Thursday, September 29, 2011

原発を通して見えるもの

福島原発の事故後、私も多くの日本人と同じように原発に関する情報を集めてきた。その過程で、ひとつ私の目に鮮明に見えてきたことがある。それは、原子力を推進しようという動きの背後には、少数者の利益追求という隠された意図があるということである。
 
科学者は私たちの意見に抗してこう言う。
福島第一原発事故はあと2週間で40年を迎える、古い型の原子炉で起こった。最近の原子力発電所の安全基準は、40年前に比べるとはるかに高く設定されており、事故の起きる可能性はきわめて低い。つまり、今後は今以上に安全基準を上げることで、原発事故は防げるという。そして、我々のテクノロジー、科学の力をもってすればそれは可能であるという。
 
あるいは、スリーマイルでは0人、チェルノブイリでは56人が死亡しただけであり、石炭や石油採掘、あるいは精製にかかわる過程で発生する犠牲者数に比べるとはるかに低い。また、石炭に比べると温室効果ガス(carbon dioxicide)排出量のほとんど出ないクリーンなエネルギーである。つまり、原発は完璧なエネルギー源とはいえないものの、他のエネルギー源に比べると人間の生命や生活にとって害の少ない、Lesser evilなエネルギー源であるということである。
 
上のような議論が理性的にまかり通ると思っているのだろうか。

考えてみれば、日本のエンジニアや科学者たちは、これまで折につけ「日本のテクノロジー技術のレベルは世界のトップクラスである」と言ってきたし、自分たちもそれを盲信してきた。福島第一原発事故後、カナダのコメンテーターですら「日本の技術と高い安全基準をもってしても、こうした事故が起きてしまうのであれば、他の国の原発は相当危険である」と似通ったコメントをしていた。ただし、こうした考えは、すぐに「日本の原子力産業の安全基準のずさんさ」を指摘する海外メディア、あるいはIAEAによってまで打ち消された。
 
原発推進派の言う安全性なんて、この程度のものなのだ。中身のないものを頑迷に信じ込んでいるだけなのだ。科学技術が万全であると思っている人は、それを無批判に信仰しているに過ぎず、その科学万能主義は理性による批判を拒否する宗教と同じである。
 
また、健康被害に関して言えば、チェルノブイリの死亡者56人のなかには放射能を空気や食物によって長期間体内に取り込んだことによる二次的な死亡者の数は含まれていない。生まれなかった胎児や、ガンを発病して今も苦しんでいる当時子どもだった人たちなどの数も含まれていない。チェルノブイリの被害が出終わったかのような言い方は、彼らの計り知れない不安や苦しみに対する侮辱としか取れない。
 
また、リニューアブル・エナジーに関して否定的で、原発が最もコストの低いエネルギー源であると言う人たち(これは専門家ではなく、一般の人に多い)もいる。彼らは、リニューアブル・エナジーによる電力の供給は不安定であり、こうした資源に依存するには経済的にみあわない、と説明する。
 
しかし、コストのことを言うのなら、事故が起こった際の損害に対する補償(世代を超えて)を考えあわせなくてはならない。この損害とは、健康被害に対する補償のみならず、避難や移住にかかわる補償、さらには農作物や魚介類を扱う農家や漁業者に対する補償、次世代およびさらなる世代に継続してあらわれる健康被害に対する補償、観光業や海外投資の不振に対する補償といった、広範囲のリスクを想定しなくてはならない。事故が起こらないという想定で「原子力は安い」というのは、まったく話にもならない。
 
私には不思議なのだ。どうして、このような完璧に理性を欠いたような議論がまかり通るのか。そして、いろいろな情報を集めるうちにわかってきたことは、原子力をエネルギー源として推進しようという意図は、理性的な試算やデータに基づいているのではなく、一握りの人たちが巨大な利益を手にしようと意図的に原子力を推進しようとしており、そのために下手な説明をしたり、事実を隠蔽しようとしているのだと結論づけるに至った。それ以外に説明のしようがないのだ。

その結果、私は主に海外のソースをもとに情報集めをしているうちに、「原子力を意図的に推進する勢力」の存在に行き当たり、原子力産業という巨大産業、それと政治(産業を規制する側)との関係について学ぶ必要があると実感するようになった。

(そうして調べている矢先に、Global Fission: The Battle Over Nuclear Powerの著者であるJim Falkのことばに出会った。彼は、反原発の立場に立つのは、まずは核廃棄物や放射能被害にともなう健康被害という問題点から出発しているのだが、こうした問題点をより深く理解していくにしたがって、これらの問題がほとんど不可避的に"concern over the political relations of the nuclear industry"(原子力産業の政治的関係をめぐる懸念)に結びつくと言う。)
 
原子力産業は、ひとたびインフラを設置してしまえば、あとはかなり自動的に巨大な利益が入ってくる「おいしい」産業である。また、(表向きは)国民の安全を保証する立場にある政治家は、産業を「規制」する力をもっているうえ、産業を保護する強大な政治力をもっている。彼らの結びつきの原因が、国民の健康と安全を守るためであれば、規制もしっかりと行われていたはずであるし、事故が起こってからも政府や産業界の対応はもっと違っていたはずなのである。

しかし、実際はどうだったか。安全点検をずさんに行い、巨大な地震や津波の可能性も想定せず、事故が起こってからは完全に対処手段を持たず、対応は後手後手、リスク管理能力が完全に欠如していたことを見ても、国民の安全性を保証しようという意図などはまったくないことは、原発事故後の官僚や東電の幹部の姿にあきらかに現れていたのではないか。

ここで長々とその例をあげることはやめるが、ひとつだけ例にとってみると、たとえば、原子力の安全性を確実にするために設置された、IAEA(国際原子力機関)や原子力安全委員会NSC、原子力安全・保安院NISA(いずれも政府機関、後者は経済産業省の一機関)なども、事故後に欧米メディアで批判されていたように、本来が原子力推進の後押しをしている機関であるため、本来求められる批判機能が働いていない。ちなみに、IAEAが事故から少し時間がたってから日本の原子力産業の安全基準のずさんさを指摘した背景には、世界の原子力産業と事故を起こした日本のそれとを区別して考えようとすることで、世界各国の原子力産業が被るダメージを抑える狙いがあったのは確実である。
 
こうして見えてくるのは、資本家と政治家が国民の健康と安全を砦にしながら巨大な利益を貪ってきた構図である。「原子力は安全です」「絶対に事故は起こりません」と言い続け、プロパガンダを垂れ流してきた原子力産業と政府の責任は重い。反原発を主張するならば、このあたりを最終的には厳しく見ていく必要があるのではないか。

また、自戒を込めて言うと、今までの小規模の原発事故事故が起こってきたことに声をあげてこなかった私たち市民の責任も重い。これからは、しかし、こうした不正義に対してはしっかりと声をあげていこうと思う。

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