Sunday, December 25, 2011

Feminization of Education : 女の子の方が成績がよい理由

The Group of 8, The Japanese and Canadian Writers' Networkへの寄稿記事を転載
リンク:The group of 8 - The Japanese and Canadian Writers' Network

11月中旬に入ってきたニュース・アイテムのひとつは、女の子の方が学力的に優れている、というもの。男女間の学力格差は、北米やヨーロッパの先進諸国で問題化して久しいし、私も教える側から実際に見てきたのでちょっと書いてみたい。


カナダ政府の教育関連機関Education Quality and Accountability Office (EQAO) および Council of Ministers of Education, Canada (CMEC)によれば、グレード8(8年生)の生徒の学力を計った2010年のThe Pan Canada Assessment Program (PCAP)テストの結果、読解(reading)、数学(math)、科学(science)の3項目で、数学は男女ともに同点、読解と科学では平均的に女の子の方が得点が高かったという。これまでは男の子の方が得点が高かった科学に関しても、今回は女の子が高得点を得るという結果となった。


カナダの教育界では、これまでも男女の学力格差が何度となく取り上げられてきているが、その傾向をさらに裏付ける形になった。


学力格差の理由として学者や教育関係者が挙げるのは、ビデオゲームの影響や成長発達的差異、さらに「教育セクターにおける女性化」など。ビデオゲームの影響(男の子の方が何故かのめりこみやすい)、成長発達的な差異(女の子の方がことばを発するのが早い、とか、女の子の方が文章が上手、とか・・・)以上に私にはこの「教育セクターにおける女性化」というのが興味深い。


一例をあげると女性教師が圧倒的に多いこと。その結果として女性教師の好みで読書リストなどが作られ(たとえば「赤毛のアン」や「若草物語」。男の子は大嫌い!)、男の子の読書離れに結びつく点などが指摘されている。


また、北米では1960年代頃から従来の男性中心、白人中心の教科書やカリキュラムが大きな問題とされ始め、改良・変更が加えられてきた事実がある。たとえば、それまで教科書をはじめとする教育関連書籍の写真は、白人男性医師、白人男性科学者などの写真が圧倒的であったが、現在ではいわゆる「マイノリティ(女性、非白人)」の写真が大半を占め、反対に白人男性(白人男子)の写真は稀という。この結果、男の子は未来の自分の姿を、こうしたロールモデルに投影することができない。


この報告が発表される少し前に、トロント教育委員会(TDSB)はアフリセントリック学校設立を許可したが、これと同時に決められたのは男子、あるいは女子校の設置許可だった。実は、男子校設置許可の理由も、男女間の学力差であった。男子校設置により、男の子が興味をもつ主題や読み物を与えたり、行動ベースのプログラムを組み込むことができ、結果として男の子の学力の伸びにつながるものと期待されている。


高校中途退学率で見ると、カナダ全国で男子(10.3%)、女子(6.6%)と男の子の方が圧倒的に高い。また、カレッジ、大学、修士レベルの在籍数を見ても、女子が男子を上回っている(これはカナダだけでなく、OECD諸国の国際学力調査(PISA)でも結果は同じ)。10年以上も前の話で恐縮だが、日本の公立高校で教えていた私の経験からも、確かに女子の方が平均的に成績がよかった。とりわけ語学(英語、国語)にはその差が歴然と表れていた。よく見ていると、女子生徒は真面目にがんばって勉強する子が、男子に比べると多い。ただ、たまに学力というか、もともとのIQが高いんじゃないか、というような子はいつも男の子だったが・・・。


それで、ふと思うのだが、女子の方が学力的に優れているのなら、どうしてノーベル賞(科学に関する賞)受賞者には男性が多いのだろうか。大学の教授や学者、知識人には比較的男性が多いのだろうか。教育レベルでは制度的問題が改善されたが、社会的にみると制度的問題が未だ女性の進出を妨げている、ということなのだろうか。いや、単に女性のほうが能力的に優れているけれど、その能力を眠らせている、ということなのだろうか。このあたりも気になるところだ。

