12月22日、フランス議会下院は第一次対戦中に起こったオットーマン=トルコ帝国によるアルメニア人虐殺を公的に否定することを犯罪とする法案を可決した。
一方、トルコ政府はこの動きを猛烈に批判し、来年4月に予定されている大統領選挙での票稼ぎを目論んだサーコージー大統領の政治的意図、フランス国内でのトルコ差別やイスラモフォビアをほのめかし外交問題に発展している。
アルメニア人の虐殺(アルメニアン・ジェノサイド)とは、第一次世界大戦中の1915年、トルコ東部でオットーマン=トルコ帝国によるキリスト教徒で民族的マイノリティのアルメニア人約150万人が組織的に殺害された事件(数については一部の専門家の間で議論があるようだが、欧米の大手メディアはこの数字を取っている)。西欧諸国の歴史家や専門家のあいだでは「ジェノサイド」のひとつとされており、アメリカやフランスをはじめとする国々では、国会の議決を通して「ジェノサイド」と位置付けられ、トルコ政府による謝罪と補償を要求している。
トルコ政府のアルメニア人虐殺に対する態度をひとことで表すなら「否定」であり、なかに虐殺の事実を認めたとしても、どちら側も多大な犠牲を払ったわけで、トルコ人だけが責められるのはおかしい、と公言している政治家もいる(犠牲者の数に関しても見解が一致していない)。国民の大半もこの問題が海外(白人の国々、ユダヤ=キリスト教的文化に根ざした国々)で取り上げられるたびに、トルコおよびイスラム文化に対する侮辱、あるいはトルコ差別であると感じる人が多く、この問題がナショナリズムと絡んだかなり感情的な問題であることがうかがい知れる。(こう見てくるとわかるが、アルメニアン・ジェノサイドとトルコ政府の反応は、南京虐殺に対する日本政府および国民の反応と、ある意味で最もパラレルな関係にあると思われる。)
フランスでは、2001年にはアルメニア人虐殺をジェノサイドであると認める法を国会で可決、2011年5月には、アルメニア人虐殺の否定を犯罪とすることが下院で可決されたものの、上院で否決されたという経緯がある。
同様の法律は、ホロコースト否定にもあてはまり、ドイツと同じくフランスでも公的な場でホロコーストを否定すれば、犯罪となる。ちなみに、私の住むカナダでも同様で、ホロコースト否定はヘイトクライム(憎悪罪- ある特定のグループに対する憎悪をあおることに対する罪)にあたる。
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Sunday, December 25, 2011
Tuesday, December 13, 2011
オタワ日本大使館前で水曜日デモ
今年12月14日は、従軍慰安婦問題の解決を日本政府に求める1992年1月8日(水曜日)に始まったデモから1000回目にあたる。オタワの日本大使館前でも、この水曜日デモが予定されていて、Toronto Star紙もこの問題を記事として取り上げていた。
参考)Toronto Star紙
Brampton students join ‘comfort women’s’ quest for justice
http://www.thestar.com/article/1100922--brampton-students-join-comfort-women-s-quest-for-justice
参考)Toronto Star紙
Brampton students join ‘comfort women’s’ quest for justice
http://www.thestar.com/article/1100922--brampton-students-join-comfort-women-s-quest-for-justice
Thursday, December 8, 2011
カナダの戦争捕虜に対する日本の公式謝罪
The Globe and Mail (Dec.8, 2011)
Globe and Mail紙も、第一面にこの記事を掲載し、トップニュースとして伝えていたほか、カナダのメディアはこぞって日本の公式謝罪を重大ニュースとして報道していた。CBCニュースでは、「official apology/公式謝罪」と言われていたので、日本語によるソースをインターネットで探したのだけれど、日本のメディアがこの件をまったく取り上げていないという事実には驚いた。
1941年、1975人のカナダ人兵士が大英帝国の植民地であった香港に送られ、日本軍との熾烈な戦いを強いられた。結果、約1600人もの兵士が日本軍の捕虜となり、約3年半の間、過酷な環境のもとで炭鉱などの強制労働に従事させられ、栄養失調、病気、日常化していた虐待に苦しめられた。1945年に日本が降伏した際には、すでに250人の兵士が命を失っており、残った生存者も病気や障害をその後も引きずって生きることを余儀なくされた。
過去数十年にわたり、カナダの退役軍人会は、日本政府からの公式謝罪を要求し、ロビー活動を行ってきた。今回、カナダ連邦政府Veteran’s Affair Minister(退役軍人局大臣)が高齢の退役軍人の一団を引き連れて謝罪を要求するために日本にわたった。これを受けて、加藤敏幸外務大臣政務官が1941年の日本軍による香港侵略70周年にあたる12月7日、カナダ人PoWに対し公式謝罪を提供したという。
Globe紙が指摘しているように、近年、日本は戦争責任に対する謝罪をいくつか提供し始めていて、今年の3月にはオーストラリアのPoWに対して前原外務大臣(当時)が公式謝罪を表明している。
歴史家のMichael Boireによると、日本軍の捕虜の扱い方は歴史に例を見ないほど残虐で、たとえば第二次大戦中にドイツ軍の捕虜になった兵士のうち、95%は生き延びているのに対し、日本軍による捕虜のうち生き残ったのは50~60%のみだという。
退役軍人のなかにはこの謝罪に対し「遅すぎる」、「何の意味もない」と批判的な人、「謝罪は絶対に受け入れられない」と突っぱねる人がいる一方、カナダ連邦政府外務大臣ジョン・ベアードや他の歴史学者、専門家は公式謝罪が意味するところは大きいとし、今後の日加関係にとって重要な節目になるだろうと期待している。
各種ソースを読む限り、謝罪には金銭的補償は含まれていないようである。それに、なぜ日本の大手メディアや政府がこの重大なニュースを報じていないのか。さらに言えば、なぜ外務大臣ではなく、外務大臣財務官による謝罪なのか。そのあたりも不明な点が多く、今もって首を傾げざるをえない要素が多く、何だかどうにも引っかかるニュースである・・・。
参考)
The Globe and Mail:
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/were-sorry-japanese-government-tells-canadian-pows/article2264086/
