原発事故、放射能被害に関して、どの情報を信じていいかわからないというのが、非常に大きな不安の源になっている。私が見る限り、概してNHKや政府、東電から流される情報より、海外メディアを読んでいる方が危機感が高くなる気がする。たとえば、昨日のGlobe紙では、プリンストン大学物理学者のHippel教授のコメント-事態はすでにスリーマイル島原発事故をはるかに超えている-と報じていたが、NHKに出ていた大阪大学の教授は「スリーマイルには至っていない」という言い方をしていた。
「一体、誰を信じればいいの?」とNHK番組で誰かが言っていたが、この時点では、誰一人として「真実」を知ってはいないだろう。記者会見している東電の役員だって、官房長官だってこの状況を断片的に知っているだけだ。昨日、CBCラジオでカナダ人専門家が言っていたように「今回の福島第一原発事故・被害の全貌が明らかになるまでには1年、いやそれ以上の年数がかかるだろう」。
現在、私たちにできるのは1つのメディア・ソースだけでなく、できるだけ複数のソースにあたることだと思う。その情報に基づいて、各自が状況の判断をする以外にはない。
Wednesday, March 16, 2011
厚いコンクリートの外壁が放射能の深刻な漏洩を防ぐだろう
Toronto Star 紙(March 16, 2011)から抜粋、ざっと翻訳
地震被害を受けた日本国民にとっては、原発のメルトダウンに関する心配度は低い、とカナダ人放射能専門家は言う。
東京電力福島第一原発からの深刻な放射能漏れの危険性は、一連の爆発や3基の燃料芯が溶融している事実にもかかわらず、そんなに高くはないだろう。
「今回の地震被害では、被爆は健康に対する被害という意味では大きな意味を持たない」とトロント大学教授で、Southern Ontario Centre for Atmosphere Aerosol Researchの代表を務めるグレッグ・エヴァンズ教授は言う。
3つの原子炉の濃縮ウランを冷却するポンプを動かす電力がなければ、電力を発電するために使われる燃料は溶ける可能性が高いとエヴァンズ教授は言う。溶ければ、それを囲んでいる20センチの鉄製の容器も溶け、床に落ちる可能性がある。
1979年のスリーマイル島原発で起こった事故はまさにそうしたケースだったが、動かなくなったバルブによって1基の燃料が過剰に熱を持つことになった。
しかし、スリーマイル島と同様に、福岡第一でも、過剰に熱を持った核燃料が床の上を通して地下で完全に溶けた「チャイナ・シンドローム」になる可能性はほとんどないだろうとエヴァンズは言う。
その理由は、福岡第一の原子炉は、1メートルの厚さのコンクリート壁で囲まれているからだ。これにより、崩壊したウランから落ちる分裂によってできる危険物質を原子炉のなかに留めることができるわけである。コンクリートを通して溶ける可能性はない、ということだ。
一方で、1986年のチェルノブイリでは、爆発が施設の屋根を吹き飛ばし、封じ込めておくための構造が消滅した。さらに、後続する火事によって原子炉の放射能は大気圏へと拡散し、放射能を帯びた雨によって何百キロにも及ぶ範囲に広がった。
万が一、封じ込めるための建物に裂け目があったとしても、今週の爆発をみれば、チェルノブイリよりは危険度の低い放射能漏れとなるだろう。
マクマスター大学の放射物専門家ジョン・ルクサトは、最悪のシナリオでも最も危険な放射物は、原発付近にたまるものと見ている。
地震被害を受けた日本国民にとっては、原発のメルトダウンに関する心配度は低い、とカナダ人放射能専門家は言う。
東京電力福島第一原発からの深刻な放射能漏れの危険性は、一連の爆発や3基の燃料芯が溶融している事実にもかかわらず、そんなに高くはないだろう。
「今回の地震被害では、被爆は健康に対する被害という意味では大きな意味を持たない」とトロント大学教授で、Southern Ontario Centre for Atmosphere Aerosol Researchの代表を務めるグレッグ・エヴァンズ教授は言う。
3つの原子炉の濃縮ウランを冷却するポンプを動かす電力がなければ、電力を発電するために使われる燃料は溶ける可能性が高いとエヴァンズ教授は言う。溶ければ、それを囲んでいる20センチの鉄製の容器も溶け、床に落ちる可能性がある。
1979年のスリーマイル島原発で起こった事故はまさにそうしたケースだったが、動かなくなったバルブによって1基の燃料が過剰に熱を持つことになった。
しかし、スリーマイル島と同様に、福岡第一でも、過剰に熱を持った核燃料が床の上を通して地下で完全に溶けた「チャイナ・シンドローム」になる可能性はほとんどないだろうとエヴァンズは言う。
その理由は、福岡第一の原子炉は、1メートルの厚さのコンクリート壁で囲まれているからだ。これにより、崩壊したウランから落ちる分裂によってできる危険物質を原子炉のなかに留めることができるわけである。コンクリートを通して溶ける可能性はない、ということだ。
一方で、1986年のチェルノブイリでは、爆発が施設の屋根を吹き飛ばし、封じ込めておくための構造が消滅した。さらに、後続する火事によって原子炉の放射能は大気圏へと拡散し、放射能を帯びた雨によって何百キロにも及ぶ範囲に広がった。
万が一、封じ込めるための建物に裂け目があったとしても、今週の爆発をみれば、チェルノブイリよりは危険度の低い放射能漏れとなるだろう。
マクマスター大学の放射物専門家ジョン・ルクサトは、最悪のシナリオでも最も危険な放射物は、原発付近にたまるものと見ている。
Tuesday, March 15, 2011
「事態はすでにスリーマイル島原発事故をはるかに超えている」Frank von Hippel (プリンストン大学教授・物理学者)
背筋が凍るほど恐ろしい記事・・・。The Globe and Mail (March15, 2011) 記事一部翻訳して引用
当初の政府の発表では、損傷は部分的で、核燃料の冷却を目的とした海水注入の緊急対処を続行するということだった。しかし、電力会社によると、実際には状況はコントロールが不可能な状況で、施設で作業に当たっている作業員や技術者の全員が、過剰な放射能漏れを避けるために敷地内から退去する必要がでてきたと発表した。
作業員全員が原発の現場から退去すれば、3つの原子炉の核燃料はすべて炉心溶融に至る可能性が高く、その結果、放射能物質を大量に放出することになるが、そうなると25年前に起こったチェルノブイリ以降、最大規模の事故になる可能性が高い。
(略)