フランス政府、アルメニアン・ジェノサイド(アルメニア人虐殺)否定を違法とする法案を決議

12月22日、フランス議会下院は第一次対戦中に起こったオットーマン=トルコ帝国によるアルメニア人虐殺を公的に否定することを犯罪とする法案を可決した。


一方、トルコ政府はこの動きを猛烈に批判し、来年4月に予定されている大統領選挙での票稼ぎを目論んだサーコージー大統領の政治的意図、フランス国内でのトルコ差別やイスラモフォビアをほのめかし外交問題に発展している。


アルメニア人の虐殺(アルメニアン・ジェノサイド)とは、第一次世界大戦中の1915年、トルコ東部でオットーマン=トルコ帝国によるキリスト教徒で民族的マイノリティのアルメニア人約150万人が組織的に殺害された事件(数については一部の専門家の間で議論があるようだが、欧米の大手メディアはこの数字を取っている)。西欧諸国の歴史家や専門家のあいだでは「ジェノサイド」のひとつとされており、アメリカやフランスをはじめとする国々では、国会の議決を通して「ジェノサイド」と位置付けられ、トルコ政府による謝罪と補償を要求している。


トルコ政府のアルメニア人虐殺に対する態度をひとことで表すなら「否定」であり、なかに虐殺の事実を認めたとしても、どちら側も多大な犠牲を払ったわけで、トルコ人だけが責められるのはおかしい、と公言している政治家もいる(犠牲者の数に関しても見解が一致していない)。国民の大半もこの問題が海外(白人の国々、ユダヤ=キリスト教的文化に根ざした国々)で取り上げられるたびに、トルコおよびイスラム文化に対する侮辱、あるいはトルコ差別であると感じる人が多く、この問題がナショナリズムと絡んだかなり感情的な問題であることがうかがい知れる。(こう見てくるとわかるが、アルメニアン・ジェノサイドとトルコ政府の反応は、南京虐殺に対する日本政府および国民の反応と、ある意味で最もパラレルな関係にあると思われる。)


フランスでは、2001年にはアルメニア人虐殺をジェノサイドであると認める法を国会で可決、2011年5月には、アルメニア人虐殺の否定を犯罪とすることが下院で可決されたものの、上院で否決されたという経緯がある。


同様の法律は、ホロコースト否定にもあてはまり、ドイツと同じくフランスでも公的な場でホロコーストを否定すれば、犯罪となる。ちなみに、私の住むカナダでも同様で、ホロコースト否定はヘイトクライム(憎悪罪- ある特定のグループに対する憎悪をあおることに対する罪)にあたる。

Friday, December 16, 2011

イスラモフォビアの一種? 女性蔑視に対する反応?

先日、 カナダ連邦政府のCitizenship and Immigration Ministry(市民および移民局)のジェイソン・ケニー大臣が、市民権授与式での宣誓の際はヴェールをかぶったイスラム教徒女性は、そのヴェールを取らなければならない、という声明を出して、メディアで議論が起こっている。Canadian value、Freedom Of expressionとか、multiculturalism、torelance、という言葉が踊っている紙上は賛否両論わかれている。。


ヴェールというのはニカブといわれるもので、目の部分だけがオープンになっている。トロントに住んでいれば、誰もが必ずそれをかぶっている女性を見たことがあると思う。


今までは、イスラム教徒の女性にはヘッドドレスをかぶったまま投票したり、市民権の宣誓をしたり、裁判所で証言したりすることができたが、折りも折、ちょうど最高裁判所では裁判所での証言の際にヴェールをとるかどうか、が審議されていたり、ヴェールに対する状況は大きな転換を強いられることになりそうである。


なぜ、イスラム教徒女性のヴェールが政治的問題になるのか。今まで問題の起こっていないヴェールが、今ここで突然に問題となるのはなぜなのか。一部の人が言うように、イスラモフォビアもあると思う。ただ、この問題は複雑な問題であって、それだけが理由だとは到底言えない。


まず、マルチカルチャリズムを選び、それを最もすばらしい自国のアイデンティティだと思っているカナダ人は、一般的にいえば他文化に対する寛容性を備えている。しかし、ヴェールというのは、どうしてもカナダ人が同じように大切にしている「価値」(Canadian value)にそぐわないのである。その価値とは、男女平等の原則であり、男性と女性は同等に扱われなくてはならない、というカナダ人にとっては空気みたいに当然の原則である。