Montreal Gezette:
http://www.montrealgazette.com/news/Japan+apologizes+treatment+Canadian+POWs/5829793/story.html
CBC News:
http://www.cbc.ca/news/canada/nova-scotia/story/2011/12/08/ns-pow-japan-apology.html
Sunday, May 29, 2011
'Butcher of Bosnia' ラトコ・ムラディッチ逮捕される
Butcher of Bosniaと呼ばれるラトコ・ムラディッチがボスニア=ヘルツェゴビナ紛争から16年経った2011年5月26日、ついにセルビア当局によって逮捕され、ICC(International Criminal Court)へ送られることになった。ムラディッチはボスニア=ヘルツェゴビナ紛争でボスニア=セルビア軍の指導者として、少なくとも7500人のボスニア系イスラム教徒の虐殺および女性に対するレイプを主導したとされる。
第二次世界大戦後、ヨーロッパを襲った最悪の虐殺はボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の際に起きた。とりわけスレブレニツァはイスラム系およびクロアチア系に対するエスニック・クレンジングの場所となった。
16年経ったムラディッチが今まで逮捕もされず、法のもとに裁かれることがなかった背景には、世界では戦争犯罪の責任を課せられ、人間性に対する罪を問われていたムラディッチが、旧ユーゴスラビアのセルビア系からはヒーローのようにあがめられていたことが背景にある。実際、ムラディッチの居場所や行動はセルビア当局にはちゃんと把握できていた。ムラディッチを目撃したという声も頻繁に聞かれ、ムラディッチがまったく普通の市民として生活していたことも知られていた。ただし、セルビア系のあいだにはムラディッチに対する支持は強く、たとえば、先月の調査によると51%のセルビア系市民がムラディッチのハーグ送還を支持しないと答えていた。
こうした背景もあり、セルビア当局は時期を選ぶかのように、こうして長い間、ムラディッチを自由に泳がせていたが、ヨーロッパ連合(EU)への加盟はセルビアの長年の念願であり、その条件としてムラディッチのハーグ送還は不可欠だった。
ムラディッチに直接会ったというジャーナリストの記事を読んだ限り、横暴で傲慢なプロフィールが描かれているが、昨日逮捕されたムラディッチの姿にはそうした様子はまったくなく、痛みに苦しむ弱々しい老人という変わり様だった。
数ヶ月前はチリでアレンデが逮捕されたという記事を読んだ。こうして時間はかかっても正義がなされることは大切だと思う。
アーナ・パリスの「歴史の影」を翻訳したとき、彼女の言っている「不処罰は人々の心を荒ませる」というのに強く共感したものだ。自分が暮らす社会で不処罰が堂々とまかり通っているのを見れば、人々はルールを守らないことを何とも思わなくなってしまうし、将来に対する希望が持てない。そして、人々の心は荒み、国家は内部で崩壊してしまう。正義がなされる社会でのみ、人々は明るい展望を持てるのであり、社会正義は健全な国家にとっては基盤のようなものだと思う。ムラディッチの逮捕およびハーグ送還により、セルビアは確かに過去に終止符を打つための一歩を踏み出したのであり、今後は和解に向けたプロセスを始めるきっかけになるであろう。
第二次世界大戦後、ヨーロッパを襲った最悪の虐殺はボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の際に起きた。とりわけスレブレニツァはイスラム系およびクロアチア系に対するエスニック・クレンジングの場所となった。
16年経ったムラディッチが今まで逮捕もされず、法のもとに裁かれることがなかった背景には、世界では戦争犯罪の責任を課せられ、人間性に対する罪を問われていたムラディッチが、旧ユーゴスラビアのセルビア系からはヒーローのようにあがめられていたことが背景にある。実際、ムラディッチの居場所や行動はセルビア当局にはちゃんと把握できていた。ムラディッチを目撃したという声も頻繁に聞かれ、ムラディッチがまったく普通の市民として生活していたことも知られていた。ただし、セルビア系のあいだにはムラディッチに対する支持は強く、たとえば、先月の調査によると51%のセルビア系市民がムラディッチのハーグ送還を支持しないと答えていた。
こうした背景もあり、セルビア当局は時期を選ぶかのように、こうして長い間、ムラディッチを自由に泳がせていたが、ヨーロッパ連合(EU)への加盟はセルビアの長年の念願であり、その条件としてムラディッチのハーグ送還は不可欠だった。
ムラディッチに直接会ったというジャーナリストの記事を読んだ限り、横暴で傲慢なプロフィールが描かれているが、昨日逮捕されたムラディッチの姿にはそうした様子はまったくなく、痛みに苦しむ弱々しい老人という変わり様だった。
数ヶ月前はチリでアレンデが逮捕されたという記事を読んだ。こうして時間はかかっても正義がなされることは大切だと思う。
アーナ・パリスの「歴史の影」を翻訳したとき、彼女の言っている「不処罰は人々の心を荒ませる」というのに強く共感したものだ。自分が暮らす社会で不処罰が堂々とまかり通っているのを見れば、人々はルールを守らないことを何とも思わなくなってしまうし、将来に対する希望が持てない。そして、人々の心は荒み、国家は内部で崩壊してしまう。正義がなされる社会でのみ、人々は明るい展望を持てるのであり、社会正義は健全な国家にとっては基盤のようなものだと思う。ムラディッチの逮捕およびハーグ送還により、セルビアは確かに過去に終止符を打つための一歩を踏み出したのであり、今後は和解に向けたプロセスを始めるきっかけになるであろう。
Monday, April 11, 2011
なぜ過去を水に流そうとしないのか
「日系の声・Nikkei Voice」2005年10月号掲載
ウクライナ系カナダ人に対する戦後補償に寄せて
2005年8月24日は、リドレス(補償)問題に関心を寄せるカナダ市民にとって記念すべき日となった。この日、ポール・マーティン首相が第一次大戦中に強制収容所に送られ、公民権を剥奪されたウクライナ系カナダ人に対して公式謝罪を提供したのである。
今回の利ドレスが1988年の日系カナダ人の場合と違っている点は、犠牲になった現在の生存者が1人であること、最初から補償金や公式謝罪を求めていなかった彼女の意思を受け、ロビー活動をしてきたウクライナ系カナダ人コミュニティも補償や謝罪を求めてはいなかったことである。現在97歳になる彼女が唯一求めていたのは「カナダ人の記憶のなかにこの出来事が刻み込まれること」だった。
