カナダでは総選挙投票日の今日、Star紙、Globe紙のヘッドラインはOsama Bin Laden Dead。ホワイトハウスの前ではビン・ラディンの死を祝福する国民の姿があり、イギリスやカナダの政治指導者たちも歓迎する声明を発表した。唯一、ロシアの大統領だけがアメリカの報復に疑問を呈した声明を出している。
Globe紙の別の記事は、NATOの爆撃でガダフィの6番目の息子が死亡したと伝えている。ガダフィは助かったとしているが、明らかに彼を標的にした空爆である。今後も空爆が続き、標的が的中すればガダフィの命もないだろう。
このふたつの記事を読んで、何とも気味が悪くなった。私はビン・ラディンやガダフィの息子に同情しているのではない。国家による個人の殺人がこんなにも簡単になされてしまう現実を前に驚愕の念を隠せないのだ。
どちらの記事も、最も容易な表現を使えば「国家が他国の個人を殺害した」ということであり、そう考えるとこの意味は非常に深長である。たとえビン・ラディンが大量殺人を首謀したとするならば、民主国家としてまずは司法のもとに犯罪を裁くのが当然の過程となるだろうが、このケースは最初から(9・11の前から)アメリカ政府により「テロリストによるアメリカへのテロリズム」であると繰り返し繰り返し戦略的に叩き込まれてきたため、こうしてひとりの人間が殺されたところで、私たちの誰も悲しみはしないし、それどころか祝福などしているのだ。アメリカ政府は、長い間、自分たちの戦争をJust War(正義の戦争)と位置づけており、自分たちの正しさを疑うことはなかった。自分たちが正しければ、それに反対する勢力はすべて「悪」となるのだ。その構図を叩き込まれた国民にとっては、「悪」の権化とされた一人の人間の死など何ほどでもないわけである。冷戦時代のアメリカは実は同じことをしていた。
一方で、今朝、CBCのラジオで9・11の当日、WTCで働いていたビジネスマンの父を失ったカナダ人女性が「Bin Ladenの死をどう受け止めるか」とのインタビューに答えて、「これ(ラディンの死)で気持ちが楽になったということはない。私にとっては、父が死んだことで誰かを憎むようになることは、テロリストの思う壷だし、自らが苦しむことになる。だから、そういう捉え方はしない。今日のことがどういう意味を持つかと言われれば、今は分からない」と答えていた。
ビン・ラディンの死で世界が安全になったなどとはいえないし、むしろ今後、イスラム教原理主義者による更なる報復も考えられる。そして、アメリカの敵のリストは永久に続いていく。ビン・ラディンの殺害は、アメリカにとっては何にもまして「正義がなされた」という象徴的意味を世界に見せ付けることであったに違いない。
国家がこのように個人の殺害を主導する世界に、平和という言葉は何の意味もなさないような気分になる。ただし、自分の機軸をもとに考えれば、こうした状況を気味の悪い現実として声を挙げるべきだと思うし、民主主義社会に住む私たち国民ひとりひとりが国家によるプロパガンダを跳ね返すだけの批判能力を有する努力を常にすべきだと思う。
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