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Thursday, December 8, 2011

「経済格差がますます拡大」OECDリポート

先進34カ国で行われた所得格差調査の結果がOECDにより発表された。リポートによれば、ほとんどのOECD加盟諸国で経済格差が進んでおり、これは先進諸国に限らず全世界で見られるグローバル・トレンドであるという。


カナダでは、所得最高人口10%(平均年間所得103.500ドル)は所得最低人口10%の10倍もの所得を得ているという。つまり、トップ10%に対するボトム10%の比率は10-1となっている。1990年代初頭では8-1であった比率が、20年で10-1にまで拡大していることになる。


他の国の比率は以下のとおり。

ノルウェー、ドイツ、スウェーデン、デンマーク・・・6-1
イタリア、日本、韓国、カナダ、イギリス… 10-1
トルコ、アメリカ、イスラエル・・・ 14-1
メキシコ・・・ 27-1
ブラジル(Non OECD country)・・・ 50-1


OECDのSecretary GeneralのAngel Gurria(エンジェル・グリア)によれば、「経済成長の利益は自動的に経済的に不利な立場の人たちにも浸透していくという考えは、この調査結果で否定されたことになる」と言う。そして、「一部の人を排除しない形での経済成長の戦略を立てられなければ、このまま格差は広がる一方」であると指摘する。


背後にあるのはグローバライゼーションとインフォメーション・テクノロジー(IT)。この二つの勢力によって、中間スキルを持った人たちが職を失い、製造などの低賃金労働の場が奪われた。そして、ごく一部のトップクラスのスキルを持った人たちが富をほしいままにするという構図が描かれた。


グリアは、“Our report clearly indicates that ‘upskilling’ of the workforce is by far the most powerful instrument to counter rising income inequality. The investment in people must begin in early childhood and be followed through into formal education and work.”
(所得格差に太刀打ちするためには、労働人口のスキル向上という問題が非常に重要になってくる。スキル向上に対する投資は幼少時から始められるべきであり、その後も教育機関や職場で継続してスキル向上をこころがけるべきだ)と言う(彼女のこの主張には私は懐疑的である)。


ニューヨークのウォール街から世界の都市に広まった一連のOccupy Wall streetの動きが格差問題(「我々は99%!」)に触れていたことに思いをいたすと、やはりOccupyの動きは世界が取り組むべきグローバル問題の核心をついていたと思う。


何度も書いてきたが、経済格差問題は社会の不安定化につながる大きな社会問題であると同時に、グローバル規模で取り組まなければならない問題である。低所得者層に対する社会福祉の充実、富裕層に対する増税だけでは問題は解決されない。こうした経済格差によって巨額の利を得てきた現代の資本主義システムの構造そのものにもメスを入れる必要があるのではないか。


参考)Toronto Star紙:
http://www.thestar.com/business/article/1097055--why-the-gap-between-rich-and-poor-in-canada-keeps-growing?bn=1

OECDサイト:
http://www.oecd.org/document/40/0,3746,en_21571361_44315115_49166760_1_1_1_1,00.html

Monday, November 14, 2011

経済学という怪しい学問領域

昨今、グローバル経済危機の展開するのを見ながら、「このいちばん必要とされるとき、経済学者はどこで何をしているのだ」との思っている私。景気が悪くなると、政府に「支出をふやせ」といって経済刺激策を取らせてきたのは、経済学者ではなかったか。その結果、ギリシア政府は、お財布の底がついてしまっている。ユーロを守ろうとドイツをはじめとするEU諸国がまたまたお金をつぎ込んでも、同じことが起こるのではないか。最近の状況を見ながら、私は経済学に対して非常に懐疑的になっているが、それは私だけではないんじゃないか。

つい最近のGlobe紙に興味深い特集記事が掲載されていた。経済についての記事だったが、世間では「ノーベル経済学賞」として知られる国際的な賞は、正式名は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」といい、アルフレッド・ノーベルが設置した賞と違い、1968年にスウェーデン国立銀行によって後になって設置されている。選考はスウェーデン王立科学アカデミー、認定はノーベル財団によってなされるが、ノーベル財団のなかには経済学賞の設置自体を疑問視する声もあるという。