記憶を刻むこと。記憶を継承させること。これこそ、あらゆるリドレス運動が求めているものである。殺された人は2度と帰ってこないのだし、奪われた人生を取り戻すことは決してできない。その意味では、過去の非道に対する完全なる正義は究極的には有り得ない。唯一できることは、司法手続きによって加害者に法的責任を負わせること、そして、過去の不正を認めて記憶を後世に伝えていくという部分的正義の獲得に他ならない。
近年、リドレスを求める動きに追随して、過去を明らかにしようという運動が国際的に勢いを増しているように見える。旧ユーゴスラビア、およびルワンダのジェノサイドに対する国際戦犯法廷設置をはじめ、今年1月6日には、クー・クラックス・クラン(KKK)の元リーダーで、1964年に3人の公民権活動家を殺害したとされるエドガー・レイ・キルン(79歳)が逮捕された。また、チリ最高裁判所は少なくとも5000人の殺人・行方不明者の責任をもつとされる元独裁者アウグスト・ピノチェト(89歳)に対する免責を拒否し、裁判への道を開いた。
キルンおよびピノチェト裁判は、どちらのケースも事件からすでに30年以上の年月が経っているうえ、裁かれようとする人たちはいつ亡くなってもおかしくない年齢である。クランの元メンバーは「なぜ、今になって高齢者の過去を追及しようとするのか」とコメントしているし、ピノチェトは1998年『ニューヨーカー』誌のインタビューに答えて次のように述べている。「訴訟など終わりにしようではありませんか。最善の方法は黙って忘れることですよ。そして、忘れようとするなら、訴訟を争ったり、人々を刑務所に放り込んだりすべきではないのです。・・・重要なのは忘れることであり、双方が過去を忘れて今まで通り生活を続けることです」。
それは「なぜ、過去を水に流そうとしないのか」という、あらゆる記憶の継承に対する、リドレス運動に対する反論の核心にある問いである。キルン裁判前に繰り返しあらわれた、この同じ問いに対する答えとして、ジョージア州選出のジョン・ルイス連邦下院議員は次のように簡潔かつ的確に表現している。
「いくら時間がかかったとしても、不正をただし、正義をもたらすことには意味がある。そうすることで、われわれの社会では偏見や憎悪、不正や人権侵害は決して容認されないという協力なメッセージを、次世代を担うべき人々に送ることができるからだ」
過去を問題にするのは、現在、そして未来が問題であるからに他ならない。起こってしまったことは変えられないにしても、現在と未来は私たちの意識次第で変えられる。今回のウクライナ系カナダ人への公式謝罪は、記憶の継承への第一歩であるとともに、現在および将来のカナダ社会に正義という社会的インフラをもたらそうとする象徴的行為として、現在の私たちにも大きな意味を持っているはずである。
ウクライナ系カナダ人に対する戦後補償に寄せて
2005年8月24日は、リドレス(補償)問題に関心を寄せるカナダ市民にとって記念すべき日となった。この日、ポール・マーティン首相が第一次大戦中に強制収容所に送られ、公民権を剥奪されたウクライナ系カナダ人に対して公式謝罪を提供したのである。
今回の利ドレスが1988年の日系カナダ人の場合と違っている点は、犠牲になった現在の生存者が1人であること、最初から補償金や公式謝罪を求めていなかった彼女の意思を受け、ロビー活動をしてきたウクライナ系カナダ人コミュニティも補償や謝罪を求めてはいなかったことである。現在97歳になる彼女が唯一求めていたのは「カナダ人の記憶のなかにこの出来事が刻み込まれること」だった。
記憶を刻むこと。記憶を継承させること。これこそ、あらゆるリドレス運動が求めているものである。殺された人は2度と帰ってこないのだし、奪われた人生を取り戻すことは決してできない。その意味では、過去の非道に対する完全なる正義は究極的には有り得ない。唯一できることは、司法手続きによって加害者に法的責任を負わせること、そして、過去の不正を認めて記憶を後世に伝えていくという部分的正義の獲得に他ならない。
近年、リドレスを求める動きに追随して、過去を明らかにしようという運動が国際的に勢いを増しているように見える。旧ユーゴスラビア、およびルワンダのジェノサイドに対する国際戦犯法廷設置をはじめ、今年1月6日には、クー・クラックス・クラン(KKK)の元リーダーで、1964年に3人の公民権活動家を殺害したとされるエドガー・レイ・キルン(79歳)が逮捕された。また、チリ最高裁判所は少なくとも5000人の殺人・行方不明者の責任をもつとされる元独裁者アウグスト・ピノチェト(89歳)に対する免責を拒否し、裁判への道を開いた。
キルンおよびピノチェト裁判は、どちらのケースも事件からすでに30年以上の年月が経っているうえ、裁かれようとする人たちはいつ亡くなってもおかしくない年齢である。クランの元メンバーは「なぜ、今になって高齢者の過去を追及しようとするのか」とコメントしているし、ピノチェトは1998年『ニューヨーカー』誌のインタビューに答えて次のように述べている。「訴訟など終わりにしようではありませんか。最善の方法は黙って忘れることですよ。そして、忘れようとするなら、訴訟を争ったり、人々を刑務所に放り込んだりすべきではないのです。・・・重要なのは忘れることであり、双方が過去を忘れて今まで通り生活を続けることです」。
それは「なぜ、過去を水に流そうとしないのか」という、あらゆる記憶の継承に対する、リドレス運動に対する反論の核心にある問いである。キルン裁判前に繰り返しあらわれた、この同じ問いに対する答えとして、ジョージア州選出のジョン・ルイス連邦下院議員は次のように簡潔かつ的確に表現している。
「いくら時間がかかったとしても、不正をただし、正義をもたらすことには意味がある。そうすることで、われわれの社会では偏見や憎悪、不正や人権侵害は決して容認されないという協力なメッセージを、次世代を担うべき人々に送ることができるからだ」
過去を問題にするのは、現在、そして未来が問題であるからに他ならない。起こってしまったことは変えられないにしても、現在と未来は私たちの意識次第で変えられる。今回のウクライナ系カナダ人への公式謝罪は、記憶の継承への第一歩であるとともに、現在および将来のカナダ社会に正義という社会的インフラをもたらそうとする象徴的行為として、現在の私たちにも大きな意味を持っているはずである。
Sunday, October 3, 2010
Teaching Empathy and Understanding through History
I would like to share my experience as a history teacher at a Japanese School in Toronto.
