Tuesday, July 27, 2010

文化とことば -- 中津燎子の『母国考』

友人から借りた中津燎子の『母国考』という本を読んで、文化とことばについて深く考えさせられた。1925年生まれ、3歳で旧ソ連のウラジオストックにわたり、12歳までそこで暮らしている。ウラジオストックの家庭では厳格な父親から日本語を学ぶことを強要され、外ではロシア語圏という環境で暮らし、日本へ帰国後は日本語で苦労したという著者のこの本は、かなり時代の違いを感じさせる部分はあるにしろ、2文化で育ってきた著者の独特の視点による指摘は非常に興味深いものだった。

著者のクレイムのうちでも、私が最も興味深いと思った箇所を書き出してみる。
クレイム1:2言語で育てられた子どもたちのなかには、たとえ言葉は完璧でも、言語のなかに凝縮された文化的エッセンスを理解できていないため、どこかピントがずれていることがある。
クレイム2:現代の日本文化は、アンパン文化である。
クレイム3:日本語の構造のなかに、ものごとを考えなくてもいいという要素があり、それは日本におけるコミュニケーションの一部となっている。

まず、最初のクレイムについては、子どもを2言語で育てているという状況があるので、非常に興味深く読んだ。というのも、たしかに子どもには「秋祭り」やら「稲荷山」やらといった言葉を教えているけれど、それが本当にどういうものか、というのは子どもが自ら体験したり、少なくともそのエッセンスを感じられる体験がなければ、子どもにとってはピンとこないだろう、と思っていたからだ。私も小さいとき、ロシア小説のなかに「サモワール」という言葉やらが出てきて、注に「お茶をわかすケトル」とか何とかあったとしても、実感としてはやはりそれが文化的な文脈のなかで存在しているのを見るまではピンとこなかった。海外で日本語を教えている私としては、子どもの日本語教育係りとしてことばを教えるときには、「わかっていて当然」というスタンスではなく、できるだけ文化的な文脈をたくさんのことばを交えて教える必要性を痛感した。

さて、「アンパン文化」とは、日本古来の文化を「あんこ」に、西欧風の文化を外側の「パン」にたとえたもので、言いえて妙だと思った。彼女の説明によれば、現代の日本人はごく幼少のころは日本的なところで育てられたにもかかわらず、西欧風の教育を詰め込まれて、外からみればパンみたいになっている。でも、よくよく見ると、あんこの部分は消えたわけじゃなくて、単に見えなくなっていて、何らかのきっかけでしばしばぽろっと顔を出すことがあるという。この2重に重なった日本人のアイデンティティというのは実におもしろい。実は、私も、海外に長年暮らしている日本人が「でも、老後は日本に帰って暮らしたい」と言うのを聞いたり、たとえば夏目漱石などの西欧かぶれ(失礼!)が、いずれ年を取って「日本回帰」していく状況を非常に興味深いと思っていて、同じように長年海外で暮らし、海外で老いていくであろう私も、いずれ「日本回帰」するのかと、興味深く思ったりしている(そうすると、国際結婚である私たち夫婦の関係はいったいどうなるのだろうか、とも・・・)。

ただ、こういう考え方はよく昔あった「西洋」対「日本」といった構図を作りやすく、個人的には非常に警戒心を覚えるのだが、だいたい、私たち日本人が単に西洋と日本文化の混合物であるとはとても言えない。とりわけ、最近のようにグローバライゼーションの世界にあっては、もっと他の要素も(個人的なレベルの要素を含めて)含めなくては本当に私たちの「文化」を語ることにはならないだろう。「西洋」対「日本」という構図の出し方に、かび臭さを感じてしまった。

最後の「日本語のコミュニケーションには考えないという要素がある」だが、これは夫に言わせれば、「あまりに単純に日本文化を割り切りすぎている」。実際、日本語を使っていてもものを考える人もいるし、それを表現しようと思えば表現できる。しかし、日本の風土のなかには、確かに直截にものを言うことをうとんじる傾向はあり、それは英語(外国語?)を学ぶとよく見えてくる側面に違いない。