以下はウィキからの引用

「ノーベル経済学賞の設置自体が間違いであったと考える者も多い。1997年にはノーベル文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが経済学賞の廃止を要請した。ノーベル家の一部の人達はこの賞をノーベル賞として認めていないだけではなく、ノーベルの名の使用にも抗議している。2001年にはノーベルの兄弟の曾孫にあたるスウェーデン人の弁護士ら4人が地元紙ダーグブラデットに寄稿し、経済学賞は「全人類に多大な貢献をした人物の顕彰」というノーベルの遺言の趣旨にそぐわないと批判した」。


以下のエピソードはウィキピディアの英語版から取ったものだが、ハイエクの言葉はまさに的を得ていると思う(Taken from Wikipedia website)。

In his speech at the 1974 Nobel Banquet Friedrich Hayek stated that if he had been consulted whether to establish a Nobel Prize in economics he would "have decidedly advised against it" primarily because "the Nobel Prize confers on an individual an authority which in economics no man ought to possess... This does not matter in the natural sciences. Here the influence exercised by an individual is chiefly an influence on his fellow experts; and they will soon cut him down to size if he exceeds his competence. But the influence of the economist that mainly matters is an influence over laymen: politicians, journalists, civil servants and the public generally." 


経済学者は今まで「経済にはサイクルがある」とか「自由主義資本経済はマネージできる」とか主張して、まるで自分たちが経済をコントロールできるかのようなことを言ってこなかったか。私の記憶では、リーマンショック以前、確かに何度か「このままの状況が続けば経済は大打撃を受ける」というようなコメントを新聞で読んだが、それらは大半が経済学の分野の専門家ではなかった。株価についてもそうで、あがるだの下がるだの、分かっているようなことを言っているインベスターやコンサルタントはいるが、実際、株価の大暴落が起きると実はこういう輩は黙りこんで(あるいは証券取引所で呆然とした姿をさらして)、結局のところNo one saw it coming! というようなことになるのが落ちではないか。


素人なのはわかっているが、はっきり言わせてもらえば、経済学者や経済コンサルタントは素人の私たちと同じくらい経済の先行きなど見えていないのだと思う。だいたい、経済という分野は結局人間の活動がもとになっているわけであって、最近の心理学分野のリサーチが繰り返し示しているように、人間の活動の8割はIrrationalに、非合理的な判断に基づいていることを考えれば、さらに、フリードリッヒ・ハイエクの言うように、経済は政治家や国民やジャーナリズムなど他分野の要素に左右されることが多い、と考えれば、そこが自然学とは絶対的に違うところで、そんな人間の行動からどれだけの法則性が導き出されるのか、何とも疑問である。


先のGlobe紙の記事では、西洋でEconomicsという学問が生まれてしばらくの間は、そこに哲学の一部であるMoralityがしっかりと入っていたという。それが自由主義経済の発展とともに、いつの間にか取り払われて、経済学は数量を主な対象にするようになってきた。その弊害はいかほどか。素人意見で何とも失礼だが、もし経済学者が世界に貢献しようと思うなら、この利潤だけを唯一の目的とする巨大なグローバル経済システムにかわる新しいシステムとして、倫理、環境や次世代に対する配慮し、グローバル市民としての責任感を取れるような構造を確立してもらいたいものである。

Friday, October 14, 2011

ウォールストリート占拠:corporate greedと不正義としての世界経済システム

Occupy Wall Streetの動きは、10月1日に700人が逮捕された後、教職員組合などの労働組合のみならず、オバマ大統領をはじめとする政治家、資本家、またセレブなどもサポート、あるいは少なくとも理解を示し、大手メディアがこぞってリポートし続けている。また、アメリカ全土、世界中からこの動きをサポートしようと、寄付、食糧や水、毛布や衣服などが次々と届いている。


はっきりした目的がないこと、指導者がいないことなどから、組織的な弱さも指摘されているが、この運動は、今まで社会運動や政治運動のターゲットとされるることのなかった大企業と彼らが牛耳っている経済システムの変革、少なくともこうした経済的Practiceに異を唱えているという点で、世界を変える可能性を秘めていると思う。ジャック・レイトンが唱えていた「一握りの富豪が富をほしいままにするのではなく、その富をより平等に分配できる経済システム」を確立することは可能なのだろうか。