仮に炉心溶融が避けられたとしても、日本政府が取れるオプションは限られているが、そのどちらもは到底よいオプションとは言えない。ひとつは、原子炉への水の注入を継続し、排出される蒸気を外に逃すことであり、この蒸気が東京をはじめとする関東方面から日本の西部、あるいは日本の北部から朝鮮半島ではなく、太平洋上へと吹く風にあおられることを願うことである。
もうひとつは、過剰な熱が冷却をはじめ、数日間のうちに炉心の温度が下がった時点で、格納庫内の放射能活動を封鎖するという方向へ動く可能性である。この場合、発電所の再使用は今後ありえない。両者ともに非常なリスクを抱えている。
日本政府の発表では、過去の原発事故との比較はなされていないが、放射能汚染ガスおよび放射能物質の放出量は測定不可能であるという事実-これらはすべて炉心が少なくとも核燃料が部分的に溶けることによる損傷を裏付けている-が、原子炉冷却の努力に非常な緊張を付加している。
「事態はすでにスリーマイル島原発事故をはるかに超えている」とプリンストン大学教授で物理学者のフランク・フォン・ヒッペル教授は言う。「現時点で最も懸念される危険は、炉心が完全に溶融し、蒸気による大爆発が起きる可能性だ」。
当初の政府の発表では、損傷は部分的で、核燃料の冷却を目的とした海水注入の緊急対処を続行するということだった。しかし、電力会社によると、実際には状況はコントロールが不可能な状況で、施設で作業に当たっている作業員や技術者の全員が、過剰な放射能漏れを避けるために敷地内から退去する必要がでてきたと発表した。
作業員全員が原発の現場から退去すれば、3つの原子炉の核燃料はすべて炉心溶融に至る可能性が高く、その結果、放射能物質を大量に放出することになるが、そうなると25年前に起こったチェルノブイリ以降、最大規模の事故になる可能性が高い。
(略)
仮に炉心溶融が避けられたとしても、日本政府が取れるオプションは限られているが、そのどちらもは到底よいオプションとは言えない。ひとつは、原子炉への水の注入を継続し、排出される蒸気を外に逃すことであり、この蒸気が東京をはじめとする関東方面から日本の西部、あるいは日本の北部から朝鮮半島ではなく、太平洋上へと吹く風にあおられることを願うことである。
もうひとつは、過剰な熱が冷却をはじめ、数日間のうちに炉心の温度が下がった時点で、格納庫内の放射能活動を封鎖するという方向へ動く可能性である。この場合、発電所の再使用は今後ありえない。両者ともに非常なリスクを抱えている。
日本政府の発表では、過去の原発事故との比較はなされていないが、放射能汚染ガスおよび放射能物質の放出量は測定不可能であるという事実-これらはすべて炉心が少なくとも核燃料が部分的に溶けることによる損傷を裏付けている-が、原子炉冷却の努力に非常な緊張を付加している。
「事態はすでにスリーマイル島原発事故をはるかに超えている」とプリンストン大学教授で物理学者のフランク・フォン・ヒッペル教授は言う。「現時点で最も懸念される危険は、炉心が完全に溶融し、蒸気による大爆発が起きる可能性だ」。
The Globe and Mail (March15, 2011)の記事:福島原発事故
(途中より)
日本政府は、爆発に必要な酸素がないため原子炉の炉心爆発の可能性をかなり控え目に言っている。しかし、格納容器中に酸素が入るわずかな割れ目があることも考えられ、最悪のシナリオの可能性は現時点では否定できない。
さらに怖いのは、原子炉の爆発が隣接する他の原子炉に飛び火する可能性である。こうした場合には、1986年のチェルノブイリ被害を超える被害、つまり歴史上例をみない最悪の原発核事故の可能性が考えられる。放射能に汚染された物質は、原発周辺20キロの範囲に堆積され、放射性ガスの拡散は、風向きによっては日本上空から朝鮮半島まで、北アメリカ大陸西海岸にまで及ぶ可能性もある。
しかし、専門家の多くは、放射能被害拡散の健康に与える影響は限られていると主張している。
日本政府は、今回の福島原発事故は、周囲の建物がなぎたおされ、原子炉の操業中に爆発が起こったチェルノブイリとは比較にならないとの説明を続けている。しかし、原子炉の中心部で爆発が起これば、あきらかにパニックと健康への長期的影響に対する危機感が高まることになる。
チェルノブイリ原発事故では、直接的死亡者は28人、放射能による被爆のため消防士や緊急救急専門家の間接的な死亡者は106人、さらに近隣住民における甲状腺ガンの原因になったケースは6000人にものぼる。
しかし、最近出された国連によるチェルノブイリ原発事故の健康に関する研究結果では、これらの甲状腺問題は、放射能汚染された草を食べた牛から産出された牛乳が原因であるとされた。これらのガン発生は、政府が早期に汚染された牛乳の危険性を警告していれば防げたわけである。同研究結果は、健康に対する被害はそれ以上の証拠は見つからないとしている。
日本政府は、爆発に必要な酸素がないため原子炉の炉心爆発の可能性をかなり控え目に言っている。しかし、格納容器中に酸素が入るわずかな割れ目があることも考えられ、最悪のシナリオの可能性は現時点では否定できない。
さらに怖いのは、原子炉の爆発が隣接する他の原子炉に飛び火する可能性である。こうした場合には、1986年のチェルノブイリ被害を超える被害、つまり歴史上例をみない最悪の原発核事故の可能性が考えられる。放射能に汚染された物質は、原発周辺20キロの範囲に堆積され、放射性ガスの拡散は、風向きによっては日本上空から朝鮮半島まで、北アメリカ大陸西海岸にまで及ぶ可能性もある。
しかし、専門家の多くは、放射能被害拡散の健康に与える影響は限られていると主張している。
日本政府は、今回の福島原発事故は、周囲の建物がなぎたおされ、原子炉の操業中に爆発が起こったチェルノブイリとは比較にならないとの説明を続けている。しかし、原子炉の中心部で爆発が起これば、あきらかにパニックと健康への長期的影響に対する危機感が高まることになる。
チェルノブイリ原発事故では、直接的死亡者は28人、放射能による被爆のため消防士や緊急救急専門家の間接的な死亡者は106人、さらに近隣住民における甲状腺ガンの原因になったケースは6000人にものぼる。
しかし、最近出された国連によるチェルノブイリ原発事故の健康に関する研究結果では、これらの甲状腺問題は、放射能汚染された草を食べた牛から産出された牛乳が原因であるとされた。これらのガン発生は、政府が早期に汚染された牛乳の危険性を警告していれば防げたわけである。同研究結果は、健康に対する被害はそれ以上の証拠は見つからないとしている。
危機感が違うの?
