Tuesday, August 30, 2011

書評:Thousand Autumns of Jacob de Zoet by David Mitchelle

Cloud Atlasで話題になったイギリス人作家デイビッド・ミッチェルの新作Thousand Autumns of Jacob de Zoetは、長崎の出島を舞台にした小説。夫が先に読んで非常に感銘を受けて、He is exceptionally skilled writer!とか何とか諸手を挙げて賞賛していたので、いつもはノンフィクション漬けになっている私も読んでみた。

舞台は1719世紀半ばまで鎖国をしていた日本、長崎の出島。宗教は持ってこない、貿易だけをすると約束したオランダ人だけが居住を許されていた出島にオランダの東インド会社の書記としてやってきた若きJacob。彼らオランダ人にとって日本にいるといえども、実際に出会う日本人は通訳や貿易関連の官僚たち。

そんな環境のなかで、Jacobは同じく出島に居住していたオランダ人医師から西洋医学を学んでいた日本人の女性Orito Aibagawaに出会う。顔面に火傷の跡が残るOritoはそれを隠すためのスカーフ(日本語でなら頭巾となるのかしら?)を被っている。父親は高名な西洋医学者で、大名の妻の難産を助けたOritoは、女性であるにもかかわらず、特別に出島のオランダ人医師から教えを受けることを許可されていた。Jacobと書物に対する愛情を共有するOgawaという通訳が、実はOritoと恋愛関係にあったことなど知らないJacobは、彼にOritoへのプレゼントとして辞書を渡す。

しかし、OritoKyoga DomainLord Enomotoに誘拐され、Shiranui山の尼寺に幽閉されてしまう。この尼寺は下界とのつながりを全く絶たれたお寺で、実は寺というのは表向きに過ぎず、大抵が売春宿のようなところから連れ去られた女性たちに奇妙な規則が課されているのだった。しかし、後になって通訳のOgawaMt. Shiranuiの恐るべき秘密を知り、Oritoを救うべく旅に出るが、Lord Enomotoの部下によって殺害されてしまう。

一方の出島では、Jacobがオランダ東インド会社の内部腐敗を知り、その改革に乗り出そうとするが、敵が多く思うようにいかない。そのうちに、出島に貿易拠点を設置しようとしているイギリスの船が出島沖にやってきて、オランダ出島の存在を危機的なものにする。

David Mitchellの文体は古典的でもありながら、非常に詩的オリジナリティにあふれ悲しくて美しい。Jacobが若いときに恋に落ちた異国の女性と結ばれることがなかったにもかかわらず、心のなかにずっと思い続けてきた感情にぴったりと沿うような文体である。とりわけ、最後の部分、Jacobが死ぬ間際になって、Oritoの姿を垣間見る場面にすべてのストーリーが巧く結晶されている。

一方では史実に基づいた非常に精巧な歴史小説であり、他方では叶うことのなかったロマンスを描いた小説でもある。また、この小説には悪党がたくさん出てくる。500年生きているというEnomotoをはじめ、東インド会社で自分の利益を貪る人たちなど、こうした悪党に挑む、この時代の人物としては驚くほど道徳的で、他の国の文化に対してオープンなJacobをどうしても応援したくなる。私にとっては難しい単語がたくさん出てきて読むのに時間がかかったが、いったん読み始めたら他のことを忘れてページをめくるのに没頭するような、スリルとサスペンスに満ちた小説でもある。

Jacobは出島ワイフ(娼婦)との間にできた子どもを日本にいるときには育ててきたが、最終的にオランダに戻る際には日本に残していくことになる。そして、祖国のオランダではイギリスの脅威からオランダ出島を守ったことで名誉市民とされ、若い地元の女性と結婚し、死を迎える。ある部分で、Jacobは出島で最後にOritoを見たときに(彼女はJacobの出島ワイフの申し出を受け入れようとしていたのだったが、警備の人に追い返されたが、その後、すぐに誘拐されたのだった)どんなことをしてでも彼女を助けていれば、と後悔する。そして、彼が死の直前に見たのがOritoだったという事実はとても悲しく、Jacobの失ったものに対する思いを十分に、見事に描き出していると思う。私たちはひとつの人生だけを生きるのだけれど、そのなかで失った、大切なものに対する思いというのは深く、深く心の奥深いところに残っているものだ。その美しさ、可能性、不可能性をこういう形で描き出すことのできるデイビッド・ミッチェルの表現力は例外的だと思う。

以前、CBCラジオでインタビューを受けていたデイビッド・ミッチェルは、広島でAET(英語補助教員)として働いていた経験を話していた。その経験があるからなのだろう、お寺の匂いとか、夏の夕方の空気、座敷の音など、ミッチェルが描き出す日本の細かい風景は、日本を知る者にはAuthenticに感じられる。「当時、オランダ人が髭剃りのときにシェイビング・クリームを使っていたかどうか、といった史実を調べるのに非常に長い時間がかかった」とどこかで書いていたが、最近の作家はオリジナルな空想力に加えて、リサーチ力も必要とされているようだ。

3 comments:

  1. はじめまして。
    いつも楽しく拝見させて頂いております。
    私も以前トロントに住んでいた事があり、頷きながら文章を読ませて頂いておりました。
    今回は出島のお話しということで、さらに親近感を感じました!というのも私は長崎出身・在住でして、出島跡地は日常風景なのです。
    小説、読ませて頂きます。
    また違った出島を発見出来るかもしれませんね。
    リエ

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  2. リエさん、コメントありがとうございます。長崎にお住まいなのですね! それならいっそう興味深いと思いますので、ぜひぜひ読んでみてください。個人的な話ですが、私の夫の研究も出島に関係している部分があって(西洋医学が日本に来た部分らしいです…)、私たちも昨年一時帰国したときに長崎に立ち寄りました。優しい方が多くて、住みやすそうなところだという印象を受けました。また、私が訳した「歴史の影」のなかにも、長崎が出てきましたが、著者アーナ・パリスが「長崎は日本でも非常に特異な場所。ときどき生まれてくる子どもの目や髪の色が違ったりするのは、以前、多くの西洋人が長崎に住んでいた歴史を反映している」と書いていて、非常に興味をひかれました。デイビッド・ミッチェルの本、ぜひ、読んでみて、また感想を教えてください!

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  3. 篠原さん、お返事ありがとうございます。
    デイビッド・ミシェルの本、早速調達致しました。なかなか読めずにおりましたが、少しづつ読み進めたいと思います。
    長崎に来られたのですね。坂が多い土地柄、住み易さは保証出来ませんが、人の良さは自慢出来ます。
    アーナ・パリス、非常に興味深い指摘をしていますね!私の、長崎出身の叔母や友人にも、思い付くだけでも何人か、どうみても西洋人の遺伝子が入ってるのでは?と思う人たちがおります。叔母は特に髪の色や髪質や目の色が違います。(彼女の兄弟は全く純日本人顏なのに。)長崎だけがそう、とは言えないのかもしれませんが、時々この長崎が持つ特異な習慣に気付く時、歴史の影響力というものに驚かされます。

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