カナダから見ているとアメリカの現実がいかに切迫しているかがよく把握できないが、トロントでアクティビストとして活動している友人によれば、状況は今までのアメリカでは見られなかったほど悪化していると言う。家を失ったり、仕事を失ったり、それに伴って家族関係が悪化したり。


統計によれば、アメリカでは19歳から25歳人口の失業率は40パーセントにまで達しているという。将来に希望が持てず、教育費は増加の一方をたどり、借金してまで大学を出ても仕事は見つからない。こうした状況にあって、市民のcorporate greedに対する不信感、怒りは今や許容できないほどになっている。


ほんの数週間前に始まったウォールストリートの占拠だが、振り返って見ると、この運動が内包するエネルギーは時間をかけて醸成されてきたように思う。


ここ10年ほどの間に、北米のライター、ジャーナリストの作品のうち(メインストリームメディアも含めて)、大企業の内実を暴いた著作、一方で搾取され続ける人たちのストーリー、ドキュメンタリー作品、「99%」の国民の声を代弁するような読み物が続々と生み出されてきた。


今、思いつくだけでも、マイケル・ムーアのCapitalism: A Love Storyや、食品業界の大企業による搾取や残虐性を暴いたEric Schlosser(エリック・シュロッサー)の著作Fast Food Nation(映画にもなった)、同じころの作品としてMorgan SpurlockSupersize Meというのもあった。さらに、カナダ人でUBCの教授Joel BakanThe Corporation(コーポレーション)はドキュメンタリーになり、世界で大きな反響を呼んだ。同じ系列のジャーナリズム作品のうち最も新しい作品としては、ウォール・ストリート(金融業界)の内情を暴いたInside Job(2010年)がある。


これらの作品が描き出したのは、まさにCorporate Greed(企業の強欲さ)のすざまじさと、それを支えるような政治家によるサポートであった。それは、私たちのように税金をきちんと納めている小市民にとっては、信じ難いほど強烈な強欲さである。さらには、これに輪をかけて市民の怒りに油をそそいだのは、こうした一部の大企業や資産家が搾取しやすいように行政や法整備を取り仕切ってきた政府の態度である。政治と金という大きな権力が結びついている国では、お金持ちはどんどんお金持ちになり、下層部は這い上がれる望みすらもてない。ルパート・マードックの厚かましさや、「税金なんて、小さな人間が支払うもので、本当のお金持ちは税金なんて払わない」と言い放った富豪(名前は忘れてしまった)などを笑っている時代は過ぎた。そして、今、北米人独特のシニシズムを超えて、不信感および怒りの感情は、Occupy Wall Streetという従来では考えられなかった社会的行動として現出したというべきだろう。


個人的には、Occupy Wall Street運動に共鳴するひとりだが、一方、この「99%」という表現にアイロニーを感じざるを得ない。彼らはアメリカ社会では「99%」であるが、グローバル社会でみれば、ピラミッドの上部に位置している。よく知られている「もし世界が100人の村だったら」には、「6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍 」、「80人は標準以下の居住環境に住み 70人は文字が読めません」、「50人は栄養失調に苦しみ」、「1人は大学教育を受け」「そしてたった1人だけがコンピュータを所有しています」とある。


こう見てみると、アメリカの「99%」は何というPrivilegesだという思いが湧きあがってくる(かくいう私もそのひとり)。


最近、核兵器や原発の問題、女性問題を調べていて、いつも最終的にぶち当たる壁に気付いた。それは、Occupy Wall Streetの参加者たちが気付いたのと同じく、「現在の経済システムはごく一握りの人だけが巨額の富を手にできるシステムなのだ」という気付きである。私たちが好むと好まざるとにかかわらず、このシステムだけが唯一の経済システムとして機能している。しかし、このシステムはポスト・コロニアリズムに根ざした「不均衡」や「搾取」といった不正義の要素を色濃く包括した問題のあるシステムである。このシステムが続く限り、いくらビル・ゲイツがチャリティに精を出したとしても、根本的解決には至らないだろう。


それで思ったのだが、こういうことは可能だろうか。この不正義の世界経済システムにある99%の人たちが、このシステムの改善(打倒)を求めて運動を起こす、というのは? 