今朝のCBCラジオによれば、バンクーバーなどの西海岸では日本の福島原発爆発による放射能漏洩の危惧から、薬局などの店頭からヨウ素がなくなっているという。
カナダの大手新聞もチェルノブイリに比類する(あるいは超える)原発大事故の可能性を示唆している。
しかし、NHKを見る限りではそんな感じもなく、東京で取材にあたっている海外メディアが伝えるように「日本人は非常に冷静を保っている」といった感じに見られる。このギャップは一体、何なのだろう。
最も怖いのは放射能漏れ・被爆。仮に私が東京に住んでいればすぐにでも逃げると思うのに、妹に電話してみれば「子どもの学校もあるし、夫は仕事だし・・・」とのこと。学校や仕事に行っているような場合ではないのでは? と思うのは、カナダの報道を聞いているからなのだろうか。どうも気になる。
カナダの大手新聞もチェルノブイリに比類する(あるいは超える)原発大事故の可能性を示唆している。
しかし、NHKを見る限りではそんな感じもなく、東京で取材にあたっている海外メディアが伝えるように「日本人は非常に冷静を保っている」といった感じに見られる。このギャップは一体、何なのだろう。
最も怖いのは放射能漏れ・被爆。仮に私が東京に住んでいればすぐにでも逃げると思うのに、妹に電話してみれば「子どもの学校もあるし、夫は仕事だし・・・」とのこと。学校や仕事に行っているような場合ではないのでは? と思うのは、カナダの報道を聞いているからなのだろうか。どうも気になる。
Monday, March 14, 2011
今回の地震と放射能被害の危険性
金曜日の朝(カナダ東部時間3月11日)キッチンに行ってラジオをつけたら、地震のニュースが耳に入ってきた。いつものように「今回は日本かも・・・」という懸念が一瞬のうちに脳裡にひらめき、その瞬間に今聞いているニュースが日本の地震のニュースであることを知って愕然とした。ラジオのキャスターの声から、今回の地震が半端ではない規模であることが伺えた。しばらくして、マグニチュードが8.9であること、そのうちにトロント在住日本人で岩手出身の知人の短いインタビューも流れ、家族の安否が確認できないというコメントとともに事の重大さが露呈しはじめた。私も東京に住む妹一家と、広島の家族としばらく電話連絡がとれなかったが、メールで安全が確認され、一時的にほっと胸をなでおろした。
現在、東北・太平洋沖大地震から日が経つにつれ、カナダを含む海外メディアは放射能漏れ・被害へとフォーカスを移している感がある。日曜日夕方(13日)には、ホワイトハウスの報道官が「ハワイ、アラスカ、アメリカ全土およびアメリカの西海岸は現在時点では、危険なレベルの放射能にさらされることはないだろうと推測している」という発表を流している。しかし、Toronto Star紙の記事によれば、人体に危害が加わるほどの放射能は現在では探知されていないが、微量の(人体に害のない)放射能漏れの可能性は否めない、とも読める。原発関係者は原子炉に海水を注入し、放射能に汚染された蒸気を大気圏に放出しているが(つまり放射能は大気へ流出している)、避難している20万人の住民が家に帰れるのはかなり長い時間がかかるであろうとしている。もうひとつの可能的シナリオとしては、風向きによっては、海の方向ではなく首都圏をはじめとする都市部へと放射能汚染のマテリアルが拡散することも考えられると報告している。
今回、一連のニュース報道を見ていて思うのは、自然災害は不可避だが、防ぐことのできたこと(原発事故、放射能漏れ事故)を防いでこなかった人たちの責任は非常に重いということだ。地震国の日本で原子力開発を進める危険性に関しては長年にわたって懸念が表明されてきていた。それにもかかわらず、石油にかわる代替エネルギーとして原子力開発に力を注いできた人たちは、今回の事故に対し、どう責任を取るのだろうか。
日本が世界有数の地震国であることは日本では誰もが知っている。「いつ、何時に」という正確な予知は不可能でも、これまでも東海地方での地震の起こる確率の高さは、専門家から聞かされ続けていた(とりわけ高いのがM8.1の東海地震の危険性86%)。それにもかかわらず、政府と東電、経済産業省などが一体となって、過去30年間にわたって原子力に依存したエネルギー政策を進めてきた。スリーマイル島原発事故(1979年:炉心部分が冷却水不足のために溶けて爆発に至ったという、現在の福島原発と同じ構造の問題)およびチェルノブイリ原発事故(1986年)などにより、それまで石油に代わる代替エネルギーとして原子力発電を進めてきた先進各国では、原子力発電のリスクの高さに、原子力依存をやめ、他のクリーン・エネルギーの開発へと方向転換するなか(スウェーデン、ドイツでは原発を断念、アメリカでは過去20年以上にもわたり新規の原発はつくられていない)、日本とフランスは積極的に原子力開発をすすめてきた。近年になり、フランスでは高速増殖炉(プルトニウムを原料とする)の開発からは撤退し、実質上、日本のみが世界の原子力発電開発を進めてきた(54基)。
現在、日本は総発電量のうち約30%を原子力に依存している。政府は2017年までにはこの数字を引き上げて40%の依存率を目指しており、10年以内に12基を設置しようと取り組んでいる(現在、開発中の新しい原子炉2基は福島原子炉と同じデザイン)。
なぜ原子力なのか。それは、原子力が燃料の単位質量あたりのエネルギー発生量が大きいという長所があるからだ。安全性の問題では不安が残るが、それを何とか隠して安全性よりも経済性を優先してきたといえる。一方では、日本は世界の原子炉市場の主要プレーヤーである点も見逃せない。東芝はアメリカを基盤とするWestinghouseを所有しているし、GEと日立は協同で原子炉開発に取り組んでいる。
原発の安全性の問題が指摘されたときには、政府は「万一の事態には、緊急冷却装置が作動し、大事故には至らない」の一点張りを通してきた。しかし、今回の地震による福島原発への影響はどうだろう。緊急冷却装置は作動せず、炉心の水位が現在では急激に下がっている。
日本政府は「原発事故は絶対に起こらない」という立場から、1999年にマイナーな原発事故が起こるまで「緊急安全対策マニュアル」さえ作成していなかった。こうした科学万能主義ともいえる考え方は、一部の科学者の間に浸透しているが、今回をはじめ、チェルノブイリ、スリーマイル島など、こうした原発事故の被害に何度も直面しても、その強い信念は崩れないほど原理主義化しているのだろうか。
地震と原発事故が引き起こす惨事の可能性については専門家から警告が発せられていた。今回、日本が今回の地震を通して考えねばならないことのひとつは、今後のエネルギー問題をどうするかということだ。今後も、危険性の高い原発開発を進めていくのか。石油の可採年数は40年を切っている。天然ガスも約60年ほどだ。こうした可採年数の限られたエネルギー資源以外の無限エネルギー資源へと日本のエネルギー政策を転換する必要がある。それぞれに課題はあるにしろ、水力発電や風力発電、太陽熱発電などにもっと研究費を投入し、真剣にエネルギーの転換をはかることだ。経済性よりも国民の安全性を優先させなければならない。一方で、原発は首都圏および都市部への電力の供給を目的として、海岸沿いの村などに設置されているが、この構図には非常な矛盾を感じざるをえない。8割以上のエネルギーを輸入に頼っている日本では、エネルギーをどう供給するかと同時に、どうしたら省エネルギーで生活が送れるのかという点も議論されるべきだろう。
