Sunday, November 7, 2010

旗を振る人、旗をなびかせるアパート

Toronto Star(Turkish man forced to remove flag, Nov.5,2010)
記事によると、オシャワ(トロント郊外)のあるアパートで、トルコ出身の賃貸者がバルコニーに飾ったトルコ国旗をはずすようにとlandlord(大家というのでしたっけ?)から通告が来たらしい。そのときにはすべての賃貸者が同じ通告を受けたというが、その後、カナダ国旗だけは飾ってもいいという通告が来たという。Star紙の書き方では、「なんでカナダ国旗はよくて、トルコ国旗はだめなのか、そこに人種差別の種がひそんではいまいか」という感じなのだけれど、この記事を読む限り、大家の対応がプロフェッショナリズムの見地からするとあまりに程度が低く、トルコ国旗は取って欲しいんだけれど、人種差別的な意図を強調するほどでははないのではないか、という気がしてならない。

とはいっても、結果的に意図はなくても、法的に見れば大家の対応は人種差別的行為にあたる。カナダではとりわけ人種差別は深刻に取られているし、人種差別への社会的意識も高いので、仮にこの件が法廷に行くとすれば、大家は深刻な状況に追い込まれることは間違いない。

この記事を読みながら考えたのは、これが日本であれば大きな問題にまで発展することもなく、「トルコ国旗をはずせよ」との通告に対して社会的に人種差別であると糾弾する人たちもほとんどいないだろう、ということ。だいたい、銭湯に「外国人お断り」の張り紙がはられていても、賃貸物件に「外国人お断り」と注意書きがされていても、人種差別であると思わない人が大勢いる国なのだもの。

もうひとつ、個人的には自分の国の旗を喜んで振ったりなびかせたりする人の気持ちが分からない。私にとって私のアイデンティティは私個人に非常に強く結びついているので、そこに国家が入ってくる余地はほとんどない。

トロントでは、実にさまざまな国の旗を目にする。オリンピックやサッカーといった国際的スポーツ・イベントの際にはとりわけ顕著にあらわれる。旗を振る人たちはよく「プライド」という言葉を口にするけれど、「その国の市民であることの誇り」って私には非常に漠然としていて感覚的に分からない。その国に生まれたのは偶然のできごとであって、それに「プライド」を覚えるって、どういうことなのだろう。私にとっては、私個人をつくりあげるのは私個人の自由な選択による。私がどういう人間になりたいのか、ということに関しては私個人が選べ、その選択のうえに自由に行動をあわせていくことができる。つまり、自由のうえに成り立つ選択の結果、個人に対する責任も100%負うことになるわけで、私がある環境下でどういう行為を取り、どういう生き方を選ぶかに関しては、「プライド」の成り立つ余地がある。でも、「その国の人」と「国」とのあいだにはあまりにも距離がありすぎて、私にはピンとこない。さらには、「国」って言ったって何をどう規定するかよく分からないし、「国の文化」という点ですら、他の国の文化を知れば知るほどその固有性以上にUniversalityの方が強調されてきて、一国だけを自分に引き寄せるという気持ちが私にはなくなっている。

もうひとつ言えば、私は日本国民として日本を誇らしく思う点があまりに少ない。私個人のイデオロギーや思想と日本の現状があまりに大きく乖離しているので、私は成長すればするだけ、日本との間にどんどん大きな距離を置くようになっている点もあるだろう。

とにもかくにも、旗を振る人を見ると、私はその人と自分とのあまりに大きな距離を感じてゲンナリしてしまう。

ま、いいのだ。私はGlobal Citizen、コスモポリタンで生きていくという選択をしたのだから・・・。

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