今回マンハッタンで始まったOccupy Wall Streetは、そうしたグローバル規模の(経済システム打倒)運動へと発展する可能性を秘めてはいないだろうか? 目下、ヨーロッパで展開している経済危機を見ても明らかだが、今日の経済システムは1国だけが取り組めるような問題ではない。グローバル経済システムの現実を見るなら、Occupy Wall Street運動もグローバル・レベルの「99%」を代表する声として聞かれるまで拡大していく必要があると思う。

Read the related article on this blog 関連記事:

http://torontostew.blogspot.com/2011/10/blog-post_04.html

http://torontostew.blogspot.com/2011/10/occupy-wall-street.html

Tuesday, October 4, 2011

ウォール街の占拠

Occupy Wall Streetのウェブサイトより。彼らのミッションのようなもの。

「Occupy Wall Streetはリーダーを持たないレジスタンス運動で、人種や性別、政治的信条の多様な参加者で構成されています。ひとつ共通点があるとすれば、この運動に参加している我々は、わずか1%にあたる一握りの人たちの強欲さや腐敗をこれ以上許容しない99%の国民である、ということです。我々は「アラブの春」の革命的戦略を用い、すべての参加者の安全性を最大限に考えながら、暴力を用いることなく我々の目標を達成しようとしています」

http://occupywallst.org/

Monday, October 3, 2011

世界に広がるOccupy Wall Streetデモンストレーション

先月末、10人以下のカレッジ学生がウォールストリート付近のZuccotti Parkで始めたOccupy Wall Street(ウォール街の占拠)というデモンストレーションが日を追って拡大している。10月1日の土曜日には700名もの逮捕者も出たが、この逮捕により今後、参加者は増加するだろうと見られている。

これが単独のものなら特別に興味を惹かれはしないが、この動きがマンハッタンを起点として世界の各都市に飛び火する可能性があることから、私も様子を見守っている。

写真を見る限り、参加者は若者たちが大半のようだが、Globe紙によれば、日を追うに従って、年齢や職業に多様性が見られるようになっているという。

このデモンストレーションはウォールストリートに代表される金融界、さらには金融界を優遇してきた政治に対する苛立ちが発端となっている。アメリカでは失業率が10 %を超え、今後もこの状況が悪化をたどるだろうと専門家が見ているなかで、一方では政府は多額の税金を使った財政援助には多くの市民が反対している。

トロントのオーガナイザーによれば10月15日にはベイ・ストリート(トロントでウォール街に相当する金融街)で同様のデモが予定されているという。また、カルガリー、ビクトリア、オタワ、モントリオールなどの都市でもデモが企画され、トロントでは800人、バンクーバーでは1000人ほどの参加者が見込まれる予定。また、メキシコ、オーストラリア、ヨーロッパの都市、東京など、世界の都市に今後、飛び火するだろうと見られている。

新聞を読む限り、このデモンストレーションには、はっきりした政治的メッセージがなく、従来の政治的デモとは異なる部分が多い。また、多くの参加者がソーシャル・メディアを駆使している点も、最近のデモのトレンドを踏襲している(彼らは独自にジャーナルまで発行して、ことの成り行きをインターネットを通して発信し続けている)。

「ウォール街の占拠」がアメリカで始まったことは意味が深い。いくらアメリカが多額の負債をかかえていようと、どんなに貧困率が高かろうと、やはりアメリカの富に比することのできる国はない。Forbesを見ても、世界の富豪のうち、アメリカ人の割合は圧倒的に高い。

かくして、アメリカでは一握りの人たちが多額の富を手にしていることにある。つまり、ウォール街は世界金融界の中枢、即ち、世界経済の中枢なのである。

2010年につくられたドキュメンタリー映画Inside Jobには、金融界が一握りのエリートが巨額の富を手にできるような構造になっていること、内部がいかに倫理的に腐敗しているかを暴露していく映画だが、それを見ると政治家もこの金融界とグルになって利権を得て来た歴史がはっきりと見て取れる。

金融界のGreed(欲)によって導かれたリーマンショック以降、北米では金融界に対する不信感(さらにその失敗の受け皿を引き受けてきた政治に対する不信感)が強くなっていると私も感じる。

こうした金融界の状況を知ると、この業界の根底に「不正義」の存在を認めざるを得ない。経済的に社会の下層にいる人たちは、少しは生活の質が向上するとはいえ、この経済的構造ではほとんど不可能に近い。私の感じでは、世界経済の構造のなかにすでに「不正義」が存在している。今回のデモは金融界に対するそうした基盤的な批判になりえるのだろうか。