地震が起こって以降、日本人以外の知人のなかには、「日本が原発開発に積極的に取り組んできたということを今回知って驚いた。原爆の被害を受けた日本で、原発が促進されていたというのは皮肉なことだ」といったコメントをした人たちが何人かいた。言われてみれば、確かにそうだとしか言いようがない。報道によれば、すでに何人かが原発事故によって命を落とし、住民の被爆被害の可能性もでている。今後、放射能漏れ・被爆の被害がこれ以上広がらないことを心から願いながら、国民の間でエネルギー問題に対する真剣な議論が起こることを期待してやまない。
現在、東北・太平洋沖大地震から日が経つにつれ、カナダを含む海外メディアは放射能漏れ・被害へとフォーカスを移している感がある。日曜日夕方(13日)には、ホワイトハウスの報道官が「ハワイ、アラスカ、アメリカ全土およびアメリカの西海岸は現在時点では、危険なレベルの放射能にさらされることはないだろうと推測している」という発表を流している。しかし、Toronto Star紙の記事によれば、人体に危害が加わるほどの放射能は現在では探知されていないが、微量の(人体に害のない)放射能漏れの可能性は否めない、とも読める。原発関係者は原子炉に海水を注入し、放射能に汚染された蒸気を大気圏に放出しているが(つまり放射能は大気へ流出している)、避難している20万人の住民が家に帰れるのはかなり長い時間がかかるであろうとしている。もうひとつの可能的シナリオとしては、風向きによっては、海の方向ではなく首都圏をはじめとする都市部へと放射能汚染のマテリアルが拡散することも考えられると報告している。
今回、一連のニュース報道を見ていて思うのは、自然災害は不可避だが、防ぐことのできたこと(原発事故、放射能漏れ事故)を防いでこなかった人たちの責任は非常に重いということだ。地震国の日本で原子力開発を進める危険性に関しては長年にわたって懸念が表明されてきていた。それにもかかわらず、石油にかわる代替エネルギーとして原子力開発に力を注いできた人たちは、今回の事故に対し、どう責任を取るのだろうか。
日本が世界有数の地震国であることは日本では誰もが知っている。「いつ、何時に」という正確な予知は不可能でも、これまでも東海地方での地震の起こる確率の高さは、専門家から聞かされ続けていた(とりわけ高いのがM8.1の東海地震の危険性86%)。それにもかかわらず、政府と東電、経済産業省などが一体となって、過去30年間にわたって原子力に依存したエネルギー政策を進めてきた。スリーマイル島原発事故(1979年:炉心部分が冷却水不足のために溶けて爆発に至ったという、現在の福島原発と同じ構造の問題)およびチェルノブイリ原発事故(1986年)などにより、それまで石油に代わる代替エネルギーとして原子力発電を進めてきた先進各国では、原子力発電のリスクの高さに、原子力依存をやめ、他のクリーン・エネルギーの開発へと方向転換するなか(スウェーデン、ドイツでは原発を断念、アメリカでは過去20年以上にもわたり新規の原発はつくられていない)、日本とフランスは積極的に原子力開発をすすめてきた。近年になり、フランスでは高速増殖炉(プルトニウムを原料とする)の開発からは撤退し、実質上、日本のみが世界の原子力発電開発を進めてきた(54基)。
現在、日本は総発電量のうち約30%を原子力に依存している。政府は2017年までにはこの数字を引き上げて40%の依存率を目指しており、10年以内に12基を設置しようと取り組んでいる(現在、開発中の新しい原子炉2基は福島原子炉と同じデザイン)。
なぜ原子力なのか。それは、原子力が燃料の単位質量あたりのエネルギー発生量が大きいという長所があるからだ。安全性の問題では不安が残るが、それを何とか隠して安全性よりも経済性を優先してきたといえる。一方では、日本は世界の原子炉市場の主要プレーヤーである点も見逃せない。東芝はアメリカを基盤とするWestinghouseを所有しているし、GEと日立は協同で原子炉開発に取り組んでいる。
原発の安全性の問題が指摘されたときには、政府は「万一の事態には、緊急冷却装置が作動し、大事故には至らない」の一点張りを通してきた。しかし、今回の地震による福島原発への影響はどうだろう。緊急冷却装置は作動せず、炉心の水位が現在では急激に下がっている。
日本政府は「原発事故は絶対に起こらない」という立場から、1999年にマイナーな原発事故が起こるまで「緊急安全対策マニュアル」さえ作成していなかった。こうした科学万能主義ともいえる考え方は、一部の科学者の間に浸透しているが、今回をはじめ、チェルノブイリ、スリーマイル島など、こうした原発事故の被害に何度も直面しても、その強い信念は崩れないほど原理主義化しているのだろうか。
地震と原発事故が引き起こす惨事の可能性については専門家から警告が発せられていた。今回、日本が今回の地震を通して考えねばならないことのひとつは、今後のエネルギー問題をどうするかということだ。今後も、危険性の高い原発開発を進めていくのか。石油の可採年数は40年を切っている。天然ガスも約60年ほどだ。こうした可採年数の限られたエネルギー資源以外の無限エネルギー資源へと日本のエネルギー政策を転換する必要がある。それぞれに課題はあるにしろ、水力発電や風力発電、太陽熱発電などにもっと研究費を投入し、真剣にエネルギーの転換をはかることだ。経済性よりも国民の安全性を優先させなければならない。一方で、原発は首都圏および都市部への電力の供給を目的として、海岸沿いの村などに設置されているが、この構図には非常な矛盾を感じざるをえない。8割以上のエネルギーを輸入に頼っている日本では、エネルギーをどう供給するかと同時に、どうしたら省エネルギーで生活が送れるのかという点も議論されるべきだろう。
地震が起こって以降、日本人以外の知人のなかには、「日本が原発開発に積極的に取り組んできたということを今回知って驚いた。原爆の被害を受けた日本で、原発が促進されていたというのは皮肉なことだ」といったコメントをした人たちが何人かいた。言われてみれば、確かにそうだとしか言いようがない。報道によれば、すでに何人かが原発事故によって命を落とし、住民の被爆被害の可能性もでている。今後、放射能漏れ・被爆の被害がこれ以上広がらないことを心から願いながら、国民の間でエネルギー問題に対する真剣な議論が起こることを期待してやまない。
Tuesday, March 8, 2011
International Women’s Day
今日3月9日は国際女性デー。
1911年、ドイツの政治家クララ・ゼトキンの提唱により国際女性デーが設定されて今年は100周年目にあたる。Globe紙の女性コラムニスト、ステファニー・ノレンとマーガレット・ウェンテの記事を読んで、この100年の間に女性の地位が向上したかどうかに対する答えは、私たちがどこに住んでいるかで大きく変わってくることを改めて考えた。
ウェンテの主張するように、西洋社会に暮らす女性にとって「女性のための権利の闘い」は勝利に終わっている。大学で学ぶ学生のうち、女性は半数を超え、弁護士や医師の学位をとる女性もほぼ同数である(成績という観点からいっても女性の方が優秀)。これまで女性の社会的地位向上に尽力してきたおもに女性のおかげで、ここカナダでは明らさまな制度的差別はなくなった。一方、ノレンの記事にあるように、発展途上国の多くの女性はいまだにレイプやセクシュアル・ハラスメントといった性的差別の恐怖に今もさらされている。
