Friday, December 16, 2011

イスラモフォビアの一種? 女性蔑視に対する反応?

先日、 カナダ連邦政府のCitizenship and Immigration Ministry(市民および移民局)のジェイソン・ケニー大臣が、市民権授与式での宣誓の際はヴェールをかぶったイスラム教徒女性は、そのヴェールを取らなければならない、という声明を出して、メディアで議論が起こっている。Canadian value、Freedom Of expressionとか、multiculturalism、torelance、という言葉が踊っている紙上は賛否両論わかれている。。


ヴェールというのはニカブといわれるもので、目の部分だけがオープンになっている。トロントに住んでいれば、誰もが必ずそれをかぶっている女性を見たことがあると思う。


今までは、イスラム教徒の女性にはヘッドドレスをかぶったまま投票したり、市民権の宣誓をしたり、裁判所で証言したりすることができたが、折りも折、ちょうど最高裁判所では裁判所での証言の際にヴェールをとるかどうか、が審議されていたり、ヴェールに対する状況は大きな転換を強いられることになりそうである。


なぜ、イスラム教徒女性のヴェールが政治的問題になるのか。今まで問題の起こっていないヴェールが、今ここで突然に問題となるのはなぜなのか。一部の人が言うように、イスラモフォビアもあると思う。ただ、この問題は複雑な問題であって、それだけが理由だとは到底言えない。


まず、マルチカルチャリズムを選び、それを最もすばらしい自国のアイデンティティだと思っているカナダ人は、一般的にいえば他文化に対する寛容性を備えている。しかし、ヴェールというのは、どうしてもカナダ人が同じように大切にしている「価値」(Canadian value)にそぐわないのである。その価値とは、男女平等の原則であり、男性と女性は同等に扱われなくてはならない、というカナダ人にとっては空気みたいに当然の原則である。


ヴェールが象徴するのは、それとは真っ向から反対する価値であり、男性が女性によって魅惑されないように女性は自分の魅力を隠す責任がある、というイスラム諸国の慣習のひとつである(コーランがそう記しているわけではなく、部族的な慣習であるといわれる)。女性は車を運転しできないとか、女性はひとりで通りを歩いてはいけないとか、そういった決まりも一部のイスラム圏では女性に対して課されている。


1960年代に権利の革命によって社会の変革を経験した団塊の世代(ブーマー世代)にとって、男女平等の原則に反するこの考え方はどうしてもなじまない。また、あんなおしゃれのできないユニフォームをどうして女性が好んで着ようと思うのか、と感じる。強制されているように思うにわけである。ヴェールは、つまるところ、カナダ人にとっては何よりも「女性に対する抑圧」として映る。


一方では、カナダで生まれた女性でイスラム教を信仰する女性のなかには、自らヴェールをかぶることを選んだ人もいる。それでも、一般に浸透しているイスラム教における女性の立場を考えると、つい「抑圧」という言葉が脳裏をよぎるのだ。


カナダのマルチカルチュラリズムにおいて、カナダ人が得意とする「寛容性」に受け入れられない女性蔑視の価値観は、今後もいろいろな形で議論を巻き起こすだろうと思われる。

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