話はちょっと違うけれど、夫とこの件で話をしていると、ふとあることに思い当たった。私の友人で韓国出身の人がいるのだけれど、英語は完璧にできる。なのに、たまに彼女のいわんとしていることが何なのか、首をかしげることがある。言葉そのものが不明なのでなく、言いたいことをオブラードで包んで出してくるような感じなのだ。それを夫に以前言ったら、それは彼も彼女と話していると感じることがある(韓国文化と日本文化に、ある種の近似性があるということだろうか? あるいは異なる文化で育ってきても、個人差ゆえに日本文化に近い人もいるということだろうか? おもしろい・・・)、さらに、ある種の日本人と英語で話しているときにも同じように感じることがある、と言う。「でも、最初に会ったときから君と話をするときはそう感じたことはない。君はストレートなものの言い方を英語でも日本語でもしてるんじゃないか」と言い、「だから、これは文化と言えないわけでもないが、個人差も考慮しなければ、安易なステレオタイプに陥るのではないか」と懸念していた。私も同感。

正直言って、私は「日本人はどうのこうの」とか「日本文化はどうのこうの」とかいう「日本人論」が大嫌いで、いつもこういうのを近くでやられると居心地が悪くなってしまう(たぶん、自分の異質性を感じているから?)。カナダに来てカナダ人が「カナダ人はどうの」とか「カナダ文化はどうの」とやっている場面というのに遭遇したことは数えるほどしかない。そう考えると、「日本精神文化論」みたいなのがご立派に通用する日本ってのは、特異というか、ほほえましい、というか、一方では恐ろしい、というか・・・。

とにもかくにも、「母国考」は2文化環境で生活した経験がある人、2文化環境で子どもを育てている人にとってはことばや文化について考えるヒントをくれる興味深い本だと思う。

Thursday, July 22, 2010

書評『日本人の国際結婚—カナダからの報告』(彩流社)「日系ボイス」2010年7・8月合併号掲載  

本著はトロント在住ジャーナリスト、サンダース宮松敬子氏の第三作目。一世母の半生記、同性愛問題と幅広い視点からカナダおよび日本の社会事象を見つめてきた著者が今回選んだテーマは「国際結婚」。この本が他の「国際結婚モノ」と異なる点は「国際結婚をしている日本人側の思いばかりでなく、多くの配偶者やパートナーの方たちの意見も同時に聞けた」ことである。つまり、当事者の「生の声」が綴られている点が本著の特徴だ。

自ら国際結婚をし、長い間、国際結婚というトピックに関心を寄せてきた著者は、特に近年になって日本で国際結婚が日常化し、一方では、その現象が著者の住むカナダの国勢調査に反映されている事実との間に興味深い関連性を見つけたのである。

「2006年の国勢調査でも、同じようにmixed unionの率が一番高いのは、日本人(約75%)(中略)、その数値はカナダ在住のどのエスニックのグループよりも高率」となっており、著者はその理由を考えるため、さらに日本人の国際結婚の実態を調査するため、二〇〇八年秋からカナダ全土で日本人の国際結婚者に対するアンケート調査を開始する。この調査で約二〇〇名から得られた回答およびそれらをめぐるストーリーが、本著の大きな柱となっている。

内容を概観すると、カナダ紹介、カナダと日本における国際結婚、その(可能的)背景、さらには国際結婚で生まれた子どもたち、両親との関係、日本・カナダ・アメリカにおける国際結婚の受け取られ方、今後の日本人移住者コミュニティーなど、国際結婚をめぐる多彩な事項を扱う構成となっている。

アンケートという方法によって、国際結婚カップルの実態を把握しようとした意図を、著者はできるだけ回答者のことばで伝えることで達成しようとしている。とりわけ著者が関心を寄せている「日本人のカナダ観、カナダ人の日本観」は、2文化にまたがって生活している者には実感としてうなずけるものも多い。そして、こうした声に触れるうち、「個」と「文化」の多重性、曖昧性についていろいろと考えさせられた。
 