この2本の記事を読んで思うのは、制度的差別とは別の形で女性に対する差別が世界中どの地域に住んでいようと(比較的、先進国はその程度は低いが)いまも存在すること。
女性の権利向上を目指すクララ・ゼトキンには、3つの目的があった。1. 女性に政治的決定権を与えること(選挙権など)、2. 女性の経済的平等(同じ仕事に対して同じ賃金を払うなど)、3.自分のことを自分で決める自由(職業や結婚相手の選択など)。こうした女性の権利は制度を変えることで獲得できるものだが、程度の差こそあれ、世界中の女性が日々直面しているのは別の種類の差別だと思う。
たとえば、カナダでは女性の4人に1人がレイプあるいは性的暴行の被害にあっているといわれる。この数字は子どもがいる家庭ではとりわけ重くとらえられるべきだ。男の子の親ならば、子どもを加害者にしないような、女の子の親ならば子どもを被害者にしないような教育をしなくてはならない。さらに、戦争が起こると決まって女性がレイプの危機にさらされることは、歴史を学べば明らかだ(南京戦における日本軍による中国女性に対するレイプは歴史上、最も残虐な例のひとつ)。もっと身近な例でいえば、女性の権利に関しては世界で最も進んだ国のひとつであるカナダでも、子どもの養育という意味では女性の負担が明らかに大きい。
歴史のなかで連綿と引き継がれてきた女性に対する構造的な差別があるような気がしてならない。
一方、私の母国を考えてみると、性差別に限らず、さまざまな差別が制度的にいまだに現存している。性差別に限っていうと、最もひどい差別のひとつは、女性が結婚と同時に夫の名前に改名しなくてはならない制度に違いない。数週間前、Globe紙の片隅でこの名前に対する差別に反対する数名が裁判を起こしたという記事を読んだが、「えっ、まだこの制度が温存されてたの?」と驚いた。外から見ると「何とひどい差別!」と見えるが、日本国内で女性たちの大半がこの制度に疑問を感じていないなら、「なんで名前を変えるのが差別なの?」という状況では、それは差別という問題には発展せず、もちろん状況は変わらない。
もうひとつついでに言うと、日本の痴漢問題に極端にあらわれるような女性に対する差別問題は日本人として恥ずかしい。電車に痴漢がうようよいたり、変態が変態的なことを普通にしていたり、下着泥棒がいたりする日本の状況は、10年間カナダで暮らすとひどいとしか言いようがない。また、本屋で誰の目にもオープンになっているポルノ雑誌の類やつり革のポルノ写真にも、日本の女性たちがなぜ目をつむっているのか、私には非常に疑問である。ああして女性が軽視・蔑視されるような映像に日常的に接していることと、電車に痴漢がいることが、彼女たちには関連づけて捉えられないのだろうか。
女性に対する差別撤廃は、女性が構造的・制度的差別に気付くことからしか始まらない。女性が状況に甘んじている日本の状況では、変化はまだまだ先のことだと思われてならない。
1911年、ドイツの政治家クララ・ゼトキンの提唱により国際女性デーが設定されて今年は100周年目にあたる。Globe紙の女性コラムニスト、ステファニー・ノレンとマーガレット・ウェンテの記事を読んで、この100年の間に女性の地位が向上したかどうかに対する答えは、私たちがどこに住んでいるかで大きく変わってくることを改めて考えた。
ウェンテの主張するように、西洋社会に暮らす女性にとって「女性のための権利の闘い」は勝利に終わっている。大学で学ぶ学生のうち、女性は半数を超え、弁護士や医師の学位をとる女性もほぼ同数である(成績という観点からいっても女性の方が優秀)。これまで女性の社会的地位向上に尽力してきたおもに女性のおかげで、ここカナダでは明らさまな制度的差別はなくなった。一方、ノレンの記事にあるように、発展途上国の多くの女性はいまだにレイプやセクシュアル・ハラスメントといった性的差別の恐怖に今もさらされている。
この2本の記事を読んで思うのは、制度的差別とは別の形で女性に対する差別が世界中どの地域に住んでいようと(比較的、先進国はその程度は低いが)いまも存在すること。
女性の権利向上を目指すクララ・ゼトキンには、3つの目的があった。1. 女性に政治的決定権を与えること(選挙権など)、2. 女性の経済的平等(同じ仕事に対して同じ賃金を払うなど)、3.自分のことを自分で決める自由(職業や結婚相手の選択など)。こうした女性の権利は制度を変えることで獲得できるものだが、程度の差こそあれ、世界中の女性が日々直面しているのは別の種類の差別だと思う。
たとえば、カナダでは女性の4人に1人がレイプあるいは性的暴行の被害にあっているといわれる。この数字は子どもがいる家庭ではとりわけ重くとらえられるべきだ。男の子の親ならば、子どもを加害者にしないような、女の子の親ならば子どもを被害者にしないような教育をしなくてはならない。さらに、戦争が起こると決まって女性がレイプの危機にさらされることは、歴史を学べば明らかだ(南京戦における日本軍による中国女性に対するレイプは歴史上、最も残虐な例のひとつ)。もっと身近な例でいえば、女性の権利に関しては世界で最も進んだ国のひとつであるカナダでも、子どもの養育という意味では女性の負担が明らかに大きい。
歴史のなかで連綿と引き継がれてきた女性に対する構造的な差別があるような気がしてならない。
一方、私の母国を考えてみると、性差別に限らず、さまざまな差別が制度的にいまだに現存している。性差別に限っていうと、最もひどい差別のひとつは、女性が結婚と同時に夫の名前に改名しなくてはならない制度に違いない。数週間前、Globe紙の片隅でこの名前に対する差別に反対する数名が裁判を起こしたという記事を読んだが、「えっ、まだこの制度が温存されてたの?」と驚いた。外から見ると「何とひどい差別!」と見えるが、日本国内で女性たちの大半がこの制度に疑問を感じていないなら、「なんで名前を変えるのが差別なの?」という状況では、それは差別という問題には発展せず、もちろん状況は変わらない。
もうひとつついでに言うと、日本の痴漢問題に極端にあらわれるような女性に対する差別問題は日本人として恥ずかしい。電車に痴漢がうようよいたり、変態が変態的なことを普通にしていたり、下着泥棒がいたりする日本の状況は、10年間カナダで暮らすとひどいとしか言いようがない。また、本屋で誰の目にもオープンになっているポルノ雑誌の類やつり革のポルノ写真にも、日本の女性たちがなぜ目をつむっているのか、私には非常に疑問である。ああして女性が軽視・蔑視されるような映像に日常的に接していることと、電車に痴漢がいることが、彼女たちには関連づけて捉えられないのだろうか。
女性に対する差別撤廃は、女性が構造的・制度的差別に気付くことからしか始まらない。女性が状況に甘んじている日本の状況では、変化はまだまだ先のことだと思われてならない。
Thursday, February 24, 2011
最も住みよい都市:Toronto-Fourth Most Livable City in the World
Economist誌のAnnual ranking of global cities(世界で最も住みよい都市)ランキングで、トロントは世界第4位に輝いた。ワオ! トロントニアンとしてこれは手放しで喜びたい!