一方では、市民の間に広がる不満がある。失業し、生活保護に頼っている人たち、仕事をしたいのに見つけられないという苛立ち、借金をして手に入れた家を失って財産を失った人たち。そんな人たちが、金融界に多額の税金をつぎ込んで、彼らの失敗の尻拭いをしているのを見ると、Frustrationを感じるのは当たり前だ。そして、この感情に自分の人生に対するDesperationを感じると人は何でもやりかねない。

政治家は、国民の間に広がるDesperationを軽くみてはいけない。ここで再び、Arab Springがひとりのを感じた若者の自殺から始まったことを想い起こす必要がある。

この動きはどこにいくのか。これによって何が変わるのか。世界経済の構造を変えるほどの動きになるのか。今後の行方を注意深く見守っていきたい。

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http://torontostew.blogspot.com/2011/10/corporate-greed.html

Thursday, September 29, 2011

原発を通して見えるもの

福島原発の事故後、私も多くの日本人と同じように原発に関する情報を集めてきた。その過程で、ひとつ私の目に鮮明に見えてきたことがある。それは、原子力を推進しようという動きの背後には、少数者の利益追求という隠された意図があるということである。
 
科学者は私たちの意見に抗してこう言う。
福島第一原発事故はあと2週間で40年を迎える、古い型の原子炉で起こった。最近の原子力発電所の安全基準は、40年前に比べるとはるかに高く設定されており、事故の起きる可能性はきわめて低い。つまり、今後は今以上に安全基準を上げることで、原発事故は防げるという。そして、我々のテクノロジー、科学の力をもってすればそれは可能であるという。
 
あるいは、スリーマイルでは0人、チェルノブイリでは56人が死亡しただけであり、石炭や石油採掘、あるいは精製にかかわる過程で発生する犠牲者数に比べるとはるかに低い。また、石炭に比べると温室効果ガス(carbon dioxicide)排出量のほとんど出ないクリーンなエネルギーである。つまり、原発は完璧なエネルギー源とはいえないものの、他のエネルギー源に比べると人間の生命や生活にとって害の少ない、Lesser evilなエネルギー源であるということである。
 
上のような議論が理性的にまかり通ると思っているのだろうか。

考えてみれば、日本のエンジニアや科学者たちは、これまで折につけ「日本のテクノロジー技術のレベルは世界のトップクラスである」と言ってきたし、自分たちもそれを盲信してきた。福島第一原発事故後、カナダのコメンテーターですら「日本の技術と高い安全基準をもってしても、こうした事故が起きてしまうのであれば、他の国の原発は相当危険である」と似通ったコメントをしていた。ただし、こうした考えは、すぐに「日本の原子力産業の安全基準のずさんさ」を指摘する海外メディア、あるいはIAEAによってまで打ち消された。
 
原発推進派の言う安全性なんて、この程度のものなのだ。中身のないものを頑迷に信じ込んでいるだけなのだ。科学技術が万全であると思っている人は、それを無批判に信仰しているに過ぎず、その科学万能主義は理性による批判を拒否する宗教と同じである。
 
また、健康被害に関して言えば、チェルノブイリの死亡者56人のなかには放射能を空気や食物によって長期間体内に取り込んだことによる二次的な死亡者の数は含まれていない。生まれなかった胎児や、ガンを発病して今も苦しんでいる当時子どもだった人たちなどの数も含まれていない。チェルノブイリの被害が出終わったかのような言い方は、彼らの計り知れない不安や苦しみに対する侮辱としか取れない。
 
また、リニューアブル・エナジーに関して否定的で、原発が最もコストの低いエネルギー源であると言う人たち(これは専門家ではなく、一般の人に多い)もいる。彼らは、リニューアブル・エナジーによる電力の供給は不安定であり、こうした資源に依存するには経済的にみあわない、と説明する。
 
しかし、コストのことを言うのなら、事故が起こった際の損害に対する補償(世代を超えて)を考えあわせなくてはならない。この損害とは、健康被害に対する補償のみならず、避難や移住にかかわる補償、さらには農作物や魚介類を扱う農家や漁業者に対する補償、次世代およびさらなる世代に継続してあらわれる健康被害に対する補償、観光業や海外投資の不振に対する補償といった、広範囲のリスクを想定しなくてはならない。事故が起こらないという想定で「原子力は安い」というのは、まったく話にもならない。
 