ネット上にも西欧人と日本人の国際結婚の問題点が双方の文化的違いの縮図としてあらわれていると示唆する例は氾濫している。集団より個を、先のことより今を重んじるカナダ文化で育ったパートナーに、以心伝心や謝罪文化で育ってきた相方が困惑するのはうなづけるし、結局のところ、お互いの文化を認めた上で歩み寄りの態度が必要となることもわかっている。ただし、こうしたカップル間の問題も厳密にはどこからが「文化的」でどこからが「個人的」なのかと考えると、そんなにはっきりとは言えない。

そのよい例が、あるエピソードにあらわれている。国際離婚を通じて言葉でのコミュニケーションの大切さをつくづく感じた人が、帰国直前に国際結婚している女友だちに言葉について聞いてみると、「それほど深い話をするわけではないので、不満はない」と言ったというエピソードに、著者は「めし」「風呂」「寝る」で用が足せる日本の中年夫婦の実態を対比させ、国際結婚であろうとなかろうと夫婦間のダイナミズムの問題が根本的問題なのだと気付かせてくれる。

言葉を介したコミュニケーションということでいえば、個人的には夫との間というより、夫の友達や家族(義兄がBritish!)との間でよっぽど苦労している。そして、これが何度か出てくる「日本人の妻は人を呼ぶと、キッチンに入ってばかりで会話に加わろうとしない」というクリシェとして表れているのかもしれない。実際、私にも会話に興味がもてなくなるとキッチンに入り込む傾向があるので、これを読んで「私個人の傾向かと思っていたけれど、あれって文化的なのね」とひとり苦笑してしまった。「文化的」も「個人的」もそう簡単に切り離せるものではないようだ。

さて、これは私の推測に過ぎないのだが、著者はひょっとすると結婚という形であれ何であれ、海外で長年生活していくことと日本人としてのアイデンティティということに関心を寄せているのかもしれない。著者が岸恵子のいう「日本人の血のいのち」という言葉を取り上げたり、長年、海外に住んでいる人たちの「日本回帰」の例を取り上げている部分は、本著で最も洞察深さを感じる。

著者が以前本紙に寄せた文章を参照にすれば、岸恵子の結婚は、最後には彼女の「日本人の血のいのち」に対するこだわり、一方では「ぼくは、君の日本に打ち勝てない」という元夫のコメントにあらわれるように、文化の違いによって破綻している。

国際結婚の破綻は文化という「壁」を越えられないときに起こるのか。国際結婚カップルにとって、お互いの文化はどのような位置を占めるのか。文化的要因は「個人」を押しつぶし、年を追うごとに湧き出してくるのか。このあたり、非常に興味深いテーマだと感じた。

長年にわたり日本・カナダをバイリンガルで見据えて考えてきた著者の強みは、何といっても両国(さらには世界)の情報リソースをたくみに操るスキルであり、折に触れ、オバマ大統領の出生のエピソードなど、日常的な社会事象を挟み込み、より広い事柄との関連性を考えさせてくれる。また、国際同性婚(ほら、私のコンピュータでは一度に変換できない!)について焦点を当てている点も大いに共感できた。『カナダのセクシュアル・マイノリティたち』の著者にとっては当然であろうが、日本人読者にはこの章は多くの示唆・メッセージを提供していると思う。

最後にひとつ気になった点を補足しておく。
アンケート中のいくつかの質問に対して疑問を感じずにはいられなかった。たとえば、カナダ・カナダ人が好きですか」「日本・日本人が好きですか」という質問は、マイノリティとしての意識とともに生きてきた私にしてみれば排他性を感じるし、回答者や読者をステレオタイプへと陥らせる危険性がある。「何かあると、物凄い勢いで、文句を言って来る。しかも納得する結果が出るまでは、周囲を気にすることもなく、怒り丸出しで気持ちを伝えてくる」という回答が「カナダ人の気質・人間性」というところでくくられていたり、「文化的な探究心が少ない人が多い」「会うカナダ人ほぼ全員が日本は中国の南にあって暑い国だと思っているようで…」には、心底驚いた。一体、何をして「日本人」、何をして「カナダ人」なのか。個人と文化が曖昧に交錯する現実を考えれば、最後までこの疑問がぬぐえず、言い知れない居心地の悪さを感じた。とりわけ、日本でのカナダの知名度が低い事実を考え合わせれば、質問の投げ方を工夫する必要があったのではないかと思えてならない。

