Saturday, November 13, 2010

“The universities are becoming too Asian”??

Maclean’s MagazineのUniversity Guide reportは、”Too Asian”というタイトルで、北米の大学で東アジア系学生の割合が増え過ぎているという記事を載せた。
http://oncampus.macleans.ca/education/2010/11/10/too-asian/

時期を同じくして、Toronto Starも”Asian students suffering for success”(Nov.10,2010)というタイトルを掲げ、大学で東アジア系学生(とくに中国系)が増えていて、それを懸念している中国系の団体が親を招いて「本人にその意志がないのに無理に大学進学を勧めるべきではない」という講演を行ったという内容を載せている。
http://www.thestar.com/article/888368--asian-students-being-forced-into-university-maclean-s

これらの記事に対し、The Chinese Canadian National Councilがステレオタイプの増長、fear mongeringだとして強い抗議を表明したという記事が翌日の同紙に載った。

記事によれば、大学へ願書を出す高校生の割合は、中国系カナダ人で72%、カナダ生まれのカナダ人で42%。中国系をはじめとするアジア系学生は学力テストでは、他のエスニックグループをしのいで最も高得点を得ている。中国系の親は子どもがたとえ関心を示さなかったとしても、大学進学を(ときには)強制し、とりわけエンジニア、医学、科学分野への進学や就職を強く勧めているという。しかし、アジア系学生は自分の意見を持っているか、problem solvingができるか、というとそういうわけではなく、彼らの学力の高さは暗記や繰り返しドリルなどによって保たれている、というコメントもある。
Macleanの記事には非アジア系の高校生が「あまりにも中国系が多すぎるからUniversity of Torontoには願書を出すつもりはない。彼らは一心不乱に勉強に打ち込むから、こちらに勝ち目はない」とか、U of Tの学生が、アジア系の学生たちは自分たちだけで固まって他のグループと交流しようとしない、といったというコメントも紹介されている。

カナダ社会では、東アジア系移民はHardworkingだというステレオタイプが強くはびこっている。低賃金で長時間働く、結束が固いといったステレオタイプもある。これらは過去、プロテスタント社会であったオンタリオで、日曜日にはお店をあけていなかったのが、移民の流入とその他諸々の社会的変化で、休日にお店をあけるようになったが、その傾向は東アジア系の移民が原因であると思っているカナダ人が多いことがひとつ原因になっている(コーナーストアと呼ばれる小さな個人経営のお店は、韓国系・中国系のオーナーが経営していることが多い)が、反対にアジア系はカナダ人をLazyだと見ていることも多い(ちなみに、Nativeに対してカナダ人が持つステレオタイプもLazy)。「黄渦論」や、数年前に西海岸のある政治家が言った"Asian Invasion"、次期トロント市長に決まったRob Fordのアジア系への差別的コメントなどは、こうしたイメージに依拠している。

確かにこれら一連の記事は「北米大学は中国系にのっとられようとしている」とか「東アジア系の親は子どもたちに強力な圧力をかけて大学へ送り込んでいる」というメッセージを送っている。しかし、一方ではまったくの事実がないわけでもない。この記事について夫と話したのだが、彼が言うにはUofTのキャンパスを歩けば、東アジア系学生の多さは一目瞭然だという。しかし、同じU of TでもScarborough校には南アジア系が多いし、学部や専攻によっても人口構成はかなり違っている。

私の感じでは、(私たち日本人をふくめ)東アジア系は子どもや親戚たちの学歴や仕事の地位などに非常にこだわるが、一方では「子どもが何に興味関心があるのか」とか「社会的関心」とか「社会的貢献」といった点ではあまり関心はないし、やはり「勉強」というと暗記やドリルが基本になっている。

結局、こうした教育界に見られる諸現象は文化的違いから生じているということができるだろう。そして、文化は「価値」に深く根ざして生み出されるものだから、エスニック・グループによってその「価値」が若干違っているということもできる。しかし、もっといえば、同じエスニック・グループのなかにだって、若干の違いはあるわけで、私の知人(カナダ生まれの白人)の家庭でも、同じように親が(名門)大学進学を強く勧めて、大学で医学を専攻したけれど、かなりあとになって小さいころから関心のあった気象学をもういちど学び始めた、という例もある。つまり、マイクロレベルでいえば、各家庭・各人にすでに「文化」はそなわっている。そうすると、この記事は、そうした「文化的違い」をかなりおおざっぱに表現したに過ぎない、ということもできるだろう。

最後に、この手のジャーナリズムの「たちの悪さ」に言及しておきたい。自分は人種差別・ステレオタイプをあおっているのではない、とでも言わんばかりに、対象となっている団体に所属するメンバー(この場合は中国系の専門家)のコメントをあげて、最終的に自説に引っ張っていく。これは、The Globe and Mailの人気コラムニストMargaret Wenteがよくやる手法で、「日系カナダ人は太平洋戦争時にカナダ政府によって財産を没収され、収容所に強制的に入れられたけれど、その当時に強制収容所に入れられたMr Suzukiは、収容所は子どもにとっては楽しい場所だったと言っている。そう考えると、決してそれが悪かったとばかり言えはしない」という結論に強引に持っていく。北米ジャーナリストは自分がRacist(人種差別主義者)であると言われることだけは絶対に避けたいと思っているので、こういうセンシティブな話題を書くときはいつも「客観性」を求め、そのために他人のコメントを引用することが多い。しかし、その「客観性」も、誰の声を引用するか、という時点ですでに「主観的」になっているわけで、厳密に言えばここに客観性の入る余地はない。こういう議論に対しては非常に不快感を覚える。

私の目から見れば、内容としては非常に興味深いが、半分は事実にもとづいていて、あとの半分はステレオタイプやfear mongeringをあおっている。その原因の大半は記者の書き方にある。専門家や社会学者の意見を載せるよりは、非常に主観的で感情的な巷の学生の声を載せたり、統計があまりに少ないうえに、Maclean’sとまったく同じスタンス(非中国系の学生が大学で居心地が悪くなっている、という)で書かれている。もちろん、こういう書き方をすれば新聞は売れる。それを狙ったのかもしれないが、低俗なジャーナリズムという印象はぬぐえない。

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