Japanese School of Toronto Shokokai is run by Toronto Japanese Association of Commerce & Industry and its goal is to give sufficient education for the children who will eventually return to schools in Japan. The classes are conducted in Japanese and many of the students’ first language is Japanese. The curriculum is based on the guideline of Japanese Ministry of Education. The students go to Canadian school 5 days a week and come to Japanese school every Saturday to keep up with their studies in Japanese.
While I worked at the school, I taught history and Japanese language to junior high school students for a 4 year period. I made a point of teaching my students about Japanese aggression in the Asia Pacific War.
Every year, there was at least one student who expressed verbally or in a written essay their experience of being disowned by one or more of their Canadian school classmates because of their Japanese nationality. I cannot forget their puzzled, upset, and somewhat guilty facial expressions when they confided this. When I asked them why their friends had stopped speaking with them, they replied that it was because “of what Japan did in Asia in the past.”
I made a point of filling in the details. After our discussion, I realized that although my students had been quite upset or hurt by the comments, they had done nothing. They did not know what to do. Most of them responded to their classmates with silence. They were confused and shocked since this was probably the first time they realized themselves as ethnic Japanese in a hurtful way.
These incidents made me think about the way I teach history. How can I teach history in a way that touches their experience as Japanese living outside of Japan? Learning the facts comes first. Then we did research through other materials in addition to the textbook. I often used documentary films whose impacts were usually significant. Through this framework, I wanted them to learn how the war started, and to recognize the role of racial discrimination in causing its tremendous horror.
Although Japan had looked to China and Korea as advanced cultures for a long period of time, the ideology of Japanese superiority became widespread among Japanese before and during the war. This led to many forms of discrimination against minorities within Japan and in the territories it occupied. I wanted students to make the connection between these policies and practices, and the large-scale horrors of Nanking and elsewhere. When the students see this with clarity, some of them are able to understand their own experience of exclusion in a new light.
In my opinion, these Japanese students living in Toronto are in a unique position—they are able to experience the effects of history in their own lives, in their own relationships, in a way that they might not be able to do within Japan, which is not as multicultural a nation as Canada. As painful as these experiences were for them, they gave us as a class the opportunity to move ‘beyond the textbook.’ Although it is important for textbooks to reflect historical facts accurately, facts themselves do not necessarily lead to the empathy and understanding that are necessary for reconciliation.
It is when we are touched by history on a personal level that we can find the motivation to take action. Being outside of Japan gave my students the opportunity to be touched by history in a way that I hope will allow some of them to be catalysts for change when they return.
Japanese School of Toronto Shokokai is run by Toronto Japanese Association of Commerce & Industry and its goal is to give sufficient education for the children who will eventually return to schools in Japan. The classes are conducted in Japanese and many of the students’ first language is Japanese. The curriculum is based on the guideline of Japanese Ministry of Education. The students go to Canadian school 5 days a week and come to Japanese school every Saturday to keep up with their studies in Japanese.
While I worked at the school, I taught history and Japanese language to junior high school students for a 4 year period. I made a point of teaching my students about Japanese aggression in the Asia Pacific War.
Every year, there was at least one student who expressed verbally or in a written essay their experience of being disowned by one or more of their Canadian school classmates because of their Japanese nationality. I cannot forget their puzzled, upset, and somewhat guilty facial expressions when they confided this. When I asked them why their friends had stopped speaking with them, they replied that it was because “of what Japan did in Asia in the past.”
I made a point of filling in the details. After our discussion, I realized that although my students had been quite upset or hurt by the comments, they had done nothing. They did not know what to do. Most of them responded to their classmates with silence. They were confused and shocked since this was probably the first time they realized themselves as ethnic Japanese in a hurtful way.
These incidents made me think about the way I teach history. How can I teach history in a way that touches their experience as Japanese living outside of Japan? Learning the facts comes first. Then we did research through other materials in addition to the textbook. I often used documentary films whose impacts were usually significant. Through this framework, I wanted them to learn how the war started, and to recognize the role of racial discrimination in causing its tremendous horror.
Although Japan had looked to China and Korea as advanced cultures for a long period of time, the ideology of Japanese superiority became widespread among Japanese before and during the war. This led to many forms of discrimination against minorities within Japan and in the territories it occupied. I wanted students to make the connection between these policies and practices, and the large-scale horrors of Nanking and elsewhere. When the students see this with clarity, some of them are able to understand their own experience of exclusion in a new light.
In my opinion, these Japanese students living in Toronto are in a unique position—they are able to experience the effects of history in their own lives, in their own relationships, in a way that they might not be able to do within Japan, which is not as multicultural a nation as Canada. As painful as these experiences were for them, they gave us as a class the opportunity to move ‘beyond the textbook.’ Although it is important for textbooks to reflect historical facts accurately, facts themselves do not necessarily lead to the empathy and understanding that are necessary for reconciliation.
It is when we are touched by history on a personal level that we can find the motivation to take action. Being outside of Japan gave my students the opportunity to be touched by history in a way that I hope will allow some of them to be catalysts for change when they return.