本著は、これからカナダで(あるいはカナダ人と)国際結婚をしようと考えている人にとっては、子どものことや離婚、日本のハーグ条約問題、老後のことなど長い目で見られ、国際結婚の実態が見えて有用であろう。一方、私たちのように国際結婚しているカップルにとっては、自らの結婚生活にあらわれる問題点を文化的側面から捉え直すうえで興味深いヒントを与えてくれる。回答として出されたエピソードやコメントをもとに、すでに私と夫の間では日々、議論に華が咲いている。

Tuesday, July 20, 2010

China's Power-U.S. no longer leads in energy consumption(The Globe and Mail, July 20, 2010)

アメリカを追い抜いて中国、世界最大のエネルギー消費国に

今年前半、アメリカを抜いて世界最大の自動車市場となったと同時に、ドイツを抜いて世界最大の輸出国となった中国だが、今日の新聞では世界最大のエネルギー消費国となったことが報じられた。アメリカは、1900年代より世界最大のエネルギー消費国であり続けてきた。

専門家によれば、今後の予測としては、今年後半には日本を抜いて世界第2の経済大国となり、2027年までには世界最大の経済大国となると見られ、世界各国間のパワー・バランスがシフトし、アメリカのヘゲモニーが実質的に崩れている現実を見せ付けている。

中国出身の知人たちはよく「トロントは空気がきれい」と言うので、よくよく聞いてみると、フホホトのような都市でもスモッグや空気汚染が深刻で、中国では環境問題への取り組みがまだまだ遅れていると言っていた。公害は国境を越える。今後、エネルギー消費大国となった中国には、空気汚染や土壌汚染といった環境規制に関し、大きな国際的外圧がかかることだろう。

静かに、静かにひきこもる国・日本

“Six Prime ministers in four years.”(4年で6人の首相)

先の6月のG20 トロント・サミットをカバーしたメディアで、日本について最も多かったラインはこれではなかったか。4人で6人もの首相とは確かに珍しく、こうした政治的Stabilityのなさで政治がやっていける国は日本以外には考えられない。The Globe and MailとToronto Starでは、日本に関するカバリッジはほとんど見られなかった。官首相の写真だって、ほとんどなかったし、ある写真では誰かの影にかくれて顔が見えなくなっていた。StarではG20の20日前から出席する各首脳の紹介を全面でやっていたが、官首相は単に今までの首相とはちょっと違う、アクティビスト、Populistの首相であるという紹介で、何の深さも洞察もない単調な記事だった。でどちらの新聞だったか忘れたが、いちばん大きく扱われていたのは(確か紙面半分ほど)官伸子首相夫人のインタビューだった。しかし、この内容もひとことでいうなら「彼女は夫とは違った意見も述べる近代的女性」と要約されるようなもので、カナダのメディアもいつまで「日本女性は従順」というステレオタイプを引きずってるのだろう、と首をかしげたくなるようなもの(そして、国際政治・政治的にはどうでもいいインタビュー)だった。

日本が抱えている巨大な赤字国債や長引く経済不況などの文字も見えたにしろ、はっきり言ってどのメディアも日本という国の国際的重要性をこれっぽっちも感じていないのだ、ということがはっきりと分かった。

私がカナダに来た11年前は、まだ日本関連のニュースや特集記事が目についた。それが、いつの間にか、日本に関する新聞記事といえば、ロボット関係か、キティちゃんなどのキャラクター・グッズか、日本風デザイン、せいぜい小さな政治・経済関連記事という感じになってきた。明らかにカナダ・メディアでは日本がレーダーから消えていっている。

個人的には、これが特に困った傾向であるとは思わないが、一方で気になるのは日本社会全体が「ひきこもり」状態になりつつあるのでは、という懸念。ハーバード大学などの世界の一流大学でも、日本人学生の数がここ10年来、確実に減っているとか、私の住んでいるトロント大学の家族向けアパートにも日本人家庭は数えるほどしかいないとか、世界という舞台で活躍する日本人が以前にもまして減っている。グローバライゼーションの時代、静かに、静かにひきこもる国・日本というのは、いかがなものか。

