Tuesday, August 9, 2011

Hiroshima Day in Toronto(前回からの続き):科学技術原理主義に抗して

核兵器、原発はどうして存在しているのか。核兵器、原発をどうして破棄できないのか。あんなに人間にとって脅威なのに。Hiroshima Day CoalitionのFaith & Abolition: No Nuclear Weapons, No Nuclear Powerに参加している最中、私はそれをずっと考えていた。

1980年代には、核抑止理論というのが台頭し、核を持つことで平和が保たれると信じられていたが、現在、核抑止理論を云々する政治家は時代遅れと考えられている。共和党のオバマ大統領は、NPT推進を外交政策の要とすることを宣言したが、実際には核兵器は今は国家の枠を超えて、小規模なテロリスト、原理主義者といったグループによる所有も確認されつつあり、核を保有することで得られる力は政治的には実際問題として存在するものと思われる。

ここでは、政治的な理由は置いておいて、少し別の理由を見てみたいと思う。
私には、どうも科学技術が内包する問題に触れないことには、問題の根源が見えてこないように思われる。一般的には、科学の進歩はポジティブにとらえられている。私はよく日本から来てトロントに住んでいる人たちが「カナダに比べたら日本のテクノロジーは数段進歩している」というような言葉を口にするのも聞いている。このコメントは「日本のほうがすぐれている」という意味である。確かに、科学技術は私たちの生活を豊かにしている側面もあるだろう。たとえば、インターネットのある時代に海外移住した私などは、テクノロジーの恩恵を毎日のように感じつつ暮らしている。しかし、だからといって科学技術のネガティビティを帳消しにしているわけではないことは覚えておかねばならない。

世界初の原子爆弾開発には世界でも有数の、数多くの科学者がかかわっていた。別の言葉でいえば、原子力爆弾の開発は科学者の知識や技術なしでは不可能だった。私は科学をやっている人間ではないが、科学分野で研究をしている友人たちは、寝食を忘れて研究に没頭している。彼らの研究への情熱は、部分的には新しい発見、部分的にはそれが社会にもたらす恩恵に基づいている。新しいものを発見する情熱は否定できないし、それによって歴史上多くの発見は可能になったわけで、その恩恵の数々はここで指摘するまでもないだろう。

それゆえ、私はFaith & Abolitionの集会に参加していた一人が言うように、「科学技術そのものが悪い」とは考えていない。彼からもらったパンフレットには、「現代の問題の多くは、科学技術に起因している」と書かれていて、すべての科学技術を排して安全で平和な世界をつくろうと訴えていた。彼の言っていることには一理あるが、この主張が現実的であるとは到底思われない。

私たちが今、きちんと向き合わなくてはならない問題は、科学技術に対する熱狂的な信仰、Scientific-technological Fundamentalism、つまり科学技術原理主義であると思われる。これは、科学万能主義と同様、人間が遭遇する問題のすべてに解決を与えてくれるのは科学であるという考え方である(scientific expansionism=科学拡張主義も同じ)。理性による批判をまったく加えないままに、宗教を信じる原理主義者のように、科学技術の原理主義者もまた非常に強い信念(というより、実はドグマ)にのみ基づいて科学技術を崇拝し、それが「真実の道」であると信じている。そして、この考え方は思ったよりも広く社会に浸透していて、科学技術に関して全く無知であったり、科学と縁の無い生活を送っている人たちですら、水で薄められた科学万能主義的考え方に染まっていたりする。

2011年3月に起こった福島原発事故の後、市民の間ではそれまではほとんど表立って論議されることのなかった原発に対する賛否が大きく割れた。私が見る限り、原発に賛成していた多くが、科学技術を職業としている人、あるいはそれを勉強した人たち、また、そこから個人的に利益を受けてきた人たち、あるいは原子力産業のプロパガンダを盲目的に信じてきた批判能力(Critical thinking)をまったく持たない市民だったが、彼らの論理の根本にあったのは、「科学技術(=人間)の力をもってすれば、原子力はTameできる」という動かし難い信念だったように思う。「信念」というのはまさに言葉どおりで、これは理論や理性にもとづいたものではない。「東電に事故が起きたときはどうするのだ、と聞いたら、事故なんて起きないから安心しなさい、と言われた」という福島原発近隣住民の言葉、あるいは「原発は100%安全」という言葉にはその狂信ぶりがしっかりと表れていた。

科学技術が「理性」や「批判的能力」や「倫理」から独立して一人歩きすることの危険性は、歴史が証明している。マンハッタン・プロジェクトにはそのプロジェクトの過程を鳥瞰的に批判できる倫理部門が欠落していた。原子力爆弾を一般市民の頭上に投下し、一般市民がその瞬間から世代を超えて被る被害に関する残虐性、その倫理的正当性についての議論はなされなかった。悪名高き日本の731部隊は、科学進歩のためという目的のもと、数々の残虐きわまる実験を繰り返した気鋭の科学者による殺人集団であった。

オッペンハイマーは自分のかかわったマンハッタン・プロジェクトの最終結果を実際に自分の目で見て初めて、その破壊力を思い知り、死ぬまでプロジェクト関与を後悔し続けたという。私は、あれだけの科学的知識と知性を備えたオッペンハイマーが、自ら開発にかかわった新技術が自分と同じ人間に想像を絶する苦しみを与えるであろうことが、なぜ想像できなかったのかと理解に苦しむ。ただ、科学者や政治家は目の前にターゲットを置くと、それを獲得することばかりに終始する傾向があり、モラリティという面では到底あてにはできない。となると、批判的能力を見に付け、バランスのとれたモラリティを確保しておくべきは私たち市民に他ならない。モラリティを欠く科学者や政治家、そこに連なって金利をむさぼっている資本家に、私はもはや何の期待も持っていない。

ノース・ヨークの区役所で展示された原爆写真展のパネルには、「もはや核のあり方を政治家だけに任せておくことはできない。私たち市民がしっかりと政府を監視する必要がある」とあったが、「核」という言葉は「原子力発電」にも置き換えられるはずだ。私はこのことばの意味の深さを、とりわけ福島原発事故後に実感している。

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