Friday, August 27, 2010
過去の亡霊と暮らす難しさ
1995年9月13日、アウグスト・ピノチェトはこう言った。
「最善の方法は黙って忘れることですよ。そして、忘れようとするなら、訴訟を争ったり、人々を刑務所に送り込んだりするべきではないのです。忘れることです。重要なのはこの言葉であり、双方が過去を忘れて今の生活を続けることです」
当時、ピノチェトがかつて軍事独裁者として行った数々の人権侵害、殺害などに対し、世界中で訴訟が起こっていた。このピノチェトの言葉は、こうした訴訟に対する不満の表現であるが、私はこの言葉を目にすると、日本のことを思い出す。
戦後、日本社会の大部分の人たちが、上のピノチェトの言葉を意識してかしないかは別として信じてきた結果が、数々の社会のひずみや日本人のゆがんだ精神構造などとして現れているような気がしてならない。
「恐らく、天皇裕仁が指揮責任という規程のもとで戦犯として起訴されなかったという理由から、さらに、生物兵器に関するデータと引き換えに石井四郎が免責されるという裏取引のため、日本人はアメリカに課された民主憲法の下で何事もなかったかのように平然と生活を続けてきた」(アーナ・パリス著「歴史の影」)
しかし、日本人は平然と生活を続けながらも、自分が拠って立つ地盤そのものが時折、ぐらついているのを自覚してきたはずである。たとえば、80年代に起こった薬害エイズ事件の際、事件と同時に露になったミドリ十字と戦前の731細菌部隊との深い関係。戦時中に人体実験や拷問といった非人道的なことに手を染めてきた人たちが、戦後、そうした経験をすっかり忘却の彼方へと葬り去り、のうのうと有名大学の副学長になったり、厚生省の幹部役人になったりしている事実は、ピノチェトの信条を思い出させる。
犯された罪に対する責任の所在を曖昧にすることは、「不処罰」と呼ばれる。不処罰は、被害者の感情をずたずたに切り裂くだけでなく、より広い悪影響を社会全体に及ぼす。不処罰が当然のようにまかり通る社会では、「悪いことをしても権力にバックアップされていれば咎められないのだ」という暗黙のメッセージが流布される。結果、社会正義が通らない社会になっていくと同時に、人々の精神構造には社会不信や人間不信といったシニシズムが潜入していく。長期的に見れば、こうした国民の精神構造は国を滅ぼす。
戦後処理をきちんとしてこなかった代償は思った以上に重い。
「最善の方法は黙って忘れることですよ。そして、忘れようとするなら、訴訟を争ったり、人々を刑務所に送り込んだりするべきではないのです。忘れることです。重要なのはこの言葉であり、双方が過去を忘れて今の生活を続けることです」
当時、ピノチェトがかつて軍事独裁者として行った数々の人権侵害、殺害などに対し、世界中で訴訟が起こっていた。このピノチェトの言葉は、こうした訴訟に対する不満の表現であるが、私はこの言葉を目にすると、日本のことを思い出す。
戦後、日本社会の大部分の人たちが、上のピノチェトの言葉を意識してかしないかは別として信じてきた結果が、数々の社会のひずみや日本人のゆがんだ精神構造などとして現れているような気がしてならない。
「恐らく、天皇裕仁が指揮責任という規程のもとで戦犯として起訴されなかったという理由から、さらに、生物兵器に関するデータと引き換えに石井四郎が免責されるという裏取引のため、日本人はアメリカに課された民主憲法の下で何事もなかったかのように平然と生活を続けてきた」(アーナ・パリス著「歴史の影」)
しかし、日本人は平然と生活を続けながらも、自分が拠って立つ地盤そのものが時折、ぐらついているのを自覚してきたはずである。たとえば、80年代に起こった薬害エイズ事件の際、事件と同時に露になったミドリ十字と戦前の731細菌部隊との深い関係。戦時中に人体実験や拷問といった非人道的なことに手を染めてきた人たちが、戦後、そうした経験をすっかり忘却の彼方へと葬り去り、のうのうと有名大学の副学長になったり、厚生省の幹部役人になったりしている事実は、ピノチェトの信条を思い出させる。
犯された罪に対する責任の所在を曖昧にすることは、「不処罰」と呼ばれる。不処罰は、被害者の感情をずたずたに切り裂くだけでなく、より広い悪影響を社会全体に及ぼす。不処罰が当然のようにまかり通る社会では、「悪いことをしても権力にバックアップされていれば咎められないのだ」という暗黙のメッセージが流布される。結果、社会正義が通らない社会になっていくと同時に、人々の精神構造には社会不信や人間不信といったシニシズムが潜入していく。長期的に見れば、こうした国民の精神構造は国を滅ぼす。
戦後処理をきちんとしてこなかった代償は思った以上に重い。
Saturday, June 20, 2009
「歴史を見る目」を養うために
(「日系の声/Nikkei Voice」2009年6月号掲載)
2009年1月号『日系の声』に書いた「日本の歴史と海外に暮らす子どもたち」に対しては読者からさまざまな反応が出された。以下はその後もう一度私の書いた記事の転載。
歴史上のある事件に対してはさまざまな解釈が存在する。子どもたちに歴史を教える立場にある者は、この点を念頭に置いた上で子どもたちが自ら歴史を学べるよう導く責任がある。
私の記事(「日本の現代史と海外に暮らす子どもたち」年末号)の要点はその1点に集約される。
年末号が出版された後、数人から私の文章に対するコメントを受けた。驚いたのは、彼らが、私の歴史観をそれぞれが受け取りたいように受け取ったことであった。たとえば、ある人は「最近、トロントの学校でも中国や韓国寄りの偏った現代史観が広がりつつある。(あなたが言うように)それに対して日本人の血を引く子どもたちにしっかりとした歴史を教えておくことは親の使命」と言い、またある人は「子どもたちが冷静に対応できるよう(あなたの言うように)南京大虐殺や従軍慰安婦問題などは何を置いても教えるべき」とコメントしたのである。
本誌日本語編集長の田中氏が指摘するように、私の文章は「何を教えるべきか」について自分の「立場をはっきりと示していない」。先述の異なるコメントが出てきた理由はそこにある。子どもたちに、南京大虐殺は「まぼろし」、あるいは捏造であると教えるのか。千人斬りに参加した元兵士の証言、元従軍慰安婦の証言を教えるのか。しかし、私個人の歴史観を示し、それに反する立場の見方を「感受性に欠ける」と指摘するのは私の本意ではない。いや、それどころか、それこそがポイントなのだ。