Sunday, July 18, 2010

ときどき無性に食べたくなってしまう… バター・タルト(bits Magazine掲載)

bits Magazine(June,2010)
子どもが生まれてこの方、甘いものを食べる機会が減っている。子どもから市販の甘いお菓子を遠ざけているので、自分だけ大っぴらに食べるわけにもいかないし、「大人がなめると薬じゃが、子どもがなめると死んでしまう毒じゃ…」なんて、一休さんに出てくる和尚さんの真似もできないし…。
でも、ときどき、無性に食べたくなってしまうものがある。その名は、バター・タルト。

自国の食べものがこれといってないカナダで、バター・タルトはカナダ生まれの焼き菓子のひとつ(アメリカにはこれとよく似たピーカンパイがある)。イギリス系カナダ人にとっては昔ながらのホームベーキングの味、そしてティーパーティーの確かな脇役。義母の世代では、その家に伝わるバタータルトのレシピがあって、主婦はせっせとバター・タルトを作っていた。義母の友人たちが集まるパーティーでは、必ずといっていいほど誰かが持ってくるし、そこでは繊細なソーサー付きのティー・カップが出されて、そのパーティーの洗練さに私はほほうと思ってしまう。しかし、ホームベーキングが廃れ、この国のティー文化がマグカップ化してからというもの、バター・タルトもまた地に落ちたように私には思われる。

見よ。今では、そんじょそこらのスーパーでチープで極めて粗雑なバタータルトが売られ、まるで伝統など感じさせないトリートに成り下がっている。「甘けりゃいいの!」という人にはいいんだけれど、そうしたバタータルトを見るたびに、私はかつて栄華を極めたシンガーがひっそり場末のバーで歌っているような、そんなイメージを頭に描いてしまったりする。

無性に食べたくなったら、ひっそり買って、子どもがお昼寝の間、あるいは独り遊んでいるすきにさっとキッチンに入って、立ったまま大きな口をあけて食べる。でも、こういうやり方では本当は心苦しい。やっぱりちゃんとおいしく紅茶をいれて、お皿を置いて食べなくては、せっかくのバター・タルトに失礼な気がする。

タルト作りってうまくいかない場合が多いのに、焼きあがると夫とぺろっと食べてしまうので、最近は買うことの多い私。それにしても、私にはおばさまたちのむせ返すような香水のにおいと1セットになっているバター・タルト。エレガントなお菓子のイメージは今も変わらない。

見るからに健康によさそう・カラード・グリーン(bits Magazine掲載)

bits Magazine(April, 2010)
3月末、日本に一時帰国した際、近所の人たちが毎日のように持ってきてくれる筍を、今までの人生で食べた以上に食べた。筍をテーブルに出しながら、畑づくりをしている母が「今はちょうど青いものがない時期でね…」と言っていた。そのとき、トロントってところは1年を通して青い野菜が手に入るのだということに改めて気付いた。

NAFTAのおかげでメキシコやアメリカからやってくる野菜が年中、スーパーの棚を鮮やかに彩っているトロントだが、実は冷帯に位置するカナダでは野菜が作られる期間が極端に短い。なので、冬になると緑色野菜アイテムがぐっと減るが、そんなとき私がよく料理するのがカラードグリーンいう名の、見るからに体によさそうな青もの。

私がカラードグリーンを知らなかった10年前の話…。スーパーでミドリミドリした、大きな葉っぱを手にしたおばちゃんがいた。私はそのころよくやっていたように、すかさず駆け寄り、
「あなたはこれをいったいどうやって食べるのか?」
と訊ねた。彼女は驚きもせず、
「いためたベーコンと玉ねぎといっしょにクタクタになるまで煮込むのよ…」
とあれこれと説明を初めてくれた。そして、最後には訝しそうに、
「コラードグリーンを食べたことがないのか」
と訊ねられ、この大ぶりの葉っぱがコラードグリーンだと教えられた。