このランキングの決め手となるのは、安定性、保健制度、文化と環境、教育とインフラなど。1位から10位はというと・・・。
1位 バンクーバー(カナダ)
2位 メルボルン (オーストラリア)
3位 ウィーン (オーストリア)
4位 トロント (カナダ)
5位 カルガリー(カナダ)
6位 ヘルシンキ (フィンランド)
7位 シドニー (オーストラリア)
8位 パース (オーストラリア)
9位 アデレード (オーストラリア)
10位 オークランド (ニュージーランド)
オーストラリアとカナダの都市が圧倒的に多い一方で、アメリカの都市は10位以内には入っていない。同誌によれば、「先進国の中規模都市、人口過密のない都市に住みよい都市が多い」らしい。トロントが4位というのは、私、うなづける。インフラの面では少しばかり問題があるにしろ、教育と環境という面では素晴らしいと思う。
ちなみに、最下位は、コロンボ(スリランカ・130位)、ダカール(セネガル・131位)、テヘラン(イラン・132)、ドゥアラ(カメルーン・133)、カラチ(パキスタン・134)、アルジェ(アルジェリア・135)、ラゴス(ナイジェリア・136)、ポート・モレスビー(パプア・ニューギニア・137)、ダッカ(バングラデッシュ・138)、ハラレ(ジンバブエ・140)。
このランキングの決め手となるのは、安定性、保健制度、文化と環境、教育とインフラなど。1位から10位はというと・・・。
1位 バンクーバー(カナダ)
2位 メルボルン (オーストラリア)
3位 ウィーン (オーストリア)
4位 トロント (カナダ)
5位 カルガリー(カナダ)
6位 ヘルシンキ (フィンランド)
7位 シドニー (オーストラリア)
8位 パース (オーストラリア)
9位 アデレード (オーストラリア)
10位 オークランド (ニュージーランド)
オーストラリアとカナダの都市が圧倒的に多い一方で、アメリカの都市は10位以内には入っていない。同誌によれば、「先進国の中規模都市、人口過密のない都市に住みよい都市が多い」らしい。トロントが4位というのは、私、うなづける。インフラの面では少しばかり問題があるにしろ、教育と環境という面では素晴らしいと思う。
ちなみに、最下位は、コロンボ(スリランカ・130位)、ダカール(セネガル・131位)、テヘラン(イラン・132)、ドゥアラ(カメルーン・133)、カラチ(パキスタン・134)、アルジェ(アルジェリア・135)、ラゴス(ナイジェリア・136)、ポート・モレスビー(パプア・ニューギニア・137)、ダッカ(バングラデッシュ・138)、ハラレ(ジンバブエ・140)。
Monday, February 14, 2011
まだまだ続くTiger Mother論議
単なる偶然だろうか。今日のGlobe、Toronto Starの両紙のコメントページにAmy ChuaのBattle Hymn of the Tiger Motherをめぐるコメントが掲載されていた。(Amy Chuaに関する過去ポストは以下)http://torontostew.blogspot.com/2011/01/amy-chua-battle-hymn-of-tiger-mother.html
Globe紙のコラムはプリンストン大学の教授(バイオエシックス)のPeter Singer、Star紙はコラムニストのHeather Mallickによるもの。
最近、ほんとうにエイミー・チュアという名前を、Tiger Momという名称をメディアで目にする機会が多い。抜粋部分しか読んでいない私にも、この本が出版的には大成功だということだけは明らかに分かる。
Peter Singerの議論。Tiger Motherアプローチはたしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている。エイミー・チュアは子どもに成績表すべてA、ただし「体育と演劇以外」といい、集団のなかで協調が要求される演劇や体育を除いていること、さらには音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、Tiger Motherアプローチでは社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できない点、また、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る可能性を指摘している。このふたつは、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性を助長する。
Heather Mallickはズバリ「Amy Chuaは母親として失格」といつもながら辛口なコメントをしている。Tiger Motherアプローチは、要するに「成功=お金」という公式に基づいている。エイミー・チュアにとっては、いくら子どもがジュリアードに行ったとしても、それはアイビーリーグへの入学を許可され、将来的に経済的約束がされる職業(医者、弁護士、教授など)につながっていくから「成功」なのであって、子どもが音楽を心から愛し、自分のしていることに限りない幸せを感じているからではない。チュアは「子どもを育てた」というが、本当は子どもを育てたのではなく、株式市場に投資していただけなのだ。子どもがどれくらいの報酬(配当)を親に持ちきたらしてくれるかによって、子どもの「成功」が決まるのなら、その親は「失格」以外のなにものでもない。
うーん、興味深い論争! Tiger Motherアプローチでチュアや彼女の子どものように成功した例もあるかもしれないが、失敗例もたくさんあるのではないか。その失敗例は、ピーター・シンガーの議論にあるように自殺やディプレッション、エンザエティーといった精神障害としてあらわれるケースもみられる(アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やディプレッションなども、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれないと示唆している)。
Globe紙のコラムはプリンストン大学の教授(バイオエシックス)のPeter Singer、Star紙はコラムニストのHeather Mallickによるもの。
最近、ほんとうにエイミー・チュアという名前を、Tiger Momという名称をメディアで目にする機会が多い。抜粋部分しか読んでいない私にも、この本が出版的には大成功だということだけは明らかに分かる。
Peter Singerの議論。Tiger Motherアプローチはたしかにエリートをつくりだすかもしれないけれど、子どもがそれで幸せになれるかどうかという点は意識的に無視されている。エイミー・チュアは子どもに成績表すべてA、ただし「体育と演劇以外」といい、集団のなかで協調が要求される演劇や体育を除いていること、さらには音楽や勉強といった単独で成功を収められるものだけを重要視していることから、Tiger Motherアプローチでは社会生活で必要なSocial Skillsを獲得できない点、また、友達や周囲を「なかま」としてではなく「競争相手」として見る可能性を指摘している。このふたつは、子どもを社会的に孤立させ、真の喜び、幸せである「コミュニティのなかで協調的に生きる」側面を子どもから奪ってしまう可能性を助長する。
