Saturday, July 23, 2011

書評+タイガー・マザーをめぐる議論を考える (Nikkei Voice, July/Aug, 2011 掲載)

“Battle Hymn of the Tiger Mother” by Amy Chua

今年上旬に出版されて以降、メディアで数多くの賛否両論を引き起こした本著は、イエール大学法学部教授エイミー・チュアの子育てに関するメモワール。最初に書評が発表されたウォールストリート・ジャーナルでは、「なぜ中国式の子育てが優れているか」というセンセーショナルなタイトルが掲げられていたり、「子どもの自尊心ばかり気にしている西洋式では結局子どもは何も成し遂げることができない」といったコメントに表れるような、北米社会で浸透している子育てのやり方を否定的に描いていることから大反響を浴びた。The Globe and Mail紙によれば、この本が出版されて以降、エイミー・チュア宛てに「子ども虐待」「最悪の母親」といったメールが殺到したという。

本著を読み終えて思うのは、いかにメディアがセンセーショナルな描き方をしてきたか、ということだ。確かに、著者は「中国式の子育ては優れている」と信じている。しかし、この本は、次女ルルの反抗にあった挙句、中国式では手なずけられない場合もある、という点に気付いた著者の記録だと、私は読んだし、実際、この本のサブタイトルはこうなっている。「本著は子育てに関しては西欧のやり方より中国系のやり方の方が優れている、という本になるはずだった。しかし、実際には、激しい文化的衝突、つかの間に味わった勝利、13歳の娘がいかに私を謙虚にさせたかを綴った記録となった」。

中国式は従順な長女ソフィアにはうまくいった(ように見える)。しかし、性格的には「著者そのもの」である次女ルルとの熾烈な戦いの末(旅行先モスクワのカフェでの驚くべき大喧嘩!)、著者は最終的に「選択肢を与える」という、彼女が嫌った西洋的なやり方にトライしてみるのだ。表面上は「中国式の方が優秀」と主張してはばからない著者だが、よく読んでみれば、ハードルが立ちはだかるたび何度となく密かに自分の信念を疑問視し、葛藤している様子が描かれている。彼女がこの本を書き始めたのは、モスクワから帰った後だというのは意味深い事実だと思う。

私が読んだ書評の多くはこの点を故意に避けたか、触れても最小限に留めていた。メディアは、「中国式の子育てが優れている」というテーゼが、西欧的価値に対する大きな挑戦であることに目をつけ、「売れる」と踏んだ末に、その部分だけを意図的にデフォルメしたのだと思う。結果的に見ればこうした賛否両論は本著に対する最大の宣伝効果になったし、したたかな著者のこと、内心ほくそえんでいることだろう。

しかし、メディアが喜ぶ、このような二分対立の図式を買ってもよいものだろうか。また、子育てのやり方を「西洋式」「中国式」という真っ向から対立するものとして描くエイミー・チュアの方法論を買ってもよいのだろうか。著者の子育ては、何も「中国式」とは限らず、「スパルタ式」とか「エリート教育(音楽家やスポーツ選手を育てるやり方)」という言い方でも表現できるし、西欧社会でもこうしたやり方で育てている親はいるはずである。著者も実は、「中国式」が何も中国系家庭特有のものではなく、ポルトガル系家庭でも、イギリス系家庭でも見られる、と言う。しかし、そう言いながらも、やはり自らの育て方を「中国式」と言ってはばからない。チュアの夫が言うように、彼女には「西洋のやり方」、「中国式のやり方」とステレオタイプ化する傾向がある。こうした類のステレオタイプは、実は今年初頭、話題になったマクレーン誌のToo Asian記事をめぐる論争でも現れ、他でもない、メディアにとっては大きな利益に結びついた。
数十年前、アイビー・リーグにユダヤ系学生が増え始めたころ、「ジューイッシュ・マザー」は「教育ママ」と同義であった。それが今回、ドラゴン・マザーに代わっただけである。国際政治におけるアメリカのヘゲモニーが崩れた今、「チャイニーズ・マザー」という言葉が北米社会にもたらす意味は、単なる「教育ママ」以上に、中国文化に対する羨望や畏怖といったさまざまな感情をも反映しているのであろう。

というわけで、私は著者のアプローチを「タイガー・マザー・アプローチ」と呼ぶことにしたいが、この子育てには、素晴らしい点があると同時に、問題点もあることを考え合わせなければなるまい。たとえば、プリンストン大学のピーター・シンガー(バイオエシックス)は、このアプローチは「たしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている」点を指摘する。子どもの成績はすべてAを期待しながら、協力と協調が要求される体育と演劇を除外している点、音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、この方法では社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できないうえ、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る傾向を助長する。結果、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性がある。アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やうつ病といった精神障害も、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれない、とシンガーは指摘する。

親として私が著者にひとつ共感することがあるとすれば、それは子育てに関する親のコミットメントという点である。エイミー・チュアは困った人だと、本著を読みながら何度も思った。もし、まわりに彼女のような母親がいれば、私はさっさと逃げ出すだろう。彼女が何と言おうと、私には彼女が物質主義に見えるし、エリート主義だと思う。ただ、母親としての彼女のコミットメントは例外的だ。大学の仕事をしながら、毎日五時間、二人の娘のピアノとバイオリンのレッスンに付きっ切りでコーチし、毎週土曜日には片道二時間、車を運転して子どもをバイオリンのレッスンに連れていく。子どものためなら時間も努力もお金も惜しまない。子どもの傍で、子どもを観察しながらの子育ては、大変な努力を要する。しかし、子どもに何かを教えようと思えば(あるいは子どもから何かを学ぼうとすれば)「深いかかわり」が必要だ。エイミー・チュアが例外的なのは、そうした深い親子のかかわりの中で立ち現れる葛藤や対立を恐れることなく受け止め、目標に向かって邁進していく態度である。The Daily Telegraphのアリソン・ペアソンが主張するように、「エイミー・チュアの子育ての方法は過酷なものではあるけれど、子どもにまったく無関心で、テレビにベイビー・シッティングをさせ、レッセ・フェール(好きなようにやらせる)で育てている親とどっちが残酷なのか」と私も思う。親としてこの点には深く共感するし、「中国式」とか「西洋式」などといったステレオタイプよりずっと大切なポイントであると思う。

1 comment:

  1. 親として親の気持ちは分からないではありませんが、子どもは親が思う通りには育たないですよ。たとえ、どんなに素晴しい成功をおさめた教育法であっても、それがその子に当てはまるかどうかは、結果論でしかない。また自分自身を振り返ってみても、何ひとつ親の思う通りにはなっていない。
    子どもにとって親は乗り越えるべき相手であり、だからこそ、人間として恥ずかしくない生き方を見せるしかないのではないかと思う今日この頃。
    守ってやる時期、助けてやる時期、突き放す時期を見据えながら、自立への道を見届けることぐらいしか私には出来そうもありません。

    ReplyDelete

コメント大歓迎です!