早速買って帰ってネット・リサーチしてみると、キャベツやブロッコリの仲間だということがわかった。アメリカ南部やブラジル、ヨーロッパではポルトガルでよく食されるらしい。食べ方は、煮る、蒸す、あるいはレンジにかけるなど、とにかくハードなので調理は必須。

あのときのおばちゃんは「私はカリビアンだからこうやって食べるの」と言っていたが、アメリカ南部などではこうして脂分の多いハムやベーコンなどと一緒に煮たものを食す。旨みが染み出た煮汁もコーンブレッドで浸して食べる「Pot likker」(お皿までなめたくなる料理)として、非常にポピュラーな一品である。
私もあれから何度となく、スーパーでチンゲン菜を買っていたとき、パラペーニョを買っていたとき、コーンミールを買っていたときでさえ、知らない人から「それって、どうやって食べるの?」と訊ねられた。こうした光景は、世界中からいろんなフードが入ってきて、世界の隅々から人々がやってくるフレンドリーでカジュアルなトロントだからこそ。日本ではちょっと見られない光景だろうね。

Thursday, July 15, 2010

French ban on veils approved (Toronto Star, July 14, 2010)

7月13日、フランス国会下院でブルカ風のベールを禁止する議案が通過した。
この法によれば、Public space(公共の場)とみなされる場所すべてでヘッド・スカーフが禁止されることになり、反対していたSocialists(フランス社会党)の政府の建物や病院といった限定された場所での禁止に留まらない大規模な禁止となった。

フランスはヨーロッパ最大のイスラム系人口を抱え、フランス全人口64Mmillionのうち、5millionがイスラム系である。しかし、ヘッド・スカーフをしているのは、そのうちのわずか1900人の女性とされ、この少ないヘッド・スカーフ人口を抑制するというよりは、女性が男性の従属物である象徴であるともみえるヘッド・スカーフが男女平等、政教分離を掲げるFrench value(フランスの伝統的価値観)に根本的に合致しないというメッセージを全人口に送ることが目的である、とも読める。

サーコージー大統領の党は、顔を覆うベールは「are a prison for women, they are the sign of their submission to their husbands, brothers or fathers(女性に対する監獄であり、夫や兄弟、父親に対する従属物であるという象徴)と表現しており、さらにこれは「公共の場で顔を覆うことを禁じる法案」と慎重に言葉を選んでおり(イスラムの言葉はひと言もない)、この法が決してイスラム系市民に対する抑圧でないこと、フランスの全国民の利益に適うものであることを強調している。ちなみに、バイクのヘルメットやフェンシング、健康上の理由での覆面、カーニバルの覆面は例外扱いとなっている。

フランスは、以前にも宗教的な装飾品を学校に持ってくることを禁じる法律を整えたり、Secularismの伝統をかたくなに守っている姿が見える。カナダにも内なるフランスともいえるケベック州があり、同州でもフランスほど厳格ではないものの、こうした自分たちの価値観にしっくりこない文化的伝統を受け入れたくないという姿勢も見えている。

フランスでも、カナダでも、他国で生まれた移民の子どもたちが、自分たちの生まれた国(フランス、カナダEtc…)ではなく、両親の文化をかたくなに守ろうとするという傾向が社会現象として現れている。たとえば、カナダ生まれのタミル系2世が、スリランカに戻って政治運動をしたり、両親を驚かせるほど彼らの母国との結びつきを強めたりしている。この現象は非常に興味深く、背景には彼らが主流社会に受け入れられていないという根本的問題が彼らをFundamentalismへと駆り立てているのではないかと指摘する論者も多い。

結局のところ、人口移動がこれほど頻繁に起これば、自国に他文化をどう受け入れるかという点は、さまざまな国でさまざまな社会問題となって表面化してくるであろう。

「女性の権利を求める」国際的連帯-グローバライゼーションの時代に

43歳のイラン人女性Sakineh Mohammadi Ashtianiが不倫を理由に投石による死刑宣告を撤回させようという動きが国際社会で起こっている。カナダでも、各界の著名人(とりわけ女性が多い)が活発にメディアに登場して、この国際的な動きに加わるよう促している。