Heather Mallickはズバリ「Amy Chuaは母親として失格」といつもながら辛口なコメントをしている。Tiger Motherアプローチは、要するに「成功=お金」という公式に基づいている。エイミー・チュアにとっては、いくら子どもがジュリアードに行ったとしても、それはアイビーリーグへの入学を許可され、将来的に経済的約束がされる職業(医者、弁護士、教授など)につながっていくから「成功」なのであって、子どもが音楽を心から愛し、自分のしていることに限りない幸せを感じているからではない。チュアは「子どもを育てた」というが、本当は子どもを育てたのではなく、株式市場に投資していただけなのだ。子どもがどれくらいの報酬(配当)を親に持ちきたらしてくれるかによって、子どもの「成功」が決まるのなら、その親は「失格」以外のなにものでもない。
うーん、興味深い論争! Tiger Motherアプローチでチュアや彼女の子どものように成功した例もあるかもしれないが、失敗例もたくさんあるのではないか。その失敗例は、ピーター・シンガーの議論にあるように自殺やディプレッション、エンザエティーといった精神障害としてあらわれるケースもみられる(アメリカのアジア系女性にとりわけ多い自殺やディプレッションなども、親からのプレッシャーと社会性を身につけられなかったことが原因かもしれないと示唆している)。
Friday, February 11, 2011
Multiculturalism has failed: Sarkozy-Globe and Mail, Feb. 11, 2011
「マルチカルチャリズムは失敗」
フランスのサーコージー大統領は木曜日、マルチカルチュラリズム(多文化主義)は失敗したと宣言し、近年増え続ける多文化主義を批判する世界の指導者たちに同調した。
サーコージーはWe have been too concerned about the identity of the person who was arriving and not enough about the identity of the country that was receiving him(移民の文化的アイデンティティばかり気にしすぎて、それを受け入れる国のアイデンティティへの配慮を欠いている)と言い、多文化主義というコンセプトが「失敗」だとした。
つい先月、イギリスのキャメロン首相がイギリスの多文化主義は失敗だと宣言したばかり。AFP
フランスのサーコージー大統領は木曜日、マルチカルチュラリズム(多文化主義)は失敗したと宣言し、近年増え続ける多文化主義を批判する世界の指導者たちに同調した。
サーコージーはWe have been too concerned about the identity of the person who was arriving and not enough about the identity of the country that was receiving him(移民の文化的アイデンティティばかり気にしすぎて、それを受け入れる国のアイデンティティへの配慮を欠いている)と言い、多文化主義というコンセプトが「失敗」だとした。
つい先月、イギリスのキャメロン首相がイギリスの多文化主義は失敗だと宣言したばかり。AFP
Monday, January 31, 2011
成功の公式=自己コントロール+忍耐
再び子どもの教育に関する研究結果。
Proceedings of the National Academy of Scienceに掲載された、ニュージーランドの研究者の研究結果によれば、子どもが将来成功する可能性は、その子どもの「自己コントロール能力」と「忍耐力」に大きく関係しているという。3歳から約30年間にわたって、1000人の子どものサンプルをとった結果、子どものころに、順番を待てる、少しのことでイライラしない、といった自己コントロール能力が見られた場合、大人になって健康障害やドラッグ問題、経済的問題といった問題に遭遇する可能性は低いという。
Globeの記事も触れているように、同じような研究結果はいくつも他の分野で発表され続けている。以前もどこかで書いたが、60年代にマシュマロ・テストというのもあったしね(4歳の子の目の前にマシュマロをひとつ置いて、「帰ってくるまで待てればマシュマロを2個あげる」と言って15分ほど部屋を出る。忍耐力、自己コントロール能力をはかり、その能力とその後の学力の伸びなどの関係を測定)。
またまた「あたりまえね・・・」って感じの研究結果なのね・・・。 はい、どうもごくろうさん。
PNAS(Proceedings of the National Academy of Science)のウェブサイト
http://www.pnas.org/
Proceedings of the National Academy of Scienceに掲載された、ニュージーランドの研究者の研究結果によれば、子どもが将来成功する可能性は、その子どもの「自己コントロール能力」と「忍耐力」に大きく関係しているという。3歳から約30年間にわたって、1000人の子どものサンプルをとった結果、子どものころに、順番を待てる、少しのことでイライラしない、といった自己コントロール能力が見られた場合、大人になって健康障害やドラッグ問題、経済的問題といった問題に遭遇する可能性は低いという。
Globeの記事も触れているように、同じような研究結果はいくつも他の分野で発表され続けている。以前もどこかで書いたが、60年代にマシュマロ・テストというのもあったしね(4歳の子の目の前にマシュマロをひとつ置いて、「帰ってくるまで待てればマシュマロを2個あげる」と言って15分ほど部屋を出る。忍耐力、自己コントロール能力をはかり、その能力とその後の学力の伸びなどの関係を測定)。
またまた「あたりまえね・・・」って感じの研究結果なのね・・・。 はい、どうもごくろうさん。
PNAS(Proceedings of the National Academy of Science)のウェブサイト
http://www.pnas.org/
Tuesday, January 25, 2011
Reasonable Accommodation-多文化主義とマイノリティの権利
先日、ケベック州National Assemblyで女性がニハブ(ヘッドドレス)を着る宗教的権利についての公聴会に招かれたWorld Sikh Organization of Canada(シーク教徒の世界的組織。彼らはカナダ支部のメンバーでカナダ人)のメンバーが身につけているカーパン(シーク教徒が片時も離さず身につけている小さなナイフ:正義のために戦うことの象徴的意味が含まれる)がセキュリティに抵触するとしてAssembly参加を拒否され、国内で大きな問題になった。
皮肉にも、ケベック州議会の公聴会に招かれていたシーク教徒たちは、宗教的マイノリティの権利をどこまで認めるかを話し合うために招待されていた。そこで、彼らの宗教的権利が拒絶されたことは皮肉としか言いようがない。
この問題は、Reasonable Accommodationの範疇に入り、カナダをはじめ多文化主義社会ではしばしば物議をかもす話題である。
多文化社会であるカナダでは、憲法の一部であるCanadian Charter of Rights and Freedoms(人権憲章)で、さまざまなマイノリティに対する差別の禁止とともに、Accommodation(これ、日本語にするのが難しい言葉のひとつなのだけれど、社会的に受容するという意味合いがある。「許容する」ではなくて、マイノリティにとって快適でなるように社会のルールを変えるという意味合いにとらえられる)を求めている。
