プレーヤーにはちょっとついていけなかったというのも事実だが、こうして政治的信念を同じくする人たちの情熱というかポジティブな態度にはいつもながら勇気付けられた。彼らのPositivityは、部分的にオバマ大統領の核兵器に対する態度から来ている。オバマ大統領は、各国に呼びかけて核を減らそうと積極的に動いており、NPT(Nuclear Non-Proliferation Treaty)を外交政策の要としている。

いろんな団体の代表のスピーチは興味深くはあったが、ときに退屈で、ときに私は自分の思いに浸っていた。退職したトロント大学社会学部の教授が、世界にはこれだけの核兵器があって、これだけの威力があって…、と話をし、Clearn Airの代表が、原子力発電に欠かせないウラニウムは、核兵器に簡単に変えられる…というのを聞きながら、私が考えていたのは、「核兵器、原発の脅威は人間の想像力を超えているのに、どうして核兵器、原発は存在しているのか」ということだった。(続く…)