機会があればイスラエルへのサポートを表明しているIndigo Books & MusicのCEOへザー・ライズマンの意見は、イスラエルに関しては私も賛成しかねないのだが、今回ばかりは彼女の意見に大いに共感した。

The Globe and Mail に寄稿した記事のなかで、ライズマンはイランでとりわけ女性の権利が蹂躙されている状況をイラン人女性が書いた数冊の本に重ねあわせ(さすがは巨大書籍チェーン店のCEO!)、最終的にはエリ・ヴィーゼルの”The opposite of love is not hate. … It is indifference.”(愛の反対にあるのは憎しみではなく、無関心である)を引用して、カナダのような民主主義社会にいる私たちこそ大きな声をあげようではないか、と提案している。

こうして、ある国で人権蹂躙がなされたとき、海外でそれを批判する声が上がるというのは、グローバライゼーションのプラスの側面に違いない。私の母国はイランほどではないにしろ、やはり数々の不正義がまかり通っている状況は今なお続いている。私たちのように海外に暮らす日本人も、日本の不正義を正す運動と連携して活動したいものである。

Foreign Students in Canadian homes more likely to abuse alcohol, use drugs

という見出しの記事が載っていた。(The Globe and Mail, July 14, 2010)
http://www.theglobeandmail.com/news/national/british-columbia/perils-await-foreign-students-in-canadian-homes-study-shows/article1638282/
ざっと概略すると、カナダに語学留学している海外学生のうち、ホームステイ学生の多くがアルコールやドラッグなどの危険な産業へと入り込む可能性が高いという。

たとえば、バンクーバーなどブリティッシュ・コロンビア州では、カナダ生まれのアジア系学生に比べると、ホームステイの学生は3倍もコカイン経験、飲酒にのめりこみやすく、性的にもよりアクティブ、学校も休みがちであるという。約4分の1の女性学生が性的虐待を受けたと報告しており、これはカナダ学生の9パーセントに比べると驚くほど高い比率。この研究報告は、The University of British Colombia School of NursingのDr. Sabrina Wongによるもの。 

Globeの記事では、こうしたホームステイ産業がBC州だけでも年に60Millionをもたらす巨大産業であること、ホームステイ家庭の選別に関しては政府が定めたスタンダードはなく、各語学学校に任されていること、なかには悪質なホームステイ家庭があること、政府側では一定の基準を設ける予定は今のところないと結んでいた。
こうした実態はカナダの主流社会には表面化していないものの、たとえば各アジアのエスニック・コミュニティで社会福祉方面で活動しているグループや個人であれば、具体的な例を案外と見聞きしていると思われる。トロントのJSS(Japanese Social Service)にもこの手の相談は数多く舞い込んでいると私も聞いたことがある。そして、こうした傾向を受けて、彼らも日本人学生やワーキングホリデーの若者たちに、ドラッグやセックスの危険性を教えるプログラムを提供していた(今はどうか知らないけれど)。

私も実に、高校生のときにカリフォルニアのある家庭にホームステイをした経験があるが、そのときの経験はプラス以外の何ものでもなく、面倒を見てくれた年配のオーリーは私が帰国してからもカリフォルニアの大学へ来るように何度も誘ってくれていた。しかし、多くのホームステイは語学学校で斡旋がされており、語学学校の質が悪ければ、ホームステイ先の質も保証されない、というのが私の実感。トロントでも、ホームステイ家庭の子どもを虐待しているとでっちあげの証言をされて挙句の果てに警察沙汰になったとか、シャワー室でビデオの隠し撮りをされていたとか、信じられないような話も耳にしたことがある。

日本にいればある一定の基準で人を判断できるが、海外ではそうした判断基準があやふやになる可能性は私もよく知っている。日本からやってくる学生・ワーキングホリデーの若者たちにドラッグの危険性や啓蒙活動などの自己防御手段を与えることは、トロントの日系社会の責任でなされなくてはならないことなのだろうか。私の意見では、日本のワーキングホリデー協会、日本政府が彼らを送り出す前に何か手段を講じるべきだと思う。