ヴェールが象徴するのは、それとは真っ向から反対する価値であり、男性が女性によって魅惑されないように女性は自分の魅力を隠す責任がある、というイスラム諸国の慣習のひとつである(コーランがそう記しているわけではなく、部族的な慣習であるといわれる)。女性は車を運転しできないとか、女性はひとりで通りを歩いてはいけないとか、そういった決まりも一部のイスラム圏では女性に対して課されている。


1960年代に権利の革命によって社会の変革を経験した団塊の世代(ブーマー世代)にとって、男女平等の原則に反するこの考え方はどうしてもなじまない。また、あんなおしゃれのできないユニフォームをどうして女性が好んで着ようと思うのか、と感じる。強制されているように思うにわけである。ヴェールは、つまるところ、カナダ人にとっては何よりも「女性に対する抑圧」として映る。


一方では、カナダで生まれた女性でイスラム教を信仰する女性のなかには、自らヴェールをかぶることを選んだ人もいる。それでも、一般に浸透しているイスラム教における女性の立場を考えると、つい「抑圧」という言葉が脳裏をよぎるのだ。


カナダのマルチカルチュラリズムにおいて、カナダ人が得意とする「寛容性」に受け入れられない女性蔑視の価値観は、今後もいろいろな形で議論を巻き起こすだろうと思われる。

Tuesday, December 13, 2011

オタワ日本大使館前で水曜日デモ

今年12月14日は、従軍慰安婦問題の解決を日本政府に求める1992年1月8日(水曜日)に始まったデモから1000回目にあたる。オタワの日本大使館前でも、この水曜日デモが予定されていて、Toronto Star紙もこの問題を記事として取り上げていた。
参考)Toronto Star紙
Brampton students join ‘comfort women’s’ quest for justice

http://www.thestar.com/article/1100922--brampton-students-join-comfort-women-s-quest-for-justice

利き手と発達障害の関係

最近、利き手に関する非常に興味深い新聞記事が掲載された(Globe紙12月8日付)。
左手、あるいは両手を利き手とする人と精神疾患、発達障害に関連性がみられるという。


左手を利き手とするのは人口の10%程度、また、両手を利き手とするのは1%とされている。

利き手が決まる原因についてははっきりした科学的根拠がないが、これまでの研究によれば、母親が高齢出産、妊娠時に強度のストレスを感じていた場合、出世時の子どもが低体重だった場合に、左手が利き手になる可能性が高いという。


平均すると、利き手の違いによるIQの違いはほとんどない。一般的に、左手は芸術などのセンスに恵まれ、創造的であるとされる一方で、平均収入で見ると左手を利き手とする人口は右手に比べて約10%低いというデータがある。


先に書いたように、人口の10%が左手を利き手としているが、スキゾフレニア(精神分裂病)人口のうち20%が左手を利き手としているというのは割合としては高い。スキゾフレニアのほか、ADHD(多動性障害)やディスレクシア(失読症)、ムード・ディスオーダーなどの発達障害と左手利き手人口の関連性が指摘されている。


この記事を読む前日、4歳になるエリックが絵を描いているのを見ながら、エリックの利き手が右手になっていること、それは強制もされず自然にそうなったという事実に気づいて不思議に思ったのだった。スプーンを使い始めたころは、両手どちらとも使っていた。それが何時の間にか自然に右手になった。利き手に関してはどちらかというと生前説が優勢のようであるが、胎児のときの状況が影響しているというのは初めて知った。


また、以前は左手使いはビシビシと直されていたものだった。夫の叔父も左利きで、学校では左手で書くとものさしで叩かれて矯正されていたと言う。しかし、左利きを直せば精神疾患や発達障害の可能性が減少するのか、それとも生まれつきなら矯正は役に立たないということなのだろうか。うーむ、よくわかりませんな・・・。

Thursday, December 8, 2011

カナダの戦争捕虜に対する日本の公式謝罪


The Globe and Mail (Dec.8, 2011)

今朝(12月8日)のCBCラジオニュースのトップ・アイテムは、日本がカナダ人退役軍人で香港の戦いで捕虜になった元兵士(PoW, Prisoner of War)に対して公式謝罪を提供したというものだった。