私たち大人は、とりわけ太平洋戦争関連の事件に対し、かなり確固とした「歴史観」を持っている。それは対峙する歴史観の前で簡単に揺らぐようなことはない。親であれ教師であれ、大人の私たちが歴史を語るとき、そこにあるのは私たちが取捨選択したナラティブである。「しかし、完全に中立な立場で歴史を教えることは不可能ではないか」。以前、同僚の歴史教師はそう言った。私の考えでは、いかなる歴史観であれ、それらを子どもに教えることに問題はない。問題なのは、そのひとつの歴史観のみを提示し、それだけが「正しい歴史」であるというメッセージを子どもたちに送ることである。
私たちは自らの歴史観を認識しているだろうか。異なる立場の人が語れば、歴史は違った歴史になることを忘れず付け加えているだろうか。歴史が「悪用・誤用」される可能性を伝えているだろうか。その背後にはどんな理由があるのかに考えを至らせるような工夫をしているだろうか。原理主義者と同じ穴の狢にならないためにも、こうした問いは非常に重要である。
さらに、子どもたちが、教える私たちとは違った歴史観を選びとる可能性を受け入れなくてはならない。歴史を学ぼうという意欲のある子どもは、いずれさまざまな立場の歴史観を学びながら、あちらこちらで「事実」を学び、自らの考えに修正を加えたうえで、最終的に「このあたりで落ち着ける」と思える歴史観を獲得していくものだ。それは、必ずしも最初に私たちが示した歴史観と同様とは限らない。しかし、そこから展開するのは、自由な意見を持つ者同士の議論である。歴史を見る目は、実にそうした一連のプロセスのなかで養われる。
私の記事に対する投稿記事は、いずれも「日本人はキライ」コメントに直面した子どもに「何を教えるべきか」という問いに対するそれぞれの回答であると受け取った。私に関して言えば、「何を教えるべきか」以上に大切なのは、子どもたちの歴史を見る目を養うことである。具体的には、歴史的事件への複数の解釈を具体的に挙げながら、彼らが自らの手で歴史を調べ、自らの言葉でその結果を語るまでのプロセスを導く。こうしたプロセスを経ることで、子どもたちは異なる意見に対する寛容性を学び、「日本人はキライ」コメントに直面した際には自らの言葉で理性的に意見交換ができるものと信じている。
2009年1月号『日系の声』に書いた「日本の歴史と海外に暮らす子どもたち」に対しては読者からさまざまな反応が出された。以下はその後もう一度私の書いた記事の転載。
歴史上のある事件に対してはさまざまな解釈が存在する。子どもたちに歴史を教える立場にある者は、この点を念頭に置いた上で子どもたちが自ら歴史を学べるよう導く責任がある。
私の記事(「日本の現代史と海外に暮らす子どもたち」年末号)の要点はその1点に集約される。
年末号が出版された後、数人から私の文章に対するコメントを受けた。驚いたのは、彼らが、私の歴史観をそれぞれが受け取りたいように受け取ったことであった。たとえば、ある人は「最近、トロントの学校でも中国や韓国寄りの偏った現代史観が広がりつつある。(あなたが言うように)それに対して日本人の血を引く子どもたちにしっかりとした歴史を教えておくことは親の使命」と言い、またある人は「子どもたちが冷静に対応できるよう(あなたの言うように)南京大虐殺や従軍慰安婦問題などは何を置いても教えるべき」とコメントしたのである。
本誌日本語編集長の田中氏が指摘するように、私の文章は「何を教えるべきか」について自分の「立場をはっきりと示していない」。先述の異なるコメントが出てきた理由はそこにある。子どもたちに、南京大虐殺は「まぼろし」、あるいは捏造であると教えるのか。千人斬りに参加した元兵士の証言、元従軍慰安婦の証言を教えるのか。しかし、私個人の歴史観を示し、それに反する立場の見方を「感受性に欠ける」と指摘するのは私の本意ではない。いや、それどころか、それこそがポイントなのだ。
私たち大人は、とりわけ太平洋戦争関連の事件に対し、かなり確固とした「歴史観」を持っている。それは対峙する歴史観の前で簡単に揺らぐようなことはない。親であれ教師であれ、大人の私たちが歴史を語るとき、そこにあるのは私たちが取捨選択したナラティブである。「しかし、完全に中立な立場で歴史を教えることは不可能ではないか」。以前、同僚の歴史教師はそう言った。私の考えでは、いかなる歴史観であれ、それらを子どもに教えることに問題はない。問題なのは、そのひとつの歴史観のみを提示し、それだけが「正しい歴史」であるというメッセージを子どもたちに送ることである。
私たちは自らの歴史観を認識しているだろうか。異なる立場の人が語れば、歴史は違った歴史になることを忘れず付け加えているだろうか。歴史が「悪用・誤用」される可能性を伝えているだろうか。その背後にはどんな理由があるのかに考えを至らせるような工夫をしているだろうか。原理主義者と同じ穴の狢にならないためにも、こうした問いは非常に重要である。
さらに、子どもたちが、教える私たちとは違った歴史観を選びとる可能性を受け入れなくてはならない。歴史を学ぼうという意欲のある子どもは、いずれさまざまな立場の歴史観を学びながら、あちらこちらで「事実」を学び、自らの考えに修正を加えたうえで、最終的に「このあたりで落ち着ける」と思える歴史観を獲得していくものだ。それは、必ずしも最初に私たちが示した歴史観と同様とは限らない。しかし、そこから展開するのは、自由な意見を持つ者同士の議論である。歴史を見る目は、実にそうした一連のプロセスのなかで養われる。
私の記事に対する投稿記事は、いずれも「日本人はキライ」コメントに直面した子どもに「何を教えるべきか」という問いに対するそれぞれの回答であると受け取った。私に関して言えば、「何を教えるべきか」以上に大切なのは、子どもたちの歴史を見る目を養うことである。具体的には、歴史的事件への複数の解釈を具体的に挙げながら、彼らが自らの手で歴史を調べ、自らの言葉でその結果を語るまでのプロセスを導く。こうしたプロセスを経ることで、子どもたちは異なる意見に対する寛容性を学び、「日本人はキライ」コメントに直面した際には自らの言葉で理性的に意見交換ができるものと信じている。
Friday, June 19, 2009
日本の歴史と海外に暮らす子どもたち
(『日系の声/Nikkei Voice』2009年1月号掲載)
トロントの日本人学校で教えていたとき、生徒がクラスのなかで不意に発したり、書かせた作文に現われる同一のエピソードがあった。「現地校(カナダの学校)でクラスメイトから、過去にアジアでひどいことをした日本人は嫌いだから君とは口をきかない、と言われた」というものである。そう言う子どもたちは、困惑したような、悲しいような、怒ったような複雑な表情をしていた。