私には不思議なのだ。どうして、このような完璧に理性を欠いたような議論がまかり通るのか。そして、いろいろな情報を集めるうちにわかってきたことは、原子力をエネルギー源として推進しようという意図は、理性的な試算やデータに基づいているのではなく、一握りの人たちが巨大な利益を手にしようと意図的に原子力を推進しようとしており、そのために下手な説明をしたり、事実を隠蔽しようとしているのだと結論づけるに至った。それ以外に説明のしようがないのだ。

その結果、私は主に海外のソースをもとに情報集めをしているうちに、「原子力を意図的に推進する勢力」の存在に行き当たり、原子力産業という巨大産業、それと政治(産業を規制する側)との関係について学ぶ必要があると実感するようになった。

(そうして調べている矢先に、Global Fission: The Battle Over Nuclear Powerの著者であるJim Falkのことばに出会った。彼は、反原発の立場に立つのは、まずは核廃棄物や放射能被害にともなう健康被害という問題点から出発しているのだが、こうした問題点をより深く理解していくにしたがって、これらの問題がほとんど不可避的に"concern over the political relations of the nuclear industry"(原子力産業の政治的関係をめぐる懸念)に結びつくと言う。)
 
原子力産業は、ひとたびインフラを設置してしまえば、あとはかなり自動的に巨大な利益が入ってくる「おいしい」産業である。また、(表向きは)国民の安全を保証する立場にある政治家は、産業を「規制」する力をもっているうえ、産業を保護する強大な政治力をもっている。彼らの結びつきの原因が、国民の健康と安全を守るためであれば、規制もしっかりと行われていたはずであるし、事故が起こってからも政府や産業界の対応はもっと違っていたはずなのである。

しかし、実際はどうだったか。安全点検をずさんに行い、巨大な地震や津波の可能性も想定せず、事故が起こってからは完全に対処手段を持たず、対応は後手後手、リスク管理能力が完全に欠如していたことを見ても、国民の安全性を保証しようという意図などはまったくないことは、原発事故後の官僚や東電の幹部の姿にあきらかに現れていたのではないか。

ここで長々とその例をあげることはやめるが、ひとつだけ例にとってみると、たとえば、原子力の安全性を確実にするために設置された、IAEA(国際原子力機関)や原子力安全委員会NSC、原子力安全・保安院NISA(いずれも政府機関、後者は経済産業省の一機関)なども、事故後に欧米メディアで批判されていたように、本来が原子力推進の後押しをしている機関であるため、本来求められる批判機能が働いていない。ちなみに、IAEAが事故から少し時間がたってから日本の原子力産業の安全基準のずさんさを指摘した背景には、世界の原子力産業と事故を起こした日本のそれとを区別して考えようとすることで、世界各国の原子力産業が被るダメージを抑える狙いがあったのは確実である。
 
こうして見えてくるのは、資本家と政治家が国民の健康と安全を砦にしながら巨大な利益を貪ってきた構図である。「原子力は安全です」「絶対に事故は起こりません」と言い続け、プロパガンダを垂れ流してきた原子力産業と政府の責任は重い。反原発を主張するならば、このあたりを最終的には厳しく見ていく必要があるのではないか。

また、自戒を込めて言うと、今までの小規模の原発事故事故が起こってきたことに声をあげてこなかった私たち市民の責任も重い。これからは、しかし、こうした不正義に対してはしっかりと声をあげていこうと思う。

Tuesday, August 23, 2011

モラルなき資本主義の結果としてのover-sexualisation

フランスの下着販売会社Jours Apres Lunesが、ウェブサイトで6歳くらいのモデルの女の子にパールのアクセサリーをつけたり、ブリジッド・バルドー風のヘアスタイルをさせ、なまめかしいポーズをさせて商品をアピールしていることで、over-sexualisation(オーバー・セクシュアライゼーション:本来、性的でないものを性的に見せること、の意。日本語で何というのかしら?)との批判を集めている。この会社がターゲットにしているのは4~12歳の女の子で、批判の多くはモデルの子が単なる子どもではなく、「小さな女性」として扱われていることに集中している。「Exploitive(搾取主義)」、「Creepy(気持ち悪い)」、あるいは「ペドファイル(幼児を性愛の対象として見る人)のファンタジーをあおっている」として、とりわけ北米からの批判が多いという。