このAccommodationはそのことによって被る影響の方がネガティブでない限りにおいて、必ず受容されなくてはならない(Undue hardshipと呼ばれる)。ということで、まずはAccommodationが憲法で保障されているという点を強調しておきたい。
これまでの例をあげてみると、2006年には、これもケベック州だったが、シーク教徒の学生が学校にカーパンを持ってくる権利を認めるかどうかというので議論になったことがある。結局、この件は最高裁判所まで行き、最終的には学生の権利を最大限考慮する判決となった。この問題がカナダをにぎわしていたころ、確かフランスでは学校に宗教的オーナメントを持ってくることを禁止する法律が制定されたのだった。私は新聞を読みながら、マイノリティ宗教に対して大陸とカナダでの対応の違いに驚いた記憶がある。
Reasonable accommodationという言葉は、多文化主義を語るための非常に重要なキーワードである。マイノリティの権利をどこまで受容するのか。この問題は多文化社会では繰り返し形を変えて現れるのだけれど、カナダで最も深い印象を残したケースといえば、RCMP(The Royal Canadian Mounted Police カナダ国家警察、Mountieとも呼ばれる)メンバーにターバン着用を認めるかどうか、の議論だったと思う。シーク教徒のバルテジ・シン・ディロンBaltej Singh DhilionがRCMPへの就職を許可されたとき、ターバン着用は認められていなかった。赤い制服、そして茶色の帽子はMountieのシンボルだった。帽子を着用するためにはターバンを外さなくてはならない。しかし、シーク教徒としてターバンを外すことはできない。シン・ディロンはこのケースを公の場に持っていった。
カナダ人の意見はまっぷたつに割れた。ここはカナダなのだから、カナダのルールに従うべき。いや、Mountieの価値は制服にあるのではなく、国を守る気持ちがあるかどうかにかかっている。一部にはアンチ・シーク、アンチ移民の動きすら顕著にあらわれた。
結局、1990年、8ヶ月の議論の末、カナダ国会はRCMPの服装ルールに変更を加え、ターバン着用を許可する。
シン・ディロンはこのケースを公にすることでカナダの多文化主義の意味を問いただしたともいえる。ほぼ20年前の1971年にはカナダは多文化主義を国家の政策として発表し、移民を同化するという今までのAssimilationとは異なる、それぞれの国民の文化的ヘリテージをカナダのために役立てるという、まったく新しいMosaicのコンセプトを打ち出した。それ以降、Reasonable Accommodationはカナダの多文化主義を完成させるために必要不可欠なプロセスとなった。
こうして書いていて思うのだが、カナダの多文化主義はこうしてマイノリティが自分たちの権利を主張することがきっかけとなり、国家的議論が巻き起こることで強化されていく。「多文化主義」が単なる「目標」ではなく、私たち市民の毎日の生活に直接触れるような「生活のあり方」に変わっていく。こうした議論をいくつもいくつも経ることで、カナダ国民はマルチカルチュラリズムの難しさを体得しながらも、カナダ人のアイデンティティを自ら打ちたてているのだと思う。
皮肉にも、ケベック州議会の公聴会に招かれていたシーク教徒たちは、宗教的マイノリティの権利をどこまで認めるかを話し合うために招待されていた。そこで、彼らの宗教的権利が拒絶されたことは皮肉としか言いようがない。
この問題は、Reasonable Accommodationの範疇に入り、カナダをはじめ多文化主義社会ではしばしば物議をかもす話題である。
多文化社会であるカナダでは、憲法の一部であるCanadian Charter of Rights and Freedoms(人権憲章)で、さまざまなマイノリティに対する差別の禁止とともに、Accommodation(これ、日本語にするのが難しい言葉のひとつなのだけれど、社会的に受容するという意味合いがある。「許容する」ではなくて、マイノリティにとって快適でなるように社会のルールを変えるという意味合いにとらえられる)を求めている。
このAccommodationはそのことによって被る影響の方がネガティブでない限りにおいて、必ず受容されなくてはならない(Undue hardshipと呼ばれる)。ということで、まずはAccommodationが憲法で保障されているという点を強調しておきたい。
これまでの例をあげてみると、2006年には、これもケベック州だったが、シーク教徒の学生が学校にカーパンを持ってくる権利を認めるかどうかというので議論になったことがある。結局、この件は最高裁判所まで行き、最終的には学生の権利を最大限考慮する判決となった。この問題がカナダをにぎわしていたころ、確かフランスでは学校に宗教的オーナメントを持ってくることを禁止する法律が制定されたのだった。私は新聞を読みながら、マイノリティ宗教に対して大陸とカナダでの対応の違いに驚いた記憶がある。
Reasonable accommodationという言葉は、多文化主義を語るための非常に重要なキーワードである。マイノリティの権利をどこまで受容するのか。この問題は多文化社会では繰り返し形を変えて現れるのだけれど、カナダで最も深い印象を残したケースといえば、RCMP(The Royal Canadian Mounted Police カナダ国家警察、Mountieとも呼ばれる)メンバーにターバン着用を認めるかどうか、の議論だったと思う。シーク教徒のバルテジ・シン・ディロンBaltej Singh DhilionがRCMPへの就職を許可されたとき、ターバン着用は認められていなかった。赤い制服、そして茶色の帽子はMountieのシンボルだった。帽子を着用するためにはターバンを外さなくてはならない。しかし、シーク教徒としてターバンを外すことはできない。シン・ディロンはこのケースを公の場に持っていった。
カナダ人の意見はまっぷたつに割れた。ここはカナダなのだから、カナダのルールに従うべき。いや、Mountieの価値は制服にあるのではなく、国を守る気持ちがあるかどうかにかかっている。一部にはアンチ・シーク、アンチ移民の動きすら顕著にあらわれた。
結局、1990年、8ヶ月の議論の末、カナダ国会はRCMPの服装ルールに変更を加え、ターバン着用を許可する。
シン・ディロンはこのケースを公にすることでカナダの多文化主義の意味を問いただしたともいえる。ほぼ20年前の1971年にはカナダは多文化主義を国家の政策として発表し、移民を同化するという今までのAssimilationとは異なる、それぞれの国民の文化的ヘリテージをカナダのために役立てるという、まったく新しいMosaicのコンセプトを打ち出した。それ以降、Reasonable Accommodationはカナダの多文化主義を完成させるために必要不可欠なプロセスとなった。
こうして書いていて思うのだが、カナダの多文化主義はこうしてマイノリティが自分たちの権利を主張することがきっかけとなり、国家的議論が巻き起こることで強化されていく。「多文化主義」が単なる「目標」ではなく、私たち市民の毎日の生活に直接触れるような「生活のあり方」に変わっていく。こうした議論をいくつもいくつも経ることで、カナダ国民はマルチカルチュラリズムの難しさを体得しながらも、カナダ人のアイデンティティを自ら打ちたてているのだと思う。
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