その話題が持ち上がるのが授業やホームルームであれば、同じような経験がある人はいるかと尋ねた。すると、半分ほどが手を挙げるのだが、その挙手の仕方がまるで自分が悪いことをしたかのような仕方で、じっと座っている生徒のなかにも同じような経験をしている生徒がいるのだろうと思わずにはいられなかった。その度に、まだ幼い表情の彼らが感じたであろう痛みを思い、胸が痛んだ。
カナダの学校に通う日本人の生徒(日本生まれ、カナダ生まれを問わず)のなかに、こうした苦い経験をする子どもたちが少なからずいることに、私たち大人は敏感である必要がある。そして、こうした経験に対し、どう反応したらよいのかを考えさせておくことは、彼らを守るべき立場にいる私たち大人の義務だとも思う。「日本人はキライ」コメントを耳にしたとき、子どもたちに教えておきたい点を三点に絞って挙げてみたい。
1.一般化の危険性
「日本人はキライ」コメントが現われると、私たちはいつも授業を中断して、話し合いをしたものだ。まず、そう言われたときにどんな気持ちだったかを聞いてみることから話し合いは始まった。彼らは口々にこう応える。
「いやな気持ち」「悲しい」「腹が立つ」
感情はパワフルだし、そのときに感じた感情は、今、こうして再びそのことを思い出すだけでもよみがえって来るようで、数人はそう言いながら本当に怒ったような、つっかかるような表情をしていた。次の「どうしてそんな気持ちになったんだと思う?」という質問には、手をあげた生徒のほとんどが「僕は何もしていないのに僕が悪いことをしたかのように言われたから」と答えを出す。
そのあたりをもう少し深く話し合ってみて、私たちが導き出した結論は「過去、日本が他国にひどいことをしたからといって、すべての日本人が凶悪な人間であると仮定するのは間違っている」で、これについては、ほぼ全員がすんなりと納得がいくようだった。次の「では、私たちも同じような一般化をして、友達や、まわりの人たちを判断してはいないだろうか」との問いには、「アジア人は数学が得意」「インド人は計算が得意」「黒人は運動能力が優れている」「ロシア人はよくお酒を飲む」といった答えが出されてくる。そして、ここで必ず数人が「ステレオタイプ」という言葉を教えてくれる。
ある個人をグループの一員として一般化して考える際には、個人の感情を傷つける危険性がある。私たちの社会では、まず何よりも個人が優先されるべきであって、グループ分けをするときには個人の感情を害していないかを慎重に考慮すべきである点を教える必要がある。子どもたちが肌で感じた納得のいかない気持ちは、言われた人の個人としての資質を無視して、グループの一員として一般化して個人の個性が矮小化、あるいは無視されたことである。それを、一人ひとりが自分の気持ちを反省しながら気付き、たどたどしくはあるが自分のことばで表現する姿を見ていると、この苦い経験も人権についての大きな教訓になるだろう、と感じずにはいられなかった。
2.「正しい歴史」の落とし穴
あるとき、他の教師たちに「日本人はキライ」コメントについて話しているとき、彼らも同じようなコメントを生徒から聞いたことがあると言った。その後の会話を聞いていると、「だからこそ、生徒が過去に何が起こったのかを堂々と相手に伝えることができるように、日本人として日本の正しい歴史を教える必要がある」という意見が大半のようだったが、私はこれには賛成しなかったし、今も賛成しかねる。
過去に何が起こったかをできるだけ正確に教えることは必要だ。しかし、それと同時に必要なのは、さまざまな立場の人たちがひとつの「事実」をめぐってさまざまな解釈をする可能性がある点を伝えることだと思う。そして、このことは、とりもなおさず歴史を教えるべき立場の私たちが必ず念頭に置いておかねばならないことでもある。子どもたちは、昨日の夜のお父さんとの口論をお父さんから聞くのと、A君から聞くのとではまったく話が違ってくる、という簡単なエピソードで、その点を納得していたものだ。
「カナダの太平洋戦争に関する歴史教育は偏っている」「中国や韓国の歴史観は偏っている」という言葉を子どもたちに伝えれば、彼らに保身の術を与えるどころか、彼らを孤立させてしまう可能性すらある。ジョージ・オーウェルの言葉「現在を支配するものが過去を支配し、過去を支配するものが未来を支配する」を脳裏に刻み、それぞれの立場の人が主張する「正しい歴史」の落とし穴を子どもたちに教えるようにしたいものだ。
3.歴史を自分の言葉で語る
時折、教室で不意に現われる「ブッシュは悪い」とか「日本の政治家は汚い」といったコメントと同様に、その中身を深く追求しようとすると口ごもって答えられない程度の曖昧なものではあるが、多くの生徒は「過去に日本は悪いことをした」という感覚を漠然と持っている。その結果は、「後ろめたい」「堂々とできない」といった言葉に表れるようなネガティブな態度として帰結する。
彼らが歴史を曖昧にしか知らないことは、「日本人はキライ」コメントに出会った彼らを苦しめる原因のひとつとなっている。漠とした曖昧性は、私たちの理性的判断を狂わせ、感情面においては不安を呼び寄せる。「悪いこと」とは何なのか、いつの時代に何が起こって、それはどういう結果を生んだのか。そうした点をしっかりした情報に裏付けられた知識とすることで、子どもたちは歴史のできごとを自分のものとし、それに対する自分の言葉を持てるようになる。彼らが友達のコメントにどう反応するかは、子どもたちの判断に任せればいい。ただし、子どもたちが日本人であることを恥ずかしがったり、その事実に対して怒りを表すのではなく、理性的に反応できるように日々の生活のなかで歴史を学ぶチャンスを与え、調べた結果や感想を話し合うプロセスを導いていくのは、私たち大人の役目である。
歴史は過去のことではあるが、同時に現在・未来を生きる私たちの頭上に長い影を落とす。それは、友達から「日本人はキライ」と言われた子どもたちには、はっきりとした事実として感じられることだろう。「そんなとき、どうしたらいいの?」という胸をえぐるような悲しい問いに、私たちはどう答えるのか。海外に暮らす子どもたちにとっては、私たち大人はすべて歴史の教師であることを、しっかりと覚えておきたい。
トロントの日本人学校で教えていたとき、生徒がクラスのなかで不意に発したり、書かせた作文に現われる同一のエピソードがあった。「現地校(カナダの学校)でクラスメイトから、過去にアジアでひどいことをした日本人は嫌いだから君とは口をきかない、と言われた」というものである。そう言う子どもたちは、困惑したような、悲しいような、怒ったような複雑な表情をしていた。