Globe and Mail紙も、第一面にこの記事を掲載し、トップニュースとして伝えていたほか、カナダのメディアはこぞって日本の公式謝罪を重大ニュースとして報道していた。CBCニュースでは、「official apology/公式謝罪」と言われていたので、日本語によるソースをインターネットで探したのだけれど、日本のメディアがこの件をまったく取り上げていないという事実には驚いた。


1941年、1975人のカナダ人兵士が大英帝国の植民地であった香港に送られ、日本軍との熾烈な戦いを強いられた。結果、約1600人もの兵士が日本軍の捕虜となり、約3年半の間、過酷な環境のもとで炭鉱などの強制労働に従事させられ、栄養失調、病気、日常化していた虐待に苦しめられた。1945年に日本が降伏した際には、すでに250人の兵士が命を失っており、残った生存者も病気や障害をその後も引きずって生きることを余儀なくされた。


過去数十年にわたり、カナダの退役軍人会は、日本政府からの公式謝罪を要求し、ロビー活動を行ってきた。今回、カナダ連邦政府Veteran’s Affair Minister(退役軍人局大臣)が高齢の退役軍人の一団を引き連れて謝罪を要求するために日本にわたった。これを受けて、加藤敏幸外務大臣政務官が1941年の日本軍による香港侵略70周年にあたる12月7日、カナダ人PoWに対し公式謝罪を提供したという。


Globe紙が指摘しているように、近年、日本は戦争責任に対する謝罪をいくつか提供し始めていて、今年の3月にはオーストラリアのPoWに対して前原外務大臣(当時)が公式謝罪を表明している。


歴史家のMichael Boireによると、日本軍の捕虜の扱い方は歴史に例を見ないほど残虐で、たとえば第二次大戦中にドイツ軍の捕虜になった兵士のうち、95%は生き延びているのに対し、日本軍による捕虜のうち生き残ったのは50~60%のみだという。


退役軍人のなかにはこの謝罪に対し「遅すぎる」、「何の意味もない」と批判的な人、「謝罪は絶対に受け入れられない」と突っぱねる人がいる一方、カナダ連邦政府外務大臣ジョン・ベアードや他の歴史学者、専門家は公式謝罪が意味するところは大きいとし、今後の日加関係にとって重要な節目になるだろうと期待している。


各種ソースを読む限り、謝罪には金銭的補償は含まれていないようである。それに、なぜ日本の大手メディアや政府がこの重大なニュースを報じていないのか。さらに言えば、なぜ外務大臣ではなく、外務大臣財務官による謝罪なのか。そのあたりも不明な点が多く、今もって首を傾げざるをえない要素が多く、何だかどうにも引っかかるニュースである・・・。

参考)
The Globe and Mail:
http://www.theglobeandmail.com/news/politics/were-sorry-japanese-government-tells-canadian-pows/article2264086/

Montreal Gezette:
http://www.montrealgazette.com/news/Japan+apologizes+treatment+Canadian+POWs/5829793/story.html

CBC News:
http://www.cbc.ca/news/canada/nova-scotia/story/2011/12/08/ns-pow-japan-apology.html

「経済格差がますます拡大」OECDリポート

先進34カ国で行われた所得格差調査の結果がOECDにより発表された。リポートによれば、ほとんどのOECD加盟諸国で経済格差が進んでおり、これは先進諸国に限らず全世界で見られるグローバル・トレンドであるという。


カナダでは、所得最高人口10%(平均年間所得103.500ドル)は所得最低人口10%の10倍もの所得を得ているという。つまり、トップ10%に対するボトム10%の比率は10-1となっている。1990年代初頭では8-1であった比率が、20年で10-1にまで拡大していることになる。


他の国の比率は以下のとおり。

ノルウェー、ドイツ、スウェーデン、デンマーク・・・6-1
イタリア、日本、韓国、カナダ、イギリス… 10-1
トルコ、アメリカ、イスラエル・・・ 14-1
メキシコ・・・ 27-1
ブラジル(Non OECD country)・・・ 50-1