over-sexualisationといえば、最近、フランスの雑誌Vogueが10歳のThylane Loubry Blondeauを表紙に使ったことで批判の矢面に立たされたほか、アパレルのAmerican Eagleは、先週、ティーンネイジャーの女の子向けにプッシュアップ・ブラを発売し、大きな議論をかもしている。また、Miu Miuも14歳のHaille Stainfeldを起用するなど、ファッション界では10代の女の子をモデルとするなど、業界のモデルおよびターゲットにしている消費者の年齢が目に見えて低下している。

私もover-sexualisationの問題は非常に気になっている。根本にあるのは、どこまでも利益だけを追求する資本主義だと思うし、同時に企業の戦略に易々と乗ってしまう消費者が当たり前のように浸かっている消費主義だと思う。

数週間前のこと。Yorkdale Mallで父親と4、5歳くらいの女の子を見た。その女の子のファッションには驚いた。彼女は、超ミニスカートのすそからフリルをのぞかせ、黒いレースのトップに何重ものパールのネックレスをしていて、女の子というよりは明らかに「小さな女性」だった。父親はAbercrombie and Fitchの大きなロゴの入ったシャツを着ていて、手にはいくつものショッピング・バッグを持っていた。あとで、彼らが日本語を話しているのを聞いてショックだったが、確かに日本ではこういう場面にときに出くわすことがある。Consumerismの行き過ぎやブランド商品の過剰化は日本でよく見られるが、私には本当に気味の悪い現象に見える。本人はブランド商品を着て気持ちいいのかわからないが、結局、企業の側からすると、彼らは自ら歩く無料広告塔になってくれているわけで、こんなにありがたいことはないだろう。

いくら企業が何と弁明しようと、彼らの第一の存在理由は利益追求にある。そのためには企業は手段を選ばない。倫理性もモラリティも彼らには問題ではない。本来ならば、お金を持っている大人が消費者であるから、企業は彼らを対象として彼らの欲望を満たすサービスやグッズを提供してきたが、しばらくすると企業はもっとよい計画に気付いた。それは、将来、「消費者」となりえる子どもを小さいころから「消費者」に訓練することだった。ドキュメンタリーSupersize Meが指摘したように、子どものころに親しんだ味は一生消えない。マクドナルドはそれに目を付けて、Happy Mealや子どものお誕生日パーティーという商品を打ち出し、子どもが楽しめるようなプレイグラウンドを次々と作っていった。結果、マクドナルドはかつてない消費者のLoyalty(忠誠)を獲得することになった。

先に述べたフランスのアパレル企業がやっていることは、この変化球に過ぎない。こうした動きを批判する人たちは、企業が消費者の幅を押し広めるこうしたやり方が倫理的ではない、消費者の知らないうちに「消費者トレーニング」を課していると批判する。しかし、ほんとうにそうだろうか。企業に「倫理」を求めるより、親、つまり大人の消費者ひとりひとりがこうした策略に抗するだけの知識と批判的能力を身につける方が断然意味のあることではないかと思う。

私は資本主義がすべて悪だとは思わない。資本主義のよい面であるInnovation、あるいは技術開発などは、本来、人間がもつ自然の本性にあった側面であると思う。人間の、よりよいものを作りたいという欲求は、さまざまな開発をもたらしてきたし、それで多くの人たちの命は救われ、生活は便利になった。しかし、一方では利益追求を固執するあまり、倫理性や道徳性をおざなりにしてきたが、それは消費者が「知識や常識」あるいは「批判的精神」を持っている限り、許されることではない。消費者が企業の戦略を鵜呑みにしているような状況こそ、大きな問題だと思う。

人間を「消費者」としてしか見ない企業の言いなりにはならないこと。「消費者」である前に「市民」であること。「その手には乗らないわよ!」としっかり反論できること。そのために情報を集め、懐疑的になったり批判的になったりするのはまったく当然で、健康的なことであると信じている。

参照:French lingerie firm pretty babies prompt calls to let girls be girls (The Globe and Mail, August 19, 2001)