その話題が持ち上がるのが授業やホームルームであれば、同じような経験がある人はいるかと尋ねた。すると、半分ほどが手を挙げるのだが、その挙手の仕方がまるで自分が悪いことをしたかのような仕方で、じっと座っている生徒のなかにも同じような経験をしている生徒がいるのだろうと思わずにはいられなかった。その度に、まだ幼い表情の彼らが感じたであろう痛みを思い、胸が痛んだ。
カナダの学校に通う日本人の生徒(日本生まれ、カナダ生まれを問わず)のなかに、こうした苦い経験をする子どもたちが少なからずいることに、私たち大人は敏感である必要がある。そして、こうした経験に対し、どう反応したらよいのかを考えさせておくことは、彼らを守るべき立場にいる私たち大人の義務だとも思う。「日本人はキライ」コメントを耳にしたとき、子どもたちに教えておきたい点を三点に絞って挙げてみたい。
1.一般化の危険性
「日本人はキライ」コメントが現われると、私たちはいつも授業を中断して、話し合いをしたものだ。まず、そう言われたときにどんな気持ちだったかを聞いてみることから話し合いは始まった。彼らは口々にこう応える。
「いやな気持ち」「悲しい」「腹が立つ」
感情はパワフルだし、そのときに感じた感情は、今、こうして再びそのことを思い出すだけでもよみがえって来るようで、数人はそう言いながら本当に怒ったような、つっかかるような表情をしていた。次の「どうしてそんな気持ちになったんだと思う?」という質問には、手をあげた生徒のほとんどが「僕は何もしていないのに僕が悪いことをしたかのように言われたから」と答えを出す。
そのあたりをもう少し深く話し合ってみて、私たちが導き出した結論は「過去、日本が他国にひどいことをしたからといって、すべての日本人が凶悪な人間であると仮定するのは間違っている」で、これについては、ほぼ全員がすんなりと納得がいくようだった。次の「では、私たちも同じような一般化をして、友達や、まわりの人たちを判断してはいないだろうか」との問いには、「アジア人は数学が得意」「インド人は計算が得意」「黒人は運動能力が優れている」「ロシア人はよくお酒を飲む」といった答えが出されてくる。そして、ここで必ず数人が「ステレオタイプ」という言葉を教えてくれる。
ある個人をグループの一員として一般化して考える際には、個人の感情を傷つける危険性がある。私たちの社会では、まず何よりも個人が優先されるべきであって、グループ分けをするときには個人の感情を害していないかを慎重に考慮すべきである点を教える必要がある。子どもたちが肌で感じた納得のいかない気持ちは、言われた人の個人としての資質を無視して、グループの一員として一般化して個人の個性が矮小化、あるいは無視されたことである。それを、一人ひとりが自分の気持ちを反省しながら気付き、たどたどしくはあるが自分のことばで表現する姿を見ていると、この苦い経験も人権についての大きな教訓になるだろう、と感じずにはいられなかった。
2.「正しい歴史」の落とし穴
あるとき、他の教師たちに「日本人はキライ」コメントについて話しているとき、彼らも同じようなコメントを生徒から聞いたことがあると言った。その後の会話を聞いていると、「だからこそ、生徒が過去に何が起こったのかを堂々と相手に伝えることができるように、日本人として日本の正しい歴史を教える必要がある」という意見が大半のようだったが、私はこれには賛成しなかったし、今も賛成しかねる。
過去に何が起こったかをできるだけ正確に教えることは必要だ。しかし、それと同時に必要なのは、さまざまな立場の人たちがひとつの「事実」をめぐってさまざまな解釈をする可能性がある点を伝えることだと思う。そして、このことは、とりもなおさず歴史を教えるべき立場の私たちが必ず念頭に置いておかねばならないことでもある。子どもたちは、昨日の夜のお父さんとの口論をお父さんから聞くのと、A君から聞くのとではまったく話が違ってくる、という簡単なエピソードで、その点を納得していたものだ。
「カナダの太平洋戦争に関する歴史教育は偏っている」「中国や韓国の歴史観は偏っている」という言葉を子どもたちに伝えれば、彼らに保身の術を与えるどころか、彼らを孤立させてしまう可能性すらある。ジョージ・オーウェルの言葉「現在を支配するものが過去を支配し、過去を支配するものが未来を支配する」を脳裏に刻み、それぞれの立場の人が主張する「正しい歴史」の落とし穴を子どもたちに教えるようにしたいものだ。
3.歴史を自分の言葉で語る
時折、教室で不意に現われる「ブッシュは悪い」とか「日本の政治家は汚い」といったコメントと同様に、その中身を深く追求しようとすると口ごもって答えられない程度の曖昧なものではあるが、多くの生徒は「過去に日本は悪いことをした」という感覚を漠然と持っている。その結果は、「後ろめたい」「堂々とできない」といった言葉に表れるようなネガティブな態度として帰結する。
彼らが歴史を曖昧にしか知らないことは、「日本人はキライ」コメントに出会った彼らを苦しめる原因のひとつとなっている。漠とした曖昧性は、私たちの理性的判断を狂わせ、感情面においては不安を呼び寄せる。「悪いこと」とは何なのか、いつの時代に何が起こって、それはどういう結果を生んだのか。そうした点をしっかりした情報に裏付けられた知識とすることで、子どもたちは歴史のできごとを自分のものとし、それに対する自分の言葉を持てるようになる。彼らが友達のコメントにどう反応するかは、子どもたちの判断に任せればいい。ただし、子どもたちが日本人であることを恥ずかしがったり、その事実に対して怒りを表すのではなく、理性的に反応できるように日々の生活のなかで歴史を学ぶチャンスを与え、調べた結果や感想を話し合うプロセスを導いていくのは、私たち大人の役目である。
歴史は過去のことではあるが、同時に現在・未来を生きる私たちの頭上に長い影を落とす。それは、友達から「日本人はキライ」と言われた子どもたちには、はっきりとした事実として感じられることだろう。「そんなとき、どうしたらいいの?」という胸をえぐるような悲しい問いに、私たちはどう答えるのか。海外に暮らす子どもたちにとっては、私たち大人はすべて歴史の教師であることを、しっかりと覚えておきたい。
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