OECDのSecretary GeneralのAngel Gurria(エンジェル・グリア)によれば、「経済成長の利益は自動的に経済的に不利な立場の人たちにも浸透していくという考えは、この調査結果で否定されたことになる」と言う。そして、「一部の人を排除しない形での経済成長の戦略を立てられなければ、このまま格差は広がる一方」であると指摘する。


背後にあるのはグローバライゼーションとインフォメーション・テクノロジー(IT)。この二つの勢力によって、中間スキルを持った人たちが職を失い、製造などの低賃金労働の場が奪われた。そして、ごく一部のトップクラスのスキルを持った人たちが富をほしいままにするという構図が描かれた。


グリアは、“Our report clearly indicates that ‘upskilling’ of the workforce is by far the most powerful instrument to counter rising income inequality. The investment in people must begin in early childhood and be followed through into formal education and work.”
(所得格差に太刀打ちするためには、労働人口のスキル向上という問題が非常に重要になってくる。スキル向上に対する投資は幼少時から始められるべきであり、その後も教育機関や職場で継続してスキル向上をこころがけるべきだ)と言う(彼女のこの主張には私は懐疑的である)。


ニューヨークのウォール街から世界の都市に広まった一連のOccupy Wall streetの動きが格差問題(「我々は99%!」)に触れていたことに思いをいたすと、やはりOccupyの動きは世界が取り組むべきグローバル問題の核心をついていたと思う。


何度も書いてきたが、経済格差問題は社会の不安定化につながる大きな社会問題であると同時に、グローバル規模で取り組まなければならない問題である。低所得者層に対する社会福祉の充実、富裕層に対する増税だけでは問題は解決されない。こうした経済格差によって巨額の利を得てきた現代の資本主義システムの構造そのものにもメスを入れる必要があるのではないか。


参考)Toronto Star紙:
http://www.thestar.com/business/article/1097055--why-the-gap-between-rich-and-poor-in-canada-keeps-growing?bn=1

OECDサイト:
http://www.oecd.org/document/40/0,3746,en_21571361_44315115_49166760_1_1_1_1,00.html

Tuesday, December 6, 2011

Tanaka-san Will Not Do Callisthenics by Maree Delofski

Tanaka-san Will Not Do Callisthenics by Maree Delofski

田中さんはラジオ体操をしない

以前のクラスメートが流した一斉メールには、「ヨーク大学で労働・雇用関係(Labour relations)関連の無料映画上映会をするので来てね」というメッセージがあった。いくつか映画のタイトルのうちのひとつがTanaka-san Will Not Do Callisthenicsだった。明らかに日本人の名前なので興味をひかれてネットでサーチしてみたら、なんとこれが非常におもしろそうなドキュメンタリー映画なのだ。なにより田中さんという人がいいのだ。

シノプシスは以下。
http://www.tanakafilm.com/synopsis


映画を見てない立場でその映画について書くのもちょっとね・・・と思いつつやっぱり書きたいので書いておこう。


大手電気メーカーに勤務するエンジニアの田中哲朗さんは、同僚の解雇に抗議したあと、それから始まった会社によるラジオ体操を拒否し、低いポジションに配属されて給料カットにあい、次に転勤を要求されてこれを拒むと、あっさり解雇されてしまう。解雇された翌日から会社前でたったひとりでピケを張り、抗議運動をはじめる。自らつくった歌をギターで歌いながらの抗議活動は継続し、株主総会にも出席して、不正義に対する抗議を行う。それから25年後。オーストラリアの監督マレー・デロフスキーが田中さんの世界を、企業と個人の抗争、さらには日本の知られざる現状をフィルムに収め、世界に知らしめることになる。


ラジオ体操。ほとんどの日本人が、会社のラジオ体操への出席がたとえ無給であっても仕方ないと感じつつ参加するだろう。転勤を要求されたら、たとえ家族と別れるのが辛くても家族を残してでも転勤するだろう。会社内で不正が行われているのを目撃しても、それを批判することなく、無視するか黙認するだろう。ま、ラジオ体操をはじめとする会社側の権力乱用を、不正とも思わない人の方がもっと問題だけれど・・・。


