Friday, March 25, 2011

専門家の無責任さ-これは事故ではなく犯罪である

先日、国際交流基金で行われたThe 2011 Earthquake in Japan: The Reality and Insights into Recoveryと題するパネル・ディスカッションで、デイビッド・ウェルチ(ウォータールー大学教授)は、原発はクリーン・エナジーであると強調したうえで、「日本が今回のことで原発をやめ、他の電力ソースに頼れば、より大きな被害が出る」と主張していた。
 
最近、この手の議論をよく聞く。「原子力発電はCo2を大量に排出する石炭、日々環境汚染を引き起こしているタールサンドなど他のエネルギー資源に比べると、はるかにクリーンである」とか、「原発は事故さえ起こらなければ他のエネルギーソースより安全」という主張は、原発推進論者のみならず、環境保護アクティビストのなかにも聞かれる。

しかし、それは短期的に見て、という意味において有効な理論に過ぎない。核廃棄物の処理をどうするか、ということになると、専門家ですらまったくどうしていいかわからない。それが何百年にもわたって環境を汚染するのである。それに、原子力発電所付近に住んでいる住民にどれほどの長期的な健康への被害が出るのか、ということも実は一部しか知られていない。それに、原子力発電所で大量に使用された排水は海に流されているそうだが、それが「付近の住民」のみならず、世界的規模で健康への影響を与えているのかといった結果はまだ誰も知らない。

このように、原子力発電は非常に新しい技術であり、それが環境や人間の健康に与える影響についてはまだまだ研究不足なのである。

それなのに、私が聞いていて気分が悪いのは、専門家などがあたかも自分だけは真実を知っています、というかのごとくに今回の原発事故(これを「事故」と呼ぶのは間違っている。事故ということばを聞く人に「原因不明だし、仕方なかったんだ」と思わせるための操作であると思う。はっきり「犯罪」だと言うべし)は「大丈夫」だとか「日本はすばやい復興を果たします」といったような、本当に無責任な言い方をしていることだ。JFでのパネルディスカッションに招かれた3学者(添谷芳秀氏、田所昌幸氏、木村昌人氏)がまさにそうだった。会場からの出された「放射能被害を受けた人たちに対するサポート」を懸念する質問に対し、田所氏は「今のところ、ただちに放射能被害を受けた被曝者はいない」と実に楽観的な見解を示していてあきれたが、その2日後のGlobe紙で、「2名の作業者が被曝」という記事を読んだ私には、この学者たちの無責任さに東電の記者会見していた人たちの顔がだぶってみえた。

インタビューなどされると、彼らは専門家だから、誰も「私にはわからない」とは言わない。でも、本当のところは、全体図をつかんでいる人はひとりもいない。チェルノブイリの事故だって、結局ことが明らかになったのはずいぶんと後になってからであるし、それだって未だに全体図がつかめているわけではない。結局、ことが終わってからでしか、被害の大きさや将来への影響などといったことは分からない。以前、ブログに書いたように、真実は誰も知らないのに、知ったかのようなことを述べたり、さらに悪いのはその上で「大丈夫、安心しなさい」と市民をだまくらかす輩のいかに多いことか。そうやって、東電をはじめ、地方の電力会社は周辺の住民をだましてきたことで、多大な利益をあげてきたわけだし、今回の「大犯罪」を犯した東電が、今後、また企業として生き残っていけるのなら、日本社会は狂っているとしか言いようがない。

震災のニュースを海外で日々耳にしていた私は、最初、深い悲しみに胸が張り裂けるようだった。被災した人たち、特に親を失った子どもたちのことを思うと、涙が流れてきた。
でも、今は違う。海外メディアを日本メディアの報道と合わせて読んでいると、憤りの感情が深く頭をもたげてきた。とくに、私には専門家といわれる人たちの無責任さが何よりも頭にくる。

「原子力はクリーンだ」「安全基準を上げれば、安全性に問題はない」という専門家は、いまはまだ生まれていない後世の世代に核廃棄物と地球環境汚染という恐ろしい遺産を残そうとしているのだ。また、「予想を超える」事故が起こったときに、「不幸にも」周辺に住む人たちのいのちなど、気にもかけていないのだ。その無責任さはどこからくるのか。

私たち市民は、こうした無責任な専門家のことばに耳を傾けて、この世紀を超える大犯罪に加担するのか、責任ある市民として行動を起こすのか。今、私たち市民ひとりひとりにその問いがつきつけられている。

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