Tuesday, November 1, 2011

フカヒレ禁止は中国文化に対する差別的待遇か、という問い

10月下旬、トロント市議会はシャークフィン(フカヒレ)の販売、所有を禁止する法を可決し、来年の9月1日には法施行することが決められた。このブログでも数回にわたってトロント市の動きをアップデートしてきたが、今日はこのフカヒレ禁止が中国文化に対する差別かどうか、に焦点を絞って書いてみたい。


もちろん、差別に違いない、という声は中国系コミュニティを中心に出ている。市議会での決議がなされる当日、中国系の商工会は地方紙に全面広告を掲載した。その広告は「シャーク・ステーキを料理して出すことに問題はなくて、フカヒレのスープを出せば多額の罰金が課される」ことに対する矛盾をついていた。私も部分的にそう思っていた。


そもそも、フカヒレに反対する勢力は、フカヒレ漁の仕方が残酷であるといってフカヒレ消費を反対している。フカヒレ漁とは、ヒレだけ切り取って残りを海に戻すやり方だが、サメはそのうち大量の出血が原因で死んでしまう。


一方、世界中でシャーク(サメ)が消費されているのは事実であり、トロントでもスーパーにいけば「シャーク・ステーキ」の切り身は簡単に見つかる。ということならば、フカヒレを禁止するよりも、フカヒレ漁のやり方を変えればいいんじゃないか、と私は思うのだけれど、どうなのだろう。だいたい、サンフランシスコやトロントでフカヒレをメニューに出すこと、フカヒレを売ることを禁止するというのでは、フカヒレ反対勢力が否定しているフカヒレ漁のやりかたを抜本的に変え、苦しみのなかで死ぬシャークを劇的に助けることにはならない。


グローバライゼーション。食品の出所は海外であるという事実。この事実もあわせて考える必要がある。北米で消費されるシャークはアジアで捕獲されたものが大半で、トロント市としては海外の漁業の仕方を変える力はない。せいぜい、私が食肉産業に対してやっているのと同じような、消費者によるボイコットくらいしかできないのだ。


そう考えると、恐らく、フカヒレ禁止の動きは動物愛護の動きに対する、「トロント」のイメージを上げるためのトークニズムではないか、と思えてくる。


ついでに言うと、特別な日のアイテムとして珍重されているフカヒレ・スープが中国文化の象徴であることを考え合わせると、フカヒレだけをターゲットにするのなら、中国文化に対する差別的待遇ではないか、と問いただしたくなる気持ちもうなづける。


フォアグラはどうなのか。エスカルゴはどうなのか。馬の肉はどうなのか。くじらはどうなのか。


同時に、北米のスローターハウスで日々残酷なやり方で殺されている牛や、卵を産まされ続けている鶏などの扱いも、フカヒレ漁に比べると「人間的」と言えるのか。


文化という壁を突き抜けて見るとき、さまざまな食べものを食べる「正当性」の基準が揺らいでくる。何を食べて是とするか、は、文化によって、あるいは時代によっても異なる。つまり、食べ物の正当性の基準は絶対ではない。だからこそ、食べ物そのもの、ではなくて、「狩猟の仕方」や「屠殺の仕方」あるいは「飼育の仕方」に焦点を絞ることの方がずっと的を得ているという気がする。トロントで「フカヒレ」は禁止されたけれど、同じような議論が他の食べ物に対して出てくるのは時間の問題だと思われる。

No comments:

Post a Comment

コメント大歓迎です!