でも、田中さんはそれができない人である。こういう人はどこの社会でも極めて貴重な人であるが、とりわけ日本社会では極めて稀である。先に田中さんのような人は貴重だと書いたが、なぜこういう人が貴重かというと、こういう人なしでは社会はいとも簡単に不正義の谷底に陥ってしまうからである。社会が多くの人にとって開かれた、平和な住みやすい社会であるかどうかは、田中さんのような人をいかに多く生み出せるかにかかっている。


多くの人は不正だと分かっていても自分の身をかばうために黙認するか無視するか、一緒になって不正を行う。これは、あきらかに「いじめ」の構図と同じである。学校でのいじめも、会社でのいじめ解決にも、バーバラ・コロロッソが指摘するように「傍観者」がカギを握っている。彼らがいじめの加害者に対して有効に批判することができれば、多くのいじめは解消される。そして、こうした「傍観者」はいつも「多数」なのである。


私も日本にいるときは周りからよく言われたものだ。
「そんなことに目くじらを立てて反論するなんて・・・」
と。「そんなこと」とは、「そんな小さなこと」で、隠された意味は「ま、イヤかもしれないけど、へらへら笑って一緒にやってれば問題なくその場をやり過ごせるのだから」ということなんだと思う。


しかし、小さくても不正や企業や社会的地位の高い人などの権力乱用、さらには人種差別や部落差別、あらゆる種類の差別的発言を許せば、ファシズムはいとも簡単にやってくるという事実は、私たち日本人が太平洋戦争から学んだことではなかったのか。


そういう意味でも、田中さんが対抗している相手は田中さんを解雇した電気会社をはるかに超えて、日本社会の大きな権力、不正に声を挙げない人たちへと向かっている。

うーん、この映画、ぜひ見てみたい。

Sunday, December 4, 2011

10代の自殺率の増加

カナダでは若者の死亡原因は、自動車事故に続き、自殺となっている。
最新の2007年データによれば、10から19歳人口では218人 が自殺しており、最大の原因としていじめが挙げられている。また、2009年の調査では、オンタリオ州の7年-12年の生徒のうち、3人に1人がいじめにあっているという報告もある。


とりわけ、新学期の始まる9月は自殺が増えるといわれ、今年はその頃にもトロント郊外のミシサガで16歳の少年が友人(女性)を殺害した後に飛び込み自殺をし、大きな波紋を呼んだ。


友人などの話によれば、この少年はFacebookで自殺を仄めかすメッセージを載せており、また、以前からディプレッションにより自殺願望を口にしていたという。


自殺した若者のうち、なんと91パーセントが何らかの精神疾患を患っているという。


カナダ史に照らして「自殺」を見ると、1800年代後半には自殺をする人は、結婚前に妊娠した女性が大半であったという。1930年代になると、新しいチャンスを求めて新大陸にやってきたものの、富を得ることができなかった男性、とりわけ既婚の若い男性が多かったという。その傾向はいまや大きく変化し、若者と自殺の関連性、さらにはディプレッション、エンザエティの関連性がメディアでも取り沙汰されている。


大学やカレッジでも自殺の問題は今や深刻に取られている。大学やカレッジでは、とりわけ、ヘリコプター・ペアレントに育てられ、参加者すべてがそれだけで賞賛される教育環境で育ってきた学生が、はじめて失敗を経験する場になることが多いことから、失敗に対する大きな不安が影響していると指摘されている。


世界的にみると、若者の自殺は経済的にに豊かな先進国で社会問題化している。一方、第三世界では若者による自殺以上に、病気疾患や事故による死亡率が高い。


北米では、若者の自殺率の増加は、比較的新しい問題である。男女別に見ると、圧倒的に男子に多く、その率は2倍という。しかし、自殺未遂でみると女子の方が多く、男子に多いのは体力的に自殺を実行する力があることが一因であると言われる。


専門家や心理学者は若者の自殺率が増加している理由として、単独の理由に絞り込むことを否定し、ティーン独特の文化、将来に対する不安、精神的な孤独や孤立、いじめ、離婚率の増加、宗教的意味の低下など、さまざまな要因を複合的に見る必要性を指摘している。


また、自殺の兆候として、孤立、突然の学力低下、ディプレッションやエンザエティーといった精神的障害、またアルコールやドラッグへの依存などが挙げられる。一般的に親は「何の兆候もなかった」ということが多いが、よくよく聞いてみると、友人には自殺願望をほのめかしていることが多く、大人には言わない傾向があることも指摘されている。

2011年のマーサー調査:世界で最も生活環境のクオリティが高い都市はウィーン

2011年のMercer survey(マーサー調査)による「クオリティ・オブ・リビング」(生活環境のクオリティ)調査の結果が発表された。上位10都市は以下の通り。

1位 ウィーン(オーストリア)

2位 チューリッヒ(スイス)

3位 オークランド(ニュージーランド)

4位 ミュンヘン(ドイツ)

5位 デュッセルドルフ(ドイツ)およびバンクーバー(カナダ)

7位 フランクフルト(ドイツ)

8位 ジュネーブ(スイス)

9位 ベルン (スイス)、コペンハーゲン(デンマーク)


カナダでは、バンクーバー(5位)、オタワ(14位)、トロント(15位)が上位ランキングされた。

日本では東京が46位と最も高い(ほんと?)。


国際人事コンサルタント会社マーサーのよる調査は、政府や多国籍企業が駐在員を派遣する際に公正な金銭的補償をするためのツールとして用いられ、毎年、世界221都市を調査し、ランク付けをしている。


調査の基準は、政治的・社会的環境(政治的安定性、犯罪率)、経済的環境、社会・文化的環境、健康・衛生環境、学校・教育、交通・公共サービス、自然環境など10項目。


結果を見ると、ヨーロッパの都市がトップ25都市の半数を占めているという偏り方。


同時に発表されたパーソナル・セーフティー・ランキングの上位結果も見てみると・・・。

1位 ルクセンブルク(ルクセンブルク)

2位 ベルン (スイス)、ヘルシンキ(フィンランド)、チューリッヒ(スイス)


カナダの都市、モントリオール、カルガリー、トロント、オタワ、バンクーバーはいずれも17位。
また、大半の日本の都市(神戸、名古屋、東京、大阪、横浜)は31位。


ちなみに、世界で最も危険な都市は…

バグダッド、ということである。

Friday, December 2, 2011

白いソックスの問題(今日は駄文です)

Globe紙には、週に一回、読者がデイビッド・エディというライターに相談をするという「ダメージ・コントロール」という実に笑えるコラムがあって、私はかなり好きなのだが、昨日の相談は実にこの「白いソックス」問題であった。


相談の内容は、「私の会社に最近新しく入ってきた社員がいて、彼は仕事もでき、人柄も問題ないのだけれど、ひとつだけ、白色のソックスをはく、という問題があって、それは社内では噂になっている。彼は最近カナダに移民をしてきた人で、できれば彼の気持ちを傷つけないように、この問題を指摘したいのだが、どういうふうにアプローチすべきだろうか」というもの。


白いソックスに対する理解。そこには文化的差異が読み取れる、と私は常々思ってきた。 デイビッド・エディが言うように、ソックスの色は「パンツの色と靴の色の中間色」というのが基本。黒い靴をはくのなら、白いソックスはまずありえない。白いソックスは基本的にテニスをするときだけ。だいたい、デパートなんかでも男性用の白いソックスは簡単には見当たらない。 白いソックスをはいて出社しているその人が「移民」というのが興味深い。


たまに日本に帰ってびっくりすることのひとつは、この白いソックス。電車などでたまに黒い靴(あるいは茶色の靴)に白いソックスをはいているビジネスマンを見ると、ムムム、と思ってしまう。(もうひとつびっくりすることは、ビジネスマンがマンガを読んでいること! )


でも、よく考えると、日本では小学生や中学生の制服からして、黒いパンツに白いソックス、なんだわね。だから、違和感はないのだろう。


ところで、先の北京オリンピックの際、中国政府は世界各国からたくさんの人が集まってくることから、北京市民にさまざまなルールを課したのだが、そのうちのいくつかはかなり笑えた。 ひとつは、路上でツバをはかないこと。もっとおかしいのは、「白いソックスをはかないこと」。きっと国際関係のコンサルタントなんかが、この白いソックス問題に気づいてこういうルールを課したのであろう、と思うとなんだかとってもおかしいのだ。